第86話: 集まりの前に ( パート2 )
世界から、音が消え失せた。
あの深紅の光線が消失した後の数秒間、そこにはただ風に舞う砂塵と、大破した建造物が軋みながら崩れ落ちていく微かな音だけが残されていた。
リンの耳は何も捉えていなかった。
身体が奇妙なほどに軽く感じられ、やがて視界が暗転していく。
彼女は静かに、意識を手放した。
◆◆◆
次にリンが目を覚ました時、最初に視界に飛び込んできたのは広大な空だった。
彼女はパチくりと瞬きをする。一度、二度。
歪んでいた視界が、ゆっくりと焦点を結び始める。
彼女は地面に横たわったまま、頭上を流れる白い雲をただ見つめていた。
「……あれ?」
リンは身体を動かし、ゆっくりと上体を起こした。
どこも痛まない。
彼女は驚愕のあまり目を見開いた。慌てて自身の身体を見下ろす。
衣服は泥に汚れ、所々が破れてはいたが、肝心の肉体は完全に無傷だった。
激痛は綺麗に消え去っている。つい数分前まで彼女を苛んでいたはずの凄まじい重傷は、打撲の痕一つ残さず、綺麗さっぱりと消失していたのだ。
彼女は弾かれたように周囲を見回した。
「ソラ!?」
「ここだよ」
リンが振り返る。
すぐ近くの場所に、ソラが直立していた。
彼女もまた、完全に無傷の様子だった。
リンは呆然と彼女を凝視する。
「ソラ……これって……」
「分かってる」
ソラもまた、自身の身体を信じられないといった様子で見下ろしていた。
「私だって、リンと同じくらい混乱してるんだから」
リンはゆっくりと立ち上がった。
「私、どれくらい気絶してたの?」
「分からない」
ソラは困惑したように首を横に振った。
「私が意識を取り戻した時には、もう二人とも完全に治ってたの」
リンが眉をひそめる。
「ソラの、回復魔法のおかげじゃなくて?」
ソラは即座に首を横に振った。その表情は極めて真剣だった。
「絶対に違うよ。私のヒールだってかなりの怪我を治せるけど、あんな絶望的なダメージを一瞬で治すなんて不可能だし……何より、何かしらの『痕跡』が残るはずだもん」
リンは自身の両腕を見た。
何もない。傷跡も、青あざも、皮膚の赤みすらも存在しない。本当に完璧な『無』だった。
ソラが言葉を続ける。
「それに、何が起きたにせよ、ただ怪我を治しただけじゃないみたい」
彼女は自身の胸元にそっと手を当てた。
「――私たちの『マナ』まで、完全に全回復してる」
リンの表情が、一気に険しさを帯びた。
「……完全に?」
ソラが深く頷く。
「ええ、完全にね」
◆◆◆
二人は同時に、あの不気味な黒い影がいた場所へと視線を向けた。
そこには何もなかった。
死体もなければ、魔物の残骸もない。あの生物がそこに存在していたという明確な痕跡すら、何一つとして残されていなかった。
ただ文字通り、この世界から綺麗に『消滅』したのだ。
リンは視線を地面へと落とした。
「あんな真似ができる人……」
彼女は言葉を区切り、深く息を吸う。
「……私には、誰なのかさっぱり分からないよ」
ソラが彼女の顔を覗き込んだ。
「でも?」
リンはもう一度、頭上の空を見上げた。その表情には、深い思考の色彩が帯びていた。
「あのエネルギー……あの爆発から感じた魔力の質、私、知ってる」
ソラの瞳が、微かに鋭さを増す。
「リンが、ずっと感じていたっていう……あの気配?」
リンは深く頷いた。
「うん、そう」
「あの『太陽の涙』の夜から、ずっと追いかけている気配なのね?」
「そうだよ」
リンは自身の小さな拳を強く握りしめた。
「それが誰の魔力なのかは分からない。どうして私がそれを感じ取れるのかも、どうして私たちが襲われた瞬間にそれが現れたのかも、今はまだ何も分からない」
彼女は遥か彼方の地平線を見つめる。
「でもね……絶対に同じなんだよ」
ソラはしばらくの間、沈黙を守っていた。やがて、ぽつりと静かに呟く。
「……どうやらその『誰か』は、リンに何かあるのを絶対に許さないみたいだね」
リンが彼女を見た。
「そう思う?」
「多分ね」
ソラはふっと優しい笑みを浮かべた。
「でも、まだ決めつけるのは止めよう。まずはその人物について、もっと確かな情報を集めないとね」
リンも同意するように頷いた。
「うん、ソラの言う通りだね」
ソラが一歩、距離を詰める。
「それにさ、その人が誰であれ――」
彼女はリンの目を真っ直ぐに見据えた。
「――私たちの命を救ってくれたのは、紛れもない事実なんだから」
リンの顔に、いつもの明るい笑顔が戻る。
「うん!」
◆◆◆
しばらくの間、二人の間に穏やかな沈黙が流れた。
しかし次の瞬間、リンの表情が劇的に変化した。
脳裏に、先ほどの恐怖の記憶が鮮明にフラッシュバックしたのだ。
ソラが無慈悲に吹き飛ばされた光景。
彼女の身体が宙を舞った瞬間。
自分が「間に合わなかった」という絶望。
そして、自分の頭上に振り下ろされようとしていた死の爪牙。
――あの最後の瞬間、自分はすべてを失うのだと、本気でそう思い知らされていた。
リンの指先が、微かに小刻みに震え始める。
その異変に、ソラがいち早く気づいた。
「リン……?」
その声を遮るように、リンは突如として一歩前へと踏み出し、ソラの身体を強く抱きしめた。
ソラは完全に硬直した。驚愕のあまり目を丸くする。
リンは、壊れ物を守るかのように彼女をきつく、ぎゅっと抱きしめ続けた。
数秒の間、彼女は何も言わなかった。
そして、静かに――呟く。
「……一瞬、本当に、あなたを失うんだって思った」
ソラの表情がふっと和らいだ。
彼女は愛おしそうに、ゆっくりとリンの背中に腕を回す。
「失ってないよ。私はここにいる」
「うん……」
リンはそっと目を閉じた。
「でも、あんな思いは……もう二度と御免だよ」
ソラは、リンの肩に優しく頭を預けた。
「なら、もう私を離さないで」
リンが目を開ける。
ほんの少しだけ身体を引き離した時、二人の顔は驚くほど間近にあった。
どちらも動こうとしない。
そこへ、どこか気恥ずかしいような、甘酸っぱい沈黙が流れ込む。
二人はとっくに気づいていた。
自分たちの間に芽生えているこの感情が、幼馴染としてのそれとは、もう決定的に違っているということに。
けれど、誰もそれを口には出さなかった。
その感情に、明確な『名前』を与える準備は、まだどちらにも出来ていなかったからだ。
それでも――お互いに、ここから一歩も離れたくないと、強く願っているのだった。
ソラがクスリと笑う。
「私は、ちゃんとここにいるから」
リンも笑顔を返した。
「うん」
二人はしばらくの間そのままでいて、それからようやく、名残惜しそうに身体を離した。
その抱擁がどれほど長く続いていたのか、どちらも口にしようとはしなかった。
世の中には、言葉にしない方が都合のいいことだってあるのだ。……今は、まだ。
◆◆◆
一方その頃。
階下で繰り広げられていたそんな尊い日常からはるか上空、塔の内部にて――カイは空中をぷかぷかと怠惰に浮遊していた。
現在のリラックススペースとして、彼は『第二階層』を選んでいた。
特に深い理由はない。ただ単に、浮いていたい気分だったのだ。
――その時、彼の目の前の空間が歪に歪み始めた。
カイは片目を開ける。
「……ん?」
空中へ唐突に、極めて複雑な魔方陣が出現したのだ。
一つの円が二つに分裂し、二つがさらに複数を生み出していく。
周囲に無数の幾何学記号が現れては、激しく回転を始めた。
それらは並び替えられ、繋がり、離れ、そして再び強固に結合していく。
カイは浮遊を止め、その魔方陣の構築プロセスをじっと凝視した。
「おいおい、何だありゃ?」
魔法は自律的にその精度を高めていく。
巨大な円はさらに拡張され、やがてそれは、一つの巨大な『門』の輪郭を形作った。
魔法記層がピタリと定位置にロックされる。
直後、階層全体に重低音が響き渡り、その重厚な扉がゆっくりと左右に開かれた。
――そして、その向こう側から『誰か』が足を踏み入れてきた。
カイの表情が、一瞬で劇的に変化した。その双眸が、驚愕に微かに見開かれる。
(――うおっ!?)
彼の視線は、目の前に佇む一人の女性から微動だにしなかった。
(……あいつ、まさか『アイヴィー』か……?)
彼女の容姿は、かつてのものとは少し違っていた。
カイの記憶にある面影を消し去るほどではないが、明確な『違い』を認識するには十分なほどに。
そして何より、纏っている存在感がまるで別物だった。
そこでカイは、ある決定的な事実に気づく。
(……なるほどな。あいつ、すでに『名前』を与えられてやがるのか)
◆◆◆
女性が一歩、前へと進み出た。
「――カイ様、でしょうか?」
カイは慌てて意識を現実へと引き戻す。
彼女は気品のある、完璧な所作で深く一礼してみせた。
「お初にお目に掛かります、カイ様。この度は、お目文字が叶い大変光栄に存じます」
それを聞いたカイの表情が、ふっと寂しげに和らいだ。
その唇に、微かな哀愁を帯びた苦笑が浮かぶ。
「……お前も、俺のことは覚えてねえってわけか」
女性は不思議そうに目をパチくりとさせた。
「……申し訳ございません。私共は、以前どこかでお会いしておりましたでしょうか?」
カイは静かに首を横に振った。
「いや、気にするな」
彼は巨大な魔力の門の向こう側へと視線を向ける。
「大したことじゃないさ」
彼は再び彼女を見つめた。
「お前が、俺の『案内人』ってことで間違いないな?」
「はい。さあ、こちらへどうぞ」
カイが門に向かって一歩を踏み出したその時、背後からクロエが姿を現した。
「カイ様、お待たせいたしました! 準備万端です!」
カイが振り返る。
クロエは先ほど彼女が仕立てた、あの洗練された白いロングコート姿のカイを見て、満足げに微笑んでいる。
「よし、完璧だな」
クロエが彼の隣に並ぶ。
カイは最後に、塔の内側へ向けて声をかけた。
「――おい、ユイ」
空間がブレ、彼のすぐ傍らにユイが音もなく出現する。
カイは不敵に笑ってみせた。
「留守中、この塔を頼んだぞ」
ユイは慈愛に満ちた、温かい微笑みを浮かべる。
「ええ。何の心配もいらないわ、あなた。……いってらっしゃい」
カイは短く頷いた。
そして、彼とクロエは案内人の女性に続き、その禍々しくも美しい魔法の門の中へと足を踏み入れた。
二人が通り抜けると同時に、背後の扉は静かに閉ざされたのだった。
◆◆◆
――その境界線を越えた瞬間、カイの全身に電撃のような感覚が走った。
この『空間(世界)』そのものが、彼の侵入を明確に感知したのだ。
入り口を包み込んでいた濃厚な闇が、生き物のように蠢き始める。
足元の床の質感が変化し、何もない虚空から次々と壁がそびえ立った。
――空間が、自律的に『再構築』を開始したのだ。
カイは足を止め、その光景を観察した。
彼はこの場所を知っている。正確には、これと極めて酷似した空間を嫌というほど経験してきた。
この領域は、単なる建造物の一部ではない。――生きているのだ。
ここは、足を踏み入れた『魔王』の存在に直接反応する。
新たなる魔王が参入した時、世界はその者の実力、人格、存在感、そして『美的センス』を克明に観察し、その者の在り方にふさわしい形へと、周囲の空間をリアルタイムで変形させていくのだ。
カイが見守る中、部屋の構築は加速していく。
重厚な円柱が整然と立ち並び、壁面には極めてエレガントな幾何学模様が広がっていく。
中央には、巨大な円卓が出現した。
それを囲むように、徐々に形作られていく6つの席。
天井は遥か高くへと押し上げられ、その空間はまるで神聖な大宮殿の謁見の間を彷彿とさせた。
優しく、しかし荘厳な魔法の光が、新星の誕生を祝うように部屋全体を隅々まで照らし出していく――。
カイは改めて周囲を見回した。
最終的に完成したその空間は、驚くほどに美しかった。
彼は微かに口元を緩める。
(――ふっ、相変わらずだな)
その言葉を口に出すことはせず、カイは静かに自らの席へと歩を進めた。
◆◆◆
――ゴ、ォォォォン……。
再び重厚な扉が開かれた。
一人の男が入室してくる。
カイはその姿を一目で識別した。
(なるほどな。やっぱり『ディーヴォ』は現実世界でもディーヴォのままか)
それはさして驚くべきことではなかった。
しかし、カイの視線はその背後に従う二人の人物へと向けられる。
彼の二人の部下――『ゲメラ』と『レゲラ』もまた、当時の姿のままそこに控えていた。
カイは静かに自らの席に腰を下ろす。
ディーヴォもまた、自らの定位置へと歩いていく。
二人が互いに視線を交わすことはなかった。かつてどこかで出会ったことがあるなどという素振りは、微塵も見せない。
なぜなら、この現実世界の歴史においては、二人は今日この瞬間まで一度も出会ったことがないのだから。
数瞬の後、さらに別の影が入室してきた。
『ミレラ』だ。カイはその接近をじっと見つめる。
(ミレラまで現実世界にそのまま存在しているとはな……)
彼女もまた、物静かに自らの席へと着いた。
そして、再び扉が開かれる。
カイの意識が強制的に引き絞られた。
これまでの連中とは一線を画す、圧倒的な『存在感』が部屋を満たしていく。
どこまでも冷静で、悠久の時を刻み、不条理なまでに揺るぎない絶対の気配。
――『アイオン』。
時の竜たる存在が、静かに室内へと歩を進めてきた。
カイは彼の姿を凝視する。
見間違うはずがなかった。
同じ容姿。同じ冷静沈徹な表情。同じ絶対的な覇気。
彼がかつて『記憶の監獄』の中で深く知った、あのアイオンその人がそこにいた。
アイオンは自らの席へと歩み、静かに腰を下ろした。
何のリアクションも起こさない。驚きも、困惑も、表情の乱れすらもない。
――しかし、カイは見逃さなかった。
その老獪な双眸の奥に、確かな『確信』の光があるのを。
アイオンは知っている。自分が誰なのかを、完全に理解している。
それなのに、彼はあえて何も口にしないのだ。
カイは背もたれに少しだけ体重を預けた。
(……フッ、お前もあの頃のままだな)
◆◆◆
そして、カイがその瞬間に直感した重要な事実がもう一つあった。
――『序列』が違っているのだ。
かつて『記憶の監獄』の中では、ディーヴォが最強の魔王として君臨していた。
アイオンが二番手であり、ニクセラがその後に続いていた。
しかし、この現実世界は違った。
この地においては、『時の竜アイオン』が絶対の頂点に君臨している。
二番手がニクセラ。ディーヴォはその次だ。
そしてデミグラ、ミレラと続いている。
カイはその決定的な差異を、脳内のメモリへと静かに刻み込んだ。
扉がもう一度開かれる。
カイが顔を上げると、そこにはまたしても見覚えのある顔があった。
彼は一瞬だけ、思考をフリーズさせる。
(……おいおい、ちょっと待て。嘘だろ?)
入室してきたのは、『デミグラ』だった。
カイの瞳が、すっと細められる。
(デミグラって……確か、清水菜緒があいつ自身の世界でぶち殺したって言ってなかったか……?)
彼は一瞬だけ思考を巡らせ、そしてすぐに思い出した。
(――ああ、そうか。あれは『記憶の監獄』の中での出来事だったな)
カイは改めてデミグラを観察する。
つまり、この現実世界において、奴はまだピンピンと生き長らえているのだ。
デミグラは何の気負いもなく、傲然と自らの席へと着いた。カイは何も言わずにそれを見届ける。
そして最後に、中央の扉が堂々と開け放たれた。
『ニクセラ』の登場だ。すでに顔を合わせている彼女と、カイの視線が空間で交差する。
ニクセラは彼にだけ分かるような微かな笑みを浮かべ、カイもまた不敵にそれに応じた。
彼女が席へと着く。
部屋は、完全なる絶対の静寂に包まれた。
6人の魔王。そのすべてが一堂に会したのだ。
現世界における最高峰の絶対強者たちが、今、同じ一つの円卓を囲んでいた。
◆◆◆
沈黙を破り、最初に口を開いたのはディーヴォだった。
「――さて」
その鋭い眼光が、真っ直ぐにカイへと向けられる。
「お前が、例の新しい魔王だな?」
カイは億劫そうに頷いてみせた。
「どうやら、そのようだな」
ディーヴォはしばらくの間、値踏みするように彼を睨みつけていたが。
「……随分と、緊張感の足りない男だな」
「緊張しなきゃいけない理由でもあるのか?」
カイの切り返しに、デミグラが「ハハッ!」と下品に声を上げて笑った。
「面白い奴だ」
ミレラが微かに口元を緩め、ニクセラは静観を決め込んでいる。アイオンはただ、静かにそのやり取りを見守っていた。
ディーヴォが背もたれに身体を深く預ける。
「お前の噂は、すでに色々と我々の耳にも届いているぞ」
それを聞き、カイはわざとらしく、はぁ、とため息をついてみせた。
「そいつは最悪の兆候だな」
デミグラが再び笑う。
「おいおい、お前、およそ魔王らしからぬ態度だな?」
カイは不思議そうに首を傾げた。
「魔王らしく、ねえ……。一体どう振る舞えば満足なんだ?」
「少しは周囲を威圧するような覇気でも見せたらどうだ?」
「あいにく、俺は誰かを脅しつけるためにここへ来たわけじゃないんでね」
デミグラの唇が、凶悪な笑みの形に吊り上がる。
「――そこが問題だと言っているんだよ、新入り」
カイはただ、気楽に肩をすくめてみせるだけだった。
「そいつは悪かったな。体質なんだよ、諦めてくれ」
◆◆◆
ディーヴォの表情は、依然として冷徹な真剣さを崩さない。
「ならば、まずは最も根源的な質問から始めさせてもらおうか」
カイがディーヴォを見つめ返す。
「――お前は、一体どこからやってきた?」
カイは、一瞬だけ言葉を止めた。
当然、最初からすべてを馬鹿正直に説明するつもりなど毛頭ない。
「……さあな、分からん」
その不誠実な回答に、ディーヴォの目がすっと鋭く細められた。
「……分からん、だと?」
「ああ」
カイは椅子の背もたれに体重を預けた。
「悪いが、それに対する明確な答えは持ち合わせていないんでね」
ディーヴォは眼光を鋭くして彼を観察する。
「……出処すら不明な身でありながら、魔王へと至ったと言うのか」
「そういうことになるな」
「一体どうやって?」
カイは平然と肩をすくめてみせた。
「そいつもまた、俺には答えられない質問の一つだ」
そのはぐらかしに、デミグラが低く笑う。
「ククッ……本当につれねえ野郎だな、新入り」
カイは彼に視線を向けた。
「よく言われるよ」
◆◆◆
ここで、それまで静観していたニクセラがようやく口を開いた。
「――ならば、もう一つ別の件はどうかしら?」
カイが彼女の方を向く。
「……例の、『魔王進化の種』についてよ」
その単語が飛び出した瞬間、円卓の空気が一気に引き締まった。他の魔王たちの注目が一斉にカイへと集まる。
ニクセラは妖艶な笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「お前は私を誘い出すためだけに、意図的に『魔王の種』を創り出したわね?」
ディーヴォの表情が微かに変化し、ミレラが怪訝そうにカイを見た。デミグラの目にも、明らかな興奮の色が混じる。
ディーヴォが詰問するように声を荒らげた。
「……お前が『魔王の種』を創っただと!?」
カイは事も無げに頷く。
「ああ、そうだけど?」
「どうやってそんな芸当を成し遂げた!」
カイはどこまでも冷静な視線を返した。
「――複雑な事情があるのさ」
ディーヴォが不快そうに眉をひそめる。
「それは回答になっていないぞ」
「あいにく、これが俺の手持ちの精一杯の答えだ」
ニクセラはそのやり取りをじっと観察していた。
彼女は、この物語にはまだ語られていない裏があることを確信している。だが、カイがそれを今ここでベラベラと喋るつもりがないことも分かっていた。
自分が単に『要求しただけ』だということも、そして何より、それを彼の代わりに創り上げたのが『ユイ』という存在だということも――。
その絶対の機密は、カイとユイだけの間に秘められ続けるのだ。
◆◆◆
ディーヴォが腕を組んだ。
「お前は、もう一つの種を創り出す前から、すでに魔王だったという訳だな?」
「そうだ」
「ならば何故そんな真似をした?」
カイはニクセラへと視線を向けた。
「そこの彼女の、関心を引きたかったからだ」
ニクセラが片方の眉を上げる。
「あら、自分が私を『嵌めた(コントロールした)』と白状するのね?」
カイはほんの一瞬だけ思考を巡らせた。
「俺としては『お招きした』と言ってほしいんだがな」
すると、彼の後ろに控えていたクロエが即座に言葉を挟んだ。
「いいえ、明らかな『嵌め込み(マッチポンプ)』でしたよ、カイ様」
カイが恨めしそうに振り返る。
「おい、お前は俺の味方をする立場だろ?」
「私はいつだって正直者なんです!」
そのコミカルなやり取りに、デミグラがワハハと笑い声を上げ、ニクセラもフッと口元を緩めた。
張り詰めていた部屋の緊迫感が、少しだけ緩和される。
◆◆◆
その時――ついにアイオンが静かに声を響かせた。
「――私は、彼が何者であるかには興味がない」
全員の視線が、時の竜へと集中する。
アイオンはどこまでも泰然自若としたまま告げた。
「私が興味を持っているのは、彼が『これから何を成すか』、それだけだ」
カイはアイオンをじっと見つめた。
なぜだろうか、その言葉の響きが、彼の胸の奥に奇妙なざわつきを残した。理由は説明できない。
アイオンはそれ以上何も語らず、ただ静かに座り続けている。カイはしばらくして、彼から視線を外した。
その後も議論は続き、様々な質問が飛び交った。
カイは自分が答えてもいいと判断した事柄にだけ、最低限の言葉で応じた。
『記憶の監獄』の存在。
己の存在の本当のドメイン。
自らの正確な種族。
そして、魔王の種を生成したユイの役割。
――それらの真実は、何一つとしてこの円卓に明かされることはなかった。
やがて、ディーヴォが円卓を見渡した。
「……ふむ。どうやら、彼を排斥する明確な理由はなさそうだな」
ミレラが静かに頷く。
「同意いたします」
デミグラが肩をすくめた。
「俺も文句はねえよ」
ニクセラは何も言わなかった。だが、その沈黙こそが肯定の証だった。
ディーヴォが再びカイへと視線を戻す。
「ならば――お前を新たなる『魔王』として正式に承認しよう」
カイは意外そうに目を瞬かせた。
「……え? それだけか?」
デミグラが可笑しそうに吹き出す。
「ギャハハ! 一体何を期待してたんだよ、新入り?」
「いや、何というか……」
カイは周囲を見回す。
「……もっと派手な『儀式』とか、そういうのは無いのか?」
ディーヴォは真顔で彼を一蹴した。
「無い」
「そいつは助かる」
カイは背もたれに深く身を沈めた。
「そういうの、柄じゃないし、気まずいだけだからな」
◆◆◆
こうして、会談は緩やかに幕を閉じた。
一人、また一人と、魔王たちが空間の彼方へと去っていく。カイもまた、席を立った。
だが、部屋を出る直前、彼はアイオンがまだ近くに残っていることに気づいた。
時の竜が、ゆっくりと彼の方へと振り返る。
カイはしばらくの間彼を見つめ――そして、意を決したように声をかけた。
「――なぁ、何故だかは分からないんだが」
アイオンは静かに彼の言葉を待つ。
「……あんたは、俺の知らない『何か』を知っている。――そんな気がしてならないんだが?」
アイオンの表情は、ピクリとも動かなかった。
「――お前の知らないことなど、この世界には無数にある」
カイは目を薄く細めた。
「そいつは、ちっとも安心できる言葉じゃないな」
「安心させるために言ったわけではない」
アイオンはそのまま背を向け、悠然と歩き去っていった。
カイはその背中が重厚な扉の向こうへと消えていくのを、数秒の間、微動だにせず見つめていた。
やはり、アイオンには『何か』がある。どうしても正体を掴めない、決定的な何かが。
だが、カイはそれ以上深く追及することを止めた。――少なくとも、今はまだその時ではない。
◆◆◆
カイが塔へと帰還した瞬間、彼は内部の空気が劇的に変化していることに即座に気づいた。
人が増えている。それも、尋常ではない数だ。
第一階層の至る所に、無数の冒険者たちが散らばっていた。
熱心に探索を進める者。情報交換に興じる者。驚愕のあまり周囲を呆然と見回している者。
そして――信じられないことに、すでにこの塔の内部へ「移住」することの可能性について真剣に議論し始めている者たちまでいた。
カイが人混みの中を歩き出すと、すぐさま無数の囁き声が彼の後を追ってきた。
「おい、あいつだぞ……」
「この塔の主……」
「あれが、新世代の魔王カイ……!」
カイは鬱陶しそうに後頭部をポリポリと掻いた。
「――やれやれ、本格的に面倒なことになってきたな」
その時、彼の背後から一人の男の声が鼓膜を叩いた。
「なあ……もし俺があの方に『ここで暮らさせてほしい』って頼んだら、受け入れてくれると思うか?」
カイがチラリと視線を向ける。
そこには、妻と二人の幼い子供を連れた一人の男が立っていた。
隣にいた友人が、まるで「今からドラゴンの口の中に飛び込んでくる」とでも言われたかのような、信じられないといった目を男に向けている。
「おいおい、お前正気かよ!? バカ言えって!」
男は力なく肩をすくめてみせた。
「……かもしれないな」
だが、その表情はすぐに痛切な真剣みを帯びる。
「でもよ、試してみなきゃ何も始まらないだろ」
友人が言葉を詰まらせる。男は愛おしそうに自身の家族へと視線を向けた。
「――俺たちの村は、オークの群れに襲われて滅んだんだ」
妻が悲しげに俯く。
「もう……私たちには、帰る場所なんてどこにもないのよ」
男は再び、前方を歩くカイの背中へと視線を戻した。
「この塔の噂を聞きつけて、藁にもすがる思いでここまでやってきた」
彼は自分たちを取り囲む、この不条理なまでに広大で豊かな大自然を見回す。
「そして、実際にこの目で見たものは……噂なんかより、遥かに救いに満ちていたんだ」
妻が男の腕にしがみつく。
「あなた……」
だが、男の覚悟はすでに決まっていた。
彼は決然と一歩前へ踏み出す。妻も躊躇いながらそれに続き、子供たちは両親の服の裾をぎゅっと握りしめていた。
◆◆◆
男はカイの正面へと回り込み、その場に崩れ落ちるように両膝を突いた。
「――魔王カイ様……っ!」
カイが足を止め、目を瞬かせる。
男は深く頭を垂れた。
「お願いです。どうか、どうか哀れな我々をお救いください!」
男が必死に顔を上げる。
「一つだけ……不躾なお願いを聞き入れてはいただけないでしょうか!?」
カイはしばらくの間、無表情に男を見つめていたが――やがて、いつも通りの気楽な調子で答えた。
「ああ。いいぞ、言ってみろ」
男は拍子抜けしたように目を見開いた。
「――して、その願いとは何だ?」
男は堰を切ったようにすべてを告白した。
自分たちの村のこと。悪辣なるオークの襲撃。故郷の崩壊。そして、行く当てを失って彷徨っている生存者たちのこと。
恐ろしい魔窟を想像してやってきたこの塔で、彼らが目にしたのは、想像を絶するほどに広大で平和な理想郷だったのだ。
男は震える声で、自分たち家族と、残された村人たちがこの塔の内部で暮らすことの許可を求めた。
カイの回答に、一瞬の躊躇もなかった。
「――いいぞ、許可する」
男の身体が完全に硬直した。
「……え? 今、何と……?」
カイは面倒くさそうに同じ言葉を繰り返す。
「だから、構わないって言ったんだよ。何の問題もない」
その場にいた全員が、完全に静まり返った。
周囲にいた複数の冒険者たちが、信じられないといった様子で互いに顔を見合わせる。
彼らは、魔王という存在がもっと冷酷無比で、理不尽な代償を要求するか、あるいはその場で首を刎ね飛ばすものだとばかり思っていたのだ。
それなのに、カイはただ「いいぞ」と、あまりにもあっさりと首を縦に振った。
◆◆◆
カイは呆然とする家族へと視線を向けた。
「お前たちも、お前たちの仲間も、好きなだけここに住むといいさ」
彼は広大な第一階層の空間を大雑把に手で指し示した。
「大体さ、この塔は一人で暮らすには広すぎて持て余してたんだよ」
彼はふっと、優しい笑みを浮かべる。
「遠慮はいらない。ここにいろ」
男の瞳から、一気に大粒の涙が溢れ出た。
「あ、ありがとうございます……! ありがとう、ございます……っ!」
妻もまたカイへと駆け寄り、何度も何度も頭を下げた。
「本当に……本当にありがとうございます……!」
「礼なんて言うなよ」
カイは遠くを見やった。
「――家なら、すでに建ってるからな」
妻が不思議そうに瞬きをする。
「……家、ですか?」
「ああ」
カイは地平線の彼方に佇む、整然と区画された居住エリアを指差した。
「あとは、あそこに行って適当に好きな部屋を選ぶだけだ」
男は遠くの建造物群を見つめ、自分の耳に飛び込んできた奇跡のような現実が、未だに信じられない様子だった。
しかし――幼い子供たちの方は、すでに大人の難しい会話など聞いていなかった。
下の子がトコトコとカイの足元へと歩み寄り、上の子もそれに続く。
カイが反応するより早く、二人の子供はカイの仕立て下ろしの白いロングコートの裾を、ぎゅっと小さな手で掴んだ。
カイが視線を下ろす。
「……ん? おい?」
子供たちは、満面の無邪気な笑顔を彼に向けていた。
カイはしばらくの間、呆然と子供たちを見つめていたが――やがて、その張り詰めていた顔がふっと父親のように柔らかく綻んだ。
彼は屈み込み、二人の子供を両腕で同時にひょいと抱き上げた。
右腕と左腕に、それぞれ一人ずつ。
子供たちは大喜びでキャッキャと声を上げて笑う。
その光景を、周囲の冒険者たちは、ただただ静かな感動と衝撃の中で見守り続けているのだった――。
クロエはその光景を少し離れた場所から見つめ、呆然と呟いた。
「――驚きました」
いつの間にかカイのすぐ隣に姿を現していたユイが、愛おしそうに目を細める。
「さすがは私の愛する人ね」
カイが彼女へと視線を向ける。ユイの顔に、この上なく温かい微笑みが咲き誇った。
「誇りに思うわ、あなた」
◆◆◆
カイの唇に、自然と柔らかな笑みが浮かぶ。彼は両腕の中で無邪気に笑う二人の子供を見つめた。
この『塔』は本来、かつて彼が失ってしまった大切な仲間たちのために建造された場所だった。
いつの日か、『記憶の監獄』で共に戦ったあの面々を、再びこの地に集め直すための絶対の聖域。
――だが今、それとは別の『誰か』がこの場所に辿り着いた。
故郷を追われ、帰るべき家を失った人々。
世界のどこにも行く当てがなく、ただただ「安全な場所」を求めて彷徨っていた哀れな難民たち。
カイは地平線の彼方まで広がる、圧倒的に広大な第一階層の世界を見渡した。
あるいは――この塔は、彼が捜し続けている仲間たちだけのための場所である必要は、最初からないのかもしれなかった。
ここから先、この場所はそれ以上の『何か』へと進化していく。
それは国家ではない。帝国でもなければ、血生臭い軍事要塞でもない。
ただ世界によってすべてを剥ぎ取られ、絶望の底に突き落とされた人々が、最後に等しく辿り着ける――そんな温かい『我が家』だ。
カイは子供たちに向けて、優しく語りかけた。
「――我が家へようこそ」
二人の子供は、さらに嬉しそうに満面の笑みを咲かせたのだった。
◆◆◆
そして、ここから遥か遥か遠く離れた地で――。
リンは今もなお、あの『太陽の涙』の夜から己の魂の奥底に触れ続けている、あの愛おしくも謎に満ちた『気配』の主を捜し続けていた。
彼女はまだ、何も知らない。
自分が生涯をかけて追い求めているその最愛の人物が、今まさに、世界に向けてその『我が家』の重厚な扉を大いなる慈悲とともに開け放ったという事実を。
――第12章・完。




