エピソード71:新たな道
【新米冒険者】
二人がルナリス王立学園の正門を潜り抜けた頃には、太陽はすでに西の地平線へと傾き始めていた。
つい数時間前まで大勢の生徒や教官、その家族たちの歓声と拍手で狂ったように沸き返っていた中庭は、今や嘘のように静まり返り、祭りの後の寂寥感を漂わせている。
リンは両手を頭の後ろで組みながら、のんびりとした足取りで街道を歩いていた。
「……で」
「で、何よ?」
ソラが歩調を合わせながら彼女を盗み見る。
「私たち、本当に卒業しちゃったんだね」
「まあ、そういうことになるわね」
リンは振り返り、徐々に小さくなっていく思い出の校舎を見つめた。
「なんだか、妙な気分(変な感じ)だな」
「何が?」
「だってさ、昨日まではただの『生徒』だったわけじゃん」
「じゃあ、今日は?」
リンは少し真面目な顔で考え込んだ。
「……やっぱり、ただの私だわ」
ソラはこらえきれずに吹き出した。
「あはは! それはまた、随分と哲学的な考察(大発見)だこと」
「どういたしまして」
「皮肉で言ったのよ? 褒めてないからね」
「知ってる」
二人は再び歩き出した。それから数分間、どちらも言葉を発しなかった。
リンは周囲の景色をじっと見つめていた。見慣れた街並み、立ち並ぶ商店、行き交う人々。目に入るすべてのものは昨日までと何一つ変わらない。だが、彼女の胸の奥にある感覚だけが、決定的に変化していた。
これまでの数年間、彼女はただ『未来』に備えるためだけに学園という狭い檻の中で牙を研ぎ続けてきた。そして今、その未来とやらがいざ目の前に到来したというのに、世界(大人たち)は誰も、その力をどこへ向ければいいのかを教えてはくれないのだ。
リンはハァとため息をついた。
「……それでさ。ソラ、あんたこれからどうするの?」
「本音を言ってもいい?」
「うん」
「――さっぱり分かんないわ(ノープランよ)」
リンは納得したように頷いた。
「だな。私も同じだわ」
さらに数歩進んだところで、リンは唐突にその足を完全に止めた。ソラは数歩先まで進んでからようやく隣に誰もいないことに気づき、怪訝そうに振り返る。
「……どうしたの?」
リンは真っ直ぐに、遥かな地平線の先を見つめていた。
「……私、やりたいことが見つかったかもしれない」
ソラは彼女の元へと引き返してきた。
「やりたいことって?」
「――世界を、この目で確かめてみたい(冒険に出たい)」
ソラはパチクリと瞬きをした。
「冒険、ですって?」
「うん。私はこれまでの人生の大半を、たった一つの狭い場所で過ごしてきたでしょ? 学園にいる時だって、勉強することと言えば教科書の中の知識か、どこかの旅人が持ち帰ってきたお伽噺ばかりだった」
彼女は自分の両手を見つめ、それからその黒い瞳を爛々と輝かせた。
「この世界には、私のまだ見ぬ未知の領域がいくらでもある。見たこともない巨大都市、遭遇したこともない未知の魔獣、誰も解明していない古代の遺跡、教科書でしか読んだことのない超常の魔法現象――それらを全部、誰かの言葉じゃなく、私のこの目で直接視て(スキャンして)みたいんだよ」
ソラは驚いたように彼女を見つめ、それからニィッと、心底楽しそうな笑みをその唇に刻んだ。
「……それって、世間一般じゃ『冒険者』って呼ぶのよ?」
リンは不敵にニカッと笑い返した。
「まさにその通り!」
「――なら、私も一緒に行ってあげるわ」
リンは意外そうに目を丸くした。
「え? 本気?」
「本気に決まってるでしょ。私があんたを一人で放り出すわけないじゃない」
「いや、ソラは何か別のやりたいこと(実家の都合とか)があるのかと思ってたからさ」
ソラはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「私だって、これから自分が何をしたいのかなんてハッキリ決まってないもん」
彼女は満面の笑みをリンへと向ける。
「だけどね、自分の大親友と一緒に世界の果てまで大冒険する方が、一人で部屋に閉じこもって『私の人生どうしよう』なんて悩むより、何百倍も面白そうじゃない?」
リンの表情が、かつてないほど獰猛で輝かしい笑みへと綻んだ。
「――よし、決定だな!」
「……随分とあっさり決めるじゃない」
「おう、即断即決が私のモットーだからね」
「一応聞くけど、冒険者ギルドへの登録は?」
「これからやる!」
「旅の必需品(物資)の買い出しは?」
「それもこれからやる!」
「……じゃあ、最初の目的地は決まってるわけ?」
リンの動きが、一瞬にしてピタリと止まった。
「……そ、それは……これから気合いで考える」
ソラは冷ややかなジト目で彼女を凝視した。
「あんた……本当に一ミリも具体的な計画を立ててないのね?」
「計画ならあるって!」
「どんな計画よ?」
「『世界を冒険する』、これ以上の完璧な計画があるか?」
「それはただの『願望』って言うのよ」
ソラは本日何度目か分からないため息を漏らした。
「はぁ……。あんた、いつか絶対に私を巻き込んで犬死にする気でしょ」
リンは不敵に微笑んだ。
「まあ、そう簡単には死なないから安心しなって」
「微塵も安心要素になってないんだけど!」
リンはガハハと楽しそうに笑声を上げた。二人は足並みを揃え、再び街道を進んでいく。彼女たちが決めた最初の目的地は、すでにハッキリとしていた。――ソラの実家だ。新しい人生(大冒険)の幕を開ける前に、まずは彼女の両親へとしっかりと挨拶を通しておく必要があったからだ。
ソラの実家に辿り着くと、彼女の両親がすでに玄関の外で今か今かと二人の帰りを待ちわびていた。卒業式の正装に身を包んだ二人の姿が視界に入るなり、ソラの母親が本当に嬉しそうに破顔した。
「――お帰りなさい、二人とも!」
ソラは顔を綻ばせ、駆け寄った。
「お母さん……っ!」
彼女は母親へと勢いよく飛び込み、その細い身体をきつく抱きしめる。傍らでは、父親が我が娘の立派な晴れ姿を前に、心底誇らしげな表情で佇んでいた。
「よくやったな、卒業おめでとう、ソラ」
「ありがとう、お父さん」
リンは僅かに遠慮するように、ソラの後ろに一歩下がって直立していた。ソラはそんな彼女の腕を強引に引っ張り、両親の前へと引き出す。
「――ほらお父さん、お母さん。紹介するね。この子が、私が学園という名の修羅場を無事に生き延びるのを、一番手伝ってくれた最高の相棒だよ!」
リンは片方の眉をクッと上げた。
「……修羅場って、あんたねぇ……」
「いいのよ、細かいニュアンスは!」
ソラの母親は優しく微笑み、リンの手をそっと包み込んだ。
「立ち話も何ですから、さあ中に上がって。二人とも、お腹がペコペコでしょう?」
その瞬間、リンの黒い瞳が文字通り『爛々』と凶悪なほどの輝きを放った。ソラはそれを見逃さず、冷ややかなジト目を向ける。
「……あんた、今『お腹がペコペコ』ってワードに異常反応したでしょ」
「してない」
「絶対した。一瞬で目が獣のそれ(魔獣)になったもん」
「……気のせいだよ。私は風の音しか聞いてないね」
ソラの父親はそれを見てガハハと豪快に笑声を上げた。
「よし、さあ入った入った! ご馳走の準備は万端だぞ!」
四人は賑やかに家の中へと入っていった。
食卓には、すでに豪華な料理の数々が皿の隙間もないほどに並べられていた。リンはソラの隣の席に腰掛け、周囲の大人たちの会話が早く終わって料理に喰いつく許可(合図)が下りるのを、必死に平静を装いながら今か今かと待ち構えていた。
ソラが苦笑いを浮かべながら、許可(合図)を出した。
「……はいはい、食べていいわよ、リン」
その瞬間、リンは電光石火の手付きでフォークを引ったくった。
「いただきます」
ソラはやれやれと首を横に振り、彼女の両親はガハハと豪快に笑声を上げた。
晩餐の時間は、どこまでも心地よく流れていった。卒業式のこと、学園での日々、風変わりな教官たちの思い出、そして愛すべきクラスメイトたちの噂話。やがて食事が一段落した頃、ソラは居住まいを正し、両親へ向けて自分たちの下した『決断』を告げた。
「――私たち、冒険者になることに決めたの」
母親がピタリと手を止めた。父親はソラを見つめ、それからリンへと視線を移す。
「……本気なのか、お前たち」
リンは真剣な表情で力強く頷いた。
「はい、大真面目です」
ソラも満面の笑みを浮かべる。
「二人で一緒に、世界をこの目で確かめに行きたい(冒険したい)んだよね」
父親は椅子の背もたれにどっしりと身体を預けた。
「ふむ……。大人としての第一歩を踏み出すには、確かにそれも一つの面白い選択肢だな」
母親は一瞬だけ心配そうな曇り顔を見せたものの、すぐに優しい笑みへと綻ばせた。
「……二人とも、本当に立派に大きくなったのね」
ソラは胸を張った。
「絶対に無理はしないから、安心して」
「ええ、分かっているわ」
母親は、静かに佇む黒髪の少女へと視線を向けた。
「リンさん。お互いに、ちゃんと支え合って(護り合って)いくのよ?」
リンが深く頷く。
「はい、もちろんです」
すると、ソラが間髪入れずに言葉を付け足した。
「――主に、私がリンを護る側になると思うけどね」
リンは片方の眉をクッと上げた。
「……おい。ちょっと待て、何だって?」
「バッチリ聞こえてたでしょ?」
「お互いに支え合うって話じゃなかったのか?」
「そうよ。支え合うのよ」
「じゃあ、なんで『主にソラが』って話になるわけ?」
「だってあんた、好奇心に負けて自分からとんでもないトラブル(魔獣の巣)に突っ込んでいきそうな確率が、世界一高いんだもん」
リンは心底不服そうに顔をしかめた。
「そんな不名誉なバグ、私には搭載されてないね」
ソラは冷ややかなジト目で彼女を凝視した。
「どの口が言うのよ。あんた、ただ『どこへ行くのか見てみたい』ってだけの理由で、謎の魔導鳥を追いかけて、出入り禁止の未開拓の原生林に不法侵入した前科があるじゃない」
「……あの鳥は、明らかに不審な気配を放ってたから調査しただけだって」
「ただの一般的な普通の鳥よ!」
「目のハイライトが完全に死んでた(バグってた)」
「ただのカラスよ、それ!」
「まさにそれ(不吉の象徴)じゃん」
ソラの両親は、二人の息の合った漫才を見て再び大笑いした。リンは面白くなさそうに胸の前で両腕を組んだ。
「……ちっ、手厳しいな」
父親が満足そうに微笑んだ。
「なるほどな。お前たちの決意が本物だということは、今のでよーく分かったわ」
リンが頷く。
「はい」
「――それで、最初の目的地はどこにするんだ?」
リンとソラは、互いに顔を見合わせてニィッと笑った。
「まずは、私の両親のところ(実家)に行くつもりだよ」
ソラの父親が怪訝そうに片方の眉を上げた。
「リンさんの実家か?」
「はい。私の生まれ故郷です」
ソラが補足を挟む。
「リンはね、ティアムーンの王立学園に来る前の十一年間、ずっとその場所で暮らしてたんだって」
ソラの父親は、少し記憶を探るように思案の表情を浮かべた。
「ふむ……。その土地の名は?」
リンの唇に、どこか誇らしげで、不敵な笑みが浮かんだ。
「――『水平線』、って呼ばれてる場所だよ」
母親が小首を傾げた。
「水平線、ですか?」
「うん。そこが、私の本当の故郷なんだよね」
母親は二人の若き冒険者の顔をじっと見つめ、それから深く、重々しく頷いた。
「……分かったわ。とにかく、怪我だけは絶対にしないようにね」
「うん、分かってるよ」
リンが優しく微笑んだ。
そこに大層な涙の別れも、劇的な演出も、大袈裟な演説も存在しなかった。ただ、一人の家族と、これから新しい未来へと足を踏み出す二人の少女との間に流れる、静かで温かい晩餐の時間。――世界を旅立つには、それだけで十分すぎるほどの餞別だった。
翌朝。リンとソラは、旅の荷物をパンパンに詰め込んだ背嚢を背負い、都市の境界線の前に立っていた。
リンはぐっと両腕を突き上げて背伸びをした。
「――準備はいい、ソラ?」
ソラは背嚢の紐をきゅっと締め直した。
「ええ、いつでもいけるわよ」
リンは真っ直ぐに前方を見つめた。
どこまでも続く果てしない街道。この道の遥か彼方に、彼女の生まれ故郷であり、両親の待つ『水平線』が存在している。
リンはニカッと、獰猛なほど輝かしい笑みをその唇に刻んだ。
「――最高に面白い大冒険になりそうじゃん」
ソラもまた、不敵に笑い返す。
「そうだといいわね、相棒」
「あったりまえでしょ」
二人は足並みを揃え、力強く大地を蹴って歩み出した。
この道が最終的にどこへ繋がっているのか、今の二人にはさっぱり分からない。その道中で、一体どんな不都合な真実(世界の闇)を目撃することになるのかも、知る由はなかった。
そして――遥か遠方において、自分たちの目指すその因果の先で、一振りの『百層の魔塔』が、すでに全世界の脅威を引き寄せ始めているということすらも。
その頃、あの圧倒的な魔塔の内部。カイは食堂の円卓に居座り、一枚の巨大な大陸地図を睨みつけていた。
その隣にはさらにもう一枚の未知の地図、そしてそのすぐ隣には、死んだようなジト目の最高管理者が直立していた。
カイは紙面を凝視したまま、がっくりと肩を落とした。
「……おい、ユイ。俺、完全に脳の演算がバグったわ」
「見ていれば分かります、主」
「なんでこの世界には、こんなに無駄にたくさんの国家が存在してんだよ?」
「それは世界が広く、人類がそれぞれの勢力に分かれて統治しているからに他なりませんが」
「最高に非合理的だな。覚える身にもなってほしいね」
ユイはパチクリと瞬きをした。
「……非合理的、ですか?」
「おう。多すぎるわ」
「ならば主。この世界のすべての国家を、丸ごと一つに統合(統一)してしまいたいですか?」
カイは少しだけ考えるように間を置いた。
「いや、それはそれで手続きがめちゃくちゃ面倒くさそうだから却下だわ」
「ならば無駄な愚痴をこぼすのはお止めなさい」
カイはハァとため息をつき、別の王宮公文書を引き抜いた。
「……なんでもさ、今度はこの『アステリア王国』とかいう国家が、俺たちの魔塔に多大なる関心を示してるらしいぞ」
「ええ、そのようですね」
「で、また別の隣国も、不穏な質問状を送りつけようと企んでる、と」
「ええ、その通りですわ」
「――おまけに、昨日のあのアーヴェンとかいう使節の男も、近いうちに確実にここへ戻ってくる手筈になってるんだろ?」
「ええ、ほぼ確定演出です」
カイは乱暴に公文書を机の上へと放り捨てた。
「……うわぁ、マジかよ。人間関係(社会的交流)って、本当に一秒で精神が枯渇するほど疲弊するわ」
ユイはフッと唇の端を吊り上げて、完璧な笑みを浮かべた。
「主。あなたは未だ、この魔塔から一歩も外へと足を踏み出してはいませんがね?」
「――だからこそ言ってんだよ、お前」
その緊迫した空間へ、クロエが手盆を恭しく抱えて入室してきた。
「――カイ様」
地図から顔を上げたカイが応じる。
「ん、なんだ?」
「お食事をお持ちいたしましたわ」
カイの顔が、一瞬にして今日一番の輝かしい笑みへと破破した。
「クロエ! お前、今この瞬間から俺の『一番のお気に入り(マイ・フェイバリット)』に決定な!」
すぐ隣から、極寒の絶対零度の声が響いた。
「――主。今、何と仰いましたか?」
カイの身体が完全にカチコチに凍り付いた。大盆を卓上に置こうとしていたクロエの手も、空中でピタリと停止する。最高管理者は、いつもの完璧で美しい笑みを浮かべて主君を凝視していた。
カイはロボットのような挙動で、ゆっくりとクロエの方を見つめ、それからさらにゆっくりとユイの方へと視線を戻した。
「……い、いや、今のはその、一時的な(・・・・)ニュアンスの話だよ」
クロエは慌てて口元を手で覆い、クスクスと忍び笑いを漏らす。ユイの完璧な笑みは微塵も崩れない。
「――一時的、ですか?」
「おう、そう。一時的」
「どれほど一時的なのですか?」
「めちゃくちゃ、一瞬(スゲェ短い)」
「その一瞬を、具体的に演算可能な数値で定義してください」
カイは絶望したように天井を仰ぎ見た。
「……あー、喋らなきゃよかったわ。最高に後悔してるね、今」
クロエは静かに、かつ迅速に料理を円卓の上へと並べ替えた。
「……お二人とも、そろそろこの魔塔の運用計画(本題)に知覚を戻してはいかがかしら?」
カイは救われたように力強く頷いた。
「おう、名案だな! さすがクロエだわ」
彼は再び、巨大な大陸地図へとどっしりと両腕を突いた。
「ひとまず、俺はこの魔塔を取り巻く『外の世界の情勢』ってやつを、完璧に把握しておきたいんだよ」
ユイが最高管理者の表情に戻り、静かに頷く。
「ええ、それは極めて合理的な判断ですわ」
カイは椅子の背もたれにどっしりと身体を預けた。
「――そして、最終的にはな……」
彼の黒い瞳が、魔導窓の向こうに広がる、誰も届かない遥か彼方の地平線を見つめる。
「……この現実の世界が、一体どれほど『強い奴(化け物)』を隠し持っているのか、この目で確かめてみたいんだよ」
ユイは主君の顔をじっと見つめた。彼女には、その表情に宿る本質が痛いほどによく分かっていた。それは決して、ただの無差別な破壊や、無意味な喧嘩を求めている化け物の顔ではない。――まだ見ぬ世界に対する、純粋たる『好奇心』だ。
カイはあの『記憶の牢獄』という、死と、戦乱と、生存競争のためだけに構築された偽りの檻の中で、あまりにも気の遠くなるような長い歳月を過ごしすぎていた。あの場所にあるすべての術式は、彼を極限まで『強く進化させる』ためだけに稼働していたからだ。
だが、この現実の世界は根本から異なる。
ここに生きる人々は、誰かの脳内が作り出した都合のいい記憶などではない。彼らの命は、カイを強化するためだけに誂えられたものではない。そして彼らの『死』は、このゲーム(世界)が終わったからといって、一秒で綺麗さっぱり消滅してリセットされるような、そんな軽い代物ではないのだ。
カイは、その残酷なまでの現実の重みを、魂の芯から理解していた。
「……だからこそ」、彼は慎重だった。
自分が圧倒的すぎる暴威を振るい、この世界が辛うじて生き延びねばならないような、新たなる『絶対の天災』の側に回るつもりなど、彼には毛頭なかったのだ。
今のところは、ただ静かに世界を観察する。知識を蓄え、世界を学び――そして、この世界の理を完璧に理解したその時、彼はかつて失った大切な同胞たちの真なる捜索を開始するのだ。
その時、ユイの視線が唐突に、魔塔の一角にある観察窓へと弾かれた。
「――愛しい人」
「ん? どうした?」
「あなたに、直接『観測』していただきたい波形があります」
カイは椅子から立ち上がった。
「何があったんだ?」
ユイはすぐには答えず、ただ静かに、遥かな地平線の彼方を見つめ続けた。
「――別の『因果の種』が、確実に胎動を始めましたわ」
カイは彼女の隣へと歩み寄り、同じ景色を見つめた。
百層の魔塔の遥か外側、世界は彼らの与り知らぬところで、絶え間なくその歯車を回し続けていた。リンとソラの二人の若き冒険者は、今まさに生まれ故郷である『水平線』へと向かって、確かな一歩を踏み出して歩いている。カイもまた、自分が戻ってきたこの新世界の全容を、少しずつその手に掌握し始めていた。
そして――彼らの視線のさらに遥か彼方、どこの国家にも属さぬ未知の暗雲の奥では、すでに『新たなる魔王の覚醒』という不穏すぎる噂の波形が、全世界を震撼させんと胎動を始めていたのだ。
現時点では、彼らの誰一人として、自分たちの歩むべき運命の軌道が、最終的にどれほど残酷に、かつ完璧に交錯することになるのかなど、知る由もなかった。
だが、世界はすでに回り始めていた。
そして今回のゲームにおいて――カイは自ら動くことをせず、ただ不敵に、すべての因果がこの百層の魔塔へと自ら出向いてくるのを、寝て待つ(ウェイトする)決断を下したのだ。




