エピソード68:月日はあっという間に過ぎ去った
【旅立ちの朝】
『太陽の涙』に激震が走ったあの未曾有の異変から、早くも四年の歳月が流れていた。
海原が一瞬にして凍り付き、両方の王国へと悍ましい吸血鬼の軍勢が降下してきたあの日から、四年。リンの目の前に突如として現れたあの謎の少女が、ただ指先を一回パチンと打ち鳴らしただけで、迫り来る巨大な津波を完全に静止させてみせたあの日から、四年。
そして――自分がそれまで信じていたよりも、この世界は遥かに奇妙で、予測不可能な場所に満ちているのだと、リンが身を以て理解させられたあの日から、数えて四年が経っていた。
十五歳になったリンは今、寄宿舎の自室にある鏡の前に直立していた。
彼女は自分の髪を少し整え、それからもう一度整え直し、最後に首を僅かに傾げてみせた。
彼女は眉間に少し皺を寄せる。
「……うーん」
今度は身体を横に向けてみる。
「……違うな」
さらに逆の方向を向いてみる。
「……やっぱり、なんか違う」
彼女は鏡に映る自分をじっと凝視した。
「今日は私の卒業式なんだから。多分、一番マシな格好にしておくべきだよね」
ふっと、間を置く。
「……それとも、一番カッコいい格好にしておくべきだったかな?」
さらにもう一拍、間が空いた。
「……いや、もういいや。どうでも」
リンが鏡の前から一歩遠ざかった、まさにその瞬間、背後の扉がバタンと音を立てて開いた。
「――あんた、また独り言言ってるでしょ」
リンは弾かれたように振り返った。
そこには、扉の枠に寄りかかって両腕を組んだソラが立っていた。
「独り言なんか言ってない」
ソラは片方の眉をクッと上げた。
「文字通り、バッチリ聞こえてたんですけど」
「あんたの空耳だよ」
「『一番カッコいい格好にしておくべきだったかな』って、思いっきり言ってたじゃない」
「……耳がバグってるんだよ、あんた」
リンの顔が僅かに赤く染まる。
「私、さっきからずっと扉の外に立ってたのよ?」
「なら、あんたの聴覚素子が壊れてるってこと」
「私の耳は、昔からいつだって超正常稼働中よ」
「それは、お気の毒に」
ソラはジト目で彼女を睨み、リンもまた負けじとその視線を受け止めた。数秒の、無意味な沈黙の視線劇。
「……何よ?」
耐えかねてリンが声を漏らす。
ソラはやれやれとため息をついた。
「いいえ、別に何も」
リンは不敵にフッと微笑んだ。
「勝った」
ソラは呆れたように首を横に振った。
「あんたって、本当に強情ね」
「それが私の最大の魅力だからね」
「それ、一体誰に吹き込まれたのよ?」
「私自身だけど?」
「……はいはい、そうだと思ったわよ」
ソラは部屋の中へと歩み進めると、持ってきた衣服をリンのベッドの上へとそっと置いた。
「ほら、あんたの卒業式の正装よ」
リンはそちらへと視線をやった。
「ああ……」
彼女はベッドの上のローブを両手で丁寧に持ち上げた。その瞬間、彼女の張り詰めていた表情が、かつてないほど柔らかく綻ぶ。
これまでの数年間、この王立学園はリンにとって紛れもない『家』そのものだった。この門を叩いた時、彼女はまだただの幼い子供に過ぎなかった。だが今、彼女は十五歳の堂々たる魔導士として、この場所を旅立とうとしている。
なんだか不思議な感覚だった。――時間の流れが、あまりにも早すぎる。
リンは手の中のローブを見つめた。
「……もう、四年も経ったんだね」
ソラも優しく微笑んだ。
「本当に、あの日が昨日のことみたいに思えるよね」
リンは小さく頷いた。
「うん、そうだね」
二人の間に、しばしの静かな時間が流れる。すると突然、ソラがリンの胸元を指差した。
「ちょっとリン、まだ何か足りてないじゃない」
「え? 何が?」
「あんたのリボン(ネクタイ)よ」
リンはパチクリと瞬きをして、自分の胸元を見下ろした。
「あ……」
彼女は慌てて机の上へと駆け寄り、置き忘れていたリボンを引ったくった。
ソラはそれを見て楽しそうに大笑いした。
「やっぱりね! あんた、完全に心ここにあらずって感じだったもん」
「考え事をしてただけだって」
「何についてよ?」
「……卒業式について、だよ」
ソラはニィッと、からかうような笑みを浮かべた。
「へえー? もしかして、緊張してるの?」
「まさか」
「本当に?」
「うん、全然」
「――じゃあなんで、さっきから髪型を『八回』も調整し直してたわけ?」
リンの身体が、完全にカチコチに凍り付いた。
「……な、七回だよ」
「八回よ」
「……七回半だよ」
「髪型を半分だけ調整するって、一体どうやるのよ?」
「いいんだよ、そういう細かいことは気にしなくて」
ソラは再び声を上げて吹き出した。
「よし、行くよ。このままだと本気で式典に遅刻しちゃうからね」
リンはしっかりとローブを抱えた。
「待って」
彼女は鏡の中の自分へ、最後にもう一度だけ視線を向けた。そして、これまでにない不敵で確かな笑みを浮かべる。
「よし――オッケー」
二人の少女は足並みを揃え、思い出の詰まったその部屋を後にした。
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【喧騒の学舎(卒業の鐘)】
ルナリス王立学園の廊下は、すでに大勢の生徒たちでごった返していた。
卒業式の正装に身を包んだ生徒たちが、通路を賑やかに移動していく。楽しげに笑い合う者、記念の記録魔導具を向ける者、友人との別れを惜しむ者――あるいは、卒業した後に何をする予定なのか、それぞれの未来について熱く語り合っている。
リンはソラと肩を並べて歩いていた。
「……ねえ、ソラ。私がこれから何に一番恋しくなると思う?」
「何よ?」
ソラが不思議そうに彼女を見つめる。
「――食堂だよ」
ソラは完全に呆れた顔で凝視した。
「……あんたが恋しくなるのって、そこなわけ?」
「当然でしょ」
「大陸でも屈指の由緒ある魔法学園を卒業するっていうのに、あんたの心配事は食べ物のことだけ?」
「あんた、あそこのデザートを食べたことないの?」
「……まあ、美味しいのは認めるけど」
リンは不敵にニカッと笑った。
「ほらね、私の勝ち」
その時、一団の生徒たちが彼女たちの横を通り過ぎた。
「リン!」
一人の男子生徒が手を振る。
「卒業、おめでとう!」
リンも軽く手を振り返した。
「ありがと!」
別の生徒が声を張り上げる。
「有名になっても俺たちのこと忘れるなよ!」
リンはクスリと吹き出した。
「善処するよ、約束はできないけど!」
ソラがジト目で彼女を盗み見た。
「……あんた、本当に人気者になったわね」
「え?」
「みんなあんたのことが好きなのよ」
リンはやれやれと両肩をすくめた。
「まあ、そうかもね」
四年前の彼女は、自分のことを滅多に話さない、どこか影のあるミステリアスな生徒の一人に過ぎなかった。規格外の才能を有してはいたものの、その大部分を意図的に隠蔽していたからだ。
あの『太陽の涙』の異変が、すべてを変えた。――すべての真相ではないにしろ、十分すぎるほどに。
人々は彼女の戦う姿を視た。誰かを護る姿を視た。『上位吸血鬼』を前にソラと並び立つ姿を視た。リン自身は決して名声を求めてなどいなかったが、学園は、そして生徒たちは、あの日起きた事実を確かに記憶していた。
彼女は今や、他の生徒たちが憧れの眼差しを向ける『英雄』となっていたのだ。
リン自身、その現状をどう受け止めていいのか未だに分からなかった。本音を言えば、ただ静かに放っておいてほしいのだ。――大体の時間は。
ソラが肘でツンツンと小突いてきた。
「あんた、また考えすぎてるでしょ」
「たまにはそういうこともあるって」
「危険な悪癖ね」
「うるさいな」
ソラは楽しそうに笑った。
学園の屋外では、いよいよ卒業式の式典が幕を開けようとしていた。
広大な中庭へと集結する生徒たち。前方には教官たちが整列し、指定された観覧席は保護者や賓客たちで満席となっていた。
学園長が演壇へと足を進める。リンとソラは卒業生の列の中に並んで立った。学園長がそっと片手を掲げると、中庭を埋め尽くしていた喧騒が、徐々に厳かな静寂へと収束していく。
「本日、諸君らの人生における一つの章が幕を閉じる」
リンは静かにその言葉に耳を傾けていた。周囲の生徒たちは、誇らしげに胸を張って直立している。学園長は責任、知識、勇気、そして未来について、熱弁を振るい続けていた。
リンはふと、視線を天空へと向けた。
なぜだか唐突に、あの『太陽の涙』の光景が脳裏に鮮明に蘇ってきたのだ。――凍り付いた海原。あの謎の少女。あの圧倒的な存在感。そして、世界のすべてが静止する直前、自分の魂を突き抜けたあの奇妙な感覚。
あれが何だったのか、彼女の頭脳では未だに処理しきれていない。
リンは小さく頭を振った。それはもう四年前の出来事だ。あの日起きたことのすべては、とっくの昔に終わっている。――少なくとも、彼女は自分自身にそう言い聞かせていた。
その時、すぐ後ろの席にいた生徒たちが、声を潜めてヒソヒソと話し始めた。
「……おい、例の『魔塔』の噂、聞いたか?」
別の生徒が小声で応じる。
「魔塔って、どっちのよ?」
「四年前、突如として出現したっていう、あの謎の塔だよ」
リンの知覚が、僅かにその会話へと弾かれた。
「……あのミステリアスなやつ?」
「ああ」
「信じられないくらい巨大らしいぜ」
「なんでも、あの『陰陽結社』の総本山の塔とほぼ同等の全高があるって話だ」
最初の生徒が鼻で笑った。
「まさか、そんなわけあるかよ」
「いや、世間じゃマジでそう噂されてんだって」
「おいおい、お前本気であんなクソみたいなデタラメ信じてんのか?」
「だって、お前は実際にその目で見たことあんのかよ?」
「……あるけど」
「で、どうだったんだよ?」
「――めちゃくちゃ高かった」
「それだけかよ!?」
「十分すぎるほど確かな証拠だろ」
リンは思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
ソラが身体をこちらへと寄せてくる。
「……あの魔塔の噂、ここ数年ずっと絶えないわよね」
リンも声を潜めて返した。
「大体は、大袈裟に尾ひれが付いた誇大妄想だと思うけどね」
「まあ、そうよね」
すると、さらに別の生徒が会話に割り込んできた。
「俺の従兄弟が言うにはさ、あの塔、外見よりも『内部』の方が遥かに広いらしいぜ」
リンは微かに眉をひそめた。
「……え?」
ソラが怪訝そうに彼女を見た。
「リン、あんたも今の聞いた?」
「ううん、初耳」
「へえ、また新しい妙な噂が出てきたわね」
背後の囁き声は、さらに熱を帯びていく。
「なんでも、塔の中に『広大な森林』が広がってるらしいぞ」
「森林ぃ? 塔の中に木が生えてるってか?」
「ああ、マジらしい」
「あり得ねえだろ、そんなの」
「それだけじゃない。広大な『砂漠』もあるって噂だ」
「砂漠だと!?」
「――さらには『巨大な都市』まで丸ごと一つ内包されてる、ってさ」
その瞬間、会話をしていた生徒たちが一斉に沈黙した。あまりの荒唐無稽さに、逆に言葉を失ったのだ。
リンは思わず振り返って彼らを凝視した。
「……都市、ですって?」
噂を話していた生徒は、気まずそうに肩をすくめた。
「いや、俺もただそう聞いたってだけだよ」
ソラがリンの耳元で小さく呟く。
「……人間って、本当にどんな馬鹿げた話でも信じちゃうのね」
リンも小さく頷いた。
「……どうやら、そのみたいだね」
――しかし。二人はおろか、周囲の生徒たちの誰一人として、気づいていなかった。
その『魔塔』の話題が上った瞬間、壇上にいた数人の教官たちの表情から、完全に血の気が引き、不気味なほど静まり返っていたことに。
なぜなら、何も知らない生徒たちとは違い――学園の『上層部(教師たち)』は、その荒唐無稽な噂のいくつかが、紛れもない『不都合な真実』であることをすでに把握していたからだ。
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【不穏な噂】
ルナリス王立学園の喧騒から遥か、遥か遠方。どこの王国にも知られていない未知の領域に、その魔塔は静かにそびえ立っていた。
――全百層。
あまりの巨大さに、その上層部は遥か天空の雲の彼方へと完全に消失している。
出現してから、すでに四年の歳月が流れていた。しかし、この大陸の誰も――それが一体誰の手によって、何のために建造されたものであるかを正確に把握している者はいなかった。
魔塔は静まり返っていた。少なくとも、外見から見る限りは。
だが、その内部はというと――。
「――おい、ユイッ!!」
カイのけたたましい怒号が、魔塔の巨大な回廊の一つに激しく木霊した。
「……何事ですか?」
回廊の角から、ユイがそっと姿を現した。
「そんな大声を張り上げて、一体何があったのですか?」
カイは忌々しげな顔で、近くの円卓の上をビシッと指差した。
「誰かが俺の飯を動かした」
ユイは円卓の上へと視線を落とした。それから、信じられないものを見るような目で主君を見つめる。
「……あなたの言う大問題とは、そのことですか?」
「ああ、大問題だ」
「……誰かが自分の飯を動かした、ただそれだけの理由で私を緊急招集したのですか?」
「そういうこと」
ユイは静かに、深いため息を漏らしながらその目を閉じた。
「はぁ……」
カイは不満げに両腕を組んだ。
「おい、なんでお前がそんな『どうでもいい』みたいな態度を取るのか、俺にはさっぱり理解できんぞ」
「……主、あなたはかつて『竜種(真竜)』と正面から死闘を繰り広げましたね?」
「おう、やったな」
「超古代の絶対者たちとも渡り合いましたね?」
「おう、やったやった」
「あの『記憶の牢獄』という絶望的な死地を生き延びましたね?」
「ああ、生き残ったな」
「あの魔女コリー・ヴァネッサとも命懸けで戦いましたね?」
「まあ、そうだな」
「――それほどの修羅場をくぐり抜けておいて、今あなたの最大の懸念事項が『飯』なのですか?」
カイは真剣そのものの表情で力強く頷いた。
「誰かが俺の飯に触れた。これ以上の非常事態があるか?」
ユイは冷ややかなジト目で彼を凝視し、カイもまた一歩も引かずにその視線を受け止める。
「……なんだよ?」
「いえ、何も」
ユイは諦めたように円卓へと近づき、皿の上の料理を観察した。それから再びカイへと向き直る。
「……あなたの料理は、元の位置からおよそ『三センチメートル』ほど移動しているに過ぎませんが」
カイの表情が、一気に険しく引き締まった。
「三センチメートルも(・・・・・・・)遠ざかったんだよ」
ユイは再び、本日何度目か分からないため息をついた。
「――カイ様」
「ん?」
「あなたの優先基準は、相変わらず著しく狂っています」
「飯は生命の根源だろ。一番重要視されるべきだね」
「論点が完全にズレています」
「ズレてねえよ、これが世界の真理だ」
ユイはやれやれと首を横に振った。
「……まあいいでしょう。それよりも、あなたに伝達しておくべき報告事項があります」
カイの目が、一瞬にして興味深げに細められた。
「ほう、なんだ?」
「この魔塔に関する情報が、世間に広く拡散し始めています」
カイはパチクリと瞬きをした。
「魔塔の噂が?」
「ええ」
「なんて言われてんだ?」
「世間では、この塔の全高をあの『陰陽結社』の総本山の塔と比較し始めているようです」
カイは天井を仰ぎ見た。
「マジかよ」
「なんでも、あれと同等かそれ以上に高いのではないかと噂されていますね」
カイは鼻で笑った。
「おいおい、世間の奴ら本気であんなデタラメ信じてんのか?」
ユイは片方の眉をクッと上げた。
「……これを建造したのは、他でもないあなたですが」
「まさにその通り」
「ならばなぜ、自分で作ったものをそのように侮辱するのですか?」
「だって、その方が面白いだろ」
ユイは深いため息を漏らした。
カイはニカッと不敵に笑う。
「で、他にはどんな噂が流れてんだよ?」
「塔の内部に『広大な森林』が広がっている、と」
「ああ、実際にあるな」
「『砂漠』もある、と」
「おう、あるある」
「『巨大な都市』まで丸ごと内包されている、と」
「うん、完璧に存在するな」
「独自の『生態系』すら構築されている、と」
「ああ、お前の手によってな」
ユイは歩みを止め、冷徹な視線を彼へと向けた。
「……それほどの現実を内包しておいて、世間が噂を信じていることに驚く要素がどこにあるのですか?」
カイは頭の横をガリガリと掻いた。
「……いや、改めてお前の口からそう並べられると、俺たちのやってることってめちゃくちゃ頭おかしい( stupid )な」
「ええ、客観的に見れば完全に狂気です」
カイは納得したように頷いた。
「だな、お前の言う通りだわ」
ユイは再び歩き出した。
「――まだあります」
「まだあんのか?」
「一部の王国は、この魔塔が『未特定の未知の魔王』の居城ではないかと疑い始めています」
カイの唇から、ふっと笑みが消えた。
「……へえ、面白いじゃねえか」
「また別の国家は、これが超古代に失われた伝説の遺物であると推測しているようです」
「ふむ」
「――そして、いくつかの勢力は、これが四年前の『太陽の涙』の氾濫異変と密接に繋がっているのではないかとにらんでいます」
カイは完全にその足を止めた。
「……そいつは、ちょっと不都合だな」
「ええ、歓迎できない兆候です」
「奴ら、何か確実な証拠でも掴んでるのか?」
「いえ、現時点ではどれも憶測の域を出ていません。信頼に足る確証は皆無です」
それを聞き、カイの全身の緊張がふっと弛緩した。
「なんだ、じゃあまだ大丈夫じゃん」
ユイは肩越しに主君を冷ややかに見つめた。
「――『今のところは(・・・・・・・)』、ですがね」
カイはいつもの不敵で獰猛な笑みをその唇に刻んだ。
「――上等だ。そん時はそん時で、また面白くなるさ」
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【それぞれの旅立ち(クロスロード)】
ルナリス王立学園の中庭では、ついに卒業式の全行程が幕を閉じていた。
一斉に天空へと放り投げられる、数十、数百の卒業帽。割れんばかりの歓声と歓喜の咆哮が、広大な中庭の全域を満たしていく。
リンは、頭上を無数の帽子が舞い踊るその圧倒的な光景を、ただ見上げていた。
その瞬間、ソラが彼女の腕をガシィッと掴んだ。
「ほら、リン! こっち来て!」
「え? 何よ?」
「き、記、録!!」
「ああ、そっか」
二人は肩を寄せ合って並んだ。ソラが満面の笑みを浮かべ、その隣でリンもまた、いつになく穏やかな笑みをその唇に刻む。一瞬の後、魔導具のフラッシュが瞬き、二人の輝かしい青春の一頁が記録された。
ソラは手元の画像を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……私たち、本当に卒業しちゃったんだね」
リンも小さく頷く。
「うん、そうだね」
「あんた、これからどうするの?」
リンは慣れ親しんだ学園の校舎を見つめた。その問いに対する、完璧な回答は持ち合わせていなかった。これまでの四年間、彼女はこの場所で貪欲に学び、訓練し、成長し、多くの友人を作ってきた。そして今、彼女は自分の意志で『次なる未来』を決定しなければならないのだ。
「……さあね。まだハッキリとは決めてないよ」
ソラは驚いたように彼女の顔を覗き込んだ。
「本気で言ってるの?」
「本気だよ」
リンは悪びれもせず、フッと微笑んだ。
「でも、これから何が起きたとしても……」
彼女は真っ直ぐにソラを見つめた。
「――私たちなら、きっと上手くやれる( figure it out )と思うんだよね」
ソラはニィッと、心底嬉しそうに笑った。
「……二人で、一緒に?」
「ああ、一緒にだ」
二人は軽く拳をごつんと突き合わせた。
「勝った」
ソラはこらえきれず大笑いした。
「もう! それ言うのやめなさいってば!」
「嫌だね」
「リン!」
「お断りだねー」
そう言い残して、リンは脱兎のごとく駆け出した。ソラがすぐさまその後ろを追いかける。
「待ち上がれ、この強情娘――っ!!」
二人の瑞々しい笑い声が、いつまでも中庭の喧騒の中に木霊していた。
――そして、その喧騒から遥か彼方の空。
カイは魔塔のバルコニーに立ち、ただ静かに地平線の先にある世界を見つめていた。その表情は、いつになく穏やかだった。
いつの間にか隣に立っていたユイが、静かに口を開く。
「……また、あの学園を観察していたのですね」
カイは答えなかった。
ユイは肩越しに主君を盗み見た。
「――カイ様」
「ん?」
「彼女は、本当に大きくなりましたね」
カイの唇に、かすかな、だが深い愛情の籠もった笑みが浮かぶ。
「……ああ、そうだな」
「会いには、行かないのですか?」
カイはゆっくりと首を横に振った。
「いや、行かねえよ」
「理由は?」
カイは遥かな水平線を見つめたまま、淡々と言い放った。
「あいつには、あいつの『今(人生)』があるからな」
ユイは沈黙を保った。
「俺がそこへ行って、余計な波風を立てる必要はねえよ」
カイは言葉を続ける。
バルコニーを、緩やかな風が吹き抜けていく。カイはただ、無言で遠くを見つめ続けていた。彼のたった一人の妹は、自分の知らないところで立派に成長を遂げていた。もう十五歳だ。信頼できる仲間がいて、大切な思い出があって、自分自身の力で歩むべき未来がある。
たとえ――彼女の記憶の中から、自分の存在が完全に消滅していたとしても。
カイは、心からそれが嬉しかった。
ユイが彼の横顔を見つめる。
「……随分と、幸せそうな顔をなさるのですね」
カイは不敵に笑った。
「おう、最高に幸せだぜ」
彼はくるりと身体を翻し、バルコニーの手すりから離れた。
「よし、行くか」
「どこへ?」
「どこへって、決まってんだろ。俺たちの『同胞』を迎えに行くんだよ」
ユイの唇が、小さく弧を描いた。
「――魔王ニクセラ、ですね」
「そういうこと」
「……そして、彼女の次は?」
カイは少し考え込んだ。
「……『第二位』だな」
ユイはやれやれと言いたげに深いため息を漏らした。
「本当に、あの『記憶の牢獄』にいた問題児たちを全員、残さずリクルートするつもりですか」
カイはニカッと、獰猛な笑みを浮かべた。
「それが俺の『予定』だからな」
「もし、彼女たちが拒絶したら?」
「そん時はそん時だ」
「もし、全力で襲いかかってきたら?」
「気合いで避ける」
「もし、本気であなたの命を奪おうとしたら?」
カイは退屈そうに両肩をすくめてみせた。
「……まあ、気が済むまでやらせてみるさ」
ユイの冷徹なジト目が主君へと突き刺さる。
「……主、それは全く持って、こちらの胃痛の緩和には繋がりませんが」
カイはガハハと笑声を上げた。
「気にするなって。ほら、行くぞ」
彼は魔塔の内へと通じる扉へと歩みを進める。
「――最悪の事態なんて、そうそう起きるもんじゃねえよ」
ユイがすぐさまその後ろを追従する。
「主がそのセリフを口にする時ほど、最悪の事態が確定演出で引き寄せられると、私はこれまでの経験から学習しているのですが」
カイがピタリと足を止めた。
「……あ?」
ユイはビシッと彼を指差した。
「却下です」
「俺はまだ何も言ってねえだろ!」
「今、脳内で余計な企みを巡らせていましたね。その不敵な顔を見れば一目瞭然です」
カイはニヤリと、凶悪なほど魅力的な笑みを浮かべた。
「……かもな」
ユイは本日何度目か分からないため息をついた。
――かくして。魔塔のさらに外側、果てしない大陸の闇の奥。
カイがかつて失った、そして今もなお探し求めている『同胞たち』への、大いなる捜索劇が、いよいよ本物の幕を開けようとしていた。
しかし。
この時、カイもお前も、そして絶対の演算能力を誇るユイですら、未だ知る由もなかったのだ。
彼らが最初に目指す第一の目的地。そこに君臨する『魔王ニクセラ』という生ける天災の存在が――彼らにとって、決して『思い出すはずのない、いつかどこかの世界の過去』の因果を、再び手繰り寄せることになる、絶対の引き金であるということを。
(――ここで、第一章が完全なる暗転を以て、次章へと続く)




