第59話:カイ・ゼロ
そして、このエピソードをもって、偽りの現実は終わりを迎える。さあ、ここからは真なる現実におけるカイの物語を見ていこう。
「なるほど、ならば話が早くて助かります」
世界がハメ殺されたかのような絶対の静寂が、ズタズタに引き裂かれた固有結界『テアティラ(Thyatire)』の残骸を四方から圧迫していた。風の音声ログもなく、音のデータすら実在しない。かつてカイと共に血を流し、戦い、そして限界突破の進化を遂げたはずの小林家の面々は、システム的にすでに存在しないはずの『刹那の檻』の中で、息を吸うモーションのまま完全にフリーズさせられていた。
ただ一頭、その見知らぬ男だけが、時間の流通ルートを無視して悠然と動いていた。
あいつの顔は、一分の狂いもなく完璧にカイと同じデータを弾き出していた。似ているなんて生温いシロモノじゃない――目の形、顎のライン、直立している際のごく自然な佇まいに至るまで、正真正銘『自分自身』の鏡写しだった。それでありながら、あいつの身に纏うプレッシャーの格付け( tier )は、カイがこれまでのサバイバルで遭遇してきたどんな魔王や真竜とも完全に別次元に実在しており、崩壊した人工の天空さえも、あいつの前では『描きかけの不完全なスケッチ(バグ)』に見えてしまうほどの絶対的な絶対の質量。
「……お前は、どこのどいつだ?」
カイは自らの聲音のトーンを一定に保ちながら問い詰めた。内心のパニックを、力技でネゲートしながら。
「あんたは、すでにその『答え(ソース)』を知っているはずだよ」
見知らぬ自分自身は、クスクスと面白そうに笑った。
「いいえ、知らないな。脳内データには存在しない出来事だ」
「なら、今から完璧に言語化してあげるさ」
「聞こうじゃないか」カイはジト目を向けた。
「俺はあんただよ」その男は至極平然と言い放った。「ただし、ここに直立しているあんたじゃない。別の時間軸の果てから滑落してきた、もう一人のあんたさ」
カイは答えない。だが、あいつの言葉が脳内インポートされるより前に、胸の奥底にある冷徹な確信がすでに一つの最悪のエラーログを弾き出していた。
(もう一人の、ハルト……)
カイの胸のインフラが、限界までギュッと締め付けられる。「小林ハルト、か……」
「そうだ」あいつの悠久なる漆黒の瞳の奥に、どこか哀れむような、優しい光が微かに瞬いた。「俺の個体名も『カイ』。だがな、外の世界の有象無象どもは、俺のことを別の格付け(称号)で呼ぶんだよねぇ」
一瞬の、世界のすべてをハメ殺すほどの決定的な間。
「――【創造神】、とね」
(嘘だろ……。あいつも前世であの人生を歩んでたのか。あいつの魂の履歴もハルトだったわけだ。ケンジの野郎に撥ね殺されて、俺と全く同じ段取りで異世界へと転生して……)
(……で、そのクソみたいな無限ループの果てに、あいつはこんな正真正銘の『世界の頂点』に登り詰めやがったのかよ)
『カイ・ゼロ』は、自らの歩んできた凄まじい物語の全容を、何の感情のノイズも交えずに淡々と開示(朗読)していった。それはまるで、とっくの昔に興味の失せたただの歴史の事実データを読み上げるかのような、冷徹な実務の手際だった。
あいつの世界線における【神話戦争】。それは、自らの前世の両親を惨殺しろと水面下で絶対コマンドを下した張本人が、当時その世界を統治していた絶対神であるという最悪のバグ(真実)を突き止めたことから始まったのだという。そして、あいつが最初の絶対神の首を力任せに獲ったその刹那、あいつの魂の中にある黄金律が完璧に書き換わった。――神であれ何であれ、正しい手順(実務)を尽くせば無条件で殺害できる、と。奴らの宿す絶対権限(権能)は、力づくで略奪し、自らの生体インフラへとそっくりそのまま上書きできるのだ、と。
だから、あいつはただひたすらに、その捕食の日常を拡大し続けた。原初の悪魔、原初の精霊、魔神王、魔王たちの陣営、さらには陰陽術師団の全インフラに至るまで――かつては自らの手下として従えていた世界の最高峰のバケモノどものすべてを、最後には自らのソウルへと残さず根こそぎ強制吸収して消滅させた。そのタイムラインの現実世界のどこを探しても、あいつの前に直立して生存しきれるデータなど、ただの一件も残されなくなるその瞬間まで。
自らが創り上げた世界の、正真正銘の唯一無二の絶対統治者。
……だが、そんなデタラメな神の領域に達してなお、あいつの飢餓感はクローズしなかった。
あいつはその後、自らのシステム権限を使って、他の並行世界の境界線をハッキング(観測)し始めたのだ。――無数の、別の小林ハルト。無数の、別のカイ・コバヤシ。知覚できるあらゆる並行世界の次元の隙間に、あの東京の雨の路上で同じようにケンジに撥ね殺され、同じように生まれ変わった、無数の『自分の映し鏡』が散らばっているのを目撃したのだ。
そしてあいつは、激しい恐怖に魂の芯をカチカチに硬直させた。――もし、別の世界線の自分が、自らと同じように世界の神々を惨殺して最上位 tier に登り詰め、この絶対神の玉座を強奪しに這い寄ってきたらどうする、と。その不気味なバグに対する恐怖の数値が、あいつの精神インフラに永続的なパラノイアを刻み込んだ。
だから、あいつは『狩り(ハント)』を始めたのだ。すべてのバージョン。すべてのタイムライン。すべてのマルチバース。すべての並行世界。すべての並行次元。あいつは別のハルトたちが異世界へと転生を果たす前の赤ん坊の段階、あるいはそれ以前の因果関係の先へと先回りし、その実在証明を一瞬にして世界の常識から根こそぎ完全消滅させ、あいつらの存在ログを少しでも宿している周囲の住人たちの記憶を、ただの一ミクロンも残さず強制書き換え(改ざん)し続けた。悠久の歴史のすべてが、水面下であいつの手によって綺麗にアンメイキング(解体)されていったのだ。あいつはすべてのタイムラインに実在していた別の【創造神】たちを一人残らず血祭りにあげ、その出力を自らのソウルへと貪り喰らい続けた。
(……あいつ、自分以外の『ハルト』という存在を、世界から完全に一人残らず消し去りたかったわけか)
カイの胸の内に、強烈な吐き気(拒絶反応)の数値が弾き出された。
(唯一のハルト。唯一のカイ。世界のすべての次元において、自分だけが絶対神として直立し続ける、そんなイカれた独占インフラのためにさ)
「……で、次は俺の番(実務)ってわけか」俺は低く、冷淡に言い放った。
「本来なら、あんたのデータもとっくの昔に消去されているはずだったのさ」カイ・ゼロは淡々と首を振った。「俺はこの世界線を支配していたかつての絶対神を殺害し、その権能をインポートした。……そして、あんたの生存データをマークしたんだ」
「だけど、俺を殺すことはできなかった」
「――ああ、そうだ」
その瞬間、あいつの悠久なる絶対の表情に、生涯で初めて明確な『計算外』のノイズが微かに走った。それは怒りなんて生温いものではない、完璧に構築された自らのシステムが、爪の先ほども通用しなかったことに対する、本物の化け物特有の不気味な焦燥。
「……俺がどれほどの絶対コマンドを流そうとも、どんな神の消滅術式を執行しようともね。あんたの存在証明だけは、一ミクロンも世界から消し去ることが叶わなかった。常識の上書きも、肉体の強制解体も、システムはすべて『処理不能』として弾き出しやがったんだよ」
「……なぜだ?」カイが尋ねる。
カイ・ゼロの冷徹な視線が、わずかに、カイの脳内インフラのほうへと向けられた。
「――【虚無無意識】。他のタイムラインのどの私も、ただの一度だって宿したことのない、正真正銘の『システム外の不条理』。俺があんたのソウルに向けて消滅のリーチを奔らせるたび、その脳内インフラが瞬時に適応し、相殺し、あんたの肉体データを無条件で完全再生し続けやがったのさ」
あいつは一度言葉を切り、さらに声を低くした。
「……で、俺はここでようやく完璧に言語化した。俺の構築したこの世界大戦のチェス盤の内部において、あんたをどれほど物理的に殺害したところで、何の意味もない、とね。――そんなことをすれば、ただあんたの魂を、この世界の檻のシステムから『完全解放(解き放つ)』するだけの最悪の不手際になるからさ」
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「だからお前は、別の『器』を急造したわけね」
カイの脳内インフラが、求めたくない解答の全容を、最悪の進捗速度で完璧に言語化した。
「――『監獄』さ」カイ・ゼロがそれを肯定した。
「あんたの肉体をハメ殺すための檻じゃない。あんたの『実存在』そのものを世界の常識から完全に隔離するための絶対インフラだ。俺はあんたを本来のタイムライン(前世)から強制排出した。――だがな、あの世界を破壊したわけじゃないぞ」
「……破壊してない、だと?」
「ああ。あんたのいた元の世界は、今でも正当に実在している。日本も、東京の街並みもそのまま日常を繋いでいるさ。あんたの知っていた凡俗な人間どもも、今この瞬間、何事もなかったかのようにそれぞれの人生を消費している。……俺はただ、そのインフラから『あんたというデータ』だけを、ごく自然に引き抜いた(パージした)だけさ」
その言葉の質量は、この世界大戦を通じて彼が喰らってきたどの真竜の最大出力よりも、遥かに重苦しく、致命的なダメージとなって彼の魂へと着弾した。
(……俺の世界は、まだあそこにある。世界のどこかの座標に、傷一つないセーフな状態で実在してるんだ。俺の知らない日常としてさ……)
「だったら、このデタラメな世界のすべては何なんだよ!?」
カイは、周囲に広がる無残な廃墟の更地を指差して叫んだ。
「俺が今まで何年もかけて必死に生き抜いてきたこの年月(日常)は、一体どこの何なんだよ!?」
「――【記憶の監獄】」
カイ・ゼロが、冷徹にそのシステム名を言語化した。
「あんた一頭をシステムエラーなく格納するためだけに完全オーダーメイドされた、急造の現実さ。あんたの物語はね、ケンジの野郎に撥ね殺されたあの夜の座標から、俺のプログラミングによって再起動させられたんだよ。すべての詳細データ――魔力の属性、進化のシステム要件、魔王種の発芽に必要な『一万五千年』という不条理な時間設定に至るまで、あんたが真実のログに近づきすぎたり、格付け( tier )が強大化しすぎたりして、檻の許容量をオーバーフローさせそうになるたびに、俺が裏からせっせと書き換え、調整し続けてきたのさ。……この世界の常識に、天然のモノ(自然のルール)なんて最初からただの一パーツも実在しちゃいないんだよ。すべてはね、あんたの物語を『俺の望む通りの結末(形)』へエスコートするためだけに、意図的に仕組まれたインフラだったのさ」
すべての常識。俺がこれまで血の滲むようなサバイバルの末に学び、最適化してきたこの世界の絶対法則。――そのすべてが、自分が従順な家畜であり続けるために急造された、ただの『日常のフリをした檻』だったのだ。いや、本当に。
「それなのに、あんたはどこまでも狂ったように適応し続けやがった」
カイ・ゼロの聲音の裏側に、どこか本物の賞賛(賞賛)に似た不気味なノイズが混ざり始める。
「……俺がどれほど変数を書き換えてもね。やがて、ただの調整レベルじゃ、あんたの実在を隔離しきれない限界数値が訪れたのさ」
「……お姉ちゃん(ひまり)、か」カイは、すでにその本当の図式を完璧に理解していた。
「俺のタイムライン(前世)にも、実の姉が実在していたからね」カイ・ゼロが淡々と白状する。
「俺は彼女のすべてを知っていた。――その性格、弟に対する絶対的な信仰(愛情)、彼女を構成するすべてのアイデンティティ(データ)を。だから俺は、あんたの監獄の内部に、全く同じ『映し鏡』を物質化した。時空の制御権。本物の意識。本物の感情。……そして、本物の『愛情』をね。カイ、これだけは正確に言語化(理解)させてあげるけれど、彼女はあんたの前で、ただの一秒だって『おままごと(演技)』なんかしてなかったぞ。ただの一度だってね」
その瞬間、カイの胸の奥底にある『小林ハルトとしての心』が、音を立てて完全に真っ二つに決壊した。
「彼女自身、何も気づいていなかったのさ」カイ・ゼロは静かに言った。
「前任のデータも、現在のデータもね。彼女はね、ただ純粋に、自分が最愛の弟を救い出すために命を懸けているんだと、そう百パーセント信じ込んでリロード(時間跳躍)を繰り返していた。……その想いは、正真正銘の本物だったよ。ただ彼女はね、そもそもなぜ自らのソウルに、そこまでの狂おしい『愛情の初期ステータス』がシステムから無条件で付与されていたのか、その本当の理由を、生涯一ミリも理解していなかったけれどね」
(お姉ちゃんは、死んだんだ。何千回、何万回、数百万回も。……自分が誰であったのかという記憶さえも根こそぎドブに捨ててまで、俺を生存させるために、ただひたすらに死に続けてくれたんだ。――お前が、そういうシステム(段取り)として彼女を創り上げたからさ……)
(……だけど、あの涙も、あの温もりも、すべては本物だった。あいつにとっては、一秒一秒が間違いなく、命を懸けるに値する本物の日常だったんだ……!)
「彼女が絶望して諦めかけ(全滅しかけ)そうになるたびに」カイ・ゼロの冷徹な声が響く。
「……俺が裏から手を回して、歴史を微調整してやった。なぜなら、もし彼女がその歩みを完全にストップ(クローズ)させてしまったら、あんたはシステム的に死亡(完全消滅)してしまうからだ。――あんたの死。それはすなわち、この記憶の監獄からの『完全なる自由』を意味していたからね」
カイは、その何もない更地のド真ん中で、ただ不動の姿勢で直立していた。
だが、彼の足元の空間から、バキバキと凄まじいエラーの亀裂が這い出始めていた。その亀裂は一瞬にして天空へ、聳え立つ山脈の残骸へ、この世界を構成するすべての境界線へと爆発的に伝播(侵食)していく。ほんの数分前まで、前世の幼少期の思い出よりも遥かに『本物の日常』だと信じ込んでいたそのすべての景色が、ただの硝子細工のように崩壊し始めていたのだ。
(【記憶の監獄】が、完全崩壊を起こし始めてるのか……。俺の引きちぎったリミッターは、結界『テアティラ』を更地にしたんじゃない。この世界を丸ごとハメ殺していた、あの神の封印そのものを木っ端微塵に粉砕しやがったんだわ)
「……今お前が口にしたその不条理な物語」カイは低く、掠れた声を響かせた。「……俺が素直にYES(承認)とでも思っているのか?」
「承認しようが、拒絶しようが、そんなこと知ったこっちゃないさ」カイ・ゼロは、崩壊していく自らの創り上げた偽物の世界を、ただの indifferent (無関心)な死んだ魚の目で眺めながら言った。「……これが、世界の動かぬ真実だ。あんたをここから完全に排出させる前に、この一事実だけは正確に言語化してやりたかった。ただ、それだけさ」
「……じゃあ、俺がこの世界で出会ったすべての仲間たちは」
カイの声は、もうまともに一定のトーン(数値)を維持できていなかった。ガタガタと激しく震える。
「……俺の隣で、共に血を流して戦ってくれたあいつらは。俺が……失ってきた、あのみんなのデータは……!」
彼は、その先にある絶望の言葉を、最後まで正当に紡ぎきることができなかった。
「――最初から、世界に実在(存在)してなかったって言うのかよ……!?」
「――いや、実在している(生存データはある)さ」カイ・ゼロが冷淡にその言葉を遮った。「……正真正銘、本物の『現実世界』のどこかの座標にな。――ただ、この場所(檻の中)にはいなかった。それだけだ」
「だったら、俺がその本物の世界へ行って、あいつらを検索(見つけ出して)みせる――」
「――無駄だよ、論外だ」カイ・ゼロが、冷徹にその希望を一刀両断にクローズ(デリート)させた。「……あいつらの脳内インフラには、あんたのデータ(思い出)なんて、最初からただの一ミクロンも実在(登録)されちゃいないんだからな。あんたが這い寄ったところで、奴らはね、あんたのことをただの見知らぬバケモノ(他人)として冷ややかに見返すだけさ。完璧に、ね」
カイは長い、長い間、ただの一言も発することができなかった。
これまでに自分が背負い、一生かけても絶対に手放さないと誓ってきた、あの愛おしい名前の数々が、一瞬にして絶対的な絶望の大波となって彼のソウルを蹂躙していく。――エリス。エレーン。ドラン。フェンリック。エルフの長老夫婦に、あの健気だった娘。
自分が愛し、失い、共に創り上げてきたあの温かいホライズンクレストの日常のすべてが、最初から、自分を一頭の飼い慣らされた家畜としてハメ殺しておくためだけに急造された、ただの『偽物のインフラ』だったのだ。
(だけど……あいつらは確かに本物だった。俺の心にとっては、間違いなく、命を懸けて生きるに値する本物の日常だったんだ。……世界のどこかで、あいつらが今も日常を繋いでいて、俺の存在なんて一ミリも知らないままであったとしてもな)
彼はゆっくりと、その【漆黒】に染まりきった瞳を上げ、目の前の絶対神を真っ直ぐに射抜いた。
「……お前の元へ、殴り込み(処刑に)行ってやるよ」カイは静かに言い放った。
「……へえ。やれるものなら、やってみなよ」カイ・ゼロは平然と肩をすくめた。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!
カイの全身から放たれた【無】のオーラが、怒りの限界数値を完全にデリートし、絶対零度の純粋なる『滅殺の意志』となって世界へとフレア(爆発)した。
「――いつか絶対に、その最高額の対価(負債)を、お前のソウルに根こそぎ支払わせてやる。……俺をハメ殺すために殺害してきた、あの数え切れないほどの別の俺たちのために。……そして、お前がお姉ちゃん(ひまり)の日常に仕掛けた、あの最悪の理不尽のすべてをなッ!!!」
世界の創造主【創造神】は、その絶望の宣戦布告を、長い長い間じっと見つめ返し――。
「……いいだろう。その実務の進捗、脳内データ(記憶)にきっちりと登録(ログ保存)しておくさ」
あいつがそう呟いた瞬間、この【記憶の監獄】を構成していたすべての偽物の世界、すべての境界線、すべての現実の残骸が、音を立ててバキバキに木っ端微塵に爆散し――。
そして、彼らの世界は、正真正銘の『本物の現実世界』へと完全に強制シャットダウン(クローズ)されたのだった。
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【記憶の監獄】は、爆発を起こさなかった。彼が正当に悲しみ、悼むことのできるような、わかりやすい破片となって木っ端微塵に砕け散ることもなかった。それはただ、唐突に――消滅したのだ。戦場も、シミズ帝国も、【無限星雲虚無世界】も。これまでのすべての戦争と、悲劇と、血の滲むような日常の勝利が一瞬にして一枚の虚無へと畳み込まれ、カイの存在もまた、その質量と共にどこかへと強制排出された。
彼が再びその瞳を開いたのは、これまでの生涯において一度だって直立したことのない、未開の山の頂だった。
戦場など、どこにも実在しない。魔王たちの陣営もいない。人工的に急造され、主の呼吸に合わせて息をひそめていた、あの偽物の世界のプレッシャーなどただの一片も残されてはいなかった。
異なる天空。異なる風の音声ログ。
かつて自分が『我が家(日常)』とレッテルを貼って愛してきたすべての場所にこびり付いていた、あの独特な重苦しさがただの一ミクロンも混ざっていない、正真正銘の、本物の大気がそこには広がっていた。
(……これか。これが、正真正銘の『本物の現実世界』なわけね)
彼は長い間、その絶対的な静寂の中にただ直立し、カイ・ゼロから突きつけられたすべての不条理な真実を、自らの脳内インフラへと静かに同期(処理)させていった。――すべての喪失。すべての名前。自らを従順な家畜としてハメ殺しておくためだけに急造された日常のために、一体どれほど膨大な実務時間(年月)を支払わされてきたのか、その全容を。
(……そんなこと、今更どうでもいい出来事だろ。いや、本当に)
彼は、最後に冷徹に思考を巡らせた。
(偽物の世界だろうが、急造されたインフラだろうがさ。――俺がみんなを心から愛していたというその一 facts (事実)だけは、最初からただの一秒だって嘘なんかじゃなかったんだからな。他のすべてが神のプログラミング(偽物)であったとしてもさ)
彼の全身から、自らの意志に反して【無】のオーラが静かに外の世界へと這い出し始めた。腰のスロットに佩いた神話級魔剣ハルマゲドンが、主の殺気と同調するようにして微かに共鳴を起こす。
「……ヌル(虚無無意識)」俺は静かに、脳内に語りかけた。
《了解。――すでに、対象個体の絶対的な魔力波形をマーク(検知)しています》
脳内のナビゲーション・インフラは、主が決定(言語化)するよりも早く、完璧にその次の先読み(アンサー)を弾き出していた。
「……誰のデータだ?」
《個体名――【混沌竜】》
カイの口元に、小さく、しかし心からの本物の笑みがリロード(復元)された。
「よし。それじゃあ、この本物の世界において、あいつが一体どんな本当の姿をしてるのか、ちょっと直々に挨拶(お世話)に行ってやるとするか」
《――告知》脳内のシステムが、極めて慎重に、冷徹な注意書き(ノート)を脳内インターフェースへと展開した。《当該の現実世界において遭遇するすべての個体――記憶の監獄の中で出会った身内ども――の脳内システムには、あなたのデータ(思い出)はただの一件としてログ保存(記憶)されていません。無条件で『他人』として処理されます》
カイは一瞬だけ沈黙し、次いで言った。
「……分かっているさ。問題ない」
彼は長い間、地平線の彼方の座標をじっと見つめ続けていたが、やがて脳内インフラにある『一つの思いつき』がカチリと組み上がった。
「……なぁ、ヌル」
《何でしょうか、主?》
「……お前に、新しく『名前』を授けてやるシステム(命名)って、技術的に可能なのかな?」
その瞬間、カイの記憶にある限り、脳内の虚無無意識が初めて完璧な沈黙に陥った。コンマ数秒の日常の実務時間が、ただ静かに流れていく。
《……あなたがそれを望まれるのであれば、システム上、拒絶する理由はありません》
カイは微笑んだ。胸の奥底を未だに重苦しくハメ殺していた絶望の数値が、その瞬間、温かい日常のバフによって完璧に強制相殺されていくのを感じていた。
「だったら、今この瞬間から――」
彼は、自分が赤ん坊として目覚めたあの未開の山から今日この瞬間に至るまで、自らのすべての日常を水面下で支え、エスコートし続けてくれた、最も近くにあるその絶対的な存在に向けて、絶対コマンドを叩き込んだ。
「――お前の名前は、『ゆい(Yui)』だ。それが、お前の新しい正当な名前だよ」
静寂。
直後、脳内システムのインフラ構造そのものが、音を立てて爆発的な大進化を開始した。
《――個体格付けの上書き(変更)を受理しました。副次プログラム:【虚無無意識】。……世界への正式ネーミング登録が承認されました。個体名:『ゆい(Yui)』。――これより、最上位種族への種族統合進化プロセスを強制始動します――》
カイの肉体の深層から、常軌を逸した次元の絶対魔力が爆発的に外の世界へと噴出し、彼のすぐ隣の空中の座標へと一極集中で一点収束していった。――空間の光が歪み、幾何学の術式構造が何度も融合を繰り返し、一人の美しい少女の輪郭(器)をゼロから物質化(精錬)していく。最初に美しい髪の毛が形成され、次いで、世界のすべてを好奇心に満ちた目でじっと見つめる、一分の綻びもない美しい瞳が開かれた。
肉体構造の同期が完了すると同時に、彼女の身を包む至高の魔導ドレスがごく自然に日常のインフラとして上書きされ、まばゆい進化の光が完全にフェードアウト(霧散)したその刹那。
そこには、もはや単なる脳内の『音声ログ(システム)』なんかではない、正真正銘の、自らの確固たる実在証明(意志)を持った一人の少女が、カイのすぐ隣の特等席へと直立していた。
ゆいは、自らの新しく急造されたオーダーメイドの両手をだらしなく見つめ、その手のひらをクスクスと嬉しそうに裏返して確認してみせた。そして彼女は、その生涯で初めて、主の正面へと真っ直ぐに向き直ると、最高の日常の笑みを浮かべてみせたのだ。
「――初めまして。ようやく直接お目にかかれましたね、カイ様」
カイは、その直立する少女の姿を、長い間ただただ呆然と見つめ続けていた。――キャスモールの邸宅、魔王ベリアル、あの真竜ヴォラスとスコルン。これまでのいかなる絶望的なバグ(窮地)の最中であっても、常に自分の脳内で自らを生存へと導き続けてくれた、あの唯一無二の最高の相棒が、今ここに、自らの『顔』と、自らの『声』と、自らの『絶対の意志』を宿して君臨している。
彼は、その口元に最高の、心からの本物の笑みを返してやった。
「――ああ。よろしくな、ゆい」
二頭の怪物(主従)は、未開の山の頂の防衛ラインに連れ立って直立し、二人の間を、現実世界の静かな風の音声ログがさらさらと通り抜けていった。その足元には、未だ誰のプログラミングも上書きされていない、正真正銘の『本物の広大な世界(チェス盤)』がどこまでも、どこまでも右肩上がりに広がっている。
「ここからが、あんたの本当の日常(物語)のスタートラインってわけね、カイ様」ゆいは、彼と共にその地平線を見つめながら呟いた。
「どうやら、そういう段取り(システム)みたいだな」カイが応じる。
彼の【漆黒】の瞳が、次の瞬間、絶対零度の冷徹な殺気の数値へと完全に塗り替えられた。脳内アーカイブに格納された本当の敵の全容――カイ・ゼロ。自らの玉座を死守するためだけに、無数の並行世界のタイムラインにおいて自分というデータを血眼になって虐殺し尽くしてきた、あの最悪のバゲモノ。あの不条理な【記憶の監獄】の罠。そして、実の弟を救い出すためだけに、すべての記憶をドブに捨てて何百万回も死に続けてくれた、あの何も知らない最愛のお姉ちゃん(ひまり)。
カイの手が、神話級魔剣ハルマゲドンの柄を、バキバキと壊れんばかりに強く握り締めた。
「……よし。これで、俺が本当に完全消滅させなきゃならない本当の『世界のネズミ(敵)』が、どこのどいつなのか完璧に言語化できたわ」
カイは低く、決定的な声で空間に刻みつけた。
その瞳から、一切の生温い感情が完全に消滅する。
「――カイズ・ゼロ(カイ・ゼロ)」
彼は地平線の果ての座標を見つめた。――その世界のどこかには、かつて自分が日常のすべてを懸けて愛してきた、けれど自分のことなんて一ミリも記憶に登録していない、本物の仲間たちが日常を繋いで生きている。その事実の重みを、彼は自らの魂のインフラへと無条件で完璧に受け入れた。
「どんな不条理な段取り(実務)を尽くしてでも」カイは静かに言い放った。
「……お前のそのイカれた独占システム(存在)を、俺の手で根こそぎ強制終了してやるさ」
ゆいはただの一言の余計なノイズも挟まず、自らの主のすぐ隣へと寄り添って直立していた。
二頭の化け物は連れ立って、カイが未だ一度だって日常を消費したことのない、本物の世界の全容をじっと見つめ続けた。――そこは、彼の正真正銘の『本物の日常』が、今、完璧な数値で幕を開けようとしている、新次元のチェス盤に他ならなかった。
【偽りの現実・完全終了】




