第79話: 根源が扉を叩く
その『塔』は、4年もの間ずっと謎に包まれた存在だった。
だが今や――カイがアステリア王国へ気の向くままに、いささかカジュアルすぎる訪問を果たしたお陰で、人々はついに動き出していた。
人間という生き物が、不気味な未確認物体に遭遇した時、決まって取るお決まりの行動。
すなわち――つつき回し始めたのだ。
最初の来訪者たちは、王国の国境付近にある集落からやってきた。
その大半が冒険者である。
純粋な好奇心に駆られて足を運んだ者もいれば、内部に広大な大自然がそのまま内包されているという、突拍子もない噂を耳にしてやってきた者もいた。
そして、その中にはアステリア王国から隠密裏に送り込まれた『調査員』の姿もあった。
彼らに下された命令は極めてシンプルだ。
観察せよ。情報を収集せよ。居住者を刺激するな。
そして――決して、塔の奥深くへと強行突破を試みるな。
この最後の指示だけは、しつこいほどに念を押されていた。
あの常軌を逸した建造物の住人と全面戦争を引き起こす原因を作った『戦犯』にだけは、間違っても誰もなりたくはなかったからだ。
◆◆◆
そんなわけで、塔の『第一階層』は奇妙な賑わいを見せ始めていた。
数人の冒険者たちが入り口付近に立ち尽くし、目の前に広がる大パノラマを呆然と凝視している。
そのうちの一人が、ゆっくりと手元の地図を下げた。
「……おい、マジでここがまだ1階だって言うのか?」
相棒が、諦めたように首を縦に振る。
「らしいぜ」
「だけどよ、俺たちもう3時間近く歩いてるんだぞ?」
「ああ」
「なのに、反対側の壁すら見えやしねえ」
「そうだな」
最初の冒険者は、地平線の彼方まで延々と続く鬱蒼とした森林を睨みつけた。
それから、おそるおそる振り返る。
自分たちが通ってきたはずの『入り口』は、今なおすぐそこに見えていた。
彼は再び、ゆっくりと正面を向く。
「……イカれてやがる、この場所」
そこへ、大荷物を抱えた別のパーティーが彼らの脇を通り抜けていった。
「おい、この先に大きな湖があるって噂だぞ」
「湖だぁ?」
「ああ、そう言ってた」
「……塔の中に、湖だと?」
「らしい」
「一体どこのどいつが、こんなふざけた塔を建てやがったんだ?」
誰も答えなかった。
答えたくても、常識的な解答など存在するはずがなかったからだ。
◆◆◆
さらに奥へと進んだエリアでは、また別のグループが地形の測量に四苦八苦していた。
アステリア王国から派遣された研究者が、ここ1時間ほど環境調査に没頭している。
気温の変化、魔素の濃度、植生、空間の歪み――。
ある瞬間、彼はピタリとペンを動かすのを止めた。
助手が見る。
「どうかしましたか?」
研究者は、自身の記録ノートを凝視したまま、声を震わせた。
「……私は今、過去40分間、全く同じ環境測定値を記録し続けていることに気づいたんだ」
「それが、何か?」
「私たちは、ずっと同じ場所を歩いていたわけじゃないんだぞ?」
助けを求めるように、助手が目を瞬かせた。
「……はい?」
研究者が前方を指差す。
彼らが立っているのは、鬱蒼とした森のすぐ脇だ。
だがその先には、広大な草原が広がっている。さらにその向こうには切り立った山々。
そして遥か彼方には、まるで大海原かと思えるほどの巨大な水塊が見え隠れしていた。
助手が絶句する。
「……そんな、どうやって……?」
研究者は、はぁと重いため息をついた。
「それを解明するために、私は頭を抱えているんだよ」
◆◆◆
その頃、外の世界では、すでに生還した冒険者たちによって様々な噂が尾ひれを付けて拡散されていた。
誇張されたもの。完全にデタラメなもの。
そして――中には、あまりのスケールに事実よりも過小評価されてしまっているものまであった。
内部には森がある。湖がある。建造物がある。訓練場がある。見たこともない奇妙な生物がいる。人が暮らしている。
そして、ある一人の熱狂的な冒険者の証言によれば――森の向こう側には、なんと『一つの巨大な都市』すら存在するらしい。
当然、その噂は鼻で笑われ、即座に却下された。
「おいおい、流石にそれはねえよ」
「お前は現場を見てないからそんなことが言えるんだ!」
「いいか? あそこは『塔』だぞ?」
「それがどうした!」
「国じゃねえんだよ」
証言者の冒険者は、不満げに肩をすくめた。
「じゃあ、あの森をどう説明するんだよ?」
「……それは、無理だが」
「だろ?」
人々の困惑を置き去りにしたまま、塔の悪名は日々うなぎ登りに高まっていた。
◆◆◆
――そして、当の『塔』の内部では。
カイにとっては、そんな外の騒ぎなど一ミリとしてどうでもいいことだった。
彼はテーブルの前にゆったりと腰掛け、目の前に置かれた皿を満足げに眺めている。
傍らには、いつも通りクロエが控えていた。
そして二人の対面には、ユイが静かに佇んでいる――。
カイはさらに一口、肉を口に運んだ。
「――で、本当に中に入ってきてるのか?」
「ええ」
ユイが答える。
「どれくらいだ?」
「単なる『見学者』と呼ぶには、いささか不適切なほどの数ね」
カイは咀嚼して飲み込んだ。
「冒険者か?」
「大半はね」
「研究者は?」
「何人かいるわ」
「スパイは?」
ユイは一呼吸置いた。
「複数ね」
カイが頷く。
「ふむ……」
クロエが不思議そうにカイを見た。
「心配ではないのですか?」
「別に」
「なぜですか?」
カイは肩をすくめた。
「トラブルを起こさない限り、いくらでも見物させてやりゃいいさ」
ユイが腕を組む。
「その中には、明らかにアステリア王国のために情報を集めている者も混ざっているのよ?」
「知ってる」
「知っているの?」
「当然だろ」
カイはさらに一口、ぱくりと食べた。
「なら、奴らは最高につまらない報告書を提出する羽目になるな」
クロエがクスクスと静かに笑う。
ユイはジト目でカイを睨みつけた。
「……随分と、余裕しゃくしゃくじゃない」
カイは周囲を見回した。
「ただの塔だからな」
ユイの表情が、完全に無に帰した。
「カイ」
「何だよ」
「私は、内部の空間構造が従来の空間法則を完全に無視した、100階建ての建造物を建てたのよ?」
「ああ」
「その中に、森林、山脈、都市、湖、砂漠、その他諸々の環境を詰め込んだの」
「そうだな」
「それを、あなたは『ただの塔』と呼ぶわけ?」
カイは当然のように頷いた。
「技術的な分類としては、そうなるだろ」
ユイは諦めたように目を閉じた。
「……もういいわ」
クロエは口元を手で覆い、必死に笑いを堪えていた。
◆◆◆
カイは微笑んだ。
この世界にやってきて以来、初めて、状況が『普通』に戻りつつあるような感覚を覚えたからだ。
もっとも、完全に普通というわけではない。彼の人生において、完璧に普通だった時間など元から存在しないのだから。
だが、かつてユイの頭の中の単なるアイデアに過ぎなかった場所を、見ず知らずの一般人たちが探索している光景を見るのは、どこか奇妙な居心地の良さがあった。
彼はこの塔を、軍事要塞にしたいわけではなかった。
周囲に王国を築きたいわけでもない。
その壁の下に、大軍勢を終結させたいわけでもなかった。
彼はただ、かつて失った仲間たちが、いつか帰ってこられる場所が欲しかっただけだ。
我が家――。
そして願わくば、いずれは他の人々も訪れることができるような、そんな場所。
その想像は、決して悪いものではなかった。
その時、ユイの表情が僅かに動いた。
カイが気づく。
「どうした?」
ユイは、巨大なエントランスホールの方向へと視線を向けた。
「――誰かが来たわ」
カイが眉をひそめる。
「また冒険者か?」
「いいえ」
「研究者?」
「違うわ」
クロエがユイを見つめる。
「では、一体どなたが……?」
ユイの目が、鋭く細められた。
「――ニクセラよ」
カイの動きが止まった。
フォークを持った手が、口元への軌道の途中でピタリと静止する。
「……もう来たのか?」
ユイが深く頷いた。
カイはゆっくりとフォークを皿に戻した。
その顔に、ニィと不敵な笑みが浮かび上がる。
「……へえ。上手くいったな」
◆◆◆
その頃、塔から少し離れた荒野を、ニクセラは一人で歩いていた。
軍勢は連れていない。
護衛もいない。
お気に入りの配下である『ブラック』すらも同行させていなかった。
その必要がなかったからだ。
もしあの報告書が真実なら、軍隊を引き連れて行ったところで、何の意味も成さない。
それに、彼女は戦うためにここへ来たわけではなかった。
欲しいのは、答えだ。
何の前触れもなく現れた、新世代の魔王。
およそこの世に存在し得ない規格外の『塔』。
かつて世界の終わりとさえ称された古き吸血鬼クロエを、事もなげに従える男。
そして――何より、どういうわけか彼が所持していた『魔王進化の種』。
その最後の詳細だけが、どうしても彼女の脳裏に引っかかっていた。
ニクセラは、ただ『困難なこと』と『不可能なこと』の境界線を知るには十分すぎるほどの年月を生きてきている。
魔王の種を創り出すなど、生半可な芸当ではない。
それなのにカイという男は、種を手に入れる前から自分はすでに魔王だったと言い放ち、あろうことか、彼女の気を引くためだけに別の種を『意図的に作り出した』というのだ。
そんなこと、通常の魔王にできるはずがない。
おそらく、既存の『最古参の魔王たち』ですら不可能な領域だ。
ニクセラは、フッと妖艶に微笑んだ。
「……面白い」
前方に、例の『塔』が姿を現した。
遠目からでも、その巨大さは際立っていた。
だが、こうして自身の目で直接捉えるインパクトは、噂で聞くのとは訳が違った。
彼女は一瞬だけ、その場に足を止めた。
そして再び、楽しげに歩みを進め始めた――。
ニクセラがその『入り口』を一歩またいだ瞬間、塔の内部がその全貌を現した。
彼女は足を止め、ゆっくりとその大光景へと視線を巡らせる。
外見上の容積からすれば、絶対にあり得ないほどの広大な空間がそこに広がっていた。
開けた平原を貫く街道。遥か彼方の山々へと続く、どこまでも深い森林。
整然と区画された通りに沿って立ち並ぶ、見慣れぬ建造物の数々。
そして何より――この空間を満たすマナの流れが、異常なほどに安定していた。
あまりにも、安定しすぎているのだ。
空間維持のための歪みや、無理に世界をねじ曲げているような負荷の兆候が、一切感じられない。
ただそこに、当然の権利であるかのように存在している。
ニクセラの目が、鋭く細められた。
「……面白いな」
その背後から、不意に声が掛けられた。
「貴女がニクセラね?」
ニクセラが振り返る。
そこには、極めて冷静で、優雅で、完璧なまでに落ち着き払ったユイが佇んでいた。
ニクセラは彼女を観察する。
――この女、何かがおかしい。
その正体が、どうしても識別できないのだ。
彼女ほどの存在が、相手の底を見通せないということ自体がすでに異常事態だった。
ニクセラはこれまでの生涯で、数え切れないほどの種族や高位存在と相まみえてきた。
それなのに、目の前のユイという女は、彼女の知るいかなるカテゴリーにも当てはまらない。
「お前がユイか」
「ええ」
ニクセラは、フッと口元を綻ばせた。
「私が来ることを、知っていたようだな?」
「ええ、知っていたわ」
「どうやって?」
ユイはただ、静かに彼女を見つめ返す。
「知っているからよ」
ニクセラは一瞬だけ呆気に取られたように彼女を見つめ、それから低く笑い声を漏らした。
「……変わった女だ」
「よく言われるわ」
ニクセラは再び周囲に視線を移す。
「カイはここにいるのか?」
「ええ、いるわよ」
「私が来ることを、奴も知っていたのか?」
「いずれ来るだろう、とは言っていたわね」
ニクセラの笑みが、さらに深いものへと変わる。
「なるほど。つまり奴は、意図的に私の目を自分へと向けさせたわけだ」
ユイは答えなかった。
答える必要がなかったのだ。その沈黙こそが、何よりの肯定であった。
◆◆◆
ニクセラはそのまま奥へと歩を進めた。
数歩進んだところで、前方から近づいてくる足音が聞こえる。
やがて、姿を現したのはカイだった。
――あろうことか、奴はいまだにモグモグと何かを口に含んだままだ。
ニクセラがじっと見つめる。
カイは足を止め、ゴクリとそれを飲み込んでから彼女を見た。
「お」
一呼吸置いて、カイが口を開く。
「……本当に来やがった」
ニクセラが片方の眉を上げた。
「待っていたのだろう?」
「まあ、いつかは来ると思ってたけどな」
「ならば、認めるのだな?」
カイはあっさりと首を縦に振った。
「ああ、認めるよ」
ニクセラは胸の前で腕を組んだ。
「私を釣るために、わざわざ『魔王の種』なんてものを創り出した、と」
カイが不敵に微笑む。
「大体そんな感じだ」
その背後から、ひょっこりとクロエが姿を現した。
「カイ様……」
「何だよ?」
「それでは、ご自分が信じられないほど怪しい黒幕であるかのような言い方です」
「いや、正直に言っただけだろ」
「正直なら良いというわけではありません」
カイは、やれやれと肩をすくめた。
ニクセラは、そんな彼をじっと凝視し続ける。
「お前は、元から魔王だった」
「ああ」
「それなのに、もう一つの『魔王の種』を創造した」
「そうだ」
「それも、私に気づかせるためだけに、だ」
「正解」
ニクセラの表情から、徐々に娯楽の色が消え、真剣なものへと変わっていく。
「……なぜだ?」
カイは、その問いについて少しだけ考え込んだ。
「何でって……そりゃあ、お前に会いたかったからに決まってるだろ」
ニクセラは沈黙した。
カイがニィと笑う。
「で、実際こうして会えた。作戦大成功だな」
クロエが、はぁと大きなため息を漏らした。
「カイ様」
「今度は何だよ」
「お願いですから、すべてを完璧に計画していた風に装うのは止めてください」
「いや、本当に計画通りだし」
「それが一番タチが悪いと言っているのです」
そのやり取りを見て、ニクセラが笑った。
低く、だが、心の底からの本物の笑いだ。
「クク……ハハハ! 本当に、おかしな奴だな、お前は」
カイは再び肩をすくめる。
「それも、よく言われるな」
◆◆◆
――刹那、ニクセラの表情が一変した。
先ほどまでの面白がるような気配が、完全に消失する。
彼女は、確かめたくなったのだ。
周囲の空気が、一瞬にして重く爆ぜる。
ニクセラの身体から、濃密なオーラが目視できるほどのプレッシャーとなって膨れ上がった。
それは攻撃ではない。
自身の真の力を完全に解放したわけでもなかった。
だが、並の強者であれば、本能的な恐怖でその場に平伏するか、あるいは即座に迎撃態勢を取らざるを得ないほどの――絶対的な『覇気』だった。
――だが、カイは動かなかった。
ただそこに、自然体で立ち尽くしている。
身構えるわけでもなく、表情を変えるわけでもない。
何一つ、反応を示さなかった。
ニクセラは注意深く観察する。
だが――何も起こらない。微動だにしないのだ。
彼女の目が、微かに細められた。
カイが、ようやく小首を傾げた。
「……何か始まったのか?」
ニクセラは答えない。ただ覇気を維持し続ける。
それでもなお、カイは平然としたままだった。
その時、カイの脳内にユイの声が響く。
(カイ。一つ、伝えておくべきことがあるわ)
カイは思考で返した。
(何だよ?)
ユイの声は、どこまでも冷静だった。
(あなたが『記憶の監獄』で知っていたニクセラと、今あなたの目の前に立っている彼女とでは――その力の次元がまるで違うわ)
カイの目が、心なしか泳いだ。
(マジかよ!? 冗談だろ?)
(事実よ)
カイは改めてニクセラを凝視した。
――『記憶の監獄』の時点で相当ヤバい奴だと思ってたが、現実の奴はそれ以上に化け物だったってわけか。
一瞬の沈黙。
だが、次の瞬間にはカイの表情から戸惑いが消えていた。
(……なら、好都合だ。こっちもそれ相応の挨拶を返してやるよ)
ユイは答えなかった。
その必要がないほどに、カイの意志を理解していたからだ。
◆◆◆
――刹那、カイが自身のオーラを解放した。
効果は劇的だった。
周囲の空気が、一瞬にして総入れ替えされる。
足元の地面がひび割れることも、何かが爆発することもない。
塔の内部を破壊するような、派手な衝撃波など吹き荒れなかった。
そんな演出は、彼の力には不要だったからだ。
ただ、彼の『存在』そのものが、深く、重く、圧倒的な質量となって世界へ染み渡っていく――。
◆◆◆
その瞬間、塔の外にある荒野で、ある少女がピタリと足を止めた。
リンが完全に硬直したため、後ろを歩いていたソラがぶつかりそうになる。
「リン……?」
リンは答えなかった。その目は驚愕に見開かれている。
感じていた。間違いない、この気配だ。
4年前――あの『太陽の涙』の時に感じた、あの奇妙な歪み。
だが、今感じているものは、当時とは比べ物にならないほどに強大だった。
ソラが心配そうに覗き込む。
「どうしたの?」
リンはゆっくりと、塔のある方角へと視角を向けた。
「私……」
言葉が出てこなかった。
酷く懐かしい感覚。胸が締め付けられるほどに。
それなのに、どうしても理由が思い出せない。
ソラが一歩、歩み寄る。
「リン?」
リンは、ようやくソラを見つめた。
「……また、感じたの」
「何を?」
「あの人の、気配」
ソラの表情が、ふっと和らいだ。
「……ずっと、探していた人だね?」
リンが深く頷く。
「でも、どこにいるのかまでは、まだ分からなくて……」
ソラは地平線の先を見つめた。
「なら、探しに行こう」
リンがソラを振り返る。
「……一緒に、行ってくれる?」
ソラは、いつものように優しく微笑んだ。
「当然でしょ」
リンの顔に、再びいつもの笑顔が戻る。
「うん! よろしくねっ!」
◆◆◆
その頃、塔の内側では――。
ニクセラの瞳が、カイを完全にロックしていた。
彼女は理解した。この男、ハッタリではない。
その身に宿す力は本物であり、何より、今しがたの衝突でも『意図的に力をセーブしていた』という事実に。
ニクセラが、ゆっくりと覇気を霧散させる。
それに合わせ、カイも自身のオーラを収束させた。
張り詰めていた緊張感が、綺麗に消え去る。
数秒の間、互いに言葉はなかった。
やれやれと、カイが後頭部を掻いた。
「――で?」
ニクセラが彼を睨む。
「今ので、満足したか?」
「とりあえずは、な」
カイが頷く。
「そりゃ重畳」
ニクセラは再び、観察するようにカイを見た。
疑問は尽きない。この塔の構造。ユイ。クロエ。魔王の種。そしてカイという存在の不確かさ。
その上での、この底知れない実力だ。
この奇妙な新世代の魔王が、一体どんな未来を創り出すつもりなのか――彼女はそれを知りたかった。
カイは、その表情から彼女の思考を読み取ったらしい。
「一応、未来の話をしときたくてな」
「未来、だと?」
「ああ」
カイの表情が、少しだけ真面目なものに変わる。
「これから世界がどう動くのか、その辺の舵取りをハッキリさせときたいんだよ」
ニクセラは沈黙し、先を促す。
「俺は別に、世界征服なんて大それたことには興味がない」
「……良かろう」
「戦争を始める気もない」
「それも、結構なことだ」
「それに、軍隊を組織して暴れ回るつもりも毛頭ない」
その言葉に、ニクセラは視線をクロエ、次いでユイへと向け、最後にカイへと戻した。
「……その言葉を証明するには、随分と説得力に欠ける布陣だがな?」
カイが苦笑する。
「そりゃ一本取られたな」
彼は一呼吸置き、核心を切り出した。
「――それで、もう一つ聞きたいんだが」
「何だ?」
「俺が、他の『魔王たち』の連なりに加わることは可能なのか?」
ニクセラは躊躇なく答えた。
「加わること自体は、大した問題ではない」
カイが目を瞬かせる。
「マジで?」
「問題は、そこではないのだ」
ニクセラの表情が、一気に険しさを増す。
「お前は先ほど、元から魔王だったと言ったな?」
カイが頷く。
「だが、我々はその事実を、つい最近まで一切関知していなかった」
彼女はカイを真っ直ぐに見据えた。
「――ならば、お前は一体どこで、どうやって『魔王』になったのだ?」
カイは沈黙した。
そして、やれやれと肩をすくめる。
「……あいにく、それに関しては俺にも答えが出せない質問なんだよ」
ニクセラが片方の眉を上げた。
「お前自身にも、わからないと?」
「ああ、分からん」
カイはニィと笑みを浮かべ、おもむろに彼女を指差した。
「で――どうなんだ? 可能なのか?」
ニクセラはしばらく彼を凝視していたが、やがて短く答えた。
「……可能だ」
カイが満面の笑みを浮かべる。
「そいつは良かった」
ニクセラが、ふっと背を向けた。
「では、また会おう」
「ああ、またな」
次の瞬間、ニクセラの姿が掻き消えた。
光のフラッシュも、転移のゲートも、呪文の詠唱すらもない。
ただ最初からそこにいなかったかのように、存在そのものが唐突に消失したのだ。
カイが、誰もいなくなった空間を呆然と見つめる。
「……本当に、あっさり帰っちゃったな」
クロエが頷いた。
「どうやら、そのようですね」
カイがユイを見る。
「随分と展開が早かったな」
ユイが微かに微笑む。
「あら、もっとドラマチックなお別れの挨拶でも期待していたの?」
「いや」
一呼吸置いて、カイがつぶやく。
「……ほんのちょっとだけな」
クロエが、呆れたように首を横に振るのだった。
◆◆◆
一方その頃――。
遥か彼方の自室へと、何の手間もなく帰還を果たしたニクセラ。
そこでは、お気に入りの配下であるブラックが、すでに彼女の帰りを静かに待ち受けていた――。
ニクセラが姿を現した瞬間、ブラックは静かに頭を下げた。
「おかえりなさいませ、ニクセラ様。首尾はいかがでしたか?」
ニクセラはブラックへと視線を向けた。
一瞬の間、彼女は何も語らなかった。
だが、その妖艶な唇に、ふっと小さな笑みが刻まれる。
「そうだな――」
彼女の脳裏に、あの常識外れの塔、底の知れない謎の女ユイ、カイの傍らで平然と佇んでいた古き吸血鬼クロエ、そして、あの『魔王の種』と、カイ自身が放った底なしの覇気がよぎる。
ニクセラの笑みが、ジワリと深いものへと変わっていった。
「――実に、退屈しない男だったよ」
ブラックが驚いたように目を瞬かせる。
そんな配下を余所に、ニクセラはただ優雅にその脇を通り抜けていった。
これほど長い生涯の中で、次に何が起こるのかを彼女が純粋に『楽しみに思う』など、一体いつ以来のことだろうか。
そして――遥か彼方の地平では、少女リンが、まだ見ぬその同じ男を求めて、知らず知らずのうちに歩みを進めている。
世界は、確実に動き始めていた。
そして当のカイ自身は、その動きがこれからどれほどの『大騒動』を引き起こすことになるのか――未だ、知る由もなかったのである。




