第78話: 世界が動き出す
アステリア王国に、静かな朝が訪れた。
王宮はすでに目覚めている。
廊下を行き交う使用人たち、交代を終えた衛兵、慌ただしく部署へと向かう官僚たち――。
だが、その王宮のさらに地下深く――いまだ眠りを知らない男がいた。
セブンである。
机の上には、いまだに王立アーカイブの資料が散乱していた。
本、報告書、古代の記録、あるいは地図。
コッリ・ヴァネッサに関するすべての情報が、この一箇所に集められていた。
セブンは椅子の背もたれに頭を預け、疲弊しきった目を向ける。
見つめる先にあるのは、たった一枚の紙切れだ。
――カイ。
その名の下には、驚くほど何も書かれていなかった。
家族。出生地。所属国家。血筋。これまでの経歴。
何一つ、存在しない。
文字通り、皆無だった。
セブンは眉をひそめる。
「――わけがわからないな」
対面に立つアーヴェンが、怪訝そうに問いかけた。
「何がだ?」
セブンは、その紙切れを指先で叩いた。
「こいつだ」
「カイ、か?」
「ああ」
アーヴェンが歩み寄る。
セブンはさらに記録の山を指し示した。
「王立のアーカイブは調べ尽くした」
「ああ」
「冒険者の記録もだ」
「ああ」
「商人の取引記録も」
「ああ」
「軍の在籍データもだ」
「ああ」
「近隣諸国の記録まで洗った」
「ああ」
セブンは体を深く背もたれにあずけた。
「――なのに、何もないんだ」
アーヴェンがその紙切れを凝視する。
「つまり……カイという男の記録が、どこにも存在しないと?」
「その通りだ」
アーヴェンは少しの間、考え込んだ。
「潜伏していた、という可能性は?」
セブンは首を横に振った。
「可能性はある」
別の書類を手に取り、それを放り出す。
「だがな、隠れて生きる人間であっても、必ず足跡は残るものだ」
パラリ、と書類が落ちる。
「移動の記録。物資の購入。噂話。目撃証言。あるいは、偽名」
さらに別の書類を叩く。
「何かしらが、残るはずなんだ」
アーヴェンは腕を組んだ。
「それが、カイには一切ないと?」
「4年前より昔の記録は、な」
その言葉に、アーヴェンの表情が一変した。
「4年前……か」
セブンが深く頷く。
「あの『塔』が現れたのが、ちょうど4年前だ」
「そして――『太陽の涙』の封印が解けたのも、同時期だったな」
「ああ」
アーヴェンがセブンを真っ直ぐに見つめる。
「繋がっていると、そう考えているのか?」
「調べる価値はある、と思う。あまりにも偶然が重なりすぎているからな」
セブンは、背後にそびえ立つ巨大な棚へと視線を向けた。
アーヴェンは小さくため息を漏らす。
「なら、調査するしかないだろう」
セブンは彼を見た。
「……お前、まるで王様みたいな言い方をするな」
「陛下とは長く仕事をしているからな。移ったのかもしれん」
セブンは、疲れの混じった苦笑を浮かべた。
「そいつは災難だな」
◆◆◆
謁見の間は、いつも以上に静まり返っていた。
玉座に鎮座する国王アルドレン。
その御前に立つ、セブン。
傍らには、アーヴェンも控えている。
数人の高官が立ち会ってはいるが、王の指示により、この会合は極めて少人数で行われていた。
国王アルドレンは、手元にある報告書に視線を落とした。
「――何も見つからなかった、か」
セブンが深く頷く。
「はい。役立つものは、何一つとして」
「説明しろ」
セブンが一歩、前へ出た。
「あの『塔』が現れるより前のデータにおいて、カイという男の経歴は一切識別できません」
アルドレンは不機嫌そうに眉をひそめた。
「アステリアの国外に住んでいた可能性は?」
「あります」
「他国から流れてきた、という線は?」
「あります」
「素性を隠しているだけ、ということは?」
「それもあります」
アルドレンの目が、鋭く細められた。
「……だが?」
セブンは、わずかに言葉を濁した。
「――問題は、その『無』があまりにも完璧すぎるという点です」
王は、上体をわずかに前に乗り出す。
「どういう意味だ?」
「いかに正体を隠そうと試みる者であっても、普通は何かしらの痕跡を残すものです」
セブンは数枚の書類を机に並べた。
「しかし、カイにはそれがない」
アルドレンはそれらの資料を凝視した。
セブンが言葉を続ける。
「彼の名が記録に登場するのは、あの塔が出現した『後』からだけなのです」
「……あの塔、か」
「はい」
アルドレンは、傍らに控えるアーヴェンに視線を向けた。
「では――ユイという女の方はどうだ?」
セブンは首を横に振る。
「さらに輪をかけて何もありません」
アルドレンは、深く、重いため息を漏らした。
「素晴らしいな」
「――それから、もう一つ」
セブンが声を低くする。
「何だ?」
「我々は未だに、カイの『正体』を掴めていません」
アルドレンの表情が、一瞬で険しいものへと変わる。
「奴は自ら『魔王』と名乗ったはずだが?」
「はい」
「それがどうした?」
「魔王というのは、あくまで肩書き、あるいは称号に過ぎません」
セブンは真っ直ぐに王を見据えた。
「必ずしも、それが『種族』を示しているとは限らないのです」
王は沈黙した。
アーヴェンが、驚愕を孕んだ目でゆっくりとセブンを振り返る。
「……お前、奴が別の『何か』だとでも言うつもりか?」
「わからない、ということです」
セブンは机の上の書類を乱雑にまとめた。
「そして私は――わからないという状況が、酷く嫌いな性分でしてね」
アルドレンは、再び椅子の背もたれに体を預けた。
一瞬、彼は『塔』への直接調査を命じるべきか、と思案した。
だが、次の瞬間――あの謁見の間で見せたカイの表情が脳裏をよぎる。
あの絶対的な冷徹さ。静寂。
そして、ユイという少女が言葉を発した瞬間に、それが霧散したあの光景を。
「……否、それは却下だ」
セブンが意外そうに目を見開いた。
「陛下?」
「あの塔には、絶対に誰も派遣してはならん」
「では、我々はどう動くべきで?」
「監視だ」
セブンが納得したように頷く。
「カイを観察しろ、と」
「そうだ」
「その動向を」
「ああ」
「周囲の人間を」
「ああ」
「その活動のすべてを、な」
セブンは、そこで一呼吸置いた。
「もし……何かを掴んだ場合は?」
アルドレンは、窓の外の景色へと視線を移した。
「その時になってから、どう処理するかを決める」
再びセブンへ視線を戻す。
「それまでは、絶対に奴を刺激するな」
「了解いたしました」
王は次に、アーヴェンへと視線を変えた。
「それから、コッリ・ヴァネッサに関する報告書の閲覧制限を徹底しろ」
アーヴェンが深く頭を下げる。
「御意に、陛下」
アルドレンは思考を巡らせる。
だが、どうしても答えの出ない疑問が一つだけ残っていた。
なぜ、カイはあの古き吸血鬼に『新しい名』を与えたのか。
そしてなぜ、彼女はそれを容易く受け入れたのだろうか――。
◆◆◆
王宮から遠く離れた場所でも、また、新しい朝が始まろうとしていた。
リンとソラの二人は、街道沿いにある小さな宿屋で一夜を明かしていた。
お世辞にも立派とは言えない宿だ。
建物は古く、客室は手狭で、出される食事も平均的。
だが、何よりも安かった。
だから二人とも、文句を言う筋合いはなかった。
……基本的には、だが。
腰に長剣を帯びたリンが、宿の前に足を踏み出す。
その後ろを、杖を手にしたソラがついていく。
リンが大きく背伸びをした。
「はぁ……」
ソラがその横顔を覗き込む。
「疲れてる?」
「ちょっとね」
「夜遅くまで、起きて地図を睨んでたのはリンでしょ?」
リンは心外だと言わんばかりに不満げな顔をした。
「あれは勉強してたのっ」
「上下逆さまに持ってたけど?」
「……あれは、一回だけでしょ!」
「昨日ね」
「昨日の、一回だけ!」
プッとソラが吹き出す。
リンはバツが悪そうに腕を組んだ。
「とにかく! 今日こそはまともなクエストを受けるんだから!」
ソラも、楽しそうに頷いた。
「そうだね、やっと冒険者らしい仕事ができる」
◆◆◆
二人は足早に、冒険者ギルドへと向かった。
以前に立ち寄った街のギルドよりも、一回りは大きい建物だ。
入り口からは、絶え間なく人が行き交っている。
武器を携えた者、重厚な鎧を身にまとった者。
中には、まるで死線を潜り抜けてきたばかりのような、凄みのある者たちも混じっていた――。
リンは周囲を見回した。
「前の街のギルドよりも、断然大きいね」
ソラが納得したように頷く。
「そうだね。王都に近いからかもしれない」
二人は掲示板へと歩み寄った。
そこには、何枚ものクエストの依頼書が張り出されている。
リンが上から順に読み上げていく。
「薬草の採取」
「パス」
「商人の護衛」
「パス」
「農場に現れたスライムの駆除」
そこで、リンの手が止まった。
「これ、ちょっと可愛いかも」
ソラがジト目を向ける。
「……可愛いけど、立派な魔物討伐クエストだよ?」
「そうだね」
リンは苦笑いしながら、さらに視線を走らせる。
そして、ある一枚の紙の前でピタリと動きを止めた。
「――これだ」
ソラが隣に並び、依頼書を覗き込む。
内容はシンプルだった。
調査依頼:行方不明の商隊について。
街道沿いの森林地帯にて、複数の物資輸送隊が消息を絶った。
ギルド側は魔物の活動によるものと推測。
報酬:中程度。
難易度:Cランク。
リンがソラに視線を送る。
「どう思う?」
ソラはもう一度、その詳細に目を通した。
「危険かもしれないね」
リンが不敵に微笑む。
「ってことは、受ける?」
ソラは、はぁと小さくため息を漏らした。
「そう言うと思ったよ」
リンは迷わず依頼書を引っこ抜いた。
「よし、行こう!」
「待って」
リンが足を止める。
「何?」
ソラが指を差したのは、受付の窓口だった。
「ちゃんと手続きをしてからじゃないと、受託したことにならないよ」
リンは手元の紙を見つめた。
「あ……」
ソラは呆れたように首を横に振る。
「リンは本当に、こういう手続きが苦手だね」
「これでも勉強中なのっ」
「ゆっくりね」
「ちょっとー!」
ソラがクスリと笑った。
「ほら、行くよ」
◆◆◆
数時間後、二人は問題の森林ルートへと到着していた。
辺りは静まり返っている。
不気味なほどに、静かだった。
リンが先頭を歩き、その右手はいつでも剣を抜けるよう、柄の近くに置かれている。
ソラがそのすぐ後ろを追った。
「本当に、魔物が商隊を襲ったのかな?」
「さあね……」
リンは周囲の景色に目を配る。
「それにしちゃ、それらしい痕跡が少なすぎる」
ソラが眉をひそめた。
「奇妙だね」
さらに奥へと進む。
数分後、リンがその場にしゃがみ込み、地面に触れた。
「――足跡だ」
ソラが近寄る。
「魔物の?」
リンは首を横に振った。
「ううん。これは……人間のものだよ」
ソラの表情に緊張が走る。
「……じゃあ、どうしてギルドは魔物の仕業だと思ったの?」
「これをやった奴らが、そう見せかけたかったのかもね」
ソラが息を呑む。
リンは立ち上がった。
「先を急ごう」
◆◆◆
足跡を辿り、二人は森のさらに奥深くへと侵入していった。
やがて、彼女たちの目の前に、打ち捨てられた一台の馬車が現れる。
車輪の一つが完全に壊れており、荷台の物資は綺麗に持ち去られていた。
だが――血痕はない。
遺体もない。
魔物に襲われた形跡など、どこにも見当たらなかった。
ソラが馬車を観察する。
「何もかも、綺麗に盗られてる」
リンが周囲の木々に視線を走らせる。
「それに、抵抗した跡が全くない」
「それって、つまり……?」
「不意を突かれたか」
リンがゆっくりと剣の柄を握り締める。
「あるいは――最初から、戦うつもりがなかったか、だね」
その時、二人の背後から、低く濁った声が響いた。
「――見かけによらず、冴えてるじゃねえか」
リンが静かに振り返る。
木々の影から、武器を手にした複数の男たちが姿を現した。
ソラが小さくため息をつく。
「……盗賊、ね」
男たちの一人が、下品な笑みを浮かべた。
「武器を置いて大人しく従うなら、命だけは助けてやるぜ?」
リンがソラを見た。
ソラもまた、リンを見返す。
そして、リンはニィと不敵に笑った。
「――断る」
盗賊の笑みが、瞬時に消え失せる。
「……あ?」
「断る、って言ったの」
男が忌々しげに剣を抜いた。
「なら、力ずくで奪い取ってやるよ! 野郎ども、やれぇ!」
一斉に襲いかかってくる。
◆◆◆
キィィィンッ!
リンの抜いた剣が、鋭い金属音を響かせた。
互いの鋼が激しくぶつかり合う。
リンはそのまま力任せに男を押し返したが、すぐさま別の盗賊が側面から斬りかかってきた。
ソラが素早く杖を掲げる。
「『セレスティアル・バリア』!」
瞬時に光の壁が展開された。
盗賊の刃はその壁に弾かれ、大きく軌道をそらされる。
ソラがいたずらっぽく微笑んだ。
「かかった」
リンがチラリと視線を送る。
「ナイス、ソラ!」
「油断しないで、集中!」
「わかってる!」
さらに3人の盗賊が突撃してくる。
リンが一歩、前に踏み出す。
その身体に魔力が巡り、動きの速度が爆発的に跳ね上がった。
迫る一撃を紙一重で身をかがめてかわし、独楽のように鋭く旋回する。
彼女の剣が下から跳ね上がると同時に、襲撃者の武器が宙を舞った。
別の盗賊が背後から組み付こうと動く。
だが、その足元をソラの魔力が絡め取った。
「『セレスティアル・バインド』!」
「ぶふぉっ!?」
男は無様に、地面へと顔面から突っ込んでいった。
リンがソラに声をかける。
「ソラ、本当にその魔法が好きだよね」
「使い勝手がいいからね」
「それもそっか」
その時、体格のいい大男の盗賊が、一際大きな声を上げてソラへと突進した。
リンは即座に反応し、二人の間に割り込む。
その重い一撃を、自身の剣で受け止めた。
ギチギチと音が鳴るほどの衝撃。
その風圧に押され、リンの身体が数メートルほど後ろへと滑った――。
ソラが目を見開いた。
「リンッ!」
リンはぐっと足元を踏みしめ、体勢を立て直す。
「平気、大丈夫!」
大男の盗賊が、再び凶器を振り上げる。
その瞬間、リンの目が鋭く細まり、彼女の剣に濃密な魔力が収束していった。
一閃――。
凄まじい衝撃波が放たれ、大男の巨体は木の幹へと激しく叩きつけられた。
辺りに、静寂が戻る。
残された盗賊たちは、完全に戦意を喪失して武器を地面に落とした。
一人が、慌てて両手を挙げる。
「降参だ! 悪かった!」
リンはゆっくりと剣を収めた。
「……賢い選択だね」
ソラが周囲を見回す。
「思ったより、あっさり終わったね」
リンが頷いた。
「私たち、少しは強くなってるのかも」
ソラも嬉しそうに微笑む。
「間違いないよ」
◆◆◆
その後、捕らえた盗賊たちは素直に全てを白状した。
襲われた商隊は全滅したわけではなく、森の奥深くにある古い隠し倉庫に監禁されていたのだ。
盗賊たちは奪った物資を、別の集落を通じて横流ししていたらしい。
リンとソラは、無事だった商人たちを全員救出した。
盗賊の身柄は、後から駆けつけたギルドの手によって厳重に連行されていく。
今回の報酬は、あの安宿にあと数泊してもお釣りが来るほどの額だった。
リンは大満足の様子だったが、ソラはすっかり疲れ果てていた。
◆◆◆
商人たちを送り届けた後、二人は川のほとりに座り込んでいた。
リンはブーツを脱ぎ捨て、冷たい川の中に足を浸す。
「あー、気持ちいい……」
ソラがその隣に腰を下ろした。
「あの狭い部屋で寝るより、ずっとマシだね」
リンが可笑しそうに笑う。
「ベッドに文句を言ってたのはソラでしょ?」
「だって本当に酷かったんだよ?」
「そこまで悪くなかったと思うけどな」
「リンはフレームの壊れてる側に寝てなかったからだよ」
「あはは、それは確かに」
二人の間に、心地のいい沈黙が流れる。
穏やかな川のせせらぎが響き、水面には柔らかな太陽の光がキラキラと反射していた。
ソラが、ふとリンの横顔を見つめる。
「ねえ、リン」
「ん?」
「これから先、どうなるのかなって、考えたりする?」
リンは真っ直ぐに前を見つめた。
「毎日、考えてるよ」
「私たちは、どこへ行くんだろうね」
「うん」
「何を見るんだろう」
「そうだね」
ソラは、ほんの少しだけ言葉を躊躇った。
「……そして、誰に出会うのかな」
リンが微笑む。
「面白い人たちに会えるといいよね」
ソラは視線を落とした。
「……うん、そうだね」
その表情の僅かな変化に、リンが気づく。
「ソラ、どうかした?」
ソラは首を横に振った。
「ううん、何でもないよ」
そして、愛おしそうに微笑む。
「ただ……私は今、ここにいられて本当に良かったなって」
リンが小首を傾げた。
「私と一緒に?」
ソラが真っ直ぐに彼女を見つめ返す。
「当たり前でしょ」
リンの頬が、ほんのりと朱に染まる。
「そ、そっか……」
ソラが、リンの肩にそっと頭を預けた。
リンの身体が一瞬だけ、ビクリと強張る。
だが、すぐに緊張は解け、心地よさそうに力を抜いた。
どちらからも、言葉は発せられない。
ただ川のせせらぎだけが、二人の時間を満たしていく。
そこにはクエストも、魔物も、奇妙な謎も存在しなかった。
ただ、二人だけの静かな世界がそこにあった――。
◆◆◆
――だが、次の瞬間。
リンの視線が、突如として森の奥へと向けられた。
その表情が、一変する。
ソラが異変に気づいた。
「リン……? どうしたの?」
リンはすぐには答えなかった。
――あの感覚だ。また、やってきた。
かつて『太陽の涙』の時に感じた、あの奇妙で圧倒的な気配。
極めて微弱で、常人であればまず感知できないほどの歪み。
しかし、確かにそれは存在していた。
リンが勢いよく立ち上がる。
ソラが見上げた。
「リン?」
「……また、感じたの」
「あの気配を……?」
リンは木々の奥を鋭く睨みつけながら、深く頷いた。
「近かった。すぐ近くにいたよ」
ソラがその隣に寄り添う。
「どこにいるか、わかる?」
「ううん……」
リンはそっと目を閉じ、意識を研ぎ澄ませて探ろうとする。
しかし、何も引っかからない。
気配は完全に掻き消えていた。
リンが目を開ける。
「……消えちゃった」
ソラが森の奥へと視線を巡らせた。
「リンが探している『あの人』なのかな……?」
リンは沈黙した。
「わからない……」
彼女は自身の小さな手のひらを見つめる。
「でも、少しずつ……近づいている気がするんだ」
ソラが、優しく微笑んだ。
「なら、これからも一緒に探そう」
リンがソラを振り返る。
「……一緒に、行ってくれる?」
ソラは迷わず頷いた。
「当然でしょ」
リンの顔に、いつもの明るい笑顔が戻る。
「うん! よろしくねっ!」
◆◆◆
その頃、ユイの『塔』の内部では――。
カイが長いテーブルの前に座り、眉をひそめていた。
机の上には、ありとあらゆる地図が広げられている。
諸王国の領土、主要都市、交易ルート、冒険者ギルドの配置図。
そして、いくつかの『魔王領』の境界線までもが詳細に描かれていた。
カイは、その地図を忌々しげに凝視する。
「……いくら何でも、国が多すぎるだろ」
その背後に立つユイが、クスリと笑った。
「ええ、とても多いわね」
「具体的にいくつあるんだ?」
「たくさん、ね」
カイの眉間の皺が深くなる。
「それは数字じゃない」
「数字で答えたつもりはないもの」
そこへ、お茶の用意をしたクロエが部屋へと足を踏み入れてきた。
「カイ様」
カイが視線を向ける。
「ん?」
「もう一時間も、ずっとその地図を睨みつけていらっしゃいますよ」
「これでも勉強中なんだがな」
クロエがトレイを置き、苦笑しながらお茶を差し出した。
「一体、何を学んでいらっしゃるのですか?」
「この世界が、どれほど面倒くさい構造をしてるかってことだ」
ユイが楽しそうに微笑む。
「それで?」
カイは、はぁと盛大なため息を漏らした。
「……ぶっちゃけ、鬱陶しい」
その言葉に、クロエが思わず吹き出した。
カイが怪訝そうな目を向ける。
「何がおかしい」
「いえ……だってカイ様は、世界を滅ぼしかねないような存在と何年も戦ってきたのに、たかが地図一枚に苦戦していらっしゃるのですもの」
「地図は危険だ。油断ならん」
ユイが呆れたように首を横に振った。
「違うわよ、あなた。危険なのは地図じゃなくて『地理』の方よ」
カイはユイをじっと見つめた。
「……似たようなもんだろ」
「全然違うわよ」
カイはそのツッコミを綺麗にスルーした。
術もなく流されたユイを余所に、地図上のある一点を指先でトントンと叩く。
「……とにかく、だ」
ユイが覗き込んできた。
「何かしら?」
「ニクセラは今、どこにいる?」
ユイの表情に、面白がるような色が浮かんだ。
「あなたが例の『魔王進化の種』で、わざわざ釣ろうとしたあの子のこと?」
「ああ」
「彼女なら、あなたのことを調べているわよ」
カイは椅子の背もたれに体を預けた。
「知ってる」
「あら、気づいていたの?」
「当たり前だろ」
クロエが微かに微笑む。
「では、どうしてこちらから接触しに行かないのですか?」
カイはクロエをじっと見つめた。
「……めんどくさいから」
パタン、とユイが本を閉じた。
「それが本音じゃないでしょう?」
カイは、はぁとため息をついた。
「わかったよ」
彼は視線を窓の外へと向ける。
「……奴に、選ばせたいんだよ」
ユイの表情が、ふっと柔らかいものに変わる。
カイは言葉を続けた。
「俺から会いに行けば、奴は警戒して裏を勘繰る。だがな――奴が自分からここに来るというのなら、話は別だ」
クロエがその意図を察したように頷く。
「つまり……本当にあなたに会う意志があるのかどうか、確かめられる、と」
カイが頷く。
「その通りだ」
ユイが微笑んだ。
「意外と、まともなことを考えるのね」
カイも悪戯っぽく笑い返す。
「俺だって、たまには頭を使うことくらいできるさ」
「……たまに、ねえ?」
「おい」
クロエが思わず吹き出した。
カイは再び地図へと視線を戻す。
「奴は、必ず来る」
ユイが小首を傾げた。
「自信満々ね?」
カイは不敵に笑った。
「好奇心旺盛な奴ってのは、そういう生き物だからな」
◆◆◆
遥か彼方、紅く染まった空の下――。
古めかしい要塞のバルコニーに、一人の女性が佇んでいた。
風に揺れる、長い黒髪。
その瞳は、手元にある報告書をじっと見つめていた。
――カイ。
突如として現れた、新世代の魔王。
4年前に出現したという謎の『塔』。
それを創造したとされる、ユイという名の女性。
そして、その傍らに突如として現れた吸血鬼のクロエ。
さらには、既存のいかなる概念にも分類できない、出所不明の『気配』。
ニクセラは、報告書の最後の一行をもう一度読み、静かにそれを閉じた。
彼女はその長い生涯の中で、ありとあらゆる存在と出会ってきた。
悪魔。竜族。人間。精霊。魔物。あるいは、神。
力の性質というものを、彼女は知り尽くしている。
魔力の匂いも理解している。
魔気の本質も見分けることができる。
竜の血を引く者も識別できるし、精霊のエネルギーと物理的なマナの違いも明確に区別できる。
だが――カイという男だけは、そのどれにも該当しなかった。
彼の放つ気配は、あまりにも奇妙だった。
決して、弱いという意味ではない。その逆だ。
まるで、本来なら決して相容れないはずの複数の『存在方式』が、無理やり一つに織り合わされているかのような――。
それでいて、そのどれもが彼という存在の全体を説明しきれていないのだ。
ニクセラは、妖艶に微笑んだ。
「……一体、お前は何者なのだ?」
答える声は、どこからも返ってこない。
彼女は遥か彼方の地平線へと目を向けた。
あの世界の果てに、例の『塔』がある。
これまでは、彼女自身が直接赴くことを敢えて避けていた場所だ。
――だが、それも今日までだ。
彼女はバルコニーに背を向けた。
「調べるのは、もう十分だ」
控えていた配下たちが、一斉に彼女へと視線を注ぐ。
ニクセラは不敵に微笑んだ。
「――直接、会いに行くぞ」
配下の一人が、困惑したように声を漏らした。
「我が主よ……それは、賢明な判断とは言えないのでは?」
ニクセラは、フッと低く笑った。
「おそらく、そうだろうな」
彼女はそのまま、迷いのない足取りで扉へと向かう。
「だがな――私は昔から、安全な選択肢を選ぶのが酷く苦手なのだよ」
パタン、と彼女の後ろで扉が閉まった。
カイが出現して以来、初めてニクセラ自身が彼に向けて動き出したのだ。
そしてカイもまた、それを待っていた。
世界が、静かに動き始めようとしていた。
一つのピースが、次のピースを動かすように――。




