エピソード 5:昔からの癖、新しい筋肉
ドランという男はね、ぶっちゃけ言葉による説明よりも、肉体の痛み(エラー)のほうが遥かに優れた教育係だと信じて疑わないタイプの指導者だった。俺がその事実を知るまでに要した時間は、最初の実戦特訓が始まってからおよそ四秒。
何故なら、あいつは前触れもなく突如として俺の足元を力ずくで払ってきたからだ。
「ルールその一」男は、肉体スペック的にあまりにも理不尽な高低差(上空)から、倒れ伏す俺を見下ろした。「世界はね、てめえの準備が整うのを待ってはくれないのさ」
へぇ、なるほど。最高。至高。今の俺のタイムラインにこれ以上ないお似合いのスパルタ環境だわ。
俺は宿屋の裏手の地面――あいつが街に到着した二日目の朝、誰も文句を言い出せない圧倒的な威圧感だけで勝手に占有したあの狭苦しい中庭――から無様に這い起きると、前日教え込まれた基本の構え(スタンス)へと再び肉体の軸を戻した。
「もう一度だ」
俺たちはそれを繰り返した。何度も、何度も、何度も、だ。
四回目を迎える頃には、俺はどうにか直立を維持して持ちこたえる(クリアする)ことができた。ぶっちゃけ、実際の成果以上に、俺の中の達成感は猛烈に跳ね上がっていたさ。
◇
ここで一つ、嘘偽りなく誠実に告白しておかなければならない事実がある。
ドランとの剣の特訓はね、かつて実の親父と交わしたあの温かい修練とは、そのシステムが何から何まで全くの別物だったんだ。
親父の指導には、厳格な規律の底に確かな温かみが埋め込まれていた。――こちらの成長を心から望んでいる男特有の、たとえ俺の理解度がヘタで遅かろうとも、どこまでも辛抱強く付き合ってくれるようなマニュアルだった。
だが、ドランの修正(ダメ出し)は違った。生涯のあらゆる技術を、血生臭い過酷な修羅場だけで叩き上げてきた男が放つ、「てめえにだけ甘いイージーモード(手加減)を用意してやる義理はねえ」と言わんばかりの冷酷なものだった。
「防御の位置が高すぎる」あいつは、必要以上のリソース(力)を込めて俺の右腕の位置をグッと押し下げた。
「顔面ばかりをマークして、脇腹のグリッドがガラ空きだぞ。俺以外の本物の敵と対峙してみろ、コンマ数秒でその隙を見抜かれて一発でゲームオーバーだわ」
「了解」俺はそう言ってやった。あいつに指示された通りの正確なミリ数まで腕の位置をスッと下げる。親父はそれを見て、短く「フン」と鼻を鳴らしただけだった。――これまでの短い付き合いでね、ドランが放つ「フン」という音声ログは、世間一般における最上級の称賛を意味するのだと、俺のプロセッサはすでに学習していたからな。
あいつは決して、悪意があるわけじゃない。ただ、徹底的に『効率主義』な男なのだ。
その瞬間にはね、肉体的な激痛のせいで同じものには到底思えない時が多々あるけれど、その二つのシステム(中身)には明確な一線の違いがあった。
◇
それからの数日間、俺たちの生活は心地よい一定のサイクル(リズム)へと収束していった。恥ずかしい話だが、俺はこの時間を、密かに脳内で楽しみにしている自分に気づかされていたさ。
午前中は、ドランとの剣技の特訓――型の反復、修正、そして時折肉体に刻まれる青あざ(勲章)。その痛みをね、実際の負傷レベル以上に、俺はどこか誇らしげに身にまとっていた。
そして午後は、完全に俺だけのプライベートな時間。街の外縁部の誰も寄り付かないフィールドの境界線へと一人で赴き、かつて母さんが三年もの歳月を費やして叩き込んできた、あの静かな【反魔力】の制御訓練に脳のメモリを割くんだ。たった一筋の草の葉だけをピンポイントで静かに点火させ、その精密なクリア画面を眺めては、至って満足げな笑みを浮かべている不気味な八歳のガキ。周囲から見ればね、詮索せずにはいられない怪しい光景だったろうが、幸いにもそこには誰も来なかった。
そしてぶっちゃけ、夜の時間こそが、一日のタイムラインの中で最高のエンタメだった。
宿屋の食堂。主人の奥さんが、ドランの視線が逸れた隙を見計らって、俺の皿にこっそりと出来立てのパン(ロール)をもう一個インポートしてくれるんだ。まるで「このガキ、肉体のスペックが足りてないからもっと太らせなきゃダメだわ」とでも言いたげな、母性的なカモフラージュ。
対するドランは、たった一杯の酒をいつまでも弄びながら、完全に染み付いた習性のまま、無意識のうちに入り口の扉を監視し続けていた。
「お前、それよくやってるよな」ある夜の食事の席で、俺は扉をパッと指差した。
「何をだ」
「そこだよ。まるで、誰か重要人物が襲撃してくるのを待ち構えてるみたいな目をしてるぞ」
あいつはすぐには答えなかった。
ドランという男がね、沈黙を守る時ってのは、こちらの質問が奴のプロセッサの深い領域へと的確にクリーンヒットした時だけなんだ。
「……古い習性だ」やがて、ドランは重く口を開いた。「今となっては、とっくに無意味になった(クリアされた)はずの、な」
「過去の話、か?」
「話せば長くなる。今夜てめえに開示してやるログじゃねえよ」
なるほど、了解。
俺自身、その手の開示不可能な最高機密なら、脳内のハードディスクに山ほど抱え込んでいるからな。
俺はそれ以上追及しなかった。
力ずくでこじ開けようとしたところでね、あいつがデータを吐き出すはずがないことくらい百も承知だったし、何よりも俺はその解答の「システム(形)」をよく知っていたからだ。もし誰かが俺に向かって、あの隔離された絶望の山について、あるいは二度と語ることのできないあの温かい家族について、過剰な詮索を仕掛けてきたとしたら――俺だって、完璧に同じマニュアル(煙幕)を以て応じていただろうからな。
◇
だけどな。顎から鎖骨にかけて走る、あの大きな一本の傷跡についてだけは、どうしても好奇心のレーダーが我慢できずに、ある日の特訓の最中に尋ねちまったんだ。
それはとっくの昔に痛みの引いた、完全に風化した白化グラフィック。だけどな、治癒された後でも、そこに確かに『存在していた』という絶対の証明として居座り続けている、そんな古傷だ。
型の反復の最中、俺の視線に気づいた親父に向かって、俺は不敵に言ってやった。
「……なぁ、まさかその首筋の傷跡も、ただの古い習性だなんてはぐらかすつもりじゃねえだろうな?」
その瞬間、あいつの口から短く笑い声が漏れた。――滅多に聞けないレアな音声ログだ。俺はそれを、価値のある重要データとして脳内に大切にインポートしておいたさ。
「いや」ドランは言った。「これにはな、明確な由来がある。――だがな、ただでてめえに開示してやるほど、安い情報じゃねえぞ」
「……へぇ。じゃあ、その情報の購入コスト( asking price )はどれくらいだよ?」
「てめえが、その真実を知るに値するスペックになるまで『生き延びる』こと、だ」
親父はそう言い放つや否や、俺がまともな反論の術式を形成するよりも早く、またしても俺の足元を容赦なく力ずくでへし折ってきた(払ってきた)。
いや、マジで理不尽。
だけどな、ぶっちゃけ悪くない。そこらの有象無象が垂れ流すどんな綺麗事のセリフよりも、遥かに誠実で、最高に気に入った解答だったからな。
◇
一週間が経過する頃には、俺は防御の姿勢を、常識の範囲内(三十秒以上)ならエラーを起こさずに完璧に維持できるようになっていた。ドランもそれを見て、表面上はただの「フン」だったが、内心では確かなマイルストーン( milestone )としてジャッジしてくれているようだった。
おまけに俺自身、午後の制御特訓において、自分の反魔力の熱で自爆する(火傷を負う)ようなバグを、完全に克服していた。
あの絶望の山を降りて以来初めて手に入れた、明確な、嘘偽りのない、俺自身の【完全勝利( unambiguous win )】のログだった。
小さな、本当に些細な成果だ。大層なドラマなんてものはそこには無い。
だけどな。最後の一夜、暖炉の火の前に座り込み、今日すでに入念に二回もメンテナンス(クリア)したはずの自らの刃を、ただの習性のままに三度目のお手入れをしている親父の背中を見つめながら――俺はね、思ったよりもずっと早い段階で、自分の魂のシステムに一つの確かな感情が定着しつつあるのを感じていたんだ。
この目の前にいる男は、かつて失ったあの温かい家族の代替品なんかじゃない。あいつ自身、そんなポジションに収まろうなんてこれっぽっちも画策(ミリとも思って)していない。
――だけどな。
俺の、世界を覆すタイムラインにおいて。
この時間はね、決して、無意味な無なんかじゃなかったんだ。
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この世界で目覚めて以来、俺は前世の記憶をただの一度だって夢に見たことはなかった。
東京の街並みも、あのアパートも、結局クリアし損ねたあのレイドバトルのこともだ。
俺はね、いつの間にか「ハルト」という男のデータ(前世)は、この世界には追いつけなかったのだと思い込んでいたんだ。――あの夜、アスファルトの上にすべてを置き去りにして、あそこに置いていかれたのだ、とな。
だが、それは完全なる思い違い(エラー)だった。
◇
その夢はね、最悪な夢の定番(お約束)通り、至ってありふれた日常の光景から始まった。
俺はカエデの家の近所にある、あのなじみ深い交差点に立っていた。
頭上ではね、歩行者信号がオレンジ色の鈍い点滅を規則正しく繰り返している。
そして俺の向かい側には、まるで同じ信号が変わるのをただのんびり待っているだけの二人の男であるかのように、ケンジが平然と佇んでいたんだ。
「……元気そうじゃん」あいつは言った。愛想よく、気楽なトーンで。
それはね、あいつが俺の命を力ずくで奪い去る、ほんの六時間前にスピーカー越しに響かせていたあの声と、寸分違わず完全に同じ響きだった。
「あの状況を考えれば、さ」
「てめえが俺を車で処刑(ひき逃げ)したって事実を考慮すれば」俺は言ってやった。「ああ、おかげさまで至って順調だよ」
それを聞いた瞬間、ケンジは大爆食(大爆笑)した。――ガハハと頭を後ろにのけぞらせて。
まるで俺が己の殺害状況を説明したのではなく、極上のジョークでも披露したかのように、心の底から楽しそうに笑いやがったんだ。
「お前、あの時さっさとログアウト(帰宅)しとけばよかったんだよ。そうすりゃ、お互いにこんなめんどくさい手間をかけずに済んだのになぁ」
「……ただ金が欲しかっただけならさ、素直にそう言やあよかっただろ。俺、普通にてめえを助けてやった(融資した)はずだぞ?」
「いや、それじゃあダメなんだよ」あいつは、あの夜とまったく同じマニュアル通りのセリフを吐いた。車のドアを開け放ったまま、瀕死の俺を見下ろしていたあの時と完全に同じトーン。焦る様子もなく、どこか愛おしそうにすら聞こえる声でな。
「――それじゃあ、俺の胸の『渇き(ルビ:スリル)』が満たされないだろ?」
俺がその言葉に言い返すよりも早く、脳内プロセッサが強制終了(覚醒)を告げた。
胸の奥がキリキリと締め付けられるような重圧の中、俺は暗闇の中で宿屋の天井をじっと見つめていた。
(……渇きが満たされない、だと?)
一体それが何を意味するのか、俺にはさっぱり分からん。
殺人のムーブにおいてね、そんな特定のこだわり(スリル)を必要とする奴なんて、一体どんなイカれた精神構造をしてやがるんだ。
俺は暗闇の中で横たわったまま、その不快な思考ログを何度も何度もリプレイしていた。
するとその過程で、もう二度と手繰り寄せたくなかった最悪の自己嫌悪が、脳内の最重要領域にカチリと居座りやがった。
――俺はね、あいつのことを一ミリの疑いもなく、無条件で100%信頼(信用)していたんだ。
あいつから着信があれば、俺はのんきに出向いた。躊躇も無ければ、猜疑心も皆無。
そしてその結果、俺の人生は一発でゲームオーバー(ロスト)になった。
この今度の世界でもそうだ。
あの山の上に突如として二匹の化物(真竜)が現れ、俺が未だに理解すらしていない理由のせいで、俺の命を狙い、両親の命を消去していった。
自分が一体何をしてそんなヘイト(業)を稼いだのか、今の俺にはさっぱり分からん。
前世であれほどの時間を共に過ごし、全貌を知っていたはずのケンジの裏切り(奇襲)すら予知できなかったこの俺が――前世よりも遥かに理解不能なこの異世界において、どうやって次の一撃を完璧に回避しろって言うんだ?
よし、決まりだ。新ルール(適用変更)だ。
別に、他人のことを一切信用しない孤独な人間(コミュ障)になるって意味じゃないぞ。
ただな。これからは、自分の【信頼】を、誰彼構わずタダで配り歩くような真似(お人好し)だけは絶対にやめる。それだけだ。
その後はね、そう簡単に再セーブ(二度寝)に移行することはできなかった。
ようやく意識が睡眠モードへと切り替わった時、今度は二つ目の地獄の夢が俺を待ち構えていたんだ。
◇
その二つ目の夢はね、最初から一から十まで完全に異常な光景だった。
俺は、一度も見たことがないはずなのに、システム(本能)が一発でその座標を認識している場所に立っていた。――我が家の近くにあった、あの開けた草原。
だが何かが決定的におかしかった。大気はね、天候とはまったく関係のない、凄まじい密度の超高熱(反魔力)でドロドロに強張っていたんだ。
そこには親父がいた。
剣を天高く掲げ、直視することすら叶わないほどに理不尽な超巨大なナニカ(真竜)と真っ向から対峙している。
夢の中特有の、言葉による説明なしに設定を一発で理解できるあの感覚で、俺は直感させられた。
(あ、俺……今、過去に起きた『あの惨劇のログ』を特等席で観させられてるわ)
親父が奴に向かって何と言い放ったのか、音声ログは聞こえなかった。
ただ、その口元が静かに、冷徹に動いているのだけは見えた。あの竜どもが襲来した夜と完全に同じ、どこまでも平然とした、ブレない戦士のトーン。
親父が何を告げたのかは分からんが、その向かい側にいた超巨大な怪物のほうは、そのアンサー(セリフ)がお気に召さなかったようだった。
夢の中の【大爆発】には、音が一文字も無かった。
ただ、絶対的な、完全なる白銀の『光』。
それが草原のグリッドを丸ごと呑み込み、次の瞬間には――親父が立っていたその座標には、塵一つの残渣すら残されていなかった。
俺は激しく息を喘がせながら飛び起きた。
脳内プロセッサが事態の全貌を認識するよりも前に、肉体の防衛本能(涙腺)が先に悲しみの過負荷を起こした時にだけ訪れる、あの独特の跳ね起き方だ。
俺は結局、あいつ(親父)に何一つ質問することができなかった。
本当に、何一つとしてな。
何故あんなに頻繁に家を空けていたのか、あの親父の言う「用事」の全貌は何だったのか、あいつが俺の父親になる前に、一体どんなステージ(過去)で戦ってきた男だったのか。その本当の正体について、何一つ聞けないまま終わっちまった。
そして今度のシステムにおいてね、もう二度と、その答え(クリア報酬)をあいつ自身の口から聞くことは叶わない。
俺は暗闇の中で起き上がり、両手の震えが完全に停止するまで、己の膝の皿をぐっと力強く押しつけ続けた。
そして、胸の奥底の最重要隠蔽領域へと、あの理不尽な【怒り(ヘイト)】を静かに定着させていったんだ。
それはね、悲鳴を上げたり部屋の調度品(家具)を破壊して暴れ回るような、そんな安い出力じゃない。ただの、冷酷で、恒久的な絶対の殺意。
俺からすべてを奪い去った連中に、いつか一万倍にして返してやるべき『負債』のリストの隣に、そのログを大切にインポートしたんだ。
【竜族・二匹】。一括返済の債務だ。
そのためなら、どんな手段だって使ってやる。
◇
日の出を迎えるよりも前、ドランは宿屋の階下の食堂で、一口も口をつけられていない謎のスープのカップをじっと凝視している俺の姿を発見した。
「……うなされてた( bad night )か?」
あいつは俺の承諾を待つこともなく、向かい側の席へと当然のようにどっしり腰掛けた。
「まぁ、そんな感じだ」
あいつはしばらくの間、俺の顔面をじっと観察した。
それはね、初めて出会ったあの夜の能力測定と同じ眼光だったが、今回はどこか少しだけ、いつもより柔らかい波動を帯びていた。明らかに睡眠不足(スペック低下)を起こしている一人のガキを、気遣うかのような目でな。
「……話したいなら、聞く(クリアする)が?」
「いや、いいわ」俺は言った。「少なくとも、今のタイムライン(段階)ではな」
ドランは深くうなずいた。無理な追及はしてこない。その一切のプレッシャーを排した大雑把なマニュアルがね、今の俺には言葉にできないほどにありがたかったさ。
「そうか、ならいい」あいつは言った。「とりあえず飯を食いな。てめえの脳内プロセッサを狂わせてるバグが何であれ、朝食を平らげた後でも、その問題は逃げずにそこに居座り続けてるからな」
いや、マジで完璧な正論だな。
俺は飯を食った。胸のクソ忌々しい悪夢の残響は、どこへも消え去っちゃくれなかった。
だがな。俺の魂のシステムはね、あの真夜中の二連続のバグ(悪夢)を経て、確かに、決定的に上書き(アップデート)されていたんだ。
より物静かに、より冷徹に、ごく一部のセキュリティゲート(扉)を、より慎重に閉ざしながら。
悲しみはね、感情のバックシート(後部座席)にでも座らせておけばいい。上等だ。
ただ――今日この一日のドライブ(主導権)だけはね、ほんの少しだけ、その悲しみのナビゲーションに従ってやるのも悪くはないな、と。
(……まぁ、これくらいの仕様変更なら、俺のシステム的にも許容範囲内(許せる)だしな)
------
それはごく小さな、日常の些細な不協和音から始まった。
――まぁ、この手のイベントってのは大抵そういうもんだ。もし俺が別の場所に意識を割いていたら、十中八九、完璧に見落としていたような小さな異変。
その時、俺たちは街道の旅支度を買い出すために、よろず屋に立ち寄っていた。親父が朝食の席辺りで「そろそろフィールドの景色を変える(出発する)か」と唐突にジャッジしたからだ。
背後で、店主の声のトーン(ピッチ)が変わったのは、まさにその時だった。
声がデカくなったわけじゃない。ただ、目に見えて『冷酷』に、世間一般では愛想笑いとは到底呼ばない種類のお堅いマニュアル対応に切り替わったんだ。
「てめえの種族に売るような商品は、この店には置いてねえんだわ。とっとと他所へ行きな」
俺は、その音声ログの方へとゆっくりと身体の軸を向けた。
店主が威圧していた相手の頭部には、狼のような一対の耳が不満そうにペタンと伏せられていた。
そして、その尻尾は微塵も動かないよう、力ずくで静止されている。あいつね、精神的に激しく動揺した時に尻尾が動かないよう、日常的に猛烈な訓練(特訓)を重ねてきたんだろう。それだけ過酷な環境で必要に迫られてきたのだと、一発で分かるほどの見事な精密制御だった。
年齢はだいたい十七か十八といったところか。衣服の摩耗を見るにかなりの長旅をしてきたらしく、その片手には、すでに二回ほどデポジット(支払い)を拒絶された形跡のある革の財布が、まるで哀れなお供え物のように差し出されていた。
「……同じ、王国の硬貨だぞ」その【獣人】の少年は、これが今日最初のエラー(拒絶)ではないのだと全身で語る、ひどく疲弊した低い声で言った。「価値は、何も変わらないはずだ」
「この店のシステム(ルール)内では通用しねえって言ってんだよ」
(――へぇ。なるほどな、そういうシステム(差別)か)
俺の中にね、怒り(ヘイト)の感情が湧き上がったわけじゃ決してないぞ。
そこだけは誤解のないよう、公式のログに誠実に記録しておかなければならない。このイベントを、よくある正義の味方のブチギレ大爆発として片付けるのは簡単だが、中身はまったく別物だったんだ。
そこにあったのは、ただの冷酷で、極めて単純明快な、絶対の【確定事項】。――一週間前にゴロツキの棍棒の前で大気を点火した時と、完全に同じトーンのシステム演算。
俺がその場に直立不動で立ってウォッチしている以上、絶対に「クリアさせてやらない」イベントがそこにある。ただそれだけのことだ。
「――だったらさ」俺は獣人の少年の隣にスッと間合いを詰め、カウンターに身を乗り出した。
「あいつの硬貨の身元保証、この俺が引き受けてやるわ」
店主の瞳が、一瞬にして俺の姿をスキャンした。――ただのガキ、一発で一蹴できるザコ、という判定。
それから奴の視線は、数歩後ろで腕を組んだまま、「最初から戦況の全貌を完璧に先読みし、あえてまだ戦闘に介入していない」だけのドランの佇まいへと動いた。
「おいおい、ガキ。ここにてめえの入るステージ(用事)はねえんだよ」
「いや、それがさ」俺はなおも不敵ににやりと笑みを浮かべたまま、100%ののんきなトーンで言ってやった。
「俺に向かってそのセリフを吐いた奴らのマニュアル(ログ)を解析してみるとさ、不思議なことに、後からそのセリフが『事実』だったケースって一度も無いんだよね、マジで」
俺は、自らの手持ちの硬貨をカウンターの上にパサリと置いた。
意図的にね、その獣人の少年が買おうとしていた商品の総額を遥かに上回る、大層なリソース(デポジット)だ。
「あいつは商品の正規の代金を支払う。そして俺は、お前が今あいつの貴重な朝の時間を無駄に浪費させたことに対する、迷惑料を上乗せして支払ってやる。これで、全員が何かしらのクリア報酬を手にできるハッピーエンドだろ? ――それともさ」
俺はそこで一呼吸、焦る様子もなく、わざとらしく沈黙を置いてやった。
「……お前が、この俺のディナー(快適な時間)までこれ以上無駄に浪費し続けた場合、一体どんな最悪なバグ(イベント)が勃発するか、今すぐここでテスト(検証)してみるか?」
店主の目が、カウンターの硬貨へと落とされた。それから、俺を見た。
そして今度は、より長い時間をかけて、俺の瞳の奥で微かにサージ(明滅)していた、あの不気味な【紫色のオーラ(反魔力)】のグラフィックを凝視しやがった。
俺自身ね、最初から自分に対して敵対心を剥き出しにしてくるような奴らの前で、自らの正体をコソコソと隠蔽し続けるメリットなんて、とっくに無いとジャッジしていたからな。
奴の視覚センサーが、一体どんな致命的なエラー数値を弾き出したのかは分からん。
だが、その一瞬でゲームの勝敗は確定した。
「……チッ、とっとと商品を持っていきな」
店主は吐き捨てるようにそう呟き、俺のデポジットした硬貨を力ずくで己の手元へと掻き集めると、それ以上の音声ログ(文句)を発することもなく、残りの買い出し時間中、よろず屋の最奥で「本気で重要な作業を処理しているフリ(隠蔽)」を必死に演じ続けやがった。
◇
その【獣人】の少年は、俺たちが店を一歩外へ出るまで、ただの一文字も言葉を発さなかった。
「……お前、わざわざあんな真似(お助け)する必要はなかっただろ」
「ああ、システム的にはね」俺は肩をすくめて同意した。「だけどさ、俺が個人的にあいつ(店主)をせっかんしたかったんだよ。意味合いがまるで違うだろ?」
あいつは、長い間俺の姿をじっと凝視し続けた。
それはね、遅かれ早かれ外の世界の有象無象が俺に対して必ずやらかす、あの驚異の再計算の眼光だったさ。
「……俺の名前はフェンリックだ」やがて、その獣人の少年は自らの一つのログ(身元)を開示してくれた。自分の中で何らかのジャッジを下したかのような、ブレないトーンで。
「それから……一応、その、ありがとな。こんな風にさ、見ず知らずの他人が直接介入してくれるなんてイベント、俺のこれまでの旅のログには一度も無かったからさ」
「俺はカイだ」俺はにっかりと不敵に笑ってやった。「まぁ、そうだろうな。普通はそんなめんどくさいトラブル(ハッスル)に関わりたくないのが、この世界の一般的なマニュアル(理)だからな」
「てめえのほうは、そのトラブルとやらを塵ほども気にしていないように見えたがな」
「俺の中にはね、無数の多面的なシステム(マルチ)が内包されてるんだよ」
俺はドランの時と完全に同じセリフを使い回してやった。
この獣人のフェンリックには、ドラン以上にそのセリフのコンテキスト(意味)が1ミリも通じなかったようだが、ぶっちゃけ俺自身の脳内プロセッサは最高に満足を記録したから、これでいい。
これから先、どんな最悪なバグ(トラブル)が目の前に転がり込んでこようともね、そんなものは明日の俺が処理すべき仕様に過ぎない。
差し当たっては、ただ今夜、あいつの背後にある宿屋の扉が、何の障害もなく平穏に開け放たれているという、その確かな現実だけで十分なのだからな。
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フェンリックのほうから、俺たちを探しに来ることはなかった。
数時間後、俺たちが宿屋の外で、なかば偶然のようにあいつを発見したんだ。
壁に背を預け、まるで「この空間(広場)を完璧には信用していない」奴特有の、あの張り詰めた索敵レーダーの目でじっと街並みを観察していた。
「……まだ、ここにいたんだな」
俺はドランがいつも俺に対してやらかすのと完全に同じムーブ(お返し)をキメてやり、承諾を待つことなく男の向かい側にどっしりと腰掛けた。
「どこへ行けばいいのか、自分でもよく分からなくてさ」あいつは至って単純に、何の含みもない、ただの事実として応じた。
「朝になったら出発しようと思ってたんだ。さっきのよろず屋での一件の後だし、これ以上ここに居座るのもアレだからな」
「てめえが居座るも何も、最初からそんな仕様はねえよ」
その一言に、あいつの口元がほんの少しだけ、可笑しそうにピクリと動いた。――現れては一瞬で消え去るような、微かな変化。どうやら感情を表に出すことに、あまり馴染みのない人生を送ってきたらしい。
◇
それから間もなくして、ドランが俺たちの会話に合流した。
いつものように、一切の無駄を省いた省エネムーブ(所作)で階段の段差に腰掛ける。しばらくの間、誰も何も喋らない。
だがな。それは気まずい沈黙なんかじゃ決してなかった。
ただ、未だ互いの素性をクリア(開示)していない三人の人間が、その「知らない」という初期設定の距離感を、じっと測り合っている静かな時間だった。
「……てめえ、どこかに還るべき場所はあるのか?」
やがて、ドランが重く口を開いた。悪意は無い。ただ、あらゆる物事に対して常に直球な、あいつ特有の問いかけ。
「家族、とかさ。本気でたどり着こうとしてる目的地があるなら言ってみな」
「――無いね」フェンリックはその質問に対して一瞬の躊躇もなく即答した。その事実がね、言葉の中身以上に、多くの機密ログ(中身)を物語っていたさ。
「もう、どこにも無い。ずっと長い間、な」
「何があったんだ?」俺は尋ね、あいつが口を開くよりも早く、さらに術式を付け加えた。
「あ、いや。無理に話さなくて(クリアしなくて)もいいぞ。お涙頂戴の悲惨な身の上話(お涙頂戴)をねだる気は無いからさ。ただ……もし望むなら、その重負荷をてめえ一人だけで抱え込み続ける必要は無い、ってことだ」
あいつは長い間、完全なる沈黙を守った。
その狼の耳がピクリ、ピクリと二度ほど揺れる。
たった一日の午後のスパンを共に過ごしただけの、まだ見ぬ見知らぬ二人組(俺たち)に対して、一体どこまで自分の【真実】をクリア開示して良いものか、脳内プロセッサでジャッジしているようだった。
「……村の連中がね、獣人の血筋が混ざるのを、とにかく激しく拒絶したんだよ」やがてフェンリックは静かに、自らの一つのログ(過去)を語り始めた。
「それも、陰湿でこれっぽっちも手加減のないやり方でな。自分の足でどこまでも歩けるほどの最低スペック(年齢)に達した瞬間、すぐにそこを飛び出した。それ以来、ずっと歩き(放浪し)続けてる。――まぁ、これが俺の人生の簡易版マニュアル(ショートバージョン)ってやつさ」
「十分だわ」俺は言った。「てめえのロングバージョン(全貌)なんて、誰にも開示する義理はねえよ。もちろん俺たちに対してもな、少なくとも今夜は」
◇
ドランは腕を組んだまま壁に背を預け、かつてあの未開のフィールドで俺を査定した時と完璧に同じ、あの鋭い値踏み(アナライズ)の目でフェンリックをじっと注視していた。
「……てめえ、戦えるのか?」
ぶっちゃけ、最高に直球。実戦主義。これぞ、ドラン流の「お前は何ができる(スペックチェック)」の洗礼だ。
「これまでを生き延びて、ゲームオーバー(ロスト)を免れてこれたくらいにはな」フェンリックは不敵に言った。「自分で自分のことを最強だなんて自惚れる気はねえよ」
「誰もてめえに最強(チート持ち)であれなんて要求してねえよ。ただ、使える人材(有用)か否か、そして自分の実行不可能な領域に対して、嘘偽りなく誠実かどうかが知りたいだけだ」
「……一理あるな」
俺は、二人が互いの数値を測り合っている(能力測定している)その様子を静かにウォッチしていた。――敵対心は無い。だが、最大級の警戒。
それこそが、ね。「信頼というものには必ず相応の対価が必要であり、誰彼構わずタダで配り歩くような真似(お人好し)は絶対にしない」と、身を以て地獄を潜り抜けてきた強者たちだけが保有する、絶対の自衛システム(ポリシー)。
その光景はね、ほんの二日前に俺自身が自分の脳内データベースに適用したばかりのあの【新ルール】を、嫌でも思い出させてくれたさ。
(……フッ、どうやら、その世界の理を叩き込まれて学習してきたのは、俺一人だけじゃなかったわけだ。上等じゃねえか。ってことは、これからは警戒しているのが俺一人じゃないってことだからな。そのほうが、俺の自衛システム的にも圧倒的に動きやすくて助かるわ)
◇
「で、だ……」
その沈黙のスパンがあまりにも長く引き伸ばされ、そろそろ誰かが次の有意義な一歩を発行しなければならないタイムラインだとジャッジし、俺は口を開いた。
「明日、朝になったら俺とドランはここを出発する。これといって、明確な目的地が決まってる旅じゃないんだ。ただ一つ確かなのは、ここに留まらない、ってことだけ。――もし望むなら、てめえも俺たちのパーティー(旅)についてきていいぞ? 別によろず屋での一件でお前に恩を売りたいわけじゃない。たださ……一人きりで、寂れた宿屋の段差に腰掛けながら、次に向かうべきフィールドを孤独に悩み続けるよりは、圧倒的に生存確率(クリア確率)が高そうだろ?」
フェンリックは長い間、俺の瞳を真っ直ぐに凝視し続けた。
それから、ドランを見る。
親父のほうはね、ただ微かに、なんの約束も含まない小さな肩のすくめ(ジェスチャー)を返しただけだった。
だがな、何度も言うように、あのドランが放つその仕草はね、岩に刻み込まれた最上級の「大歓迎」を意味する絶対の招待状なんだよ。
「……てめえら、これを絶対に後悔しない(クリアさせる)からな」フェンリックはゆっくりと、だが静かに言った。「これは【誓約】だ、決して脅迫の類じゃない。俺さ、自分を裏切るような奴ら(裏切り者)とは、絶対に付き合えないシステムだからな」
「いいじゃん」俺はにっかりと不敵に笑ってやった。「俺のシステム(ポリシー)とも、完璧に完全一致してるわ」
その瞬間、あいつの口元に、今夜ずっと浮かべていた愛想笑いのマニュアルとはまったく違う、本物の笑顔が浮かんだ。
「よし」あいつは言った。「分かったよ。俺もそのパーティー(旅)にインポート(加入)させてくれ」
◇
ドランは何も言わずに、奥からもう一枚の分厚い毛布をスッと持ってくると、フェンリックの膝の上へと手際よく放り投げた。
相変わらず、一切の無駄を省いた省エネムーブ(所作)。
俺たちの感情のプロセスが結論へと定着するよりも遥かに早い段階で、あいつはすでにこの事象を「処理済」のログとしてマニュアルに登録していたんだ。
俺は椅子の背もたれに身体を預け、二人が心地よい、だがどこかお互いに一線を引いた静かな空間へと収束していくのを眺めていた。
――まだ、親友と呼べるほどの絶対の絆はそこには無い。
だけどな。そこにはね、「互いの全貌を解き明かして(クリアして)みよう」と本気で望む二人の人間が、確かに並び立っていたんだ。
二人目、の仲間。
大層な軍勢(一個師団)なんかじゃない。かつて失った、あの温かい家族の代替品になんてなるはずもない。
――だけどな。
俺の、世界の理を覆す復讐の歩みとしてはね。
そのシステム(光景)は、どこからどう見ても、確かな【我が家】の形を成し始めていたんだ。
(お前ら二匹を終わらせるその日のために、俺の守るべき領域を、これから一歩ずつ確実にビルドアップ(最適化)していく。その計画はね、今この瞬間から、本格的な稼働モードへと移行したんだからな)




