第81話: 集い、その前に――パート2
世界は、静寂へと帰していった。
あの真紅の光線が消失してから数秒の間、そこにはただ、ゆらゆらと漂う土煙の粒子と、崩壊した民家が軋みながら崩れる微かな音だけが響いていた。
リンの耳には、もう何も届いていない。
自分の身体が妙に軽く感じられた。
――直後、彼女の視界は真っ暗な闇へと反転し、意識は完全に途絶えたのだった。
◇◇◇
次にリンが目を覚ました時、最初に視界に飛び込んできたのは、どこまでも広がる空だった。
パチ、パチ、と二回ほど瞬きをする。
混濁していた視界が、ゆっくりと焦点を結んでいく。
彼女は地面に大の字に寝そべったまま、ただ上空を流れる雲を凝視していた。
「……あれ?」
リンは身体を動かそうと試み、ふっと上体を起こした。
――痛まない。
どこも、これっぽっちも痛くはないのだ。
リンの目が驚愕に見開かれる。
慌てて自身の身体を見下ろした。
衣服こそ汚れてあちこちがボロボロに破れているものの、その下の肌は完全に無傷だった。
全身を苛んでいた激痛は跡形もなく消え去り、ほんの数分前まで負っていたはずの致命的な重傷は、痣一つ残さず綺麗さっぱり消滅している。
彼女は弾かれたように周囲を見回した。
「ソラ!?」
「ここよ、リン」
声をかけられ振り返ると、すぐ近くにソラが立っていた。
彼女もまた、何事もなかったかのようにピンピンしている。
リンは信じられないといった様子で彼女を凝視した。
「ソラ、あなた……」
「ええ、分かっているわ」
ソラもまた、自身の衣服の破れ目を見つめながら困惑を隠せない様子だ。
「私も、あなたと同じくらい頭の中がパニックを隠しきれないの」
リンはゆっくりと立ち上がった。
「私、どれくらい気絶していたのかしら?」
「わからないわ」
ソラは力なく首を振った。
「私が意識を取り戻した時には、もう私たちの身体はすっかり元通りになっていたのよ」
リンが小さく眉をひそめる。
「あなたの回復魔法で、直してくれたの?」
ソラは即座にその推測を否定した。
その表情は、かつてないほど真剣そのものだ。
「いいえ、絶対に違うわ。私の回復魔法でも大抵の怪我は治せるけれど、あんな絶望的なダメージは無理よ。しかも、一切の痕跡も残さないなんて、絶対に不可能だわ」
リンは自身の両腕をまじまじと見つめた。
何もない。傷跡も、内出血の跡すらも、本当に何も。
ソラは言葉を続けた。
「それに、起きた奇跡は怪我の完治だけじゃないの」
彼女はそっと、自身の胸元に手を当てた。
「私たちの、枯渇しかけていた魔力までもが、完全に満たされているのよ」
リンの表情が、いよいよ深刻なものへと変わる。
「……完全に?」
ソラが重々しく頷く。
「ええ、最大値まで、完璧にね」
◇◇◇
二人は無言のまま、先ほどまであの不気味な影の怪異が佇んでいた場所へと視線を向けた。
そこには、何も残されていない。
肉体はおろか、魔物の死骸としての残滓すら皆無。
文字通り、その存在そのものが『この世界から抹消』されていた。
リンは静かに視線を落とした。
「今のを仕掛けた誰か、は……」
言葉を一度区切り、小さく息を吐き出す。
「私には、それが誰なのか見当もつかないわ」
ソラが彼女を見つめた。
「でも?」
リンは再び、静かに空を見上げた。
「……あのエネルギー」
彼女の表情に、深い思索の色が混じる。
「あの爆発の瞬間に感じたエネルギーの波長……私、あれを知っている気がするの」
ソラの目が、わずかに鋭く細められた。
「それって、あなたがずっと感じていたっていう……?」
リンが小さく頷く。
「ええ、そうよ」
「『太陽の涙』の事件以来、あなたがずっと感知し続けていた、あの正体不明の気配?」
「そう」
リンは自身の拳をぎゅっと握り締めた。
「それが誰の魔力なのか、なぜ私にだけ感じ取れるのか、そしてなぜ私たちが襲われたこのタイミングで現れたのか……何一つ、理由は分からない」
彼女は遥か彼方の地平線を見つめながら、確信を込めて呟いた。
「でも、間違いなく『同じ』ものよ」
ソラはしばらくの間、沈黙を守っていた。
やがて、彼女は優しい声で口を開いた。
「どうやら、その『誰か』は……あなたに酷いことが起きるのを、絶対に許さないみたいね」
リンは驚いたようにソラを見た。
「そう、思う?」
「さあ、どうかしら?」
ソラは悪戯っぽく微笑んでみせた。
「でも、まだ決めつけるのは早いわね。まずはその人物について、もっと確かな情報を集めないと」
「……ええ、そうね。あなたの言う通りだわ」
リンも釣られるようにして、小さく笑みを浮かべた。
ソラが一歩、彼女へと近づく。
「それに、正体が誰であれ――」
彼女はリンの目をじっと見つめた。
「その人が、私たちの命の恩人であることは間違いないものね」
「うん、そうね」
◇◇◇
しばらくの間、二人の間に穏やかな沈黙が流れた。
だが次の瞬間、リンの表情が劇的に一変した。
脳裏に、先ほどの光景が鮮明にフラッシュバックしたのだ。
容赦なく叩きつけられたソラの姿。
宙を舞う、親友の身体。
自分が一歩遅かったという、あの絶望的な焦燥感。
自分たちの頭上に君臨した、圧倒的な死の影。
全てを失うのだと、本能が察知したあの最悪の瞬間――。
リンの指先が、小刻みに震え出した。
ソラがその異変に即座に気づく。
「リン……?」
その声を遮るようにして、リンは突如として一歩踏み出し、ソラの身体を強く抱きしめた。
ソラは完全に硬直し、その目を丸くする。
リンは壊れ物を扱うかのように、しかし絶対に離さないという強い力で、親友の身体をきつく、きつく抱きしめ続けた。
数秒の間、彼女の口からは何の一言も発せられることはなかった――。
それから、静かに言葉が紡がれた。
「一瞬だけ……本当に、あなたを失ってしまうのだと思ったわ」
その言葉を聞いたソラの表情が、ふっと柔らかくなる。
彼女は愛おしそうに、ゆっくりと両腕をリンの背中へと回した。
「失ってなんていないわ、リン」
「ええ、分かっている」
リンはそっと目を閉じた。
「だけど……二度と、あんな思いはしたくないの」
ソラは、リンの肩口へと優しく頭を預けた。
「なら――絶対に私を離さないでね」
リンがゆっくりと瞼を開ける。
二人がわずかに身体を離した時、その顔と顔の距離は驚くほどに近かった。
どちらも、そこから動こうとはしない。
場を支配したのは、どこか気恥ずかしい、妙に意識し合ってしまうような沈黙だった。
二人は、とうの昔から気づいていたのだ。
自分たちの間に存在する『これ』が、幼馴染としてのそれとは、もう決定的に違ってしまっていることに。
けれど、どちらもそれを口に出したことはない。
まだ、その感情に明確な名前を与える準備はできていないようだった。
だが同時に、ここから一歩後ろへ退き下がることも、二人とも望んではいなかった。
ソラが、はにかむように微笑む。
「私は、まだここにいるわ」
リンもまた、愛おしさを込めて微笑みを返した。
「ええ、良かった」
二人はもうしばらくそのままでいたが、やがて名残惜しそうに身体を離した。
どちらからも、その抱擁がどれほど長く続いていたのかを指摘する者はいなかった。
世の中には、言葉にしないままにしておいた方が都合の良いことも、確かにあるのだ。
――少なくとも、今はまだ、ね。
◇◇◇
一方その頃、下界の騒がしさから何階層も隔てた、塔の静かな空間にて。
カイは、だらけきった様子でプカプカと空中を漂っていた。
彼が現在のリラックススペースとして選んだのは、第二階層。
特に深い理由はない。
ただ単に、今は空中を浮遊したい気分だったという、それだけだ。
その時、彼の目の前の空間が、ぐにゃりと不自然に歪み始めた。
カイが薄目をあける。
「ん……? おや?」
虚空に、極めて複雑な幾何学模様の魔法陣が浮かび上がったのだ。
一つの円が二つに増え、二つの円が瞬く間に無数へと増殖していく。
その周囲を、見たこともないルーン文字の配列が取り囲んだ。
それらは目まぐるしく回転し、再構築され、繋がり、離れ、そして再び強固に結合していく。
カイは浮遊をやめ、地面に足を着けてその魔法陣を凝視した。
「なんだ、これ?」
術式は、なおも自動的に構築を続けている。
光の輪はさらに拡大し、やがてそれは、あまりにも巨大な『門』の輪郭を形成した。
魔導記号がガチリと噛み合うような駆動音が響き渡る。
階層全体に重低音が木霊した直後、その重厚な扉が、ゆっくりと左右に開け放たれた。
そして――門の向こうから、誰かがこちらへと足を踏み入れてきたのだ。
その姿を見た瞬間、カイの表情が一変した。
彼の目が、驚きにわずかで見開かれる。
(……ほう?)
カイの視線は、目の前に現れた一人の女性に完全に釘付けとなっていた。
(おいおい、嘘だろ? あいつ……『アイヴィー』じゃないか?)
彼女の装いは、以前とは異なっていた。
カイの記憶にある面影をかき消してしまうほどではないが、明確な違和感を覚えるには十分な変化だ。
何より、彼女が纏う圧倒的な存在感そのものが、当時とはまるで違っている。
そこで、カイはハッとある事実に思い至った。
(なるほどな。どうやらあいつ、すでに『名持ち(ネームド)』の魔物へと進化しているらしい)
◇◇◇
その女性は静かに歩み寄り、カイの前で立ち止まった。
「――カイ様、でしょうか?」
声をかけられ、カイは意識を現実へと引き戻す。
彼女は、極めて洗練された優雅な一礼を捧げた。
「お初にお目に掛かります、カイ様。お迎えに参りました。お会いできて光栄です」
カイの表情が、ふっと和らいだ。
だが、その微笑みの裏には、どこか寂しげな色が混じっている。
「……なるほど。お前も、俺のことは覚えていないわけだ」
女性は、パチクリと不思議そうに瞬きをした。
「申し訳ありません。私共は以前、どこかでお会いしておりましたでしょうか?」
カイは苦笑交じりに首を振った。
「いや、気にするな」
彼は視線を、背後にそびえる巨大な魔法の門へと向けた。
「大したことじゃないさ」
再び彼女へと視線を戻し、コートの襟を軽く正す。
「お前が俺の案内人、ということでいいんだな?」
「はい。さあ、こちらへどうぞ」
彼女が促し、カイが門へと一歩を踏み出そうとした、その時。
「お待たせしました、準備万端です!」
そう言って、ドレスアップしたクロエが華やかに姿を現した。
カイは彼女を一瞥し、満足そうに頷く。
「よし、完璧だな」
クロエが彼の隣に並び立つ。
カイは最後に、塔の奥へと向かって声をかけた。
「じゃあな、ユイ」
彼の呼びかけに応じるように、すぐ近くの空間からユイが姿を現した。
カイは不敵に、しかし信頼を込めて微笑む。
「留守中、この塔のことを頼んだぞ」
ユイは、どこまでも温かい、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「はい。何の心配もいりませんよ、我が愛しき主。……いってらっしゃいませ」
カイは小さく頷いた。
そして彼とクロエは案内人の後に続き、眩い光を放つ魔法の門の向こうへと足を踏み入れた。
二人が通り抜けると同時に、背後の扉は重々しい音を立てて完全に閉ざされたのだった。
◇◇◇
その空間に足を踏み入れた刹那、カイは全身の肌で『それ』を感知した。
――世界(領域)そのものが、彼の来訪を認識したのだ。
入り口を覆っていた永劫の闇が、生き物のように蠢き、シフトしていく。
足元の床の質感が劇的に変化し、何もない虚空から、重厚な壁が次々と具現化していく。
謁見の間とも言うべき巨大な空間が、まるで意志を持つかのように、独自の構造を編み上げ始めていた。
カイは歩みを止め、その光景を静かに見つめた。
(……知っているぞ、この感覚)
というよりは、これと極めて酷似した超常現象を、彼はかつて経験していた。
この領域は、単なる建造物としての部屋ではない。
それ自体が一個の『生きた生命体』なのだ。
ここに集う『魔王達(魔王達)』の膨大な魔力と存在感に反応し、その姿を変える特異空間。
新たな魔王がこの領域に足を踏み入れる度、世界は彼らを冷徹に観察する。
その身に秘めた絶対的な力、魂の格、放たれる覇気、さらにはその者が持つ固有のデザインセンスに至るまでを読み取り、咀嚼するのだ。
そして世界は――その新参の魔王に相応しい姿へと、自らを最適化し、形作っていく。
カイは、眼前で刻一刻と変化していく謁見の間をじっと見つめていた。
床から重厚な円柱がそびえ立ち、壁面には優美な幾何学模様の装飾が広がっていく。
部屋の中心には、巨大な円卓が静然と姿を現した。
それを囲むようにして、六つの座席が徐々に形成されていく。
天井は遥か高くまで押し上げられ、その空間はまるで神話に登場する大宮殿のような圧倒的なスケールへと変貌を遂げた。
淡く、幻想的な魔法の光が、完成した室内を静かに照らし出す。
カイは周囲を一瞥した。
最終的に構築されたその空間は、驚くほどに美しかった。
彼は口元をわずかに緩める。
(……ふん。相変わらず、大したおもてなしだな)
その言葉を口に出すことはせず、彼はただ、自身の席へと向かって静かに歩を進めた。
◇◇◇
その時、重厚な扉が左右に開け放たれた。
一人の男が部屋へと足を踏み入れてくる。
その姿を見た瞬間、カイは即座に彼が誰であるかを理解した。
(なるほど。やはり『ディーヴォ』はこの現実世界でも、本人そのものというわけか)
それ自体に、さしたる驚きはなかった。
だが、カイの視線は彼の背後に従う二人の人物へと向けられる。
(ほう、あいつの部下である二人も、当時のままだな。――ジェメラに、リゲラ、か)
カイは物音を立てずに自身の席へと腰掛けた。
ディーヴォもまた、自身のポジションへと歩を進める。
互いに、かつてどこかで相まみえたことがあるなどという素振りは、微塵も見せない。
それもそのはず。この現実世界の歴史においては、二人は今日この瞬間まで、出会ったことなど一度もないのだから。
数瞬の後、さらに別の影が姿を現した。
『ミレラ』だ。
カイは彼女が近づいてくる様子をじっと観察する。
(ミレラまで現実世界でそのまま存在しているとはな。これは少し意外だったぞ)
彼女もまた、自身の席へと着いた。
◇◇◇
そして、再び扉が開け放たれる。
カイの全神経が、その入り口へと向けられた。
これまでの誰とも決定的に異なる、異質な覇気が空間を満たしていく。
――静寂、悠久、そして絶対的なまでに揺るぎない、圧倒的な存在感。
『イオン』。
時の巨竜が、静然と室内へと歩を進めてきた。
カイは彼を凝視する。
見間違うはずがなかった。
同じ容貌。同じ、底知れぬ静寂を湛えた表情。
放たれるプレセンスも、何から何まで当時のままだ。
かつて『記憶の監獄』の中で、カイがその実力を知った、あのイオンその人がそこにいた。
イオンは自身の座席へと歩み寄り、静かに腰掛けた。
その表情には、何の動揺もない。
驚きもなければ、困惑の色すらなかった。
だが、カイの目は誤魔化せなかった。
その深邃な瞳の奥に、確かに『確信』の光が宿っているのを、彼は見逃さなかった。
イオンは分かっている。目の前にいるカイが、一体何者であるかを完全に理解しているのだ。
それでもなお、巨竜は一切を語ろうとはしなかった。
カイは椅子の背もたれに、わずかに身体を預けた。
(相変わらず、喰えない奴だな……。だが、それでこそお前だ)
◇◇◇
同時に、カイが即座に気づいた重大な事実がもう一つあった。
――この世界における『格付け(序列)』が、監獄の時とは決定的に異なっているのだ。
かつて記憶の監獄の中では、ディーヴォが最強の魔王として君臨していた。
イオンがそれに次ぐ二番手であり、ニクセラがその後を追う形だったはずだ。
だが、この現実世界は違った。
ここでは、時の巨竜であるイオンが絶対的な頂点に君臨している。
二番手にニクセラが位置し、ディーヴォは彼女に次ぐ三番手。
その後にデミグラ、ミレラと続いていた。
カイは脳内のデータシートに、その明確な差異を静かに刻み込んでいく。
そんな思考を巡らせていると、再び扉が開いた。
カイが見上げると、そこには見覚えのある顔があった。
その瞬間、カイの思考がわずかコンマ数秒ほどフリーズする。
(……おいおい、ちょっと待て。嘘だろ?)
部屋に入ってきたのは、魔王『デミグラ』だった。
カイの目が、鋭く細められる。
(あいつって確か……『清水菜緒』が自らの手で討ち取ったと主張していた、あの魔王じゃないか?)
思考を巡らせ、そしてハッと気づいた。
(ああ、そうか。……勘違いするな、あれはあくまで『記憶の監獄』の中での出来事だったな)
カイは再び、デミグラへと視線を戻した。
つまり、この現実世界においては、彼は未だにピンピンと生を謳歌しているというわけだ。
デミグラは何食わぬ顔で自身の席へと歩いていく。カイは何も言わず、ただその姿を追った。
そしてついに、最後の扉が開け放たれる。
『ニクセラ』が姿を現した。
すでに旧知の間柄である彼女が入ってきた瞬間、二人の視線が真っ向から交錯する。
ニクセラは、カイに向けて悪戯っぽく、しかし親愛を込めて微かに微笑んでみせた。
カイもまた、小さく笑みを返す。
彼女が自身の席へと腰掛け、これで全ての席が埋まった。
――かくして、現実世界における『魔王達の饗宴』が、静かに幕を開けようとしていた。
謁見の間は、完全なる静寂に包まれた。
六人の魔王。
この世における最高峰の絶対強者たちが、今まさに一堂に会している。
世界を震撼させるに足る異形の怪物どもが、一つの円卓を囲んで平然と座していた。
◇◇◇
沈黙を破り、最初に口を開いたのはディーヴォだった。
「――ほう」
その鋭い眼光が、真っ直ぐにカイへと向けられる。
「お前が、新参の『新世代の魔王』か」
カイは小さく頷いた。
「どうやら、そのようだな」
ディーヴォはしばらくの間、値踏みするようにカイを凝視する。
「随分と、余裕じゃないか。緊張している風には見えないな」
「緊張? 俺が、何に対してだ?」
その不敵な返しを聞き、デミグラがケラケラと笑い声を上げた。
「くはは! 面白い奴だ」
ミレラもまた、口元に微かな笑みを浮かべる。
ニクセラはただ静観し、イオンは静かにその光景を見守っていた。
ディーヴォは椅子の背もたれにドサリと身体を預ける。
「お前の噂は、嫌というほど耳に入ってきているぞ」
カイは盛大にため息をついた。
「はぁ……。そういう噂ってやつは、大抵ろくな内容じゃないのが相場だけどな」
デミグラが再び可笑しそうに笑う。
「おいおい、お前、まるで魔王らしくない佇まいだな?」
カイは不思議そうに首を傾げた。
「魔王らしさ、ねぇ。一体どう振る舞えば合格なんだ?」
「そうだな……例えば、もっと周囲を威圧するとかさ」
「生憎だけど、俺は誰かを威嚇する趣味なんて持ち合わせていないんでね」
デミグラがニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「ククク……。そこが問題なんじゃないか?」
カイは無頓着に肩をすくめてみせた。
「そいつは悪かったな。生まれつきの性分なんだ、諦めてくれ」
◇◇◇
ディーヴォの表情は、依然として険しいままだ。
「ならば、まずは当然の疑問から片付けさせてもらおうか」
カイが視線を戻す。
「お前は、一体どこの馬の骨だ? どこから湧いて出た?」
カイは、ほんの一瞬だけ思考を巡らせた。
最初から、手の内を全て明かすつもりなど毛頭ない。
「――さあな、わからん」
ディーヴォの目が、不快そうに鋭く細められた。
「わからない、だと?」
「ああ」
カイは椅子の背もたれに、ゆったりと体重を預ける。
「悪いが、それに対する明確な答えは持ち合わせていないんだ」
ディーヴォは冷徹な目でカイを観察する。
「……ぐ。それでいて、魔王の座に就いたというのか?」
「そうなっちまったんだから、仕方ないだろ」
「どうやって?」
カイは再び、無造作に肩をすくめてみせた。
「悪いが、それもまた俺には答えられない質問の一つだな」
デミグラが呆れたように鼻で笑う。
「クハハ、お前、驚くほど非協力的だな」
カイは彼へと視線を向け、事も無げに言い放った。
「昔から、よく言われるよ」
◇◇◇
ここで、それまで静観していたニクセラが、ついに口を開いた。
「――それと、もう一つ重大な件があるわ」
カイが彼女へと向き直る。
「『魔王の種』についてよ」
その単語が出た瞬間、円卓の空気の緊張感が一段と跳ね上がった。
ニクセラは言葉を続ける。
「あなた、私の気を引くためだけに、意図的に『魔王の種』を生み出したでしょう?」
ディーヴォの表情が微かに変わり、ミレラが怪訝そうな目をカイに向けた。
あのデミグラでさえも、一転して興味深そうな表情を浮かべている。
ディーヴォが詰問するように問いかけた。
「何だと……? お前が『魔王の種』を創造したというのか?」
カイは平然と頷く。
「ああ、そうだけど?」
「どうやってそんな芸芸を成し遂げた!?」
カイは、至って冷静な目でディーヴォを見据えた。
「色々と、複雑な事情があってね」
ディーヴォが不機嫌そうに眉をひそめる。
「……そんなものは、答えになっていないぞ!」
「だが、これが俺の出せる精一杯の回答だ」
ニクセラは、そんなカイの様子をじっと観察していた。
彼女は、この件の裏にはさらなる秘密が隠されていることを確信していた。
だが、カイがこれ以上語るつもりがないことも分かっていた。
(まさか、『ちょっと魔王の種が欲しいんだけど』と世界の管理者にシステム申請しただけなんて、口が裂けても言えないからな。おまけに、実際にそれを生成したのは俺じゃなくてユイだしな……)
そのあまりにも規格外な真実は、カイとユイだけの秘密として墓場まで持っていく案件だった。
◇◇◇
ディーヴォが腕を組む。
「お前は、その別の種を創り出す前から、すでに魔王だったのだな?」
「そうだ」
「ならば何のために、そんな真似をした?」
カイはニクセラへと視線を向け、不敵に微笑んだ。
「さっきも言われただろ? 彼女の気を引くため、だよ」
ニクセラが片方の眉をピクリと跳ね上げた。
「あら。自分が私を意図的に『誘導』したって、あっさりと認めるわけね?」
カイはほんの一瞬だけ考え、言葉を選んだ。
「俺としては、『お招き(インバイト)した』と言ってほしいところだけどな」
すると、彼の背後に直立不動で控えていたクロエが、間髪入れずに割り込んだ。
「いえ、客観的に見ても完全に誘導でした」
カイはがっくりと首を後ろに反らし、彼女を振り返る。
「おい、お前は俺のサポート役だろ? そこは話を合わせるところだろ?」
「私は、ただただ誠実でありたいだけです」
その身内での容赦ないやり取りに、デミグラが盛大に爆笑し、ニクセラもまた、クスリと楽しそうに口元を綻ばせた。
張り詰めていた謁見の間の重圧が、ほんの少しだけ和らいでいく。
◇◇◇
――その時だった。
「……私は、彼が何者であるかなどという『過去』には興味はない」
重厚で、絶対的な威厳を孕んだ声。
この場にいる全員の視線が、一斉にその主へと向けられた。
『時の巨竜』イオンが、静かに発言したのだ。
イオンの表情は、依然として深海のように静まり返っている。
「私が興味を持っているのは、ただ一つ。――彼が今後、この世界で『何をもたらすか(未来)』だ」
カイはイオンの瞳をじっと見つめ返した。
その静かな言葉の響きに、彼の直感が微かな不穏さを捉えていた。
なぜかは分からないが、妙に胸がざわつくのだ。
だが、イオンはそれ以上語ることはせず、再び底知れぬ静寂の中へと戻っていった。
カイは静かに視線を外す。
(やはり……この男だけは、一筋縄ではいかないな)
不穏な予感を孕みながらも、魔王達の会談は、さらなる深部へと進んでいくのだった。
会談は、その後も淡々と続けられた。
様々な質問が飛び交い、カイはその中で『自分が答えてもいい』と判断した事柄にだけ、無難に回答を返していった。
当然ながら、あの『記憶の監獄』の存在については一切口を閉ざした。
自身の存在の本当のルーツ(種族)についても、煙に巻いたままだ。
そしてもちろん、例の『魔王の種』を生成するにあたって、ユイがどのような役割を果たしたのかという重大な真実も、最後まで明かすことはなかった。
やがて、ディーヴォが円卓を見渡す。
「――フン。どうやら、これ以上異議を唱える理由はなさそうだな」
ミレラが小さく頷いた。
「ええ、私も賛成するわ」
デミグラが肩をすくめる。
「俺も別に構わないぜ」
ニクセラは何も言わなかった。だが、その沈黙こそが肯定の証だった。
ディーヴォが再びカイへと視線を向ける。
「ならば、これよりお前を正式に『魔王』の一柱として認めることとする」
カイはパチクリと瞬きをした。
「……え、それで終わり?」
その拍子抜けしたような反応に、デミグラが爆笑する。
「クハハ! 一体何を期待してたんだよ?」
「いや、何かって言われてもな……」
カイは居心地悪そうに周囲を見回した。
「ほら、もっとこう……大がかりな戴冠式とかさ」
ディーヴォは冷徹なジト目で彼を凝視した。
「そんなものは、ない」
「そうか、そいつは良かった」
カイはホッとしたように椅子の背もたれに寄りかかる。
「万が一あったら、めちゃくちゃ気まずい空気になるところだったからな」
◇◇◇
こうして、魔王達の会談は緩やかに幕を閉じた。
一人、また一人と、魔王たちがその場から立ち去っていく。
カイもまた、席から立ち上がった。
部屋を後にしようとしたその時、彼はすぐ近くに未だ『時の巨竜』イオンが佇んでいることに気づいた。
イオンがゆっくりとこちらを振り返る。
カイは数秒の間、その底知れぬ瞳を見つめ返し――やがて、静かに口を開いた。
「なぁ、理由は上手く説明できないんだけどさ……」
イオンは何も言わず、ただ次の言葉を待つ。
「――お前、俺の知らない何かを、最初から全部知っているだろ?」
イオンの鉄仮面のような表情は、微塵も動かなかった。
「……この世には、お前が知らない事など、いくらでも存在するさ」
カイは目を鋭く細めた。
「そいつは、あまり安心できる回答じゃないな」
「安心させるために言ったわけではないのでな」
それだけを言い残すと、イオンは静かに身を翻し、重厚な扉の向こうへと去っていった。
カイはその背中が消えるのを、しばらくの間じっと見つめていた。
あのイオンという男の佇まいには、何か決定的な違和感がある。
胸の奥に引っかかる『何か』。
だが、カイはそれ以上深く追及するのをやめた。
(……まぁ、いいさ。焦る必要はない。そのうち嫌でも分かることだろ)
◇◇◇
カイが魔法の門を潜り、自らの塔へと帰還した時、彼は即座に周囲の空気が一変していることに気づいた。
人が、明らかに増えている。
それも、尋常ではない数だ。
第一階層の広大な敷地には、大勢の冒険者や旅人たちが文字通り溢れかえっていた。
ある者は目を輝かせて周囲を探索し、ある者は仲間と興奮気味に語り合い、またある者は信じられないといった様子で呆然とあたりを見回している。
中には、すでにこの塔の内部に移住する可能性について、真剣に議論を始めている者たちの姿まであった。
カイが人混みの中を何気なく歩き出すと、すぐさま周囲からヒソヒソとした囁き声が追いかけてくる。
「おい、あの人……」
「間違いない、この塔のオーナーだ」
「おいおい、あれが新進気鋭の『魔王カイ』様だぞ……」
カイは心底面倒くさそうに、後頭部をガリガリと掻いた。
「おいおい、これは思った以上に厄介なことになってきたな……」
その時、背後からひときわ切実な声が耳に届いた。
「なあ……もし俺が、ここに住まわせてくれないかって頼んだら、あの魔王様は承諾してくれると思うか?」
カイが何気なく視線を向けると、そこには妻と二人の小さな子供を連れた一人の男が立っていた。
その男の友人が、まるで『自らドラゴンの口に飛び込むと言い出した大馬鹿者』を見るかのような目で男を睨みつける。
「おい、お前正気か!? 頭がどうかしちまったのかよ!」
男は力なく肩をすくめてみせた。
「かもしれないな……」
だが、その表情はすぐに悲痛なほど真剣なものへと変わる。
「だけどよ、やってみなきゃ何も始まらないだろ」
友人は言葉を失い、沈黙した。
男は愛おしそうに、背後にいる自身の家族へと視線を向ける。
「俺たちの故郷の村は、オークの軍勢に襲われて完全に壊滅したんだ」
傍らの妻が、絶望に満ちた目で悲しげに俯く。
「私たちにはもう……行く宛てなんて、どこにも残されていないのよ」
男は再び、カイのいる方向へと視線を戻した。
「この塔に関する奇妙な噂を聞きつけて、俺たちは半ば破れかぶれでここへやってきた。だが……」
彼は周囲に広がる、想像を絶するほどに広大で平和な空間を見渡した。
「ここで目にしたものは、噂なんかよりも遥かに、奇跡のような場所だったんだ」
妻が男の腕を必死に掴み、引き留めようとする。
「あなた、お願いだから……!」
だが、男の決意はすでに固まっていた。
彼は妻の手を優しく振り払い、確固たる足取りで一歩を踏み出す。
妻は怯えながらもその後を追い、子供たちも親の服の裾を掴んで必死に離れまいとしていた。
◇◇◇
男は、カイの数メートル手前でピタリと足を止めた。
そして次の瞬間、躊躇なくその場にバサリと両膝を突き、平伏したのだ。
「――魔王カイ様……っ!」
カイはパチクリと瞬きをした。
男は額を地面へと擦り付けんばかりに深く頭を垂れる。
「お願いです。どうか、どうか哀れな俺たちをお救いください!」
男は必死の形相で顔を上げ、カイの目を真っ直ぐに見つめた。
「不躾ながら……一つ、命懸けのお願い(リクエスト)をさせて頂いてもよろしいでしょうか!」
カイはしばらくの間、その必死な男の姿を無表情で見つめていたが――やがて、いつも通りの軽い調子で、事も無げに言い放った。
「ああ。いいぞ、言ってみろよ」
そのあまりにもあっさりとした返答に、男は拍子抜けしたように目を見開いた。
「え……? あ、ありがとうございます……!」
男は、震える声でありのままの全てを必死に説明し始めた。
自らの故郷の村のこと。
突如として襲いかかってきた、残虐非道なオークの軍勢のこと。
全てを焼き尽くされ、破壊され、帰るべき場所を失った多くの家族たちのこと。
行く宛てもなく彷徨っていた最中、この不思議な塔の噂を耳にし、一縷の望みをかけてやってきたのだと。
本来であれば、魔王の根城という恐るべき恐怖の魔境を予想していた。
しかし、実際に足を踏み入れた彼らが目にしたのは――自分たちの想像を遥かに超越した、どこまでも広大で、暖かな光に満ちた、あまりにも美しい救いの地だったのだ。
男は必死の思いで、カイへと最後の願いを絞り出した。
自分たちの家族、そして生き残った村人たち全員が、この塔の内部で暮らすことを許してほしい、と。
それに対するカイの返答は、一切の躊躇すらないものだった。
「――ああ、いいぞ」
男の身体が、完全に凍りついた。
「……え? 今、何と……?」
カイはいつも通りの軽い調子で、言葉を繰り返す。
「だから、別に構わないって言ったんだよ。問題ないさ」
その瞬間、周囲の喧騒が嘘のように静まり返った。
あちこちにいた冒険者たちが、信じられないといった様子で互いに顔を見合わせる。
誰もが、魔王という存在は冷酷無比なものだと思い込んでいたのだ。
許可を出すにしても、法外な見返りを要求されるか、あるいは理不尽な脅しをかけられるのが関の山だと。
それなのに、目の前の新参の魔王は、ただ『いいぞ』とあっさり承諾してしまった。
◇◇◇
カイは這いつくばる家族へと視線を戻した。
「お前らも、生き残った村人たちも、ここに好きなだけ住むといいさ」
彼は広大な第一階層の空間を、大雑把に手で指し示す。
「大体さ、この塔はたった一人で暮らすには、あまりにも広すぎるんだよ」
カイは悪戯っぽく微笑んでみせた。
「だから、遠慮なくここに居着いてくれ」
男の瞳から、一気に涙が溢れ出した。
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます……っ!」
傍らの妻もまた、ふらふらとカイの前へと歩み寄り、深く頭を垂れる。
「本当に……本当にありがとうございます……!」
「いや、そんなに感謝されるようなことじゃないって」
カイは照れくさそうに頭を掻き、周囲の街並みへと視線を向けた。
「家なら、最初からいくらでも建っているからな」
妻が不思議そうにパチクリと瞬きをした。
「……家、ですか?」
「ああ」
カイは遥か彼方に広がる、整然とした居住区の一つを指さす。
「お前らがやるべきことは、ただあそこへ移動して、好きな部屋に引っ越すだけだ」
男は呆然と、遠くに見える立派な建物群を見つめた。
あまりの至れり尽くせりな状況に、耳にしている現実が信じられないようだった。
しかし、二人の小さな子供たちは、すでに大人の難しい会話など聞いてはいなかった。
下の子がトコトコとカイへと近づき、続いて上の子も後に続く。
カイが反応するよりも早く、二人の子供たちは彼の服の裾をぎゅっと掴んだのだ。
カイが視線を落とす。
「……おや?」
子供たちは、満面の無邪気な笑みを浮かべて彼を見上げていた。
カイは数秒の間、その純粋な瞳をじっと見つめ返し――やがて、その表情をふっと 優しいものへと和らげた。
彼は屈み込むと、躊躇なく二人の子供たちをその腕の中へと抱き上げた。
右腕と左腕に、一人ずつ。
子供たちは抱えられた瞬間、さらに嬉しそうにキャッキャと声を上げて笑った。
その光景を、周囲の冒険者たちは言葉を失って見守っていた。
まさか、世界を震撼させるはずの魔王が、迷い込んできた人間の子供を笑顔で抱き上げているなど、誰が想像できただろうか。
少し離れた場所で、クロエがその様子をまじまじと見つめていた。
「……流石に、これには驚きましたね」
いつの間にか、カイのすぐ真横にユイが姿を現していた。
彼女は心底愛おしそうに、満面の笑みを浮かべる。
「ふふ、流石は私の最愛の人です」
カイがそちらを向くと、ユイの瞳にはどこまでも暖かな、誇らしげな光が宿っていた。
「私はあなたを、心から誇りに思いますよ」
◇◇◇
カイは小さく笑みを返した。
腕の中で嬉しそうに動く、二人の子供たちの温もりを感じる。
そもそも、この巨大な塔は、かつて自分が失ってしまった大切な仲間たちのために建てたものだった。
いつの日か、あの『記憶の監獄』の中で絆を結んだ者たちを、再びこの場所に集めるための約束の地。
だが今、自らが探していた仲間よりも先に、別の者たちがこの場所に辿り着いた。
故郷を追われ、帰るべき家を失った人々。
行く宛てもなく、ただただ安全な救いの手を求めていた、哀れな漂流者たち。
カイは、どこまでも広大に広がる第一階層の景色を見渡した。
(なるほどな……。別にこの塔は、俺が捜し求めている奴ら『だけ』のものにする必要なんて、どこにもないわけか)
この場所は、もっと別の、より大きな意味を持つ存在になれるのかもしれない。
どこかの傲慢な王国でもなければ、強大な帝国でもない。
世界を恐怖するような、ただの軍事要塞でもない。
世界中の理不尽によって全てを奪われ、傷つき、行き着く先のなくなった人々が、最後に辿り着くための『絶対的な聖域』――。
カイは腕の中の子供たちを見つめ、優しく微笑みかけた。
「――我が家へ、ようこそ」
その言葉に応じるように、二人の子供たちはさらに弾けたような笑顔を咲かせたのだった。
◇◇◇
そして――。
ここからはるか遠く離れた地にて。
妹のリンは、未だにあの『太陽の涙』の事件以来、自らの肌が感じ続けている正体不明の気配(魔力)の主を捜し続けていた。
彼女は、まだ何も知らない。
自分が血眼になって捜し求めているその最愛の兄が、今まさに、自らの『家(塔)』の扉を世界に向けて、堂々と解き放ったという事実を――。
(第十二話 完)




