エピソード69:その 悪魔 主 誰が彼の考えを変えたのか
【王の気まぐれ(レジーナ・プロヴォカシオン)】
カイはユイの魔塔の、あのあまりにも巨大すぎる正面玄関の前に立ち尽くしていた。光が触れるたび、まるで生き物のようにうねり、その形状を変質させる奇怪な紋章が刻まれた大扉が、彼の頭上数メートルにわたりそびえ立っている。
彼は大扉をじっと見つめ、それからおもむろにユイへと視線を向けた。
ユイもまた、無言で主君を見つめ返す。
カイは力強く頷いた。
「――準備はいいか?」
「ええ、いつでも」
カイは大扉へと手を伸ばした。――が、その手をピタリと止める。彼は再び、ユイの方へと振り返った。
「……待て」
「はい?」
「俺たち、具体的に一体どこに向かおうとしてるんだ?」
ユイはパチクリと瞬きをした。
「……あなたが先ほど、ニクセラを捜索しに行くと言い出したのですが」
「俺が? いつ?」
「およそ五分前です」
「ふむ」
カイは頭の横をガリガリと掻いた。
「……いかにも俺が言いそうなセリフだな」
ユイの冷ややかな視線が突き刺さる。
「……あなた、まさにこの場所に直立していましたよ?」
「分かってるって」
「『行くぞ、俺たちの同胞を迎えに行くんだよ』と、ご自分の口で明確に仰いました」
「言ったな」
「そして、まずはニクセラから始めると」
「言った言った」
「――ならば、何を迷う要素があるのですか?」
カイはくるりと身体を反転させた。大扉とは完全に『逆の方向』へと歩き出す主君の姿を、ユイは呆然と見つめる。
「……え?」
カイはそのままスタスタと歩みを進めていく。
「――どこへ行くつもりですか?」
カイは振り返ることすらなく、気だるげに言い放った。
「気が変わった」
ユイの眉が、ピキリと不気味に引き攣った。
「……何についてですか?」
「二度寝しに戻る」
しんと、沈黙が廊下を支配した。
「……冗談でしょう、主」
カイは歩みを止めぬまま、片手をひらひらと振ってみせた。
「また後でなー」
「――カイ様」
「お断りだね」
「――カイ様」
「聞こえてるっての」
「ならばその足を止めなさい」
カイは観念したように足を止め、ゆっくりと振り返った。
「なんだよ?」
ユイはビシッと正面玄関の大扉を指差した。
「ニクセラを見つけると言い出したのは、他でもないあなたです」
「分かってるさ」
「あの時のあなたには、確固たる決意がありました」
「おう、あったな」
「かつての戦友たちをリクルートするのだと、あれほど熱弁を振るっていたではないですか」
「おう、言った言った」
「――それなのに、今になってベッドへ戻るというのですか?」
カイは真剣そのものの表情で力強く頷いた。
「その通り(イエス)、大正解」
ユイはただじっと彼を凝視した。カイは不敵にニカッと笑う。
「……なんだよ、そんなに見つめるなよ」
「……本気で言っているのですね、あなたは」
「おう、本気も本気、大真面目だぜ」
ユイは深く、深いため息を漏らした。
「はぁ……」
「――一体、何揉めているの?」
突如として、二人の背後から鈴を転がすような声が響いた。
振り返ると、回廊の奥にクロエが佇んでいた。深海の底でカイと激突した際の大層な戦闘礼装ではなく、今は簡素な衣服に身を包んでいる。その燃えるような真紅の長い髪が細い肩へとしな垂れ、真紅の双眸がカイとユイの間を不審げに行き来していた。
彼女はユイを見つめ、次にカイを見つめ、再びユイへと視線を戻した。
「……何か、不都合な事態でも起きたのかしら?」
ユイは死んだような目でカイを指差した。
「――この主が、私の精神(演算回路)に著しい負荷をかけてくるのです」
クロエは怪訝そうにカイを見た。
「……カイ様?」
カイは片手を軽く挙げた。
「よお」
「なぜ、急に行くのを止めてしまわれたのですか?」
カイはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「いや、なんかもう行く気が失せちゃってさ」
クロエは呆然と彼を凝視した。
「……ほんの数分前まで、あれほど外の世界へ出ると息巻いておきながら?」
「分かってるって」
「それなのに、今は?」
「寝たい。ただそれだけだ」
クロエの表情が、一瞬にして完全なる無へと変わった。
「……寝たい、ですって?」
「そう、睡眠は重要だね」
「かつての同胞たちを捜索する、と大々的に宣言しておきながら?」
「おう」
「――ユイに、そのための完璧な移動経路まで構築させておきながら?」
カイの動きが、一瞬にしてピタリと止まった。
「……え? お前、そんなの用意してたのか?」
ユイが静かに頷いた。
「ええ、当然です」
カイは不満げにユイを睨みつけた。
「お前、そういう大事なことは最初に言えよな」
「言いました」
「いつだよ!?」
「――合計で三回ほど、あなたの脳内へ直接念話を送りましたが」
「あ……そっか」
クロエは観念したように、そっと自らの額に手を当てた。
「……カイ様」
カイはバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「まあ気にするなって。ほら、落ち着けよ」
クロエの冷ややかなジト目が彼を捉える。
「……ユイがなぜ、あなたに対してあれほど頻繁に胃痛を覚えるのか、今の一幕で完全に理解できたわ」
ユイが深く、深く同意の頷きを返す。
「ようやく……ようやく、私のこの孤独な苦悩を理解してくれる者が現れましたか」
カイは不機嫌そうに二人を指差した。
「おいおい、二人して俺をいじめる(結託する)んじゃねえよ」
「結託などしていません」
「いや、完璧に包囲網が敷かれてるじゃねえか」
クロエはため息をつき、居住まいを正した。
「……ならば、具体的にこれからどうするつもりなの?」
カイは不敵に、胸の前でどっしりと両腕を組んだ。
「――ニクセラの方から、この魔塔へ出向かせる(来させる)」
ユイがパチクリと瞬きをし、クロエの双眸が僅かに鋭く細められた。
「……彼女の方から、ここへ来させるというの?」
「そういうこと」
「……理由は?」
「だってさ、俺からわざわざあいつを探しに行っちゃ、このゲーム(リクルート)があまりにも簡単すぎて面白くねえだろ?」
ユイは主君の意図を瞬時に見抜いた。
「なるほど……。意図的に仕掛けた魔王進化の兆候をさらに肥大化させ、彼女の好奇心を限界まで煽るつもりですね?」
「まさにその通り!」
クロエは少し考え込んだ。
「……つまり、彼女の注意を惹きつけるための『餌(罠)』を仕掛けるということね」
「うん、大正解」
「――だけど、もし彼女がその誘いに乗らなかったら、どうするつもり?」
カイの唇に、凶悪なほど不敵で、絶対の確信に満ちた獰猛な笑みが刻まれた。
「――いや、あいつは絶対に喰いついてくるさ」
ユイは本日何度目か分からないため息を漏らした。
「……その根拠のない絶対的な自信、時折無性に苛立ちを覚えるのですが」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
クロエは不満げに両腕を組んだ。
「……言っておくけれど、ニクセラはあなたからの呼び出し(コール)にいつでもホイホイ応じるような、そんな生易しい存在じゃないわよ」
「知ってるさ」
「彼女は魔王よ?」
「知ってる知ってる」
「この魔塔のことなんて、一瞥する価値もないと無視するかもしれないわ」
「いや、あいつは確実に喰いついてくる」
「――もし、完全に無視されたら?」
カイはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「そん時はそん時だ。果報は寝て待てってな」
クロエはユイを見つめ、ユイもまたクロエを見つめ返した。二人の明晰な頭脳は、今まったく同じ結論に達していた。――この主君は、一度こうと決めたら絶対にテコでも動かない。
クロエは諦めたように視線をカイへと戻した。
「……本気なのね、あなたは」
「おう、大真面目だぜ」
カイはそのまま、上層へと続く螺旋階段の方へと身体を翻した。
「ってわけだからさ、もし俺に用があるなら……」
彼は親指で頭上を指し示した。
「――俺の部屋で爆睡してるから、そこまで呼びに来てくれ」
ユイの口がパチリと開き、それから閉じ、再びぽかんと開いた。
「……待ちなさい、主」
カイは構わずスタスタと歩みを進めていく。
「――カイ様」
応答はない。
「――カイ」
やはり、完全に無視を決め込んでいる。
「――カイ様ッ!!」
カイは振り返ることすらなく、ただ片手をひらひらと頭上で振ってみせた。
「おやすみー」
「まだ、かろうじて朝が始まったばかりですが!?」
カイはピタリと足を止め、肩越しに気だるげに振り返った。
「じゃあ、おはよう(グッドモーニング)」
ユイは死んだような目で彼を凝視し、クロエは深いため息を漏らした。
「……信じられないわね、あの男」
カイはニカッと不敵に笑う。
「じゃ、また後でな」
そう言い残すと、彼は回廊の角の向こうへと、あっさりと姿を消してしまった。
後に残された空間で、ユイはただ呆然と立ち尽くしていた。クロエがそんな彼女の横顔を見つめ、ユイもまたクロエを見つめ返す。二人の間に、不気味なほどの静寂が流れる。
やがて――。
「はぁ……」
クロエは深く深く、共感の頷きを返した。
「……よく分かったわ、ユイ」
ユイは意外そうに彼女を盗み見た。
「……ご理解いただけましたか?」
「ええ、完璧にね」
クロエはカイが消え去った回廊の奥を見据え、冷徹なジト目で言い放った。
「――カイ様は、救いようのない大馬鹿者だわ」
ユイの唇に、ようやく救われたような本物の笑みが浮かぶ。
「……ありがとうございます、クロエ」
「どういたしまして。あなたの胃痛の原因が、骨の髄まで理解できたわ」
その頃、カイは巨大な魔塔の回廊を一人で歩いていた。――あるいは、本人は一人で歩いているつもりだった。
魔塔の通路は、あまりにも規格外に広大だった。
外見から見ればただの『百層の魔塔』。だが、その内部の構造は、世界の常識を根本から覆す代物だ。各階層はすべて、最高管理者であるユイの手によって特定の目的を以て精密に設計されていた。
居住区、膨大な魔導書を収蔵した大図書館、最先端の研究区画。さらには、広大な戦闘訓練場、実験室、巨大な保管倉庫。それだけに留まらず、広大な花畑、鬱蒼とした森林、人工の巨大湖、果てしない砂漠、果ては一つの『巨大な都市区画』までが、完全にその内部に内包されているのだ。
カイは、回廊に設置された一枚の巨大な防魔ガラス窓の前で足を止めた。
「……へえ」
彼がじっと見つめるその窓の向こうには、どこまでも続くかのような見事な花畑が広がっていた。数千、数万という色鮮やかな花々が大地を埋め尽くし、人工的に管理された穏やかな微風を浴びて、さざ波のように優しく揺れている。
カイの唇に、ふっと穏やかな笑みが浮かんだ。
「ユイの奴、本当にやりたい放題やったな」
彼は再び歩き出した。数分後、今度はさらに巨大な空間の開口部の横を通り過ぎる。
そこに見えたのは、本物の『大森林』だった。文字通り、巨木が立ち並び、清流がせせらぎ、遥か奥には山脈がそびえ立ち、野生の魔獣(生き物)たちが息づいている。
カイはその圧倒的な光景を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……あいつ、なんでこんなに無駄にここをデカく作ったんだ?」
「――あなたが、それを望んだからですよ」
すぐ背後から返ってきた声に、カイは驚いてゆっくりと身体を翻した。
いつの間にか、ユイがそこに静かに直立していたのだ。
カイは不審げに彼女をビシッと指差した。
「おい、お前さっきまで下の階層に居座ってただろ?」
「ええ、居ましたね」
「じゃあなんで、俺より先にここに先回りしてんだよ?」
「忘れたのですか? 私はこの魔塔の全権を握る最高管理者ですよ。内部の空間転移など、思考一つで造作もありません」
「ああ、そっか」
カイは納得したように頷いた。
「……完璧に忘れてたわ」
ユイは深くため息をついた。
「……あなたは本当に、ご自分に都合の悪いことを忘却する天才ですね」
「忘却は美徳だろ」
「ただの致命的な問題です」
カイは再び、窓の向こうの広大な大森林へと視線を戻した。
「……俺、本当にこんな大層なもんをお前に要求したっけか?」
「ええ、明確に要求されました」
「なんでだよ?」
「『あいつらが帰ってこられる場所が欲しい』と、そう仰いました」
ユイの言葉に、カイの不敵だった表情が、ふっと驚くほど柔らかく綻んだ。
「……ああ」
ユイは彼の隣へと静かに歩み寄り、同じ景色を見つめた。
「あなたはあの時、こう続けられました。もしもいつか、あの『記憶の牢獄』にいた同胞たちを現実世界で見つけ出した時、彼らを世界の中で一人きりで彷徨わせたくはない、と」
カイは小さく、深く頷いた。
「……ああ、覚えているさ」
「彼らが何の憂いもなく、大人しく直帰できるだけの絶対的な拠点が要る。――だからこそ、私はこの世界の雛形(魔塔)を構築したのです」
カイは周囲の空間を、改めて見渡した。
この百層の魔塔は、単なる強固な要塞でも、贅沢な居城でもない。カイ自身が、その本質を完全に自覚せぬまま、魂の底から望んでいた『答え』そのものだったのだ。かつて絶望的な死地を共に駆け抜けた戦友たちが、いつか必ず戻るべき約束の場所。彼らが二度と孤独に彷徨わずに済むための、真なる『家』。
カイはユイを見つめ、心からの笑みを浮かべた。
「――ありがとな、ユイ」
ユイはその黒い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「――愛しい人」
「ん?」
「どういたしまして。あなたの望む世界を形にするのが、私の存在意義ですから」
カイは満足そうに微笑んだ。
――その直後。彼の腹の虫が、不気味なほど盛大な重低音を響かせて鳴り響いた。
グゥゥゥゥゥゥゥゥゥ。
ユイは無言のまま冷ややかなジト目で彼を凝視し、カイもまた、バツが悪そうに引き攣った笑みで彼女を見つめ返した。
「……飯、ある?」
ユイは本日何度目か分からない、最大級のため息を漏らした。
「……ええ、当然です。すぐに用意させますよ、我が大食漢の主」
それからしばらくして、カイは食堂の円卓に居座っていた。卓上には、皿の隙間もないほどに大量の料理が並べられている。彼はその暴力的な分量をまじまじと見つめた。
「……おい、流二度寝する前にしては、ちょっと量が多くないか?」
正面に腰掛けたユイが、淡々と応じる。
「あなたが空腹だと仰ったのですよ、主」
「まあ、確かに腹は減ってたけどさ」
「そして、今もまだ空腹のはずです」
「おう、大正解」
そこへ、クロエが静かに部屋へと入ってきた。彼女は豪勢な食卓を見つめ、それから冷ややかなジト目をカイへと向ける。
「――カイ様」
「ん?」
「あなたは確か、ご自分の部屋に爆睡しに戻られたはずでは?」
「いや、なんかまた急に気が変わっちゃってさ」
クロエは観念したようにその目を閉じた。
「はぁ……」
カイは肉料理を一つ引き揚げ、口元へと運ぶ。
「おい、そんな『このバカは』みたいな目で俺を見るなよな」
「私は別に、軽蔑の眼差しなど向けていませんわ」
「いや、完璧に引いてるじゃねえか」
「私はただ、あなたの生態を『観察』しているだけです」
「……それを世間じゃ軽蔑って呼ぶんだよ」
「いいえ、学術的な調査です」
カイは肉を咀嚼し、飲み込んだ。
「はいはい、好きに言ってろって」
クロエが静かに椅子を引いて腰掛けると、ユイが二人の間に視線を巡らせた。
「……丁度良い機会です。全員が揃ったところで、今後のこの魔塔の運用方針について少し詰めておきましょう」
カイが咀嚼しながら頷く。
「おう、そうだな」
クロエは改めて、広大な食堂の周囲を見渡した。
「実際のところ、この場所は一体どういう構造になっているの?」
ユイが最高管理者としての声調で回答する。
「この魔塔は、外見上は全百層の構造体を成しています」
「それは知っているわ」
「そして、その一つひとつの階層が、それぞれ完全に独立した『異なる目的』を以て設計されているのです」
クロエが頷く。
「現在、実際に使用されている(人が住んでいる)階層はどれくらいなの?」
「――極めて僅か、ですわ」
カイはスープを飲み干し、口元を拭った。
「そりゃそうだろ、まだここに住む奴らが誰もいないんだからな」
「ええ、その通りです」
クロエは少し考え込んだ。
「……ってことは、あなたはこれからスカウトしてくる同胞たちに、それぞれの階層を丸ごと一つずつ買い与える(割り当てる)つもりなの?」
カイが力強く頷く。
「ああ、最終的にはな」
「階層を、丸ごと一つずつ……?」
「おう、なんか不都合でもあるか?」
ユイが、カイが口を開くよりも早く補足を挟んだ。
「――クロエ。この魔塔の各階層は、それ自体が『一つの国家、あるいは巨大な共同体』を丸ごと維持できるほどの絶対的な空間質量を有しているのです」
これには、あの真祖たるクロエも驚愕の表情を隠せなかった。
「……薄々気づいてはいたけれど、そこまでの規模だったのね」
カイはニカッと不敵に笑う。
「めちゃくちゃ最高だろ?」
クロエは降参したように小さく微笑んだ。
「ええ、認めざるを得ないわね。壮大すぎるわ」
ユイが淡々と解説を続行する。
「異なる気候、環境、生態系が、一切の干渉を起こさずに独立して存在できるよう設計しました。森林、砂漠、草原、氷雪地帯、巨大湖、河川、山脈、そして都市区画――」
そこで、カイが楽しそうに会話を遮った。
「おい、一番大事な『砂浜』を忘れてるぞ」
ユイの視線が、一瞬にして極寒のジト目へと変わる。
「……ええ、そうでしたね」
「忘れるなよ。男のロマンだろ」
「忘却の彼方に追いやる手筈でしたが、主がそこまで仰るなら記録に残しておきます」
クロエは怪訝そうにカイを見た。
「……ねえ、カイ様。なんでこの魔塔の中に、わざわざ『砂浜』なんていう娯楽施設が必要だったの?」
カイは当然だと言わんばかりに両肩をすくめてみせた。
「だってさ、砂浜ってなんかいいじゃん。夏って感じがして」
クロエは丸数秒間、完全に言葉を失って彼を凝視し続けた。
「……理由、それだけ?」
「おう、それだけ。これ以上の説得力があるか?」
クロエが救いを求めるようにユイを見ると、ユイは重々しく首を縦に振った。
「――この主が、泣いて駄々をこねる勢いでゴリ押ししたのですわ」
クロエは深いため息を漏らした。
「……なるほどね。よく理解できたわ」
カイは満足そうに微笑む。
「ほらみろ、俺ってめちゃくちゃ合理的だろ?」
「いいえ、ただの我が儘よ」
「手厳しいな、お前ら」
――その日の午前遅く。
カイは紆余曲折を経て、ようやく魔塔の最上階にある自らのプライベートエリアへと辿り着いていた。彼の寝室は、一つの広大な王宮の寝所ほどに巨大だった。中央には最高級の特大ベッドが鎮座し、壁には膨大な蔵書が並び、巨大な窓からは眼下に広がる偽りの大自然が一望できる。
カイはベッドの傍らへと歩み寄り、そのフカフカのマットレスを見つめて満足そうに口の端を釣り上げた。
「……よし。これが、今日俺の下した決断の中で一番『最高』の選択だな」
彼はそのまま、勢いよく後ろ向きにマットレスへと倒れ込んだ。
「――ふはぁ、最高」
彼はシーツに身を委ね、掛け布団を頭からすっぽりと被る。
「やっと、俺の本当の平和が来たわ……」
数秒の間、静寂が流れる。しかし、その安眠を遮るように、部屋の重厚な扉が静かに開いた。カイは掛け布団の中から微塵も動こうとはしない。
「……ユイ」
「はい、何でしょうか」
「出てけ」
「却下です」
「なんでだよ……」
「あなたが先ほど、ベッドに入る前に『明確にしておきたい案件がある』と仰ったからですが」
「気が変わったんだよ、今は睡眠の神が俺を呼んでる」
ユイはベッドのすぐ脇まで歩み寄り、冷徹な視線を投げかけた。
「あなたは本当に、一秒ごとに意見を変質させる特異体質ですね」
「これは神から与えられた才能って呼ぶんだよ」
ユイはベッドの傍らに直立し、布団に包まった主君を見つめた。
「――愛しい人」
「……なんだよ」
「本気で、あの魔王ニクセラが自らここへ出向いてくるのを、ただ寝て待つ(ウェイトする)つもりなのですか?」
カイは掛け布団の隙間から、片方の黒い瞳だけをうっすらと開けて彼女を見た。
「ああ、本気だぜ」
「……理由は?」
カイは再びその目を閉じ、低く、驚くほど静かな声音で言葉を紡いだ。
「――あいつ自身に、『選ばせる(チョイス)』必要があるからだよ」
ユイは言葉を失い、しんと静まり返った。
「もしも……あの魔王の魂の奥底に、かつての俺の戦友だった『アイヴィー』の心が僅かでも残っているのだとしたらな」
カイの声が、かつてないほど優しく、そして切なく響く。
「俺のエゴで、あいつを無理やり俺の戦乱(都合)に巻き込みたくはねえんだよ」
ユイは、その言葉の真意を完璧に理解した。
この主君は、単に強力な駒(戦力)を掻き集めようとしているのではない。かつて絶望の牢獄を共に駆け抜けた大切な同胞たちに、この現実の世界において、自分自身の意志で『歩むべき未来』を選び取ってほしいのだ。たとえ――彼らの記憶から自分の存在が消え去っていようとも。たとえ、自分を拒絶し、刃を向けて憎むことになろうとも。
カイはゆっくりとその双眸を開き、天井を見据えた。
「だから、俺はここで待つ。あいつが己の意志で、この塔の門を叩くその瞬間までな」
ユイはそっと微笑んだ。
「――了解しました」
彼女が扉の方へと身体を翻した時、カイが声をかけた。
「……ユイ」
「はい?」
「もし何か『面白いこと』が起きたら、起こしてくれよ」
「ええ、必ず」
「……じゃあ、もしニクセラが現れたら?」
ユイはさらに深く微笑んだ。
「その時は、真っ先にあなたを起こしに参りますわ」
カイは満足そうに頷いた。
「おう、頼むわ」
ユイが静かに部屋から退出し、重厚な扉がカチリと閉まった。寝室に、再び完全なる静寂が舞い戻る。
カイは頭から布団を被ったまま、天井をじっと見つめていた。その時、彼のいつも浮かべている不敵で軽薄な表情は、完全に消え去っていた。
「……アイヴィー」
彼はその名を、誰に届くともなく静かに呟いた。それからそっと目を閉じる。
「……お前、今はどんな顔をして生きてるのかな」
――それから数時間後。
カイは爆睡していた。非の打ち所がないほど完璧に、そして平穏に、深い眠りへと沈み込んでいた。
しかし――。
「――カイ様」
微動だにしない。
「――カイ様」
しんと、沈黙。
「――カイ様ッ!!」
カイは掛け布団の中から、うめき声を漏らした。
「……あと、五分……」
ユイはいつの間にかベッドの傍らに直立していた。
「――愛しい人」
「……んぅ……」
「事態が動きました」
カイは掛け布団の隙間から、片方の黒い瞳だけをうっすらと開けて彼女を見た。
「……なんだよ?」
ユイは不敵にフッと唇の端を吊り上げた。
「この魔塔に対して、直接『調査』を仕掛けてきた者が現れました」
カイは彼女をじっと見つめ、次の瞬間、力任せに布団を頭からすっぽりと被り直した。
「……興味ねえわ。寝る」
ユイはパチクリと瞬きをした。
「……カイ様?」
「あと五分、いやあと五時間寝かせてくれ」
「あなたが先ほど、『何か面白いことが起きたら起こせ』と明確に指示を出されたのですが」
「気が変わったんだよ、今の俺にとっては睡眠こそが至高のエンターテインメントだね」
ユイは布団の塊を冷ややかなジト目で睨みつけた。
「はぁ……」
すると、部屋の外からクロエの呆れたような声が響いてきた。
「……あの男、本気でまた二度寝を決め込んだの?」
「ええ、見ての通りですわ」
「救いようがないわね、本当に」
布団の底から、カイの不機嫌そうな声が漏れ出す。
「……おい、全部筒抜けだぞお前ら」
クロエが容赦なく扉を押し開けて入ってきた。
「聞こえているなら、さっさと起きなさいな」
「嫌だね」
「――カイ様」
「お断りだ」
クロエはベッドの脇までスタスタと歩み寄ると、カイが被っていた掛け布団を力任せにバサァッと剥ぎ取った。カイは慌てて飛び起きる。
「おい、何すんだよ!?」
「――お前の大好きな『面白い事態(お客さん)』のお出ましよ」
カイはパチクリと瞬きをした。
「お客さん?」
「ええ」
「……誰だよ?」
クロエがユイを見つめると、ユイがそっと微笑んだ。
「外の世界の、とある存在(人間)ですわ」
カイは怪訝そうに眉をひそめた。
「誰だって?」
ユイの唇の端が、さらに怪しく吊り上がる。
「――どこかの王国の、公式な使節(代表者)のようですね」
カイは丸数秒間、完全にカチコチに凍り付いたまま座り込んでいた。それから、やれやれと言いたげに最大級のため息を漏らす。
「……本気かよ」
クロエが重々しく頷いた。
「大真面目よ」
カイは頭をガリガリと掻きむしった。
「……ちっ、大人しく寝ておけばよかったわ」
ユイがクスクスと楽しそうに笑う。
「自業自得ですよ、主」
カイは観念したようにベッドから立ち上がった。
「分かったよ、行けばいいんだろ、行けば」
彼は大きく背伸びをして、身体の節々をコリコリと鳴らす。
「――よし、そいつらが一体何の用でこの塔を訪ねてきたのか、拝みに行ってやろうじゃねえか」
彼は扉へと向かって歩み出し、そこでピタリと足を止めた。
「……あ、待て」
ユイとクロエが一斉に彼を見た。カイは自分の服装をセルフチェックしながら、二人をビシッと指差した。
「俺、一応ちゃんとした格好(王の格)になってるか?」
クロエは信じられないものを見る目でパチクリと瞬きをした。
「……お前、今さっき寝起きで飛び起きたばかりでしょうに」
「だからこそ聞いてんだよ」
ユイは主君の全身を頭からつま先まで走査した。
「……まあ、かろうじて見苦しくはない程度には、整っていますよ」
カイは満足そうに頷いた。
「よし、そんじゃオッケーだ」
彼は重厚な扉を開け放った。
「行くぞ!」
クロエがその後ろに続き、ユイが彼のすぐ隣へと並び立つ。
――だが、彼らが魔塔の階層をゆっくりと降下していく、まさにその瞬間。
人工の天空の遥か彼方、空間の位相がほんの一瞬だけ、妖しく、歪に『うねった』ことに、三人の誰も気づくことはなかった。
彼らの絶対のテリトリーであるはずのこの世界に、何かが足を踏み入れたのだ。
彼らにとって全く見覚えのない、未知の波形(気配)。それは、現時点ではあの『魔王ニクセラ』の因果とは、何の関係もないはずの存在。
――少なくとも、今は(・・・・)まだな。
四年前、この大陸に突如として出現した百層の魔塔。
その不可侵の聖域に、今、外の世界の存在(人間)が、初めてその足を踏み入れようとしていた。




