エピソード64:コリ・ヴァネッサの覚醒
【深海にて】
まさにその同じ瞬間。遥か深海の底で、カイは七重に及ぶ古代の封印の、その第一層の前に立っていた。隣ではユイが完全な沈黙を保ったまま浮遊しており、結界の表面には古代の術式紋章がかすかに蠢いている。
「――解析を開始しました」
ユイが淡々と告げた。
「どれくらいかかりそうだ?」
カイが尋ねる。
「状況次第ですね」
「状況次第、って?」
「これを作った者が、どれだけ私の邪魔をしたいと考えていたかによります」
カイは思わずクスリと笑った。
「で、壊せるのか?」
「時間の問題です」
ユイの瞳が眩く輝き、彼女の知覚の中で数千もの魔法構造が次々と展開されていく。だが、その表情が次第に、これまで以上に冷徹で真剣なものへと変わっていった。
「……カイ」
「どうした?」
「この封印は、単にコリー・ヴァネッサを幽閉しているだけのものではありません」
カイの顔から笑みが消えた。
「じゃあ、他になにをしてるんだ?」
「何かを、抑え込んで(サプレス)います」
「何か、って?」
「現時点では未特定です」
ユイは慎重に言葉を続けた。
「この七つの封印は、その全てが『相互接続』されています」
カイは残りの六層の結界へと視線を巡らせた。
「ってことは、一つを壊せば残りの全てに影響が出るわけか」
「はい」
「なら、焦るなよ」
「そのつもりはありません」
ユイが応じる。
カイは再び、その古代の牢獄へと向き直った。
「――なら、確かめてみようじゃねえか。一体、当時の奴らが何をそんなに恐れていたのかをな」
ユイの視線が第一の封印へと戻る。
二人の頭上、遥か上方からは、この巨大な機構のすべてを構築した張本人が、すでに同じ闇の底へと降下を始めていた。彼らがついに相まみえた時、一体何が起きるのか――現時点では、どちらの陣営も知る由はなかった。
だが、ただ一つだけ、確実な事実があった。
あの絶対の牢獄は、もはや不可侵の聖域ではない。数百年の時を経て初めて、魔女コリー・ヴァネッサの封印へと、侵入者が足を踏み入れたのだ。
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【第七の深淵】
第一の封印は依然として輝きを放ち、その表面を、古代の術式紋章がまるで生き物のように這い回っていた。ユイは完全に意識を集中させ、これまでに遭遇したどんなものよりも遥かに古い、超古代の魔法構造を一層ずつ解体していく。
「カイ」
その声に、カイが視線を向けた。
「構造の特定を完了しました。この第一の封印は、残りの六つの結界と直接繋がっています」
「開けられそうか?」
「ええ」
「なら、そっちの解析を頼む」
ユイは彼をそっと見つめた。
「あなたは?」
カイは、自分たちの背後に広がる巨大な空間へと向き直った。
「――誰か、来てるな」
その表情には、依然として不敵な余裕が浮かんでいる。
「お前は封印に集中しろ。わざわざこんな底まで降りてきた物好きの相手は、俺がしてやる」
ユイの唇が、小さく弧を描いた。
「了解しました」
次の瞬間、カイの姿がその場から消え失せた。力任せの跳躍でも、視認できるほどの魔素の暴発でもない。まるで最初からそこに存在していなかったかのように、ただ、唐突に掻き消えたのだ。
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【勇者降臨】
ヴァルトはさらに深くへと降下を続けていた。周囲の建築様式は徐々に歪さを増し、テオレマの最古の歴史学者ですらほとんど理解できないほどの、遥か超古代の様相を呈していく。だが、彼はすべての通路を、すべての結界を、すべての隠し罠を知り尽くしていた。
――他でもない、このすべてを構築したのが自分自身だからだ。
その時、何かが急速に接近してくるのを彼は肌で察知した。自身の気配を隠そうとする意図など微塵も感じられない、堂々たる接近だった。
ヴァルトは足を止め、一拍の間を置く。そして、今度は自らその気配に向けて真っ直ぐに歩み出した。足音が反転した部屋の中に響き渡る。一歩進むごとに、前方の空間から押し寄せるプレッシャーが確実に跳ね上がっていった。
やがて、闇の向こうから一人の影が姿を現した。若い男だ。黒い髪に、どこか飄々とした、何事にも動じない不敵な表情。その腰には一振りの刀が帯びられている。
二人の男は足を止め、互いをじっと観察し合った。当然、どちらにとっても見覚えのない見知らぬ顔だった。
「……貴様が、この牢獄への侵入者か」
ヴァルトの問いかけに、カイは首を少し傾げた。
「まあ、そうなるな」
それ以上の対話は不要だった。ヴァルトは何の前触れもなく、名乗りを上げることもなく長剣を引き抜き、一閃を放った。
――ズガァァァン!
凄まじい衝撃波が部屋全体を狂わせるように駆け巡る。頭上に静止していた水の塊が激しく震え、古代の石壁が裂け、その凄まじい威力の余波に連動して、遥か奥にある七重の封印すべてが同時に明滅した。常人の戦士であれば、何が起きたのかを認識する間もなく存在ごと消滅させられているであろう、必殺の一撃。
だが、カイは微動だにしなかった。
ヴァルトの刃は、確実にカイの身体を真っ二つに切り裂いていた。
しかし、何も起きない。血の一滴すら流れない。傷口はおろか、掠り傷一つついていなかった。
ヴァルトの目が、驚愕に大きく見開かれる。
「……あ」
カイは自分の身体を貫いたままの長剣を見下ろし、それから、本当に不思議そうにヴァルトの顔を見上げた。彼はもう一度その刃を観察すると、怪訝そうに呟く。
「……今の、何か意味のある攻撃だったのか?」
ヴァルトには、返す言葉がなかった。
「それとも、何か別の狙いでも――?」
自分でも思い出せないほど長い歳月の中で初めて、ヴァルト・ホーラックスは完全に言葉を失っていた。彼の自慢の刃は、傷一つ負っていない男の肉体の真ん中に埋まったままだ。
ヴァルトは戦慄しながら、力任せに剣を引き抜いた。
(あり得ん……!)
今の一撃は牽制でも試しの技でもない。明確な殺意を込めた、確実な屠殺の一撃だ。これまでに数多の魔獣、魔人、巨竜を相手にし、致命傷から瞬時に再生する化け物どもとも渡り合ってきた。だが、これはそれらのどれとも違う。攻撃は、間違いなく完璧に『命中』していたのだ。それなのに、結果がまったく伴っていない。
「……もう終わりか?」
カイが退屈そうに尋ねる。
ヴァルトは剣の柄をさらに強く握り締めた。
「貴様、何者だ……!?」
カイの唇に、小さな、不敵な笑みが浮かぶ。
「話すと長くなるぜ」
その背後で、第一の古代封印が重低音の響きを伴って激しく振動し始めた。
――ゴォォォォン!!
二人の男の視線が、同時に奥へと向けられる。
『カイ』
部屋の奥から、ユイの透き通った声が微かに木霊してきた。
「今、相手をしてるところだ!」
カイが声を張り上げて応じる。
ヴァルトの表情が、一気に険しく苦渋に満ちたものへと変わる。
「……仲間を連れ込んでいたか」
「ああ」
「この封印を解くつもりだな」
「その予定だ」
ヴァルトは再び長剣を上段へと構えた。
「――させるわけにはいかん」
カイはその姿をしばらく見つめていたが、やがて、やれやれと言いたげに深いため息をついた。
「……悪いが、こっちにはあんまり付き合ってる時間が無いんだわ」
その瞬間、部屋全体の空気が『変質』した。
ヴァルトは、それを本能の叫びとして一瞬で察知する。全身の毛穴が逆立ち、心臓が警鐘を鳴らす。この場所に足を跨いできて以来初めて、恐るべき冷酷な現実が彼の脳裏を支配した。
(――違う。俺は、侵入者を調査しに(狩りに)来たわけではない……?)
(俺は、今……とんでもない『化け物の縄張り』に、自ら丸腰で踏み込んでしまったのか――!?)
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【ルナリス王立学園】
海上の喧騒とは無縁に、学園の日常はいつも通りのテンポで流れていた。
リンは午後の講義中、席に座ってはいたものの、黒板に書き連ねられる魔導数式は文字通り右から左へと流れていき、頭の中には全く入ってこなかった。彼女の思考は、あの広大な海での出来事――あの男、隣にいた少女、規格外の刀、そして今も言葉にできない奇妙な感覚の周りを、ただぐるぐると回り続けている。
恐怖、とは少し違う。かと言って、懐かしさ(既視感)でもない。
彼女の知るどんな言葉を以てしても言い表せない、その中間に位置する何か。
「……また、あの人たちのこと考えてるでしょ」
隣から、ソラが声を潜めて囁いてきた。
「……かもね」
「今日、一日中ずっとそんな感じだよ?」
「分かってる」
ソラは小さく笑みを浮かべた。
「本当、あの人たちが誰だったのか気になって仕方ないんだね」
「うん」
リンは窓の外へと視線を向けた。
「ただ、どうして自分がこんなに執着してるのかが、分からないの」
「いつか、分かる時が来るんじゃない?」
リンは微かに微笑んだ。
「……そうだね」
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
現れたのは王室の伝令兵であり、壇上の教官は言葉を途中で区切って動きを止めた。
「――リン・クラスメイト」
一瞬にして、教室内が静まり返る。
リンは顔を上げた。
「はい」
伝令兵は慇懃に一礼した。
「ミラベル女王陛下が、王宮にて貴殿の御引見を求めておられます。至急、同行を」
瞬く間に、教室内を騒がしい私語(ヒソヒソ話)が埋め尽くしていく。
またか。
そして今回ばかりは、リンにも呼び出された理由が全く見当がつかなかった。
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【勇者の警告】
対峙する二人の存在が放つ圧倒的な存在感に、古代の小部屋が激しく鳴動していた。
互いに微動だにしない。だが、二人の間に横たわる空気は完全に変質し、呼吸すら困難なほどに重く淀んでいる。
「貴様は、あの封印の向こうに何が眠っているのかを分かっていない」
ヴァルトは依然として長剣を上段に構えたまま、低く鋭い声で告げた。
カイは背後にそびえ立つ巨大な障壁へと視線を流す。
「なら、教えてくれよ」
ヴァルトの手元に、さらに力がこもる。
「――コリー・ヴァネッサだ」
その名が発せられた瞬間、名前そのものが質量を持ったかのように、部屋の温度が一段と急降下した。
「奴は、単なる吸血鬼などという生易しい存在ではない」
ヴァルトは言葉を続ける。努めて冷静を保とうとしているが、その声の底からは、隠しきれない焦燥がひび割れのように漏れ出していた。
「あれは、生ける天災だ。俺は、奴が自らの手で一つの魔法文明を滅ぼす様をこの目で見た。都市という都市が跡形もなく消え去り、武器すら持たない無辜の民が、ただ無差別に蹂躙されていったのだ」
彼の瞳に、かつての凄惨な記憶が過る。
「奴が敗北したのは、俺たちが奴より強かったからではない」
ヴァルトは七重の封印を見据えた。
「俺たちは、奴を倒すことすらできなかった。辛うじてできたことと言えば、あの場所に奴を封印することだけ……。そしてその封印を施すために、あまりにも多くの人間が命を落としたのだ」
カイの表情は、どこまでも平然としたままだった。
「で? 俺がそいつをこの世界に解き放つとでも思ってるのか?」
「解き放つ気だろう」
ヴァルトは長剣の切っ先を真っ直ぐにカイへと向けた。
「現に、貴様は今こうして牢獄の内部に立っている」
「決めつけが激しいな」
「入り口の封印を破ったのは事実だ」
「それがどうした?」
「残りの封印も、すべて解くつもりなのだろう」
カイはそっとユイの方へ視線をやった。
「まあ、そうだな」
ヴァルトの瞳の奥で、冷徹な殺意が爆発した。
「――ならば、これ以上進ませるわけにはいかん」
一瞬の、静寂。
言葉は、もう不要だった。
次の瞬間、ヴァルトの姿が完全に掻き消えた。
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――ズガァァァン!!
カイの目の前に突如としてヴァルトが出現し、すでにその刃は振り下ろされていた。
カイが絶妙なタイミングで首を傾げると、長剣は鼻先を掠めて虚空を切り裂く。ヴァルトは超人的な挙動で身体をひねり、間髪入れずに追撃の横薙ぎを放つが、カイは上半身を後ろに反らせて数センチの差で回避した。
三撃目――カイは軽やかなステップで横に避ける。
四撃目――今度は屈んで難なくかわす。
五撃目――そしてカイは回避を止め、ただその場に平然と直立した。
ヴァルトの必殺の刃が、カイの左肩へと真っ直ぐに叩きつけられる。
――ドゴォォォン!!
凄まじい衝撃波が小部屋の四方に吹き荒れた。だが、カイの身体は微動だにしない。一ミリの退行すら許さなかった。
ヴァルトの目が鋭く細められる。カイは自分の肩にめり込んでいるはずの長剣を冷ややかに見下ろし、それから再びヴァルトへと視線を戻した。
「……さっきよりは、マシな威力だな」
ヴァルトは即座に剣を引き抜き、さらなる猛攻を仕掛けた。先ほどを遥かに凌駕する速度――斬撃、刺突、払撃、縦一閃。長年の鍛錬によって極限まで洗練された、一糸乱れぬ剣技の連撃が空間を埋め尽くしていく。
カイはそのいくつかを紙一重でかわし、残りの数撃はあえてその身にそのまま受け止めた。一撃が胸を捉え、もう一撃が脇腹を直撃し、三撃目は彼の髪を静かに切り裂いて通り抜ける。
――だが、その全てが『無効果』だった。
(……防御をしていない!?)
ヴァルトの背筋に、どんな深手を負うよりも恐ろしい戦慄が走った。
カイは防ごうとしていない。反撃の素振りすら見せない。それどころか、腰の武器を抜く気にすらなっていないのだ。ただ、放たれた攻撃をそのまま肉体に受け流し、そしてその全てを無意味なものへと変えている。
ヴァルトは瞬時にステップを踏んで間合いを仕切り直し、その長剣の刀身へ、眩い魔導の光を纏わせた。
「――ならば、嫌でも本気を出させてやる!」
放たれた次の一撃は、空間そのものを爆発させるかのような暴威を伴っていた。あまりの衝撃に、地下牢獄の全体が激しくきしみ、震える。
だが、カイはただ静かに片手を掲げただけだった。
ヴァルトの全力の刃は、カイの広げられた手のひらに接触した瞬間、完全にその運動エネルギーを喪失して停止した。
ヴァルトの目が驚愕に大きく見開かれる。彼は力任せに剣を引き戻すと、自身の全身から『闘気』を爆発的に噴出させた。超古代の勇者としての絶大なエネルギーが二人の間の空間を支配し、巻き起こった凄まじい風圧がカイの黒髪を激しくなびかせる。
ここにきて、カイの唇に初めて本物の笑みが浮かんだ。
「……へえ。ようやく面白くなってきたじゃねえか」
ヴァルトが咆哮とともに地を蹴り、両者が正面から激突した。
――ズバァァァァン!!!
これまでにない最大の衝撃波が地下牢獄の全域を駆け巡り、古代の石壁に幾重もの亀裂が走る。頭上の浮遊する水面は狂ったように波打ち、遥か奥にある七重の封印すらもその余波で激しく明滅を繰り返した。
それほどの激闘の中にありながら、カイの様子は依然として、散歩の途中のように弛緩しきっていた。
ヴァルトの強烈な一撃を自身の前腕だけで弾き返し、続く一撃を軽々と回避。挙句の果てには、振り下ろされるヴァルトの手首を空中で容易く掴み取ってみせ、次の瞬間には興味を失ったようにあっさりとそれを手放した。
ヴァルトは数メートル後方へと跳んで着地し、荒い息を吐きながら身構える。
「……だんだん退屈になってきたな」
カイが退屈そうに呟く。
「……俺を、愚弄するか……!」
ヴァルトが歯を食いしばり、絞り出すような声で言った。
「いや」
カイは軽く首を回してコリコリと音を鳴らしながら、淡々と言い放った。
「ただ、事実を言ってるだけだぜ」
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カイは唐突に動きを止め、その視線をユイへと向けた。
彼女は依然として第一の封印の前に佇んでおり、その瞳は絶え間ない解析の光を宿して眩く輝いている。
(――ユイ)
カイが脳内で語りかけると、瞬時に彼女の透き通った声が脳裏に返ってきた。
『はい、愛しい人?』
(これ、思ったより時間がかかりそうだな。いっそのこと、全部の封印を一度に解くことはできないか?)
一瞬の、短い沈黙。
『……可能です』
(なら、やってくれ)
『ですが、七つの封印を同時に解除した場合、コリー・ヴァネッサは何の抑制も受けずに完全覚醒することになります。彼女の本来の力が、その瞬間にすべて戻るということです』
(それがどうした?)
『目覚めた直後、そのまま暴走を始める危険性があります』
カイは、すでに次の一撃を繰り出そうと構えているヴァルトに視線を走らせ、やれやれとため息をついた。
(そんなの、気にする必要ねえよ。全部まとめて解封しちまえ)
ふっと、間が空く。
『――了解しました』
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ユイは第一の結界へと向き直った。
詠唱はない。身振り手振りもない。魔術の構築すらそこには存在しなかった――彼女はただ、そこにある封印を静かに見つめた。
そして、親指と中指を軽く打ち鳴らす。
――パチン。
その瞬間、第一の封印が『存在すること』をやめた。砕け散ったわけでも、破壊されたわけでもない。まるで最初からそんなものは現実世界に存在していなかったかのように、ただ、綺麗さっぱりと消失したのだ。
ヴァルトの身体が硬直する。
「な、に……っ!?」
第二の封印が消滅した。続いて第三、第四、第五、第六。まるで世界そのものが「これらはもう不要だ」と密かに判断を下したかのように、次々と霧散していく。
「馬鹿な……」
ヴァルトは信じられないといった様子で、呆然と呟いた。
最後の一層、第七の封印だけが僅かな間をおいて残されていた。ユイはそれをじっと見つめる。
――パチン。
消滅。
小部屋の全域を、完全なる静寂が支配した。
カイはユイへと視線を向けた。
「……お前、最初からそれできたのか?」
「構造の解析をしたかったものですから」
ユイは悪びれもせず、フッと微笑んだ。
「お前なぁ……」
カイはがっくりと肩を落としてため息をついた。
その直後、空間のすべてが『変質』した。
室温が急降下していく。小部屋全体の空気が完全に静止した。ユイの顔から笑みが完全に消え去り、ヴァルトは握り締めていた長剣をゆっくりと下ろしていく。そしてカイの表情もまた、これまでにないほど冷徹で真剣なものへと引き締まった。
古代の牢獄に、ドクン、と不気味な鼓動が響き渡る。
――ドクン。
もう一回。
――ドクン。
カイのものではない。ヴァルトのものでもない。彼らの遥か後方、この牢獄の最も深い最深部から、その音は響いていた。
次の瞬間、真紅の魔力が天を突くように爆発した。圧倒的、かつ絶対的な暴威。
――ズガァァァァァン!!!
牢獄が土台から激しく揺れ動く。頭上に維持されていた水の塊が激しく爆ぜ、周囲の古代の建造物が次々と崩落を始めた。立ち込める完全なる闇すらも、その端々から血のような赤色に染まっていく。
ヴァルトは、その魔力の発生源をただ凝視していた。
「……終わった」
彼の声から、すべての力が抜け落ちていた。
「――奴が、目覚めた」
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【真祖の覚醒】
真紅の魔力が、小部屋の隅々へと一気に拡散していった。それは単なる魔素ではない。遥かに古く、悍ましい衝動。――飢餓、憎悪。数百年にわたり幽閉され続けてきた絶望の重みが、ようやく息を吹き返し、純粋な本能となって空間を支配していく。
最も深い闇の奥から、一人の影が静かに歩み出てきた。
燃えるような長い真紅の髪。不自然なほどに白く、生気のない肌。爛々と赤く輝くその瞳からは、周囲のあらゆるエネルギーを引き寄せ、喰らい尽くすかのような禍々しい闘気が立ち上っている。
――コリー・ヴァネッサが、その眼眸を開いた。
数秒の間、彼女は何も語らなかった。ただそこに佇み、数百年の時を経て初めて、深々と息を吸い込む。ゆっくりと指先を動かし、自身の身体の感覚を確かめる。彼女は自らの手を見つめ、そして――微笑んだ。静かで、どこか美しく、無垢でさえある笑み。
だが、そのすぐ足元には、悍ましいまでの狂気がべっとりと張り付いていた。
彼女は深く息を吸い込んだ。
「外の世界は……」
鈴を転がすような、柔らかな声だった。
「……まだ、存在しているのね」
彼女の笑みが、さらに深く、歪に広がっていく。
「――そして、私は自由だ」
「……コリー・ヴァネッサ」
ヴァルトが声を鋭く鋭く尖らせ、その名を呼んだ。
彼女はそちらへ顔を向け、微かに目を細める。
「……お前か」
ヴァルトは長剣を構え直した。
「俺はかつて、お前を封印した」
彼女は小首を傾げた。
「ええ。そうだったわね」
――次の瞬間、彼女の姿が掻き消えた。ヴァルトがそれを知覚する間すら与えない、絶対的な神速。
――ズガァァァン!!
彼の目の前に突如として出現したコリーの、容赦のない一撃(拳)がヴァルトの肉体を容赦なく吹き飛ばした。彼は壁を一つ、二つ、三つと突き破り、その身体は遥か彼方の闇の奥へと完全に消え去っていった。
コリーは、彼がどこへ落ちたかなど一瞥もしなかった。ただ静かに、身体を翻す。
数メートル離れた場所に、カイが立っていた。
二人の視線が、正面から交錯する。
一瞬の間、両者ともに動かない。
そして、彼女は再び掻き消えた。カイの眼前へと刹那の間に肉薄し、その拳が彼の顔面へと猛然と振り下ろされる。
だが、カイは避けない。
――ドゴォォォン!!
彼女の拳は、完全にカイの顔面を捉えていた。凄まじい衝撃波が小部屋の全域を破壊し、足元の床が派手に粉砕され、周囲の壁が次々と崩落していく。
しかし――カイの頭は、微塵も揺らいでいなかった。
コリーの目が、驚愕に丸くなる。カイは自分の顔に押し当てられたままの彼女の拳を見下ろし、それからゆっくりと彼女の瞳を凝視すると、何の前触れもなく、その細い手首をガシィッと掴み取った。
二人の周囲では、依然として牢獄の崩壊が続いている。
彼女は自分を掴んでいるカイの手を凝視し、それから、先ほどとは全く異なる笑みを浮かべた。より鋭く、より残酷な――人間ではなく、捕食者だけが浮かべる凶悪な笑み。
「――なるほど」
彼女が呟くと同時に、自由な方の手に真紅のエネルギーが収束し、形を成していく。禍々しい真紅の刃を持つ、巨大な『死神の鎌』がその場に顕現した。
カイの目が、一瞬にして鋭く細められる。
彼女は容赦なく鎌を横一文字に振るった。標的はカイの首筋だ。その瞬間、カイの右手が自身の腰へと伸び、彼の握る掌中に愛刀『ハルマゲドン』が実体化した。
この戦いにおいて、彼が初めて武器を抜いた。
それは、先ほどの勇者ヴァルトがそれを引き出したからではない。怒りに駆られたからでもない。コリーの放った一撃が、これまでの攻撃とは致命的に、根本から異なる性質を孕んでいたからだ。――それは単に力でねじ伏せるための攻撃ではなく、カイという『存在そのもの』を消滅させようとする、凶悪な一撃だった。
カイは刀を掲げ、正面からそれを迎え撃つ。
――ギィィィィィィンッ!!!
丸一秒の間、完全な膠着状態(静寂)が訪れた。
そして――。
――ズガァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
最大の衝撃波が地下牢獄の全域をズタズタに引き裂き、最深部の構造を根こそぎ破壊しながら、『太陽の涙』の海央へと突き抜けていった。
凄まじいエネルギーの奔流を浴び、深海の大海原が、頭上に向けて文字通り大爆発を起こした。
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【大海原の決壊】
上空では、海そのものが大爆発を起こしていた。
中央の水面から、天を突くほどの巨躯を誇る水柱が文字通り天空へと噴出する。真っ二つに割れていた海原が猛烈な勢いで空中へと跳ね上げられ、やがて凄まじい重力に引かれるまま、そのすべての質量が圧倒的な暴威となって海面へと叩きつけられた。
それは、あまりにも規格外の分量(質量)だった。
数百メートルにも達する巨大な質量波(津波)が、全方位に向けて狂ったように疾走を始める。『太陽の涙』はその古き境界線を容易く踏み越え、溢れ出した。一本の巨大な波がティアムーンへと、そしてもう一本の波がテオレマへと、容赦なく押し寄せていく。
両国の沿岸部では、狂ったように警戒の鐘が鳴り響いていた。繋留されていた船舶は木端微塵に引き剥がされて木の葉のように打ち上げられ、見上げる空そのものが、迫り来る巨大な水の壁の背後へと完全に消え去っていった。
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【王宮の震撼】
ミラベル女王が未だリンと共にあるその時、謁見の間の重厚な非常扉が荒々しく跳ね開けられた。王室の伝令兵が、息も絶え絶えになりながら室内へと転がり込んでくる。
「じ、女王陛下ッ!!」
「何事ですか」
「『太陽の涙』が……海原が氾濫しています! 中央海域から凄まじい衝撃波が感知され、水位が過去のあらゆる記録を塗り替えるほどに上昇しております!」
リンの目が驚愕に見開かれた。その瞬間、頑強なはずの王宮全体が不気味に鳴動し、窓の遥か向こうから――。
――ズドォォォォンッ!!
さらなる質量波が沿岸部へと激突する、凄まじい重低音が響いてきた。
ミラベルは即座にリンへと向き直った。
「リン」
「は、はい!」
「すぐに学園に戻りなさい。今すぐにです」
その声音には、一切の反論を許さない絶対的な威厳が籠められていた。
「高台へと避難し、決して海岸へは近づかないこと。教師たちの指示に従い、間違っても自分自身でこの件を調査しようなどと考えてはなりません」
「ですが――」
「リン」
ミラベルの視線が、冷徹なまでに鋭く引き締まる。
「――これはもう、単なる『調査』で済む段階ではないのです」
足元の床から、さらなる激しい震動が二人の身体を揺さぶった。ミラベルの視線が窓の外へと流れる。そこでは、遥かな水平線が、迫り来る圧倒的な水の壁の背後へとすでに消え去ろうとしていた。
「あの海の下で、何かが起きています……」
彼女は、ぽつりと静かに呟いた。
リンは消えゆく水平線をただ見つめていた。その胸の奥で、自分でも理由の分からない動悸が激しく跳ね上がっていく。何が起きているのか、その全容はまるで分からない。あの深海の底に、一体誰がいるのかすら想像もつかない。
――だが。
『太陽の涙』の遥か、遥か深き深海の底で。
カイはついに、その愛刀『ハルマゲドン』を引き抜いていた。
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【刹那の静止】
リンは走った。避難する人々でごった返す街路を、全力で疾走していく。生徒、教師、商人、貴族、平民――あらゆる身分の垣根が崩壊し、海岸線から遠ざかろうとする一つの巨大なパニックの濁流となって街を埋め尽くしていた。
「どけ! 避難所へ急げ!」
「立ち止まるな、走り続けろ!」
「近衛騎士団は何をしているんだ!?」
「こっちに来るぞ!!」
リンは必死に群衆の中を走査した。
「ソラ――っ!!」
応答はない。人々を押しのけ、何度も名前を叫びながら、彼女は学園の方へと引き返した。いつもなら生徒たちで賑わっている中庭は、今や完全にもぬけの殻となっていた。
(どこにいるの……っ!)
別の場所では、ソラもまた同じ人の波と戦っていた。
「リンッ!」
前方へと押し進みながら叫ぶ。周囲では教師たちが避難を誘導し、王宮騎士たちが群衆を安全な方向へと誘導していた。
「お願い、友達を探さなきゃいけないの!」
「お嬢さん、避難してください!」
「嫌! あの子がまだ外にいるの!」
――ドゴォォォォンッ!!
遥か遠方からの大爆発が都市全体を揺さぶった。その場にいた全員が一斉に凍り付く。ソラの視線が水平線へと弾かれた。そこには、すでに街の屋根よりも遥か高くへとせり上がった、凄まじい水の壁がそびえ立っていた。
「津波……」
青ざめたソラが、ぽつりと呟いた。
それは、誰もが想定していた以上の速度で押し寄せていた。ソラは両拳を握り締める。足元に魔素が収束し、彼女の身体の周囲に猛烈な風の螺旋が巻き起こった。
「ソラ!?」
気づいた教師が声を荒らげるが、すでに遅い。
彼女は空中へと飛び上がった。
「人の波を抜けられないなら、上から探す!」
ソラは一気に天空へと急上昇した――だが、それほど遠くへ行く前に、強い力が彼女の腕を掴んで引き止めた。
「絶対にダメだ!」
「ま、待って!」
「あんなものの前に飛び出すなど、許可できるわけがない!」
「でも、リンがまだ――!」
「分かっている! だが、あの波に巻き込まれれば、あの子を見つける前に死ぬぞ!」
騒音の嵐の中、教師はソラを抱え上げて力任せに引き離していく。ソラは無駄な抵抗を試みながら、混乱の渦中へと向かって叫び続けた。
「あの子だって避難しているはずだ!」
「でも――ッ!」
ソラは身体をひねり、混沌とした世界へ向かって悲痛な叫びを上げた。
「リン――ッッ!!」
その頃、リンは唐突にその足を完全に止めていた。
まただ。あの、海の下から感じられた圧倒的な存在感。今や誤認の余地すらないほど明確なそれが、彼女の意識を水平線へと強烈に引きつけていた。
(――あの人だ)
彼が誰なのかは知らない。誰も全容を解明したことのないあの深海の底から、なぜこれほどの暴威を誇る存在が浮上してきたのかも分からない。だが、彼女には突如として、絶対的な確信があった。自分は、それを確かめに行かなければならないのだと。
リンは一歩を踏み出し、そのまま天空へと舞い上がった。
彼女の眼下で都市がみるみる縮んでいき、逃げ惑う人々の波の向こうへ学園が消えていく。前方に目を向ければ、一秒ごとに津波がその横幅を広げていた。水平線のすべてを埋め尽くす水の山脈が、両方の王国へと同時に襲いかかろうとしている。
(これが岸に到達したら……何百万人もの人が死んじゃう……!)
彼女はさらに速度を上げ、背後に風を爆発させながら、より高く、どこまでも高く上昇した。やがて津波の最前線の真上へと到達したものの、それでもなお、その波がどこまで続いているのかの終わりすら見えなかった。
「……そんな、嘘でしょ……」
リンの口から絶望の息が漏れる。
彼女は覚悟を決め、自身の持つすべての魔力を練り上げた。
その時、彼女の目の前に『誰か』が唐突に出現した。リンは息を呑んで動きを止める。
「……あなた、は」
見間違うはずがなかった。あの海辺で男の隣にいた、あの少女だ。冷静で、エレガントで、この世の終わりを前にしても一切の動揺を見せていない。
ユイは何も語らなかった。ただ静かにリンを見つめ、それから視線を迫り来る巨大な波へと向けた。リンはその横顔を見て、背筋に冷たい戦慄が走るのを感じた。彼女は――微塵も心配などしていなかったのだ。
ユイが、そっと片手を掲げた。
――パチン。
世界が、停止した。
巨大な津波が、完全にその場に凍り付いたのだ。減速したわけでも、軌道が変わったわけでもない。ただ、運動の途中で強制的に『拘束』されたのだ。一滴一滴の水滴にいたるまでが空間に固定され、津波の全体が巨大な彫刻のように都市の頭上にそびえ立っている。
リンがゆっくりと周囲を見回した瞬間、その呼吸が止まった。
凍り付いたのは、目の前にある波だけではなかった。
視界に入る限りの『太陽の涙』の全域が、水平線の端から端まで完全に静止していた。波頭を立てたまま静止する波、山脈のようにそびえ立つ水の壁、結晶のような構造物と化して固まった細かな飛沫。――海上で起きていた嵐のすべてが一瞬にして捕らえられ、氷の聖域へと変貌していた。
海の向こう側でテオレマ王国を脅かしていたはずの波もまた、全く同じように停止している。
動くものは、何一つない。ただの一滴すらも。
リンは言葉を失った。
(……海全体を、止めたっていうの……!?)
ユイはもう一度だけリンに視線を向けると、次の瞬間には、ただそこから掻き消えていた。魔術の残滓も、光のフラッシュも、音すらない。
リンは空中を浮遊したまま、呆然と口を開けていた。今、目の前で目撃した事象のどれ一つとして、彼女の頭脳では処理しきれるものではなかった。
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【神の彫刻】
ミラベル女王は王宮の最も高いバルコニーに立ち、全軍に向けて最終避難命令を下す覚悟を決めていた。だが、まさにその瞬間、あり得ざる奇跡が眼前で起きた。
――海が、凍り付いたのだ。
傍らに控えていた研究者たちは完全に言葉を失い、そのうちの一人が測定器をゆっくりと下ろした。
「じ、女王陛下……」
「『中和結界』があるというのに」
別の者が呆然と呟く。
「こんな芸芸、絶対に不可能なはずです……っ!」
ミラベルは何も語らず、目の前に広がる凍てついた水の広大な大陸と、都市の頭上で微動だにせず静止している巨大な津波をただ見つめていた。
「……一体、誰がこれを」
彼女は、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。
応える者は誰もいなかった。知る由もなかったのだ。
海の向こう側、テオレマ王国でも全く同じ衝撃と沈黙が支配していた。
国王は自身のバルコニーに立ち、言葉を失って立ち尽くしている。本来であれば国を滅ぼしていたはずの巨大な水の壁が、崩落の途中で完全に静止していた。
「こ、国王陛下……」
一人の魔導士が、震える声で辛うじて言葉を紡ぐ。
「……何が起きたのだ」
「分かりません……」
「ティアムーンの仕業か?」
「いえ! 魔力波形が奴らの記録されているいかなるものとも一致しません!」
国王は再び、静止した海原へと視線を戻した。
「ならば、一体誰が――」
その問いに答える声は、どこからも返ってこなかった。




