第87話 : 新たな始まりの名
あの『塔』は、確実に変貌を遂げていた。
入り口を一歩くぐり抜けた瞬間から、カイはその変化を肌で感じ取っていた。
ここは相変わらず、4年前にユイが創り上げたあの不条理なまでに巨大な建造物のままだ。
全100階層。
内部に内包された深い森、そびえ立つ山々、清らかな川、海と見紛う湖、果てしない砂漠。
そして、整然と並ぶ都市区画、大図書館、広大な訓練場、魔導研究施設、広大な居住エリア。
――しかし、そこにはもう、かつてのような『空虚』な気配は微塵も存在しなかった。
見渡す限りの人、人、人。
メインストリートの廊下を、武器を背負った冒険者たちが談笑しながら闊歩している。
研究者たちは分厚い魔導書や見慣れない魔法器具を抱え、実験室の間を忙しなく行き交う。
抜け目のない商人たちは、すでに下層階の広場で小さな露店を開き始めていた。
無邪気な子供たちが石畳の街路をキャッキャと駆け抜け、その親たちが慌ててその後を追いかけていく。
そしてその雑踏の中には、先陣を切ってカイが移住を許可した難民の家族たちの姿もあった。
この塔は、単なる組織の『本拠地』という枠組みを遥かに超えつつあった。
ここは今、確かな『我が家』へと進化しているのだ。
◆◆◆
カイは第一階層の都市を一望できる、巨大な窓の傍らに佇んでいた。
広場で子供たちの一団が互いに追いかけっこをしている光景を、じっと見つめる。
一人の子供が足をもつれさせて転んだ。すると、別の子供がすぐさま足を止め、優しく手を差し伸べる。
その光景を見て、カイの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「――どうやら、みんなすっかり馴染んでるみたいだな」
彼の真横に立つクロエが、嬉しそうに同意する。
「本当にその通りですね、カイ様」
二人の背後から、ユイが音もなく寄り添った。
「あなたがここに住むのを許可したのだから、当然でしょう?」
カイがチラリと振り返る。
「まあな」
ユイがクスリと笑う。
「それに、この塔は一人で暮らすには広すぎて持て余している、なんて言ったのはどこのどいつかしら?」
カイの反応を見て、クロエが口元を隠してクスクスと笑った。
カイは気楽に肩をすくめてみせる。
「実際、ここには100階分もあるんだぞ? 難民の数百人や数千人が住み着いたところで、今更どうってことないだろ」
彼は再び、眼下に広がる活気ある街並みへと視線を戻した。
「それに……こっちの方が断然いいさ」
彼の瞳に、どこか遠い追憶の色が混じる。
「俺が最初にここへ来た時は、俺とお前ら二人、それから頭が痛くなるほどの膨大な『無駄スペース』しかなかったんだからな」
ユイが小首を傾げた。
「それが、今は?」
カイは、生活用品の詰まった木箱を抱えて居住棟へと急ぐある家族の姿を見つめ、静かに紡いだ。
「――今は、ちゃんと『生きてる』って感じがするよ」
◆◆◆
三人の間に、一瞬だけ穏やかな沈黙が流れた。――しかし次の瞬間、眼下の街路から鼓膜を突き破るような大声が響き渡った。
「――おい!! それは俺の箱だぞ!!」
すぐさま、別の怒鳴り声がそれに返される。
「お前が間違った区画に放置してたのが悪いんだろ!!」
「そんなことしてねえよ!!」
カイは深く、ゆっくりと両目を閉じた。
「……前言撤回だ」
クロエが思わず吹き出して肩を揺らす。
ユイが楽しそうに目を細めた。
「――ようこそ、文明社会へ。私の愛する人」
カイははぁ、と今日一番の大ため息を吐き出した。
「やれやれ……俺は一体、何を作り出しちまったんだ」
「あなたが作ったんじゃないわよ」
「それもそうだな」
カイはユイを振り返る。
「作ったのはお前だ」
ユイは誇らしげに胸を張ってみせた。
「その通りよ、完璧にね」
◆◆◆
カイがそれ以上何かを言い返すより早く、背後から規律正しい足音が近づいてきた。
アステリア王国の紋章を纏った一人の使者が、数メートル手前でピタリと足を止め、深く頭を垂れる。
「――魔王カイ様」
その呼称を聞いた瞬間、カイは露骨に嫌そうな顔をしてみせた。
「……ただのカイでいい」
使者は一瞬だけ怯み、冷や汗を流しながら言い直した。
「は、はい……ただの、カイ殿」
カイが満足げに頷く。
「よし、そっちの方が断然いい」
使者は恭しく、クロエへと魔力で封印された一通の書状を手渡した。
「我が主、国王アルドレン陛下からの正式な招待状にございます」
カイはその手紙をジト目で睨みつける。
「……またかよ?」
クロエが呆れたように彼を見た。
「あれだけの騒ぎを起こしておいて、陛下が私たちに接触してこないとでも思っていたのですか?」
「いや……あの頑固オヤジが、いい加減書類仕事にウンザリして引きこもるのを期待してたんだがな」
ユイは呆れたように腕を組んだ。
「――その大量の書類仕事を発生させた張本人は、一体どこの誰かしら?」
「俺としては、行政の発展を促してやったと思いたいんだがな」
クロエが冷ややかな視線を向ける。
「カイ様」
「ただのカイだ」
「……カイ」
カイは満足げに微笑んだ。
「うん、ありがとよ」
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第二回会談
数日後、カイは再びアステリア王国へと足を踏み入れていた。
だが、今回は以前とは明らかに周囲の空気が違っていた。
彼の到来に対する「戸惑い」や「警戒」はない。もはや誰も、謎の巨塔とともに突如現れた正体不明の不審者として彼を扱ってはいなかった。
今や誰もが、彼の正体を知っている。
新たなる魔王。――カイ。
王国のすぐ外にそびえ立つ、あのふざけた巨塔の主だ。
豪奢な王室馬車が王宮の正面玄関へと滑り込み、ピタリと停車する。
カイが馬車を下り、その左右へとユイとクロエが自然な所作で並び立った。
周囲の王宮スタッフが一斉に深々と頭を垂れる。
カイは落ち着かなさそうに後頭部をポリポリと掻いた。
「――やっぱり、これだけは慣れねえな。奇妙な感覚だ」
ユイが冷ややかに彼を見つめる。
「死ぬわけじゃあるまいし、我慢しなさい」
「俺はかつて『真なる竜(真竜)』を2頭も相手に立ち回ったんだぞ?」
「ええ、知っているわ」
「世界を丸ごと消し飛ばしかねない化け物どもと死闘を演じてきたんだぞ?」
「ええ、知っているわよ」
「なのに、どうして人間がペコペコ頭を下げてくるだけの光景が一番居心地悪く感じるんだよ」
クロエがクスリと愛おしそうに微笑んだ。
「そこが本当にカイ様らしいところですよ」
「ただのカイだ」
「はいはい」
◆◆◆
一同は王宮の内部へと進む。
国王アルドレンは、前回と全く同じ玉座の間で彼らを待ち構えていた。
傍らには不動の姿勢で控えるアーヴェン、そして数人の高官たちの姿がある。
アルドレンが立ち上がった。
「――よく来たな、カイ」
カイは片手を軽く上げた。
「うっす」
アルドレンの口元に、微かな苦笑が浮かぶ。
「……どうやら、その締まりのない挨拶にも、我が身がすっかり馴染みつつあるのを感じるよ」
「そいつは重畳」
カイは部屋の中央へと歩み寄る。アルドレンは机の方へと手で促した。
「本日お前をここに招いたのはな、いくつか早急に決着をつけておきたい案件があるからだ」
カイは椅子にどさりと腰掛けた。
「そいつは随分と深刻そうな響きだな」
「ああ、深刻だとも」
カイははぁ、と小さくため息を漏らす。
「やっぱりな」
アルドレンがテーブルの上に一通の重要書類を滑らせた。
「まずは第一に、あの『塔』に関する件だ」
カイはその書類に視線を落とす。
アルドレンが厳かに言葉を続けた。
「先の会談の後、我がアステリア王国にて徹底的な再検討を行った。結論から言おう。――アステリアは、あの塔に対する領有権の主張を完全に『撤回』する」
カイは驚いたように目を瞬かせた。
「……へえ、本当か?」
「ああ」
アルドレンはその書類をさらにカイの手元へと押し進める。
「これは我が国の最高意思決定機関による、正式な領有権放棄の宣言書だ」
カイは隣のユイへと視線を向けた。ユイは静かに首を縦に振る。
カイは書類を取り上げ、その文面を注意深く精査した。
『アステリア王国は、当該巨塔が占有する全領域を、王国から完全に独立した不可侵の主権領土として承認する。王国の軍隊を許可なく内部に駐留させることはせず、塔のいかなる内政にも干渉しない。その代償として、両者は互いを平和的な隣国たる同盟勢力として承認するものとする』
カイは書類をテーブルに戻した。
「――なるほどな。極めて妥当で、理にかなった内容だ」
アルドレンが深く頷く。
「私も、ようやくある一つの事実に気づかされてな」
「何にだ?」
「お前のあの塔は、決して他国を侵略するための『軍事要塞』などではない、ということにだ」
カイが片方の眉を上げた。
アルドレンは苦笑混じりに訂正する。
「少なくとも……お前自身には、あれを戦争の道具として使う意志が微塵もないらしい、ということは理解した」
カイの唇が不敵に吊り上がる。
「そっちの言い方の方が、断然しっくりくるな」
◆◆◆
アルドレンはさらに言葉を重ねた。
「そこでだ。領有権を認め合うだけでなく、我がアステリアと貴殿の領地との間で、正式な『不可侵及び協力同盟』を締結したいと考えている」
カイは背もたれに体を預けた。
「同盟、ねえ?」
「交易の自由化。情報の共有。そして、万が一の事態における相互扶助だ。もちろん、強制的な兵力動員などの義務は一切課さない」
カイは腕を組み、少しだけ思考の海へと沈んだ。
彼には、一国の王として君臨するような大それた野心はない。領土を拡大すること自体にも、これっぽっちの興味もなかった。
彼の目的は、最初からどこまでもシンプルだ。
かつて失ってしまった大切な仲間たちを見つけ出すこと。
彼らが平和に暮らせる絶対の『我が家』を築き上げること。
そして――いずれ訪れるであろう宿敵『カイ・ゼロ』との戦いに、完全なる終止符を打つこと。
アステリア王国との正式な同盟は、三番目の目的を一切邪魔することなく、前者の二つの目的を強力に推し進める助けになる。――カイの直感が、そう告げていた。
「いいだろう」
アルドレンの口元に勝利の笑みが浮かぶ。
「――交渉成立だな」
すかさずアーヴェンが一歩前へ進み出で、さらに分厚い一連の書類を卓上へと並べた。
カイはそれをジト目で睨みつける。
「……おい、そいつは一体何だ?」
「正式な同盟の契約書一式にございます」
カイは山積みの書類を前にして、心底嫌そうに顔をしかめた。
「書類の量が多すぎるだろ」
すぐ隣から、ユイの容赦のない囁きが鼓膜を叩く。
「――ようこそ、政治の世界へ」
カイはぼそりと毒づいた。
「……ドラゴンと殴り合ってた頃の方が、遥かにマシだったな」
それを聞き逃さなかったクロエが、クスリと笑う。
「それは本心でしょうね、カイ様」
◆◆◆
アルドレンが可笑しそうに声を上げて笑った。
「さて、実はもう一つだけ重要な案件が残されていてな」
カイが顔を上げる。
「何だ?」
「例の『塔』についてだ」
カイははぁ、と重いため息を吐き出した。
「今度はあのアホ空間の何が問題だって言うんだよ?」
「名前だ。あの建造物には、しかるべき『正式名称』が必要だろう」
絶対の静寂が室内に戻る。
カイは王を凝視し、それからユイへ、最後にクロエへと視線を巡らせた。
「あの塔なら、とっくに名前があるぞ」
アルドレンが興味深そうに身を乗り出す。
「ほう? して、その名は?」
カイは一瞬の間を置いて、大真面目に言い放った。
「――『塔』だ」
誰も口を開かなかった。あまりの不条理さに、空間そのものが凍りつく。
クロエが、恐ろしいほどのローテンションでゆっくりと彼を振り返った。
「……カイ様」
「ただのカイだ」
「それは『名前』ではありません。ただの一般名詞です」
「分かりやすくて実用的だろ?」
ユイはいたたまれなさそうに両手で顔を覆った。カイはそんな彼女たちの反応を完全に無視し、すっと立ち上がって思考を巡らせ始める。
「分かったよ! じゃあ、これならどうだ? ――『竜の塔』!」
クロエが即座に首を横に振る。
「却下です」
「『世界の塔』!」
「却下」
「『スーパー・タワー』!」
「ダメです」
「『ウルトラ・タワー』!」
「絶対に有り得ません」
カイはクロエをビシッと指差した。
「お前、今のはいくら何でも食い気味が過ぎるだろ!?」
「ネーミングセンスが絶望的だからです」
カイは不満げに腕を組んだ。
「ちっ……なら、これなら文句ねえだろ!」
彼はパチンと指を鳴らした。
「――『無限の超絶格好いい神の塔(タワー・オブ・インフィニット・オーサムネス)』!!」
ユイが冷徹極まりないジト目を向ける。
「……却下よ」
「『カイの塔』!」
「絶対にダメ」
「『究極の塔』!」
「それも却下」
「じゃあ……『トウ・マックトウフェイス(塔のすけ)』とか――」
玉座の間が、今度こそ完全なる絶対の静寂に叩き落とされた。
さすがのカイも、自分が越えてはならない一線を越えてしまったことに気づいたらしい。
ユイがゆっくりと彼を据わった目で見つめた。
「……あなた?」
「はい、何でしょうか?」
「――お願いだから、その壊滅的な口を閉じなさい」
カイはすごすごと椅子に座り直した。
「……うっす、すんません」
クロエは必死に吹き出すのを堪えて肩を震わせており、国王アルドレンに至っては、王族としての威厳を保つために下を向き、必死に笑いと格闘していた。
◆◆◆
カイはヘソを曲げたように腕を組む。
「名付けってやつは、思ったより不条理な難易度だな」
ユイは小さくため息をついた。
「それはね、あなたがその名前に無駄に強大な力や威厳ばかりを詰め込もうとするからよ」
「名前ってのは、そういうもんだろ?」
「いいえ、違うわ」
彼女は窓の外、地平線の彼方へと視線を向けた。
「あの塔はね、もう単なるコンクリートの建造物ではないのよ」
それを聞き、カイの表情がふっと和らいだ。
ユイは言葉を続ける。
「あそこは今や、故郷を失った人々が新たな一歩を踏み出すための聖域。――異なる在り方を持つ者たちが、共に手を取り合って生きていくための特別な場所なのよ」
「冒険者たちも」
「研究者たちも」
「あの難民の家族たちも」
「そして……何かを必死に探し求めている人々もね」
カイは静かに、その言葉に耳を傾けていた。
ユイが優しく微笑む。
「だからこそ、その名前は『あの場所が今、どういう存在になったのか』を証明するものであるべきよ」
カイは不思議そうに首を傾げた。
「なるほどな。で、お前の頭の中には何があるんだ?」
ユイは真っ直ぐに彼の双眸を見つめ返した。
「――『エリュシオン(Elysian)』」
カイはその響きを口の中で反芻した。
「エリュシオン……」
「それはね、苦難の果てに辿り着く、祝福された平和な楽園という意味を持つ言葉よ」
カイは窓の外の街並みへと視線を走らせた。
活気に満ちた街路。子供たちの無邪気な笑い声。絶望から立ち上がり、自らの人生を力強く再構築しようとしている人々の姿。
そして彼は、かつて失ってしまった大切な仲間たちのことを想う。
ニクセラ。エリス。エレイン。かつて己の背中を預けて共に死線を潜り抜けた、あの愛おしい面々。
そして、この世界のどこかで、今もなお彼が捜し続けている最愛の同胞たち――。
カイはユイを見つめた。
「エリュシオン――」
彼の唇に、ふっと確かな笑みが浮かぶ。
「――気に入った」
クロエも深く頷いた。
「私も、とても良い名前だと思います」
カイはすっと立ち上がった。
「よし、決まりだ」
彼はアルドレンへと視線を向ける。
「あの塔の正式名称は――『エリュシオン・オーダー(Elysian Order)』だ」
アルドレンはその響きを噛み締めるように呟いた。
「『エリュシオン・オーダー』、か……」
王は満足げに頷く。
「ふむ、実によく馴染む。ふさわしい名だ」
傍らのアーヴェンが、即座に手元の公文書へとその名をさらさらと書き込んでいく。
カイがその手元を凝視した。
「おい、待て」
アーヴェンがペンを止める。
「……何か問題でも?」
「お前、本当にそれ書き留めてんのか?」
「当然にございますが」
カイははぁ、と本日何度目かの一いため息を吐き出した。
「これだから人間社会ってやつは……何でもかんでも紙に残したがる」
ユイが楽しそうに目を細める。
「それはね、文明というものが『記録』を愛しているからよ」
カイは書類へと視線を落とし、それから王宮の巨大な窓の向こう、遠い地平線にそびえ立つあの巨塔を見つめた。
4年前の出現以来、あの場所へついに真の名前が与えられたのだ。
ただの『塔』ではない。不気味な謎の建造物でもない。
――『エリュシオン・オーダー』。
それは、カイが当初思い描いていた規模を遥かに凌駕する、偉大なる何かが始まる予兆そのものだった。
◆◆◆
一方その頃、アステリア王国から数日ほど離れた旅路の途中。
リンとソラの二人は、鬱蒼とした森を見下ろす小さな丘の上に立ち尽くしていた。
眼下に広がるのは、小さな集落――いや、その無残な『残骸』だった。
いくつかの家屋は完全に放棄され、いくつかの建物は酷く損壊している。
そして地面の至る所に、無数の深く巨大な足跡が刻まれていた。
リンはその中の一つへ近寄り、静かにしゃがみ込んだ。土の窪みの縁へと指先で触れる。
「……オークだね」
ソラが深刻そうな表情で頷いた。
「間違いないね、この深さと大きさは……」
リンは立ち上がった。
「これで、噂を聞いた集落は3つ目だね」
「実際に私たちが調査に入ったのは、2つ目だけど……」
リンは不穏な気配を湛える森の奥を見つめた。
「何かが、おかしいんだよね」
ソラは自身の杖のストラップをぎゅっと握り直す。
「ギルドの人も言ってたよ。最近のオークたちの動きは、明らかにいつもと違ってるって」
「普通、オークが村を襲う理由って、食料とか、縄張りとか、武器の強奪とか……そういう目的のはずだよね?」
「でも、今回の連中はそうじゃない」
リンの瞳が、すっと鋭く細められた。
「――奴らは『移動』してるんだよ」
「移動……組織的に、ってこと?」
「うん、極めて高度にね」
ソラは損壊した集落の有様を見回し、さらに別の違和感を口にした。
「それに……もう一つ奇妙なことがあるの」
「何?」
「『死体』がほとんど見当たらないんだよ」
リンも周囲に視線を走らせる。
「……確かに」
「これだけの規模で集落が襲撃されたなら、もっと多くの犠牲者が出ていてもおかしくないはずなのに」
「奴らの目的が『皆殺し』じゃないんだとしたら――」
ソラの表情が一気に強張った。
「じゃあ……奴らは一体、何を捜しているの?」
リンは無言で森の奥を見つめた。
「分からない……」
◆◆◆
――ガサリッ!
その時、不意に木々の奥から激しい葉擦れの音が響いた。
二人の少女は即座に反応する。
リンの手が電光石火で愛刀の柄へと伸び、ソラは瞬時に杖を構えた。
森は再び、張り詰めたような静寂へと戻る。
リンは木々の暗がりをじっと睨みつけた。
「……何かが、そこにいる」
ソラが緊張を滲ませて頷く。
「うん、感じるよ」
リンは音もなく、ゆっくりと刀を抜いた。
「なら――正体を暴きに行こう!」
二人は迷うことなく、鬱蒼とした森の闇へと足を踏み入れた。
――その時、二人はまだ気づいていなかった。
大自然のさらに奥深くへと続く、微かな、しかし無数の軍勢の足跡の存在に。
数百、いや数千。
それらすべてのベクトルは、全く同じ一つの『方角』へと向けられていた。
何か強大な存在の元へと、収束するように――。
◆◆◆
アステリア王国の玉座の間では、会談がいよいよ最終局面を迎えようとしていた。
しかしその時、国王アルドレンの表情が急激に険しいものへと変化した。
「――時に、カイ。実はもう一つ、お前の耳に入れておかねばならぬ不穏な案件があってな」
カイが顔を上げる。
「何だ? 何か問題でも起きたか?」
「……オークだ」
その単語を聞いた瞬間、カイの目がすっと鋭さを増した。
アルドレンは重々しく言葉を続けた。
「奴ら緑色肌の軍勢がな……ここ最近、極めて不気味で不可解な『行軍』を開始しているのだ」
「不気味って、どういう意味だ?」
「奴らオークの巨大な集団がな、本来の縄張りから次々と離脱しているのだ」
「どこかを襲撃しているのか?」
「必ずしもそうではない」
アルドレンは重々しく両手を組んだ。
「集落の間をただ縫うように移動し、物資を集めている。我々の斥候の報告によれば、その動きはオークのそれとは思えぬほど、極めて高度に統率されているという」
カイは静かに耳を傾けていた。
「理由は分かっているのか?」
「いや」
アルドレンの声音が、さらに深刻さを増す。
「分からぬからこそ、不穏なのだ」
カイはゆっくりと背もたれに体重を預けた。
彼の脳裏に、妹のリンの姿が過る。最近『エリュシオン・オーダー』の内部に届くようになった様々な報告。そして――つい先日、リンとソラの二人を絶望的なまでに追い詰めた、あの正体不明の『黒い影』の存在。
あまりにも多くの駒が、同時に動きすぎていた。
カイは深く、ゆっくりと息を吐き出す。
「――まあ、弾き返すだけさ」
アルドレンが怪訝そうに目を瞬かせた。
「弾き返す……何をだ?」
カイの唇が、不敵な笑みの形に吊り上がる。
「奴らが何を企んでいようが関係ねえよ」
彼はすっと立ち上がった。
「もしオークどもがトラブルを起こしたいってんなら、俺の『我が家』から遥か遠く離れた別の場所でやってもらうさ」
その頼もしい言葉に、ユイが微かに口元を緩めた。
「あら。それが今日あなたが口にした中で、もっとも理にかなった台詞ね」
カイがジト目を向ける。
「もっとも、ねえ?」
「間違いなく、ね」
クロエも深く頷いた。
「私もユイに同意します」
カイははぁ、と肩を落としてため息をつく。
「……どうして誰も俺の全面的な味方をしてくれないんだ?」
ユイが愛おしそうに微笑んだ。
「味方ならしているわよ」
彼女はテーブルの上の、たった今サインされたばかりの同盟文書へと視線を走らせる。
「ただ、あなたのネーミングセンスが絶望的に壊滅しているという事実を指摘しているだけよ」
カイは心外だと言わんばかりに顔をしかめた。
「おいおい! 『トウ・マックトウフェイス(塔のすけ)』は傑作だったろ!?」
「却下よ」
「『ウルトラ・タワー』は?」
「ダメね」
「じゃあ『スーパー・タワー』は!?」
「絶対に有り得ないわ」
カイは諦めたように扉の方へと歩き出した。
「……ちっ、どうせ『エリュシオン・オーダー』の方が断然格好いいからいいけどよ」
ユイの顔に、この上なく優しい笑みが咲き誇る。
「ええ、その通りよ。ずっと素敵だわ」
◆◆◆
王宮の外へ出ると、アステリアの街並みを赤く染めながら、太陽が静かに沈もうとしていた。
遥か遠く離れた地では、リンとソラの二人がさらに鬱蒼とした森の奥深くへと足を進めていた。
動き出した、不気味なるオークの軍勢。
ついにその真名を与えられた、絶対の聖域『エリュシオン・オーダー』。
そして――世界の至る所で、さらに巨大なる運命のピースが音を立てて激変し始めていた。
オークたちが一体何を企んでいるのか、今のカイには知る由もない。
なぜリンの周囲でばかり奇妙な事件が頻発するのか、その理由も分からない。
時の竜アイオンが、自分について一体何の秘密を握っているのかも不明だ。
そして何より――自分が今も必死に捜し続けているあの懐かしい同胞たちのうち、一体何人がすでにこの世界のどこかに転生しているのかすら、まだ何も掴めてはいなかった。
――だが、今の彼には、確かに守るべき『我が家』があった。
そして、その場所にはついに、彼らの未来を祝福する真の名前が刻まれたのだ。
その名は――『エリュシオン・オーダー』。




