エピソード62:奇妙な轟音
それからの数日間は、アカデミーにとっていつも通りのありふれたリズムで流れていった。
授業、訓練、食事、夕食の頃には笑い話に変わっているような小さな口論。そのどれもが平凡で、特別でも何でもない日常。二人の少女にとって、そんな毎日に疑問を抱く理由など、どこを探しても見当たらなかったのだ。
だが、ある日の午後、授業の最中に突如として教室全体が激しく揺れ動いた。
ドォォォォォォンッ!!!
窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げ、何人かの生徒が思わず悲鳴を上げた。「な、何よ今の!?」「地震!?」「一体何が起きてるの!?」
「諸君、落ち着きなさい!」
教官が即座に立ち上がり、声を張り上げる。
生徒たちが一斉に窓際に群がっていく中、リンは少し遅れて席を立ち、外の景色に目を向けた。
だが、そこには何もなかった。建造物は傷一つなく無傷のままで、庭園の木々も微動だにしていない。嵐の気配もなければ、目に見える異常は何一つとして実在していなかった。世界はただ、ほんの数秒前とまったく同じ姿でそこに佇んでいる。
ソラが彼女の隣に駆け寄ってきた。「……妙ね、今の」
「ええ」
リンは低く呟いた。その手のひらは、自らの意志とは関係なく、ごく自然に自分の胸元へと真っ直ぐに当てられていた。
何かが、決定的に違っていた。それを言葉でうまく説明することはできなかったわけだが、ただ、気の遠くなるほど遥か彼方の座標において――何かが、目覚めた(リブートした)ような、そんな不気味な感覚だけが確かに胸の奥に刻まれていた。
学園の偉い方々は、それから一時間もしないうちにこの一件を単なる気の迷い(バグ)として処理してしまった。敵襲のデータもなく、地殻変動の兆候もなし。記録には何一つ残されぬまま、日常は何事もなかったかのようにいつものペースへと戻っていった。
放課後、リンとソラの二人は、一週間前から計画していた買い物の実務をこなすために街へと繰り出した。賑わう市場の通りをすり抜けながら、ソラは絶対に必要のないアクセサリーを次々と試着しては、「これ、今の私には絶対に必要不可欠なインフラなのよ!」と大声で主張している。いや、本当に。あいつの物欲を見ていると、さっきの不穏な地響きなどただの気のせいに思えてくるから不思議なのだ。
しばらくの間、すべては完全に元通りの、平穏な日常に戻ったかのように見えた。
――だが、リンが唐突にその足をピタリと止めた。
後ろを歩いていたソラが、あやうくその背中に衝突しかける。「ちょっと、リン?」
リンは答えない。ただじっと、地平線の彼方の座標を見つめ続けていた。
あの感覚だ。また、這い寄ってきた。
今度は、さっきよりも遥かにデタラメな質量を伴って。
「……何、この魔力」彼女が低く呟く。
ソラの見せていた日常の軽薄さは、その一言で一瞬にしてデリートされた。「……魔力って、何のことよ?」
「分からない。だけど、何かが私を呼んでいるわ」
彼女はそのまま歩き出し、後ろからソラが呼びかける声にも足を止めなかった。街の賑やかなインフラが背後へと遠ざかり、やがて視界が開けた先には――広大な海岸線が広がっていた。ティアムーン王国と、あのテオレマ王国とを隔てる、果てなき大海原。
通称――【太陽の涙】。
リンは波打ち際の座標で足を止め、どこまでもキラキラと輝く広大な海面を見つめていた。
「リン……」ソラが慎重に、探るようなトーンで声をかける。「あんた、もしかしてあの海の大真ん中のことを言ってるわけ?」
リンは、静かに頷いた。
「引き返すべきよ。あんた、あそこに何が封印されているか知ってるでしょ?」
「『コリー・ヴァネッサ(Corri Vanessa)』……」リンが極小の声で、その名を言語化した。
「そう、あの呪われた吸血鬼よ」ソラがその事実のログを肯定する。「まさにこの海の底に、絶対の檻にハメ殺されて完全封印されている。だからこそ、この海はそんな不穏な名前で呼ばれているのよ」
彼女が指し示した水平線の彼方。その遥か深海の奥底において、肉眼でもはっきりと視認できるほど、淡く美しい、しかし悠久なる魔力の光が、静かに、かつ厳かに脈打っていた。
リンはその輝きを長い間じっと観察していたが、やがてポツリと言った。「あの魔力の本質が何なのかは分からない。だけどね、あれは……私の内に眠る魔力と、驚くほど完璧に同じ波長を弾き出している気がするのよ」
「だからこそ、今すぐエスケープ(撤退)すべきだって言ってるのよ!」ソラが本気で顔を引きつらせる。
リンは、その口元に微かな笑みを浮かべた。「万が一不手際が起きたら、その時は二人で空を飛んで一瞬で帰ってくればいいじゃない」
「……お世辞にも安心できる解答じゃないわね」ソラはブツブツと毒づいたが、それでも浮遊魔法を起動させて天空へと舞い上がったリンの背中に、ごく自然に随行した。
二人が海を渡り、その絶対座標へと近づけば近づくほど、リンの胸を締め付ける引き寄せる力(引力)は右肩上がりに強大化していった。――だがその最中、突如としてソラの維持していた浮遊魔導のインフラが完全にきしみ始め、あいつの身体が空中でガタガタと墜落しかけた。
「リン……ッ!」
リンは一瞬にしてその身体を抱きとめ、完全ホールドした。「……この海ね」
彼女は眼下の海水を見つめ、瞬時にそのバグの構造を完璧に言語化した。――この海面に触れたすべての魔力そのものが、システム的に強制相殺され、最初からなかったことへと解体されているのだ。その不可視のデバフ領域は、上空の大気にまで右肩上がりに侵食を広げている。
「……まだ、前へ進める?」リンが尋ねる。
「無理よ。魔力の流通が完全にストップさせられかけてるわ」
リンは、そっとソラの背中に手のひらを当てた。彼女の体内から、高純度の純粋な魔力奔流がパスを繋いでダイレクトに逆流し、次の瞬間には、ソラの乱れていた魔力経路は傷一つないセーフな状態へと完全復元された。ソラは驚愕にその瞳を丸くする。「あんた……何事もなかったかのように、自分の魔力を他人に上書き(譲渡)できるわけ?」
「……みたいね」
「あんた、本当に正真正銘のバケモノ(規格外)ね」ソラは呆気にとられて呟いたが、その言葉には深い信頼の数値が刻まれていた。
リンは、これまで学園の小テストでも一度だって最大出力で試したことのない隠密魔導技――【完全隠蔽】を最大解放。二頭の魔力波形や存在のサインを世界の常識から完全にデリート(消滅)させると、そのまま静かに海の中央スロットへと進路を維持した。
そして、リンが再び動きを止めた。後ろのソラが、またしてもあやうく衝突しかける。
「――あそこよ」リンが指を指した。
遥か前方の海面の上空に、二頭の人影が直立して静止していた。――一人の男、そしてその隣に並び立つ一人の女。どちらも微動だにせず、ただそこに佇んでいる。
リンは本能のままに自らの知覚を尖らせ、その男の宿す魔力の全容をスキャン(解析)しようと試みた。
――だが、その実務は、たったの一秒と持たずに強制終了させられた。
彼女は息を詰まらせて全力で自らの知覚をシャットダウンし、一歩後方へと退却した。彼女の胸の奥底が、一瞬にして絶対零度の恐怖へと凍りついたからだ。あいつの放っていたプレッシャーの格付け( tier )は、彼女の脳内データにあるいかなる常識を以てしても、到底演算することすら不可能な、正真正銘の『世界の終焉(天災)』そのものだった。
隣のソラにいたっては、ただその絶対的なプレッシャーの端に触れただけで、魂のインフラがフリーズしかけて空中で崩壊(墜落)しかけていた。「り、リン……っ」
リンは即座にあいつの肉体を抱きとめた。「落ち着きなさい(システムを維持せよ)」
「何よ……あいつら、一体どこの化け物よ……」ソラは息を切らせてガタガタと震える。
「分からない」リンは低く呟き、そしてマークした。その二頭の直立している真下の深海――そこに実在する、あの巨大な【吸血鬼の封印陣】の輝きを。
ソラの目が、恐怖に大きく見開かれる。「リン……あいつら、あの封印の座標を狙ってるわ」
「――あの檻(結界)を力任せに抉じ開けて、あいつを世界に完全リブート(解放)するつもりよ」リンが静かに囁いた。
「……間違いないわね」
その瞬間、天空に直立していたあの男が、何の急ぎもない手際で、一振りの日本刀を静かに引き抜いた。そして、それを、ごく軽く一閃させた。――ほんの、一ミクロンの戦闘モーション。
――シャズッ!!!
次の瞬間、目の前に広がっていた果てなき大海原が、水平線の彼方から彼方へと、完全に真っ二つに両断された。左右へと引き裂かれた数百万トンの海水は、巨大な二界の防壁となって天空へと聳え立ち、そのまま世界の常識を無視して空間へと完全停止(固定)させられたのだ。日常の物理法則など、その一太刀の前に一瞬にして木っ端微塵に粉砕されていた。
二人の少女は、ただ言葉を失ってその大惨事(絶景)を凝視するしかなかった。
男は静かにその刃を下げた。あいつと隣の女は、そのままゆっくりと、切り裂かれた深海への進軍ラインへと降下を開始。あいつらの両足は海面へと着地し――そして、何の手応え(ノイズ)もなくそのまま海水の内部へとすり抜けて、ただ静かに消えていった。まるで、水という物質そのものが、最初からあいつらの実在を『検知しない(逆らわない)』と合意でもしているかのように。
「あいつら……」リンが言葉を紡ぎかけ。
ソラがガッチリとその腕を掴んで引っ張った。「――もう十分よ! 実務ログは完全に回収したわ!」
「ええ、同感よ」
「今すぐアカデミーへ帰還して、最高幹部会(教官たち)へ緊急レポートを上書きするわよ!」
リンは、ソラに腕を引かれながら、最後にもう一度だけその深海の絶対座標へと視線をロックオンした。二頭の少女が全力の飛行インフラで海岸線へと敗走(撤退)していく背後で、切り裂かれていた【太陽の涙】の大海原は、何事もなかったかのように再び元の静かな日常へと滑らかに閉じていき――。
学園の公式な調査隊が現地へと這い寄ってくる頃には、そこにはただの一一片のバグ(乱れ)すら実在しない、完璧に平穏な日常の海だけが広がっているはずだった。
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人工海面下の深層
カイとゆいの二人は、切り裂かれた海水の進軍ラインを滑らかに降下し、海底の岩盤そのものを、まるでただの薄い霧であるかのように何の手応えもなくすり抜けていった。
その両足が、地下の絶対領域(確固たる大地)へと着地したまさにその刹那、ゆいの美しい瞳がピキリと鋭くきらめいた。
「……カイ様、見られていましたね」
「ああ、知ってるよ」
カイは何の急ぎもない手際で、ただ平然と言い捨ててそのまま前へと足を進めた。
「どこのどいつですか?」
彼の口元に、クスリと楽しげな笑みが浮かんだ。
「――俺の、実の妹さ」
ゆいのすべての動きが、一瞬にしてピタリと停止した。「……リン、様」
「ああ」
彼女は即座に、空間の隙間に僅かに遺されていた魔力の残渣(時空残響)へと自らの知覚を走らせ、素早くデータ照合を行った。
「おかしいですね。この海域全体をハメ殺しているはずのあの【魔力相殺領域】は、一介の生命体の魔導インフラを根こそぎ強制解除する仕様(黄金律)になっていたはずですが」
「それが、あいつには通用しなかったんだよ」カイが淡々と告げる。
「それどころか、あの子……あの大デバフ空間の中に直立したまま、他人に自らの魔力をダイレクトに上書き(譲渡)して延命させてますよ」
ゆいは自らの脳内スキャンが弾き出したそのデタラメな実戦データを見つめ、お世辞にも呆れ果てたような、しかし心からの賞賛のノイズを声音に混ぜて言葉を重ねた。
カイの不敵な笑みが、さらに一段と深いものへと更新される。
「……本当に、あんたにそっくりなバケモノ(規格外)ね」ゆいがジト目を向けた。
彼は一度足を止め、ゆっくりと、すでに二頭の少女が敗走(撤退)していった遥か頭上の水面の座標へと、その冷徹な視線を向けた。
「……ああ」
カイは低く、どこまでも優しい声音で呟いた。
「――あいつはね、俺の自慢の妹だからな」
この時の二人は、まだ微塵も言語化(理解)していなかった。
偶然目にしてしまったこのたったの一瞬の交錯――実の兄という実在ログを一度だって正当に認知したことのない少女が、魂の深層に刻まれた古い残響に突き動かされて這い寄ってきたその一事実こそが、世界によって永久消滅させられていたはずの過酷な前世の因縁を、再びこの現実世界へと力づくで引きずり戻すための、正真正銘の『最初の絶対の糸(日常のバグ)』になるということを。
だが、現時点において、リンの脳内インフラにはまだ何のデータも登録されてはいなかった。
そして、カイの側のチェス盤(段取り)としても、今すぐその日常を強制上書き(変更)してやるつもりなど、ただの一ミクロンも持ち合わせてはいなかったのだ。
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緊急報告
リンとソラの二人がルナリス王立アカデミーへと帰還を果たした頃には、太陽はすでに地平線の彼方へと沈みかけていた。
帰りの飛行中、二人の間に言葉はほとんどなかった。ソラは何度も不安そうにリンの横顔を盗み見ていたわけだが、当のリンは不気味なほどに沈黙を貫いていたのだ。彼女の頭の中は、未だにあの【太陽の涙】のど真ん中で目撃した絶望的な光景に完全に囚われたままだった。――あの常識外れの圧倒的なプレッシャー、世界の法則を無視した不条理な一本の刀、そして水平線の彼方から彼方へと大海原が一瞬にして真っ二つに切り裂かれた、あの決定的な瞬間。
思い出すんじゃない、と自分に言い聞かせるわけだが、そんな抵抗は一瞬にして掻き消され、ただただ無駄に終わるのだった。
二人がアカデミーの敷地内へと着地した瞬間、ソラが即座にリンの手をガッチリと掴んだ。
「行きましょう、リン。今すぐ誰かにこのことを報告しなきゃダメよ」
「……ええ、そうね」
二人は息を切らせながら、学園の最高幹部たちが集まる管理棟へと猛ダッシュで足を走らせた。
案内された学園長室にいたのは、中年のベテラン高級教官だった。二人の口から次々と紡ぎ出される常識外れの目撃談を聞くにつれ、彼女の表情は「信じられない」という戸惑いから、深刻な警戒の色へと変化していった。
「……つまり、あんたたちの言い分をまともに受け止めるなら」
教官はゆっくりと、持っていたペンをデスクへと置いた。
「あの【太陽の涙】の大海原が、力任せに抉じ開けられて真っ二つに両断されていた、と言うのかい?」
「水平線の端から端まで、完璧に真っ二つよ!」ソラが必死になって言葉を重ねる。
「引いては寄せる波の隙間を、二人の人物が降下していった、と」
「はい、そうです」
「それは、飛行魔法を使っての移動かい?」
「いいえ」リンが、冷淡にその可能性を否定した。
教官は不気味に眉をひそめた。「……なら、一体どうやって?」
リンはほんの一瞬だけ言葉を濁したが、覚悟を決めてその全容を口にした。
「あいつら……ただ、普通に水の中を歩いて行ったのよ」
部屋全体が、一瞬にして完璧な死の静寂へと包まれた。教官はじっと辛抱強く、二人の少女の様子を注意深く見つめていたわけだが、やがてはぁと深いため息を漏らすと、デスクの上の通信結晶へと手を伸ばした。
「……これはもう、一介のアカデミーだけで処理できるような、そんな生温い出来事じゃないわね」
結晶に魔力がパチリと流され、その緊急メッセージは、学園の通信網を一瞬で飛び越えて、ティアムーン王国の王宮の最高幹部会へとダイレクトに強制転送されたのだった。
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王宮最高幹部会
報告書が玉座の間へと届けられたその刹那、クイーン・ミラベルの美貌が一瞬にして冷徹に研ぎ澄まされた。
「――【太陽の涙】だと?」
「はっ、その通りでございます、女王陛下」宮廷魔導師が深々と頭を下げ、冷や汗を流しながら肯定する。「ルナリスアカデミーの二名の生徒が、何者かが海面を割り、そのまま直接深海へと潜入していったのを目撃したと主張しております」
「潜入、だと?」
「海面を割って、そのまま、にございます」
「……それで、あの【魔力相殺領域】はどうなっていた?」
「あいつらの報告データに拠るならば、結界は間違いなく、当時も完全に稼働状態だったとのことです」
ミラベルは椅子の背もたれに深く寄りかかり、その脳内インフラをフル稼働させて思考を巡らせた。
「……ならば、その生徒たちがただのバグ(見間違い)を起こしているか、あるいは――どこのどいつかが、あの絶対の結界を無条件でバイパス(突破)する最悪の手順を見つけ出したか、そのどちらかというわけね」
会議室全体が、一瞬にして完璧な死の静寂へとハメ殺された。
【太陽の涙】の全域を囲むあの魔力相殺のデバフ領域は、何世代にもわたってこの国の絶対的な天然の防壁として機能し続けてきたのだ。ティアムーン王国が誇る最高峰の宮廷魔導師どもが束になって挑もうが、ただの一ミクロンも侵食することの叶わなかった、正真正銘の絶対不可侵ルール。
彼女は、静かにその場に立ち上がった。
「――直ちに、極秘の『特別調査隊』を結成させなさい。今すぐ現地へ派遣し、事態の全容をクローズするのよ」
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翌朝、特別調査隊の魔導師たちと聖騎士たちを乗せた宮廷の軍艦が、静かに【太陽の涙】の海へと滑り出していった。
一人の魔導師が、まずは手始めに周囲の索敵魔法を起動させたわけだが、その術式は海面に接触した瞬間に、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消滅したのだ。
「――間違いない。相殺結界は完全に生きているな」
彼は目を見開き、冷や汗を流しながら呟いた。
もう一人の魔導師が、テストとして極小の攻撃魔導の弾丸を海面に向けて放ってみる。
シュウゥゥゥ……。
当然の結果だった。水刃を交えるまでもなく、その魔力は海に触れた瞬間に完全に強制解除されて霧散する。
「予想通り、結界のインフラは完璧に維持されています。綻び一つ実在しませんよ」
「……だったら一体どうやって、あのアカデミーの生徒どもは『誰かが海に入っていった』なんてデタラメを目撃したって言うんだ?」
一人の聖騎士が、怪訝そうに眉をひそめて尋ねた。
だが、誰からもまともな解答は返ってこなかった。彼らはそこから数時間、自らの持てるすべての技術を尽くして、あらゆる角度から検証の実務を繰り返した。海面に浮かべた特設の魔導プラットフォームからのアプローチ、何十種類もの術式パターンの検証。だが、そのすべてが同じ絶対的な防壁の前に、ただの一ミクロンも通用せずに弾き返されるだけだった。
弱点なし。結界の隙間もゼロ。
十一歳の一介の少女たちが、自らの瞳で目撃したと主張する不条理なイベントを説明できるデータなど、この海のどこを探しても見当たらなかったのだ。
そう――ただ一つだけの『例外』を除いては。
その少女の名は、リン。
世界中がその本当の理由を知らぬまま、この絶対の海で唯一、世界の常識を無視して機能していた、その特異点の正体に、彼らはまだ誰も気づいてはいなかったのだ。
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あれから数日が過ぎ、学園はいつもの日常を取り戻しつつあった。
講義に出て、訓練をして……。そんな、いつもと変わらない退屈なルーティン。
だが、あの『海での事件』だけは別だった。
尾ひれはひれが付きまくった噂話が、日に日にエスカレートしているのだ。
曰く、現れたのは悪魔だ。曰く、目覚めた神の仕業だ。果ては、海が丸ごと消滅して秘密裏に作り直された、なんてバカげた話まで飛び出す始末。
――いやいや、さすがに盛りすぎだろ。
私はそんな噂を完全にスルーし、いつも通りに授業を受けていた。
……そう、ある日の放課後、教室の扉がなんの前触れもなく、勢いよく開かれるまでは。
――ガチャンッ!
鎧が擦れ合う、重苦しい金属音。
一瞬にして、教室中の視線が入り口へと釘付けになり、静まり返る。
そこに立っていたのは、威圧感を放つ『近衛騎士』たちだった。
「――リン」
先頭の騎士が、まっすぐに私を見据えて声を上げる。
「はい?」
私が顔を上げると、騎士は感情の失せた声で告げた。
「女王陛下がお呼びだ。同行せよ」
その瞬間、教室中がハチの巣をつついたような騒ぎになった。
(え? なんであいつが?)
(何やらかしたんだよ?)
(ほら、やっぱりあいつ、最初から怪しかったじゃん。もしかして、あの海の事件の犯人って……)
おいおい、勝手なこと言ってくれるじゃん。
周囲のヒソヒソ声が耳に刺さる中、ソラがガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。
「そんなの、絶対におかしいです!」
「じゃあ、なんで女王陛下がわざわざ呼び出すんだよ?」
「……これ、普通に処刑とかのパターンじゃない?」
誰かがボソッと呟いた不吉なワードに、私は思わずパチクリと瞬きをしてしまった。
……しょ、処刑? 私が??
いやいや、マジで意味が分からないんだけど!
私の混乱をよそに、騎士は表情一つ変えずに促してくる。
「……参りましょう」
「待って、私も行く――」
ソラが前に出ようとするが、騎士の鋭い視線に遮られた。
「女王陛下のご指名は、リン殿お一人だ」
強い口調に、ソラもそれ以上は言葉を続けられない。
私は小さくため息をつき、ゆっくりと席を立った。
教室中の視線が痛いほど突き刺さる。心配そうな顔、疑いの目を向ける奴。中には、この大惨事を特等席で楽しそうに眺めている不届き者までいる。
(……私、本当に何もしてないんだけどなぁ)
心の中で盛大に愚痴をこぼしながら、私はスクールバッグを肩にかけた。
「ちょっと行ってくるね」
「……気をつけて」
ソラの引きつった声に見送られながら、私は重苦しい足取りの騎士たちの後ろへと続いた。
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玉座の間へと足を踏み入れた瞬間、その圧倒的なスケール感に呑まれそうになった。
私は失礼のないよう、女王から少し離れた位置で足を止め、綺麗に一礼する。
「女王陛下、お呼びにより参上いたしました」
玉座に鎮座する女王、ミラベルが、品定めをするかのような長い視線を私に向けてきた。
「……そなたが、リンか」
「はい」
「『太陽の涙』の件については、すでに耳に届いている」
「私は、ただ自分が目撃した事実を報告したまでです」
「ならば、その目で見たものを、もう一度正確に私に語れ」
促されるまま、私はあの日の出来事を順を追って説明した。
異常な変化を見せた海、あの時に感じた奇妙な感覚、ソラの魔法を完全に無効化した『魔力相殺領域』、そして……海の上に浮かんでいた二つの人影。
「男が、剣を構えたのです」
「……それで?」
「剣を一振りしただけで、海が割れました」
どう表現すればこの異常さが伝わるか、私は少し言葉を吟味する。
「爆発のようなものではありません。ただ、水が……自然と二つに引き裂かれたのです」
私の言葉を聞き、ミラベルは玉座の傍らに控えていた研究者と視線を交わした。
その顔には、隠しきれない驚愕の色が浮かんでいる。
「そなた自身も、その海へと近づいたそうだな」
「はい」
「なぜだ?」
「何が起きているのか、この目で確かめたかったからです」
「……では、その場に展開されていた『魔力相殺領域』はどうした?」
「私には、まったく影響がありませんでした」
その瞬間、ミラベルの身体がびくりと揺れ、身を乗り出してきた。
「……説明せよ。どういうことだ?」
「どうしてと言われましても、私にも理由は分かりません」
「そなたの魔法は、かき消されなかったというのか?」
「はい」
「魔力回路は? 身体への異常は?」
私は首を横に振る。
「何も。全く、何の変化も起きませんでした」
ミラベルは、射抜くような鋭い視線で私をじっと見つめ続けた。
沈黙がその場を支配し、やがて彼女は小さく息を吐き出す。
「……ならば、証明してみせよ」
「ここで、ですか?」
「まさか。ここではない」
女王陛下はゆっくりと玉座から立ち上がり、冷徹な笑みを浮かべた。
「これより、『太陽の涙』へと向かうぞ」
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女王陛下の御召艦は、真っ青な大海原を滑るように進んでいた。
私は船首に立ち、その隣にはミラベル女王。背後には、物々しい雰囲気をまとった近衛騎士団、血相を変えた研究者連中、そして学園の代表者たちがずらりと並んでいる。
午後の柔らかな光を浴びて、美しく穏やかに広がる海。だが、その静寂の底に何が隠されているのか、表面からは微塵も窺い知ることはできない。
「――飛びなさい」
ミラベル女王の冷徹な声が響く。
私は一歩前に出ると、足の裏に意識を集中させ、魔力を練り上げた。
――フワッ。
心地よい浮遊感とともに、私の身体がまっすぐに浮き上がる。
足が甲板を離れた瞬間、背後で研究者たちが一斉に『観測魔導具』を起動させる気配がした。
高く、さらに高く。私はそのまま、問題の海域の真上へと到達し、宙に留まった。
……が、何も起きない。
私の『飛行魔法』は、乱れることもなく完全に安定したままだ。
「――な、馬鹿なッ!?」
手元の魔導具を凝視していた研究者の一人が、驚愕のあまり声を裏返らせた。
「領域は間違いなくアクティブです! 最大出力で展開されています!」
「ならばなぜ、彼女の魔法は霧散しないのだ!?」
ざわつく甲板から、ミラベル女王が上空の私を見上げて声を張る。
「リン、降りてきなさい」
言われた通り、私はゆっくりと下降し、甲板へと着地した。
足が床についた瞬間、待ってましたと言わんばかりに研究者たちが私を包囲する。
「お、お嬢さん、ちょっと手を前に出してくれ!」
促されるままに手を差し出す。
一人の研究者が放った小さな探知魔法が、海からの影響を受けた途端に一瞬でパッと消滅した。――しかし、その魔法が私自身の身体に触れた瞬間、何事もなかったかのように綺麗に霧散したのだ。相殺されたのではなく、ただ消えた。
「完全に無効化している……。影響を一切受けていないぞ」
研究者は、信じられないものを見る目で手元の計測器を見つめている。
すると、別の研究者がひどく困惑した、どこか怯えるような低い声で口を開いた。
「女王陛下……本当に奇妙なのはここからです。彼女は、この領域の力を『力ずくでねじ伏せている』わけではありません」
「……では、どういうことだ?」
ミラベル女王の問いに、研究者は冷や汗を流しながら首を振った。
「分かりません。ただ……この領域のシステムそのものが、彼女の魔力を『相殺すべき対象』として認識すらしていない。そんな植え付けられた理の枠外にいるとしか……」
その言葉を聞いたミラベル女王の表情が、一気に険しくなった。
その鋭い視線が、じっと私に注がれる。
……いや、そんな大層な顔で睨まれても困るんだけど。
周りの連中がやたらと深刻な顔で大騒ぎしている意味が、私にはさっぱり分からなかった。私からすれば、ただ生まれつきの体質か何かっぽいな、くらいの感覚でしかないのだ。完全に温度差が酷い。
「……女王陛下?」
私の呼びかけに、ミラベル女王は長い沈黙を返した。
ただじっと、何か恐ろしいものでも見るかのように私を見つめ、やがて、重々しく口を開く。
「――面舵一杯。引き返すぞ」




