第74話: 「招待」2
【ゴブリンの足跡、初任務の地】
公的登録(ライセンス取得)を終えた翌朝。その始まりは、部屋の重厚な木製の扉をトントンと乱暴に叩くノックの音だった。
リンはうっすらと片方の眼眸を開け、大理石の天井をじっと見つめた。数秒の間、彼女は身じろぎ一つしない。再び、追いかけるようにノックの音が響く。リンは容赦なく掛け布団を頭からすっぽりと被り直した。
「……あと、五分だけ二度寝させて……」
逆側の壁際にあるベッドから、まだ眠気の残る気だるげな声が返ってきた。
「あんた、それ五分前にも全く同じこと言ってたわよ」
リンは掛け布団の隙間から、隣のソラをジト目で睨みつける。
「あんたさ、一体いつから目が覚めてるわけ?」
「あんたが全力で現実逃避を決め込もうとしてるのを、バッチリ把握できるくらいには前からよ」
「……俺は今、最高に良い夢を見てたんだって」
「どんな夢よ?」
「……忘れた」
ソラはガタッとベッドから起き上がり、ぐっと両腕を突き上げて背伸びをした。
「だったら、脳内のデータに残らない程度にはどうでもいい内容だったってことでしょ。ほら、さっさと起きなさいな」
リンはついに観念したようにベッドから這い出た。足の裏に、宿屋の床の冷たいリアルが直接伝わってくる。彼女がスタスタと扉まで歩いてそれを押し開けると、外には宿場の給仕の女性が直立していた。
「おはようございます、冒険者さん」
「おう、おはよう」
「ギルドから公式な通達を預かって参りました。お二人の申請していた『ゴブリンの討伐任務』が正式に承認されたとのことですわ」
リンの黒い瞳が、その瞬間、文字通り『爛々』と輝きを取り戻した。
「マジで?」
給仕の女性は優しく微笑んだ。
「ええ。朝食を済ませた後、東の街道へと向かって出発してくださいな。問題のゴブリンどもは、放棄された古い備蓄倉庫の集落周辺で目撃されているようですわ」
リンは力強く頷いた。
「了解、ありがとね」
彼女は扉をパタンと閉め、振り返った。ソラがすでに呆れたようなジト目で彼女を凝視している。
「……あんた、最高潮にテンションが跳ね上がってるわね」
リンは不敵にニカッと笑った。
「あったりまえでしょ。俺たちの、記念すべき最初の公的依頼(初クエスト)なんだからな!」
ソラは本日最初のため息を吐き出した。
「はぁ……。お願いだから、今日の戦場じゃあ絶対に『キュートなもの』に向かって突撃するのだけはやめてよね」
「善処するよ、約束はできないけどね」
「リン!」
「お断りだねー」
朝食を手早く済ませた二人の若き冒険者は、宿場町を後にした。
東の街道は、昨日まで歩んできた主要な大街道に比べれば、不気味なほどにその密度(喧騒)が薄く、静まり返っていた。街道の両脇からは巨木の枝葉が覆いかぶさるように密生し、天空からの太陽光の大半を遮断して不気味な暗緑色の天蓋を形成している。空気の匂いは、湿った土と腐りかけた腐葉土のリアルな色に上書きされていた。遥か遠方の密林の奥からは、無数の羽虫たちが不快な重低音を響かせて羽ばたく音が絶え間なく聞こえてくる。
リンは無意識のうちに、片手を自らの武器の柄のすぐ近くへと添えていた。恐怖、では断じてない。だが――油断もまた、そこには一ミリだって存在していなかった。
それこそが、彼女があの四年前の『太陽の涙』という絶望的な天災から、魂の芯に叩き込んだ世界の掟だったからだ。絶大な魔素(力)を有しているからといって、それだけで生存が確定するわけでは決してない。事前の準備、周囲の索敵、そして何よりも、空間に漂う『不都合な違和感』を瞬時に察知する知覚こそが、生死を分けるのだ。
ソラが歩調を合わせて隣へと並び立つ。
「……あんた、急に大人しくなったわね」
「集中してるだけだって」
「任務の、索敵に?」
「ああ、そうだよ」
リンは険しい目付きで木々の隙間を睨みつけた。
「報告書によれば、問題のゴブリンどもは放棄された集落の周辺に陣取ってるって話だろ」
「ええ。だからまずはそのエリアを徹底的に索敵する手筈よ」
「――じゃあさ。もしもあいつらの絶対数が、事前の予測値を遥かに限界突破してたらどうする?」
「そん時は、一秒でバック(撤退)よ。決まってるじゃない」
リンは満足そうに口の端を釣り上げた。
「……おう、最高の大正解(合理的判断)だわ」
ソラは怪訝そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「なんであんたがそんなに嬉しそうなわけ?」
「だってさ、あんたが完璧に世界の真理ってやつを学習してくれてるからね。さすが俺の相棒だわ」
「私は最初からいつだって危機管理能力マックス稼働中よ」
「はいはい、そういうことにしておくわ」
「ちょっと、その生返事は何よ!?」
「んぅ?」
ソラはやれやれと首を横に振った。
正午(正午すぎ)を迎える直前、二人はついに、その放棄された古い集落の境界線へと辿り着いていた。
そこは、生い茂る雑草と鬱蒼とした木々に完全に呑み込まれつつある、古びた木造建築物の残骸の塊に過ぎなかった。いくつかの建物の屋根は自重に耐えかねて派手に崩落しており、街道のいたる所には、木端微塵に粉砕された荷馬車の車輪が散乱している。立ち込める空気の奥からは、何かが腐敗していくような微かな悪臭が漂い始めていた。
リンは集落の入り口でピタリと足を止めた。
「……へえ。この場所、放棄されてからそれほど長い歳月(時間)は経ってないね」
ソラが周囲を警戒の目で見渡す。
「あんた、またどこからそんなデータを読み取った(スキャンした)わけ?」
「足元の雑草の生え方だよ。街道の石畳を完全に埋め尽くす(上書きする)までには至ってないでしょ」
リンはその場に低く蹲み、地面の泥のリアルを凝視した。そこには、歪な一本の線(亀裂)に沿って、無数の『小さな足跡』が刻まれていた。それも、幾重にも重なり合うように、大量に。
「――ビンゴ(ガッチャ)。ゴブリンどもだわ」
ソラは息を呑み、静かに、だがいつでも解放できるように自身の魔導具(武器)へと手をかけた。リンがゆっくりと立ち上がる。
「……規模(絶対数)はどれくらい?」
「泥の踏み荒らされ方から逆算すれば……現時点での正確な個体数の特定は不可能だね。かなり、手強い群れ(ア・ロット)だわ」
リンはそっと静かにその双眸を閉じた。
精神を集中させる。内なる魔素が彼女の鋭敏な知覚素子と同調し、波紋のように周囲の空間へと広がっていく。刹那の間、世界全体の喧騒が嘘のように遠ざかっていった。吹き抜ける山風の音。草叢の羽虫の羽ばたき。そして、すぐ隣に立つソラの密やかな呼吸音。そのすべてが、極限まで鮮明なデータとして脳内に流れ込んでくる。
――捉えた(スキャン完了)。
「……そこだわ」
リンはカッとその眼眸を開いた。
「――全部で、六匹」
ソラが驚いたようにパチクリと目を丸くした。
「あんた、気配だけで正確な個体数まで特定できるわけ?」
「まあ、ちょっとね。これくらいは基礎の術式配列だよ」
「……最高に便利(反則的)な能力ね、本当に」
リンは不敵にニカッと笑った。
「行くぞ!」
二人は放棄された集落の残骸の影を、細心の注意を払いながら滑らかに移動していった。
突如として、崩落しかけた木造家屋の影から、空間を引き裂くような不快な金切り声が響き渡る。それを合図にするように、三匹のゴブリンが猛然と飛び出してきた。
だが、リンの挙動の方が遥かに迅速だった。
彼女は一歩を鋭く踏み出す。先頭の個体がその粗末な錆びた武器を振り下ろすよりも速く、容赦のない強烈な一閃を叩きつけた。直撃を喰らった怪物の肉体は派手に後方へと吹き飛び、腐りかけた木造の壁を木端微塵に粉砕して奥へと消え去っていった。
ソラが間髪入れずにその後に続く。
「――風よ(ウィンド)!」
彼女の手元に凝縮された魔素が、一瞬にして猛烈な風圧の弾丸となって撃ち出された。追撃の風弾は二匹目のゴブリンの胴体を正面から捉え、地面の泥の上をごろごろと無様に転がして戦闘不能へと追い込んでいく。
残された個体どもが、連携を組んでリンを左右から包囲しようと企む。だが、リンはその不穏な軌道を瞬時に察知していた。
「ソラ、左!」
「了解、私は右!」
リンが身体を反転させる。二人の若き少女は、互いの進行経路を一切邪魔することなく、流れるような完璧な連携で怪物の群れを圧倒していった。
学園での四年間、毎日のように死線を想定して共に牙を研ぎ続けてきた二人だ。互いの戦術の悪癖も、次にどの術式を展開するかのタイミングも、いつ退き、いつ踏み込み、いつ相手のために絶対の空間を空けるべきなのかを、彼女たちの魂は完璧に同期させていたのだ。
打ち合いは、一瞬にして終わりを迎えた。
リンは周囲に転がる怪物の残骸を見渡した。
「……ふぅ。これで全部(終わり)か?」
ソラは厳しく首を横に振った。
「――いいえ、まだよ!」
二人の背後から、地を這うような不気味な重低音の唸り声が響いた。
弾かれたように振り返ると、さらに奥の崩落した倉庫の影から、新たな二匹の影がぬらりと姿を現した。そのうちの一匹は、先ほどまでの雑魚どもとは明らかに『絶対質量』が異なっていた。常人の倍近い巨躯に、引き締まった醜悪な肉体。
リンの瞳が、冷徹に細められた。
「……へえ。あいつ、他の奴らより随分と『格(魔素)』が高いじゃねえか」
ソラも自身の魔導具を構え直して頷く。
「ええ、見た目も最高に不愉快だわ」
『上位ゴブリン(ゴブリン・リーダー)』が咆哮とともに爆発的な突撃を仕掛けてきた。その手にある粗末な鉄斧が、空間そのものを叩き割るような暴威を伴って振り下ろされる。
リンは最小限のステップで真後ろへと跳躍し、その挙動を紙一重で回避。すれ違いざまにソラが牽制の魔導術式を撃ち出すが、上位ゴブリンは太い前腕を盾のように掲げ、力任せにその風弾を中和してみせた。
リンは驚いて目を僅かに丸くした。
「ほう、魔術耐性持ちかよ」
「だったらさ、もっと最大出力で叩き潰すだけでしょ!」
「あんた、相変わらず最高に脳筋な戦略だね」
「文句ある!?」
リンは獰猛な笑みをその唇に刻んだ。
「――上等だ(ガッチャ)!」
彼女は一陣の風となって前方へと肉薄した。怪物が力任せに鉄斧を横一文字に薙ぎ払う。リンはその刃の軌道の真下へと滑り込むようにして上体を深く屈め、怪物の無防備な脇腹へと自身の武器を深く強烈に突き刺した。
巨躯が苦悶の咆哮を上げて激しくよろめく。その絶妙な硬直の隙を突いて、ソラの最大出力の魔術が怪物の背中へと正面から炸裂した。
リンは、化け物に息を吹き返して超回復(再生)する時間など一秒たりとも与えなかった。
彼女は超人的な身ごなしで再び地を蹴る。――最後の一閃(縦一文字)が怪物の脳天を真っ直ぐに叩き割り、その巨躯は盛大な地響きを立てて泥の上へと崩れ落ちていった。
集落の全域に、再び静かな日常のテンポ(静寂)が舞い戻った。
ソラは掲げていた手を下ろし、荒い息を整えた。
「……ふぅ。これで、今度こそ本当に終了ね」
リンは足元に転がる討伐対象の死骸を冷ややかに見下ろした。
「……へえ。思ってたよりも、結構楽しかったじゃん(面白いゲームだったわ)」
ソラは信じられないものを見るような目のジト目で彼女を凝視した。
「あんた……今の一酸化炭素まみれの乱戦を楽しんでたわけ?」
「まあ、ちょっとね」
「本当にあんたって変ね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「皮肉よ、それ!」
「それでも貰っておくね」
二人は顔を見合わせ、どっと楽しそうに笑声を響かせた。
本人たちは、今この瞬間の出来事が持つ本当の重大さ(因果)に、まだ誰も気づいてはいなかった。この大陸で毎日何千回と繰り返されている、ただのありふれたゴブリン退治という最低ランクの依頼。だが――これこそが、リンとソラの二人の若き少女が、自らの意志で選び取った冒険者という未来において、初めて一丸となって勝ち取った『真なる第一歩』だったのだから。
――そして、その放棄された集落から遥か、遥か遠方の空。
あの圧倒的な百層の魔塔の最上階において、カイは豪華な長椅子の上にどっしりと深々と寝そべり、ただ死んだような目で大理石の天井を凝視し続けていた。すでにその姿勢のまま、丸数十分の時間が経過している。
すぐ傍らでは、最高管理者のユイが静かに魔導書を読み進めており、クロエは卓上で優雅に紅茶の香りを愉しんでいた。
カイはハァと本日最大級のため息を漏らした。
「……あーあ。最高に退屈だわ(暇すぎて死ぬ)」
ユイは魔導書のページを滑らかにめくった。
「主。あなたがその『退屈だ』という愚痴を吐き散らしたのは、これで合計『十七回目』ですが」
「え? まだ十七回だけか?」
「ええ、正確に十七回ですわ」
「そいつは、最高に不満足な数値だな。もっと言ってると思ってたわ」
クロエが紅茶のカップを置き、悪戯っぽく微笑んだ。
「……カイ様。そんなに暇を持て余していらっしゃるなら、訓練場で身体でも動かされては如何かしら?」
「嫌だね。無駄なカロリーの消費だわ」
「ならば、大図書館の魔導書でも読まれる?」
「嫌だね。文字を視た瞬間に脳の演算回路がスリープを始めるね」
「……ならば、この魔塔のまだ見ぬ階層の未開拓領域を大冒険しに行くのは?」
「嫌だね。自分で作った家の中を探検するほど、俺の社会的交流のゲージは回復してねえわ」
「――ならば、大人しく二度寝をなさる(眠る)のは?」
カイはその提案に対して、少しだけ真面目な顔で考えるように間を置いた。
「……それに関しては、一理ある(合理的判断だな)」
ユイが呆れたように手元の本をパタンと閉じた。
「主。あなたは昨日の段階で、一日の半分をただの睡眠に費やしていましたが?」
「だから?」
「そして、目が覚めた一秒後から『最高に退屈だ』と狂ったように愚痴を連発していたではないですか」
カイは真剣そのものの表情で力強く頷いた。
「おう、完璧にその通り(イエス)。睡眠の質と、目覚めた後の退屈さは、タイム・システムの上で完璧に別物だろ」
ユイは冷徹なジト目で彼を凝視し、カイもまた一歩も引かずにその視線を受け止める。クロエはただ無言のまま、優雅に紅茶を口元へと運んでいた。
彼女は時折、本当に心の底から不思議に思うことがあった。――眼の前でシーツに包まって駄々をこねているこの不条理な青年が、あの深海の底において、超古代の絶対不死を誇るこの私を、ただの一秒で肉体ごと概念から跡形もなくねじ伏せてみせた、あの絶対の超越者(化け物)と同一人物なのだという事実。
なんだか、そのあまりの落差のせいで――かえって、背筋が凍るような底知れぬ恐怖を覚えさせられるのだ。
カイはガタッとソファから上体を起こした。
「あー、マジで何か『面白いこと(大戦乱)』でも起きねえかなぁ」
ユイの冷徹だった黒い瞳が、その言葉を聞いてふっと、驚くほど柔らかく切ないものへと和らいだ。
「……主。あなたはあの場所を出る際、『これからは静かで平和な人生を送るのだ』と、そう仰っていたはずですが」
「おう、言ったな。平和主義こそが俺のモットーだわ」
「それなのに、いざ世界が平和になったら、今度は退屈だと喚き散らすのですか?」
「そう、完璧にその通り。人間ってのはさ、現状維持に一秒で飽きるように作られてんだよ」
ユイは本日最大級のため息を漏らした。
「……はぁ。本当に、救いようのない我が儘ですね、愛しい人」
カイはニカッと不敵に笑ってみせた。
「気にするなって。俺からわざわざ世界に戦乱を仕掛けに行くつもりは一ミリもねえよ。平和が一番だわ」
クロエが片方の眉をクッと妖しく跳ね上げた。
「……世間一般じゃね、カイ様。あなたがそうやって『トラブルを起こすつもりはない』と大見得を切った瞬間こそが――最大最悪の天災(確定演出)が引き寄せられる、絶対のトリガーって呼ぶのよ?」
「そいつは最高に心外な評価だな。俺のガラスのハートが傷ついたわ」
「事実でしょうに」
カイは再びソファへと深く体重を預けた。
彼がどれほど口を極めて愚痴を吐き散らしていようとも、本音を言えば、彼はこの現実の世界において、不要な血の雨(戦乱)を引き起こすつもりなど毛頭なかった。
彼はあの『記憶の牢獄』という絶望の檻の中で、あまりにも長すぎる歳月を戦い、蹂躙し、生き延びすぎていたからだ。あの死地においては、一秒一秒が生き残るための命懸けの生存競争だった。見覚えのない未知の波形(気配)を察知すれば、それは一秒の後には自分を殺しに来る『絶対の敵』を意味していた。空間を支配する静寂は、次の瞬間に必殺の奇襲が押し寄せてくる不吉な前触れに他ならなかった。そして――自分が心から大切に想い、背中を預けた同胞たちが、何の前触れもなく一瞬にして世界から掻き消えて消滅していく、そんな地獄が日常だったのだ。
この現実の世界は根本から異なっていた。
すべてが本物のリアル(真実)であり、あの『記憶の牢獄』が決して持ち合わせていなかった、果てしない『脆さ(硝子の均衡)』を孕んでいる。カイはこの新しい世界を、再び血の雨の降るような大戦乱の戦場に変えるつもりなど、毛頭なかった。
彼の唯一にして真なる絶対目標は、今なお何一つ変わっていない。――『カイ・ゼロ』。あの男の抹殺。それ以外のすべての事象は、彼にとっては二の次、三の次に過ぎなかった。
だが、あの男を見つけ出すその瞬間まで、カイはこの世界を静かに愉しみたかったのだ。あるいは、だからこそこの百層の魔塔という拠点が、彼にとってそれほど重要な意味を持っていたのかもしれない。ここは単なる強固な魔導本部ではない。かつて失った大切な同胞たちが、いつか必ず戻ってくるべき約束の場所。彼がただの一瞬でも、戦うことを忘れて肩の荷を下ろせる、唯一の『安息の家』。
しかし不都合なことに、外の世界(人間ども)は、確実にこの場所に気づき始めていた。
ユイが手元の魔導書を静かに閉じた。
「――愛しい人」
「ん?」
「アステリア王国から、再び公式な伝令が届けられましたわ」
カイの表情が、一瞬にして面倒くさそうなものへと変わった。
「……またかよ?」
「ええ、そうですわ」
「今度はあいつら、一体何の用だよ?」
クロエがユイの方へと視線を向けた。
ユイは厳重に封印された一通の王室書簡を持ち上げた。
「――どうやら、公式な『招待状』のようですね」
カイは卓上のその手紙をじっと睨みつけた。
「招待状ぇ? 一体何のパーティーだよ?」
「公式な王宮会談、ですわ」
「誰と?」
「アステリアの『国王陛下』直々の御指名です」
カイはパチクリと瞬きをした。
「……アステリアの王様がか?」
「ええ、その通りですわ」
カイは椅子の背もたれにどっしりと深々と身体を預けた。
「……へえ、なるほどね」
クロエが紅茶のカップを静かに置き、怪訝そうに尋ねる。
「それって、何か公的な不都合に発展するかしら?」
「いや、それはないだろ」
カイは魔導窓の向こうにそびえ立つ、あの圧倒的な百層の魔塔を見上げた。上層階が雲の彼方へと不気味に消失していく、不条理な大建造物。彼は、人間の国家がなぜこれほどまでに狂ったように警戒の目を向けてくるのか、そのロジックを完璧に理解していた。
外見から見れば、これは文字通り『一晩』で突如として出現した絶対の魔導要塞に他ならない。放たれる魔素の絶対質量は規格外であり、その内部には森林、巨大湖、都市区画、最先端の実験室といった、世間一般の常識では絶対にあり得ざる『独立した世界』が丸ごと内包されているのだから。
外の世界の王国の視点から見れば、人々がこれに怯え、戦慄する理由など想像するに容易かった。もしもカイがその気にさえなれば、この魔塔は瞬時に世界を蹂躙する最強の『軍事拠点』へと変貌を遂げ、一軍を丸ごと常駐させることすら可能なのだ。
――当然、彼にそんな世界征服の我が儘(企み)など一ミリもなかった。
だが、国家や政府(大人たち)という生き物は、いつだって個人の「意図」などという不確かなデータには目もくれない。彼らが何よりも最優先で精査するのは、その個人が「何を(・)為し(・)得る(・)か(・)」という、絶対的な『潜在的脅威』の総量だけなのだ。カイはその残酷なリアルを、骨の髄まで熟知していた。
彼は隣の最高管理者を見つめた。
「……ユイ、お前はどう思う?」
ユイは手元の王室封印を冷徹にスキャンし、答えた。
「――私は、この誘いに乗る(受諾する)のが極めて賢明な判断であると演算します」
カイが頷く。
「理由は?」
「この魔塔が存在しているというだけで、世界の注目はこれからも絶え間なく膨れ上がり続けるからですわ。もしも我が国がこれを完全に黙殺(無視)し続けた場合、奴らは最終的に『この魔塔は全世界に対する明確な宣戦布告(脅威)である』と、そう一方的に判定を下すことになります」
クロエが重々しく首を縦に振った。
「ええ。そうなれば、最高に面倒くさい泥沼の戦乱に突入することになるわね」
カイはハァと最大級のため息を漏らした。
「……ちっ、俺にはもう、無駄な戦争に付き合ってるカロリーは残ってねえんだわ」
ユイがフッと唇の端を吊り上げて、完璧な笑みを浮かべた。
「分かっていますよ、主」
カイは招待状を引き取り、そこに刻まれたアステリア王国の真っ赤な王室紋章を凝視した。彼は昨日のあのアーヴェン・ダールという使節の男の顔を思い浮かべる。あの男は徹底して礼儀正しく、好奇心に満ち、慎重だった。少なくとも、明確な敵意(殺気)を放ってはいなかった。それは、国家の外交としては極めて良好なステータスだった。
カイが手紙の封を滑らかに切った。
書き連ねられていたのは、公式な、あまりにも形式張った、およそ脳の演算回路が一秒で処理を拒絶するほどに退屈な王宮公文書だった。
カイはそれを一読し、もう一度読み直し、それからやれやれと机の上へと放り捨てた。
「……人間ってのはさ、なんでこんなに無駄にたくさんの文字(単語)を使いたがるのかね」
クロエが悪戯っぽく微笑んだ。
「それが、国家としての最高級の『敬意(礼儀)』というものよ、カイ様」
「『暇だからちょっと面貸せ』って一言送ってくれば済む話だろ」
ユイが心底楽しそうにくすくすと笑声を漏らした。
「主、世界の『外交』という高度な術式が、そのような脳筋なテンポで稼働するわけがありませんわ」
「非合理的だな、本当に」
カイはガタッと椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「――よし、分かったよ。行ってやるさ」
クロエが怪訝そうに彼を見つめた。
「本気なの、カイ様? 本当に行くのね?」
「おう」
「……理由は?」
カイはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「だってさ、この魔塔がこれ以上世界の問題児に指定されるのは御免だからな」
彼は再び、魔導窓の向こうの無限の地平線を見据えた。外の世界の大人たちが、今この瞬間にどんな不穏な妄想を膨らませて戦慄しているのか、その顔を見ずとも完璧に予測がついていた。――謎の百層の魔塔、正体不明の不気味な新参の魔王、特定不能の絶対の力、推測不可能な不条理な意図。
もしも自分がこの世界で、大人しく大人しく平穏な二度寝ライフ(平和)を貪りたいのであれば――まずは最初に、一つの絶対的な世界の真理を奴らの脳内に叩き込んでおく必要があったのだ。
――『この魔塔は、世界に対する脅威ではない。……ただし、誰かがこれを意図的に脅威(敵)に変えようとしない限りはな』、という事実。
カイは唇の端を獰猛に、不敵に釣り上げて笑ってみせた。
「――それにさ……」
彼は綺麗に折り畳んだ招待状を懐へと収める。
「……ちょうど、最高に退屈してた(暇すぎて死にそうだった)ところだからな」
ユイの黒い瞳から、一瞬にして温度が完全に消え失せ、極寒のジト目へと変質した。
「――主ッ!!」
カイは慌てて両手を顔の前に掲げた。
「おい待て! 俺は自分からトラブル(戦乱)を仕掛けに行くつもりは一ミリもねえって言ってるだろ!」
クロエが深いため息を漏らした。
「お前がそうやって『トラブルは起こさない』と大見得を切る時ほど、最高に不吉な確定演出はないのよ、カイ様」
カイはガハハと豪快に笑声を響かせた。
その日の夜、カイは魔塔の最上階にある広大なバルコニーにただ一人、静かに直立していた。
猛烈な山風が彼の黒髪を激しくなびかせる。彼は眼下に広がる、ユイの手によって完璧に造り上げられたあの広大な世界の雛形を見下ろしていた。遥か下方には、人工の月光を浴びて静まり返る大森林。その先には、波一つ立てずに静止する巨大湖や河川。さらにその先には、未だ主の帰還を待ち続ける、魔塔の静かな巨大都市区画の輪郭が霞んで見えていた。
なんだか、不思議な気分だった。
この世界へ最初に出現した時、カイの望みはただ「自分が静かに息を潜めて存在できる、絶望のない安息の場所」を確保すること、ただそれだけだったのだ。あの『記憶の牢獄』という終わりのない地獄の乱戦から、ようやく逃れて辿り着いた新天地。
それが今や、全百層におよぶ圧倒的な魔塔となり、自分の絶対のテリトリー(居城)となり、未だ見ぬ大切な仲間たちの帰還を待つ、真なる『家』として、ここに厳然と機能している。
カイは静かにその双眸を閉じた。
刹那の間、失われたはずの『記憶の残滓』が脳内に鲜明にフラッシュバックした。――見覚えのある顔、聞き覚えのある声、悽惨を極めた戦場。自分の隣で背中を預けてくれた同胞たち。自分を信じてくれた戦友たち。――そして、あの地獄の檻の中で、自分が救うことのできなかった、かけがえのない仲間たちの姿。
彼の表情が、ふっと驚くほど柔らかく、深みのあるものへと綻んだ。
「――待ってろよ。俺が必ず、お前らを見つけ出してやるからな」
放たれた彼の密やかな声は、猛烈な夜風にさらわれて、一瞬にして世界の彼方へと掻き消えていった。
「――そして、全員残さず、この家(場所)へ連れ戻してやるさ」
彼の背後では、最高管理者のユイが、そしてその隣ではクロエが、何も語らずにただ静かにその主君の背中を見守っていた。誰も、その言葉を遮るような無粋な真似はしなかった。――王の立てた絶対の誓いに、これ以上の言葉など、何一つとして不要だったからだ。
翌朝。魔塔の正面玄関の前に、一台の豪奢な魔導馬車が静かに滑り込んできた。
その車体には、アステリア王国の公式な王室紋章が眩く刻まれている。
馬車の扉が開き、使使のアーヴェン・ダールが厳かにその地へと足を踏み下ろした。彼はゆっくりと、頭上にそびえ立つ圧倒的な大建造物を見上げる。二度目の訪問であるというのに、雲の彼方へと完全に消失していくその尋常ならざる規模は、一瞬にして彼の魂の根源を激しく震え上がらせ、著しい胃痛を呼び起こした。
傍らに控えていた近衛護衛の兵士が、生唾をゴクリと呑み込んで恐る恐る声をかけた。
「……あ、アーヴェン殿……っ」
アーヴェンは魔塔から一切の視線を外さぬまま応じた。
「……如何した」
「本当に……本気でこの百層の魔塔の中へと足を踏み入れるおつもりですか? それが我が国にとって、本当に賢明な判断であるとお考えで……っ?」
アーヴェンはしばしの間、完全な沈黙を保った。それから、苦渋に満ちた聲音で、静かに言い放った。
「――いいえ、全く持って、正気の沙汰(賢明な判断)とは言い難いな」
兵士がパチクリと目を丸くする。アーヴェンは自らの外套の手触りをきゅっと締め直した。
「だがな、他でもない我が国王陛下直々の厳命なのだ。……そして」
彼は目の前の、あの巨大すぎる正面玄関の大扉を睨みつけた。
「――あの新参の『魔王』との対話(社会的交流)を一方的に拒絶することの方が、我が王国の未来にとって、遥かに『正気の沙汰ではない(最悪の致命的バグ)』ということくらいは、私にも完璧に理解できているのでな」
――ガバァッ!!!
その瞬間、正面玄関の重厚な大扉が、何の前触れもなく滑らかに開き放たれた。
光の洪水の中、室内に一人の影が、何事にも動じない不敵な佇まいで直立していた。
――カイだ。
彼はいつも通りの、散歩の途中のように弛緩しきった気楽な笑みをその唇に刻んでいた。
「――よお、待ちくたびれたぜ」
アーヴェンは息を呑み、その場でピタリと動きを止めた。なぜだか理由はさっぱり説明できないが、この怪物の放ったあまりにも軽薄で、ありふれた挨拶(社会的交流)の響きそのものが――眼前の状況を、かえって底知れぬほど不気味で異様なもの(アブノーマル)へと引きずり込んでいるように感じられたからだ。
「……ご機嫌麗しゅう、カイ様( Lord Kai )」
カイは片手をひらひらと頭上で振ってみせた。
「だから、ただの『カイ(・・・)』でいいっての。その大層なラストネームは俺のガラスのハートに響くわ」
アーヴェンは居住まいを正し、重々しく頷いた。
「……失礼した。では、カイ」
カイは満足そうにニカッと笑った。
「おう、そいつは重畳だわ」
二人の影が魔塔の内へと進み、背後で重厚な大扉が不気味な重低音を響かせてパタンと閉ざされた。
かくして。
百層の魔塔が出現して四年、世界を巻き込む新たなる運命の第二段階(新章)が、ここに本物の幕を開けたのだ。
それは、大層な破壊の嵐(大爆発)を伴ったものでは断じてない。全世界に対する明確な宣戦布告の咆哮でもない。――ただの一通の、人間の国家が送りつけてきた『王室の招待状』という、密やかな社会的交流をトリガーにして。
そしてこの街道の遥か先、彼らの進行経路の交錯する座標の先には――この世界の人間の国家(大人たち)が、あの不気味な百層の魔塔を『絶対の敵(天災)』と見なすか、あるいは『独立した不可侵の聖域』と見なすか、そのすべてを決定づけることになる、運命の王宮会談が待ち構えていた。
カイには、自らの絶対の家(魔塔)を誰かに明け渡す(降伏する)つもりなど一ミリもなかった。
かと言って、この現実の世界のどこかの国家を力任せに蹂躙し、支配領域を拡大(征服)するような 我が儘(企み)を仕掛けるつもりも、毛頭なかった。
彼はただ、自分が失った大切な仲間たちを迎え入れるための居場所を護り――そしてただ静かに、この新世界で大人しく大人しく生きていきたい(二度寝したい)、それだけだったのだ。
――しかし。
この世界という残酷なゲームの盤面は、いつだってその人間の「ただ静かに生きたい」というあまりにも合理的でシンプルな願望を――これでもかと非合理的に、かつ最高にタチの悪いやり方で、無駄に複雑に上書き(バグらせ)してくるのが常なのだから。




