エピソード85:集まりの前に ( 第1部 )
静かな朝が訪れた。
今回ばかりは、塔の外に恐ろしい大災害が待ち構えていることもない。
古代の竜も、好戦的な魔王も、門へと進軍してくる大軍勢の姿もなかった。
そこにあるのは、ただ穏やかな陽光だけだ。
光は塔の下層階にある巨大な窓から差し込み、第一階層に点在する道路や建造物を鮮やかに照らし出している。
周囲の地域からは、すでに多くの冒険者たちが到着し始めていた。
かつては絶対の神秘であったその入り口は、今や人々が日常的に行き交う場所へと、少しずつその姿を変えつつあったのだ。
4年間にわたる不気味な噂は、いつしか人々の好奇心へと変わっていた。
そして先日のカイによるアステリア王国の訪問が、その好奇心を決定的な『行動』へと爆発させたのだ。
人間たちが、続々と集まり始めていた。
ある冒険者は、内部に何があるのかを突き止めるために探索へ赴いた。
ある研究者は、自分たちの知る空間法則や魔法建築の常識をことごとく無視したこの建造物の謎に挑むためにやってきた。
またあるトレジャーハンターたちは、「最悪の場合、悲惨な死を迎える可能性」よりも「奥に眠るかもしれない莫大な富」の方に目が眩んで足を踏み入れた。
そしてその中には、アステリア王国から秘密裏に情報を集めるために送り込まれた隠密たちも、当然のように紛れ込んでいた。
そんなわけで、この第一階層は、今や誰もが認める『非公式の未開拓エリア』と化していたのである。
◆◆◆
地図や大量の物資を抱えた一団の冒険者たちが、広大な石畳の道を歩いていた。
「おい、俺たちは一体どれくらい進んだんだ?」
一人が手元の地図に目を落とす。
「……大体、6キロメートルってところだな」
その言葉を聞き、相棒がガクッと足を止めた。
「6キロだァ?」
「ああ、地図が正しければな」
「じゃあ、なんで未だに『入り口の扉』がすぐそこに見えてるんだよ!?」
全員が一斉に振り返る。
彼らの背後には、最初にくぐり抜けたはずの巨大なエントランスの扉が、信じられないことにまだ間近にそびえ立っていた。
誰も口を開かない。開けるはずがなかった。
一人の冒険者が、ゆっくりと手元の地図を折り畳んだ。
「――よし、俺は降りるわ」
「は? 降りるって、何をだよ」
「この場所のマッピングだよ!」
「なんでだよ!?」
「だってよ……まるでこの塔が、俺たちのことを腹の底から嘲笑ってるような気がしてならないんだよ」
別の冒険者が、遥か彼方にそびえ立つ雄大な山々を見つめた。
「……塔って、笑うもんなのか?」
三人目の男が、一切の躊躇なく即答する。
「このイカれた塔なら、間違いなく笑うだろうな」
◆◆◆
彼らから遥か遥か上空のエリアで、カイは不意に「ハックシュん!」と盛大なくしゃみをした。
彼はゆっくりと目を覚ます。
「……誰か俺の噂でもしてんのか?」
そのすぐ傍らで椅子に腰掛けていたユイは、手元の一冊の本から視線を上げることもなく淡々と告げた。
「おそらくね」
カイは不満げに鼻を擦る。
「失礼な奴らだ」
クロエがクスクスと笑いながら、テーブルの上にお茶のカップを置いた。
「カイ様も、すっかり有名人ですね」
カイはジト目で彼女を見つめ返した。
「……それこそ、俺が一番避けたかった事態なんだけどな」
「そうはおっしゃいましても、こんな100階建ての塔を建ててしまっては……」
「建てたのはユイだ」
ユイが静かにページをめくる。
「それを言うなら、ここに住むと決めたのはあなたでしょう?」
「それはそれ、これはこれだろ」
「どう違うのかしら?」
カイは腕を組み、少しだけ思考を巡らせた。
「……分からん」
その様子を見て、クロエが楽しそうに微笑んだ。
カイは大きな窓の一つへと視線を向けた。
この凶悪なまでの高さからは、塔の外に広がる世界が地平線の彼方まで一望できる。
かつて『記憶の監獄』の中で、戦い、生き延び、進化し、ただひたすらに脱出の道を捜し求め続けていた長い歳月を思えば、こうした何気ない普通の朝が、今でも奇妙なほどに愛おしく、価値のあるものに感じられるのだ。
人々が歩いている。
都市が機能している。
冒険者たちが地図の不条理さに文句を言っている。
世界のどこかでは、きっとパンの値段について口論している者だっているのだろう。
それは、あまりにも平和な光景だった。
そしてカイは、この『平和』というやつが酷く気に入っていた。
――それをぶち壊そうとする余計な何かが、現れない限りは、だが。
◆◆◆
そこから数日ほど離れた旅路の途中。
リンとソラの二人は、ある放棄された集落の残骸の前に立ち尽くしていた。
かつては小規模ながらも活気のあったであろうその村は、今や完全に静まり返っていた。
木造の家々の扉は不自然に開け放たれたまま。
市場の屋台は無残にひっくり返り、いくつかの陶器の破片が道路に散乱している。
だが――『死体』が一つもない。
それこそが、リンがもっとも不気味だと感じている部分だった。
彼女は地面に残された一連の足跡の前にしゃがみ込み、土に触れた。
「これ……人間の足跡だよ」
ソラが周囲の不穏な静けさを見回す。
「じゃあ……村の人たちはみんな、一体どこへ行っちゃったの?」
「分からない……」
リンはすっと立ち上がり、その小さな手を刀の柄へと軽く添えた。
何かがおかしい。単に「危険」というだけではない。
――『空虚』なのだ。
まるで、ごくありふれた日常の真っ只中で、村全体が忽然と無人になったかのような、そんな異様な気配。
ソラが一軒の民家へと歩み寄り、開いたままの扉をそっと押し開けた。
室内のテーブルには、食事が用意されたままの器が置かれている。
器、木製のカップ、そして乱雑に引かれた椅子。
荒らされたような形跡は、どこにも見当たらなかった。
ソラが眉をひそめる。
「……みんな、急いでここを離れたみたい」
リンが静まり返った街道を見つめた。
「何かが、そうさせたんだよ」
ソラが深く頷き、自身の杖を掲げた。
その先端に、微かな魔力の灯火が宿る。
「――残滓がある。魔法が使われた跡だよ」
「どんな魔法か分かりそう?」
ソラは意識を集中させた。だが――。
「……ううん、ダメ」
灯火がパチパチと不自然に明滅する。
「変だよこれ……まるで、使われた魔法そのものが『消去』されてるみたい」
◆◆◆
リンの瞳が、すっと鋭さを増した。
その耳が、微かな『音』を捉えたからだ。背後からだ。
彼女は電光石火の速さで振り返る。――誰もいない。
ソラも同時に反転した。
「リン、今のは……?」
「うん、聞こえた」
二人は息を潜めて身構える。周囲は再び、静寂に包まれた。
リンは音もなく、ゆっくりと刀を抜いた。
「ソラ、私の側を離れないで」
「……分かった」
二人はさらに集落の奥へと歩みを進める。
その時、二軒の民家の隙間を『何か』が通り過ぎた。
速い。尋常ではない速度だ。
リンの視線がそこへ弾かれた。
「何、今の!?」
ソラはその残像を辛うじて捉えるのが精一杯だった。
「わからない……!」
街道の突き当たりに、一つの『黒い影』が姿を現した。
一瞬、それは人間の姿をしているようにも見えた。だが――次の瞬間、その形態が歪に蠢いた。
リンは迷うことなく地を蹴った。
鋭い剣閃が空を裂く。しかし、刃が捉えたのは虚空だけだった。
その不気味な生物は、すでにそこにはいなかった。
リンの目が見開かれる。
「――速いッ!」
背後からの殺気。
彼女は独楽のように反転し、迫り来る一撃を刀の腹で受け止めた。
――ギギギィン!
凄まじい衝撃が彼女の身体を襲い、ブーツが土を削りながら数メートル後退させられる。
その生物は、十数メートルほど離れた場所に佇んでいた。
まるで『影』そのものに肉体を与えたかのような姿。
その輪郭は絶えず変化し、明確な顔のパーツも、眼球も、生物としての解剖学的特徴すらも存在しない。
ただそこにあるのは、圧倒的な『闇』だけだった。
リンは刀のグリップを強く握り直す。
「――もう、逃がさないんだから」
◆◆◆
黒い影が、再び掻き消えた。
リンは直感に従って即座に刃を振るう。――空振りだ。何もいない。
次の瞬間、影は彼女の真横に出現した。
今度はソラが先に反応する。
「――『聖光の縛鎖』!」
地面からまばゆい光の鎖が噴出し、影へと猛然と襲いかかる。
だが、その影は物理法則を無視するように、光の隙間をすり抜けてみせた。
ソラが驚愕の声を上げる。
「嘘……避けた!?」
リンが動く。
肉体に魔力を爆発的に巡らせ、身体強化を施して前方へと突進した。
しかし、影の速度はさらにその上を行く。
両者の攻防は、もはや常人の目には捉えられない『残像の嵐』と化していた。
肩、手、黒い輪郭――それらを視認した瞬間には、すでに実体は消えている。
ソラが後方から無数の魔力弾を放ち、援護射撃を試みる。
だが、影はその弾幕の間を、まるでダンスでも踊るかのように軽々と避けてみせた。
「リン!」
「分かってるって!」
影の鋭い一撃を紙一重で跳んでかわし、リンはソラの隣へと着地した。
二人の呼吸は、激しく乱れている。
ソラが焦燥を滲ませてリンを見た。
「……攻撃が、掠りもしないよ」
「みたいだね……」
影は数メートル先で静止していた。
追撃を仕掛ける風でもない。ただ、じっとこちらを『観察』しているようだった。
少なくとも、リンはそう感じた。
そして――再び、消えた。
ソラの目が恐怖に見開かれる。
「どこに行ったの――!?」
リンが周囲を索敵する。
「待って、ソラ――」
だが、遅かった。
◆◆◆
影は、ソラのすぐ真横に出現していた。
その黒い腕が、無慈悲に振るわれる。
凄まじい打撃音。
ソラの身体は木の葉のように吹き飛ばされ、集落の端へと打ち出された。
「ソラ―――ッ!?」
リンの叫び声が響き渡るのとほぼ同時に、ソラの身体は古びた民家の土壁を派手に突き破った。
激しい破壊音とともに、周囲に大量の土煙が巻き上がる――。
リンの心臓が、ドサリと底へ落ちた。
「――ソラぁぁッ!!」
我を忘れて駆け出そうとする。
しかし、連鎖する死の胎動。黒い影が掻き消えた。
リンは強制的に足を止めさせられる。彼女の本能が、最大級の警鐘を鳴らしていた。
視線を真上へと跳ね上げる。
――いた。
生物はすでに彼女の直上へと回り込み、質量を持った『闇』そのものとなって落下してくるところだった。
リンは必死に刀を持ち上げる。――だが、遅すぎた。
――ズ、ガァァァァァァンッ!!!
足元の地面が派手に爆裂した。
強烈無比な質量攻撃がリンを直撃し、彼女の身体を中心に蜘蛛の巣状のクレーターが形成される。
その衝撃で、愛刀が手元から無残に弾き飛ばされた。
一瞬、耳の機能が麻痺して何も聞こえなくなった。
視界が激しく明滅し、ぐるぐると歪んで焦点が合わない。
身体を動かそうとするが、指先一つまともに機能しなかった。両腕が、生まれたての小鹿のようにガタガタと震える。
「……そ、ら……」
痛みに喘ぎながら、リンは辛うじて片肘で上体を浮かせた。
黒い影はクレーターの縁へと着地し、音もなく、ゆっくりと距離を詰めてくる。
リンは必死に手を伸ばし、弾き飛ばされた刀を掴もうとした。指先が虚しく土を引っ掻くだけだ。――遠い。届かない。
生物が、その歪な腕を冷酷に振り上げた。
リンの瞳が、絶望に大きく見開かれる。
(――からだが、うごかない……!)
冒険者としての旅を始めて以来、彼女は初めて、自分がここで「完全に敗北する」という現実を理解させられていた。
自分の力が足りなかったからではない。
何か致命的なミスを犯したからでもない。
ただ単純に――目の前に立つ『ナニカ』の速度が、彼女の限界を遥かに超越していた。それだけのことだ。
黒い影が、その凶腕を容赦なく振り下ろす――。
◆◆◆
――その瞬間。
世界の空が、一瞬にして『深紅』へと染まった。
天の頂から、一本の破壊的な紅蓮のエネルギー光線が降り注ぐ。
それは寸分の狂いもなく、リンの目の前にいた黒い影の脳頭へと直撃した。
――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!!
凄まじい大爆発の衝撃波が、集落全体を乱暴に蹂躙した。
爆風と無数の土砂が全方位へと激しく吹き荒れる。
辛うじて立っていた家々の壁が激しく震動し、周囲の木々が今にもへし折れそうなほどに湾曲した。地面が地割れを起こす。
リンは反射的に両腕で顔を覆った。
崩落した土壁の下に埋もれていたソラも、立ち込める圧倒的な土煙の隙間から、辛うじてその光景を目撃していた。
やがて――訪れる静寂。
もうもうと立ち込める砂塵が、ゆっくりと地表へと落ちていく。
そこには、何もなかった。
あの不気味な黒い影は、塵一つ残さず、この世界から完全に『消滅』していた。
リンは数秒の間、クレーターの中でピクリとも動けずにいた。
「……え? なに……これ……?」
彼女は恐る恐る、頭上の空を見上げた。
だが、そこには何もない。ただ、何事もなかったかのように白い雲が流れているだけだった。
◆◆◆
そこから遥か遥か遠方、あの雲を突く『塔』の最上階にて。
カイは突き出していた片手を、静かに下ろした。
彼の視線は、まだ地平線の彼方へと注がれている。
「――よし、これで片付いたな」
その背後に、いつの間にかユイが姿を現していた。
彼女は問題の集落がある方角を見つめ、それからカイへと視線を移す。
「……本当に、あの娘のことを片時も目を離さずに見守っているのね」
カイはそれを否定しなかった。その双眸は、依然として遠い地平線を見据えたままだ。
「当たり前だろ。自分の妹一人守れないで、一体どこのどいつが『兄貴』を名乗れるってんだよ」
ユイが間髪入れずに応じる。
「……最低最悪の兄貴ね」
「その通りだ」
カイが平然と頷く。
ユイが彼をじっと見つめると、カイの顔から徐々に険しさが抜け、ふっと柔らかいものへと変わった。
「だからこそ……あいつには、無事でいてほしいんだよ」
その声には、いつもの冗談めかした響きは一切なかった。
おどけた笑みも、皮肉混じりの口調もない。ただの――紛れもない本心。
ユイはしばし沈黙し、それから静かに問いかけた。
「――もしも、万が一にでも、あの娘の命を脅かすような存在が現れたら?」
カイの動きが止まった。
その顔から、一切の表情が消え失せる。
先ほどまでの温かみは瞬時に霧散し、その瞳は、絶対零度の冷徹さへと変貌した。
「――もし、俺から妹を奪おうとする奴がいるなら」
大気が、みしりと凍りつく。
「――俺は迷わず、この『世界』を滅ぼすよ」
ユイは彼の目をじっと見つめ、それから、はぁ、と深い深くため息を吐き出した。
「……お願いだから、本当に止めて頂戴ね?」
カイの顔に、少しずついつもの表情が戻ってくる。
「……善処するよ」
「全く信用できないわ」
「知ってる」
ユイは呆れたように首を横に振った。
彼女はカイという男の性質を、誰よりも深く理解している。今の言葉が、決して安っぽい『ハッタリ』などではないということも。
妹であるリンとの絆は、カイの普段の圧倒的な『自制心』を完全にバイパスして暴走させ得る、数少ない絶対の聖域なのだ。
彼自身への侮辱なら耐えられる。敵の夜襲も笑って流せる。自分を殺そうとする有象無象の刃など、歯牙にもかけない。
――だが、リンだけは別格なのだ。
カイは再び、遠い地平線へと視線を戻した。
「俺はあいつの人生を邪魔したいわけじゃないんだ」
「ええ、分かっているわ」
「ただ……あいつ自身の手で、安全にその人生を生き抜いてほしい。それだけさ」
ユイの口元に、微かな、しかし優しい笑みが浮かんだ。
「――それなら、私とも意見が一致しているわね」
カイは短く、力強く頷いたのだった。
ユイはそこで、おもむろに片手を上げた。
「――ああ、そうそう。もう一つ報告があったわ」
カイが怪訝そうに彼女を見る。
「何だ?」
「魔王達の連柱から、あなた宛てに『書状』が届いているわよ」
カイは目をパチくりとさせた。
「……は? もう来たのか?」
ユイから手渡された書状を開き、カイはその文面に視線を走らせる。
そして、はぁ、と今日一番の大きいため息を吐き出した。
「――なるほど、これで正式決定ってわけか」
二人の背後から、クロエの弾んだ声が響く。
「正式決定って、一体何がですか?」
カイが振り返る。
「例の『会談』さ」
それを聞いたクロエの瞳が、きらきらと輝きを帯びた。
「では、ついに他の魔王様たちと……!?」
カイは億劫そうに頷いた。
「ああ、そういうことだ」
クロエは満面の笑みを浮かべる。
「ならカイ様! その晴れ舞台にふさわしい『お召し物』を用意しないといけませんね!」
カイは自身のラフな格好を見下ろした。
「いや、普段着てるこれで十分だろ」
クロエの視線が、一瞬で極寒のそれに変わる。
「却下です」
カイが怯む。
「……却下?」
「はい、絶対にダメです」
ユイもまた、クロエの意見に同意するように深く頷いた。
「私もクロエと同意見ね、あなた」
カイは二人の美女を交互に見つめ、呆然と呟いた。
「……これは明らかな『裏切り』だな」
◆◆◆
それからしばらくして。
カイは、塔の最上階にある自らのプライベート空間――そこに設えられた、極上の『露天風呂』へと足を運んでいた。
湯面から白い湯気がゆったりと立ち上り、周囲は絶対の静寂に包まれている。
ここには煩わしい冒険者も、政治のしがらみを持つ使節団も、好戦的な魔王も、正体不明の魔物も存在しない。
カイは極楽そうに湯船の奥深くへと身体を沈め、そっと目を閉じた。
「……ふぅぅぅぅ」
長い息を吐き出す。
「――最高すぎるな」
数分の間、至福の時間が流れる。――しかし、その平穏は長くは続かなかった。
ペタペタと、小気味よい足音が近づいてくる。
カイが片目を開けた。
そこには、当然のような顔をしてエリアに立ち入ってくるユイとクロエの姿があった。
カイは二人を睨みつける。
「おい……人の神聖なリラクゼーションスペースで何をするつもりだ?」
ユイがどこまでも冷静に応じる。
「何って、お風呂に入りに来たのよ?」
カイは弾かれたように上体を起こした。
「入らせるかよ!」
――だが、その拒絶の言葉が完全に紡がれるより早く、クロエはすでにザブーンと湯船に浸かっていた。
カイは呆然と彼女を見つめる。
「……お前、一瞬の躊躇すらも無かったな」
クロエは湯船の縁に心地よさそうに背中を預け、イタズラっぽく笑う。
「カイ様が長風呂すぎるのが悪いんですよ?」
カイはユイへと視線を移した。
「ユイ、お前くらいは『パーソナルスペース』って概念を理解して――」
ユイは彼の脇を平然と通り過ぎた。
「いいえ?」
そして、何事もなかったかのようにザブーンと湯へと身を沈める。
カイは天を仰いだ。
「……信じられん」
クロエがクスリと笑う。
「死ぬわけじゃありませんし、良いじゃないですか」
「分かってるよ」
カイは再び背もたれに体重を預け、ぶつぶつと文句を溢した。
「……そういう問題じゃないって言ってるんだ」
◆◆◆
それからしばらくの間、三人は静かに湯に浸かっていた。
口論はあったものの、その空気は奇妙なほどに穏やかで、心地よいものだった。
やがて、クロエがカイの方へと視線を向ける。
「カイ様、例の会談に着ていく服のイメージはありますか?」
カイは目を薄く開けた。
「服のイメージ、ねえ……」
「はい」
カイは少しだけ思考を巡らせたが。
「いや――」
立ち上る湯気を見つめながら、あっさりと白旗を上げる。
「さっぱり思い浮かばんな」
それを聞いたクロエが、ニヤリと笑って立ち上がった。
「よろしい。ならば――」
カイは不審極まりない目を彼女に向ける。
「……ならば、何だ?」
クロエは満面の笑みを浮かべた。
「この私が、カイ様に最高に似合うお洋服をプロデュースして差し上げます!」
カイの目が、さらに細められた。
「……今、もの凄く不吉な予感がしたんだが?」
クロエは楽しそうに鈴を転がすような声で笑うだけだった。
◆◆◆
その日の午後。
クロエが一着の衣装を抱えて部屋へと戻ってきた。
カイはその衣服をじっと凝視する。
それは――黒の縁取りと微かなブルーのアクセントが施された、洗練されたロングホワイトコート。
その内側には幾重にも重ねられた純白のインナー。
同色のボトムスに、全体を引き締める黒いベルト、そして漆黒のブーツ。
過度に着飾ったフォーマルさを排除しつつも、圧倒的な気品とエレガントさを醸し出す、見事なデザインだった。
カイはそのコートを手に取り、クロエを見た。
「これ……お前が選んだのか?」
「はい! どうですか?」
カイは実際にそれに袖を通してみた。
上質な白い生地が彼の身体に吸い付くように馴染み、黒いラインの縁取りが全体のシルエットをシャープに際立たせる。そして随所に施されたブルーの差し色が、絶妙なアクセントとなっていた。
彼の無造作な白髪が顔の周りに揺れ、その衣装の全体的な雰囲気に、文字通り完璧なまでに調和していた――。
カイは鏡に映る自分の姿をじっと凝視した。数秒の間、彼は言葉を発しなかった。
クロエは期待に満ちた目で待ち、ユイは値踏みするように彼を観察している。
カイは最後にコートの袖口を少しだけ整え、ぼそりと呟いた。
「――おいおい、俺マジで格好良すぎだろ」
その言葉を聞き、クロエが満足げに微笑む。
「よくお似合いです、カイ様」
カイはもう一度鏡へと視線を戻した。
「なんだか、いつもと雰囲気が違うな」
「普段のカイ様は、その辺へ散歩にでも行くような格好ばかりですからね」
「これからだって、散歩に行くようなもんだろ」
「魔王達の連柱が揃う会談の場へ、ですか?」
「些細な違いさ」
ユイがクスリと上品な笑みを漏らした。
「……表舞台に出るにふさわしい格好よ、あなた」
カイは深く頷いた。
「よし、その言葉を信じよう」
◆◆◆
彼は近くのテーブルの上に置かれた招待状へと視線を落とした。
魔王たちが待っている。
そこにはニクセラもいるだろう。イオンもいるはずだ。
そして、この現実世界において彼がまだ見ぬ、残りの3人の魔王たちもまた、彼の登場を待ち構えているのだ。
カイは手際よく書状を折り畳んだ。そして、不敵にニヤリと笑う。
「――さてと」
ロングコートの襟を軽く正す。
「現物の魔王たちが一体どんな連中なのか、この目で拝みに行くとしますかね」
彼はもう一度招待状に目をやり、胸の奥で好奇心を燻らせた。
知りたかったのだ。自分がかつて『記憶の監獄』の中で相見えたあの魔王たちが、本当に現実世界に存在する彼らと同一人物なのかどうかを。
もし同じなのだとしたら、彼らは当時と変わらぬままなのか?
あるいは、彼の記憶にある彼らは、監獄という歪んだ檻が見せたただの幻影に過ぎなかったのか――。
カイは、その答えを求めていた。
ユイが釘を刺すように彼を見つめる。
「……お願いだから、問題は起こさないでね?」
カイは心外だと言わんばかりに顔をしかめてみせた。
「おいおい、俺がいつトラブルなんて起こしたよ?」
後ろからクロエの間髪入れないツッコミが飛ぶ。
「大嘘つきですね」
カイの動きが一瞬だけ止まり、ばつが悪そうに目を逸らした。
「……ほんの、ちょっとした可愛い嘘さ」
三人の間に、短い静寂が流れる。
やがてカイは、ふと遠い地平線の方角へと視線を向けた。
遥か彼方の地で、妹のリンは今頃、あの集落で起きた正体不明の襲撃からようやく身を回復させている頃だろう。
あいつは生き延びた。
今のところは、それで十分だ。
世界は確実に、そして急激に複雑さを増しつつある。
塔の存在は広く知れ渡り、魔王たちは一堂に会そうとしている。
そしてカイは今、この世界における最高峰の絶対強者たちが集う、あの狂気の空間へと足を踏み入れようとしていた。
その会談が、一体どのような結末を迎えることになるのか。
今の彼には、知る由もない。
だが――かつてないほどに、彼はその『答え』を突き止める瞬間を楽しみにしている自分に、確かに気づいていたのだった。
――第〇章・完。次章へ続く。




