エピソード72:招待
【郷愁の地、懐かしき風】
『水平線』へと続く街道は、リンの記憶にあるよりも遥かに長く延びていた。
何年も前、まだほんの子供だった頃に一度だけ通った道。あの時の旅は、まるで世界の果てを目指すかのように果てしなく感じられたものだ。だが、今の感覚は全く違う――自分が成長したからか、あるいは、目指す場所が「規律を学ぶ学園」ではなくなったからだろうか。今回の旅路の終着点は、彼女の本当の家だった。
リンはソラと肩を並べて歩いていた。背嚢の紐を片方の肩に引っかけ、朝の陽光が街道を温かみのある黄金色に染め上げている。
「……あんた、さっきから随分と大人しいじゃない」
ソラが歩調を合わせながら、横顔を覗き込んできた。
リンはそちらへと視線をやった。
「ん、そう?」
「ここ一時間、文字通り一言も喋ってないんだけど」
「考え事をしてただけだって」
「危険な悪癖ね、本当に」
リンは不敵にフッと微笑んだ。
「言うようになったじゃん」
ソラは背嚢の位置を少し調整した。
「……で、何について考えてたわけ?」
リンは真っ直ぐに前方を見つめた。
「私の、お父さんとお母さんのこと」
「最後に会ったのは、四年前だっけ?」
「うん」
「……もしかして、緊張してるの?」
リンは少しだけ考えるように間を置いた。
「……まあ、ちょっとだけね」
ソラが優しく微笑む。
「なんでよ?」
「自分でもよく分かんない」
リンは足元の街道へと視線を落とした。
「私が家を出たのは、まだ十一歳の時でしょ?」
「そして、今は十五歳」
「まさにそれ」
彼女はハァとため息をついた。
「四年もあればさ、色々と変わっちゃうこともあるでしょ?」
ソラは重々しく頷いた。
「まあ、それはそうね」
リンの唇に、かすかな、だが温かい笑みが浮かんだ。
「でもね、やっぱり最高にワクワクしてるんだよね」
「あんたはそうでなくっちゃね」
リンは遥かな地平線を見据えた。
「――やっと、家に帰れるんだわ」
旅路には数日を要した。
二人は、いくつかの小さな集落や農村を通り過ぎていった。梢から見慣れぬ極彩色の鳥たちが囀る大森林を抜け、草叢の奥からは時折、小さな魔獣たちが安全な距離を保ちながら彼女たちの様子をじっと窺っていた。
リンはその旅のすべての過程を、心から貪欲に楽しんでいた。
風変わりな形状の巨木、見たこともない奇妙な結晶の群生、別の都市へと向かって進む商人たちの隊商、街道沿いにひっそりと佇む超古代の石造遺跡――そんな面白い事象が視界に入るたび、彼女は三十分に一度のペースで足を止めては、周囲を熱心に観察していた。
ソラは、いい加減彼女を急かすのを諦めた。
「……一応確認するけど、あんた『私たちは世界一の冒険者になる』って大見得切ってなかった?」
「言ったよ、今もそのつもり」
「三十分に一度のペースで完全に立ち止まってるんだけど、私の気のせいかしら?」
「だってさ、気になるものが多すぎるんだもん。見るのはタダでしょ」
「そんな亀の歩みじゃ、旅がいつまで経っても終わらないわよ」
リンは不敵にニカッと笑った。
「焦る必要なんてないって。私たちは急ぎの旅をしてるわけじゃないんだから」
ソラは本日何度目か分からないため息を漏らした。
「はぁ……。本当にあんたって強情ね」
リンは楽しそうに笑声を上げた。
「それが私の最大の魅力だからね」
ソラは一瞬、ハッとしたように目を丸くした。
「……そのセリフ、なんか以前にもどこかで聞いた記憶があるんだけど」
リンの動きが、一瞬にしてピタリと止まった。
「……え? マジで?」
「ええ、確実にね」
「……どこでよ?」
「それが……思い出せないのよね」
リンはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「じゃあ、あんたの勘違いか、さもなきゃ過去の私が言ってたのを脳内再生しただけでしょ」
ソラは冷ややかなジト目で彼女を凝視した。
「……はいはい、そういうことにしておくわよ」
それからさらに数日後。二人はついに、目的地の外縁――『水平線』の境界線へと辿り着いていた。
リンは唐突に、その足を完全に止めた。
ソラが不思議そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「リン、どうしたの?」
リンは答えなかった。
ただじっと、前方に広がる光景を凝視していた。――見慣れた広大な大地、懐かしい街道、なだらかな丘陵、そして遠方にかすんで見える、かつて暮らしていた家々の輪郭。それは彼女の記憶の中にあるものと、完璧に同一というわけではなかった。だが、魂の芯に直接語りかけてくるほどには、十分に、あの頃のままだった。
リンの唇に、これまでにないほど瑞々しい笑みが浮かんだ。
「――着いたよ」
ソラもまた、心から安堵したように微笑む。
「うん、やっと着いたね」
次の瞬間、リンの歩調が突如として猛烈に早くなった。
ソラはパチクリと瞬きをした。
「……ちょっと、リン!?」
リンは構わずスタスタと進んでいく。
「リンってば!」
――次の瞬間、彼女は文字通り、脱兎のごとく全速力で駆け出した。
「ちょっとリン――ッッ!!」
ソラが慌ててその後ろを追いかける。
「待ち上がれってば! 私を置いてくな――!!」
リンは風を切って走りながら、ガハハと豪快に笑声を上げた。
あのルナリス王立学園の門を叩いて以来、初めて――彼女は、かつてこの土地で暮らしていた頃の、ただの十一歳の無邪気な少女そのものの姿に戻っていた。周囲の目に自分がどれほど奇妙で、滑稽( stupid )に映っているかなど、今の彼女には一ミリだってどうでもよかった。
彼女はただ、一秒でも早く――自分の本当の『家』を、その目で視たかったのだ。
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【因果の交錯、沈黙の家】
その家は、リンの記憶に残っているのと全く同じ場所に佇んでいた。
近づくにつれてリンの歩調が徐々に緩やかになり、その獰猛だった笑みは、どこか切なく柔らかいものへと綻んでいく。彼女は門の前で、しばしの間ただ立ち尽くしていた。
ソラがその隣で足を止める。
「……リン、大丈夫?」
リンは小さく頷いた。
「うん、平気」
彼女は深く息を吸い込み、意を決して玄関の大扉へと歩み寄った。
だが、彼女がノックをするよりも早く、内側から扉が滑らかに開いた。
そこに直立していたのは、母親のアシュレイだった。一瞬の間、母と娘のどちらも言葉を発しなかった。アシュレイは呆然と娘を見つめ、リンもまたじっと母親を見つめ返す。やがて、アシュレイの瞳が驚愕にカッと見開かれた。
「――リン、なの?」
リンの唇に、最高の笑みが浮かんだ。
「ただいま、お母さん」
アシュレイは何も語らなかった。ただ一歩前へと踏み出し、愛おしい我が娘を壊れ物を扱うかのように力一杯その細い腕で抱きしめた。リンの身体が一瞬だけ硬直したが、すぐにその背中に腕を回してきつく抱きしめ返した。
「……随分と、背が伸びたのね」
リンは腕の中でクスリと吹き出した。
「お母さん、それ最初に言うこと?」
「だって、あなたが家を出た時はこんなに小さかったんだもの」
「そこまで小さくなかったってば」
「小さかったわ」
「十一歳だったんだよ?」
「ええ、まさにそれよ」
リンは母親の肩に顔を埋めた。
「……めちゃくちゃ会いたかったよ」
アシュレイはさらに強く彼女を抱きしめる。
「私もよ、ずっと会いたかったわ」
家の中から、低く穏やかな声が響いてきた。
「アシュレイ、誰か来たのか?」
父親のダニエルが姿を現し、そしてピタリと動きを止めた。彼の双眸が驚愕に丸くなる。
「……リンか?」
リンは顔を上げた。
「うん、お父さん」
ダニエルは丸数秒の間、ただ呆然と娘の姿を凝視していた。やがて、その厳格だった表情がふっと、驚くほど優しく和らいだ。
「――よく、無事に帰ってきたな」
「うん」
ダニエルは歩み寄り、リンの頭の上にそっと大きな掌を乗せた。
「本当に、大きくなったな」
リンは苦笑いを浮かべた。
「みんなそればかり言うね」
「事実だからな、仕方あるまい」
ダニエルは視線をソラへと向けた。
「……そして、そちらがソラさんだな?」
ソラは慌てて居住まいを正し、深く一礼した。
「は、はい! 初めまして、ソラと申します!」
ダニエルはガハハと豪快に笑声を上げた。
「そんなに畏まる必要はないさ。さあ、中に入ってくれ」
アシュレイは目元に浮かんだ涙をそっと拭い、満面の笑みを浮かべた。
「二人とも、長旅でお腹がペコペコでしょう?」
その瞬間、リンの黒い瞳が文字通り『爛々』と輝いた。ソラはそれを見逃さず、冷ややかなジト目を向ける。
「あんた、今『お腹がペコペコ』ってワードに異常反応したでしょ」
リンは露骨に視線を右左へと泳がせた。
「してない」
「絶対した」
「気のせいだよ。私は風の音しか聞いてないね」
ダニエルはそれを見て再び豪快に笑った。
「ははは! どうやら、中身はあの頃のままで安心したわ!」
我が家は一瞬にして、賑やかな活気に包まれた。
リンはソラと並んで食卓に腰掛け、アシュレイが次々と運んでくる豪華な手料理を見つめていた。正面にはダニエルがどっしりと腰掛けている。しばらくの間は、卒業式のこと、風変わりな教官たちの思い出、これからの予定など、他愛のない世間話に花を咲かせていた。
しかし、リンが自分とソラで『冒険者』になる決断を下したと告げた瞬間、アシュレイの手がピタリと止まった。
「……冒険者、ですか?」
リンは真剣な表情で力強く頷いた。
「うん、世界をこの目で確かめに行きたい(旅に出たい)んだよね」
ダニエルは椅子の背もたれに身体を預けた。
「旅、とは具体的にどこへ行くつもりだ?」
「全部( everywhere )だよ」
ソラがやれやれと首を横に振った。
「お父さん、聞いてください。この人、具体的な進行経路を何一つ計画してないんですよ」
リンは不服そうに彼女を睨みつけた。
「一応、大まかな方角は決めてるっての」
「それを世間じゃノープランって言うのよ」
アシュレイはそれを見てクスリと微笑んだ。
「……ふふ、本当にリンらしい言い草ね」
リンはニカッと不敵に笑った。
「私は教科書の中の知識じゃなく、世界を直接この目で視て(スキャンして)みたいんだ。これまでの数年間、学園で色んな土地の話を学んできた。だからこそ、今はそれを本物のリアルとして体験したいんだよ」
ダニエルは静かに、重々しく頷いた。
「……それは、時として極めて危険な生き方になるぞ」
「分かってる」
「凶悪な魔獣にも遭遇する」
「分かってる」
「強欲な野盗もいる」
「分かってる」
「――そして、時として魔獣よりも遥かに悍ましい『人間の悪意』に直面することもある」
リンはそこで、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……うん、分かってるよ」
ダニエルはしばらく娘の瞳を見つめていたが、やがてふっと、優しい笑みを浮かべた。
「……だがな、それがお前の魂の底からの望みであるならば、俺は止めはせんよ」
リンは驚いて目を丸くした。
「……本当に? お父さん」
「ああ。お前はもう十五歳だ。自分の未来を自分で決める権利がある」
アシュレイが心配そうに夫を咎めた。
「あなた……。でも、この子はまだ私たちの娘よ?」
「分かっているさ」
ダニエルは妻を宥めるように微笑んだ。
「だからこそ、俺は『絶対に無理はするな』と、そう念を押しているんだ」
彼は再びリンへと視線を戻す。
「アシュレイの言う通りだ。お互いに、ちゃんと支え合って護り合っていくと、ここで約束しなさい」
リンは真剣な表情で頷いた。
「うん、約束する」
ソラもまた、力強く胸を張った。
「ええ、お任せください!」
賑やかな会話はその後も続いた。――だが、突如としてリンがピタリと口を閉ざし、その鋭い視線が卓上の一点へと固定された。
アシュレイはその空気の変質を瞬時に察知した。
「……リン? 如何したの?」
リンは僅かに躊躇いを見せた。
「……お父さん、お母さん。実は、ずっと前から頭から離れない『違和感』があるんだよね」
ダニエルの表情が、一瞬にして本物の真剣なものへと引き締まった。
「……何についてだ?」
「――四年前の、あの『太陽の涙』の氾濫異変のことだよ」
しんと、沈黙が部屋の全域を支配した。
ソラは驚いてリンを見つめ、アシュレイとダニエルは無言のまま、互いに視線を交わし合った。
リンは静かに言葉を続けた。
「二人にこの話をするのは初めてだけど……。あの時、海原が一瞬にして凍り付いたその刹那、私は肌を刺すような奇妙な感覚を覚えたんだよね」
彼女の指先が、テーブルの上できゅっと締め直される。
「圧倒的な、世界の理を容易くひっくり返すほどの凄まじい『魔素』の残滓。……あの絶対的な存在感」
彼女の声が、徐々に低く、密やかなものへと変わっていく。
「それは、ただ恐ろしい(化け物)っていうだけじゃなかったんだわ」
リンは眉間に皺を寄せ、自らの記憶の深淵を探るように呟いた。
「……なんでだか、さっぱり理由は分からないんだけど。あの圧倒的な暴威の波形が――私にとって、とてつもなく『懐かしい(馴染み深い)』ものに感じられたんだよね」
その瞬間。
ダニエルとアシュレイの二人の身体が、文字通り、完璧にピキリと凍り付いた。
リンはそのあまりにも不自然な両親の硬直を見逃さなかった。
「……お父さん? お母さん? もしかして、二人は何か(・)知っ(・)て(・)る(・)の?」
アシュレイは救いを求めるように夫を見つめ、ダニエルは苦渋に満ちた表情で妻を見つめ返した。
二人の唇は完全に閉ざされ、部屋にはただ、時計の秒針の音だけが不気味に響き渡っていた。
長い沈黙の末、アシュレイが絞り出すような低い声で応じた。
「……私たちも、それを感じていたのよ」
リンの目が驚愕に丸くなった。
「え? お母さんたちも?」
ダニエルが重々しく首を縦に振った。
「ああ、間違いない」
「……いつだよ?」
「あの異変の、まさにその瞬間だ」
リンは両親を凝視した。
「――だったら、なんで今まで私に黙ってたのよ?」
「自分たちが何を感じ取ったのか、確信が持てなかったからだ」
アシュレイは卓上で自らの細い両手をきゅっと固く組み合わせた。
「あの魔素には、何か致命的に奇妙な違和感があったのよ」
ダニエルが言葉を継ぐ。
「ただの強力な魔法現象とは、根本から性質が異なっていた」
リンは深く頷いた。
「まさにそれだよ、お父さん」
「絶大で、圧倒的な暴威だった」
アシュレイがその時の記憶をなぞるように言った。
「だけど、私たちが戦慄したのは、その規模のせいじゃないの」
リンは母親の瞳を見つめた。
「――それが、とてつもなく懐かしかった(馴染み深かった)のよ」
アシュレイが、自らの魂の告白を肯定するように小さく頷いた。
室内に、再び静寂が舞い戻った。
ソラが三人の顔を交互に見比べる。
「……ってことは、お父さんたちも、それが誰の魔力なのかは分かってないのね?」
ダニエルは力なく首を横に振った。
「ああ、さっぱり分からん」
リンは眉間に深く皺を寄せた。
「じゃあ、なんで私たち全員が、それを『懐かしい』なんて感じるわけ?」
「それが分からんのだ」
「私たちが昔からよく知っている、誰かの身内(知り合い)だったりするの?」
「可能性としては否定できんが……」
「この『水平線』に関係のある誰か、とか?」
「それも、何とも言えんな」
リンは椅子の背もたれにどっしりと身体を預け、魔導窓の向こうの夜空を見つめた。
あの時覚えた奇妙な知覚は、四年の歳月を経てもなお、彼女の魂の奥底にべっとりと張り付いて離れなかった。これまでは、ただ『太陽の涙』の氾濫という未曾有のパニックに直面したせいで、自分の感覚が一時的に狂った(バグった)だけなのだと、必死に自分を言いくるめてきたのだ。
だが、今の彼女には確固たる真実があった。
自分の両親も、全く同じ波形を肌で察知していた。あの感覚は、決して気のせいなどではなかったのだ。
リンの唇に、ふっと獰猛で不敵な笑みが浮かんだ。
「――よし。これで、私が世界を大冒険するべき本当の理由が、もう一つ増えちゃったじゃねえか」
ダニエルが彼女の顔を見つめる。
リンの瞳に、かつてないほど強固な決意の光が宿る。
「私は、あの魔素の発生源を突き止めてみせる」
アシュレイは心配そうに娘を見つめた。
「その魔力を持つ『誰か』を、探しに行くというのね?」
「うん、そうだよ」
リンは力強く頷いた。
「そいつが一体何者なのか、この目で直接視て(スキャンして)やりたいんだわ」
彼女は両親へと真っ直ぐな視線を向けた。
「そして、なんであいつの存在感が――私たち全員にとって、あんなに『懐かしい』ものだったのか、その謎を完璧に解明してやるさ」
ダニエルは娘のその不敵な表情を見て、フッと、どこか誇らしげに微笑んだ。
「……なるほどな。どうやら、お前たちの最初の『本当の依頼』が決定したわけだ」
リンはニカッと笑った。
「まさにその通り!」
ソラが身を乗り出してくる。
「だったらさ、その調査、二人で一緒に挑むに決まってるじゃない!」
リンはソラを見つめた。
「本気、ソラ?」
「あったりまえでしょ」
ソラは満面の笑みを浮かべた。
「私たちは今日から、世界一の冒険者なんだからね!」
リンはガハハと楽しそうに笑声を上げた。
「おう、そうこなくっちゃな!」
彼女は再び窓の外を見据えた。この世界のどこかに、必ずその『答え(真実)』が眠っている。それが何なのか、その化け物が誰なのかは、今の彼女にはさっぱり分からない。だが――自分は必ず、そこへ辿り着いてみせる。
その日の夜、晩餐を終えた後、リンは一人で家の外へと歩み出ていた。
夜空は完璧なまでに澄み渡り、無数の星々が『水平線』の広大な闇を美しく飾り立てている。
数分後、ソラが彼女の隣へと静かに並び立った。
「……あんた、まだあのこと考えてるでしょ」
リンは小さく頷いた。
「うん、まあね」
「私たち、本当にその人を見つけ出せると思う?」
「さあな。そんなのやってみなきゃ分かんねえよ」
彼女は満天の星空を見上げた。
「だけど、俺の魂の底が『行け』って叫んでんだよ」
ソラはフッと、愛おしそうに微笑んだ。
「なら、行くしかないわね。付き合ってあげるわ」
リンはソラを見つめた。
「二人で、一緒に?」
「ええ、一緒にね」
リンは満足そうに口の端を釣り上げた。
「勝った(ガッチャ)」
ソラはこらえきれずに大笑いした。
「もう! あんた本当にその単語お気に入りよね!」
「使い勝手(合理的)がいいからね」
「いいえ、最高に煽り性能が高いだけよ」
「ガッチャ」
「リン!」
リンは楽しそうに夜空に笑声を響かせた。
不思議なことに、あの日以来ずっと胸に閊えていたその謎が、今は少しも恐ろしくは感じられなかった。それは恐怖ではなく、自分たちが目指すべき『旅の終着点』なのだ。リンはいつだって、街道のその先にある未知の景色を視るのが、何よりも好きだったのだから。
――そして、その『水平線』から遥か、遥か遠方の空。
あの圧倒的な百層の魔塔の内部において、カイは豪華な椅子にどっしりと深々と腰掛け、弛緩しきっていた。そのすぐ傍らにはクロエが直立し、ユイは卓上の膨大な国家公文書を冷徹に精査し続けている。
カイの顔は、文字通り『退屈』そのものの色彩に染まりきっていた。極限まで暇を持て余した彼は、椅子の背もたれにさらに体重を預けて天井を仰いだ。
「はぁ……。チッ、クソ食らえってか」
クロエがその様子を盗み見て、悪戯っぽく微笑む。
「……随分と、お退屈のようですわね、カイ様」
「おう、最高に退屈だわ」
「なぜです?」
「何も起きねえからだよ。世界が静かすぎるわ」
ユイは公文書から一切視線を外さぬまま、冷徹に応じた。
「主。あなたがここに腰掛けてから、未だ『一時間』も経過していませんが」
「その一時間が、俺にとっては気の遠くなるような長い歳月に感じられるんだよ」
クロエはパチクリと瞬きをした。
「……一時間なんて、ほんの一瞬(刹那)に過ぎないと思うのですが」
「飯を待つ一時間と、何もない一時間は、世界の理の上で全くの別次元なんだっての」
ユイがようやく公文書から顔を上げ、冷ややかなジト目を主君へと向けた。
「――愛しい人。この世界の全容を静かに観察する、と大見得を切ったのは他でもないあなたですが」
「おう、今まさに全身の毛穴で世界を観察中だぜ」
「主、あなたは先ほどから、ただの『何もない大理石の壁』をじっと凝視し続けていますが」
カイは今さっきまで睨みつけていた壁を見つめ、それから悪びれもせずユイへと視線を戻した。
「……おいおい。お前、これのどこがただの壁に見えるんだよ。大理石の模様がめちゃくちゃ『面白い(強烈な)』術式配列の羅針盤に見えるだろ。最高のアートだね」
ユイは最大級のため息を漏らし、クロエは堪えきれずに楽しそうに笑った。
カイはガタッと椅子を蹴るようにして身を乗り出した。
「いや、真面目な話さ。俺はこの現実の世界に、一体どれほどの『強い奴(化け物)』が隠れ潜んでいるのか、一秒でも早く確かめたくてウズウズしてんだよ」
「いずれ、世界の歯車が回れば嫌でも理解できますよ」
「その『いずれ』ってのが、あまりにもスローモー(遅すぎる)なんだっての」
「世界は、主の我が儘のテンポに合わせて稼働しているわけではありません」
カイはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「ちっ、相変わらず手厳しいな、お前」
その瞬間、クロエが何か(・)を唐突に思い出したかのように、その真紅の双眸を僅かに見開いた。
「――あ、そう言えば、カイ様」
「ん、なんだ?」
「おととい、魔王ニクセラに会いに行くって仰っていませんでした?」
カイは動きを止めた。彼はクロエを見つめ、次にユイを見つめ、再びクロエへと視線を戻した。
「……ああ」
クロエは言葉を待った。
カイは不敵にニカッと笑った。
「そんなの、もう気にする必要はねえよ」
「なぜです?」
「だってさ、俺の欲しかったものは『とっくの昔に手に入ってる』からな」
クロエは小首を傾げた。
「……あなたが欲しかったものって、一体何?」
カイは椅子の背もたれにどっしりと身体を預けた。
「――この世界の『魔王ども』の注意を、根こそぎ惹きつけることさ」
ユイの瞳が、僅かに冷徹に細められた。
「――それで主。首尾よく惹きつけることはできたのですか?」
カイの唇の端が、さらに獰猛に釣り上がる。
「ああ、完璧に喰いついてくれたはずだぜ」
クロエはパチクリと瞬きをした。
「どうやって?」
カイは隣の最高管理者をビシッと指差した。
「そりゃ、こっちの天才に聞いてくれ」
ユイは手元の魔導書をパタンと閉じた。
「――主」
「なんだよ?」
「意図的に、一番重要な核心部分を隠蔽して煙に巻くのはお止めなさい」
「おう、大得意だからな」
クロエはやれやれと最大級のため息を漏らした。
「……カイ様、本当に救いようがないわね」
カイはガハハと楽しそうに笑声を上げた。
「まあ気にするなって」
彼は魔塔の巨大なガラス窓の向こう、無限の地平線を見据えた。
「俺の勘が正しければさ――向こうから勝手に、この塔の門を叩きにやってくるはずだぜ。そう遠くないうちにな」
――数日前。人間のいかなる国家や王国からも切り離された、不気味な暗雲が立ち込める最果ての黒き要塞。
その広大な謁見の間に、五つの圧倒的な影が集結していた。中央に並ぶのは五つの玉座。――五人の『魔王( Demon Lords )』。
室内の空気は、常人であれば一秒で圧殺されるほどの絶対的な重苦しさ(プレッシャー)に満ちていた。
玉座の一つにどっしりと腰掛けたディーヴォ・アゲラが、冷徹な声音で口を開く。
「――新たな魔王の誕生(覚醒)が確認された」
別の玉座にいたデミグラが、片方の眉をクッと上げた。
「……また、新しい化け物が増えたってか?」
「ああ、間違いない」
『時の竜』たるアイオンは完全な沈黙を保ち、ミレラは無表情のままディーヴォへと視線を向けた。
「……その魔名は?」
「特定には至っていない」
原初たる悪魔・第五位にして、魔王の位階に君臨するニクセラが、その双眸を鋭く細めた。
「……特定できていない、ですって?」
ディーヴォは重々しく首を横に振った。
「まだその段階ではない」
彼は一枚の暗黒魔導報告書を卓上へと滑らせた。
「情報が極めて制限されている。突如として全百層におよぶ圧倒的な魔塔が出現し、その主は自らをただ『カイ』と名乗っているようだ」
ニクセラの表情が、その瞬間、一瞬にして凍り付いた。
「……カイ」
彼女は、その二文字の響きを脳内で静かに反芻した。
ディーヴォが深く頷く。
「現時点で、システム(世界の理)から『魔王』として公式に認識されるほどの絶大な魔素を有しているのは間違いのない事実だ」
デミグラが鼻で笑った。
「認識されたばかり、か。つまり新米の青二才ってわけだな」
「分類上は、ごく最近の事象だ」
ミレラが報告書に目を落とす。
「その男について、ほかに判明していることは?」
「皆無に等しい。……だがな」
ディーヴォは冷徹な視線を周囲に走らせた。
「――奴には、己の存在を世界から隠匿しようとする意図が、微塵も感じられないのだ」
ニクセラが顔を上げた。
「……へえ。面白いじゃない」
「すでにその百層の魔塔は、周辺のいくつかの人間の国家から多大なる警戒の目を向けられている」
ディーヴォが言葉を続ける。
デミグラは獰猛な笑みをその唇に刻んだ。
「生まれたばかりの分際で、一秒で全世界の注目を惹きつけるか」
彼はくくくと喉を鳴らして自嘲気味に笑った。
「……最高にタチの悪い、厄介な問題児の匂いがプンプンするな」
ニクセラはただ、完全な沈黙を保ったまま卓上の文字を見つめていた。
なぜだか理由はさっぱり分からない。ただの、ありふれた二文字の魔名。それなのに、その響きが――自分の魂の最深部を、引き裂くような強烈な『既視感』を以て激しく震わせていた。
彼女はもう一度、報告書の文字を凝視する。
「――カイ」
その魔名が、彼女の思考のすべてを支配していく。
やがて、ニクセラは静かに玉座から立ち上がった。
「……その新参者、私が直接、調査(狩りに)行ってあげるわ」
周囲の魔王たちが、一斉に彼女へと視線を向けた。ディーヴォが片方の眉を上げる。
「……ニクセラ。お前が自ら、志願(立候補)するというのか?」
「ええ、そうよ」
「理由は?」
ニクセラの唇に、不敵で、どこか艶やかな笑みが浮かんだ。
「――ただの、純粋な『好奇心』よ」
ディーヴォはしばらく彼女の瞳の奥を見つめていたが、やがて納得したように深く頷いた。
「……よろしい、許可しよう。その新たなる魔王の調査権を、お前に一任する」
ニクセラは満足そうに微笑んだ。
「――ええ、任せておきなさい」
――そして、その最果ての要塞から遥か、遥か遠方の空。
あの百層の魔塔の最上階において、カイは満足そうに口の端を釣り上げて微笑んでいた。
彼の仕掛けた『餌(罠)』は、完璧に稼働していた。
魔王どもは、確実に彼の存在(兆候)をその手の中に捕捉した。あとはここで――大人しく二度寝をしながら、獲物が自らこの門を叩くのを待つ(ウェイトする)だけだ。
あの『記憶の牢獄』という絶望的な死地を潜り抜けて以来、初めて。
カイは、かつて失った大切な『同胞』の魂を取り戻すための、最初の一歩へと、確実にその手を伸ばしていた。




