第82話: 新たな始まりの名
塔の空気は、劇的に変化していた。
エントランスに足を踏み入れた瞬間、カイはそれを肌で感じ取ったのだった。
それは、四年前にユイが創造した、あの常識破りの超巨大建造物そのものであることに変わりはない。
全百階層。広大な森林、険しい山脈、滔々と流れる河川、神秘的な湖、果てしない砂漠。
さらには大都市、大図書館、訓練場、研究施設、そして広大な居住区に至るまでが内包されている。
だが――もはや、かつてのような『空虚』な気配はどこにもなかった。
今や、至る所に『人』の気配が溢れている。
メイン通路を歩けば、背中に得物を背負った冒険者たちとすれ違う。
研究者たちは本や魔導計器を抱えて実験室の間を忙しそうに行き来し、商人たちはすでに下層の商業区に小さな露店を構え始めていた。
子供たちが賑やかに路地を駆け抜け、その後ろを親たちが慌てて追いかけていく。
そしてその中には、カイが直々に滞在を許可した、あの避難民の家族たちの姿もあった。
この塔は、単なる組織の拠点という枠組みを緩やかに踏み越えつつあった。
文字通り、人々の『我が家』へと変わり始めていたのだ。
◇◇◇
カイは、第一階層の街並みを一望できる巨大な窓の近くに立っていた。
広場で子供たちが互いに追いかけっこをしている様子を、静かに見つめる。
一人の子供がつまずいて転ぶと、すぐにもう一人が足を止め、手を差し伸べて助け起こした。
その光景を見て、カイの口元に微かな笑みが浮かぶ。
「――ふん。どうやら、みんなすっかり馴染んでいるみたいだな」
隣に直立するクロエが、嬉しそうに同意した。
「本当にその通りですね、カイ様」
すると、二人の背後の空間からサラリとユイが姿を現した。
「あなたが、ここに残ることをお許しになったのですから、当然の結果ですよ」
カイは肩越しに彼女を振り返る。
「まぁ、そうだけどさ」
ユイは満足そうに微笑む。
「それに、この塔はたった一人で暮らすには広すぎる、と仰ったのはあなたです」
「いや、実際この塔は百階層もあるんだぞ? 今更数千人増えたところで、痛くも痒くもないだろ」
カイが呆れたように言うと、クロエは口元を小さな手で覆ってクスクスと笑った。
「ふふ、確かにそれは一理ありますね」
カイは無頓着に肩をすくめてみせた。
「それにさ、こっちの方が断然いいだろ」
彼の視線が、再び眼下に広がる活気ある街並みへと戻る。
「俺が最初にここへ来た時なんてさ、俺とお前ら二人、それから異常なほど広大な空きスペースしかなかったんだからな」
ユイが首を僅かに傾げた。
「それが、今は?」
カイの視線の先では、ある家族が居住建物に向かって、大事そうに荷物箱を運んでいるところだった。
「――今は、ちゃんと世界が『生きている』感じがする」
◇◇◇
しばらくの間、三人は無言のままその平和な景色を眺めていた。
だが、その静寂を打ち破るように、眼下の通りから何やら大声が響き渡った。
「おい! そっちは俺の荷物箱だぞ!」
すぐさま、別の野太い声が言い返す。
「あんたが間違った区画に置きっぱなしにしてるのが悪いんだろ!」
「間違ってねえよ、ボケ!」
その怒鳴り合いを聞き、カイはゆっくりと目を閉じた。
「……前言撤回だ。やっぱり喧しいな」
クロエが堪えきれずに小さく吹き出す。
ユイは悪戯っぽく微笑んでみせた。
「ふふ、文明社会へようこそ、我が愛しき主」
カイは盛大にため息をついた。
「はぁ……。俺は一体、何を作っちまったんだか」
「あなたが作ったのではありませんよ」
「それもそうだな」
カイはユイへと視線を向ける。
「それを作ったのは、お前だもんな」
ユイは胸を張り、誇らしげに微笑んだ。
「ええ、その通りです!」
◇◇◇
カイがさらに軽口を叩こうとしたその時、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
現れたのは、『アステリア王国』の伝令兵だった。
彼はカイの数メートル手前でピタリと足を止め、恭しく一礼を捧げる。
「――魔王カイ様!」
その呼びかけに、カイは即座に大げさに眉をひそめてみせた。
「カイ、でいい(ただのカイだ)」
伝令兵は一瞬だけ困惑したように息を呑み、吃りながら修正する。
「は、はい……。カ、カイ殿」
「うん、そっちの方が断然聞き心地が良いな」
カイが満足そうに頷くと、伝令兵は付き従っていたクロエへと、厳重に封印された一通の書状を手渡した。
「我が主、アルドレン国王陛下からの正式な御招待状でございます」
それを見たカイが、露骨に嫌そうな顔をする。
「……またかよ?」
クロエがジト目を彼に向ける。
「あれだけの騒動を起こしておいて、陛下から連絡が来ないとでも思っていたのですか?」
「いや、あの書類仕事大好きな国王様が、いい加減事務処理に疲れて諦めてくれるのを期待してたんだけどな」
ユイが呆れたように腕を組んだ。
「その膨大な書類仕事を発生させた張本人は、他ならぬマスター、あなたですよ」
カイは不敵に笑い、もっともらしい言い訳を並べ立てた。
「人聞きが悪いな。俺としては、アステリアの『行政能力の発展を促してあげた』と表現してほしいところだ」
クロエは、ため息混じりにじとーっとした目を彼に向けた。
「……カイ様」
「だから、カイでいいって」
「カイ」
窘めるような彼女の言葉に、カイは満足そうに微笑むのだった。
「うん、ありがと」
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(第二回 王国会談)
数日後、カイは再び『アステリア王国』の土を踏んでいた。
だが、今回ばかりは周囲の空気感が以前とは決定的に異なっていた。
彼の来訪に対して、戸惑いや疑念を抱く者はもう一人としていない。
突如として巨大な塔と共に現れた、正体不明の不審者――今や、そんな目で彼を見る者は皆無だった。
人々は、すでに理解しているのだ。
彼こそが、新たなる魔王。
あの王国の外にそびえ立つ、想像を絶する超巨大な塔の主――『魔王カイ』その人であると。
王室の豪華な馬車が、王宮の前へと滑り込むようにして停車した。
カイは、左右に付き従うユイとクロエと共に馬車から降り立つ。
すると、待ち構えていた王宮の兵士や使用人たちが、一斉に一糸乱れぬ最敬礼を捧げた。
カイは居心地悪そうに、後頭部をガリガリと掻く。
「……はぁ。やっぱり、この空気だけはいつまで経経っても慣れないな」
ユイがジト目を彼に向けた。
「死ぬわけじゃありませんし、我慢してください」
「おいおい、俺はかつて『竜種(True Dragon)』二頭を相手に立ち回った男だぞ?」
「ええ、知っていますよ」
「世界を滅ぼしかねない化物どもと命懸けで戦ってきたんだぞ?」
「はいはい、知っています」
「それなのに……なんで人間がお辞儀してくるだけで、こんなに寿命が縮むような思いをしなきゃいけないんだよ」
クロエがクスクスと楽しそうに微笑む。
「ふふ、そういう世俗に染まりきらないところが、実に対称的でカイ様らしいですよ」
「だから、カイでいいって」
「はいはい、カイ」
◇◇◇
三人は王宮の内部へと進み、かつてと同じ重厚な玉座の間へと足を踏み入れた。
そこでは、アステリアの若き君主・アルドレン国王がすでに待ち構えていた。
傍らには騎士団長アーヴェン、そして数人の重鎮たる高官たちがずらりと控えている。
アルドレン国王が、玉座から静かに立ち上がった。
「――よく来てくれた、カイ」
カイは無造作に片手を挙げて応じる。
「よぉ、お久しぶり」
アルドレンは苦笑を漏らし、首を振った。
「フッ、どうやら私も、そのあまりにも魔王らしからぬ気さくな挨拶に、すっかり馴染んでしまったようだな」
「そいつは重 travel なことだ」
カイが部屋の中央へと歩み寄ると、アルドレンは円卓の座席を静かに指し示した。
「早速だが、君をここに招いたのは、いくつか両者の間で白黒つけておきたい重大な案件があるからだ」
カイは促されるままに席へと腰掛ける。
「へぇ、何やら随分と深刻そうな話だな?」
「ああ、国を揺るがしかねない大問題だ」
カイは盛大にため息をついた。
「はぁ……。やっぱりな、そんなことだろうと思ったよ」
アルドレンは、厳重にまとめられた一冊の公文書を机の上に置いた。
「まず第一の議題は、あの『塔』の取り扱いについてだ」
カイがその書類に視線を落とす。
アルドレンは言葉を続けた。
「我がアステリア王国は、熟考を重ねた結果――あの塔に対する『領有権(支配権)』の主張を、全面的に完全撤回することとした」
カイはパチクリと驚いたように瞬きをした。
「……へぇ、マジで?」
「ああ、本気だ」
アルドレンはその公文書をカイの前へと押し出す。
「これが、我が国が作成した正式な『領有権放棄の宣言書』だ」
カイは確認を求めるようにユイへと視線向け、ユイは静かに肯定の頷きを返した。
カイは書類を手に取り、その文面を隅々まで注意深く精査していく。
【アステリア王国は、あの塔が占有する全領域を、王国から完全に独立した『不可侵の独立主権地域』として正式に承認する。
王国は、主の許可なく塔の内部に軍隊を駐留させることはせず、その内政に対しても一切の干渉を行わない。
その代わり、両者は互いを平和的な隣国(対等な勢力)として認め合うものとする――】
カイは紙を机へと戻し、小さく息を吐いた。
「なるほどな。思った以上に、まともで理にかなった内容だ」
アルドレンが重々しく頷く。
「私も、ようやく理解したのだよ」
「何をだ?」
「君のあの塔は――決して、我が国を脅かすための『軍事要塞』ではない、ということをな」
カイが片方の眉をピクリと跳ね上げる。
すると、アルドレンは慌てて苦笑交じりに言葉を訂正した。
「……コホン。少なくとも、君がその場所を軍事利用する意思を全く持ち合わせていない、ということは十分に理解できた、という意味だ」
カイはニヤリと不敵に笑う。
「うん、そっちの言い方の方が断然気に入ったわ」
◇◇◇
アルドレン国王の表情が、さらに真剣なものへと変わる。
「だが、領有権は放棄するものの、アステリアと君の領土との間で、公的な『正式同盟』を締結したいと考えている」
カイは椅子の背もたれに、ゆったりと身体を預けた。
「同盟、ねぇ?」
「ああ。交易の活性化、機密情報の共有、そして有事の際における相互扶助だ。もちろん、君の自由を縛るような強制的な義務は一切課さない」
カイはうーんと腕を組んで考えてみた。
彼には、どこかの王国を支配したいという野心など微塵もない。
領土を広げること自体にも、これっぽっちの興味もなかった。
彼の目的は、最初から極めてシンプルだった。
かつて失ってしまった大切な仲間たちを、再び捜し出すこと。
彼らが安心して暮らせる、絶対的な我が家を築くこと。
そして最終的には――あの『カイ・ゼロ』を、自らの手で完全に終わらせること。
アステリア王国との正式な同盟は、前者の二つの目的を達成する上で、大いに有益な盾となるだろう。
何より、三つ目の目的に対して足枷になる要素も見当たらなかった。
「――いいぞ。その同盟、乗ってやるわ」
アルドレンが満面の笑みを浮かべた。
「交渉成立、だな。賢明な判断に感謝する」
すかさず、騎士団長アーヴェンが一歩前へと進み出ると、これでもかとばかりに積み上げられた新たな書類の山を、ドサリと机の上に配置した。
カイはその山を一瞥し、顔を引きつらせる。
「……おいおい、今度は何だ?」
アーヴェンが真面目な顔で即答する。
「同盟締結に伴う、正式な契約書一式でございます」
カイは目の前にそびえ立つ、魔物の山よりも凶悪に見える書類の束を呆然と凝視した。
「多すぎるだろ……。なんだよこの量は」
すかさず、ユイが耳元で冷酷な事実を囁く。
「ふふ、これこそが『政治』というものですよ、マスター」
カイはがっくりと肩を落とし、ブツブツと呪詛のように呟いた。
「……ちくしょう。これなら、大人しく狂暴なドラゴンと殺し合いをしてる方が、何百倍もマシだったわ」
背後に控えるクロエが、それを聞いてクスクスと肩を揺らす。
「ふふ、カイなら本当にそう思いそうですね」
こうして、魔王カイとアステリア王国の歴史的な大同盟は、膨大な事務処理の悲鳴と共に、正式に締結されるのだった。
アルドレン国王がクスクスと可笑しそうに笑った。
「――実はな、もう一つだけ極めて重要な案件が残っているのだ」
カイが書類から顔を上げる。
「あ? 何だ、まだあるのか?」
「ああ。あの『塔』についてだ」
カイは露骨に深いため息をついた。
「はぁ……。今度は一体何だってんだよ?」
「名前だよ。あの場所には、世界に布告するための『正式な名前』が必要だ」
――その瞬間、玉座の間に完璧な沈寂が訪れた。
カイは国王をじっと見つめ、それからユイ、クロエへと順に視線を巡らせる。
「……いや、あの塔には最初から名前ならあるぞ?」
アルドレンが興味深そうに身を乗り出した。
「ほう? それは一体何という名だ?」
カイは、大真面目な顔で堂々と言い放った。
「――『塔』だ」
誰も、何も言わなかった。
ただただ、冷ややかな沈黙が場を支配する。
クロエが、憐れみの混じったジト目でゆっくりと彼を振り返った。
「……カイ様」
「だから、カイでいいって」
「それは、名前とは呼びません。ただの一般名詞です」
「分かりやすくて機能的だろ?」
ユイが恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
カイはそれを完全に無視し、がばりと席から立ち上がって脳内会議を始める。
「分かったよ! じゃあ、これならどうだ? ――『巨竜の塔』!」
クロエが即座に首を横に振る。
「却下です」
「じゃあ、『世界の塔』!」
「普通すぎます」
「『超・塔』!!」
「ダサいです」
「じゃ、じゃあ、『ウルトラ・タワー』!!!」
「論外です」
カイがビシッと彼女を指差した。
「おい! 今のはちょっと拒絶するスピードが早すぎやしないか!?」
「あまりにもネーミングセンスが絶望的だからですよ」
カイは悔しそうに腕を組み、うーんと唸る。
「チッ、ならこれならどうだ!」
彼はパチンと小気味よく指を鳴らした。
「――『無限のイケてる超絶大魔塔(タワー・オブ・インフィニット・アウサムネス)』!!!」
ユイが、死んだ魚のような目で彼を凝視した。
「……不許可です」
「じゃあ『カイの塔』!」
「絶対にダメです」
「『究極の塔』!」
「ありきたりです」
「……じゃあ、『塔の塔面』」
玉座の間が、今度こそ完全に凍りついた。
流石のカイも、自分が少々調に乗りすぎて滑ったことを察したらしい。
ユイがゆっくりと彼を見つめる。
「――マスター(我が愛しき主)」
「……はい?」
「お願いですから、もうその壊滅的な口を閉じてください」
カイは大人しく席へと座り直した。
「……はい、すいません」
クロエは必死に笑いを堪えて肩を震わせ、アルドレン国王にいたっては、王族としての威厳を保つために全力で下を向き、プルプルと震えていた。
◇◇◇
カイはぶすっとした表情で腕を組む。
「……名前をつけるのって、思った以上に重労働だな」
ユイがやれやれと呆れたようにため息をついた。
「それは、あなたが無理に『強そうに見える名前』ばかりを並べ立てるからですよ」
「え? 名前ってのは、そういうハッタリが一番大事なんじゃないのか?」
「違います」
ユイは窓の向こう、遥か彼方にそびえる自分たちの塔へと静かに視線を向けた。
「あの場所は、もう単なる建造物ではないのですから」
その言葉に、カイの尖っていた表情がふっと和らぐ。
ユイは言葉を続けた。
「あそこは、故郷を追われ、全てを失った人々が、もう一度やり直すための救いの地……」
彼女の視線は、下層で活気に満ち溢れているであろう街並みを捉えていた。
「異なる種族や、様々な人々が共に手を取り合って生きていく場所です」
「冒険者、か」
「ええ」
「研究者たちもな」
「はい」
「難民の家族たちも……」
「そして、何かを必死に捜し求めている人々も、ね」
カイは静かに、その言葉に耳を傾けていた。
ユイは慈愛に満ちた満面の笑みを浮かべる。
「ですから、名前を冠するのであれば――あの場所が『どのような存在になったか』を象徴する、相応しい言葉であるべきです」
カイは不思議そうに首を傾げた。
「へぇ。……お前の中で、何か良い案があるのか?」
ユイは真っ直ぐに、カイの瞳を見つめ返した。
「――『エリュシオン(Elysian)』」
カイはその響きを、口の中でそっと反芻してみる。
「エリュシオン、か」
「ええ。そこは、数々の苦難と試練を乗り越えた者だけが最後に辿り着く、祝福された平和な楽園。……そういった意味を持つ言葉です」
カイは静かに、窓の向こうの景色へと目を向けた。
そこでは今も、大勢の人々が行き交い、子供たちの無邪気な笑い声が響き、失われた人生の再建が始まっている。
脳裏をよぎるのは、かつて自分が失ってしまった大切な仲間たちの姿。
ニクセラ、エリス、エレイン……。
あの暗黒の監獄の中で、共に命を懸けて戦い抜いた、最愛の家族たち。
俺が今もなお、血眼になって捜し続けている、あの愛おしい面々――。
この名前なら、きっとあいつらにも届くはずだ。
カイは満足そうに、不敵な笑みを浮かべたのだった。
カイはユイを見つめた。
「エリュシオン、か――」
彼の口元に、自然と小さな笑みが浮かび上がる。
「気に入った。上出来だ」
クロエも満足そうに頷いた。
「私も、非常に素晴らしい名前だと思います」
カイはがばりと席から立ち上がった。
「よし、決まりだ!」
彼はアルドレン国王へと向き直り、不敵に言い放つ。
「あの塔の正式名称は――『エリュシオン(聖域の秩序)』とする!」
アルドレンはその響きを頭の中で吟味するように呟いた。
「エリュシオン、か……」
そして、深く得心のいった様子で頷く。
「フム、実に相応しい。格調高い名だ」
すかさず、騎士団長アーヴェンが手元の羊皮紙にその名をサラサラと書き留めていく。
それを見たカイが、思わず待ったをかけた。
「おい、ちょっと待て」
アーヴェンがペンを止める。
「……? 何か問題でもございましたでしょうか?」
「お前、それ本当に公文書に記録しちゃうわけ?」
「当然でございますが」
カイは盛大にため息をついた。
「はぁ……。人間の文明ってやつは、本当に何から何まで紙に残したがるんだな」
ユイがクスクスと可笑しそうに微笑む。
「ふふ、それこそが『記録(歴史)』を重んじる文明社会というものですよ、マスター」
カイは机の上の書類に視線を落とし、それから王宮の巨大な窓の向こうにそびえ立つ、あの我が家(塔)を見つめた。
四年の歳月を経て、あの場所にようやく本当の名前が刻まれたのだ。
ただの奇妙な建造物ではない。
『エリュシオン』――。
それは、カイが当初思い描いていたものよりも、遥かに偉大で、遥かに多くの人々を救う絶対の聖域へと、これから進化していくに違いなかった。
◇◇◇
一方その頃、アステリア王国から数日分の距離を隔てた地にて。
リンとソラは、鬱蒼とした森林を見下ろす小さな丘の上に立ち尽くしていた。
眼下に広がっているのは、一つの小さな集落――いや、その『無惨な残骸』だった。
いくつかの民家は完全に放棄され、建物の大半が無残に損壊している。
そして、泥濘んだ地面には、無数の不気味な足跡が深く刻み込まれていた。
リンはその場にしゃがみ込み、足跡の縁にそっと指先で触れる。
「……間違いないわね。これは『豚頭族』のものよ」
ソラが重々しく頷いた。
「ええ、確実にね」
リンは立ち上がり、衣服についた土を払う。
「これで、噂に聞いていた異変のあった集落は三つ目よ」
「そして、私たちが実際に足を踏み入れて調査した場所としては、二つ目ね」
リンは険しい表情で、集落の奥へと続く深い森を見つめた。
「……何かが、決定的におかしいわ」
ソラは自身の魔導杖のストラップを締め直しながら、同意の声を上げる。
「冒険者ギルドの話だと、最近のオークたちの動きは、これまでの生態とは明らかに違っているみたい」
「普通、オークが人間の集落を襲う目的って言ったら、食料、縄張り、あるいは武器の強奪……大体そんなところでしょう?」
「ええ。でも、ここの被害状況を見る限り――目的は別のところにあるわ」
リンの目が、鋭く細められた。
「あいつら、ただ暴れ回っているんじゃない。極めて統率の取れた動きをしているわ」
「組織的な軍隊、ってコト?」
「ええ、限りなくそれに近いわね」
ソラは損壊した民家を見つめながら、もう一つの重大な違和感を口にした。
「それに、もう一つ決定的に奇妙な点があるのよ」
「何?」
「死体が……ほとんど見当たらないの」
リンはハッとして周囲を見渡した。
「……本当ね」
「これだけの規模で集落が蹂躙されているなら、もっと多くの犠牲者(死体)が出ていなきゃおかしいわ」
「つまり、あいつらの目的は『人間を皆殺しにすること』じゃないってことね」
ソラの表情がいよいよ深刻なものへと変わる。
「だとしたら、あいつらは一体『何』を求めて動いているの?」
リンは森の深淵を見つめたまま、静かに呟いた。
「それは……私にもわからないわ」
◇◇◇
その瞬間、ガサガサッ――と、木々の奥から不穏な衣擦れの音が響いた。
二人の少女は、野生的な直感で即座に反応する。
リンの手が瞬時に剣の柄へと伸び、ソラは緊迫した面持ちで魔導杖を構えた。
森林は、一転して水を打ったような静寂に包まれる。
リンは樹木の隙間を鋭い眼光で凝視した。
「……そこに、誰かいるわね」
ソラがコクりと頷く。
「ええ、嫌な魔力の気配を感じるわ」
リンはゆっくりと、金属音を響かせながら愛用の剣を引き抜いた。
「なら、大人しく正体を暴かせてもらいましょうか」
二人は警戒を最大に高めながら、鬱蒼とした森の中へと足を踏み入れていく。
だが、そんな彼女たちですら、まだ気づいてはいなかった。
その野生の奥深くへと続く、目立たないように偽装された無数の足跡の存在に。
――その数、数百。
それら全ての足跡は、例外なく同一の方向を目指して進んでいた。
その先に待ち受ける、何らかの『大いなる存在』に向かって。
◇◇◇
場面は戻り、アステリア王国の玉座の間にて。
歴史的な同盟の会談がほぼ大詰めを迎えようとしたその時、アルドレン国王の表情が、不意に厳粛なものへと一変した。
「――カイ、実はもう一つ、君の耳に入れておかねばならない不穏な報せがある」
カイが顔を上げる。
「あ? 何だ、今度はどんな厄介事だよ?」
「『オーク(豚頭族)』についてだ」
その単語を聞いた瞬間、カイの目がわずかに細められた。
アルドレンは言葉を続ける。
「最近、我が国の国境付近において、オークたちの動きが極めて不穏なものになってきているのだ」
「不穏って、具体的にどう不穏なんだよ?」
「あいつらの大集団が、本来の縄張りであったはずの領域を次々と離脱している形跡がある」
「アステリアを襲撃してきてるのか?」
「いや、必ずしもそうではないのだ」
アルドレンは机の上で両手を組み、重々しく告げる。
「奴らは人間の集落を巡り、物資や資源を組織的に集積しているようなのだ。物見の報告によれば、その動きは野生の魔物のそれではなく、まるで高度に訓練された軍隊のようだったという」
カイは黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「……で、あいつらの狙いは何なんだ?」
「わからん」
アルドレンの響きが、さらに深刻さを増す。
「それこそが、私が最も懸念している部分なのだよ」
カイは椅子の背もたれに、ゆったりと身体を預けた。
脳裏をよぎるのは、妹のリンの姿。
そして、最近になって我が家(塔)の索敵網に引っかかり始めていた、いくつかの異常な報告データ。
さらには、先日リンたちを窮地に陥れた、あの正体不明の影の怪異の存在。
どうやら、世界の裏側で、あまりにも多くの要素が同時に動き出し始めているらしい。
カイはフゥーっと、静かに息を吐き出した。
「――まぁ、いいさ。俺が全部『シャットアウト』してやるよ」
その突飛な回答に、アルドレンが困惑したように目を丸くする。
「……シャットアウト? 一体、何をだ?」
カイはニヤリと、最高に不敵な魔王の笑みを浮かべてみせた。
「あいつらが何を企んでいようが、知ったこっちゃねえよ」
彼は無造作に席から立ち上がる。
「もしもあのオークどもが派手に暴れたいってんなら――俺の『我が家』から、極上に離れた遠い場所でやってもらうまでだ」
そのあまりにも圧倒的な強者の台詞に、傍らのユイが微かに笑みを漏らした。
「ふふ。おそらく、それが本日あなたが口にした中で、最も魔王らしく、そして最も理にかなった言葉ですね」
カイはジト目で彼女を睨みつけた。
「……なぁ、本当に『ただの一度』も俺の味方をしてくれないわけ?」
ユイがクスリと、慈愛を込めて微笑む。
「ふふ、味方ならいつだってしていますよ」
彼女は、今しがたサインされたばかりの同盟文書へと視線を落とした。
「ただ……あなたのネーミングセンスが、壊滅的に酷すぎるというだけの話です」
カイは心外だと言わんばかりに、あからさまに不満そうな顔をする。
「おいおい。俺としては『塔の塔面』はかなりの自信作だったんだが?」
「不許可です」
「じゃあ『ウルトラ・タワー』は?」
「ダメです」
「『スーパー・タワー』なら……」
「絶対にダメです」
カイはがっくりと肩を落とし、諦めたように謁見の間の重厚な扉へと歩き出した。
「……ちぇっ。まぁいいさ、どうせ『エリュシオン(聖域の秩序)』の方が断然格好いいしな」
その言葉を聞き、ユイは満足そうに満面の笑みを浮かべた。
「ええ。そちらの方が、何百倍も素敵ですよ」
◇◇◇
王宮の外では、アステリアの美しい街並みの向こうへと、静かに太陽が沈みかけていた。
その茜色の光に照らされながら――遥か彼方の地にて、リンとソラは鬱蒼とした森林のさらに奥深くへと歩を進めていた。
蠢動を始める、謎に包まれた豚頭族の軍勢。
そして、この世界に正式に産声を上げた、絶対なる聖域『エリュシオン』。
世界のあちこちで、より巨大な『大いなる陰謀』の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めようとしていた。
カイはまだ知らない。
オークたちが一体何を企んでいるのかを。
最愛の妹であるリンが、なぜこれほどまでに奇妙な怪異や異変に遭遇し続けているのかを。
時の巨竜イオンが、自分に関して一体どれほどの『真実』を握っているのかを。
そして――自分が血眼になって捜し求めているあの懐かしい仲間たちのうち、一体何人が、すでにこの世界のどこかに転生しているのかということを。
だが、少なくとも今、彼には帰るべき場所がある。
そして、その場所には、ついに世界に刻まれるべき本当の名前が与えられたのだ。
――『エリュシオン(聖域の秩序)』。
その絶対の領域を中心に、新たなる神話が幕を開けようとしていた。




