エピソード84:原初の来訪
あの『塔』は、4年もの間、絶対の神秘であり続けていた。
だが今や、カイがアステリア王国をあまりにも「カジュアル」に訪問したせいで、人々はついに動き始めていた。謎の存在が現れた時、人間がいつも決まって取る行動を。
すなわち――突っつき始めたのだ。
最初の訪問者たちは、王国の国境付近にある集落からやってきた。
その大半は冒険者である。
純粋な好奇心に突き動かされて来た者。
内部に広大な異空間を内包しているという、あの巨大な塔の噂を聞きつけて来た者。
そして……アステリア王国から秘密裏に派遣された隠密たち。
彼らに与えられた指令は至ってシンプルだった。
観察せよ。情報を収集せよ。
住民を決して刺激するな。
そして、絶対に塔の奥へと力ずくで進もうとするな。
特に最後の指示は、しつこいほどに強調されていた。
あのふざけた建造物の主と、万が一にも戦争を始める引き金を引いた責任者になりたい者など、この世に一人も存在しなかったからだ。
◆◆◆
そんなわけで、塔の『第一階層』は奇妙な活気に包まれつつあった。
入り口付近に佇む数人の冒険者たちが、眼前に広がる大自然を呆然と見つめている。
一人が、ゆっくりと手元の地図を下ろした。
「……おい、ここが本当に『1階』だって言うのか?」
相棒が深く頷く。
「どうやら、そのようだな」
「だが、俺たちはもう3時間近く歩き続けてるんだぞ?」
「ああ」
「なのに、まだ反対側の壁すら見えやしねえ」
「そうだな」
最初の冒険者は、地平線の彼方まで続く深い森を凝視した。
それから、恐る恐る振り返る。
自分たちが通ってきた入り口の扉が、まだすぐそこに見えていた。
彼は再び正面を向く。
「……狂ってやがる」
彼らの脇を、重装備を抱えた別のパーティーが通り過ぎていく。
「聞いたか? この先に湖があるらしいぞ」
「は? 湖だァ?」
「ああ、そう言ってた」
「塔の中に、湖だと?」
「そのようだ」
「……一体どこのどいつが、こんな塔を建てるんだよ」
誰も答えなかった。
なぜなら、誰も納得のいく答えなど持ち合わせていなかったからだ。
◆◆◆
さらに奥のエリアでは、別のグループが地形のマッピングを試みていた。
アステリアから派遣された研究者が、ここ1時間ほど環境調査に没頭している。
気温の変化。マナの濃度。植生。空間の不整合性。
だが、ある時点で、彼はピタリとペンを止めた。
助手が不思議そうに覗き込む。
「どうかしましたか?」
研究者は、自身のノートを凝視したまま動かない。
「……私は今、過去40分間にわたって、全く同一の環境数値を記録し続けていることに気づいた」
「それが、何か?」
「――私たちは、同じ環境の中を歩き続けているわけではないのだぞ?」
助手が目をパチくりとさせた。
「……え?」
研究者が前方へと指を差す。
彼らが立っているのは森のすぐ傍らだ。
しかしその先には広大な草原があり、さらに奥には険しい山々がそびえ立っている。
そして地平線の彼方には、海と見紛うほどの巨大な水塊が見え隠れしていた。
助手は呆然とそれを見つめる。
「……どうやって、そんなことが?」
研究者は、はぁ、と深いため息を吐き出した。
「それを解き明かすのが、私の仕事なのだがね……」
◆◆◆
その頃、一部の冒険者たちの間では、すでに様々な噂が飛び交い始めていた。
誇張されたもの。
完全にデタラメなもの。
そして、これでもまだ真実を過小評価しているもの。
――内部には森がある。湖がある。建造物がある。訓練場がある。
見たこともない奇妙な生物がいる。
中には人が住んでいる。
そして、ある極めて熱狂的な冒険者に至っては、こう豪語した。
「あの森の向こうには、一つの『都市』が丸ごと存在しているはずだ!」
……その噂は、即座に鼻で笑われることになったが。
「おいおい、そんな訳ねえだろ」
「お前は現場を見てないからそんなことが言えるんだ!」
「いいか? あそこは『塔』だぞ」
「だから何だよ!」
「国家じゃねえんだよ」
噂を流した冒険者は、不満げに肩をすくめた。
「じゃあ、あの森をどう説明するんだよ?」
「それは……説明できねえけどよ……」
「その通りだ」
こうして、塔の評判は日に日に高まっていった。
◆◆◆
そして塔の内部では――当のカイ自身は、そんな世間の騒ぎなどこれっぽっちも気にしていなかった。
彼は悠然とテーブルにつき、目の前の皿を平らげている。
その傍らにはクロエが座り、正面にはユイが直立していた。
カイは料理をもう一口咀嚼し、飲み込む。
「――で、本当に外から人が入り込んでるのか?」
「ええ」
ユイが淡々と応じる。
「規模はどれくらいだ?」
「ただの『訪問者』と呼ぶには、いささか不適切なほどの数ね」
「冒険者か?」
「大半はね」
「研究者もいるのか?」
「少なからず」
「スパイは?」
ユイは一瞬だけ間を置いた。
「……何人か紛れ込んでいるわね」
「ふむ、なるほどな」
カイが頷く。
その様子を見て、クロエが不思議そうに首を傾げた。
「カイ様、心配ではないのですか?」
「別に」
「どうしてですか?」
カイは肩をすくめてみせる。
「厄介事を起こさない限りは、好きに見物させておけばいいさ」
ユイが腕を組んだ。
「その中には、明らかにアステリア王国へ情報を流すために動いている者もいるのだけれど?」
「分かっている」
「分かっていて、その反応なの?」
「当然だろ」
カイはさらに料理を口に運んだ。
「――なら、奴らが持ち帰る報告書は、さぞかし退屈な内容になるだろうな」
クロエがクスクスと小さな笑い声を漏らす。
ユイはジト目でカイを凝視した。
「ずいぶんと余裕しゃくしゃくなのね」
カイは周囲の空間を見回す。
「ただの『塔』だからな、ここは」
ユイの表情が、完全に無になった。
「……カイ」
「何だ?」
「私はね、従来の空間法則を完全に無視した、内部空間を持つ100階建ての建造物を造ったのよ?」
「ああ」
「その中に、森や、山や、都市や、湖や、砂漠や、あらゆる環境を詰め込んだの」
「そうだな」
「それを、あなたはただの『塔』の一言で片付けるわけ?」
カイは当然のように頷いた。
「構造上は、間違いなく『塔』だろ」
ユイはそっと目を閉じた。
「……もういいわ」
クロエは必死に口元を抑え、笑いを堪えていた。
カイの唇に、自然と笑みが浮かぶ。
この世界にやってきて以来、初めて「日常」というものが戻ってきたような感覚だった。
もちろん、完全な日常ではない――彼のこれまでの人生において、完全に平穏な日々など一度としてなかったのだから。
だが、かつてはユイの頭中にあるただの『概念』でしかなかった場所を、見ず知らずの一般人たちが探索している光景を見るのは、どこか奇妙な居心地の良さがあった。
カイはこの塔を、血生臭い軍事拠点にするつもりはなかった。
ここに国家を築くつもりもなければ、城壁の下に大軍勢を 集結させるつもりもない。
ただ、かつて失った仲間たちが、いずれ戻ってこられる場所でありたかった。
いわば――我が家、だ。
そして、いつの日か、他の人々もここを訪れるようになる。その未来を想像することは、決して不快ではなかった。
――その時、ユイの表情が微かに動いた。
カイはその変化を見逃さない。
「……どうした?」
ユイは遥か彼方にある、巨大なエントランスホールの方角へと視線を向けた。
「――『誰か』が来たわ」
カイが片方の眉を上げる。
「また冒険者か?」
「いいえ」
「研究者か?」
「違うわ」
クロエがユイの顔を覗き込む。
「では、一体どなたが……?」
ユイの瞳が、僅かに鋭さを増した。
「――ニクセラよ」
カイの動きが完全に止まった。
フォークが口元へ運ばれる途中でピタリと静止する。
「……もう来たのか?」
ユイが静かに頷く。
カイはゆっくりとフォークを皿に戻した。
その顔に、不敵な笑みがじわりと広がっていく。
「――ふっ、上手くいったな」
◆◆◆
その頃、塔から少し離れた荒野を、ニクセラはただ一人で歩いていた。
軍勢を引き連れているわけではない。
護衛の部下すら連れていない。
懐刀である『ブラック』すらも置いてきた。
その必要がなかったからだ。もし報告書の内容が真実であるなら、大軍を動かしたところで大した意味はなさない。
それに、彼女は戦うためにここへ来たわけではなかった。
欲しいのは――答え、だ。
前触れもなく現れた、新たなる魔王。
存在し得るはずのない巨大な『塔』。
かつては世界の崩壊を意味するとされた、あの古代の吸血鬼を従える男。
そして、どういうわけか、奴は『魔王進化の種』を所有していた。
特に最後の詳細が、彼女の心を酷くざわつかせていた。
ニクセラはこれまでの長い生涯の中で、単に「困難なこと」と「不条理なこと」の境界線を嫌というほど理解してきた。
『魔王の種』を創り出すなど、生半可な芸当ではない。
それなのに、カイという男は、種を手に入れる前からすでに自分は魔王だったと言い放った。
その上で、彼女の関心を引くためだけに、わざわざもう一つの種を意図的に創り出したというのだ。
そんな芸当、通常の魔王にできるはずがない。
おそらく、既存の最強の魔王たちにすら不可能だろう。
ニクセラは微かに笑みを漏らした。
「……面白いじゃない」
前方に、目的の『塔』が姿を現した。
遠目からでもその巨大さは理解していたが、いざ直面するとその異様さは一線を画していた。
彼女は一瞬だけ足を止め、それから再び歩みを進めた。
◆◆◆
ニクセラがその入り口の境界線を越えた瞬間、塔の内部空間がその全貌を現した。
彼女は足を止め、その美しい瞳をゆっくりと周囲の景色へと走らせる。
外見からは想像もつかないほど広大な世界が、そこには広がっていた。
開けた草原を貫くように伸びる一本の道。
遥か彼方の山々へと続く深い森。
整然と構築された街並みに佇む建造物。
そして、この空間を満たしているマナの質は――あまりにも、安定しすぎていた。
歪みがない。
空間を強引に維持しているような、不自然な負荷の形跡が一切存在しないのだ。
ただ、最初からそこにあったかのように、自然に『存在』している。
ニクセラは目を細めた。
「……実に見事ね」
その時、彼女の背後から静かな声が響いた。
「――あなたがニクセラね」
ニクセラが振り返る。
そこにはユイが立っていた。
凛とした佇まいで、優雅に、そして完全に冷静な様子で。
ニクセラは彼女の姿をじっと観察した。
この女には、どこか奇妙な違和感がある。
その「正体」が、まるで読み取れないのだ。彼女ほどの存在が識別できないこと自体、極めて異常な事態だった。
ニクセラはこれまでの生涯で、数え切れないほどの種族や高位存在と出会ってきた。
しかし、目の前の『ユイ』という女は、彼女の知るいかなるカテゴリーにも当てはまらない。
「あなたが、ユイかしら?」
「ええ、そうよ」
ニクセラは妖艶に微笑んだ。
「私が来ることが分かっていたのね」
「ええ」
「どうやって?」
ユイはただ、真っ直ぐに彼女を見つめ返した。
「分かるからよ」
ニクセラは一瞬だけ彼女を凝視し、それからフッと低く笑った。
「……あなた、本当に奇妙な人ね」
「よく言われるわ」
ニクセラは再び周囲を見回した。
「――カイはここにいるの?」
「ええ」
「私が来ること、あの人は知っていたのかしら?」
「いずれ来るだろうと、そう言っていたわ」
ニクセラの笑みがさらに深まる。
「……つまり、奴は意図的に私の関心を引いたわけね」
ユイは答えなかった。
答える必要がなかった。その沈黙こそが、何よりの回答だったからだ。
◆◆◆
ニクセラがさらに奥へと歩みを進める。
数瞬の後、パタパタと足音が近づいてきた。
そして――まだ口をモグモグと動かしながら、カイが姿を現した。
ニクセラがじっと彼を凝視する。
カイは足を止め、料理を飲み込んだ。それから彼女を見る。
「……お」
一呼吸の間を置いて。
「本当に来たんだな」
ニクセラが片方の眉を上げた。
「待っていたのでしょう?」
「いずれな」
「なら、認めるのね?」
カイはあっさりと頷いた。
「ああ、認めるよ」
ニクセラは腕を組んだ。
「私を引きずり出すために、わざわざ『魔王の種』なんてものを創り出したと?」
カイは不敵に笑う。
「まあ、大体そんなところだ」
その後ろから、クロエがひょっこりと顔を出した。
「カイ様――」
「何だ?」
「それでは、ご自分がもの凄く怪しい不審者みたいに聞こえますよ?」
「正直に言っているだけだろ」
「正直なら良いというわけではありません!」
カイは気楽に肩をすくめてみせる。
ニクセラは依然として彼を凝視し続けていた。
「お前は、すでに魔王だった」
「ああ」
「それなのに、もう一つ『魔王の種』を創り出した」
「そうだ」
「私が気づくように、意図的に、ね」
「正解だ」
ニクセラの表情から、徐々に軽薄さが消え失せていく。
「――なぜだ?」
カイはその問いについて、ほんの少しだけ思考を巡らせた。
「お前に会いたかったからだ。それだけだよ」
ニクセラは沈黙した。
カイの唇が、にやりと吊り上がる。
「……上手くいったろ?」
クロエがはぁ、と深いお説教混じりのため息を吐いた。
「カイ様」
「何だよ」
「まるで自分がすべてを完璧に計画していたかのように言うのは、本当にお止めください」
「いや、計画通りだけど?」
「それが一番タチが悪いと言っているのです!」
その微笑ましいやり取りに、ニクセラから思わず笑みがこぼれた。
低く、だが心からの笑いだ。
「――ふふっ、本当におかしな奴ね、お前は」
「よく言われるよ」
カイは平然と受け流す。
◆◆◆
その瞬間、ニクセラの纏う空気が一変した。
先ほどまでの楽しげな気配が、完全に霧散する。
彼女は、目の前の男を『試す』ことに決めたのだ。
周囲の大気が、みしりと鳴動した。
彼女の『覇気』が、じわりと空間へ伝播していく。
それは攻撃ではない。全力を解放したわけでもない。
ただの――威圧。
並の強者であれば、本能的な恐怖から反射的に防御姿勢を取るレベルの、絶対的なプレッシャー。
だが、カイは動かなかった。
ただそこに立ち、完全に脱力している。
身構える風でもなければ、表情をピクリと動かすことすらない。
ただ、そこに『いる』だけ。
ニクセラは鋭い視線で彼の反応を観察する。
――何も出ない。微かな動揺すら、肌の震えすらもない。
彼女の美しい瞳が、さらに細められた。
カイはそこでようやく、不思議そうに首を傾げた。
「……何、今から何か始めるのか?」
ニクセラは答えない。ただ、威圧の精度をさらに高めていく。
それでもなお、カイの肉体は何の拒絶反応も示さなかった。
その時、カイの脳内にユイの声が響く。
(カイ。一つ、あなたに伝えておくべきことがあるわ)
カイは思考の海で応じた。
(何だ?)
ユイの声は、どこまでも冷静だった。
(あなたがかつて『記憶の監獄』の中で知っていたニクセラ。――今、あなたの目の前に立っている彼女の強さは、当時の比ではないわ)
カイの目元が、微かに引き攣んだ。
(マジかよ……おい、勘弁してくれよ?)
(ええ、紛れもない事実よ)
カイは改めてニクセラを凝視する。
(『記憶の監獄』にいた時点で十分化け物だと思ってたのに、現実のあいつはさらに輪をかけてヤバいってことかよ……)
一瞬の沈黙。
しかし、彼の表情はすぐさま別のものへと塗り替えられた。
(……だが、心配はいらないさ。こっちも相応の挨拶を返してやるまでだ)
ユイは答えなかった。
その必要がないほどに、相棒の戦意を信頼していたからだ。
◆◆◆
――ゴ、ォォォォォォン……ッ!
カイが、自身の『覇気』を解放した。
その効果は、劇的だった。
空間の温度が、一瞬で凍りつくように急降下する。
足元の地面が爆裂したわけではない。
何かが派手に吹き飛んだわけでもない。
塔の内部を破壊するような、派手な衝撃波など生じてはいなかった。
そんな無駄な演出は必要ないのだ。
彼の存在感が、ただ静かに、深く、重く――すべてを圧倒するように世界を満たしていく。
◆◆◆
――そして、その余波は、塔の遥か外の地へと到達していた。
街道を歩いていた一人の少女が、ピタリと足を止める。
リンが完全に硬直したため、後ろを歩いていたソラが危うく背中にぶつかりそうになった。
「リン……? どうしたの?」
リンは答えなかった。その瞳が、驚愕に見開かれている。
感じていた。
確かに、この肌で感じている。
あの気配だ。
4年前、あの『太陽の涙』の夜に感じた、あの異様で圧倒的な存在感。
だが、今この瞬間に感じているものは、当時とは比べ物にならないほどに強大で、研ぎ澄まされている。
ソラが心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「ねえ、本当にどうしたの?」
リンはゆっくりと、あの巨大な『塔』がある方角へと身体を向けた。
「わたし――」
言葉が出なかった。
この感覚には、どうしようもないほどの既視感がある。
胸が締め付けられるほどに懐かしい。
それなのに――どうしてなのか、その理由を思い出すことができない。
ソラが一歩、距離を詰める。
「リン?」
リンは、ようやくソラへと視線を戻した。
「……また、感じたの」
「え?」
「あの時の気配。今度は、はっきりと……」
それを聞いたソラの表情が、ふっと柔らかくなる。
「……リンが、ずっと探しているあの人のこと?」
リンは小さく頷いた。
「でも、具体的にどこにいるのかまでは……分からないの」
ソラは地平線の彼方、あの雲を突くようにそびえ立つ塔のシルエットを見つめた。
「なら、探しに行こう」
リンがソラを見つめる。
「――一緒に?」
ソラは満面の笑みを浮かべ、力強く頷いてみせた。
「うん、一緒に行こう!」
リンの顔に、いつもの眩しい笑顔が咲き誇る。
「了解!」
塔の内部では、ニクセラの視線がカイに釘付けになっていた。
彼女は今、完全に理解した。
目の前の男は、決してハッタリをかましていたわけではない。奴の持つ力は「本物」だ。
そして何より恐ろしいのは――奴はこれほどの力を持ちながら、完全に自分を『制御』し、底を見せていないということ。
ニクセラは、ゆっくりと自身の覇気を霧散させた。
それに合わせるように、カイもまた気配を収めていく。
張り詰めていた大気の緊張が、綺麗に消え去った。
数秒の間、二人の間に沈黙が流れる。
やがて、カイがバツが悪そうに後頭部をポリポリと掻いた。
「――で?」
ニクセラが彼を射すように見つめる。
「今の挨拶で、十分かしら?」
「とりあえずは、な」
カイが短く頷く。
「……そう」
ニクセラは改めて彼を観察した。
疑問は尽きない。
この不可思議な塔。ユイ。クロエ。魔王の種。カイの分類不能な存在の在り方。そして、先ほど肌で感じた圧倒的な力。
彼女は、この異質な新世代の魔王が、一体どのような『未来』を描こうとしているのかを知りたくなったのだ。
カイは、彼女の表情からその思考を読み取ったようだった。
「――少し、未来の話をしないか?」
「未来の話、ねえ?」
「ああ」
カイの表情が、少しだけ真剣なものへと変わる。
「この世界の情勢が、これからどう動いていくのかを知っておきたいんだ」
ニクセラは何も言わず、先を促す。
カイは言葉を続けた。
「言っておくが、俺は世界征服なんて大それたことには興味がない」
「それは重 international(結構なことね)」
「戦争を始めるつもりもない」
「それも重畳よ」
「軍隊を組織して、どこかに攻め込むつもりも一切ない」
ニクセラは、チラリと視線をクロエに向けた。それからユイへ。
最後に、再びカイへと視線を戻す。
「……それを証明するための布陣としては、ずいぶんと『個性的』な顔ぶれだけど?」
カイは思わず苦笑した。
「違いないな」
彼は一呼吸置き、核心を突く質問を投げかけた。
「――そこでだ、もう一つ聞きたいことがある」
「何かしら?」
「俺が、他の『魔王たち』の列柱に加わることは可能なのか?」
ニクセラは、一瞬の躊躇もなく即答した。
「加わること自体は、何の問題もないわ」
カイが目をパチくりとさせる。
「へえ、本当か?」
「問題なのは、別の部分よ」
ニクセラの表情が、一気に険しさを帯びる。
「お前は、自分が最初から魔王だったと言ったわね?」
カイが頷く。
「けれど、私たちは最近になるまで、お前という存在を一切感知していなかった」
彼女はカイの目を真っ直ぐに見据えた。
「――一体どうやって、その力を手に入れたの?」
カイは沈黙した。
そして、フッと肩をすくめてみせる。
「それに関しては……俺にも答えられない質問だな」
ニクセラが片方の眉を上げた。
「お前自身にも、分からないと?」
「ああ、さっぱりだ」
カイは不敵に笑い、ニクセラの方へと大雑把に指を向けた。
「で――どうなんだ? 可能なのか?」
ニクセラはしばし彼を凝視し、それから簡潔に告げた。
「ええ、可能よ」
それを聞き、カイの顔に満足げな笑みが浮かぶ。
「そいつは良かった」
ニクセラは彼に背を向けた。
「……また会いましょう、カイ」
「ああ、おそらく近いうちに、な」
次の瞬間、ニクセラの姿がその場から掻き消えた。
光のフラッシュもない。空間の歪み(ポータル)もない。詠唱すらもない。
ただ、最初からそこに誰もいなかったかのように、文字通り「存在が消滅」したのだ。
カイは、彼女がいた空間を呆然と見つめた。
「……本当に、あっさり帰っちゃったな」
クロエが深く頷く。
「そのようですね」
カイはユイを振り返った。
「ずいぶん早かったな」
ユイは微かに口元を緩める。
「あら。もっとドラマチックなお別れの挨拶でも期待していたの?」
「いや、まさか」
カイは一瞬だけ間を置き、ぼそりと付け足した。
「……ほんの少しだけな」
その言葉に、クロエは呆れたように首を横に振るのだった。
◆◆◆
一方その頃。
遥か遠方の自室へと、ニクセラは何の苦作もなく帰還していた。
部屋では、彼女の懐刀であるブラックがすでに直立して待機している。
ニクセラが姿を現した瞬間、ブラックが深く頭を垂れた。
「お帰りなさいませ、ニクセラ様。首尾はいかがでしたか?」
ニクセラはブラックを見つめた。
一瞬、何も言わずに沈黙する。
だが、その妖艶な唇に、じわりと深い笑みが広がっていった。
「――そうね」
彼女は、あの奇妙な塔、底の知れないユイ、カイの傍らで楽しげに笑っていた古代の吸血鬼、そして、あの男が放った異次元の覇気を思い返す。
ニクセラの笑みが、さらに深くなった。
「――あいつは、本当に退屈させない男よ」
ブラックは驚いたように目を瞬かせ、主の顔を見つめた。
しかし、ニクセラはそれ以上何も語らず、楽しげに彼女の脇を通り過ぎていくのだった。
これほどまでに、これから起こる未来に胸を躍らせたのは、一体いつ以来のことであろうか。
そして遥か遠く離れた地で――。
リンはまだ、自分が探し求めている人物が、その男であるという事実を知らない。
世界は、確実に、そして爆発的に動き始めていた。
――それが、これからどれほど凄まじい大トラブルを引き起こすことになるのか。
当のカイ自身は、未だに知る由もなかった。




