エピソード63:太陽の涙
一般のダイバーなら到底到達できない、遥か深海。
カイとユイの二人は、闇の底へと果てしなく続く古代の通路を、ひたすらに下っていた。頭上からはるか遠く、水面から差し込んでいた光など、とっくの昔に闇へと呑み込まれている。
「――最深部に近づいています」
ユイが静かに告げた。
「ここ、どれくらい古い場所なんだ?」
「極めて」
「極めて、ってどれくらいだよ?」
問いかけると、ユイの瞳がかすかに輝き、答えを求めて周囲を走査する。
「正確な年代の特定は不可能です」
カイは片方の眉を上げた。
「お前でもわからないのか?」
「使われている建材が、記録されている魔法文明の大部分よりも古い大昔のものです」
「ってことは、これを作った奴はとんでもねえ古代の存在ってわけか」
「はい」
二人はさらに奥へと進む。すると、ユイが唐突に足を止めた。
「カイ。前方に何かが存在します」
見つめる闇の先で、空間がかすかに歪んだ。ユイが片手をかざし、薄い魔力の波動を放つ。その瞬間、周囲の壁が陽炎のように揺らめき、巨大な隠し小部屋が姿を現した。二人のあらゆる感覚を以てしても、それまでは「そこに存在すらしていない」状態だった場所だ。
カイは不敵に笑う。
「見つけたぜ」
ユイがその構造体に歩み寄る。
「空間固定によって封印されていますね」
「開けられそうか?」
「当然です」
ユイの瞳の奥で、膨大な演算の奔流が駆け巡る。ロックの構造を一層ずつ解析していく彼女だったが、その表情が次第に、本物の真剣なものへと変わっていった。
「……これは、尋常ではありません」
「古代の技術か?」
「非常に。七次元の暗号化が施されています」
「七次元?」
「それすら外殻の構造に過ぎません。その下に組み込まれている術式自体は、さらに骨董品です」
ユイの唇の端に、小さな、だが本物の笑みが浮かぶ。
「――興味深いですね」
彼女の周囲に魔導の紋章が咲き乱れ、空間の錠が激しく震え始めた。
パリィン。第一層が砕ける。
パリィン。さらに、もう一層。
パリィン。
構造体の全体が眩い光を放ち、そして――。
――ズドォン!
空間ロックが完全に霧散し、漆黒の闇へと通じる巨大な扉が、その口を開けた。
カイが先頭を切って踏み込み、ユイがそのすぐ後ろに続く。だが、敷居を跨いだ瞬間、二人は同時に動きを止めた。
「……は?」
カイが呆然と声を漏らす。
その部屋の中は、完全に『反転』していた。床が頭上にあり、天井が足元にある。それどころか、頭上には巨大な水の塊が浮遊しており、一滴たりとも落ちてこない。まるで、この場所には最初から重力の概念など存在しないかのようだった。
「興味深い」
ユイがじっと観察しながら呟く。
「……お前、これを見て『興味深い』で済ませるのかよ」
「ええ、とても」
カイはため息をついた。
「つまり、俺たちが今立ってるのが、本当は天井ってわけか」
「現在の私たちの座標認識からすれば、そうなります」
「じゃあ、あの水は?」
「この部屋自体が、意図的に維持しています」
「なら、ちょっと厄介だな」
「私たちの座標認識を反転させる必要があります」
ユイがそう言うと、手本を示すように彼女の身体がゆっくりと回転し、さっきまで天井だった場所にその足が着地した。カイもそれに倣う。二人が着地した場所こそが、この部屋の本来の「床」であり、浮遊していた水は今や、正しく二人の頭上に佇んでいる。
「よし、この方がしっくりくるな」
歩みを進めると、古代の空間に二人の足音が響き渡る。奥へ進むにつれ、空気はみるみる冷たくなっていった。
そして、ついに『それ』が姿を現した。
部屋の最奥に鎮座する、巨大な古代の構造物。それを囲んでいるのは、一つや二つではない。実に『七重』もの結界だった。その一つひとつが全く異なる性質を持ち、一瞥しただけでは測りきれないほどの絶大な魔力を孕んでいる。
カイが足を止めた。
「……あそこが、あいつの牢獄か」
「はい」
ユイもその七層の結界を見つめる。
「七つの封印、か」
「七つ、です」
「壊せそうか?」
「解析は可能です」
ユイは第一層の結界へと近づく。
「ですが、これらは並の障壁ではありません。これを構築した者は、現代の魔法が完全に忘却した『概念』を理解しています」
カイは愛刀『ハルマゲドン』の柄にそっと手をかけた。
「なら、じっくり時間をかけろ」
「そのつもりです」
ユイの言葉に、カイはニヤリと笑う。
「上等だ」
二人は最初の古代の封印を前に、並んで立った。決して焦りはない。この牢獄に足を踏み込んで以来、あのユイが初めて、目の前の作業に対して本物の、極めて慎重な真剣さを見せているのだから。
――そして。
七重の結界のさらに向こう、人類の歴史を遥かに超える悠久の時を待ち続けてきた『何か』が、二人の到来を確かに感じ取っていた。
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『太陽の涙』と呼ばれる果てしない水面の上で、王室の調査船が静かに佇んでいた。午後の陽光が、見渡す限りの大海原に反射して眩しくきらめいている。
甲板の端で、リンは一人静かに佇んでいた。背後では、数人の研究者たちが相変わらず熱い議論を交わしており、聞くともなしにその声が耳に届いてくる。
「彼女の魔素は、あの『中和結界』の干渉を一切受けていないのだ」
「分かっている」
「生まれつき、結界を無効化する特殊な耐性でも備わっているのではないか?」
「それだけでは、他者の魔法まで安定化させた説明がつかないだろう」
「自身のエネルギーを直接譲渡している、とか」
「そんな芸芸、不可能なはずだ」
リンは肩越しに、そっと後ろを振り返った。
「……あの、私の噂話はもう終わりにしていいですか?」
研究者たちは一瞬で静まり返った。そのうちの一人がバツが悪そうに咳払いをする。
「……すまない、失礼した」
リンは小さくため息をついた。
そこへ、女王ミラベルが歩み寄ってくる。
「リン」
「はい、女王陛下」
「あなたを学園に戻すことに決めました」
リンは目を丸くした。
「本当、ですか?」
「ええ」
ミラベルの視線が、遥かな海へと向けられる。
「あなたがなぜ結界の無効化特性を受けないのか、未だ理由は判明していません。ですが、全容が解明されるまでは、あなたを明確な脅威として扱う理由もないでしょう」
「……ありがとうございます」
ミラベルは、なおも値踏みするような視線でリンをしばらく見つめた。
「もう一つ。今後またあなたの身に何か異常が起きたなら――すぐに学園の教師たちに報告しなさい」
「はい、そうします」
「よろしい」
女王は控えていた騎士たちに向き直る。
「この者を学園まで送り届けなさい」
リンは深く一礼した。
「感謝いたします、女王陛下」
そう言って、その場を離れようと歩き出す。だが、階段へと辿り着く前に、再びミラベルの声が彼女を引き止めた。
「リン」
足を止め、振り返る。
「はい?」
ミラベルは真っ直ぐにリンの瞳を射抜いた。
「海を割ったあの男には、もう一人、少女が同行していたと言いましたね」
「はい」
「彼らから、何か話しかけられでもしたのですか?」
「いえ、何も」
「彼らは、あなたがそこにいると気づいていましたか?」
問いかけに、リンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
あの時の記憶が、脳裏に鮮明に蘇る。あの距離、そして自分たちの気配を完全に遮断していたはずの隠蔽を突き抜けて、あの男が確実にこちらを視線で捉えていたという、肌を刺すような奇妙な確信。
「私は……」
口を開きかけ、リンはその言葉を飲み込んだ。
「……よく、分かりません」
ミラベルはその僅かな躊躇を見逃さなかったが、それ以上深く追及することはしなかった。
「……そうですか。下がりなさい」
リンは静かにその場を後にした。
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教室の扉が開いた瞬間、中にいた全員の視線が一斉にリンへと注がれた。
ソラは半ば座席から飛び出すようにして駆け寄ってきた。
「リン! 一体何があったの!?」
「女王陛下にいくつか質問をされただけだよ」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
クラスメイトたちは、到底納得がいかないといった様子でリンを凝視している。
「それだけだって?」と、ある生徒が囁いた。
「てっきり逮捕でもされるのかと思ってたぜ」と、別の生徒が隣の友人に小声で漏らす。
ソラが猛然と振り返った。
「なんでリンが逮捕されなきゃいけないのよ!?」
「知るかよ。もしかしたら、あいつが裏で『太陽の涙』をぶっ壊したんじゃないかって話だよ」
「私はソラと一緒にいた」
リンは抑揚のない声で事実を告げた。
「そうさ! お前ならソラを言いくるめて手伝わせることだってできたはずだろ」
ソラの目がピクリと引き攣った。
「あんた、本当にバカね」
数人の生徒からどっと笑いが起きる。それを見て、リンも思わず笑みをこぼしていた。あの海での出来事以来、ずっと胸の奥に閊えていた重苦しい緊張が、ようやく少しずつ解けていくのを感じた。
リンが席に着くと、隣のソラが顔をぐっと近づけて密やかに囁いた。
「で、実際のところ女王陛下には何を聞かれたの?」
「大体は、あの海のこと」
リンも声を潜めて応じる。
「それから?」
「私の魔法について、混乱しているみたい」
ソラはニィッと笑った。
「ま、当然よね」
「どういう意味?」
「だって、リンって昔からどこか変だもん」
リンはジト目でソラを見つめた。
「……褒め言葉として受け取っておくね」
「もちろん、良い意味よ!」
リンが小さく吹き出した、まさにそのタイミングで教官が教室に入ってきた。
「全員、席に着け」
その声を合図に、教室はいつものありふれた日常のテンポへと戻っていった――少なくとも、今のところは。
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『太陽の涙』の遥か彼方、テオレマ王国の王宮に、けたたましく鐘の音が響き渡った。
玉座に鎮座する国王のもとへ、兵士と研究者たちが雪崩を打って入室する。そのうちの一人が、即座に片膝を突いた。
「国王陛下!」
「報告せよ」
「――例の異変、確認が取れました」
「深刻度は」
「『太陽の涙』が割れました」
研究者は生唾を飲み込み、震える声で続けた。
「何者かの手によって、海に巨大な亀裂が刻まれたのです。中心部から、両国の沿岸に向けて真っ直ぐに……」
国王が勢いよく立ち上がった。
「ティアムーン側にか?」
「はい」
「そして、我がテオレマ側にもか?」
「は、はい」
国王は傍らに控える大臣たちへと鋭い視線を向けた。
「『中和結界』は破損したのか?」
「いえ……」
後に続いた沈黙は、どんな言葉よりも重く室内にのしかかった。
「結界は完全に、正常稼働を維持しております」
研究者がその事実を肯定した。
「ならば、どうやって海を割ったというのだ?」
「それが……我々にも見当がつきません」
「魔力の痕跡は検知されなかったのか?」
「検知はされました。しかし、それが誰の魔力なのか、特定には至っておりません」
国王はゆっくりと、再び玉座へと腰を沈めた。
「……海を調査せよ。それと、ティアムーンの動向も探るのだ」
一人の大臣が、驚いたように顔を上げた。
「奴らの仕業だと、糾弾なさるのですか?」
「いや」
国王は首を振った。
「まだその段階ではない」
彼の視線が、玉座の背後に掲げられた巨大な海図へと注がれる。
「まずは外交使節団を派遣しろ。奴らが何を掴んでいるのか、探りを入れるのだ」
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数時間後、テオレマの調査船が問題の海域へと到達した。研究者たちは、結界に向けて次々と検証用の術式を展開していく。
――フッ。
放たれた魔術は、事前の予想通り完全に掻き消された。
「やはり、正常に機能しているな」
一人の研究者がそれを確認した。
「だが、何かがここを通過したのは間違いのない事実だ」
筆頭研究者が、深く暗い海の底を指差しながら言った。
「水面の下に、微かな歪みの残滓が感知できる」
その言葉に、他の面々が不安げに視線を交わし合った。
「まさか……あの『牢獄』そのものが破損したとでも?」
筆頭研究者の表情が、一瞬にして険しく引き締まる。
「――確認する必要があるな」
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翌日、使節団はティアムーン王国へと到着し、女王ミラベル自らが彼らを謁見の間に迎え入れた。
「ミラベル女王陛下」
筆頭外交官が慇懃に一礼する。
「テオレマ国王陛下より、親愛なる挨拶を預かってまいりました」
「歓迎いたします」
外交官は居住まいを正した。
「早速ですが、我々は『太陽の涙』の件で参りました。我が国の研究者が確認したところ、『中和結界』は健在。それにもかかわらず、何者かが海の中央に巨大な亀裂を生じさせました」
「我が国でも同様の結論に達しています」
ミラベルは声音一つ変えず、淡々と応じた。
「原因については、何か掴めましたか?」
一瞬の沈黙。
「いいえ、未だに」
それが、彼女の選んだ回答だった。
「何ひとつ、ですか?」
「引き続き、調査を進めている段階です」
「では、あの学園については?」
「彼らからも観測データの提出を受けています」
「異変を直接目撃した者はいるのですか?」
「数名ほど」
「それは誰で?」
「学園の生徒、および関係者です」
「犯人の特定には至ったのでしょうか?」
「いいえ」
嘘は言っていない。ただ、すべての真実を明かしていないだけだ。ミラベルには、十一歳の少女を国際問題の渦中に放り込むつもりなど毛頭なかった。
外交官は手元の書面を閉じ、深く頭を下げた。
「我が国としても、引き続き独自の調査を続行いたします」
「ええ、構いません」
使節団が退室していくのをミラベルは見送り、背後の重厚な扉が完全に閉まった瞬間、その毅然とした表情にようやく僅かな亀裂が走った。
「――ヴァルト」
誰もいない空間に向けて、ぽつりと、静かにその名を呟く。
まさにあの海の底に、魔女『コリー・ヴァネッサ』を封印した伝説の勇者。
今、あの深海で何が起きようとしているのか。それを理解できる生きた人間がいるとすれば、世界で彼をおいて他にはいなかった。
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古代の石造りの通路に、静かな足音が響き渡っていた。
一人の男が、これまでに幾度となくこの道を歩んできたかのような、迷いのない確かな足取りで進んでいく。身にまとった鎧は古びているが、細部まで入念に手入れが行き届いていた。腰には一振りの長剣が帯びられており、その表情は極めて冷静だ。だが、その瞳の奥には、端正な顔立ちからは想像もつかないほどの、凄まじい経験の重みが宿っていた。
――ヴァルト・ホーラックス。
彼が王宮の謁見の間に足を踏み入ると、国王が即座に顔を上げた。
「ヴァルトか」
「国王陛下」
ヴァルトは静かに一礼した。
「例の件は、既に聞いているな」
「ええ」
「お前に、あの『牢獄』の様子を見てきてもらいたいのだ」
ヴァルトの目が、わずかに細められた。
「封印の、確認ですか」
「そうだ」
「最後に誰もが立ち入ってから、どれほどの歳月が流れたとお考えで?」
「……もう、何年にもなる」
ヴァルトは一瞬だけ沈黙を保った後、すぐさま扉の方へと身体を翻した。
「……行ってまいります」
国王は驚いたように目を見開いた。
「今すぐにか?」
「あの牢獄は、尋常な場所ではありません」
ヴァルトは長剣の柄にそっと手を添えながら言った。
「あの『七重の封印』を構築したのは、この俺自身だ」
彼は宮殿の窓の向こう、遥か彼方に広がる海へと視線を向けた。
「もしもあの場所に、何者かが侵入したのだとすれば――俺がこの目で確かめる必要があります」
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ヴァルトの調査船が問題の海域に到達した頃には、太陽はすでに西の空へと傾きつつあった。
甲板へと歩み出た彼は、ただ長い間、じっと海を見つめていた。穏やかで、何の乱れもない水面。計器が示す『中和結界』の数値も、完全に正常稼働している。
「ヴァルト勇者殿。我々の測定器を見る限り、表面の結界に一切の損傷は見られませんが……」
一人の研究者がそう声をかけた。
だが、ヴァルトは答えなかった。彼は静かに目を閉じると、自身のあらゆる知覚――魔力、精神、気配、そして空間認識――をどこまでも拡張させていく。意識の糸を水の底へと伸ばし、深く、深く、さらに深く、深海へと沈めていった。
そして、その目がカッと見開かれる。
「……勇者殿?」
彼の表情の変化に気づき、研究者が恐る恐る尋ねた。
ヴァルトは最初、何も言葉を発しなかった。だが、今の彼にははっきりと感知できていた。魔女コリー自身の気配ではない。だが、何者かが確実にあの『牢獄』へと足を踏み入れている。数百年前、彼がこの手で構築したはずの外殻結界を、誰かが突破したのだ。
ヴァルトは静かに長剣を引き抜いた。
「一体、何があったのですか!?」
研究者が詰め寄る。
「入り口の封印が」
ヴァルトは海面を見据えたまま、低く重い声で告げた。
「――破られている」
「破られた、ですって!?」
「本国(中枢)の牢獄は未だ封印されたままだ」
彼は視線を微塵も動かさず、言葉を続ける。
「だが――中に、誰かがいる」




