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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
終わりの前の始まり(真の現実)

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第80話: 集い、その前に 第1部

朝は、静かに訪れた。


珍しいこともあるものだ。


塔の外には、俺を待ち受ける大災厄の気配など一切ない。


古代の巨竜(エンシェント・ドラゴン)もいなければ、魔王の急襲もないし、正門へと進軍してくる大軍勢の影すらなかった。


ただ、穏やかな太陽の光だけが、そこにあった。


――燦々と。


その光は、塔の下層階にある巨大な窓から差し込み、第一階層に広がる街並みや道路を照らし出している。


周辺地域からは、すでに大勢の冒険者たちが集まり始めていた。


かつては不気味な未知の領域だったその入り口も、今や誰もが知る場所へと変わりつつある。


四年間もの間に囁かれ続けた噂は、人々の好奇心を刺激するには十分だった。


さらに、カイが先日『アステリア』を訪れたことで、その好奇心は決定的な行動へと変わったのだ。


結果として、人が人を呼び、大挙して押し寄せる事態となっていた。


純粋に内部を探索したいという冒険者。


空間や魔法建築の常識を悉く無視したこの塔を、血眼になって調べたがる研究者たち。


正式な探索許可など待っていられないとばかりに、一攫千金のロマンを選んだ命知らずな宝探し屋(トレジャーハンター)の面々。


おまけに、どさくさに紛れてアステリアのために隠密裏に情報を集める工作員の姿まで混ざっている始末である。


かくして、この第一階層は、なし崩し的に『非公式の探索特区』としての体を成していたのだった。


◇◇◇


そんな中、地図や物資を抱えた一団の冒険者が、広々とした石畳の道を歩いていた。


「おい、俺たちは一体どれくらい進んだんだ?」


一人が手元の地図に目を落とし、首を傾げる。


「――大体、六キロってところだな」


その言葉に、連れの一人がピタリと足を止めた。


「は? 六キロだと?」


「ああ、地図の縮尺が正しければ、な」


「……じゃあ、なんで未だに『入り口』があんなにハッキリ見えてるんだよ!?」


全員が、一斉に後ろを振り返る。


そこには、変わらぬ大きさで堂々と佇む巨大なエントランスの姿があった。


誰もが言葉を失い、沈黙が場を支配する。


一人の冒険者が、諦めたようにゆっくりと地図を畳んだ。


「よし、俺は降りるわ」


「降りるって、何をだよ?」


「この場所のマッピングだよ、マッピング!」


「おいおい、どうしてだ?」


「だってよ……まるでこの塔が、俺たちを嘲笑っているようにしか思えねぇんだよ!」


別の冒険者が、遥か遠方にそびえる山脈の向こうへと視線を向けた。


「なあ、塔が笑うなんてこと、本当にあると思うか?」


三人目の冒険者が、一切の躊躇なく即答する。


「この塔に限って言えば――大いにあり得るな」


◇◇◇


そして、彼らのはるか頭上、最上階にて。


「ハックション――!」


豪快にくしゃみをして、カイが目を覚ました。


(……おや? 誰かが俺の噂でもしているのだろうか?)


そう思いながら瞼を開けると、すぐ近くに座っているユイが、手元の本から目を離さないまま口を開いた。


「おそらく、そうでしょうね」


「人聞きが悪いな」


カイが鼻を擦りながらぼやく。


そこへ、クロエがそっとテーブルの上にカップを置いた。


「カイ、あなたはもうすっかり有名人ですよ?」


カイは、じとーっとした目でクロエを見つめる。


「それだよ。俺が一番避けたかった事態は、まさにそれなんだ」


「そうは言いますが、百階層もある巨大な塔を建てたのはあなたでしょう?」


「建てたのはユイだぞ?」


ユイが、サラリと本のページを捲る。


「……ですが、そこに居着いているのはマスター、あなたです」


「それはそれ、これはいずれだろ?」


「どう違うのです?」


カイは、うーんと真剣に考えてみた。


「――いや、わからん」


その様子を見て、クロエがクスリと微笑む。


カイは、視線を大きな窓の向こうへと向けた。


この高さから見下ろすと、塔の外に広がる世界が、遥か地平線の彼方まで一望できる。


かつて『記憶の監獄(メモリープリズン)』の中で、戦い、生き残り、進化し、そして脱出の道を模索し続けた、あの果てしない日々。


それを思えば、こうした何気ない、ごく普通の朝が、今では奇妙なほど愛おしく、価値のあるものに感じられる。


人々が歩き、都市が機能している。


冒険者たちが地図の不条理さに文句を言い、どこかの街ではパンの価格で商人が言い争っているのだろう。


実に平和だ。



そしてカイは、この『平和』というやつが嫌いではなかった。


――そう、何者かがそれを、無惨にぶち壊しに来るまでは、ね。


---

数日分の距離を隔てた地にて。


リンとソラは、今は亡き廃村の跡地に立ち尽くしていた。


かつては小規模ながらも営みがあったであろうその村は、今や不気味なほどの静寂に包まれている。


木造の家々の扉はだらしなく開き放たれ、市場の露店はひっくり返ったままだ。


街道のあちこちには、割れた陶器の破片が散乱している。


だが――死体がない。


それこそが、リンが最も不気味だと感じる部分だった。


リンは、地面に残された一連の足跡の傍らにしゃがみ込む。


「これは……人間のものね」


ソラが周囲を警戒しながら首を傾げた。


「じゃあ、みんな一体どこへ消えちゃったの?」


「わからないわ」


リンは立ち上がり、そっと剣の柄に手を添えた。


何かがおかしい。


単に危険な気配がするというわけではない。


――空虚(からっぽ)なのだ。


まるで、ごく普通の日常の真っただ中で、突如としてこの集落だけが置き去りにされたかのような。


ソラが一軒の民家へと歩み寄り、その扉を押し開けた。


室内には、食卓が用意されたままになっていた。


器があり、コップがある。


椅子は引き出されたままで、荒らされた形跡はどこにもない。


ソラが眉をひそめる。


「……慌てて逃げ出したみたい」


リンが外の街道に視線を戻した。


「そうせざるを得ない『何か』があったのよ」


ソラが頷き、自身の杖を掲げる。


その先端に、かすかな魔力の光が灯った。


「ここに、魔法の残滓があるわ」


「どんな属性か、判別できる?」


ソラが意識を集中させる。


「……いいえ」


不意に、その光がチカチカと明滅した。


「おかしいわね。まるで……魔力そのものが『消去』されているみたい」


◇◇◇


リンの目が鋭く細められた。


その時、彼女の耳が捉えたのだ。


かすかな音を。


――背後から。


ハッと振り返るが、そこには何もない。


ソラも同時に振り返った。


「今の、聞こえた?」


「ええ」


二人は息を潜めて身構える。


訪れるのは、ただただ静寂。


リンはゆっくりと剣を引き抜いた。


「離れないで」


「わかったわ」


二人はさらに集落の奥へと歩を進める。


その瞬間、建物の隙間を『何か』が通り抜けた。


――速い。


尋常ではない速度だ。


リンの視線が鋭くそこへ向かう。


「今のは何!?」


ソラはその動きを辛うじて捉えるのが精一杯だった。


「わからない、でも――」


通り路の突き当たりに、黒い影が姿を現した。


一瞬、それは人間のようにも見えたが――次の瞬間、その『影』が動いた。


リンは即座に地を蹴って突進する。


刹那、彼女の剣が鋭く閃いた。


しかし、刃はむなしく空を切る。


その怪異は、すでにその場からかき消えていたのだ。


リンの目が驚愕に見開かれる。


(速い――ッ!?)


直後、背後から猛烈な一撃が放たれた。


リンは反射的に身を翻してそれを受け止める。


凄まじい衝撃が彼女を襲い、ブーツの底が地面を削りながら後退させられた。


数メートル先に、その怪異が佇んでいる。


それはまるで、実体を与えられた『影』そのものだった。


その輪郭は絶えずゆらゆらと蠢き、明確な顔のパーツもなければ、目も見当たらない。


認識できる解剖学的な構造など皆無。


ただそこにあるのは、圧倒的な『闇』。


リンは剣のグリップを強く握り直した。


「……逃がさないわよ」


◇◇◇


影の怪異が、唐突に消失した。


リンは直感的に身体を反転させる。


そこだ――ッ!


渾身の力で剣を振るうが、またしても手応えはゼロ。


すると、怪異はリンのすぐ真横へと再び姿を現した。


それに対し、ソラが先んじて反応する。


「『セレスティアル・バインド(星天の縛鎖)』!!」


地面から無数の光の鎖が噴出し、怪異へと猛烈に襲いかかる。


だが、影はその隙間を滑るようにして、あっさりと潜り抜けてしまった。


ソラの目が驚きに丸くなる。


「嘘……避けた!?」


すかさずリンが動いた。


魔力で身体能力を爆発的に強化し、前方へと肉薄する。


だが、怪異の速度はそれをさらに上回っていた。


両者の動きはもはや、常人の目には残像の乱舞にしか見えない。


肩、手、黒い輪郭――それを視認したと思った瞬間には、もうそこには何もいないのだ。


ソラが援護のためにいくつかの魔法弾を放つが、怪異はそのすべてを軽々と身をよじって回避していく。


「リン!」


「わかってるわ!」


リンは怪異の足払いをバックステップでかわし、ソラの隣へと着地した。


二人の呼吸は、すでに大きく乱れている。


ソラが悲痛な声を上げた。


「攻撃が……まるで見当たらないわ!」


「ええ、そのようね」


数メートル先で、怪異がじっと佇んでいる。


追撃をしてくる様子はない。


ただ、観察しているのだ。


少なくとも、リンにはそう思えた。


そして次の瞬間――またしても影が消えた。


「どこへ行ったの!?」


ソラが周囲を見渡す。


「ソラ、待って――!」


リンの警告は、一歩遅かった。


◇◇◇


ソラの真横に、突如として影が具現化する。


その腕が、容赦なくソラへと振り下ろされた。


あまりにも凄まじい、暴力的とも言える一撃。


その衝撃によって、ソラの身体は集落の向こうへと凄まじい勢いで吹き飛ばされた。


「ソラ――ッ!?」


リンが叫び声を上げ切るよりも早く、ソラの身体は朽ち果てた民家の壁を突き破った。


凄まじい土煙が、周囲の空気へと巻き上がる。


リンの心臓が、ドサリと冷たく跳ねた。


「ソラ!!」


彼女が駆けだそうとした、その瞬間。


第二の異変。


影の怪異が、またしても消失したのだ。


リンは足を止めた。


彼女の野生的な勘が、全力で警鐘を鳴らしている。


――上だ。


見上げた視線の先。


すでに怪異は彼女の頭上に位置しており、その身体はまるで降り注ぐ純粋な闇の塊のように、急速に落下してきていた。


リンは必死に剣を掲げ、迎撃の構えをとるが。


――時、すでに遅く。


ズゴォォォー――ンッ!!!


足元の地面が、爆発的な轟音と共に炸裂した。


リンの身体は容赦なく大地へと叩きつけられ、その衝撃で彼女を中心に巨大なクレーターが形成される。


その手から、愛用の剣が、むなしく宙へと弾き飛ばされていったのだった。


一瞬の間、彼女の耳からは一切の音が消え去っていた。


視界は酷く歪み、混濁している。


見上げる空は、焦点が合っては外れ、ぐにゃぐにゃと回っていた。


身体を動かそうと試みる。だが、ピクリとも動かない。


辛うじて、両腕が小刻みに震えるだけだった。


「ソ、ラ……」


リンは執念で片肘を突き、這いつくばるようにして上半身を持ち上げた。


影の怪異はクレーターの縁に着地し、ゆっくりと、確実にこちらへ歩み寄ってくる。


リンは弾き飛ばされた剣へ手を伸ばそうとした。


しかし、彼女の指先が虚しく土を引っ掻くだけで、距離はあまりにも遠い。


怪異が、その不気味な腕を高く掲げた。


リンの目が絶望に見開かれる。


(動けない――ッ!?)


冒険者としての旅路を始めて以来、彼女は初めて『本物の敗北』を理解した。


自身の力が足りなかったからではない。


何か致命的なミスを犯したからでもない。


ただ単純に、目の前に立つ『それ』の速度が、絶対的なまでに圧倒的すぎたのだ。


影の怪異が、容赦なくその腕を振り下ろす――。


◇◇◇


――その瞬間、世界が真紅に染まった。


遥か天空より、あまりにも凶悪な紅蓮のエネルギー光線が降り注いだのだ。


それは寸分の狂いもなく、的確に影の怪異へと直撃した。


ズゴォォォォォォー――ンッ!!!!!


凄まじい衝撃波が、集落の跡地を容赦なく蹂躙していく。


周囲の全方位に向けて、爆発的な土煙と瓦礫の嵐が吹き荒れた。


辛うじて立っていた民家の壁が激しく揺れ、周囲の木々がへし折れんばかりにしなる。


大地そのものが、悲鳴を上げるようにしてバキバキと裂けていった。


リンは反射的に顔を覆う。


未だ瓦礫の下に閉じ込められていたソラも、もうもうと立ち込める煙の隙間から、辛うじてその光景を目撃するのが精一杯だった。


そして――訪れる、唐突な静寂。


立ち込めていた土煙が、ゆっくりと引いていく。


そこにはもう、影の怪異の姿はなかった。


それどころか、塵一つ残さず消滅させられていたのだ。


リンは数秒の間、微動だにできずに固まっていた。


「……え? 一体、何が……?」


彼女は恐る恐る、今しがた光線が降ってきた空を見上げた。


だが、そこには何もない。ただ、のどかな雲が流れているだけだった。


◇◇◇


その頃、遥か遠方にそびえ立つ塔の最上階にて。


「――よし、これで片付いたな」


カイがそっと、突き出していた手を下ろした。


その視線は、遥か地平線の彼方に向けられている。


いつの間にか彼の隣に姿を現したユイが、光線が撃ち込まれた集落の方向を見つめ、それからカイへと視線を戻した。


「本当に、あの子の事を見守っているのですね」


カイはそれを否定しなかった。


その眼差しは、静かに地平線を見つめたままだ。


「当たり前だろ。実の妹一人守れないで、何が兄貴(ビッグブラザー)だって話だよ」


ユイが、一切の躊躇なく即座に切り返す。


「最悪な兄貴ですね」


「だろ? そういうことだ」


カイは満足そうに頷いた。


ユイがじっと見つめると、カイの張り詰めていた表情が、ふっと柔らかくなる。


「だからさ、あいつには無事でいてほしいんだよ」


その声には、先ほどまでの冗談めかした雰囲気は一切なかった。


悪戯っぽい笑みも、皮肉もない。


ただただ、純粋でシンプルな本心からの言葉。


ユイは一瞬だけ沈黙し、それから静かに問いかけた。


「……もし、あの子の命を本当に脅かすものが現れたら?」


その言葉に、カイの動きがピタリと止まった。


彼から表情が消える。


優しげだった顔つきから、一切の温もりが瞬時に剥ぎ取られていく。


その瞳は、深淵のように冷酷な光を宿していた。


「もし、俺から妹を奪おうとする奴がいるなら――」


刹那、彼の周囲の空気(世界)が、完全に停止した。


「――躊躇なく、この世界を滅ぼすまでだ」


ユイは彼をじっと見つめ、それから小さくため息をついた。


「……お願いですから、本当にやめてくださいね?」


「……善処する」


カイの表情が、何事もなかったかのようにゆっくりと戻っていく。


「全く、安心できませんね」


「知ってる」


ユイは呆れたように首を振った。


彼女はカイのことを十分に理解している。だからこそ、今の言葉が単なるハッタリでも、大袈裟な脅しでもないことを痛いほど分かっていた。


彼とリンの関係性は、普段のカイが保っている理性のリミッターを、完全に踏み越えさせる数少ない地雷なのだ。


自分への侮辱なら耐えられる。


敵対されることも、命を狙われることも、彼は笑って受け流すだろう。


だが、リンに対してだけは、絶対に別だ。


カイは再び、地平線の向こうへと目を向けた。


「あいつの人生を、邪魔するつもりはないんだ」


「ええ、分かっています」


「ただ、安全に、あいつの生きたいように生きてほしいだけさ」


ユイは微かに微笑んだ。


「それなら、私たちの意見は一致していますね」


カイもまた、静かに頷いた。


◇◇◇


すると、ユイが不意に片手を挙げた。


「ああ、それともう一つ。業務連絡があります」


カイが振り返る。


「何だ?」


「『魔王達(魔王達)』から、あなた宛てに親書が届いています」


カイはパチクリと瞬きをした。


「……もう来たのか?」


ユイから手渡された手紙を開き、カイは視線を走らせる。


そして、盛大にため息をついた。


「はぁ……。本当に、正式決定しちまったか」


そこへ、背後からクロエの声が響いた。


「何が決定したのですか?」


カイが振り返る。


「例の会談だよ」


その言葉に、クロエの目が心なしかキラリと輝いた。


「魔王達との、ですか?」


「そう、それ」


カイが頷くと、クロエは満面の笑みを浮かべた。


「それなら、その場にふさわしい正装を用意しなければなりませんね!」


カイは自身の、いつも通りのラフな格好を見下ろす。


「いや、俺は別にいつものこれでいいんだけど」


クロエは、じとーっとした目でカイを睨みつける。


「不許可(ダメ)です」


「……ダメ?」


「ダメです」


ユイもまた、クロエに同調するように頷いた。


「私も、クロエに賛成します」


カイは二人を交互に見つめ、がっくりと肩を落とした。


「……おいおい、これは謀反だな」


◇◇◇


それからしばらくして。


カイは、塔の最上階にある彼専用のプライベートスペースに設けられた、お気に入りの個人温泉の前に立っていた。


湯面からは、心地よい白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。


周囲は、ただただ静寂に包まれていた。


ここには、騒がしい冒険者たちもいなければ、面倒な政治の代表者たちもいない。


威圧的な魔王たちもいなければ、正体不明の不気味なモンスターの影すらなかった。


カイは、首までどっぷりと湯船に浸かった。


ゆっくりと瞼を閉じ、大きく息を吐き出す。


「これだ……」


しみじみと呟き、ふぅーっと長いため息を漏らす。


「――まさに、至高だな」


数分間、極上の静寂が彼を包み込んでいた。


だが、そんな至福の時間は長くは続かない。


――ペタペタと、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。


カイが薄目をあける。


案の定、脱衣所の向こうからユイとクロエの二人が平然と姿を現した。


カイはジト目で二人を睨みつける。


「おい。俺の癒やしの空間で一体何をするつもりだ?」


ユイが何食わぬ顔で、淡々と答える。


「何って、お風呂に入りに来たのですが」


「入れさせないからな、絶対にだ!」


カイは即座に上体を起こして抗議した。


だが、その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、クロエは躊躇なく湯船へと足を踏み入れていた。


カイは呆然と彼女を見つめる。


「……お前、一瞬の躊躇すらなかったな」


クロエは気持ち良さそうに湯船の縁に背中を預けた。


「カイが長風呂すぎるのが悪いんですよ?」


カイは助けを求めるようにユイへと視線を向けた。


「ユイ、お前だけはパーソナルスペースという概念を理解してくれているよな?」


しかし、ユイはカイの横をすたすたと通り過ぎる。


「いいえ」


そして、当然の権利とばかりにザブバと湯船に入ってきた。


カイは天を仰ぎ、天井の木目をじっと見つめた。


「……信じられん」


クロエがクスクスと楽しそうに微笑む。


「死ぬわけじゃありませんし、いいじゃないですか」


「そりゃ死にはしないけどさ……」


カイは再び湯船に背中を預け、がっくりと肩を落とした。


「……そういう問題じゃないだろ」


◇◇◇


それからしばらくの間、三人は静かに湯に浸かっていた。


乱入者はあったものの、その空気感は驚くほど穏やかで、心地よいものだった。


やがて、クロエがカイの方を振り返る。


「ねえ、カイ。例の会談に着ていく服のイメージは何かありますか?」


カイが目を開けた。


「服、か?」


「ええ」


カイはうーんと首を傾げ、ゆらゆらと立ち上る湯気を見つめながら考えてみる。


「いや――特にこれといって思いつかないな」


それを聞くと、クロエは満足そうに湯船から立ち上がった。


「よし、決まりました」


カイは怪訝そうな視線を彼女に向ける。


「決まりましたって、何がだよ?」


クロエは意味深な満面の笑みを浮かべた。


「私が、あなたに最高に似合う正装を用意してあげます!」


カイの目が鋭く細められた。


「……今のは、ものすごく不穏なフラグに聞こえたんだが?」


そんなカイの心配をよそに、クロエは楽しそうに笑うのだった。


◇◇◇


その日の午後。


クロエが約束通り、仕立て上がった衣装を抱えて戻ってきた。


カイはその服をじっと見つめる。


仕立てられていたのは――黒い縁取りと、かすかなブルーのアントが施された、洗練された白のロングコート。


その下には、何層かに重ねられた白いインナーウェア、白いトラウザーズ。


全体を引き締める黒いベルトに、漆黒のブーツ。


派手すぎず、かといって格式張りすぎない、極めて上品でスタイリッシュなデザインだった。


カイはそのコートを手に取り、クロエを見た。


「これを、お前が選んだのか?」


「ええ、そうです!」


カイが実際に袖を通してみる。


上質な白い生地が、彼の身体に吸い込まれるように自然にフィットした。


濃色のトリミングが全体のシルエットをシャープに引き締め、随所に配置されたブルーのラインが、絶妙なアクセントとして彩りを添えている。


彼の無造作な白髪が顔周りに揺れ、衣装の持つ洗練された雰囲気と、驚くほど完璧に調和していた。


カイは鏡の前に立ち、数秒の間、言葉を失っていた。


クロエは期待に満ちた目で待ち、ユイは値踏みするように彼の姿を見つめる。


カイは最後に、トントンと袖口を整えると――。


「……うわぁ、俺、めちゃくちゃ格好いいな(だぁぁぁん、アイ・ルック・アメイジング)」


自画自賛の言葉が漏れ出た。


クロエが嬉しそうに微笑む。


「ふふ、やっぱりお似合いです」


カイはもう一度、鏡の中の自分を凝視した。


「なんか、いつもと雰囲気が違いすぎるな」


「普段のあなたは、近所へ散歩にでも行くような格好ばかりですからね」


「いや、これでも散歩に行くかもしれないぞ?」


「魔王達の会談に、ですか?」


「細かいことは気にするな」


ユイもまた、その姿を見て満足そうに微かな笑みを浮かべた。


「その場にふさわしい、立派な佇まいだと思いますよ」


「だろ? お前のその言葉、ありがたく受け取っておくわ」


カイは満足そうに頷いた。


◇◇◇


彼は、近くのテーブルの上に置かれた招待状へと視線を落とした。


魔王たちが、待っている。


『ニクセラ』もそこにいるはずだ。


『イオン』も出席するだろう。


そして、この世界ではまだ見ぬ、残る三人の魔王たちもまた、その場所に集うことになる。


カイは手紙を丁寧に折り畳み、不敵に微笑んだ。


「さて――」


コートの襟を軽く正す。


「魔王という奴らがどんなものか、拝みに行こうじゃねえか」


彼はもう一度招待状を一瞥し、胸の奥で好奇心を深めていた。


確かめたいことがあったのだ。


あの『記憶の監獄(メモリープリズン)』の中で相まみえた魔王たちと、この現実世界に存在する魔王たちが、本当に同一人物なのかどうかを。


もし同一の存在だとして、彼らはあの時のままなのか。


あるいは、俺の記憶にある彼らは、監獄という歪んだ檻が見せた、ただの虚像に過ぎなかったのか――。


カイは、その答えを求めていた。


ユイが彼を窘めるように見つめる。


「……くれぐれも、問題を起こさないでくださいね?」


カイは心外だと言わんばかりに目を見開いた。


「おいおい、人聞きが悪いな。俺がいつトラブルなんて起こした?」


そこへ、クロエが間髪入れずに突っ込む。


「それは大嘘ですね」


カイの動きがピタリと止まる。


「……ちょっとした、可愛い嘘だろ?」


三人の間に、しばしのコミカルな沈黙が流れた。


それから、カイはふと遠い地平線へと目を向けた。


遥か彼方の地で、妹のリンは今頃、あの集落で起きた異変からのダメージを回復させている最中だろう。


生きてさえいれば、それでいい。


――今は、な。


世界は、急速にその複雑さを増しつつあった。


あの塔の存在は瞬く間に知れ渡り、魔王達が動き出し、一堂に会そうとしている。


そしてカイは今、この世界における最高峰の絶対強者たちが集う部屋へと、まさに足を踏み入れようとしていた。


その会談が一体、どのような結末を迎えるのか――。


今の彼には、知る由もない。


だが、これほどまでに胸の高鳴り(ワクワク)を覚えるのは、随分と久しぶりのことだった。


――次号へ続く。


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