第70話:ただのカイ
【不本意な対面】
その訪問者は、すでに数分間のあいだ大扉の前で待ち続けていた。
ただそれだけの事実が、ある種の驚異に値した。この場所にやってくる大半の人間は、全百層に及ぶ謎の建造物の前に立たされた時点で「人生最大の判断ミス」を犯したと本能で悟り、およそ三十秒と持たずに逃げ出すのが常だからだ。
だが、その男はそこに留まっていた。巨大な正面玄関の前で二人の護衛を背後に従え、極めて冷静であるかのように必死に虚勢を張っている。
――全く、成功してはいなかったが。
魔塔は、上層階が雲の彼方へと完全に消失するほどに高くそびえ立っている。しかし噂によれば、そんなものはこの建造物の異常性のほんの入り口に過ぎないという。内包された空間は外見よりも遥かに広大であり、森林、湖、砂漠、巨大都市、果てしない平原までが存在する。さらには、独自の『完全な生態系』すら構築されている、と。
その男は最初、世間のそんな噂の大半をくだらないデタラメだと切り捨てていた。
だが、今の彼は全く確信を持てずにいた。
大扉の向こう側。カイは魔塔の観察用魔導窓を通じて、外の様子を冷ややかに見つめていた。シンプルな黒いシャツに暗色のズボンという、あまりにもラフな格好。寝起きのせいで髪は僅かに乱れている。その顔は「今さっき目が覚めて、外の世界というものが存在しているという現実に心底絶望した」と言わんばかりの表情だった。
彼の右側にはユイが、左側にはクロエが静かに並び立っている。どちらも口を開かない。
カイは外の男を見つめ、次にユイを見つめ、次にクロエを見つめ、再び外の男へと視線を戻した。
「……」
ユイがゆっくりと主君の方へと顔を向けた。
「――愛しい人」
「ん?」
「彼らと対面する(会う)、と仰ったのはあなたですが」
「会うさ。今まさにそのつもりだ」
「ここに直立したまま、すでに三分が経過していますが」
「準備中なんだよ」
「……一体、何の準備ですか?」
カイは真剣そのものの表情で、不気味なほど目を鋭く細めた。
「『社会的交流』への心の準備だ」
クロエが驚いたようにパチクリと瞬きをした。
「……カイ様、もしかしてお人見知り(対人恐怖症)でいらっしゃるの?」
「違うわ」
「なら、なぜ一向に扉を開けようとしないの?」
カイは目の前の大扉をビシッと指差した。
「だってさ、この扉を開けた瞬間、俺はあいつと『会話』を交わさなきゃならなくなるだろ?」
ユイは冷ややかなジト目で彼を凝視し、クロエもまた言葉を失って彼を見つめ返した。カイも一歩も引かずに二人の視線を受け止める。数秒の、無意味な膠着状態。
やがて、ユイが深くため息を漏らした。
「……本当に、あなたの言うことは一から十まで論理が破綻しています」
「知ってる」
「あなたは別の魔王の目を引くためだけに、わざわざシステムへ『魔王進化の種』の譲渡を要求しましたね?」
「その通り」
「そして、自分から探しに行くのはイージーすぎて面白くないからと、彼女が自らここへ出向いてくるのを寝て待つと仰いましたね?」
「その通り」
「――それなのに、いざこの魔塔について尋ねてきた訪問者が現れたら、会話をするのが嫌だからという理由で扉を開けるのを拒んでいるのですか?」
カイは当然だと言わんばかりに力強く頷いた。
「……いや、お前がそうやって事実をありのままに並べ立てると、俺がめちゃくちゃ頭の悪い奴みたいに聞こえるな」
「アホそのものですわ」
「手厳しいな、おい」
「どういたしまして」
クロエは思わず口元を手で覆ったが、クスクスという小さな忍び笑いが漏れ出してしまっていた。
カイが恨めしげな視線を彼女へと向ける。
「……クロエ、お前まで笑うか」
「す、すみません、カイ様」
「……全然反省してそうな声じゃねえな」
「これでも必死に堪えているのよ?」
「打率ゼロパーセントだな、お前のその言い訳」
クロエはついに堪えきれずに悪戯っぽく微笑んだ。
ユイが再び窓へと視線を戻す。
「彼らは未だに、大人しく外で待機していますが」
カイは観念したように大きく息を吐き出した。
「分かったよ、開ければいいんだろ、開ければ」
彼は大扉の手すりへと手を伸ばし――そこでピタリと動きを止めた。彼は再び、背後の二人へと振り返る。
「……あ、最後にもう一つだけ確認させてくれ」
「何でしょうか?」
ユイが怪訝そうに尋ねる。
「もしあいつらが、『この魔塔の主は誰だ』って聞いてきたらさ……」
「あなたです」
ユイが即座に断言する。
「いや、違うだろ」
ユイが片方の眉をクッと上げた。
「……違う、とは?」
「これを作ったのは、他でもないお前だろ」
「私は作っていません」
「作ったって」
「――私が『記憶の牢獄』で眠っている(スリープしている)間に、この世界の雛形を自動展開するようシステムに術式を組み込んだのは、他でもない主、あなたですが」
クロエが重々しく首を縦に振った。
「ええ、それは紛れもない事実よ。私もそう認識しているわ」
カイはユイをビシッと指差した。
「いや、実際にこれだけの構造物を完璧に一から構築したのはお前だろ。俺はノータッチだね」
ユイはフッと唇の端を吊り上げて微笑んだ。
「ええ、主の要求に従って、完璧に造り上げましたとも」
カイは改めて、魔塔の内部空間を見渡した。
「全百層」
「ええ、全百層です」
「中に巨大都市がある」
「はい」
「大森林もある」
「はい、完璧に」
「……無駄に広大な砂浜まである」
「ええ」
カイは冷ややかなジト目でユイを凝視した。
「……おい。お前、なんでこの魔塔の中に、わざわざあんな大層な『砂浜』なんか作ったんだよ?」
ユイは完璧なまでに冷静な、一切の動揺もない無表情のまま、淡々と言い放った。
「――あなたが、どうしても夏を感じたいから砂浜が欲しいと、泣いて駄々をこねる勢いで私に要求したのですよ、主」
【不本意な対面――続編】
「……俺、そんなこと言ったか?」
「何度も仰いましたわ」
「……」
カイは痛む頭を押さえた。
「どうやら、俺は寝言が激しいタイプらしいな」
「ええ、非常に」
ユイが即座に肯定する。
さらにクロエが、楽しげに追撃を仕掛けてきた。
「それも、かなり頻繁にね」
カイは恨めしげな視線を彼女へと向けた。
「……おい。俺、何か恥ずかしいことでも口走ってたか?」
ユイが意味深にフッと微笑む。
「――私が『恥ずかしい』と判断するような内容は、何一つありませんでしたよ」
カイの目が、一瞬にして不審げに細められた。
「……お前がそう言うと、余計に最悪な寝言を言ってた気がしてくるんだが」
ユイはそれ以上取り合わず、スッと前へ歩み出ると、巨大な大扉を滑らかに押し開けた。
「――行ってらっしゃいませ、主」
カイは彼女を凝視した。
「この裏切り者め」
「――愛しい人」
「……なんだよ」
「行きなさい」
「……ちっ、分かったよ」
カイが魔塔の外へと一歩を踏み出した。
その瞬間、大扉の前で控えていた二人の護衛の身体が、緊張のあまりビシッと一線に直立した。訪問者の男がゆっくりとカイの方へと向き直る。
数秒の間、誰も何も言葉を発しなかった。
カイは男を見つめ、男はカイを見つめ返す。
一羽の鳥が、彼らの間を暢気に横切って飛んでいった。カイはその鳥を目線で追い、訪問者の男もまた同じように鳥を目線で追う。――再び、息が詰まるような気まずい沈黙。
カイはコホンとわざとらしく咳払いをした。
「……よお」
男はパチクリと瞬きをした。
「……あ、ああ。失礼、初めまして」
カイは気まずそうに頷いた。
「いい天気だな」
男は怪訝そうに空を見上げた。雲一つない、完璧な快晴だ。
「……そう、ですね」
またしても、沈黙。
カイは男を見つめ、男はカイを見つめる。カイが護衛の兵士たちに視線をやると、兵士たちは気まずそうにフッと視線を外した。
カイはやれやれと両肩をすくめてため息をついた。
「で……」
訪問者の男が、ようやく居住まいを正して一歩前へと踏み出してきた。
「事前に何の通達もなく、突然このような形で訪問してしまった非礼をお許しいただきたい」
「いや、いいって。気にしてねえから」
「私はアーヴェン・ダール。この地を治める『アステリア王国』の公式な代表(使節)を務めている者だ」
カイは頷いた。
「なるほどね、了解」
アーヴェンは僅かに躊躇いを見せた。
「早速だが……私は、この突如として現れた魔塔の件について伺いに参った」
カイは頭上の建造物を見上げた。
「ああ。だろうなと思ったわ」
アーヴェンもまた、その雲を衝くような巨躯を見上げる。
「我が国には、ここ数年間のあいだ、この不気味な構造物に関する様々な報告書が届けられているのだ」
「報告書ぉ?」
「そうだ」
「……どんな内容だよ?」
アーヴェンは深く息を吸い込んだ。
「――まずは、この周囲の空間から異常な魔力波形が絶え間なく検知されているという報告」
カイはフムフムと頷いた。
「まあ、そりゃそうだな」
「次に、この塔を取り囲む大森林の周辺に、見慣れぬ異形の魔獣たちが出没しているという報告」
「気のせいだろ、そんなの」
「――そして、この魔塔の内部へと足を踏み入れた人間が、二度と外へ戻ってこないという報告だ」
カイの表情が、一瞬にして冷徹なまでに鋭く引き締まった。
「……あ? なんだって?」
アーヴェンは慌てて両手を顔の前に掲げた。
「す、すまない! 今のはあくまで世間に流布している噂だ! 我が国としても、確実な確証を掴んでいるわけではない!」
それを聞き、カイの全身の刺々しい気配がふっと弛緩した。
「なんだ、じゃあ大丈夫か」
アーヴェンは再び、圧倒的な存在感を放つ魔塔へと視線を戻した。
「この構造物が出現したのは、今から四年前……」
カイは何も答えない。
「我々は当初、これがどこかの勢力が築いた臨戦用の魔導要塞の類いか、あるいは新手の古代遺跡の顕現かと推測していた」
「ま、妥当な判断だな」
「しかし、この規模は尋常ではない……」
アーヴェンは天を仰いだ。
「貴殿のこの魔塔は、あの『陰陽結社』の総本山の塔にすら匹敵する全高を有している」
「世間じゃそう噂されてるらしいな」
「さらに、ある極秘の報告書によれば――この塔は、外見よりも『内部』の方が遥かに広大である、という記述すら存在するのだ」
カイは頭の横をガリガリと掻きむしった。
「ああ、そっちの噂はマジ(事実)だぜ」
アーヴェンの目が、驚愕にカッと見開かれた。
カイは次の瞬間、自分が口走った言葉の致命的な不都合さにハッと気づいた。
「……あ」
アーヴェンは完全にフリーズしてカイを凝視し、カイもまた気まずそうに彼を見つめ返す。
「……貴殿、今、それを公式に『事実』だと肯定したか?」
「いや、してねえよ」
「いや、思いっきりマジだと言っただろう」
「……あれは仮定の話だよ。思考実験ってやつだ」
「『そっちの噂はマジだ』と、明確に発音していたが」
「だから、俺は『そっちの噂はマジだ(仮)』と言ったんだよ」
アーヴェンの顔が、見る見るうちに著しい困惑と混乱の色に染まっていく。
カイはやれやれと最大級のため息を漏らした。
「……もういいわ。今俺が言ったことは、全部綺麗さっぱり忘れてくれ」
「そんな都合よく忘れられるわけがないだろう……!」
「人間ってのはさ、自分に都合の悪いことは一秒で忘却できるように作られてんだよ。お前ならできる、信じてるぜ」
アーヴェンは、この飄々とした謎の青年にどう突っ込んでいいのか完全に脳の処理が追いつかなくなっていた。
「……そう、か……」
再び、重苦しくもどこかシュールな沈黙。
やがてアーヴェンは、意を決したように自らの外套の内側へと手を伸ばし、一枚の厳重な公式書面を引き抜いた。
「――私は本日、アステリア王国の全権名代として、この構造物の正式な『所有権(主)』、および内部に居住する者の『身元』を公式に調査するために派遣された」
カイは大人しく頷いた。
「まあ、国家としては当然の権利だな。合理的だわ」
アーヴェンは手元の書面へと視線を落とし、筆記魔導具を構えた。
「それでは、まずこの魔塔の全権を握る『最高責任者(主)』の魔名を伺いたい」
カイは背後の扉の方を親指で指差し、極めて爽やかに言い放った。
「――ああ、それなら『ユイ(・・・)』って奴だよ」
【王の魔名】
アーヴェンは筆記の魔導具をピタリと止めた。
「……ユイ、殿ですか?」
「ああ。これを作った張本人( mastermind )だ」
アーヴェンはゆっくりと頭上の巨大な魔塔を見上げ、それから再びカイへと視線を戻した。
「……彼女が、これほどのものを建造したと?」
「おう」
「……その、すべてを?」
「おう、全部残さずな」
「……たった一人で、ですか?」
「まあ、大体そんな感じだわ」
アーヴェンの顔に、今度こそ本物の驚愕と戦慄が走った。たった一人の魔導士が、あの『陰陽結社』の総本山に匹敵する大建造物を一から造り上げたというのだ。国家の常識からすれば、それは完全に戦略兵器級の脅威に他ならない。
カイはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「まあ、あいつは天才だからな。そういうこともあるさ」
彼の背後では、すべての罪(責任)を擦り付けられたユイが、ただいつものように完璧で美しい笑みを浮かべて滞空していた。大扉の陰に控えるクロエもまた、楽しげにその一幕を見守っている。
アーヴェンは手元の公式書面に何かを書き留めた。
「……なるほど、了解した」
彼は書面に目を落とし、次の項目を読み上げる。
「では、次の項目だ。この魔塔の代表者、あるいは交渉窓口となる者の『家名』を伺いたい」
その瞬間、カイの身体が完全にカチコチに凍り付いた。
「……」
アーヴェンが怪訝そうに顔を上げた。
「……貴殿? 如何されましたか?」
カイは答えなかった。彼の頭脳(演算領域)は今、猛烈な速度で様々な可能性をシミュレートし、凄まじい内省の嵐(葛藤)を引き起こしていたからだ。
(――うわ、家名かよ。小林って使っておけば一番楽なんだろうけど、できれば親父の名前を残しておきたいんだよな。だけどさ、このファンタジー世界で『俺の名前はカイ・ダニエルだ』って名乗るのもなんか違うだろ。それともダニエル・カイか? 収まりがめちゃくちゃ悪いわ。じゃあアシュレイ・カイ? あるいはカイ・アシュレイ……?)
カイは脳内で激しく顔をしかめた。
(――ごめん、お母さん。……そしてごめん、お父さん)
彼の黒い瞳が、僅かに鋭く細められる。
(――よし。もう面倒くさいから、ただの『カイ』で押し通そう)
アーヴェンは辛抱強く彼の回答を待っていた。カイは、ようやくその重い口を開いた。
「……ただの『カイ』だ」
アーヴェンはパチクリと瞬きをした。
「……ただの、カイ?」
「おう」
「つまり……貴殿の『家名(姓)』が、カイであると?」
「いや、違う」
アーヴェンの顔が、著しい困惑に染まる。
「ならば、貴殿の家名は何というのだ?」
「家名なんてねえよ」
「家名が無い……? 貴殿は貴族ではないのか?」
「少なくとも、今使えるような家名は持ち合わせてねえな」
アーヴェンは信じられないといった様子で彼を凝視した。
「……それは、法的な手続き(登録)の上で通用すると思うのか?」
カイはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「さあな。そんな世間の法律なんて知るかよ」
後ろに控えていた二人の護衛が、不安げに顔を見合わせた。クロエはユイの方へと視線をやり、ユイはただ変わらぬ笑みを浮かべている。
アーヴェンはゆっくりと手元の公式書面を下げた。
「……本気で、この欄にただ『カイ』とだけ記述しろと言うのだな?」
「世間の奴らは、みんな俺のことをそう呼ぶからな。それで十分だろ」
「しかし、公的な書類には姓というものが絶対に必要だ」
カイは少し考え込んだ。
「まあ、探せばどこかにあるんだろうけどな」
アーヴェンは次の言葉を待ったが、カイの口は完全に閉ざされたままだった。
「……それで?」
「名乗る気が起きねえんだよ」
アーヴェンは彼をじっと睨みつけ、カイもまたいつもの飄々とした視線で見つめ返す。数秒の、無意味な沈黙の押し問答。
「……分かった、好きにしろ」
アーヴェンは半ば投げやりな手付きで、書面の欄にただ一言『カイ』とだけ乱暴に書き殴った。彼はその紙面を見つめ、それから再びカイへと視線を戻す。
「――あまりにも、異例すぎる(アンユージュアル)」
「そいつはよく言われるわ」
「よろしい」
アーヴェンは書面の次のページをめくった。
「――次の質問だ」
カイはハァとため息をついた。
「よし、来たな。受けて立とうじゃねえか」
「貴殿は、この土地を統治する『王(支配者)』なのか?」
「いや、違う」
「ならば、どこかの国家の『貴族』なのか?」
「いや、違う」
「公的な『官吏(役人)』か?」
「いや、違う」
「軍を率いる『将軍』か?」
「いや、違う」
「世間一般の『冒険者』か?」
「いや、違う」
「巨万の富を持つ『商人』か?」
「いや、違う」
「――ならば、『魔導士』なのか?」
カイはそこで、少しだけ考えるように間を置いた。
「……まあ、技術的に言えば、そうなるな」
アーヴェンは怪訝そうに彼を見た。
「技術的に、とは?」
「色々と複雑なんだよ」
「どれほど複雑なのだ?」
カイはバツが悪そうに、不自然な引き攣った笑みを浮かべた。
「めちゃくちゃ(スゲェ)複雑だ」
アーヴェンは深くため息をついた。彼は、自分がこの百層の魔塔に直接調査を仕掛けにやってきたこと自体が、人生最大の判断ミス(バグ)であったのではないかと本格的に後悔し始めていた。
「……ならば、貴殿は一体全体『何者』なのだ?」
カイは自らの背後にそびえ立つ、あの圧倒的な百層の魔塔を見上げた。それからユイを見つめ、クロエを見つめる。
彼の脳裏に、かつて失った大切な『同胞たち』の顔が鮮明に蘇る。これから必ず探し出すと誓った、かつての戦友たち。ニクセラ、ラヴェシア、原初たる悪魔たち、エリス、エレイン、そしてクロエ。誰も記憶していない、いつかどこかの世界の死地を共に駆け抜けた仲間たち。
カイの表情が、ふっと驚くほど柔らかく、そして深みのあるものへと綻んだ。
「――俺は、ただの『ここに住んでる住人』だよ」
アーヴェンは呆然と彼を凝視した。
「……それだけ、なのか?」
「それだけだ」
それは、術式の上でも紛れもない『事実』だった。
アーヴェンはパタンと手元の公式書面を閉じた。
「……よろしい、今日のところはこれで十分だ」
カイは片方の眉をクッと上げた。
「お、もう終わりか?」
「『今のところは(・・・・・・・)』、な」
「今のところは、って?」
「我がアステリア王国としても、この出現した百層の魔塔が『独立した領土(国家)』として機能しているのか否か、公的な審議(判定)を下さねばならんのでな」
その言葉を聞いた瞬間、カイの顔からすべての覇気が一瞬にして消え失せ、がっくりと肩を落とした。
「……うわぁ、マジかよ。俺、これからあの最高に面倒くさい『政治』とやらに付き合わされなきゃならんのか?」
アーヴェンは同情を禁じ得ないといった様子で、バツが悪そうに小さく微笑んだ。
「――残念ながら、そういうことになる」
カイは縋るような目で背後の最高管理者を振り返った。
「……ユイ。俺、もう部屋に戻って二度寝してもいいか?」
ユイはフッと唇の端を吊り上げて、完璧な笑みを浮かべた。
「主、彼らをこの場所に招き入れるという不条理な決断を下したのは、他でもないあなたですよ」
「最高に後悔してるわ、今」
「――もっとも、あなたは未だ、彼らをこの塔の敷地内に一歩たりとも招き入れてはいませんがね」
「じゃあ、招き入れたフリだけでもしていいか?」
「ダメです」
カイはがっくりと肩を落としてため息をついた。
「……チッ、少しの間の平和も、クソ食らえってか」
クロエは口元を抑え、本日何度目か分からない忍び笑いを漏らした。
アーヴェンは不審そうに彼らの顔を見比べた。
「……貴殿らには、周辺の国家と不要な戦乱を引き起こす意図はない、という認識で相違ないな?」
カイは真っ直ぐに彼を見据えた。
「ああ、ねえよ」
「……ならば重畳だ」
「――向こうから先に、仕掛けてこない限りはな」
アーヴェンの動きが、一瞬にしてピタリと止まった。
「……それは、当然の権利だな」
カイは不敵に、獰猛な笑みをその唇に刻んだ。
「俺たちは最高に平和主義者だからな。安心してくれよ」
ユイの完璧で美しい笑みは一切崩れず、クロエもまた静かに彼の背後に佇んでいる。アーヴェンはそのあまりにも不気味な光景に、その言葉が『安心』どころか、国家に対する最大級の『威嚇』であるかのように感じて背筋を凍らせていた。
彼はコホンとわざとらしく咳払いをする。
「……分かった。それでは公的な報告書にはこう記述しておこう。この魔塔の居住者の名はカイ、構造物はユイという名の魔導士によって建造され、現時点で国家に対する敵対の意思は皆無である、と」
「おう、それで頼むわ。完璧な要約だな」
「いずれ、さらなる上位の使節団を引き連れて再び訪問することになるかもしれん」
カイは気楽に頷いた。
「いいぜ、そん時はそん時で相手してやるさ」
アーヴェンはゆっくりと歩み去り始めた。だが、数歩進んだところで彼はピタリと足を止め、ゆっくりと振り返った。
「――最後に、一つだけ質問させてくれ」
カイが片方の眉を上げた。
「なんだよ?」
「……あの塔の『内部』には、一体全体、何が存在しているのだ?」
カイは少しだけ考えるように間を置いた。
「……色々と、たくさん(ア・ロット)な」
アーヴェンは次の言葉を待ったが、カイはただニカッと笑うだけだった。
「――気になるなら、いつか自分で確かめに来るんだな」
アーヴェンは彼をじっと見つめ、諦めたように息を吐き出した。
「……そう、だな」
彼は再び歩き出し、二人の護衛がその後ろを追従していく。カイは彼らの影が地平線の彼方へと完全に消失するのを、ただ静かに見送っていた。
彼らの気配が完全に掻き消えたその瞬間、カイはくるりと身体を反転させた。正面玄関には、未だユイとクロエが静かに直立している。カイはユイをビシッと指差した。
「……よし、今のは上手くいったな」
ユイが静かに頷く。
「ええ、想定以上に円滑な社会的交流でしたよ」
クロエがくすくすと悪戯っぽく微笑んだ。
「家名の項目以外は、ね」
カイはがっくりと顔をしかめた。
「……おい、その最高に黒歴史(はずかしい案件)を掘り返すのはやめろ」
ユイが首を僅かに傾げた。
「小林、という選択肢もあったはずですが」
カイは彼女を見た。
「ああ、本気で検討はしたさ」
「では、なぜ採用しなかったのですか?」
「なんか、今の俺にはしっくりこなかったんだよ」
「――では、あなたのお父様の名は?」
カイはふっと視線を外した。
「……それも、頭を過りはしたさ」
クロエが優しく、その真紅の瞳を和らげて尋ねる。
「なぜ、それを使わなかったの?」
カイはしばしの間、完全な沈黙を保った。それから、いつもの不敵で、どこか深みのある笑みをその唇に刻む。
「――だってさ、今の俺にはまだ、その名前を背負うだけの『覚悟』が足りてねえからな」
ユイもクロエも、それ以上深く追及することはしなかった。
ユイが一歩前へと歩み寄る。
「……ならば、ただの『カイ』で決定ですね」
カイは力強く頷いた。
「おう。ただのカイだ」
クロエもまた、愛おしそうに微笑む。
「ええ、ただのカイよ」
カイは再び、眼前にそびえ立つあの圧倒的な魔塔を見上げた。その表情に、深い思案が宿る。これまでの四年間、この魔塔は誰に知られることもなく沈黙を保ち続けてきた。だが今、外の世界が確実にこの場所に気づき始めている。国家が疑問を抱き、噂が拡散し、世界の歯車が回り始めた。そしてこの平和な世界の片隅のさらに向こう側では、かつて自分が失った大切な仲間たちが、それぞれの生を生きている。
彼らが今どこにいるのか、カイにはさっぱり分からない。彼らがどのような存在(化け物)に進化を遂げているのかも知らない。自分との絆(記憶)を、綺麗さっぱり忘却している可能性だってある。
――だが、俺は必ずあいつらを見つけ出す。一人残さず、な。
そして再び、この場所に全員を掻き集めてやる。それは世界を支配するためでも、最強の軍勢を率いるためでもない。ただ、自分が失った大切な同胞たちに、この現実の世界において、もう一度だけ『帰るべき家(居場所)』を与えてやりたい、それだけだ。
カイはふっと、小さく微笑んだ。
「――ユイ」
「はい、何でしょうか、愛しい人」
「明日、出発するぞ」
クロエが驚いたようにパチクリと瞬きをした。
「出発……? 本当に行くの?」
「おう」
「――魔王ニクセラを、迎えに?」
カイは力強く頷いた。
ユイの唇に、満足そうな笑みが浮かぶ。
「……なるほど。ようやく行く気になってくれましたか」
カイは即座に身体をひねり、螺旋階段の方へとスタスタと歩き出した。
「――あ、やっぱり(・・・・)」
ユイの顔から、一瞬にして笑みが完全に消え去った。
「……却下です。言わせませんよ」
カイは慌てて両手を顔の前に掲げた。
「おい待て! 俺はただ、明日出発するって言おうとしただけだろ!」
「よろしい」
「――それと、出発する前に『まずはガッツリ寝る』って言おうとしただけだ!」
ユイは冷徹なジト目で彼を凝視し、クロエもまた呆れたように彼を見つめた。カイはバツが悪そうに苦笑いを浮かべる。
「……なんだよ、その目は」
ユイは最大級のため息を漏らした。
「……主、本当にあなたは救いようのない我が儘ですね」
カイは魔塔の内へと歩みを進めながら、やれやれと肩をすくめた。
「それが俺の最大の魅力なんだっての」
クロエがその後ろを笑いながら追従する。
「……今のを一言で表すなら、魅力ではなく、ただの『駄々っ子』と呼ぶのよ、カイ様」
カイはピタリと足を止めた。
「……あ? 今なんて言った?」
「いいえ、何も言っていませんわ、カイ様」
「んぅ?」
「気のせいよ」
カイは不機嫌そうにその黒い瞳を細めた。
「絶対俺の噂話(悪口)言ってたろ、お前ら」
ユイが彼の横を滑らかに通り過ぎていく。
「ほら、行きましょう、愛しい人。冷めないうちに二度寝の手筈を整えますよ」
カイは二人の背中を見比べ、ぽつりと不満げに呟いた。
「……ちっ、最高にタチの悪い奴らだわ」
クロエは堪えきれずに楽しそうに大笑いした。
――かくして。
あの日以来、初めてこの百層の魔塔に、本物の家族が灯っていた。大いなる同胞の捜索劇は、明日、本当の幕を開ける。
だが、今夜に限っては――カイには帰るべき場所があった。ユイの手によって完璧に造り上げられた、絶対の聖域。未だ見ぬ仲間たちの帰還を待ち続ける、真なる『家』。
そして――ただの『カイ』という、今の彼にとっては十分すぎるほどの、その確かな魔名を抱いて。




