第77話: 封印の下の名
カイが立ち去ってから、どれほどの時間が流れただろうか。
アステリア王宮の謁見の間は、未だに不気味なほどの静寂に包まれていた。
国王アルドレンは、玉座に腰掛けたまま微動だにしない。
アルヴェンもまた、その場に直立したままであった。
周囲を取り囲む重臣たちも、声を出すことすら忘れたように沈黙している。
ぶっちゃけ、今この場で大きな呼吸(息遣い)を一つするだけでも、現在の最悪な状況をさらに悪化させかねないと、誰もが本能的に察していたからだ。
やがて――アルドレンが重い腰を上げるように、ゆっくりと身を乗り出した。
「――アルヴェン」
「はっ、ここに」
「あの『クロエ』とかいう女について、我が国が把握している情報をすべて吐き出せ(報告しろ)」
その要求に、アルヴェンの表情がわずかに強張る。
「クロエ、ですか?」
「うむ」
「あの吸血鬼の?」
「そうだ」
アルヴェンは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……ぶっちゃけ、我々も彼女については、ほとんど何も掴んでおりません」
国王の目が、鋭く冷徹に細められる。
「ならば、今すぐ調べ上げろ」
アルヴェンは即座に深く頭を下げた。
「御意に、国王陛下」
彼はすぐさま、居並ぶ役人たちへと鋭い視線を向けた。
「――この中で、封印アーカイブ(禁書庫)のアクセス権を持っている者は誰だ?」
すると、一人の高年齢の学者が恐る恐る一歩前に出た。
「王立歴史編纂室の責任者たる、この私にございます、陛下」
アルドレンがその男を射すくめる。
「古代の吸血鬼に関するあらゆる記録を、今すぐここへ持ち込め」
学者はパチクリと目を丸くした。
「あらゆる記録、にございますか?」
「そうだ」
「たとえそれが……閲覧制限のかかった『禁書』であっても、ですか?」
アルドレンの表情が、一切の妥協を許さない鉄の如きものへと硬化した。
「――当然だ。むしろ、それ(禁書)を最優先しろ」
学者はゴクリと喉を鳴らし、生唾を呑み込んだ。
「は、ははっ! 直ちに!」
彼は衣服を振り乱すようにして、大慌てでその場から駆け去っていった。
アルドレンは再び背もたれに深く体を預け、先ほどまでの謁見を脳内で反芻していた。
カイ。ユイ。そして、クロエ。
本来ならばこの世界に『存在してはならないはずの塔』に佇む、三人の異常者。
最初、アルドレンはあの『カイ』という新世代の魔王こそが、最も危険な爆弾だと考えていた。
だが――今の彼は、全く別の疑念を抱いていた。
あの『クロエ』という吸血鬼の佇まいには、どうにも説明のつかない奇妙な違和感があったのだ。
カイの隣に立つその自然な姿勢、彼に言葉を返す時の口振り、そして互いの間に漂う、あまりにも距離感の近いカジュアルな親密さ。
彼女は決して、魔王に仕える奴隷のようには見えなかった。
かと言って、力ずくで従わされている囚人の風でもない。
まるで――己の明確な意思を持って、自ら望んで彼の側に留まっているような、そんな風に見えたのだ。
アルドレンは静かに目を閉じた。
(……一体、我々は何という化物をこの世界に招き入れてしまったのだ……?)
――それから数時間後。
王宮のさらに遥か地下、ディープな暗がりに位置する一室が、数十個もの魔力ランプ(マジックランタン)によって白日の如く照らし出されていた。
部屋の壁という壁には、天井まで届く巨大な棚が厳重に並んでいる。
そこには保存魔法がかけられたケースに収められた古代文書が、山のように積み上げられていた。
紙に書かれたものから、薄い金属板に刻まれたもの、果てはオリジナルの素材が劣化しすぎて触れるだけで崩壊しかねないため、魔力結晶(水晶)にデータとして記憶されたものまで、様々である。
アルヴェン・ダールの隣には、黒い学者ローブを纏った一人の青年が立っていた。
彼の名はセブン。
アステリア王国が誇る最高峰の若き研究者であり、歴史的記録や古代生物、さらには未知の魔法現象(超常現象)の分析を専門とする、ぶっちゃけ偏屈な天才であった。
セブンは、ずっしりと重い一冊の古文書をテーブルの上にドンと置いた。
「これで、ウチの書庫にある『古代吸血鬼』に関するデータは全部だよ」
アルヴェンはその膨大な本の山を見上げる。
「……これほどの大容量なのか?」
セブンは「やれやれ」と肩をすくめて見せた。
「ぶっちゃけ、その大半はゴミ(駄文)だけどね」
彼は最初の一冊をパラパラとめくる。
「こっちはただの民話。」
次の一冊。
「こっちは宗教的な妄想。」
さらに次の一冊。
「こっちにいたっては、完全な創作ファンタジー(おとぎ話)さ」
アルヴェンはがっくりと肩を落とし、ため息をついた。
「……なら、なぜわざわざそんなものを運んできた?」
「歴史ってのはね、そういう『デタラメ』の中に、ごく稀に本物の真実がポロッと混ざってるから面白いんだよ」
アルヴェンがジト目で彼を凝視すると、セブンは悪びれる様子もなくへらりと笑った。
「まぁ、歴史の調査なんてのは、基本クソ面倒な作業(単純労働)だしね」
「違いねぇな」
セブンは手際よくページをめくり、検索を続ける。
「吸血鬼の記録ってのは大抵、下位の吸血鬼の暴走とか、血の魔法、あるいは古代の血族に関するものばかりだ」
彼は別の古い巻物を広げた。
「……やっぱり、『クロエ』なんて名前の名簿はどこにもないね」
アルヴェンは腕を組み、声音を低くした。
「……諦めるな、さらに深く潜れ(探し続けろ)」
セブンは「はいはい」と頷き、再び作業に戻った。
数十分が経過し、やがてそれは数時間の長期戦へと突入していく。
地下室の魔力ランプは静かに燃え続け、紙の擦れる音だけが部屋に響く。
古い記録が次々と開かれ、過去に消え去った英傑や怪物の名が読み上げられていくが――決定的な情報には、未だに指一本触れられずにいた。
――と、その時。
セブンの指先が、ある古いページの上でピタリと停止した。
「……あれ?」
アルヴェンがすかさず身を乗り出す。
「どうした? 何かあったか?」
セブンは答えなかった。
彼は息を呑み、表情をみるみるうちに強張らせながら、ゆっくりともう一枚ページをめくった。
その明らかな異常に、アルヴェンは即座に気づいた。
「おい、セブン。見つけたんだな?」
セブンはゆっくりと顔を上げ、冷や汗を流しながらその古文書をテーブルの中央へと差し出した。
紙質は恐ろしいほどに劣化しており、言うまでもなく、何百年も前の代物であることは明白だった。
いくつかの箇所は激しく損傷(破損)していたが――そこには、一人の怪物の名が、歪な文字ではっきりと刻まれていたのである。
『コッリ・ヴァネッサ』
アルヴェンはその名を凝視した。セブンが震える声で、その解説を読み上げていく。
「……古代の真祖(吸血鬼)。その危険度は――測定不能。
異常なまでの超速再生能力を保有し、過去にいくつかの国家規模の災害(大規模イベント)を引き起こしたとされる最凶の存在……」
アルヴェンの表情が、かつてないほどの深刻なものへと変貌した。
「……続けろ」
セブンはゴクリと唾を呑み込み、信じられないといった様子で言葉を紡ぐ。
「今から、およそ数百年前……この『コッリ・ヴァネッサ』は、当時の英雄たちによって――『太陽の涙』の地の下に封印された、とある」
圧倒的な、静寂。
アルヴェンは、その文字を穴が空くほど見つめた。
「……『太陽の涙』だと?」
「ああ」
「あの、塔が建っている場所と……まったく同じ場所か?」
セブンは恐怖に顔を青ざめさせながら、ゆっくりと頷いた。
「……ピンポイントで、完全に一致(同じロケーション)だね」
アルヴェンは眩暈を覚えたように、ゆっくりと一歩後ろへと下がった。
「そんな馬鹿なことが……あってまるか……っ!」
セブンが恐る恐る尋ねる。
「……何がそんなにマズいわけ?」
「何がだと? 決まっているだろう。あの封印された大怪物は、歴史上――『一度も封印を解かれた記録がない』のだぞ!?」
セブンの顔から、完全に血の気が引いた。
「……じゃあ、記録の上では、今もあそこに眠っているはず(・・・・・・・・・)ってこと?」
アルヴェンはその名をもう一度凝視した。
その瞬間、彼の脳裏に、心臓を直接鷲掴みにされるような、恐る恐る恐ろしい最悪の推論が形を成し始めていた。
「――セブン」
「……何?」
「あの魔王カイの隣で、優雅に笑っていたあの吸血鬼の正体は――」
セブンは何も答えることができなかった。
アルヴェンの声は、もはや蚊の鳴くような、絶望に満ちた掠れ声へと変わっていた。
「……全力を挙げろ(徹底的に調べろ)。一文字たりとも、情報を聞き漏らすな……っ!」
セブンは言葉を失ったまま、狂ったように新たな古文書の山へと手を伸ばし始めたのである。
――世界を揺るがす最悪の真実へと、彼らは今、確実に足を踏み入れつつあったわけである。
真夜中を迎える頃、地下の禁書庫は、ぶっちゃけ完全に戦場と化していた。
部屋のいたる所に古文書が散乱し、テーブルの上は解読された資料で埋め尽くされている。
その上空には、損傷した記録から抽出した翻訳断片を投影する、いくつもの魔力結晶が怪しく浮遊していた。
セブンは疲れ切った様子で、ゴシゴシと両目を擦る。
「――ふぅ。これだけ集めれば、十分すぎるほど現状把握(ステータス確認)ができるよ」
その隣で、アルヴェンが鋭い視線を向けた。
「……聞かせてくれ」
セブンは深く息を吸い込み、声音を落とした。
「コッリ・ヴァネッサ。歴史上、最も危険と称された『真祖の吸血鬼』の一人だ」
「どれほど危険なんだ?」
セブンはテーブルの上の資料に目を落とす。
「それがさ……ぶっちゃけ、記録によって被害規模がバラバラなんだよね」
「それは、答えになっていないぞ?」
「仕方ないでしょ。だって、当時の記録を書いてる奴らが――全員、恐怖で正気じゃなかった(カンストしてた)んだからさ」
アルヴェンが息を呑み、沈黙する。セブンは淡々と言葉を重ねた。
「彼女はね、一言で言えば『絶対転生』とでも呼ぶべき、チート級の固有能力を持っていたらしい」
アルヴェンの表情が、さらに険しくなる。
「……どういう意味だ?」
「言葉の通りさ。死の概念を完全に無視して、何度でも蘇る(完全復活する)わけよ」
「完全に、だと……?」
「そう」
セブンはさらに別の古いページをめくった。
「ある戦記によれば、彼女が最終的に封印される直前の大戦において、当時の英雄たちは彼女を『何度も、繰り返し殺した』と記録されている」
アルヴェンは言葉を失い、その文字を凝視した。
「……一体、何回殺したんだ?」
セブンは困ったように視線を落とす。
「具体的な数値は書いてない。ただ……『彼女を殺すという行為は、何の意味もなさなかった(無駄ゲーだった)』とだけ、生々しく記述されているよ」
アルヴェンの顔が、見る見るうちに絶望の色に染まっていく。
「だから……殺せないから、封印するしかなかったわけか」
「そういうこと」
「あの、『太陽の涙』の地の下に」
「完全に一致、だね」
「――なら、なぜ、そんな大怪物が今、ピンピンして生きてるんだよ!?」
セブンは気まずそうに言葉を濁した。
「……ぶっちゃけ、そこが一番のシステムエラー(問題)なんだよね」
アルヴェンが、ゆっくりとセブンの方を振り返る。
「……何だと?」
セブンは、さらに別の極秘資料をテーブルに提示した。
「歴史上、あの封印が解かれた(ブレイクされた)という記録は――どこを探しても、一文字たりとも存在しないんだよ」
アルヴェンはパチクリと目を丸くした。
「……一つも、ないのか?」
「ナシ。完全にゼロだ」
「じゃあ、彼女はどうやってあの監獄から出てきたって言うんだ?」
セブンは「やれやれ」と首を横に振る。
「僕に聞かないでよ。そんなの分かるわけないじゃん」
アルヴェンの表情が、かつてないほど苦渋に満ちたものへと歪んでいく。
「……考えられる可能性は、いくつかある。封印の経年劣化によるシステムダウン(崩壊)。」
「あり得るね」
「あるいは――何者かが、外から故意に封印を解除した」
「それも大いにあり得る」
「――そして、それをやったのが、あの魔王カイだとしたら?」
セブンは彼を見つめ、静かに頷いた。
「……ぶっちゃけ、それが一番確率の高い正解だろうね」
アルヴェンは、昼間のカイとの会話を脳内でフラッシュバックさせていた。
カイは確かに、クロエのことを「ただあの塔に住んでいる奴」と表現していた。
彼女が一体どこから来たのか、その出自については一切説明しなかったし、過去に封印されていた古代の真祖だなんて一言も口にしなかった。
(……なるほど、そういうことか。あいつ、全部知ってて(確信犯で)やってやがったな……っ!)
カイがすべてを把握した上で、あの最凶の吸血鬼を側に置いているのだと、アルヴェンは完全に誤認(勘違い)し、戦慄していた。
セブンがさらに資料を読み進める。
「あ、それと、もう一つおまけの不都合な真実があるんだけど」
「……まだ何かあるのか?」
「記録にあるコッリ・ヴァネッサの外見特徴は、完璧に『大人の真祖』だ」
アルヴェンは先を促す。
セブンはゆっくりと顔を上げ、冷や汗を流しながら告げた。
「だけど、僕たちが今日会ったあの女性の名前は、確か『クロエ』だったよね?」
「ああ、そうだ」
「つまりさ……彼女は本名を隠している(偽名を使っている)可能性があるわけよ」
アルヴェンの目が、驚愕に大きく見開かれた。
「まさか、お前……っ!」
セブンは古文書の歪な文字をビシッと指さした。
「あの『クロエ』という小娘の正体こそが――この封印されし大怪物、コッリ・ヴァネッサその人(本人)ってことさ」
地下室が、完全に凍りついた。
アルヴェンはその最悪の推論を前に、ただ言葉を失う。
彼の脳裏に、昼間カイの隣で優雅に笑っていたあの黒髪の吸血鬼の姿が蘇る。
あの泰然自若とした態度、底の知れない圧倒的な存在感。
魔王を相手に一歩も引かないカジュアルな口振り、楽しそうな笑い声、そして、あの化物の隣にいながら、恐怖の欠片すら見せなかったあの不敵な佇まい――。
合点がいった、と同時に、アルヴェンの胃の辺りがズシッと重くなった。
「……俺たちは、あの新世代の魔王ばかりを警戒していたが……」
セブンが深く頷く。
「それで?」
アルヴェンは絶望したように天井を見上げた。
「あいつ、世界を滅ぼしかねない古代の真祖を連れて、平然とハイキング(お散歩)してやがったんだぞ……っ!」
セブンは至って冷静に、だが無慈悲にそれを訂正した。
「厳密に言えば(テクニカルには)、『太陽の涙』に伝説級の国家封印を施さなきゃ止められなかったレベルの化物を、ね」
アルヴェンは力なく椅子へとへたり込んだ。
「……おい、セブン。酒だ。今すぐ酒を持ってこい」
セブンは呆れたようにジト目を向ける。
「何言ってるのさ。もう真夜中だよ?」
「分かってるよ! 分かってなきゃ、こんな現実やってられるか……っ!」
――。
そして、翌朝。
国王アルドレンは、届けられた極秘報告書を前に、完全に言葉を失っていた。
一度読み、二度読みし、さらには三度目の確認を行う。
やがて――震える手で、ゆっくりと報告書を机の上へと下ろした。
「……コッリ・ヴァネッサ、だと……?」
玉座の前には、徹夜明けのセブンとアルヴェンが直立していた。
セブンが重々しく頷く。
「はい、国王陛下。間違いありません」
アルドレンはアルヴェンへと視線を向けた。
「……本当に、間違い(誤診)ないのだな?」
「複数の禁書と照合いたしました」
セブンが代わりに答える。
「外見的特徴、魔力特性、すべてが完璧に合致しております」
「能力は?」
「同じく、一致しています」
「封印の場所は?」
「ピンポイントで、あの塔の座標と完全に重なります」
アルドレンの顔から、完全に血の気が引き、真っ白に変貌した。
「……ということは、昨日、あの魔王カイの隣で気楽に笑っていたあの小娘は――」
セブンは冷酷にトドメを刺した。
「ええ。ほぼ100%の確率で、かつて世界を震撼させた大怪物、コッリ・ヴァネッサ本人です」
国王は背もたれに深く体を預け、しばらくの間、天井を見上げたまま微動だにしなかった。
張り詰めた沈黙の中、数秒の時間が流れる。
やがて、彼は震える声で呟いた。
「……つまり、あの魔王カイは、古代の真祖を己の配下として従えている、ということか……」
しかし、アルヴェンは複雑な表情で首を横に振った。
「いえ……ぶっちゃけ、彼女が配下として『従っている』のかどうかすら、我々には判別できません」
アルドレンが鋭い視線を向ける。
「だが、あの女はカイの後ろを歩いていたのだろう!?」
「はい、同行しておりました」
「あの塔に、一緒に暮らしているのだろう!?」
「はい、そのようです」
「あの戦い(イベント)においても、彼の側で共に戦ったのだろう!?」
「はい、間違いありません」
「現に、あやつを『カイ様』と、敬称(様付け)で呼んでいたではないか!」
アルヴェンは一瞬言葉に詰まり、そして諦めたように応じた。
「……確かに、その通りでございます、陛下」
アルドレンは机をバンと叩き、声を荒らげた。
「ならば! それを『主従関係』と言わずして、一体何と呼ぶのだ!?」
アルヴェンには、それを覆すだけの論理的な回答を持ち合わせていなかった。
国王は、いたたまれない様子で玉座から立ち上がり、部屋の中をせわしなく往復し始めた。
「まず、突如としてあの正体不明の『塔』が出現した」
彼は一歩一歩、床を踏みしめる。
「そして蓋を開けてみれば、その内部には新世代の魔王が居座っていた」
彼はピタリと足を止め、絶望的な面持ちで二人を振り返る。
「挙句の果てには――その魔王の隣にいる女が、歴史上最凶と謳われた伝説の真祖吸血鬼だったというのか……っ!」
セブンもアルヴェンも、もはや何も言い返すことはできず、ただ重苦しい沈黙が部屋を支配するばかりであった。
国家の命運を揺るがす圧倒的なイレギュラー(チート)を前に、アステリア首脳陣の精神は、完全に限界を迎えていたわけである。
国王アルドレンは、狂ったように言葉を吐き出し続けた。
「それだけではない! あの『塔』を創造したという女にいたっては、あの暴虐極まりない力を秘めた魔王が、彼女が『落ち着け』と言った瞬間、一言の文句もなく即座に従った(従属した)のだぞ!?」
彼はうろうろと往復していた足を、ピタリと止めた。
「――アルヴェン」
「はっ」
「我々は、一体どんな奈落(底知れない穴)に足を踏み入れてしまったのだ……?」
アルヴェンは、謁見の間の巨大な車窓の向こうへと視線を向けた。
「……ぶっちゃけ、私にも分かりません」
アルドレンは深い、深いため息をついた。
「――お前のその『分からない』という回答は、最近どうにも私の神経を逆撫で(イライラ)させてくれるな」
彼らがそれ以上言葉を交わす前に――。
謁見の間の重厚な大扉が、バンと音を立てて乱暴にこじ開けられた。
息を完全に切らした一人の王宮伝令兵が、縋り付くように部屋へと飛び込んでくる。その手には、厳重に封印された緊急報告書が握りしめられていた。
「こ、国王陛下ぁっ!!」
そのあまりの異常事態に、室内に配置されていたすべての近衛兵が一斉に武器の柄へと手をかけた。
アルドレンが鋭く振り返る。
「何事だ! 騒々しい!」
伝令兵はその場にドサリと片膝をついた。
「ひ、東方天文台(観測所)より、超特急の緊急電文が届きました!」
「申せ!」
「あの……『太陽の涙』の遺跡が――っ!」
彼の声は、恐怖でガタガタと震えていた。
「太陽の涙が、どうしたというのだ!?」
「――遺跡の地下深くに施されていた『国家封印』が、完全に『破壊』されているのが確認されました……っ!」
世界が、完全に静止した。
アルヴェンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「破壊されていただと……っ!?」
「は、はい! 現地調査員の報告によれば、粉々に粉砕された封印魔法の残滓と、測定不能の莫大なエネルギーの放出痕が確認されたとのことです。しかも……その発生時期は、およそ『四年前』と推測される、と……っ!」
誰も、指一本動かすことができなかった。
セブンは、先ほどから自分の手に握りしめられていた古文書の束へと、ゆっくりと視線を落とす。
「こ、国王陛下……」
アルドレンの声は、もはや消え入りそうなほどの掠れ声だった。
「……『太陽の涙』の地下に封印されていた大怪物は――コッリ・ヴァネッサ、ただ一人のはずだ」
その冷酷な事実が、刃となって室内の全員の胸へと突き刺さった。
アルヴェンがセブンの方へと視線を向ける。
「おい、セブン。もし、あのコッリ・ヴァネッサの封印が本当に破られていたのだとしたら……」
セブンはその先にある最悪の結論を、震える声で引き継いだ。
「……ええ。昼間、あの魔王カイの隣で気楽に笑っていたあの吸血鬼は、ただの『クロエ』なんて名前の小娘なんかじゃない。本物です」
アルドレンの目が、驚愕に大きく見開かれた。
「やはり……彼女が、コッリ・ヴァネッサだったのか……っ!」
アルヴェンの呼吸が、目に見えて荒くなっていく。
「そして、あの魔王カイが……彼女に『クロエ』なんて新しい名前を与えて、ペットみたいに連れ回している、と……」
すると、伝令兵がさらに深く頭を下げた。
「――国王陛下、まだ、続き(・・・・)がございます」
アルドレンは引き攣った顔で彼を睨みつける。
「これ以上、一体何が最悪だと言うのだ!?」
伝令兵は、もう一枚の書状を恐る恐る差し出した。
「最新の分析報告によれば、あの破壊された国家封印は――『外側から破壊された形跡がない』とのことです」
セブンが我慢できずにもぎ取るようにその書状を奪い取り、狂ったようにその文字を走らせた。
「何が書いてあるんだ!?」
伝令兵はゴクリと喉を鳴らした。
「あの封印は……どうやら『内側から抉じ開けられた(ブレイクされた)』形跡がある、と……っ!」
謁見の間を、底知れない絶対零度の恐怖が支配した。
アルヴェンの拳が、みしり、と音を立てて強く握りしめられる。
「内側から、だと……?」
セブンが、絶望的な面持ちでゆっくりと顔を上げた。
「……つまり、彼女は外からの救出を待つまでもなく、自力で目覚めて、内側から封印をぶち破って(チート能力で)出てきたってことだよ」
アルドレンは報告書を見つめた。
四年前。あの謎の『塔』が出現した。そして封印が破られた。
すべてはあの『太陽の涙』の地の下で、伝説の最凶真祖吸血鬼がこの世界へと帰還したことから始まっていたのだ。
国王の声音が、かつてないほど冷徹に強張る。
「……太陽の涙に関する新たな情報を、一文字残らず私に報告せよ」
伝令兵は慌てて深く頭を下げた。
「はっ! 東方天文台の観測によれば、遺跡の地下全域に異質な残留魔力が検出されております。その術式パターンは我が国のいかなる魔法分類にも該当せず、オリジナルの封印魔法が……まるで内側から何か『圧倒的な力』によって力ずくで捻じ曲げられた(バグで上書きされた)ような歪みを見せている、とのことです!」
セブンの顔が引き攣る。
「……現地の調査員は、怪物の遺留品などは見つけなかったのか?」
「ナシ、とのことです」
「血液の痕跡は?」
「一切ありません」
「他の囚人がいたような形跡は?」
伝令兵はぶんぶんと首を横に振った。
「あり得ません! 歴史的記録の上でも、あそこに封印されていたのはコッリ・ヴァネッサ、ただ一人にございます!」
アルヴェンが、絶望的な目でアルドレンを見つめた。
「……陛下。もはや、疑う余地はありませんね」
アルドレンの視線が、再び遥か彼方の車窓へと向けられた。
あの不気味にそびえ立つ『塔』。魔王カイ。真祖クロエ。そして、破壊された国家封印――。
すべては四年前という同一の時間軸へと見事に収束していく。
彼の声は、もはや蚊の鳴くような、かすかな呟きへと変わっていた。
「……私たちは、最初から調べるべき謎を完全に間違えていたのだ」
セブンが怪訝そうに尋ねる。
「……国王陛下?」
アルドレンは、震える手で報告書を強く握りしめた。
「問題は……あのクロエが、伝説のコッリ・ヴァネッサ本人かどうかではない」
彼はゆっくりと、閉ざされた謁見の間の方へと視線を向け、戦慄と共に告げたのだ。
「――本当に恐ろしいのは、あの世界を滅ぼしかねない大怪物が、なぜ自ら進んで『魔王カイの隣に並び立つ(従う)』ことを選んだのか、だ……っ!」
誰も、その問いに答えることはできなかった。
アステリア王宮の遥か外――かつて世界を恐怖に陥れた古代の封印は、確かに内側からぶち破られていた。
そして、その監獄から這い出てきた『本物の化物』は――言うまでもなく、ただ一人で戻ってきたわけではなかったのである。
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アステリア王国から遥か遠く離れた地――。
そこには、緑豊かな街道をのんびりと歩む二人の少女の姿があった。
腰に一本の剣を帯びているのは、リン。
そして、背中に古めかしい杖を背負っているのが、ソラだ。
二人は午前中のほとんどの時間を移動に費やしていた。
巨大な大樹の合間を縫うように延びる街道には、木漏れ日が黄金の光線となって降り注ぎ、時折、頭上を鳥たちが羽ばたいていく。
リンは手元にある地図をじっと見つめた。
「――うん。確か、こっちの方向で合ってるはず(・・・・)だよ」
ソラがジト目で彼女を凝視する。
「……はず、って何よ?」
「たぶんね」
「最高に不安になる言葉選び(フラグ)をありがとう」
リンはもう一度、真剣な顔で地図を睨みつけた。
それから、それを横向きにし――あろうことか、上下逆さまにひっくり返した。
ソラは呆れ果てた。
「……リン」
「ん?」
「それ、上下逆」
リンの動きがピタリと止まる。
彼女は恐る恐る手元の地図に視線を落とした。
「――あ」
プッ、とソラがたまらず吹き出した。
リンの顔が、瞬く間に耳の根元まで真っ赤に染まっていく。
「ちょ、笑わないでよ!」
「だって! 自分が目的地まで案内するって豪語してたの誰だっけ!?」
「合ってると思ったんだもん!」
ソラは目元に浮かんだ涙を指先で拭った。
「あはは、やっぱり地図の管理は私がやった方が断然安全ね」
リンはぷいっと腕を組み、むくれた。
「はいはい、分かりましたよ」
彼女は観念して、地図をソラへと手渡す。
ソラはそれを勝ち誇ったように受け取った。
「ほら見なさい。この方が何倍も効率的でしょ?」
リンは彼女をじろりと睨みつける。
「……君、なんか楽しんでない?」
「うん、めちゃくちゃ楽しい」
リンは「はぁ……」と小さいため息をつき、それから、ふにゃりと笑った。
「この、お調子者」
ソラもまた、満面の笑みを見せる。
「君のお調子者だよ」
――。
その瞬間、リンの表情が半秒ほどフリーズした。
ソラもまた、自分が今、何をとんでもないこと(・・・・・・・)を口にしてしまったのかに気づいたらしい。
二人は互いを見つめ合ったまま、固まった。
街道の真ん中で、何とも言えない奇妙な甘酸っぱい沈黙が二人を包み込む。
ソラの頬が、みるみるうちに綺麗なピンク色へと染まっていく。
「あ、いや……今のはその――」
リンは気まずそうに視線を逸らした。
「……うん」
どちらも次の言葉を見つけられないまま、再び歩き始める。
だが、互いの距離は、ぶっちゃけ先ほどまでよりも明らかに縮まっていたわけである。
やがて二人は、ぽっかりと開けた広場へと辿り着いた。
前方には、誰も使っていない廃墟と化した見張り塔が佇んでいる。
リンはその異変に気づいた瞬間、即座に腰の剣の柄へと手をかけた。
「――ソラ」
「ええ、見えてるわ」
周囲の空気が、劇的に変化していた。
先ほどまで鳴いていた鳥の声も、羽虫の音すら聞こえない。風の音さえも、死に絶えたように静まり返っている。
ソラは慎重に背中の杖へと手を伸ばした。
「……何かが、おかしいね」
リンが深く頷く。
「うん、ちょっと中を調査してみよう」
二人は足音を殺して近づいた。
見張り塔の木製の扉は無惨にぶち破られており、内部には、つい最近そこで激しい戦闘が行われたような生々しい痕跡が残されていた。
リンはその場にしゃがみ込む。
「痕跡が、新しい(フレッシュ)……」
ソラが周囲を警戒する。
「……魔物かな?」
「おそらくね」
リンがスッと剣を抜いた。
その瞬間、奥の暗闇から「ガルルル……」と低く地を這うような唸り声が響いた。
次の瞬間、何かが猛然と飛びかかってきた。
しかし、リンの反応速度(反射神経)は圧倒的だった。
彼女が瞬時に動き、鋭い剣閃が暗闇を切り裂く。
化物の爪が鋭い刃と激突し、火花が激しく部屋の壁を照らし出した。
「――ハァッ!」
リンが力ずくで化物を押し返すと、背後からソラが即座に杖を掲げた。
「――『天の束縛』ッ!」
まばゆい光の鎖が床から突き出し、飛びかかってきた化物の身体を完全に捕縛する。
そこへリンが一歩踏み出し、己の剣に莫大な魔力を収束させた。
「――、せいッ!」
一閃。
魔力を纏った鋭い斬撃が炸裂し、化物の巨体は壁を突き破って外へと派手に吹き飛ばされた。
完全にオーバーキル(一撃必殺)である。
ソラは呆然とそれを見つめた。
「……君って、本当に剣に魔法を上書き(エンチャント)して戦うのが好きよね」
リンは剣の血振りを払い、ニカッと笑った。
「だって、これが一番しっくりくる(機能する)んだもん」
「まぁ、確実に腕を上げてるのは認めるけど」
「ソラだって、サポート完璧だったじゃん」
ソラが照れくさそうに見つめると、リンはどこか懐かしむような優しい目を向けた。
「あの『太陽の涙』のイベントを生き延びてから、君、本当に強くなったよね」
ソラは杖を静かに下ろした。
「……それは、君もでしょ?」
二人はしばらくの間、ただじっと互いの瞳を見つめ合った。
今のソラがリンに向ける視線には、かつてのような純粋な憧れや、ただの友人としての情愛とは、明らかに違う何かが混ざり合っていた。
もっと温かく、もっと深い――だが、まだ彼女自身、言葉にする準備ができていない『何か』だ。
リンもまた、その熱を確かに感じていた。
だが、彼女も何も言わなかった。ソラも、言葉を重ねない。
言うまでもなく、今の二人には――まだ、その必要がないからだ。
――その日の午後。
二人は美しい川のほとりに座り、ひと時の休息を取っていた。
リンは相棒の剣を大樹の幹に立て掛け、そのすぐ隣にソラが腰を下ろす。
二人の肩と肩が、ごく自然に、ぴったりと触れ合っていた。だが、どちらも距離を置こうとはしない。
ソラがキラキラと輝く水面を見つめる。
「ねえ、リン」
「んー?」
「君……あの学園を出て旅に出たこと、後悔したことない?」
リンは少しだけ考えを巡らせ、それから真っ直ぐに答えた。
「ううん、一ミリもないよ」
「……本当に? 少しも?」
「うん」
彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。
「だって私、自分の目でこの世界(外の世界)をたくさん見てみたかったんだ」
ソラが深く頷く。
「……私も、そう」
リンが彼女の横顔を見つめる。
「それに、君が一緒についてきて(同行して)くれたしね」
ソラは嬉しそうに微笑んだ。
「それは、当たり前(当然の選択)でしょ」
リンはクスクスと可笑しそうに笑った。
「なんでさ?」
ソラは真っ直ぐにリンの瞳を見つめ返し、告げた。
「――君が、行くからだよ」
その回答は、あまりにもシンプルだった。
シンプルすぎて、だからこそ、リンの胸の奥に言いようのない温かい熱量がじんわりと広がっていく。
彼女は照れ隠しのように視線を川へと戻した。
「……ありがとね」
ソラは、コトンと自分の頭をリンの肩へと預けた。
「どういたしまして」
リンの唇が、自然と優しい笑みを象る。
二人はそのまま、静かな時間を共有し続けた。
今はただの、共に旅をする冒険者。
ただの、幼馴染。
そして、あの恐ろしい大災害を共に生き延びた、かけがえのない半身。
だが、子供から大人へと至る長い街道のどこかで、二人の関係性は確実に、劇的な変化(進化)を遂げつつあった。
それが最終的にどんな形になるのかは、ぶっちゃけまだ誰にも分からない。
ただ分かっているのは――この先の長い道のりを、決して一人で歩きたくはないということだけだ。
――と、その時。
リンが突如として、背後の深い森の奥へと鋭い視線を向けた。
その表情が、一瞬にしてプロの戦士のものへと変貌する。
ソラがその異変に即座に気づいた。
「……どうしたの、リン?」
リンはすぐには答えなかった。
(……この感覚、まただ……っ!)
間違いない。あの『太陽の涙』の大戦の最中、確かに感じたあの異質な、底知れない圧倒的な気配。
それはあまりにも微弱で、常人であれば感知することすら不可能なレベルの残滓だ。だが、確かにそこにある。
リンがスッと立ち上がると、ソラも不安そうに見上げた。
「リン……?」
「……また、感じたんだ」
「あの時の、謎の気配を?」
リンは無言で頷き、鬱蒼と生い茂る木々の奥をじっと見つめ続けた。
「……すごく、近かった」
ソラも彼女の隣に並び立つ。
「場所は……特定できる?」
「ううん……」
リンは静かに目を閉じ、全神経を集中させて気配を追おうとしたが――ダメだった。
あの底知れないプレッシャーは、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消失してしまったのだ。
リンは目を開けた。
「……消えちゃった」
ソラもまた、不気味な森の奥を見つめる。
「……それって、君がずっと探している『あの人』なのかな?」
リンは沈黙を守った。
「……分からない」
彼女は、自分の右手のひらをじっと見つめ、そして静かに、だが確信に満ちた声で呟いたのだ。
「だけど……ぶっちゃけ私、確実にあの人に近づいてる(接近してる)気がするんだよね」
ソラは満面の微笑みを浮かべた。
「だったら、見つかるまでとことん探し続け(追跡し)ましょ!」
リンは彼女を見つめ、どこか吹っ切れたように笑う。
「うん、望むところだよ」
「ええ!」
――その頃、再び舞台は戻り、ユイの『百階層の塔』の内部。
カイは大きな長テーブルの前にドッカリと腰掛けていた。
テーブルの上には、これでもかと大量の地図が所狭しと広げられている――周辺の国家群、主要都市、流通街道、果ては冒険者ギルドの拠点一覧から、現存する『他の魔王たちの領地』に至るまで様々だ。
カイは、広大な地図の一点を死んだ魚のような目で見つめた。
「……ぶっちゃけさ、この世界、国が多すぎじゃない?」
背後に佇んでいたユイが、クスリと笑いながら応じる。
「ええ、たくさんありますよ」
「具体的に(数値的には)いくつあるわけ?」
「――十分な数、です」
カイは途端に眉をひそめた。
「それ、全然数字になってないんだけど?」
「ふふ、最初から数字で答えるつもりはありませんでしたから」
そこへ、トレイに乗せた淹れたての紅茶を運びながら、クロエが部屋へと入ってきた。
「カイ様」
カイがそちらへ視線を向ける。
「ん、なぁに?」
「貴方、もう一時間以上もその地図を凝視してるわよ」
「これでもお勉強の最中なんだってば」
クロエはトレイをテーブルに置き、呆れたように紅茶のカップを差し出した。
「へえ。一体、何を学んでいるのかしら?」
「この世界が、ぶっちゃけ思ってた以上に複雑ってことさ」
ユイが面白そうに微笑む。
「――それで?」
カイは深い、深いため息をついた。
「……マジで、めんどくさいわ」
プッ、とクロエが楽しそうに吹き出した。カイは不満げに彼女をじろりと睨みつける。
「なによ、何が可笑しいわけ?」
「だってそうでしょう? 貴方、過去には世界を容易く滅ぼしかねないような化物どもと何年も殺し合ってきたくせに、たかが一枚の地図を前にして大苦戦してるんだもの」
「おいおい、人聞きが悪いな。地図ってのはね、見方によっては世界で一番危険なアイテム(トラップ)なんだぞ?」
すると、ユイが「やれやれ」とエレガントに首を横に振った。
「いいえ、我が愛しき人。危険なのは地図ではなく――地政学ですよ」
カイは即座に視線を逸らした。
「……まぁ、似たようなもんでしょ」
「全く違います」
カイは彼女の正論を華麗にスルー(黙殺)し、地図の一点を指先でトントンと叩いた。
「それはそれとして、さ」
ユイがその指先に視線を落とす。
「……何ですか?」
「『ニクスエラ』の居場所(現在地)って、今どの辺りになりそう?」
その名を聞いた瞬間、ユイの表情に、いかにも楽しげな色の笑みが浮かび上がった。
「おや。貴方が、あの『魔王進化の種』とやらを使って、意図的に(確信犯で)釣り上げようとした例の彼女のことですか?」
「そう、その彼女」
「そうですね……。どうやら現在、貴方のことを徹底的に調査している最中のようですよ」
カイは背もたれに深く体を預けた。
「うん、知ってる」
「あら、自覚はあったのですか?」
「当然でしょ、一応これでも魔王だしね」
クロエが不思議そうに首を傾げ、紅茶を一口啜った。
「だったら、なんで自分から彼女のところへ出向いて(エンカウントしに)行かないの?」
カイは、至って真面目な顔で彼女を凝視した。
「決まってるじゃん。――めんどくさい( lazy )からだよ」
パタン、とユイが愛読書を閉じた。
「……それが、本当の理由ではありませんね?」
カイは「うぐっ」と言葉を詰まらせ、大袈裟に肩を落とすと、車窓の向こうの景色へと視線を向けた。
「……まぁね」
声音を少しだけ落ち着かせ、言葉を続ける。
「俺はさ、彼女自身に『選択』してほしいんだよね」
ユイの瞳の奥が、心なしか柔らかいものへと変化する。
カイは静かに告げた。
「俺の方からわざわざ会いに行ったら、彼女は警戒(猜疑心)MAXになって、なんで近づいてきたのかって勘繰るだろ? ……だけどさ」
彼は振り返り、不敵にニカッと笑ってみせた。
「向こうから自発的に、この『塔』に足を運んできてくれたなら――」
その意図を、クロエが即座に察知した。
「なるほどね。その時は、彼女が本当に貴方に『興味を持った(会いたがっている)』って確信が持てるわけか」
カイは満足そうに頷く。
「その通り! 大正解!」
ユイがクスリと、どこか感心したように微笑んだ。
「あら。貴方にしては、随分と計画的(思慮深い)な思考ですね」
カイは誇らしげに胸を張った。
「おいおい、失礼だな。俺だって、ごく稀に(オンタイムで)頭脳派モードになることくらいあるっての!」
「……ごく稀に、ですか?」
「ちょっと、ユイ!?」
クロエがまた楽しそうにクスクスと笑う。
カイは再び、広大な地図へと視線を戻した。その瞳には、確固たる確信の色が宿っている。
「――大丈夫、彼女は絶対にここへ来るよ」
ユイが面白そうに首を傾げた。
「随分な自信ですね?」
カイは、静かに、だが絶対的な余裕の笑みを浮かべて言い放った。
「だってさ……ぶっちゃけ『好奇心の塊』みたいな奴ってのは、目の前に面白そうな謎があったら、絶対に我慢できない生き物だからね」
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アステリア王国から遥か遠く、深紅の魔天が広がる異界の地――。
その最奥にそびえ立つ、古色蒼然とした魔城のバルコニーに、一人の美女が佇んでいた。
彼女の長い漆黒の髪が、魔界の風に吹かれて緩やかに揺れている。
その妖艶な瞳は、手元に握られた一枚の極秘報告書へと釘付けになっていた。
新世代の魔王、カイ。
四年前、突如として大陸に出現した謎の『百階層の塔』。
それを創造したとされる、ユイという名の正体不明の女性。
彼の隣に寄り添う、伝説の真祖である可能性が極めて高い『クロエ』と呼ばれる吸血鬼。
そして――既存のいかなる魔法分類にも該当しない、完全に測定不能な異質の気配。
魔王ニクスエラは、その最終報告の末尾をもう一度だけなぞり、静かに書類を閉じた。
彼女は、その果てしない永劫の生涯の中で、数え切れないほどの超越者たちと邂逅してきた。
魔族。巨竜。人間。精霊。異形の化物。果ては、神の領域の存在にいたるまで。
言うまでもなく、彼女は『力の本質(魔圧)』というものを誰よりも知り尽くしていた。
魔力の性質、血統の匂い、魔族固有の瘴気、竜の眷属が放つ絶対的な威圧。
精霊が纏う精神エネルギーと、物理的なマナの明確な違い。それらすべてを、彼女は完璧に識別(プロfile)することができたのだ。
――しかし、あの『カイ』という男だけは、既存のいかなるデータ(理論)にも合致しなかった。
彼の気配は、ぶっちゃけ不気味極まりない。
弱いからではない――むしろ、その完全なる真逆だ。
まるで、本来ならば決して交わるはずのない『不適合な複数の存在』が、何らかの異常な術式によって強制的に一本の糸へと織り上げられている――そんな歪な感覚(違和感)。
だが、そのどの要素を切り取ってみても、彼の本質を説明することは不可能なのだ。
ニクスエラの唇が、自然と妖艶な笑みを刻んだ。
「――ねえ。貴方はいったい、何者なのかしら?」
当然、吹き抜ける魔風以外に、その問いに答える者はいない。
彼女は遥か彼方の地平線へと視線を向けた。
あの正体不明の『塔』は、間違いなくあの先にある。
今までは、情報収集を優先するため、あえて自分自身が直接足を運ぶこと(エンカウント)を避けていた場所だ。
――だが、それも今日まで(・・・・)だ。
彼女はバルコニーの手すりからスッと身を引いた。
「……もう、退屈な身元調査は終わりよ」
その一言に、背後に控えていた彼女の側近たちが一斉に緊張を高める。
ニクスエラは、満面の不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「――今から私自身が、あの魔王に会いに行くわ」
側近の一人が、慌てた様子で言葉を詰まらせる。
「わ、我が主!? それは、あまりにも軽率(危険)では……っ!」
ニクスエラはクスクスと、鈴を転がすような声で楽しそうに笑った。
「ええ、ぶっちゃけ最高に頭の悪い選択でしょうね」
彼女は迷いのない足取りで、重厚な扉の方へと歩き出す。
「だけどね……私は昔から、安全な選択肢を選ぶのが、壊滅的に大嫌い(苦手)なのよ」
バタン、と彼女の背後で重々しい大扉が閉まった。
カイという規格外の存在がこの世界に降臨して以来、ついに――魔王ニクスエラという最大級の巨頭が、直接彼を目がけて動き出した(イベントが始まった)のだ。
そしてそれは、当のカイ自身が「絶対に食いついてくる」と確信し、手ぐすね引いて待ち構えていた展開そのものであった。
世界は、確実に回り始めていた。
パズルのピースが、一つ、また一つと、最悪で最高な形で噛み合い始めていくわけである。




