エピソード65:悪魔 主 VS 災厄級ヴァンパイア
【概念切断】
凍てついた大海原の遥か深き底で、突如として氷の大地が鳴動した。
一筋の亀裂が走り、さらに、もう一筋。
――ズガァァァァァァァンッ!!!!
凍結した海の中央が激しく爆ぜ、砕け散った氷塊が天空へと吹き飛ぶ。真紅の凄まじい大爆発が、凍り付いた質量のすべてを内側から引き裂きながら吹き荒れた。ユイの魔術がこの世界を縛って以来、初めて『動くもの』が現れたのだ。
その破壊の嵐の中から、二つの影が姿を現した。
一人はカイ。どこまでも冷静に、その手に刀を握り締めている。そしてもう一人は、燃えるような長い真紅の髪と爛々と輝く赤眼を持つ女。その手には巨大な『死神の鎌』が、まるで身体の一部であるかのように容易く握られていた。
コリー・ヴァネッサが微笑む。――優しさなど微塵もない、およそ人間とはかけ離れた笑み。数百年に及ぶ幽閉からついに解き放たれた、生ける天災の笑みだ。
彼女の闘気が凍てついた海全体へと拡散し、カイの存在感と正面から激突する。二人がそこに立っているというだけで、足元の氷原が一秒ごとにひび割れを広げていった。
「――なるほど」
彼女は小首を傾げながら言った。
「私をここから出したのは、お前ね」
「ああ」
「そして、あの封印の前に立ち塞がっていたのもお前だ」
「その通りだ」
彼女の手元で、鎌の柄がミサミサと音を立てて強く握り締められる。
「――なら、死ね」
彼女の姿が掻き消えた。
――ドゴォォォン!!
再出現した彼女の足元で、凍った海が派手に爆砕する。カイの眼前へと刹那の間に肉薄したコリーの鎌が、すでにその首筋を狩らんと振り下ろされていた。カイは瞬時に『ハルマゲドン』を突き上げる。
――ギィィィィィィンッ!!!
激突の衝撃波により、凍てついた大海原に数キロメートルに及ぶ大亀裂が走り、カイの足が氷の上を数メートル後方へと滑った。
(――こいつは、思った以上にヤバいな)
カイは内心で舌を巻く。
「面白いわね」
コリーが鎌の刃を強引にねじ込んでくる。その瞬間、カイは肌で察知した。――これは単なる物理的な打撃ではない。それよりも遥かに質の悪い、肉体ではなくカイという『存在の概念そのもの』を切り裂こうとする、凶悪なまでの絶対切断の刃だ。
「……なるほど。それがお前の能力ってわけか」
彼女の笑みが、さらに深く、歪に広がっていく。
「――さあ、いつまで持ち堪えられるかしら?」
二人の影が再び正面から激突した。その瞬間、凍り付いていた『太陽の涙』の全域が、水平線の端から端まで完全に崩壊を始めていく。
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【紅き月の顕現】
凍てついた大海原の数百メートル上空。
背後から生やした六枚の漆黒の翼で、カイは微動だにせず虚空に滞空していた。その手には『ハルマゲドン』が、気負いなく緩やかに握られている。
「……お前、奇妙な男ね」
コリーが言った。
「それが久しぶりに娑婆へ出た第一声か?」
「私を解放したことよ。私が何者であるかを知りながら、それでもなお、ここから出した」
「ああ、出したな」
「そして今も、こうなることを最初から分かっていたかのように、平然とそこに立っている」
「分かっていたさ」
彼女はクスクスと、低く笑った。
「なら、見かけほど愚かではないということかしらね」
カイの顔から笑みが消える。
「寛大さと愚鈍さを履き違えるなよ」
「あら?」
彼女の瞳が爛々と輝く。
「――なら、私を楽しませてごらんなさい!」
彼女が再び掻き消えた。
振るわれた大鎌とハルマゲドンが激突し、その凄まじい衝撃波が頭上の凍てついた雲をズタズタに引き裂いていく。
「手加減しているわね」
至近距離でカイの瞳を覗き込みながら、コリーが囁く。
「お前もな」
「……察しが良いこと」
彼女は空中で身をひねり、再び凶刃を振るう。――ギィィン!
激しい打ち合いの最中にあっても、彼女の口が止まることはなかった。
「私はね、あの牢獄で数百年の歳月を過ごしたのよ」
「知っている」
「私を封印した人間どもを、心の底から憎んだわ」
――ギィィン!
「それを許したこの世界そのものを、呪い続けた」
――ギィィン!
「――じゃあ、今は?」
コリーの顔から笑みが完全に消え失せる。
「私をここから出した、お前が憎い」
カイの瞳は、どこまでも冷徹だった。
「理屈が通ってねえな」
「そうかしら?」
彼女の速度がさらに跳ね上がり、大鎌が残像となって空間を埋め尽くしていく。だが、カイはそのすべてを寸分の狂いもなく迎撃した。
「お前は私に自由を与えた」――ギィィン!
「私の牢獄を破壊した」――ギィィン!
「私がとうの昔に埋めて忘れたはずの衝動を、すべて叩き起こしたのよ」――ギィィン!
彼女の双眸が、完全に血の赤へと染まっていく。
「それなのに、私を裏切ったこの世界で、今更大人しく生きていろとでも言うつもり!?」
カイの漆黒の翼が、さらに大きく広がった。
「俺は、お前に生き方なんか指示しちゃいない。ただ、扉を開けてやっただけだ」
コリーは空中でピタリと動きを止めた。そして、今度は心底楽しそうに、本当に愉快そうに大笑いした。
「……その回答、気に入ったわ」
「そいつは重畳」
彼女はそっと片手を掲げた。
「なら、確かめさせてもらうわ。お前がくれた『自由』が、どれほどの価値を持つものなのかをね」
彼女の闘気が、爆発的に噴出した。
『究極能力――紅き月』
天空の太陽が完全に消失し、深い真紅の輝きが空のすべてを呑み込んでいく。それは凍てついた大海原へと瞬く間に伝播し、氷の大地そのものを血の赤へと染め上げていった。静止していた波頭も、結晶化した細かな飛沫も、すべてがその禍々しい色を宿して輝き始める。
下方の天空で未だ浮遊していたリンは、その異常な光景に全身の血が凍りつくのを感じた。
「な、に……これ……っ」
両方の王国の全域で、人々が一斉に空を見上げ、真紅に燃える異形の太陽を目撃して戦慄していた。
――バリ、バリバリバリッ!!
凍てついた海に、無数の大亀裂が走り始めた。一筋、二筋、それが瞬く間に数百、数千の破滅の網の目となって広がっていく。割れた氷の隙間から這い出してきたのは――水ではない。
『手』だ。
一本、数十本、数百、数千、数万。
凍てついた海を埋め尽くさんとするほどの、悍ましい吸血鬼の軍勢が、氷の底から次々と這いずり回って出現する。
コリーは掲げた手を、ゆっくりと振り下ろした。
「――目覚めなさい」
赤き氷原のいたる所で、無数の真紅の瞳が見開かれる。
「――我が『紅き月』の軍勢よ」
解き放たれた眷属たちが一斉に咆哮を上げ、猛然と進軍を開始した。牙を剥く標的は――ティアムーン。テオレマ。そして、「海さえあれば安全だ」とこれまで高を括っていた、この世界のあらゆる国家すべて。
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「敵襲、敵襲ゥゥッ!!」
ティアムーン王国の全域に、狂ったように警戒の鐘が鳴り響いた。騎士団が雪崩を打って陣形を組み、魔導士たちが次々と防壁を構築し、学園の教官たちは未だ残っていた生徒たちを必死に搔き集める。
「全員、防衛線の後ろに下がれ!」
ソラは必死になって空を見上げていた。
「リン……どこにいるのよぉ!」
――ズドォォォンッ!!
一匹の吸血鬼が魔導防壁を力任せに突き破って乱入した。生徒たちの悲鳴が響き渡る中、二匹目、三匹目が次々と甲板や地面へと着地していく。
その時、天空からリンが猛然と降下してきた。
「――みんなから離れなさい!」
彼女が地面を叩きつけると同時に、凄まじい衝撃波が巻き起こり、群がる吸血鬼どもを力任せに吹き飛ばした。リンは怯える生徒たちを背に庇い、迫り来る悍ましい軍勢の前に毅然と立ち塞がる。その表情は冷徹に引き締まっていた。
(……これが、あの人が解き放った『化け物』の正体ってわけね)
立ち込める真紅の霧の向こうから、一匹の『上位吸血鬼』が静かに歩み出て、その邪悪な視線をリンへと固定した。
「ほう……」
その怪物はニィッと口の端を釣り上げた。
「お前……その血、他の人間とは随分と匂いが違うな」
「だったら、確かめに来れば?」
リンが冷たく言い放った瞬間、上位吸血鬼が獰猛に地を蹴った。
これと全く同じ悪夢が、海の向こうのテオレマ王国でも幕を開けていた。
城壁へと次々と降下してくる吸血鬼の群れ。騎士団は一丸となって第一波を迎え撃ち、それを辛うじて撃破する。だが、その直後にはさらなる第二波、第三波が絶え間なく押し寄せてくる。
「一人たりとも民の元へ行かせるな!」
国王が要塞のバルコニーから声を荒らげる。
「テオレマに栄光あれ!!」
兵士たちが怒号を上げ、戦いは本物の泥沼の乱戦へと突入していった。
その頃、不気味に赤く染まった氷原の上で、ユイは完全な静寂を保ったまま佇んでいた。背後に一匹の吸血鬼が着地する。
「小娘が……ッ!」
怪物が牙を剥いて唸る。
「……退きなさい」
ユイは振り返る気にすらならず、淡々と告げた。
「この俺に指図するなぁぁッ!」
――パチン。
消滅。
間髪入れずに二匹目が出現した。続いて五匹、十匹、二十匹。あっという間に彼女の周囲は完全な包囲網で埋め尽くされる。一匹が爪を振り下ろすのを、ユイは最小限のステップで回避。別の個体が放った白刃を、ただ人差し指と中指の二本だけで完全に受け止める。背後から奇襲を仕掛けてきた三匹目に対しては、視線を向けることすらなく片手をすっと掲げただけで、その存在を世界から綺麗さっぱりと掻き消してみせた。
彼女の知覚は、最初から頭上の天空にしか向けられていなかった。そこでは、カイとコリー・ヴァネッサによる次元の違う死闘が未だに繰り広げられている。
「――愛しい人」
ユイはその一挙手一投足を瞳に焼き付けながら、密やかに、甘く呟いた。
「……あなたの力を、私に見せてください」
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――ギィィィィィィンッ!!!
二人の影が再び激突し、真紅の雲を真っ二つに引き裂いてから、互いに数歩分後退した。コリーは口元に付着した僅かな血を拭い取り、それをじっと見つめてから不敵に微笑む。
「……やっぱりね。お前、まだ本気を出していないわ」
カイはハルマゲドンの刀身へと視線を落とした。
「本気どころか、まだ始めてすらいねえよ」
「それは私も同じことよ」
両者の姿が同時に掻き消え、次の瞬間には数百メートル離れた虚空に出現する。互いの凶刃が幾度となく交錯し、その超高速の応酬の最中にあっても、言葉の応酬は途切れることがなかった。
「随分と余裕しゃくしゃくだこと」
「お前がやかましすぎるだけだろ」
「私を恐れないのね」
「恐れる必要があるか?」
「あるわ。私に立ち向かった者は、過去に全員残さず殺してきたもの」
カイの双眸が、さらに冷徹に細められる。
「……その割には、さっきから口ばっかりがよく動くな」
「お前が面白いからよ」
コリーがさらに力を込め、大鎌をねじ込んでくる。
「それに、お前がその『猫かぶり』を止めた時に何が起きるのか、この目で確かめてみたいの」
「注文が多い奴だな」
「なら、私が間違っていると証明してごらんなさい!」
唐突に、カイが完全にその動きを止めた。
コリーの放った大鎌の刃が彼の鼻先数センチの場所でピタリと静止し、一瞬の間、両者ともに微動だにしない。
「……切り返してこないなら、そのまま死ぬことになるわよ?」
コリーが挑発するように囁く。
カイの唇が、冷酷な弧を描いた。
「ほお……。そこまで言うなら、そんなに俺に殴られたいわけだ」
彼女は愉しそうに笑った。
「当然よ。まだ手加減しているのは分かっているわ。お前がようやく本気を見せる――その時こそ、私も本当の『本気』を出してあげる」
「望み通りにしてやるよ」
カイが淡々と言い放つ。
「……え?」
コリーの表情が、一瞬にして凍り付いた。
カイが動いた気配は一切なかった。――事実、彼は一歩も動いていない。ハルマゲドンを低く構えたまま、刀を振り上げることも、一閃を放つ挙動すらも見せていなかったのだ。
それなのに、彼女の肉体が突如として真っ二つに裂け、その胴体に歪な一本の切断線が走った。
コリーの目が、驚愕に大きく見開かれる。
「な、に……っ!?」
二撃目、三撃目、四撃目。
不可視、かつ感知不可能な全方位からの絶対切断。彼女が視認することも、気配を察知することもできない謎の凶刃が、彼女の肉体を瞬く間にバラバラへと解体していく。
やがて、彼女が先ほどまでいた虚空には、肉片の一欠片すら残されていなかった。完全なる消滅。
カイは、彼女の存在が綺麗さっぱり消え失せたその空間を冷ややかに見つめる。
「……なるほどな。あの『不死の呪い』ってのは、伊達じゃねえらしい」
チク、タク、チク、タク。
誰もいない虚空に、突如として不気味な時計の幻影が顕現し、その針が猛烈な速度で逆回転を始めた。
『絶対転生』
真紅の光波が爆発的に吹き荒れ、コリーの肉体が何もない空間から一瞬にして完全に再構築される。彼女は荒い息を吐きながら、自身の身体を確かめるように触った。
「……嘘でしょ」
彼女の顔に、明確な戦慄が走る。
「私の究極能力がなければ……今ので本当に死んでいたわ」
「もし今の攻撃に、俺の魔素を本気で流し込んでいたらな」
カイは平然としたまま、ハルマゲドンを僅かに持ち上げた。
「お前のその『絶対転生』とやらでも、二度と引き揚げられない領域まで消滅していただろうよ」
しんと、沈黙が降りる。
「……お前、本気で言っているのね」
コリーが喉を鳴らした。
カイは答えない。答える必要がなかった。
コリーの唇が、今度は心底からの歓喜と興奮に震え、狂ったような大笑いへと変わっていく。
「あはは……! ようやく理解したわ!」
彼女の闘気が爆発し、真紅の輝きがさらに深く、禍々しい未知の色彩へと変質していく。
「――なら、私もお前に対して、これ以上の出し惜しみは無用っていうことね!」
天空の色が、完全に『反転』した。
真紅の空が瞬く間に深い群青色の輝きへと塗り替えられ、足元の凍てついた海もまた、赤き氷原から美しいサファイアのような蒼き氷の大地へと変貌を遂げていく。
進軍していた吸血鬼の軍勢が、その劇的な変異に伴って一斉に動きを止めた。彼らの肉体が、内側から凄まじい進化を始めたのだ。――『上位吸血鬼』がさらなる高みへと昇華し、『貴족吸血鬼』が異形の変貌を遂げ、覚醒した『吸血鬼王』たちが両方の王国を同時に根こそぎ震え上がらせるほどの絶大な魔力を一斉に放ち始める。
リンは天空を見上げ、その圧倒的な光景に言葉を失った。
「……何、あれ……!?」
ユイの唇から、ついに笑みが完全に消え失せた。それは恐怖からではない。純粋な、観測者としての深い興味によるものだった。
二人の頭上、コリーは巨大な蒼きエネルギーの球体の中心に君臨していた。その真紅の双眸には蒼い魔導の紋章が刻まれ、周囲の空間そのものが彼女の存在に怯えるように激しくきしんでいる。
彼女は静かに、片手を掲げた。
「――究極能力」
世界が、その呼吸を止めた。
「――『蒼き月の真祖』」
――ズガァァァァァァァァァァンッッ!!!!
凍てついた海の上空に、巨大すぎる『蒼き月』が完全なる姿を現し、大海原の全域を冷徹な光で照らし出す。その光を浴びたすべての吸血鬼たちが、狂喜の咆哮を上げながらその戦闘力を爆発的に跳ね上げていった。
コリーが手元の大鎌を手放すと、それは氷に触れた瞬間に真紅の粒子となって霧散した。
彼女は自分の手を見つめる。その十指の先から、たらりと鮮血が滴り落ちた――だが、その血は地面に落ちることはなかった。重力を無視して虚空に浮遊し、歪にうねりながら、次の瞬間には一本の頑強な『刃』へと硬質化する。さらにそれは瞬時に形を変え、槍となり、大剣となり、鞭となり、やがて数十にも及ぶ極薄の血の凶器となって、彼女の周囲を衛星のように高速で公転し始めた。
「――私の血こそが、私の最強の武器よ」
コリーが不敵に微笑む。
カイは彼女を取り囲む無数の血の凶器をじっと見つめ、ここにきて初めて、その表情に本物の興奮を宿らせた。
「さあ」
コリーがそのうちの一振りの血成の刃を、真っ直ぐにカイへと向けた。
「――ここからが、本当の『対話』の始まりよ」
カイはハルマゲドンの柄を強く握り締め、六枚の漆黒の翼を最大まで広げた。その黒い羽毛が、蒼い月光を浴びて妖しくきらめく。
「……そうこなくっちゃな」
彼が獰猛に笑った。
次の瞬間、二人の姿が同時に世界から掻き消え――天空そのものが、大爆発を起こした。
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【群青の大覚醒】
天空を支配していた真紅の輝きが掻き消え、世界のすべてが深い群青色へと塗り替えられた。『太陽の涙』の上空に巨大すぎる蒼き月が完全なる姿を現し、その冷徹な光が天を呑み込んでいく。眼下に広がる凍てついた大海原もまた、血の赤から深遠なサファイアの結晶へとその姿を変質させていった。
一瞬の間、全世界が息を止める。
――ズドォォォォォンッ!!!!
次の瞬間、戦場に溢れるすべての吸血鬼たちから、圧倒的な魔力の波形が一斉に爆発した。それまでですら十分に脅威だった怪物の肉体が、内側から異形の変貌を遂げていく。爪はさらに長く、双眸はより爛々と輝き、その闘気は数分前の比ではないほどに膨れ上がった。戦いの最中にあって、そのまま『吸血鬼王』へと完全覚醒を果たす個体すら現れ始める。
ティアムーン王国の騎士たちは、その光景に驚愕の表情を浮かべた。
「……おい、奴らに一体何が起きたんだ!?」
「魔力が跳ね上がってやがる!」
「違う……」
一人の宮廷魔導士が、絶望に身体を震わせながら呟いた。
「……跳ね上がったなどという生易しいレベルではない。奴らは、全く別の化け物へと進化したのだ……!」
戦場を遥か見下ろす天空。コリーは真紅の髪を蒼き魔導の風になびかせ、その両腕を大きく広げていた。彼女の全身を、濃密な群青のエネルギーが包み込んでいく。
「――私の第二の究極能力」
彼女は正面のカイを見据え、妖しく微笑んだ。
「――『蒼き月の真祖』。これが、我が血脈の真なる力よ」
彼女の周囲を公転する無数の血成の凶器――剣、槍、鎖、大鎌、無数の針。そのすべてが彼女自身の鮮血から精錬されたものであり、一振り一振りが空間を圧殺せんとするほどの凄まじい質量を放っている。
彼女がそっと人差し指を掲げた。それに応じるように、数百の血の刃が狂気的な照準をカイへと定める。
「さあ、これをお前がどう捌くのか、見せてもらうわ」
放たれた刃の豪雨。――ズガァァァン!
凄まじい爆音とともに空間が爆裂するが、カイはその瞬間に姿を消し、すべての追撃は虚空を虚しく突き抜けた。
「そこね」
コリーは瞬時にカイの座標を捕捉した。自身の頭上に出現した彼を迎え撃つべく、掌中に新たな血の刃を形成する。
カイが『ハルマゲドン』を振り下ろし、コリーが血成の剣でそれを真っ正面から受け止めた。
――ギィィィィィィンッ!!!
激突の衝撃が、群青の空を激しく揺さぶる。
「速いわね」
不敵に笑うコリーに、カイは彼女の武器を力任せにねじ伏せながら言い放った。
「お前が遅すぎるだけだろ」
彼女は愉しそうに大笑いした。
「なら、もっと速くなってあげるわ!」
彼女の鮮血が爆発的に四方へと飛散し、その肉体の周囲に何百もの新たな凶器が形成された。全方位、文字通りの死角なき同時波状攻撃がカイへと襲いかかる。
カイの六枚の漆黒の翼が、刹那の間に一度、二度と羽ばたいた。頬を掠めていく槍、数ミリの差で肩を通り抜ける刃。一筋の鎖が彼の黒い翼を絡め取ったかと思った次の瞬間には、その鎖が引き締まるよりも速く、カイはその場から綺麗さっぱりと消失していた。
コリーが超人的な速度で身体を反転させる。予想通り、カイはすでに彼女の背後を取っていた。
――ギィィン!
再び、二人の武器が正面から噛み合う。
「……これだけの速度に付き合っておいて、息一つ乱していないなんてね」
刃を交えながら、コリーが忌々しげに呟く。
「乱す必要があるか?」
「私を、愚弄しているの?」
「いや」
カイは強引に彼女の身体を数メートル後方へと弾き飛ばし、淡々と言い放った。
「だから、事実を言ってるだけだっての」
幽閉から目覚めて以来初めて、コリー・ヴァネッサは完全に口を閉ざした。
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【共同戦線】
眼下では、混沌がティアムーンの街路を完全に呑み込んでいた。
次々と防衛線を突破していく吸血鬼の群れ。決壊寸前の戦線を死守せんとする騎士たち。街のいたる所で上がる爆炎が、群青色に染まった夜空を不気味に照らし出している。
――ズガァァァン!
一匹の吸血鬼が防壁を跡形もなく粉砕した。
「民を護れ! 死守せよ!」
一人の騎士が怒号を上げて突撃するが、放たれた白刃は怪物に接触した瞬間に木端微塵に砕け散った。
「弱すぎるな」
吸血鬼は邪悪な笑みを浮かべ、容赦なく鋭い爪を振り上げる。
――ドゴォォォンッ!!
だが、その爪が振り下ろされるよりも速く、リンの強烈な一撃が怪物の肉体を派手に吹き飛ばした。彼女は傷ついた騎士の前に滑り込むようにして着地し、毅然と身構える。
「り、リン殿……!?」
騎士が驚愕に声を漏らした。
リンは答えなかった。その鋭い視線は、吹き飛ばされた先からむくりと起き上がった怪物だけを捉えている。吸血鬼はフンフンと鼻を鳴らして周囲の空気を嗅ぐと、突如としてその動きをピタリと止めた。
「お前のその血……」
怪物の表情に、明らかな困惑の色が混じる。
「……貴様、一体何者だ?」
「あんたに関係ないでしょ」
リンが冷たく言い放った。
次の瞬間、怪物の姿が掻き消えた。
リンは瞬時に片腕を掲げ、正面から激突を受け止める。放たれた衝撃波によって、彼女の足が石畳の上を数メートル後方へと引き摺られた。
(……さっきまでの個体とは、魔力の質も強さも段違いに跳ね上がってる……!)
リンは歯を食いしばりながら、内心で危機感を募らせる。
「ほう、耐えるか。強いな」
吸血鬼が獰猛に笑う。
「でも、これくらいじゃ足りないよ!」
リンはさらに魔力を込め、怪物の爪を力任せに押し返した。
「リンッ!!」
騒音の嵐を切り裂いて、ソラの鋭い声が響き渡った。彼女の背後には、すでに巨大な魔導方陣(魔法陣)が眩い光を放って展開されている。
「そこから退いてぇぇッ!!」
リンが即座に真横へと身を投げ出す。その刹那、天空から猛烈な魔力の光矢の豪雨が降り注いだ。数発の光矢が吸血鬼の肉体を正確に貫き、怪物は苦悶の咆哮を上げて激しくよろめいた。
ソラがリンの隣へと軽やかに着地する。
「大丈夫、リン!?」
「うん、平気」
リンはソラを見つめた。
「……でも、ソラは避難したんじゃなかったの?」
「あんたこそ、避難しろって言われたでしょ」
一瞬の、短い沈黙。
「……お互い様、ってわけね」
二人の視線の先では、吸血鬼が肉体に突き刺さった光矢を力任せに引き抜き、傷口を瞬時に再生させていた。
「……あの化け物、信じられないくらいタフね」
ソラが忌々しげに呟く。
「だったら、二人で一緒に叩き潰すだけでしょ」
リンが不敵に笑う。
ソラもまた、獰猛な笑みを浮かべた。
「――それ、私が一番聞きたかった言葉よ!」
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【不屈の勇者】
凍てついた大海原の彼方、テオレマ王国の防衛線は決壊の瀬戸際にあった。吸血鬼の群れがすでに外壁を突き破り、一匹の『吸血鬼王』が城塞の真上へと着地した。その圧倒的な重量に、頑強な建造物の全体が激しくきしむ。
「……ここが、我が女王の幽閉に手を貸した国か」
怪物は怯える兵士たちを見下ろし、冷酷に告げた。
「焼き尽くせ」
――ギィィン!
怪物が動くよりも速く、一本の白刃が閃いた。満身創痍の男がそこに立ち塞がっていた。先ほどのコリーとの死闘で全身に深い傷を負いながらも、その手には依然として長剣が毅然と掲げられている。
――勇者ヴァルト・ホーラックス。
「貴様は……」
吸血鬼王が喉を鳴らす。
「貴様らの正体など、とうの昔に知っている」
ヴァルトは冷徹に言い放った。
「俺はかつて、お前たちの同胞が滅びゆく様をこの目で見た。あの女のせいで、何の関係もない無辜の民が死んでいくのをな」
彼は剣の柄を強く握り直す。
「だから、断る。この国を貴様らの好きにさせるわけにはいかん」
吸血鬼王が猛然と突撃し、両者の武器が激しく噛み合った。
「……手負いだな」
激しい打ち合いの最中、怪物が嘲笑う。
「見れば分かる」
「疲弊しきっているではないか」
「それも、自分が一番よく分かっている」
「ならば貴様に、この俺を倒すことなど不可能だ!」
ヴァルトは自身の愛刀へと視線を落とし、それから再び怪物へと真っ直ぐに見据えた。
「――その通りだ」
あまりにもあっさりとした肯定に、吸血鬼王の動きが一瞬だけ凍り付く。
「俺一人で、すべての吸血鬼を殲滅することなどできん。コリーを討ち果たすことも、彼女の文明が滅びた悲劇も、この戦乱を引き起こした憎しみの連鎖を止めることも、俺にはできなかった」
彼の掌に、凄まじい闘気が宿る。
「……だがな。今の俺にだって、まだできることが一つだけある」
怪物が再び牙を剥いて肉薄する。ヴァルトはその正面から、一切退かずに迎え撃った。
「――俺の背後に立つ民を、この命に代えても護り抜くことだ!」
「人間一人が、大言壮語をぉぉッ!」
ヴァルトはふっと、小さく微笑んだ。彼の背後には、逃げることを拒み、武器を構えて共に立つ数千の兵士、魔導士、騎士、そして平民たちの姿があった。どれほど絶望的な状況であっても、彼らは勇者の背中を信じてそこに集っていたのだ。
「違うな」
ヴァルトが静かに、だが力強く言い放つ。
「――俺は、一人で戦っているわけではない」
「テオレマに栄光あれェェッ!!」
背後の兵士たちが地を鳴らすような怒号を上げる。
吸血鬼王が自身の全魔力を解放し、暴威となって襲いかかる。ヴァルトは腰を深く落とし、迎撃の構えを取った。
「――全員、今だ!!」
その声を合図に、魔導士たちの放った魔術が一斉に爆発し、怪物の防壁を根こそぎ粉砕した。狙撃兵たちの光矢の豪雨が怪物の肉体を捉える。その大爆発の渦中へと、ヴァルト自らが一陣の風となって突撃した。振り上げられた吸血鬼王の武器を、自身の長剣で真っ正面からねじ伏せる。刹那の間、二人の視線が至近距離で交錯した。
「……過去に散っていった、すべての同胞たちのために」
ヴァルトは静かに、祈るように呟き――そして、一閃を振り下ろした。
吸血鬼王の巨躯が、群青の光の粒子となって世界から完全に霧散していった。
戦場に、しんと静まり返るような静寂が訪れる。ヴァルトはかろうじてその場に直立していたが、その長剣は力なく下ろされていた。
「ヴァルト勇者殿……!」
一人の兵士が、畏敬の念を抱きながら恐る恐る近づいてくる。
ヴァルトは、ようやく少しずつ波の引き始めた凍てついた海へと視線を向けた。
「……コリーを封印した時点で、俺の使命はすべて終わったのだと、そう思い込んでいた」
ふっと、間を置く。
「どうやら、俺の勘違いだったらしいな」
彼は周囲にいる仲間たちの顔を、一人ずつ見つめた。
「封印は、決して終わりではなかった。……これこそが、本当の『始まり』だったのだ」
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【英雄の重荷】
ヴァルトの視線がゆっくりと天空へ、未だに激闘を繰り広げているカイとコリー・ヴァネッサの方へと向けられた。
――その刹那、カイの『本物の気配(真の存在感)』がほんの一瞬だけ表層へと浮上した。それを感じ取った瞬間、ヴァルトの全身の筋肉が鉄のように硬直した。純粋な生存本能に突き動かされるまま、彼の右手は腰の長剣の柄へと伸び――そして、完全に静止した。
彼自身の頭脳では、この現象を全く説明できなかった。カイの姿は化け物には見えない。威圧的な脅威を放っているわけでもない。
にもかかわらず、彼の魂の根源が激しく警鐘を鳴らし、絶叫していた。
(――あれには、絶対に逆らうな。関わるな)
「……あれが、ずっと海の下に佇んでいた存在の正体か」
ヴァルトが呆然と呟いた。その時、いつの間にか彼のすぐ隣にユイが静かに姿を現した。
「……貴様は、知っていたのだな」
ヴァルトの問いかけに、ユイはフッと唇の端を吊り上げて微笑んだ。
「ええ。彼がずっと手加減をしていることは、最初から把握していました」
「ずっと、か……」
ヴァルトは力なく自嘲気味に笑った。
「俺はこれまでの数百年間、あのコリーから世界を護り続けているつもりでいた。だが、最初から彼女のすぐ隣に、それ以上の『化け物』が居座っていたというわけか」
「いいえ」
ユイは優しく、だが断固としてその言葉を訂正した。
「彼は化け物などではありません」
彼女の冷徹だった表情が、かつてないほど柔らかに綻ぶ。
「――彼は、私の愛しい人です」
その言葉は、ヴァルトにとって今日知ったいかなる衝撃的な真実よりも、遥かに理解しがたく、不気味で背筋が凍るような回答だった。彼はもう一度だけ、天空のカイとコリーを見比べ、そして――ついにその長剣を完全に鞘へと収めた。
「……なるほどな。よく分かった」
彼は翻り、満身創痍の兵士たちへと向かって声を張り上げた。
「――テオレマの戦士たちよ! 我が国の戦いは、今この瞬間を以て終わりを迎えた!!」
城塞の全域から、割れんばかりの歓喜の咆哮が巻き起こる。数百年の歳月を経て初めて、ヴァルト・ホーラックスは肩の荷を下ろし、肺腑の底から深く息を吸い込むことができた。
{彼の使命は、今ここで明確に変わったのだ。もはや、この世界のすべての恐怖を一人で背負い、孤独に戦い続ける必要はない。今の彼の背後には、どれほど絶望的な戦場であっても共に立ち、支えてくれる仲間たちがいる。
(……あるいは、それこそが『勇者』という存在の、本来の在るべき姿だったのかもしれないな)
静まりゆく戦場を見つめながら、彼は心の中でそう静かに呟いた。
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【真祖の敗北】
上空。コリーはすでに、己の持ち得るすべての手段を使い果たしていた。――あらゆる血成の刃、あらゆる戦闘技術、極限の速度、無尽蔵のはずだった超回復、そして『真祖』としての絶対的な支配権。そのすべてを注ぎ込み、枯渇させていた。
対するカイの様子は、何一つとして変わっていなかった。
呼吸は正常。構えは弛緩しきっており、肌には汗の一滴すら浮かんでいない。
彼女がピタリと動きを止めると、カイもそれに合わせるようにその場に滞空した。
「……お前、最初から最後まで、ずっとそうだったのね」
コリーが絞り出すような声で言った。
「そうだった、って何がだよ?」
「――手加減よ」
カイは否定しなかった。
「どれくらい……」
彼女は尋ねる。
「どれくらい、出し惜しみしていたの?」
「さあな」
カイの唇に、薄い笑みが浮かぶ。
「……お前が満足するくらいには、かな」
コリーの両拳が、ミサミサと音を立てて強く握り締められた。ここにきて、ようやく最悪の現実が彼女の胸に突き刺さる。――これまでのすべての打ち合い、すべての波状攻撃、彼女が放った至高の奥義にいたるまで、そのどれ一つとして『本当の殺し合い(たたかい)』などではなかったのだ。
彼はただ、見ていたのだ。観察し、解析し、品定めをしていた。彼女に「この勝負は対等だ」と錯覚させながら、手のひらの上で転がしていただけに過ぎない。
彼女は自分の血にまみれた両手を見つめ、それから再びカイへと視線を戻した。
「お前……一体、本当は何者なの?」
「だから、話すと長くなるって言っただろ」
カイがやれやれと肩をすくめる。
コリーはふっと、自嘲気味に、だがどこか愛おしそうに小さく笑った。
「――なら、その話を最後まで聞けるくらいには、私も生き延びなきゃいけないみたいね」
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【真祖の服従】
「……この戦いも、随分と長引きすぎたわね」
コリーは口元の血を拭いながら呟いた。
「ああ、そうだな」
カイも同意するように、愛刀『ハルマゲドン』をゆっくりと下ろしていく。
「そろそろ終わりにしようじゃねえか。お前もそう思うだろ?」
「……奇遇ね。私も同じことを言おうとしていたわ」
カイが刀から手を離した瞬間、ハルマゲドンは虚空へと掻き消えた。
その刹那、コリーの顔から笑みが完全に消え失せた。全身の毛穴が逆立ち、かつてないほどの冷たい戦慄が彼女の肉体を駆け巡る。彼女のあらゆる生存本能が、今この瞬間に同時に絶叫していた。――『逃げろ』、と。
彼女の身体が恐怖で硬直する。
「な、に……これ……っ!?」
カイは一歩も動いていない。攻撃を仕掛けてきたわけでもない。殺意(殺気)すら一切放っていなかった。にもかかわらず、数百年もの間、彼女が一度として抱いたことのない悍ましい感情が、その胸の奥底へと絶対的な質量を持って居座った。
――本物の『恐怖』。
この瞬間まで、カイは自身の気配(存在感)をあまりにも完璧に隠蔽していたため、真祖である彼女の知覚を以てしても、己が一体『何』と戦っているのかを正しく認識できていなかったのだ。彼女はてっきり、ただの強力な存在、あるいは規格外の魔人とでも対峙しているのだと思い込んでいた。
だが、それは致命的なまでの勘違いだった。
カイがただ、自身の気配の隠蔽をやめただけ。――大爆発が起きたわけでも、闘気が噴出したわけでも、衝撃波が走ったわけでもない。彼はただ、己という『存在の格』をそのまま世界に認識させたに過ぎない。そしてコリーは、ようやく自分の目の前に立っている化け物の本質をその目で視た(スキャンした)。
常人の目に見える、ありふれた青年の姿。その内側に隠されていたのは――彼女の頭脳では到底理解の及ばない領域(閾値)をいくつも踏み越えてきた、絶対的な超越者。あらゆる種族の限界を超えて進化を遂げた、究極のハイブリッド。
――『原初竜魔王』。
コリーの瞳孔が限界まで収縮する。身体が、恐怖のあまりに彼女の命令を完全に拒絶していた。
(……私は、こんな化け物を相手に戦っていたというの……!?)
なぜ自分が一度として彼の速度に、その領域に追いつくことができなかったのか。その残酷な答えを、彼女は今、一瞬にして理解させられた。
「――終わりだ」
カイが平然と告げた。
彼女はもう、言葉を返すことすらできなかった。
カイが静かに片手を掲げる。それは彼女に向けられたものでも、攻撃の挙動でもなかった。ただ、空間の何かを掴み取るようにそっと手を伸ばしただけだ。だがその瞬間、コリーは自身の魂の最深部から、何か決定的なものが無理やり引き剥がされる感覚を味わった。
「……あ、あ、嫌……っ!」
肉体ではない。鮮血でもない。魔素でもない。それらのどれよりも根本的な、彼女の存在を定義する術式。
カイの広げられた手のひらの上に、歪な真紅の光球が形成されていく。
「……私の、身体に……何を、したの……っ!?」
彼女は激しく喘ぎながら、自身の胸を強く掻きむしった。
「大したことじゃないさ」
カイは手の中の光球を弄びながら、淡々と言い放った。その真紅の球体の内部で蠢いていたのは、彼女の究極能力の本質そのもの。
「お前の魂から、ただ『絶対転生』を抜き取ってやっただけだ」
その事実の突きつけは、これまでのどんな激しい打撃よりも深く、コリーの精神を粉砕した。『絶対転生』。それこそが、彼女が数百年の歳月を生き長らえ、たとえ『存在消滅』の概念攻撃を喰らおうとも、永久に滅びることのなかった絶対不死の根源。
それを、この男はただ棚の上の本を手に取るかのように、容易く奪い去ってみせたのだ。
「……奪った、というの……?」
彼女は信じられないといった様子で、ガタガタと震えながら囁いた。
「ああ」
カイが手を握り締めると、真紅の光球は綺麗さっぱりと掻き消えた。
「これで、もしお前が次に死ねば――お前は二度と生き返らず、そのまま死ぬことになる」
目覚めて以来初めて、コリー・ヴァネッサは本物の絶望に身を震わせた。それは脅迫によるものではない。ただ、目の前の男との間に横たわる、埋めようのない『絶望的な格の差』を完全に理解したからだ。彼は彼女を破壊する必要すら持たなかった。ただ、彼女を破壊不可能(不死)にしていた絶対の前提を、最初に根こそぎ取り除いたに過ぎない。
彼女はゆっくりと頭を垂れ、両手を力なく両脇へと下ろした。数秒の間、長い静寂が空間を満たす。
やがて、彼女の唇から、小さく、どこか引き攣ったような笑いが漏れた。
「……なるほどね。よく分かったわ」
彼女が顔を上げた時、その瞳からは先ほどまでの傲慢さは綺麗さっぱりと消失していた。
「……お前は、私と戦うためにここへ解放したわけではないのね」
「違うな」
「私に、何か求めているものがある」
「ああ、あるぜ」
「……それは何?」
カイは眼下に広がる凍てついたサファイアの海原を見下ろし、それから再び彼女へと真っ直ぐに視線を戻した。
「俺には、力のある『手駒』が必要なんだよ」
「私に、お前へ仕えろと言うのね」
「俺より弱い奴に従うつもりは毛頭ねえよ」
「……分かっているわ」
「そしてお前は、私よりも遥かに強い」
「――これで話が通じたな」
カイは満足そうに頷いた。
コリーが静かに目を閉じると、周囲の世界の喧騒が完全に遠ざかっていくのを感じた。
その瞬間、彼女の脳裏に、かつて失われたはずの『記憶の残滓』が怒涛の勢いでフラッシュバックした。――見知らぬ声。誰かの顔。ある名前。そしてまた別の、無数の光景が濁流となって押し寄せる。――存在するはずのない場所。牢獄の内部に折り畳まれた、未知の世界。一人の少年。差し伸べられた手。そして、あと一歩で思い出せそうな、愛おしい名前。
「……あ、う……っ!?」
彼女は激しい頭痛に襲われ、思わず自身の頭を両手で強く押さえ込んだ。
カイは沈黙を保ったまま、彼女の脳内で暴れ回る記憶の破片を静かに見守っていた。それは不完全で、粉々に砕け散っており、彼女の頭脳では未だ一つの形へと組み立てることのできない、いつかどこかの世界の記憶。
やがて彼女はゆっくりと両手を下ろし、本当に不思議そうに、深い困惑を宿した瞳でカイをじっと見つめた。
「……私たち、いつかどこかで、会ったことがあるかしら?」
しんと、沈黙が降りる。
「……さあな」
カイは薄く微笑み、それからふっと視線を外した。
「……あったかもしれないし、気のせいかもしれないな」
彼が何かを隠していることは、彼女にもはっきりと分かった。だが、それ以上深く追及する気にはなれなかった。
代わりに、彼女はその場に静かに腰を落とし、凍てついた蒼き氷原の上に片膝を突いた。そして、主君を仰ぐように深く頭を垂れる。
「――私は今、お前の圧倒的な『強さ』を認めるわ」
彼女は厳かに、誓いを立てるように告げた。
「……我が名はコリー・ヴァネッサ。これより、お前への絶対の服従を誓う」
頭上では、群青の空に浮かぶ蒼き月が、静かに彼らを照らし続けていた。
世界を揺るがした大戦乱は、今ここに、完全なる終結を迎えたのだ。




