第75話: アステリアへの道 ( 第1部 )
馬車は石畳の道を一定の速度で進んでいた。
目的地は、アステリアの王都。
カイは窓際に座り、片手で頬杖をつきながら、流れていく景色を眺めていた。
車窓の向こうには、広大な田園風景が広がっている。
農夫たちが午後の日差しの下で働き、土を耕していた。
遠くには、ぽつりぽつりと小さな集落が見え隠れしている。
同じ街道を行き交うのは、多くの商人たちだ。
その荷馬車には食料や衣服、武器といった様々な物資が大量に積み込まれていた。
どこにでもある、ありふれた日常の光景。
――だが、カイは気づけば、その景色を思ったよりも長く見つめていた。
そこには、言いようのない平穏があった。
押し寄せる軍勢もいない。
都市を蹂虙する魔物の姿もない。
世界を揺るがすような、莫大な魔力の爆発もない。
現実そのものを消し去ろうとする、古代の存在すらここにはいなかった。
ただ、人々が普通に生きている。
カイの唇が、自然と微かな笑みを象った。
「――いいな」
対面に座っていたクロエが、不思議そうに首を傾げる。
「何が?」
カイは窓の外を指さした。
「これ、全部さ」
クロエも釣られるように窓の外に視線を向ける。
「この田舎の景色が?」
「ああ」
彼女は小さく微笑んだ。
「貴方、こういった『普通の世界』をあまり見たことがないのね?」
カイの動きが止まる。
――確かに、その通りかもしれない。
かつての自分には、「普通」という言葉の意味すら思い出せない時期があった。
『記憶の監獄』の中において、存在することの意味は「生存」の二文字に集約されていたからだ。
毎日が戦いであり、あらゆる場所が戦場だった。
出会う者すべてが敵である可能性があり、訪れる平穏すら、本物の平穏とは程遠いものだった。
しかし、この世界は違う。
カイは再び視線を外に戻した。
一人の子供が農夫の横を走り回り、小さな犬を追いかけて楽しそうに笑っている。
その姿が木々の向こうへと消えていくのを、カイはただ黙って見つめていた。
クロエはその様子に気づいたが、敢えて何も尋ねなかった。
カイの隣では、ユイが静かに本を読んでいた。
彼女はページの隙間から、そっと視線を落とす。
「随分と、上の空のようですね。我が愛しき人」
「……ちょっと、考え事をしてただけさ」
「何について、ですか?」
カイは彼女に視線を向けた。
「人間のこと、かな」
ユイはクスリと、悪戯っぽく笑った。
「それはまた、随分と抽象的なお話ですね」
「分かってるよ」
彼は再び窓の外へと視線を戻す。
「あまりにも長い間戦いすぎて、人が本当は何のために戦うのか、忘れかけていたんだ」
クロエの表情が、心なしか柔らかくなった。
「……きっと、この世界がそれを教えてくれるわ」
カイが視線を戻すと、クロエは小さく肩をすくめて見せた。
「人間はね、必ずしも力を求めて戦うわけじゃないのよ」
カイは苦笑する。
「たまに、ただの馬鹿だから戦ってる奴らもいるけどな」
クロエは呆れたように彼を凝視した。
「……まあ、それもあるわね」
ユイが静かに、本を次のページへとめくる。
「私は、どちらの観察も真真であると思いますよ」
その言葉に、カイは思わず吹き出した。
馬車はそのまま、王都に向けて進み続ける。
先頭の馬車には、数人の近衛騎士と共にアルヴェン・ダールが乗っていた。
彼は道中、その大半の時間をカイに関する思考に費やしていた。
あの若き魔王という存在は、あまりにも底が知れず、理解しがたい。
アルヴェンが予想していたのは、もっと威圧的な存在――支配者、暴君、あるいは人間の皮を被った古代の怪物のようなものだった。
しかし、実際に会ったカイは、軽い手振りと気さくな笑みで彼を迎えたのだ。
そこには傲慢さも、敵意も、他者を支配しようとする明確な欲望すら感じられなかった。
本来であれば、それで安堵すべきはずだった。
――だが、それこそが、アルヴェンをより警戒させる原因となっていた。
己の力を誇示する者の方が、まだ理解しやすい。
しかし、カイはそれをしない。
その存在感は、奇妙なほどに測りかねるものだった。
あの塔に足を踏み入れた瞬間、アルヴェンは確かに感じていたのだ。
そこには、何か底知れない『巨大なモノ』が潜んでいると。
それは単なる魔力の量ではない。
もっと根源的な、生物としての本能が「決して侮るな」と警鐘を鳴らすほどの、圧倒的な何か。
彼は再び、後ろの馬車へと視線を戻した。
「カイ様……」
その名を、ぽつりと呟く。
一体、何者なのだろうか。
彼には分からなかった。
そしておそらく、それこそが最も彼を不安にさせている原因なのだ。
ついに地平線の彼方に、アステリアの王都がその姿を現した。
街を囲むのは、巨大な石造りの外壁。
その上にはいくつもの見張り塔がそびえ立ち、それぞれに王国の紋章が掲げられている。
馬車が近づくと重厚な城門が開き、街道の両脇に警備の兵士たちが整列した。
商人や旅人たちが検問を受け、次々と中へと通されていく。
カイたちの馬車が街へと入った瞬間、彼は一気に興味を惹きつけられた。
王都は、あまりにも広大だった――。
通りには様々な大きさの建物が整然と立ち並んでいる。
露店からは商人たちの活気ある呼び声が響き、大人の間を子供たちが走り抜け、行き交う馬車が左右を通り過ぎていく。
焼き立てのパンの香ばしい匂いと、香ばしく焼かれた肉の煙。
そこに様々なスパイスの香りと馬の匂い、そして魔力付与された街灯から漂う、微かな魔法の残滓が混ざり合っていた。
カイは身を乗り出すようにして、窓へと近づく。
「――ほう」
そんな彼を見て、クロエが小さく微笑んだ。
「王都を見るのは初めて?」
「まあ、そんなところだ」
ユイが本の上から視線を向ける。
「随分と感心しているようですね」
「ああ」
カイは外の景色を見つめ続けた。
「……こんなにたくさんの人がいるんだな」
クロエが頷く。
「ええ。でも、ここは数ある都市の、ほんの一 thinkに過ぎないわよ」
カイの目が、僅かに見開かれた。
「――街一つで、これか?」
「そうよ」
彼は背もたれに体を預けた。
「へえ……」
その事実が、静かに胸に落ちてくる。
今までは世界を滅ぼすほどの力を持った存在ばかりに囲まれて、何年も過ごしてきたのだ。
だがここには、自分が今まで見たこともないような、何百万人もの『普通の人々』の営みがある。
家族がいて、商人がいて、子供たちがいて、冒険者や職人、学者たちがいる。
彼らの大半は、カイのような規格外の存在がいることすら、おそらく知りもしないのだろう。
カイの唇が、自然と笑みを刻む。
「この世界は、思っていたよりも広いな」
ユイが彼を見つめた。
「世界とは、大抵そういうものですよ」
「そうだな」
やがて馬車は、王宮のある貴族街へと足を踏み入れた。
王宮に近づくにつれて周囲の喧騒は遠のき、高い建物に代わって、手入れの行き届いた美しい庭園と巨大な石造りの建築物が姿を現す。
その中心に鎮座するのが、アステリアの王宮だ。
白亜の石壁は何階層にもわたってそびえ立ち、王国の紋章が描かれた美しい旗がはためいている。
すべての入り口には、隙なく近衛兵が配置されていた。
カイは馬車から降り立ち、静かに見上げた。
「ふむ」
隣に並んだクロエが尋ねる。
「どうかしら?」
カイは小さく肩をすくめた。
「デカいな」
クロエは思わず吹き出した。
「それだけ?」
「ああ」
二人の後ろから、ユイも馬車を降りる。
カイはもう一度王宮へ視線を向けた。
「……まあ、もっとデカいのは見たことあるけどな」
クロエには、彼が何を言いたいのかがすぐに分かった。
あの『塔』単体だけでも、この世界のほとんどの建築物を凌駕する規模なのだから。
それでも、この王宮が見事なものであることは認めざるを得なかった。
そこへ、数人の役人が歩み寄ってきた。
その中の一人が、恭しく一礼する。
「カイ様、アステリア王宮へようこそ歓迎いたします」
カイは少し気まずそうに、後頭部を掻いた。
「いや、『カイ』でいいよ」
役人は一瞬、呆気に取られたように言葉を詰まらせる。
「……呼び捨て、ですか?」
「ああ」
「しかし、貴方様は魔王であらせられるのでは……」
「知ってるよ」
困惑する役人に向けて、カイは気さくに笑いかけた。
「それでも、普通にカイって呼んでほしいんだよね」
役人たちは顔を見合わせ、戸惑いながらも再び深く頭を下げた。
「……承知いたしました。カイ、殿」
クロエが笑いを噛み殺すように、口元を両手で覆う。
それに気づいたカイが、不満そうに視線を向けた。
「なんだよ」
「別に?」
「笑ってただろ」
「笑ってないわよ」
「いや、絶対に笑ってた」
「笑ってないってば」
二人の横を、ユイが静かに通り過ぎていく。
「ふふ、まるで子供の喧嘩ですね」
カイはすかさずクロエを指さした。
「クロエから始めたんだぞ」
クロエは信じられないといった様子で彼を凝視する。
「私、文字通り何も言ってないんだけど?」
「そこがいい(・・)んじゃないか」
「意味が分からないわ」
「お前が知らないだけさ」
クロエは深く、ため息をついた。
そのまま彼らは、王宮の内部へと案内されていく。
カイは歩きながら、静かに周囲を観察していた――。
壁には見事な絵画が並び、窪み(アルコーブ)には歴代の王たちの彫像が佇んでいる。
磨き上げられた大理石の床には、大きな窓から差し込む陽光が降り注ぎ、空気中には微かに、お香と花の香りが漂っていた。
――だが、カイは別のことにも気づいていた。
周囲の人間が、明らかに自分を注視している。
すれ違う使用人たちは足を止め、兵士たちは油断なくこちらを伺っていた。
中にはひそひそと囁き合う者もいれば、カイと目が合った瞬間に慌てて視線を逸らす者もいる。
もっとも、カイは彼らを責めるつもりはなかった。
魔王が王宮を平然と歩いているなど、それこそ日常茶飯事とは対極にある出来事なのだから。
それでも、彼らが自分をどう見ているのかは気になった。
化物か、脅威か、あるいはただの客か、それとも敵か。
その色を判別することはできなかったが、同時に、カイ自身も彼らにどう思われたいのか確信が持てずにいた。
この国を侵略しに来たわけではない。
誰かを脅迫するつもりもない。
ただ、あの『塔』が新たな戦争の引き金になることなく、この世界に存在し続けてくれればいい。
それだけだった。
少なくとも、今は。
やがて彼らは、一室へと案内された。
中央には大きなテーブルが置かれ、それを取り囲むようにいくつかの椅子が並んでいる。
奥の壁際では、暖炉の火が静かに爆ぜていた。
カイは周囲を見回す。
「ここは、謁見の間じゃないのか?」
「はい」
案内役の役人が答える。
「国王陛下が、まずは非公式に個別での対話を望まれております」
「そうか、分かった」
役人は恭しく一礼した。
「それでは、陛下にご到着の旨をお伝えしてまいります」
役人が退室し、重厚な扉が静かに閉まった。
カイは迷わず椅子のひとつへと歩み寄り、そこへ脱力したように腰を下ろした。
「――はぁ」
対面に座ったクロエが、呆れたように微笑む。
「もう疲れてるじゃない」
「社交的なやり取りってのは、気力を削がれるんだよ」
「貴方、ドラゴンとも戦ったんでしょう?」
「ドラゴンはこんなに喋らない」
クロエはジト目で彼を凝視した。
「不満の理由がそれ?」
「ああ」
隣に腰掛けたユイが、優しく声をかける。
「我が愛しき人、まだ国王陛下にお会いしてもいませんよ?」
「だからこそ、だ」
ユイはクスリと笑った。
「では、もう少しだけ辛抱強く待ってみてはいかがですか?」
「……善処するよ」
カイは背もたれに深く体を預けた。
数秒の間、部屋の中は静寂に包まれる。
しかし、すぐにカイはクロエに視線を向けた。
「なあ、王族の会議って普通どれくらいかかるんだ?」
「さあ、知らないわよ」
「一時間?」
「おそらくね」
「二時間?」
「あり得るわね」
カイの表情が、目に見えて暗くなった。
「――三時間?」
ユイがそっと彼を見つめる。
「我が愛しき人」
「ん?」
「もう文句を言う準備を始めていますね」
カイは気まずそうに視線を逸らした。
「……いや?」
クロエがニヤニヤと笑う。
「言ってるわね」
「言ってない」
「絶対に言ってるわ」
カイは諦めたようにため息をついた。
「分かったよ、認める。ただ、さっさと終わらせたいだけさ」
その頃、部屋の外では――。
アルヴェン・ダールが、別の役人と静かに言葉を交わしていた。
「……それで、あの魔王の様子はどうだった?」
アルヴェンは少し考え、口を開いた。
「落ち着いていた。不気味なほどにな」
「落ち着いていただと?」
「ああ」
役人は眉をひそめる。
「国王陛下からの呼び出しなのだぞ? 緊張の欠片もないというのか」
「特に気にしている様子はなかった」
「傲慢な男だと思うか?」
アルヴェンは首を振った。
「いや、それとは違う」
「では、何だ?」
アルヴェンは閉ざされた扉に視線を向ける。
「おそらく……彼は、本質的に『政治的な権力』というものに全く興味がないのだろう」
役人の表情が強張った。
「それは、見方によっては危険なことではないのか?」
「確かにそうだ」
アルヴェンは言葉を区切り、続けた。
「だが、別の意味も持っている」
「……と言うと?」
「私たちを支配するつもりも、端からないということだ」
役人は複雑な表情を浮かべた。
「信用できると思うか?」
アルヴェンはすぐには答えなかった。
あの『塔』の規格外の規模、未知の階層環境。
ユイという謎の美女。そして、カイに絶対の忠誠を誓っている様子の吸血鬼、クロエ。
それから、カイが『塔』について語ったときの表情を思い出す。
そこには傲慢なプライドも、領土を渇望する飢えもなかった。
ただ、己の人生に対する、妙に静かな所有欲だけがあった。
「分からん」
アルヴェンは最後にそう呟いた。
「だが、少なくとも彼から戦争を仕掛けてくることはないと思う」
室内では、カイが退屈そうに天井を見上げていた。
待ち始めてから、およそ三分が経過している。
すでに限界だった。
「これ、いつまでかかるんだよ」
クロエが呆れたように突っ込む。
「まだ三分しか経ってないわよ」
「その三分が長いんだ」
ユイが静かに本を閉じた。
「我が愛しき人」
「はい」
「忍耐、ですよ」
「分かったよ……」
カイはため息をつき、扉の方へと視線を戻した。
その表情が、ふと真面目なものに変わる。
誰にも言っていないが、カイは王を恐れているわけでも、王宮の威容に圧倒されているわけでもなかった。
これから突きつけられるであろう、政治的な要求を心配しているわけでもない。
ただ、彼は一つだけ、重要なことを理解していた。
もしあの『塔』をこの世界に存続させるつもりなら――周囲にいる人間たちを、ただ無視し続けるわけにはいかないのだと。
あの『塔』はあまりにも巨大すぎた。その存在はあまりにも異質だ。
いずれ、誰かがそれを支配しようとするだろう。誰かが調査を試み、誰かが恐怖を抱くはずだ。
そして、その恐怖はやがて、紛争へと形を変える。
カイはそれを望んでいなかった。
対処できないからではない――むしろ、逆だ。
彼は、自分がどれほど危険な存在であるかを正確に自覚していた。
ただ、その力を無駄に行使したくないだけなのだ。
彼の目的は一つ。果たすべきゴールも一つ。
自分がこの手で殺すと決めた、ただ一人の男――カイ・ゼロ。
それ以外のすべては、ただの雑音に過ぎない。
その日が訪れるまで、カイはこの世界を経験したかった。
かつて失った人々を探し出し、この世界がどう変わったのかをその目で確かめたかった。
そしておそらく……これまでは拒まれてきた『普通の人生』を、少しでも楽しみたかったのだ。
その時、扉の向こうから控えめなノックの音が響いた。
カイは体勢を正す。
クロエが彼に視線を向け、ユイは静かに本を傍らに置いた。
扉が開き、王宮の案内人が姿を現す。
「カイ様、国王陛下がお待ちです。こちらへどうぞ」
カイは立ち上がり、軽く衣服の乱れを整えた。
それからユイとクロエを見やる。
「よし、さっさと終わらせようぜ」
クロエがニヤリと不敵に笑った。
「国際問題だけは起こさないように気をつけてね?」
カイは彼女をじろりと睨みつける。
「俺がそんなことするわけないだろ」
その言葉に、ユイが静かに追従した。
「いいえ、有り得ます。……貴方は『貴方』ですから」
カイは眉をひそめる。
「なんか今、遠回しにディスられた気がするんだけど」
「決してそのような意図はありませんよ」
「いや、絶対にディスってたって」
クロエが楽しそうに吹き出し、カイは深くため息をついた。
「……まあ、いいや」
三人は案内人の後に続き、長い回廊を進んでいく。
廊下の突き当たりには、ひときわ巨大で重厚な、一対の扉がそびえ立っていた。
その向こう側で待つのは、アステリアの国王。
これからそこで交わされる言葉が、この王国の隣に突如として現れた『謎の塔』の運命を左右することになる。
大扉の前で、カイは足を止めた。
一瞬だけ、彼は完全に気配を消し、静寂を纏う。
――そして、ぽつりと呟いた。
「……はぁ」
重々しい音を立てて、扉がゆっくりと開き始める。
カイは視線を真っ直ぐ前方に据え、静かに一歩を踏み出した。




