↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
終わりの前の始まり(真の現実)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

84/89

第83話:動き出す世界

アステリア王国に、静かな朝が訪れた。


王宮はすでに目覚めている。


廊下を行き交う使用人たち、交代する衛兵、そしてオフィスへと急ぐ官僚たち。


そんな喧騒を余所に、王宮のさらに地下深く――。


そこに、一睡もしていない男の姿があった。


男の名は、セブン。


机の上には、いまだに王立アーカイブの資料が散乱している。

本、報告書、古代の記録、そして地図。


コリ・ヴァネッサに関するすべての情報が、この一箇所に集められていた。


セブンは椅子の背もたれに頭を預け、疲弊しきった瞳を晒している。

その視線が捉えていたのは、たった一枚の紙切れだった。


そこに記された名は――『カイ』。


その名の下には、驚くほど何も書かれていなかった。


家族構成。

出生地。

所属国家。

既知の血統。

過去の経歴。


何もない。

本当に、文字通り「皆無」なのだ。


セブンは深く眉をひそめた。


「――納得がいかないな」


彼の正面に立っていたアーヴェンが、怪訝そうに口を開く。


「何がだ?」


セブンはトントン、と紙の上を指先で叩いた。


「こいつさ」


「……カイ、のことか?」


「ああ」


アーヴェンが歩み寄る。

セブンは山積みの記録を指し示した。


「俺たちは王立アーカイブを徹底的に洗った」


「そうだな」


「冒険者の記録もだ」


「ああ、見たな」


「商人の記録も」


「……ああ」


「軍の記録だってそうだ」


「間違いない」


「周辺諸国の記録までな」


「……ああ、そうだ」


セブンはどさりと背もたれに体重を預けた。


「――何も、ないんだよ」


アーヴェンがその紙を凝視する。


「何もない……つまり、カイに関する記録が一切存在しない、ということか?」


「その通りだ」


アーヴェンはしばし黙考した。


「あるいは……身を隠している、という可能性は?」


セブンは首を横に振った。


「可能性としてはある」


彼は別の書類を手に取る。


「だがな、身を隠す人間であっても、必ず『痕跡』は残るものだ」


バサリ、と書類を置く。


「渡航記録、取引の履歴、噂話、目撃証言、あるいは偽名……」


さらに別の書類を重ねる。


「何かしらが、な」


アーヴェンは腕を組んだ。


「そのカイという男には、それすらもないと?」


「4年前より前の記録は、一切ない」


その言葉に、アーヴェンの表情が強張った。


「4年前、か……」


セブンは深く頷く。


「あの『塔』が出現したのが、ちょうど4年前だ」


「そして……『太陽の涙』の封印が解けたのも、同時期だったな」


「そうだ」


アーヴェンが真っ直ぐにセブンを見た。


「お前は……それらが繋がっていると考えているのか?」


「調査する価値はあると思っている。あまりにも『偶然』が重なりすぎているからな」


セブンは視線を巨大な書架へと向けた。


アーヴェンは、ふう、と深くため息をつく。


「なら、調べるしかないだろう」


セブンは苦笑を漏らした。


「……まるで王様みたいな言い方をするな、お前は」


「長く仕えすぎたからな、あの方に」


「それはご嘘傷様、だな」


セブンは疲れた笑みを浮かべたのだった。


いつもに増して、玉座の間は静まり返っていた。


玉座に鎮座する国王アルドレン。

その前に直立するセブン、そして傍らに控えるアーヴェン。


数人の高官も同席してはいたが、王の意向により、この会合は極めて少人数に限定されていた。


アルドレンは手元の報告書に視線を落とす。


「――何も出なかった、か」


セブンは短く頷いた。


「ええ、役に立つものは何一つ」


「説明せよ」


セブンが一歩、前へと踏み出せる。


「例の『カイ』ですがね。あの塔が出現する以前の経歴が、文字通り一切不明なのです」


アルドレンの眉間に深い皺が刻まれた。


「アステリアの国外で暮らしていた可能性は?」


「あります」


「他国から流れてきた、という線は?」


「それもありますね」


「身元を偽っているだけ、という見方はどうだ?」


「無論、否定できません」


アルドレンは薄く目を細めた。


「――だが?」


セブンは、一瞬だけ言葉を濁す。


「問題は……その『無』があまりにも完璧すぎる、ということです」


王が上体を前へと傾けた。


「どういう意味だ」


「どれほど完璧に身元を隠そうとしても、普通は何かしらの『痕跡』が残るものです」


セブンは数枚の書類を机に並べた。


「しかし、カイにはそれがない」


アルドレンがその書類を凝視する。


セブンはさらに言葉を重ねた。


「彼の名が記録に登場するのは、あの塔が出現した『後』からだけなのです」


「……あの塔、か」


「ええ」


アルドレンの視線がアーヴェンへと向けられる。


「では、ユイという女の方はどうだ?」


セブンは首を横に振った。


「そっちは、さらに輪をかけて何もありませんよ」


アルドレンは、ふう、と重いため息を吐き出す。


「素晴らしいな」


「――それともう一つ、報告が」


セブンが不敵に笑う。


「何だ?」


「俺たちは未だに、あのカイという男の『正体』を掴めていません」


アルドレンの表情が、一気に険しさを帯びた。


「……奴は自らを『魔王』と名乗ったはずだが?」


「ええ」


「ならば、それが奴の――」


「魔王というのは『称号(タイトル)』ですよ」


セブンは王の目を真っ直ぐに見据えた。


「――必ずしも、それが『種族』を指しているとは限らない」


王が沈黙する。

アーヴェンが、ゆっくりとセブンに視線を向けた。


「お前は……奴が別の『何か』だと考えているのか?」


「俺たちが何も『知らない』、ということです。そして俺は、知らないという状態が酷く嫌いな性質(タチ)でしてね」


セブンは手際よく書類をまとめた。


アルドレンは背もたれに体重を預ける。

一瞬、塔へ直接調査員を送り込むべきかと考えが過った。


だが、思い出すのはあの玉座の間でのカイの佇まいだ。

あの絶対的な冷徹。沈黙。

そして、ユイという少女が口を開いた瞬間に、それらが霧散した奇妙な光景。


「――いや、却下だ」


セブンが意外そうに目を見開いた。


「陛下?」


「あの塔には、絶対に誰も近付かせるな」


「では、我々はどう動くべきで?」


「監視だ」


セブンが納得したように頷く。


「カイの観察、ですか」


「そうだ」


「その動向を」


「うむ」


「関わる者たちを」


「ああ」


「その活動のすべてを、ですね」


そこでセブンは言葉を区切った。


「――もし、何かを掴んだ場合は?」


アルドレンは窓の外へと視線を向けた。


「その時になってから、どう処理するかを決めればいい」


王は鋭い視線を戻す。


「それまでは……絶対に奴を刺激するな」


「御意。承知いたしました」


王はアーヴェンに視線を移した。


「それから、コリ・ヴァネッサに関する報告書の閲覧制限はそのまま維持せよ」


アーヴェンが深く頭(こうべ)を垂れる。


「ははっ、畏まりました、陛下」


アルドレンは深く椅子に身を沈めた。

彼には、どうしても解けない疑問が一つだけ残されていた。


なぜカイは、あの古代の吸血鬼に『新しい名前』を与えたのか?

そしてなぜ、彼女はそれを容易に受け入れたのか――。


   ◆◆◆


王宮から遥か遠く離れた地でも、また新しい朝が始まろうとしていた。


リンとソラの二人は、街道沿いにある小さな宿屋で一夜を明かしていた。

お世辞にも立派とは言えない宿だ。

建物は古く、部屋は狭く、食事の味も平均点以下。


だが、何より安かった。

そして、二人ともそれに文句を言うつもりはなかった。……まあ、概ね(おおむね)は。


腰に愛刀を帯びたリンが、宿の外へとステップを踏むように出てくる。

その後ろを、杖を手にしたソラが追いかけた。


リンが大きく背伸びをする。


「ふぁあ……」


ソラがその様子を覗き込んだ。


「眠いの?」


「ん、ちょっとね」


「昨日の夜、ずっと起きて地図を読んでたのは誰だっけ?」


リンは心外だと言わんばかりに膨れてみせる。


「読んでたんじゃないよ。勉強してたの!」


「上下逆さまに持って?」


「……あれは一回きりだよ!」


「昨日ね」


「昨日ね、一回きり」


ソラがくすくすと笑う。

リンは不満げに腕を組んだ。


「――ま、とにかく! 今日こそはちゃんとしたクエストを受けるんだから」


ソラも同意するように頷く。


「ようやく、ね」


二人は足早に冒険者ギルドへと向かった。

以前に訪れた場所よりも、遥かに規模が大きい。


出入口を多くの人々が行き交っている。

大剣を背負う者、重厚な鎧に身を包む者、そして、たった今死線から潜り抜けてきたような凄みを放つ者。


リンは目を輝かせながら周囲を見回した。


「前のギルドよりずっと大きいね!」


「王都に近いから、当然といえば当然かもね」


二人は掲示板の前へと歩み寄る。

そこには無数の依頼書がピンで留められていた。


リンが上から順に読み上げていく。


「薬草の採取」


「却下」


「商人の護衛」


「パス」


「農場に現れたスライムの駆除」


そこでリンの目が止まった。


「これ、ちょっと可愛くない?」


ソラがジト目を向ける。


「可愛い見た目でも、立派な魔物討伐クエストだよ?」


「……そうだね」


リンはさらに視線を走らせる。

そして、ある一枚の依頼書の前でピタリと動きを止めた。


「――これだ!」


ソラが隣からのぞき込む。

依頼内容は極めてシンプルだった。


『調査依頼:行方不明の商人船団』


特定の街道沿いで、複数の物資輸送隊が消息を絶っているという。

ギルド側は魔物の関与を疑っていた。


報酬:中程度。

難易度:Cランク。


リンがソラに視線を送る。


「どう思う?」


ソラはもう一度、依頼書の文面を精査した。


「……危険かもしれない」


それを聞いたリンが、不敵に笑う。


「じゃあ、決まりだね?」


ソラはふう、と諦めたようにため息を吐いた。


「そう言うと思ったよ」


リンが勢いよく依頼書を剥ぎ取る。


「よし、行こう!」


「待って」


リンが足を止めた。


「何?」


ソラが彼女の手元を指差す。


「まずは受付で、ちゃんと依頼を受理してもらわないと」


リンは手元の紙を見つめた。


「あ」


ソラは呆れたように首を横に振る。


「本当に、こういうの苦手だよね……」


「これでも学んでる最中なの!」


「……スローペースで、ね」


「ちょっと!」


ソラはクスリと笑みをこぼした。


「ほら、行くよ」


   ◆◆◆


それから数時間後。

二人は問題の街道へと足を踏み入れていた。


周囲は静まり返っている。

あまりにも、静かすぎた。


リンがいつでも刀を抜ける位置に手を置き、先頭を歩く。

ソラがそのすぐ後ろをぴたりと追う。


「本当に、魔物がキャラバンを襲ったのかな?」


「どうだろうね」


リンが地面に視線を落とす。


「……魔物の足跡があまり見当たらないんだよね」


ソラが眉をひそめた。


「それは……確かにおかしいね」


さらに数分ほど進んだ時、リンが不意にしゃがみ込み、土に触れた。


「――足跡だ」


ソラが近寄る。


「魔物の?」


リンは首を横に振った。


「ううん」


彼女はその形状をじっと見つめる。


「――人間の足跡、だよ」


ソラの色が変わった。


「じゃあ、どうしてギルドは魔物の仕業だなんて思ったの?」


「……これだけのことをした奴らが、そう思わせたかったのかもね」


ソラが息を呑む。

リンはすっと立ち上がった。


「――進もう」


足跡を辿り、森の奥深くへと進む二人。

やがて、彼女たちの前に乗り捨てられた一台の馬車が現れた。


車輪の一つが完全に大破している。

積まれていたはずの物資は、綺麗に持ち去られていた。


だが――血痕がない。

死体もない。

魔物が荒らし回ったような痕跡すら、どこにも存在しなかった。


ソラが馬車を調べる。


「本当に、根こそぎ持っていかれてる」


リンが周囲の木々に視線を走らせた。


「それに、誰も抵抗した形跡がないんだよね」


「それって、つまり……?」


「不意を突かれたか」


リンが刀の柄に手をかける。


「あるいは……最初から戦うつもりがなかったか、だね」


その時。

二人の背後から、低く濁った声が響いた。


「――見た目よりは知恵が回るじゃねえか」


リンがゆっくりと振り返る。

木々の陰から、武器を手にした複数の男たちが姿を現した。


ソラが深くため息をつく。


「……山賊、ね」


男たちの一人が下品に笑った。


「武器を置いて大人しく従うなら、命だけは助けてやるぜ?」


リンがソラを見る。

ソラがリンを見る。


そして、リンは極上の笑みを浮かべた。


「――断る」


山賊の笑みが、一瞬で消え失せた。


「……あ?」


「断る、って言ったんだよ」


男が忌々しげに剣を抜いた。


「なら、力ずくで奪い取るまでだ!」


咆哮とともに、男が突進してくる。


   ◆◆◆


――キィィィン!


リンが抜刀した。

激しい金属音が森に響き渡る。


鋼と鋼がぶつかり合い、リンはその勢いのまま男を力強く押し返した。

すかさず、別の山賊が死角から斬りかかる。


ソラが瞬時に杖を掲げた。


「――『聖光の障壁(セレスティアル・バリア)』!」


まばゆい光の壁が出現する。

男の剣は光の壁に弾かれ、大きく軌度を乱された。


ソラが不敵に微笑む。


「かかった」


リンがチラリと視線を送った。


「ナイス、ソラ!」


「余所見しないで、集中!」


「了解!」


さらに三人の山賊が同時に突撃してくる。


リンが一歩踏み出す。

その身体に魔力が巡り、彼女の動きが爆発的に加速した。


一太刀目を紙一重でかわし、流れるように反転。

その鋭い一撃が、襲撃者の武器を遥か彼方へと弾き飛ばす。


別の男が背後からリンを組み伏せようと飛びかかった。

だが、その足元にソラの魔力が絡みつく。


「――『聖光の縛鎖(セレスティアル・バインド)』!」


「ぶふっ!?」


男は派手に顔面から地面へと突っ込んでいった。


リンが苦笑混じりにソラを見る。


「その魔法、本当に気に入ってるよね」


「実用的だからね!」


「違いない」


だが、その瞬間。

人一倍巨体な山賊が、無防備なソラを目がけて突進した。


リンの身体が即座に反応する。

二人の間に割り込み、正面からその大振りの一撃を刀で受け止めた。


――ズズズッ!


凄まじい衝撃。

リンの身体が、数メートルほど力ずくで後退させられる。


ソラが目を見開いた。


「リン!」


リンはすぐさま足を踏ん張り、体勢を立て直す。


「――平気、問題ない!」


山賊は再び凶器を振り上げた。

だが、その瞬間、リンの瞳が鋭く据わる。


彼女の持つ刀へと、爆発的な魔力が奔流となって流れ込んだ。


「――はああッ!」


一閃。

凄まじい衝撃波を伴った一撃が山賊を直撃し、その巨体を背後の大木へと叩きつけた。


激しい破壊音の後、森に静寂が戻る。


残された山賊たちは、完全に戦意を喪失していた。

カタカタと震えながら武器を地面に落とし、一人が両手を上げる。


「降参だ! 悪かった、降参する!」


リンは静かに刀を収めた。


「……賢い選択だね」


ソラが周囲を見回す。


「思ったより、あっけなかったね」


「うん。私たち、少しずつ強くなってるのかも」


ソラが嬉しそうに微笑んだ。


「間違いないね」


   ◆◆◆


その後、捕らえた山賊たちを厳しく問い詰めたところ、あっさりと全てを白状した。

消息を絶っていたキャラバンは破壊されたわけではなく、森の奥深くにある古い隠れ家に物資ごと監禁されていたのだ。

山賊たちはそこから少しずつ物資を盗み出し、別の集落で売り捌いていたらしい。


リンとソラは、囚われていた商人たちを無事に救出した。

山賊たちの身柄は、後に駆けつけたギルドの討伐隊へと引き渡されることになる。


今回の依頼で得られた報酬は、あの安い宿屋にあと数泊してもお釣りが来るほどの額だった。


リンは大満足。

ソラは、へとへとだった。


商人たちの救出報告を終えた二人は、今、街道沿いの川辺に腰を下ろしていた。

リンはブーツを脱ぎ捨て、白い足を冷たい川水へと浸す。


「ふあぁ……気持ちいい!」


ソラがその隣にどさりと座り込んだ。


「あの狭い部屋で寝るより、ずっとマシだね……」


リンが楽しそうに笑う。


「あはは! ベッドに文句言ってたの、ソラだしね」


「だって本当に酷かったんだよ?」


「そんなに悪くなかったよ?」


「リンはフレームがへし折れてる側に寝てなかったからそう言えるんだよ……」


「……それは、そうだね」


クスクスと笑い合う二人の間に、心地のよい沈黙が流れる。

川は穏やかに流れ、昼下がりの木漏れ日をその水面に反射させていた。


ソラが、じっとリンの横顔を見つめる。


「ねえ、リン」


「ん?」


「これから先、どうなるのかなって……考えることある?」


リンは水面を見つめたまま答えた。


「毎日、考えてるよ」


「私たちは、どこへ行くんだろうね」


「うん」


「何を見るんだろう」


「そうだね」


ソラは少しだけ言葉を詰まらせ、それから静かに紡いだ。


「――そして、誰に出会うんだろうね」


リンが振り返り、満面の笑みを浮かべる。


「面白い人たちに会えるといいね!」


「……そうだね」


ソラは少し照れくさそうに視線を外した。

その微かな変化に気づき、リンが首を傾げる。


「ソラ、どうかした?」


「ううん、何でもない」


ソラはもう一度、今度は愛おしそうな笑顔を向けた。


「ただ……今、ここにいられて良かったなって」


「私と?」


「他に誰がいるのさ」


「……そっか」


リンの頬が、ほんのりと朱に染まる。


ソラはそっと、リンの肩に頭を預けた。

リンの身体が一瞬だけ硬直する。だが、すぐに緊張を解き、その重みを受け入れた。


二人はそれ以上、何も言わなかった。

川はただ静かに流れていく。


今この瞬間だけは、クエストも、魔物も、奇妙な謎も存在しない。

世界には、ただ二人だけの時間が流れていた。


――だが。

リンの視線が、突如として森の奥へと向けられた。

その表情が一変する。


その変化に、ソラもすぐに気づいた。


「リン……? どうしたの?」


リンはすぐには答えなかった。


(――この感覚。また、だ)


間違いない。あの『太陽の涙』の時に感じた、あの奇妙な気配。

極めて希薄で、意識を集中しなければ見失ってしまいそうなほど微かなもの。

だが、確実に、そこに『何か』がいる。


リンが弾かれたように立ち上がった。

ソラが見上げる。


「リン!?」


「……また、感じたの」


「あの時の、気配を……?」


リンは鋭い視線を木々の奥へと向けたまま、深く頷いた。


「すぐ近くにいた」


ソラも隣に立ち上がる。


「どこか、分かりそう?」


「ううん……」


リンはそっと目を閉じ、五感を研ぎ澄ませて探ろうとする。

――しかし、何も引っかからない。気配は完全に霧散していた。


リンが目を開ける。


「……消えちゃった」


ソラが複雑そうな表情で森の奥を見つめた。


「リンが探している、その『人』なのかな……」


リンは沈黙した。


「分からない」


彼女は自身の小さな手のひらを見つめる。


「でもね……少しずつ、近づいている気がするんだ」


その言葉に、ソラは優しく微笑んだ。


「なら、これからも探し続けよう」


リンがソラを見る。


「――一緒に?」


ソラは真っ直ぐに彼女の目を見据え、力強く頷いた。


「うん、一緒に行こう」


リンの顔に、いつもの明るい笑顔が戻る。


「了解!」


   ◆◆◆


一方その頃。ユイの『塔』の中では、カイが長いテーブルの前に座っていた。

その上には、無数の地図が所狭しと広げられている。


人間の王国、主要都市、交易ルート、冒険者ギルドの拠点。

さらには、魔王たちの領地まで――。


カイは不機嫌そうに地図を睨みつけた。


「……国が多すぎる」


その後ろに控えていたユイが、クスリと笑う。


「ええ、たくさんありますよ」


「具体的にいくつあるんだ?」


「……たくさん、です」


カイは不満げに眉をひそめた。


「それは数字じゃないだろう」


「数字で答えるつもりはありませんでしたから」


その時、部屋の扉が開き、クロエがお茶のトレイを手に歩いてきた。


「カイ様」


カイが視線を向ける。


「ん?」


「もう一時間もその地図を睨みつけていらっしゃいますよ」


「これでも勉強している最中だ」


クロエは呆れたように笑いながら、テーブルにお茶を置いた。


「一体、何を学んでいらっしゃるのですか?」


「……この世界が、いかに面倒くさい仕組みで回っているか、だ」


その答えに、ユイが楽しそうに目を細める。


「それで?」


カイは大きくため息をついた。


「――実に鬱陶しい(うっとうしい)」


クロエが思わず吹き出した。カイが怪訝そうな目を向ける。


「何がおかしい」


「いえ……かつて世界を滅ぼしかねない存在と何年も戦ってきたカイ様が、たった一枚の地図に頭を悩ませているのが、少し可笑しくて」


カイはお茶に手を伸ばし、ぼそりと言い放った。


「――地図は危険だ。戦うよりも頭を使う」


ユイは優しく首を横に振った。


「いいえ、あなた。危険なのは『地理』の方ですよ」


カイは彼女をじっと見つめた。


「同じようなものだろう」


「全然違います」


カイは彼女の言葉を無視し、地図上のある一点を指先で叩いた。


「そんなことより、だ」


ユイがその手元をのぞき込む。


「何かしら?」


「ニクセラは今、どこにいる?」


ユイの顔に、面白がるような笑みが浮かんだ。


「あなたがわざわざ『魔王進化の種』で釣り上げた、あの彼女のことかしら?」


「ああ」


「彼女なら、あなたのことを調べているわよ」


カイは椅子の背もたれに体を預けた。


「知っている」


「あら、気づいていたの?」


「当然だろう」


そのやり取りを見て、クロエがクスリと微笑む。


「では、なぜ彼女を放っておくのですか? こちらから出向かない理由は?」


カイはクロエを真顔で見つめ返した。


「面倒だからだ」


ユイがパタン、と手元の一冊の本を閉じた。


「……それが本心ではないのでしょう?」


カイは、はぁ、と大きいため息を吐き出した。


「分かったよ」


彼は窓の外の景色へと視線を移す。


「――俺は、あいつに選ばせたいんだ」


その言葉に、ユイの表情がふっと和らいだ。


カイは言葉を続ける。


「俺からあいつを捜しに行けば、あいつは警戒し、その理由を疑うだろう」


彼は視線を二人に戻した。


「だが、あいつが自らの意志でこの場所へやってくるというのなら――」


クロエがその意図を察し、ポンと手を叩いた。


「――その時は、彼女が本当にカイ様に会いたがっている、ということですね」


カイは深く頷いた。


「その通りだ」


ユイが愛おしそうに微笑む。


「意外と、思慮深いのね」


「俺だって、たまには知的な一面くらい見せるさ」


「……たまには、ね?」


「おい」


そのやり取りに、クロエが楽しそうに声を上げて笑った。


カイは再び地図へと視線を落とす。


「あいつは必ず来るさ」


ユイが首を傾げた。


「自信があるの?」


カイは不敵に笑う。


「好奇心の強い奴というのは、そういうものだろう?」


   ◆◆◆


遥か遠く、血のように赤い空の下。

古びた要塞のバルコニーに、一人の女が佇んでいた。


長い漆黒の髪が、夜風に優しく揺れている。

その瞳は、手元にある一枚の報告書へと注がれていた。


――『カイ』。


突如として現れた、もっとも新しい魔王。

4年前に出現した謎の『塔』。

それを創造したとされる『ユイ』という名の女。

そして、彼の傍らに現れた吸血鬼の『クロエ』。


さらに――既存のいかなる概念にも分類できない、正体不明の『気配』。


ニクセラはその最終報告書をもう一度読み返し、静かに閉じた。


彼女はこれまでの長い生涯の中で、数え切れないほどの存在と出会ってきた。


悪魔。

竜。

人間。

精霊。

魔物。

あるいは、神と呼ばれる存在まで。


彼女は強大なる力の「本質」を知っている。

魔力の「匂い」を理解している。

魔気の「質」を見分けることができる。

竜の「血」を識別できる。

精神エネルギーと、物質的なマナの違いを明確に区別できる。


――だが、カイという男だけは、そのどれにも該当しなかった。


彼の気配は奇妙だった。

決して、弱いという意味ではない。その逆だ。


まるで、本来ならば決して交わるはずのない『不適合な複数の存在の在り方』が、強引に一つへと織り合わされているかのような――。

しかし、そのどれもが、彼の正体を完全に説明するには至らない。


ニクセラの唇が、妖艶な弧を描いた。


「――ねえ、あなたの一体何者なのかしら?」


当然、夜風が答えることはない。


彼女は遥か彼方の地平線を見つめた。

あの『塔』は、その世界の果てのどこかにある。


これまでは、自ら足を踏み入れることを意図的に避けてきた場所だ。


――だが、それも今日まで。


彼女はバルコニーに背を向けた。


「調べるのは、もう終わりにしましょう」


控えていた配下たちが、一斉に彼女へと視線を向ける。


ニクセラは満面の笑みを浮かべた。


「――私、彼に会いに行くわ」


一人の側近が、恐る恐る口を開く。


「……我が君、それは賢明な判断とは言えぬのでは?」


ニクセラはフッと低く笑った。


「ええ、きっとそうね」


彼女は迷いのない足取りで扉へと歩き出す。


「でもね、私は昔から『安全な選択肢』を選ぶのが、酷く苦手なのよ」


重厚な扉が、彼女の後ろで静かに閉まった。


カイが出現して以来、初めてニクセラという巨大な駒が彼に向けて動き出した。

そして、カイもまた、それを静かに待ち構えている。


世界は、確実に動き始めていた。

たった一枚の、ピースが嵌まるように――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。