エピソード67:失った者たち
終焉の始まり(システムへの反逆)
【平穏な朝】
世界は静まり返っていた。――本当に、珍しいこともあるものだ。
地平線を蹂躙する軍勢の行進もなく、天空を切り裂く巨竜の姿もない。古代の封印が破られる気配もなければ、どこかの王国が悲鳴を上げて救いを求めてくることもない。そして何よりも重要なのは――今この瞬間、カイの命を狙おうとする者がただの一人も存在しないということだ。
その事実だけで、この朝という時間がとてつもなく不気味に感じられた。
カイはユイの魔塔の最上階にあるバルコニーに立ち、その内部に内包された奇妙な世界を見下ろしていた。彼が立っている場所からの景色は、常人の脳内では到底理解しがたい代物だ。魔塔の内部であるはずの空間には広大な森林が広がり、木々は人工の空に向かってそびえ立っている。その奥には、数マイルにわたり続いているかのような見事な花畑。さらに遠方には都市の輪郭が霞んで見え、また別の領域には果てしない砂漠が広がっていた。
このすべての環境が、たった一振りの塔の内部に存在している。外見から見れば、それはただの『百層の魔塔』に過ぎない。
だが、その内部は――事実上、それ自体が一つの独立した世界だった。
カイは手すりに両腕を預けた。数秒の間、彼は何も語らない。
そして――。
「はぁ……」
彼はやれやれと頭を仰向けにした。
「……なんか、変な感じだな」
すぐ背後から、聞き慣れた声が応じた。
「何がですか?」
カイが肩越しに振り返る。数歩離れた場所にユイが立っており、彼女の長い髪が、人工的に生み出された穏やかな微風に揺れていた。
カイは再び、眼下に広がる偽りの大自然へと視線を戻した。
「自由、ってやつだよ」
ユイは沈黙を保った。
「あの場所に、気の遠くなるような長い間閉じ込められていたからな」
カイは言葉を続ける。
「ここに出たら、もっと劇的に何かが変わると思ってたんだが」
「あなたはすでに、変わっていますよ」
「ふん」
カイは自分の手を見つめ、ゆっくりと拳を握り締めた。
「……かもな」
ユイが彼の隣へと歩み寄る。
「ここに立ち尽くして、もう一時間近くになります」
「そんなに経ったか?」
「ええ」
「気づかなかったわ」
「随分と、口数も少ないようですが」
「そりゃ、考え事をしてるからな」
ユイは彼の隣で足を止めた。
「一体、何を考えているのですか?」
カイはすぐには答えず、ただじっと地平線の彼方を見つめていた。
彼の脳裏に、幾人もの顔が浮かぶ。かつて自分の背中を預け、共に戦った者たち。自分を信頼してくれた者たち。共に笑い合った者たち。自分の隣で死にかけ、そしてあり得ざる絶望的な死闘を生き延びてきた、かつての仲間たち。
だが、その誰もが今のこの場所にはいない。
――まだ、な。
「……あいつら、今頃どうしてるかなと思ってな」
ようやく、カイの口から言葉が零れ落ちた。
ユイには、彼が誰のことを指しているのかが正確に分かっていた。
「――『記憶の牢獄』の同胞たち、ですね」
カイが小さく頷く。
「ニクセラ」
「ああ」
「原初たる悪魔たち」
「ああ」
「エリス」
カイの表情が、僅かに変化した。
「……それと、おそらくはエレインもな」
ユイは彼の横顔をじっと観察した。
「彼らを、探しに行くつもりですか」
「その予定だ」
カイは彼女の方へと向き直った。
ユイの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ならば、まずは『ニクセラ』から始めるのが妥当でしょうね」
カイは頭の横をガリガリと掻いた。
「それが一番手っ取り早そうだな」
「理由は?」
「だってあいつ、一応『魔王(魔王種)』だろ?」
ユイがパチクリと瞬きをした。
「それが?」
「魔王ともなれば、そう簡単に世間から隠れおおせるもんじゃないだろ」
「――意図的に、姿を隠匿していない限りは、ですが」
カイの動きが一瞬止まった。
「……手厳しいな、お前」
ユイは両腕を組んだ。
「それよりも、私としてはもう一つ、明確にしておきたい(クリアにしたい)案件があるのですが」
カイの目が、一瞬にして不審げに細められる。
「……なんだよ?」
ユイは真っ直ぐに彼の瞳を射抜いた。
「私の記憶が正しければ、あなたはあの『記憶の牢獄』の内部において、すでに魔王( Demon Lord )の位階に到達していたはずです」
「そうだな」
「ならばなぜ、あなたはこの世界へ出る際、わざわざ『魔王進化の種』の譲渡をシステムに要求したのですか?」
カイの身体が、完全にカチコチに凍り付いた。
「……」
ユイは無言で答えを待っている。
カイは視線を右へ左へと泳がせた。まずは森を見つめ、次に遠くの都市を見つめ、最後には人工の空を見上げた。
「――さっぱり分からん」
ユイの表情が、一瞬にして完全なる無へと変わった。
「……は?」
「いや、多分何か試してみたい実験でもあったんだと思うんだが」
「実験、とは?」
カイは眉間に皺を寄せた。
「……何か、だよ」
ユイの冷ややかな視線が、突き刺さるように固定される。
「それとも、何か別の狙い(企み)でもあったのですか?」
しんと、沈黙が降りる。
カイはやれやれと両肩をすくめてみせた。
「いや、マジで思い出せねえわ」
ユイは丸数秒間、ただ無言で彼をジト目で凝視し続けた。
カイはその視線に耐えかねて声を上げる。
「……なんだよ?」
「いえ、何も」
「めちゃくちゃ見てるじゃねえか」
「自覚はあります」
「気味が悪いんだが」
「――自分の立てた計画を忘れるような主君を持つ、こちらの身にもなってください」
カイはチッと不機嫌そうに舌を鳴らした。
「……うるせえな。絶対に何か重要な理由があったはずなんだよ!」
「――その通り、重要な理由でしたよ」
ユイの言葉に、カイは片方の眉を上げた。
「へえ、なんで分かるんだ?」
「あなたがすでに魔王( Demon Lord )級の絶大な力を有していながら、わざわざその『種』をシステムに要求するという手間を踏んだからです。明確な意図がなければ、そのような非効率な行動はなさいません」
カイは彼女をじっと見つめた。
「……ああ、そっか」
ユイがその双眸をさらに細める。
「――思い出しましたか?」
「ちょっとだけな」
「理由はなんだったのですか?」
カイは不敵に、ニヤリと笑った。
「目立つため、だよ」
ユイの表情が僅かに和らぐ。
「……誰の目を引くために?」
カイは再び、眼下に広がる果てしない地平線へと視線を戻した。
「ある特定の魔王さ」
彼の唇に、懐かしむような小さな笑みが浮かぶ。
「――ニクセラだ」
ユイは即座にその意図を理解した。
「なるほど……。彼女に、自分の存在を気づかせたかったのですね」
「そういうこと。魔王進化の兆候がありゃ、あいつなら確実に喰いついてくると思ったんだわ」
「そして、その思惑は見事に的中した、と」
「ああ、最終的にはな」
ユイは深くため息をついた。
「……最初からそう説明していただければ、こちらも無駄な演算をせずに済んだのですが」
「それじゃ面白くねえだろ?」
ユイは静かにその目を閉じた。
「はぁ……」
カイは愉快そうに笑った。だが、その直後、彼の表情からふっと笑みが消え、静かな真剣みが宿る。
「あいつは、俺の隣で戦ってくれたんだ」
ユイは何も言わず、ただ彼の言葉を待つ。
「あの場所(牢獄)じゃ、俺たちは最高のチームだった。だけど……この外の世界は違う」
手すりを握るカイの指先に、僅かに力がこもった。
「彼女が、かつての『アイヴィー』ではないからですか」
ユイの問いかけに、カイの瞳が鋭く細められた。
「……ああ」
「彼女は今や、この世界の『魔王ニクセラ』としての生を生きている」
「そうだな」
「そして、彼女がかつての記憶を一切保持しているかどうか、あなたには分からない」
カイはユイを見つめ返した。
「分かってるさ。そんな都合のいい話、あるわけねえってな」
「ならば、もし彼女があなたのことを完全に忘れていたとしたら、どうするつもりですか?」
カイは再び、いつもの不敵な笑みを取り戻した。
「決まってるだろ。もう一度、最初から自己紹介するだけだ」
「もし、問答無用で襲いかかってこられたら?」
「そん時は、気合いで避ける」
「もし、こちらの言葉に一切耳を貸さなかったら?」
「あいつが折れて話を聞く気になるまで、徹底的に付きまとってウザがられてやるさ」
「……カイ」
「なんだよ?」
「一応指摘しておきますが、それは『戦略』とは呼びません。ただの蛮勇です」
「これが意外と、一番打率が高いんだって」
ユイは本日何度目か分からないため息を漏らした。カイは楽しそうに笑い声を上げると、手すりから身体を引き剥がした。
「よし、行くか」
「どこへ?」
「どこへって、決まってんだろ。俺たちの『同胞』を迎えに行くんだよ」
ユイはその後ろを静かに追従する。
「――愛しい人」
「ん?」
「ニクセラを確保した後、次は誰を捜索する予定ですか?」
カイは歩きながら、顎に手を当てて少し考え込んだ。
「……そうだな、まずは『第二位』だろ」
「理由は?」
「だってあいつ、放っておいたら一番面倒くさいことになりそうじゃん」
ユイがパチクリと瞬きをする。
「現時点では、そのような予測を裏付ける確定的な証拠はありませんが」
「いや、俺はあいつの性格をよく知ってるからな」
ふっと、間を置く。
「じゃあ逆に聞くが、第一位は?」
「……間違いなく、面倒な事態を引き起こすでしょうね」
「第八位は?」
「確実に、組織の胃痛の種になります」
「第九位は?」
カイはピタリと足を止めた。
「……待て。そう考えると、第九位が一番タチが悪いかもしれないわ」
ユイの表情が、どこか深い思案に暮れるような奇妙なものへと変わった。
「なるほど……。つまりあなたの仲間の勧誘戦略とは、世間一般で言うところの『問題児ばかりを掻き集める』という認識で相違ありませんね?」
カイは振り返り、ユイをビシッと指差した。
「まさにその通り!」
「重ねて申し上げますが、それは一般的なリクルート戦略とは呼びません」
「いいんだよ、これで」
「……何がですか?」
カイはニヤリと、凶悪なほど魅力的な笑みを浮かべた。
「厄介で、手がかかる奴であればあるほど――そいつは最高に『面白い(強烈な)』手駒になるってことさ」
ユイは冷ややかなジト目で彼を凝視した。
「……あなたの採用基準は、相変わらず著しく低次元ですね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ユイはやれやれと首を横に振った。二人は再び、果てしない環境を内包する魔塔の内部を歩み進めていく。
――その時。二人の頭上、人工の天空の遥か彼方で、空間が微かに『歪んだ』ことに、どちらも気づくことはなかった。
ほんの一秒にも満たない刹那の間、何か(・)がその歪みの向こうから、二人を凝視していたのだ。そして、何の前触れもなく掻き消えた。
カイが唐突に足を止める。
「……待て」
ユイが振り返った。
「どうしましたか?」
カイは険しい目付きで人工の空を見上げた。
「……今、何か感じなかったか?」
ユイの表情が一瞬にして戦闘モードへと切り替わり、その瞳に冷徹な演算の光が宿る。
「――ええ、確かに。空間の位相に僅かな不連続性を感知しました」
カイは誰もいない虚空を凝視し続ける。
「一体、何だったんだ?」
「……現時点での特定は不可能です」
カイの唇が、獰猛に釣り上がった。
「へえ……。面白いじゃねえか」
その瞬間、ユイがガシッとカイの袖を力任せに掴んだ。
「――却下です」
カイは自分の袖を掴む彼女の手に視線を落とした。
「おいおい、俺はまだ何も言ってねえだろ?」
「今すぐあの空間の歪みの座標へと転移し、直接調査を仕掛けようと考えていましたね。その顔を見れば分かります」
「……そこまでお見通しかよ」
「ええ」
「ちっ、勘が鋭い奴」
ユイはその手を頑なに離そうとはしなかった。カイはやれやれと深いため息をつく。
「分かったよ、大人しく捜索の方を優先するって」
「ご理解いただけて何よりです、我が主」
「……チッ、少しの間の平和も、クソ食らえってか」
ユイが怪訝そうに瞬きをした。
「……今、何と言いましたか?」
カイの身体が、完全にカチコチに凍り付いた。
「……ん? 何がだよ?」
「今、何か不穏な言葉を吐きませんでしたか?」
「いや、何も言ってねえけど」
「私の聴覚素子には、確実に『クソ食らえ』という単語が記録されているのですが」
カイはバツが悪そうに、不自然な引き攣った笑みを浮かべた。
「あ、あれだろ。きっと人工風のノイズか何かがそう聞こえただけだって」
「ここは、完全に密閉された魔塔の内部ですが」
「だからこそ、音が反響しやすいってわけさ!」
ユイは無言のまま、冷ややかなジト目で彼をじっと見つめ続けた。カイもまた、負けじとその視線を受け止める。数秒の、無意味な沈黙のラリー。
やがて、ユイが諦めたように小さくため息を漏らした。
「……これ以上の押し問答は時間の無駄ですね。行きましょう」
カイは勝ち誇ったようにニカッと笑った。
「おう、そうこなくっちゃな!」
二人の影は、そのまま魔塔のさらなる深部へと掻き消えていった。
しかし。
彼らが作り出したあの偽りの世界のさらに外側――この大陸に点在するあらゆる国家や王国の、さらに遥か彼方。カイのまだ見ぬ領域において、すでに『何か(・)』が確実に胎動を始めていた。それは、彼がかつて失い、そして今もなお探し求めている『同胞たち』へと、確かに繋がっている未知の因果。
そして世界のどこかで、もう一人の存在が、カイもユイも未だ予期せぬ『未来』へと向かって、すでにその確かな一歩を踏み出し始めていた。
それはいつか、彼らを再び一つの場所へと引き合わせることになる、絶対の運命。
かつてのような形ではないかもしれない。
だが、彼らが本来あるべき姿、真なる『覚醒(新生)』を遂げるための、必然の邂逅。
かつて『記憶の牢獄』において、第二位と呼ばれたその存在は、傲岸不遜たる『魔王ラヴェシア』の名で世界を震え上がらせていた。
だが、この現実の世界における彼女の真の正体は――未だ誰の魔名も持たぬ、絶対の格を誇る『原初たる悪魔』の一柱。
世界を巻き込む、新たなる『同胞の捜索劇』が、今ここに幕を開けたのだ。




