エピソード66:「太陽の涙」の帰還
このエピソードをもって、サイドストーリーは終了となります。
【世界の復元】
ユイが静かにカイの隣へと姿を現した。
「――愛しい人」
「終わったぜ」
カイが応じる。
「分かっています」
ユイは未だサファイアの結晶と化している大海原へと視線を巡らせた。
「……世界を、元に戻しましょうか?」
カイが静かに頷く。それを見たユイはそっと片手を掲げ、その指先を軽く打ち鳴らした。
――パチン。
次の瞬間、世界の時間が巻き戻るかのようにすべてが『反転』した。
凍てついていた大海原が元の流動的な水へと還り、立ち込めていた真紅と群青の禍々しい魔力残滓が虚空へと霧散していく。分厚い氷原は瞬く間に融解し、両国へと迫り狂っていたあの数百万トンの巨大な質量波は、岸壁へと激突する直前、まるで意志を持つかのように優しく、穏やかに、本来の海面へと崩れ落ちていった。
氾濫を起こしていた『太陽の涙』は、瞬く間に元通りの静謐を取り戻す。まるで、最初からそこには何も起きていなかったかのように。
両方の王国の全域で、人々は信じられない奇跡を目撃し、ただ呆然と硬直していた。今、自分たちの目の前で起きた超常現象のどれ一つとして、人間の頭脳では正しく処理することなどできなかったのだ。
天空の『蒼き月』が掻き消え、世界に未だ残存していた吸血鬼の眷属たちが一斉に光の粒子となって消滅していく。ティアムーン王国のいたる所で、生き残った騎士たちがようやく、その手に握り締めていた武器を脱力したように下ろしていった。
【ルナリス王立学園】
避難所から、生徒たちが一人、また一人と恐る恐る外へと這い出てきた。教官たちが必死に、かつ慎重に生徒たちの安否を確認していく。やがて、一人の教師の震える声が、全校に向けて安堵の報告を告げた。
「全員……全員の無事が確認されました……っ!」
その声を合図にするように、ソラが狂ったように周囲を見回した。
「リン!? リン、どこにいるのよ!?」
「ここだよ」
すぐ背後から聞こえた声に、ソラは弾かれたように振り返った。
「リン……ッ!!」
ソラはリンの両肩をガシィッと力任せに掴み、激しく揺さぶる。
「あんた、二度とあんな真似しないでよね!!」
「あんな真似って?」
「吸血鬼の軍勢の中に、自分から突っ込んで消えるような真似に決まってるでしょ!!」
「……ソラだって、上空の群れの中に飛び込んでいってたじゃない」
「それは完全に別件でしょ!!」
「どう違うの?」
「――私は、あんたを探しに行くために飛んだんだから!!」
リンは思わずクスリと吹き出した。
「ソラって、本当に強情ね」
「かもね」
ソラもまた、ようやく安心したように満面の笑みを浮かべた。そして、元の穏やかさを取り戻した遥かな海へと視線を向けながら、そっと囁く。
「でも――あんたは、私の大切な友達なんだから」
「うん」
リンは優しく頷いた。
「……そうだね」
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【英雄の勲章】
数日後、ルナリス王立学園は無事に再開の日を迎えていた。
未だ破壊の爪痕が残る中庭では急ピッチで復旧作業が進められており、その広場へと全校生徒が集められ、厳かな全校集会が執り行われていた。
「先日の『太陽の涙』における未曾有の災厄において――」
壇上に立った学園長が、拡声の魔導具を通じて厳かに語りかける。
「我が学園は、かつてない破滅の脅威に直面した。しかし、多くの者たちがこの場所を護り抜いてくれたのだ。王宮騎士団の方々」
促されて、整列していた騎士たちが一礼する。
「そして、我が国の誇る魔導士団の方々」
同じく、魔導士たちが居住まいを正した。
「……そして、我が学園に籍を置く生徒たちの中にも――」
学園長の視線が、群衆の中にいる一人の少女へと真っ直ぐに向けられた。
「――リン・クラスメイト」
リンの身体が、一瞬にしてカチコチに凍り付いた。
「逃げ出すべき正当な理由がいくらでもあったにもかかわらず」
学園長の声が、中庭全体へと響き渡る。
「彼女はその場に留まり、我が身を挺して同胞たる生徒たちを護り抜いたのだ」
――ワァァァァァァァッ!!!
その瞬間、中庭を埋め尽くす生徒や教官たちから、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。リンはあまりの恥ずかしさに顔を真っ赤に染め、隣のソラに向けて蚊の鳴くような声で呟いた。
「……嘘、最悪。逃げたい……」
「もう遅いってば」
ソラは満面の笑みを浮かべ、意地悪っぽく小声で耳打ちした。
「ルナリス王立学園は、リンのその比類なき勇気と学園防衛への多大なる貢献を公式に認め、ここに称えるものとする」
壇上に呼ばれたリンの首へ、学園長の手によって鈍くきらめく見事な勲章が掛けられた。
リンはその勲章を見つめ、それから自分へと向けられる無数の羨望と敬意の眼差しを見渡した。
「……ありがとう、ございます」
今の彼女に絞り出せる言葉は、それが精一杯だった。
自席に戻るなり、ソラがぐっと顔を近づけてくる。
「言った通りでしょ?」
「……ソラ、これ一生擦る気でしょ」
「あったりまえじゃない! 一生言い続けてあげるわ」
「……はぁ。いいよ、もう好きにして」
「本当にカッコよかったよ、リン」
ソラはまるで自分のことのように、誇らしげに胸を張った。
リンは綺麗に片付けられた学園の景色を見渡した。
「……違うよ」
彼女は首元の勲章へとそっと触れる。
「――カッコよかったのは、私じゃない。私たち(・・・・)だよ」
リンにとって、これは「自分が特別な英雄になった」というような大層な物語ではなかった。ただ、自分が『家』と呼べるようになったこの大切な場所を、必死に護り抜いたという、それだけのありふれた一日の出来事。
そしてソラにとってもまた、これは一つの重大な気づきを得た記念すべき日となった。――自分は、いつだってリンの背中を追いかけ、その後ろに控えている必要などないのだ、と。
自分は、彼女の『隣』に並び立って、共に歩んでいけるのだから。
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【勇者の決意】
テオレマ王国でもまた、独自の厳かな式典が執り行われていた。
謁見の間、国王の前に満身創痍の勇者ヴァルトが静かに直立している。
「お前は、数え切れないほどの多くの民の命を救ったのだ」
国王がしみじみと、至高の賛辞を贈る。
「俺一人の力ではありません」
ヴァルトは首を振った。
「そこにいた全員が、それぞれの武器を手に戦い抜いた結果です」
彼は窓の向こう、かつての牢獄があった遥かな海へと視線を向けた。
「陛下、あの封印の跡地を、今後は恒久的に監視下に置くことを提案いたします」
「……あの魔女コリーが、すでにそこから消え去ったというのにか?」
「彼女は、もはや我が国の敵ではありません」
ヴァルトは淡々と告げた。
「ですが、あの場所で何が起きたのかを、世界は記憶し続けねばならないのです。人間が、己が一体『何』と戦っているのかを正しく理解することを放棄した時、その『恐怖』がどれほど歪な怪物を生み出すことになるのか――俺たちは、決して忘れてはならない」
「……相分かった。ただちに手配しよう」
国王が厳かに頷き、その申し出を受け入れた。
ヴァルトはゆっくりと翻り、謁見の間を後にした。その両肩は、これまでの数百年間で最も軽かった。
彼はこれまでの全人生において、「勇者の存在意義とは、この世界における最大最悪の怪物を打ち倒すことにある」と、そう頑なに信じ込んできた。だが、この大戦乱を経て、彼の価値観はまったく別のものへと昇華していた。
――ある時には、ただ『脅威』と『それに対抗する術を持たない無辜の民』との間に立ち塞がり、盾となること。それこそが、勇者と呼ばれる存在の本来の、そして最も気高い本質なのだ。
「……ようやく」
彼は水平線の彼方を見つめながら、ぽつりと、静かに呟いた。
「――俺も、過去という重荷を引きずるのを、終わりにできそうだな」
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【真祖の新生】
二つの王国から遥か遠く、ユイの手によって築かれた漆黒の魔塔。
その最上階で、コリーはカイの前に静かに直立していた。深海の底で目覚めたばかりの頃の彼女の姿は、そこにはもうない。内に秘めた絶大な魔力は健在であり、真祖としての不遜な矜持も未だ失われてはいなかった。だが、彼女の根源を成す何かが、決定的に変質を遂げていた。
――この世界で初めて、彼女は心から己の『上位者』として認められる、絶対的な超越者に出会ったのだ。
「――これより」
カイが静かに口を開き、彼女を見据えた。
「お前の名は――『クロエ』だ」
――ズ、ズズズズズンッッッ!!!!
その名が刻まれた刹那、頑強な魔塔の全体が恐怖に慄くように激しく鳴動した。凄まじいエネルギーの奔流がクロエの全身の細胞を、魂の術式を駆け巡る。彼女の血脈がさらなる高みへと進化し、その存在の格そのものが再構築されていく。真紅の双眸が眩い光を放ち、やがて――静かに、奥深い輝きを宿して収束していった。
ユイが静かにその眼眸を閉じる。
『個体名:クロエ。種族:真祖吸血鬼から『吸血魔皇』への進化を確認。成功しました』
クロエは自身の新しく生まれ変わった両手を見つめ、それから不敵に微笑んだ。
「……なるほどね。これが、お前が私にくれた新しい力というわけか」
彼女はゆっくりと顔を上げ、カイを真っ直ぐに見据える。
「これほどの、世界を容易くひっくり返せるほどの力を持つお前だ。当然、何か明確な『目的』があるのでしょう?」
カイはすぐには答えなかった。その視線はゆっくりと天空へ、誰も届かない遥か彼方の深淵へと向けられる。
「俺の目的は、ただ一つだけだ」
ようやく紡がれた彼の声は、冷徹な殺意を孕んで低く響いた。その黒い瞳が、鋭く細められる。
「――『カイ・ゼロ』。あの男を、この手で完全に葬り去ることだ」
(――ここで、画面が暗転する)
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【エピローグ】
【魔界】
その場所で、原初たる悪魔たちは完全な沈黙を保ったまま佇んでいた。
突如として、彼らを取り巻く空気が不気味に変質する。彼らの智識や理解を遥かに超えた彼方から、何かがこちらへと急速に接近してきているのだ。悪魔たちは一斉に水平線の彼方へと向き直り、ただ静かに、その到来を待った。
【ルナリス王立学園】
昼下がりの穏やかな空の下、リンは周囲で行き交う生徒たちの楽しげな笑い声に包まれて立っていた。
「リン、早く早くー!」
前方の街路から、ソラが大きく手を振りながら彼女の名前を呼ぶ。
「今行く!」
リンは親友の元へと向かって、軽やかに駆け出した。背中に受ける午後の陽光はどこまでも温かい。今の彼女は、目の前にある「ありふれた、とても良い一日」以外の出来事など、何一つとして知る由もなかった。
【現実の彼方、数多の次元の狭間にて】
そこを支配しているのは、完全なる静寂。
果てしなく広がる無限の暗黒の中、一人の影が静かに浮遊していた。彼の周囲には、まるで遠くきらめく星々のように、数え切れないほどの多次元が散りばめられている。――いくつもの宇宙、無数のタイムライン、膨大な数の世界そのものが、この広大な空間においてはただの小さな光の点にまで縮小されていた。
その影が、静かにその眼眸を開いた。
――カイ・ゼロ。
彼の唇に、薄い笑みが浮かぶ。
「……ほう」
彼は目の前に広がる果てしないマルチバース(並行宇宙)を見渡しながら、ぽつりと呟いた。
そして、彼は再びその目を閉じる。
「――ならば、待っているとしよう」
彼の背後で、空間が陽炎のように激しく歪んだ。
時空がねじ切れ、そこから二つの凄まじい影が姿を現す。――片方は、目にするだけで周囲の次元構造が物理的に湾曲していくほどの、圧倒的な格を誇る巨大な超古代の存在。
――『時の竜』。
そしてその隣には、未だ正体も名も明かされていない、不気味なもう一人の影が佇んでいた。
二つの異形は何も語らなかった。ただゆっくりと降下し、虚空に浮かぶカイ・ゼロの足元へと、恭しく傅き、跪いた。
カイ・ゼロは暗黒の中に浮かんだまま、その不敵な笑みをゆっくりと、さらに深く刻んでいく。
(――ここで、画面が完全に漆黒へとフェードアウトする)




