第50話:エリザベスとミラ
その日の午後、カイは自由商業都市ロシャンへと向かった。未亡人の商会の様子を直々に視察するためである。ここ数ヶ月の間、あまりにもデタラメな魔導プロジェクトに脳細胞のすべてを占拠されていたため、この訪問は随分と長らく棚上げにされたままだった。
(……待てよ。俺、あの人の名前を今まで一度だって尋ねたことがあったっけ?)
ロシャンの見慣れた街並みを歩きながら、カイはふと重要な綻びに気づいた。
(いや、訊いたかもしれない。ぶっちゃけ、まったく記憶にないわ)
「カイ様」
彼の姿を捉えるなり、例の未亡人が極めて温かい笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「またお会いできて光栄ですわ」
「ええ、お久しぶりです。えっと、……さん」
カイは言葉を濁し、我ながら本気で気まずそうに顔をしかめた。
彼女はクスクスと笑い、特に気にする様子もなく言った。
「どうぞ、エリザベス(Elizabeth)とお呼びくださいな」
「本当にすみません」カイは頭を掻いた。「ちゃんとお名前を伺うのを完全に失念していました。許してください」
「お気になさらず」エリザベスは微笑む。「貴方は一国を背負う多忙な御身ですもの。貴方の落ち度ではございませんわ。それで、本日はどのような実務で?」
「商会の進捗がどうなっているか、ちょっと見に来ただけですよ」
カイはそう言いながら、店の中へと足を踏み入れた――。驚くべきことに、店舗は彼の記憶にある規模よりも遥かに巨大化(大規模化)を遂げており、商売は大繁盛の極みにある様子だった。新しく雇われた数名の手下たちが、極めて手慣れた有能さで物資をさばいている。
「この人たちは、新しいスタッフですか?」カイが尋ねる。
「ええ、そうですわ」エリザベスが肯定すると、近くで作業をしていた若い女性スタッフたちが、一斉にカイの方を向いて恭しく挨拶を交わした。
そこへ、エリザベスの実の娘が、極めて快活かつ直球な調子で近づいてきた。
「あ、カイ様! 元気にしてた?」
「これ、少しは敬意を払いなさい」エリザベスが穏やかに窘める。
「いや、本当に大丈夫ですから」カイは苦笑し、そこでハッと我に返った。
「……というか、そういえば君の名前もまだ聞いてなかったな? すまない、一度も尋ねてなかったと思う」
「ミラ(Mira)よ」彼女は、魔王の度重なる失念など微塵も気にしていない様子で答えた。
「改めてよろしく、ミラ」カイが言う。
「ちょっと見せたいモノがあるの」
ミラはそう言うと、カイの手を引くようにして、そのまま賑やかな市場の区画へと彼を連れ出した。
彼女が案内した場所に直立していたのは、カイ自身が全く見覚えのない一軒の立派な大店舗だった。入り口の頭上には、ホライズンクレストの名札(看板)が誇らしげに掲げられている。客がひっきりなしに中へと吸い込まれていき、今やロシャンの街全体がその流通物資の話題でもちきりであることは明白だった。
「……これ、一体いつの間に建ってたんだ?」
カイは、本気で予想外のサプライズを食らった顔をした。
「ちょっと前からよ」ミラは、魔王の度肝を抜くことに成功して最高に嬉しそうに胸を張った。「大繁盛なんだから」
彼らはその日の夕方まで、二人で連れ立って街のあちこちを視察して回った。カイは、自分が魔導インフラに引きこもって全容を把握していない間にも、ホライズンクレストの経済的覇権がアシュフォードの国境の内部へと、どれほど完璧に侵食を広げていたのかを否応なしに思い知らされていた。
(いいぞ。これこそが、まさに俺の目指していた形だ。俺が個人的に張り付いてすべての詳細を監視していなくても、日常が正当に拡大していく。完璧じゃないか)
夜になり、帰還の段取りを進めながら、カイはミラに向かって「今度、ホライズンクレストにも遊びに来いよ」と声をかけた。彼女は即座に、その瞳に本物の温かな喜びを湛えて、快くその約束を交わした。
ホライズンクレストへと戻り、『霧のゲート』を跨いだ瞬間、カイが最初に出くわしたのはニュクサーラだった――。
そしてカイの表情は、一瞬にして、隠そうともしない「お前かよ」という不満の色彩に塗り替えられた。
「あぁ。……あんたか」
「ちょっと、私を見るなりそんな露骨に嫌そうな声を出すことないじゃない」
ニュクサーラは、わざとらしくへそを曲げてみせた。
「何しに来たんだよ」
「ラヴェシアがね、あんたにちょっと手伝ってほしい実務があるんだってさ」ニュクサーラが言う。
「なんであいつ、自分で直接俺のところへ言いに来ないんだ?」
「さあね」彼女は至極平然と肩をすくめた。「そんなこと、俺が知る由もないわよ」
そこへ、タイミングを見計らったようにクロエが音もなく姿を現した。
「カイ。――あのスパイの件、確定したわ。……『テオレマ王国』よ」
「一応、念のために泳がせて監視を続けておいてくれ」カイが冷徹に命じる。
「了解」
彼女はそう短く応じると、来た時と同じ速度で再び闇の中へと消え去っていった。
「あんた、本当に次から次へと過酷な大波が押し寄せてくるわね」
一部始終を見ていたニュクサーラが、面白そうに観察の言葉を口にした。
「……過酷なんてレベルじゃねえよ」
カイは心底疲れ果てたように吐き捨てた。
彼女はそのまま夜の宴にまで当然のように居座り、食卓はいつも通りの心地よい混沌に包まれた。
ディナーの後、カイは風呂を済ませてベッドへと潜り込んだ。すでに眠りについているフリをこれ以上ないほど下手くそに演じていたが、そのすぐ隣には、ひまりが片時も離れんばかりにぴったりと寄り添い、丸まった状態で静かに体温を分け合っていた。
--------------
翌朝、ホライズンクレストに奇妙な使者たちが現れ、カイ宛ての正式な書状をもたらした。彼が食事と入浴を終えたのを見計らってアイヴィーがそれを届けると、カイは未だに何もない空中へとだらしなく浮遊したまま、急ぐ様子もなくそれを受け取った。
書状は形式に則った、極めて緻密な、そしてその慎重な外交辞令の裏に隠しきれないほどの『不穏なプレッシャー』を孕んだものだった――【陰陽術師団】からの公式な召喚状。グランドオンミョウシタデル(陰陽大砦)での極秘会談への出席を求めるものであり、その末尾には総帥『カズヒコ・オノ(小野一彦)』直々の署名が刻まれていた。これは脅迫でもなければ命令でもない、ただの対話を求める要請である、と書状は主張している。しかし、その丁寧な文面の奥底には、極めて慎重にこのような一文が埋め込まれていた。
『――貴殿の不参は、貴殿にとっても我が師団にとっても、到底看過できぬ致命的な対価をもたらすことになるであろう』と。
「陰陽術師団……」カイは、誰に向けるでもなくその名前を声に出した。
その瞬間、エレーンの身体が完全に硬直した。
「……嘘でしょ。これは不味いわ。本気で最悪のイベントよ」
「何が不味いんだよ?」カイは心底不思議そうに首を傾げた。
「あんた、本当に陰陽術師団のことを何も知らないの?」ニュクサーラが呆れたように尋ねる。「確か前に、誰かが一度説明したはずだけど?」
「忘れてたかも」カイは素直に頭を掻いた。「すまん」
「あそこはね、この世界に実在する単一の組織の中で『最も強大な力を持つインフラ』なのよ」アイヴィーが辛抱強く解説を引き受ける。「あのナオ・シミズでさえ、あの一団とだけは正面から全面戦争を起こそうとはしないわ」
「人間の組織が、なんでそこまでの絶対的な権限を持ってんだよ?」カイは眉をひそめる。
「会談の期日はいつなの?」クロエが尋ねた。
「七日後だ」カイは日付を再確認する。
「なら、今この瞬間から大至急、出撃の準備(段取り)を始めなさい」ニュクサーラが厳粛に言った。
「まだ七日もあるんだぞ? 十分に時間は――」
「……誰を連れていくおつもりですか?」エレーンが、すでに冷徹な実務家としての思考で尋ねる。
カイは脳内で幹部たちの配置( roster )を弾き出した。
「エリスとエンゾは未だにミラスの貴族どもの捩じ伏せで手が離せない。ネロは素材集めでまだ戻らない。セリはベリアルの旧領の統治で出払ってる。……となると、エレーンとアイヴィーはここに残って、国の実務をいつも通り回しててくれ」
「私もここに残って、この街の防衛を見ててあげるわ」ニュクサーラが不敵に笑う。「ホライズンクレストの留守なら心配いらないわよ」
「ありがたい。本当に助かるよ」カイは微笑み、次いで言った。「俺の随行には、お姉ちゃんとクロエを連れていく。それと、陰陽術師団へ行く前に、まずはラヴェシアのところへ立ち寄ったほうが良さそうだな。あいつが一体何を俺に手伝わせたいのか、その全容を確かめるためにもさ」
当面の段取りが決まると、カイは一人地下施設へと戻り、培養チャンバーの中で今なお着実に、かつ完璧な数値を弾き出して安定化を続けている【創生エネルギーコア】を見上げた。
彼は自らの胸の上にそっと手を当て、衣服の奥にある、お袋のコアの微かな、しかし愛おしい鼓動を感じ取る。
「……お袋、俺にちょっとした幸運を祈っててくれよな」
その頃、屋敷の別の部屋では、アイヴィー、クロエ、ひまりの三人が、彼に「魔王として恥ずかしくない格好」をさせるための、凄まじい混沌に満ちた衣装選びの実務に突入していた。
陰陽術師団との会談を二日後に控えたその日。カイとクロエの二人は『霧のゲート』を跨ぎ、魔王ラヴェシアの領地の境界へと姿を現した。
境界線には、すでに一人の出迎えの案内人が直立していた。――まるで、二人がいつ、どこの座標にゲートを抉じ開けて現れるのかを、最初から完全に予知していたかのような精密なポジショニングだった。
カイは、彼女の傍らにサスペンドされている豪華な魔導馬車を見やって目を丸くした。
「……へえ、随分とファンシーな乗り物じゃないか」
クロエは、特に興味なさそうに鼻を鳴らした。
「なんだよ。俺だって、たまにはこれくらいの最高級のインフラ(待遇)を受ける権利はあるだろ?」
「寝言は寝て言いなさい」クロエが冷淡に一蹴する。
「おい! それどういう意味だよ!」
「何でもないわ。行くわよ、カイ」
「お初にお目にかかります、カイ様」案内人の女性が、完璧な所作で恭しく一礼した。「我が主、魔王ラヴェシア様が貴方様のお越しを心よりお待ち申し上げておりました。――どうぞ、こちらへ」
彼女に導かれ、二人は地上のなだらかな丘の上にそびえ立つ、ささやかな古城へと足を進めた。――だが、カイはすぐに気づいた。その城は、地下に隠された『遥かにデタラメな超大国』を覆い隠すための、ただの表面上のカモフラージュに過ぎないということに。
「これ、本物の城じゃないだろ」カイが指摘する。
案内人は不敵に微笑んだ。
「お察しの通りです。――さあ、こちらの魔法陣の中へお入りください」
発動した空間スペルが、まるで超高性能のエレベーターのように、二人の肉体を滑らかに、かつ超高速で深層へと引きずり込んでいく。
そして視界が開けた瞬間、カイは、目の前に広がる正真正銘の絶景に、完全に息を呑んだ。――そこにあったのは、【新星の誕生】と定義された、独自の戦闘空間(次元空間)。宇宙の中心そのものをインフラとして再現したかのような、人工の天空の下に広がる、息を呑むほどに美しい超広大な世界。
(……やるな。あの魔王、ただの引きこもりかと思ってたけど、本物の芸術的センス(ビジョン)を持ってやがる。これは予想外だ)
何よりカイの目を釘付けにしたのは、その世界で行き交う住人たちの姿だった。――人間、上位ゴブリン(ハイ・ゴブリン)、上位オーガ(ハイ・オーガ)。彼らは、カイが大陸の各地で嫌というほど目にしてきた『種族間の差別』や偏見のレッテルを、微塵も感じさせないほど、ごく当たり前のように同じ日常を共有し、完璧な調子で平和に共存していたのだ。転生して以来、彼がこれほどまでに異なる人種が手を取り合い、容易く調和している光景を目にしたのは、これが初めての経験だった。
(……これほど完璧にインフラが回っている大国を治めておきながら、一体全体、俺に何を『手伝ってほしい』なんて案件があるんだ?)
本城の中央の間へとたどり着いた時、案内人は「ただいまラヴェシア様をお連れいたします」と言い残して奥へと消えた。
――そして数分後、彼女は、自らの主の『手首』を文字通り力技で引きずりながら戻ってきた。
そこにいた魔王ラヴェシアは、意識が半分完全に消滅(昏睡)しており、片手には未だに愛用の枕をガッチリとホールドしたまま、その髪の毛は、正真正銘の大惨事と化していた。
「ほら、お出ましよ」クロエが冷ややかに言った。
「マジかよ? あいつ、完全に寝ぼけてる(夢遊病)だろ」カイは呆れ果てた。
「大変申し訳ございません」案内人が深々と頭を下げた。「カイ様が本当に来てくださるのかどうか、昨夜は一晩中気になって眠れなかったご様子で。一睡もしておいででないのです」
案内人はようやく、その不甲斐ない主の意識を力技で引き起こした。
「ラヴェシア様、しっかりしてください――カイ様がお見えです」
ラヴェシアの目が、次の瞬間パチッと見開かれた。
「どこ――どこにいるの!?」
「あ、どうも。こんにちは」カイが手を振る。
「カイ! 本当に来てくれたんだね。おはよう」
「もう午後だけどな」
「嘘、本当に? 私、どれくらい寝てた?」
「今朝方からずっとでございます、ラヴェシア様」案内人が冷淡に補足した。
ラヴェシアは、傍らに控えるクロエの姿を興味津々といった様子で見つめた。
「……ねえ、あの子が噂の吸血鬼? 報告書にあったデタラメな暴走状態に比べると、随分と理性が安定しているように見えるけど」
「初めまして、魔王ラヴェシア様」クロエは完璧な所作で挨拶を交わした。「私はクロエと申します」
「あいつの過去の暴走や殺戮は、全部その身に宿した呪いと固有能力がシステム的に暴走してただけなんだ」カイが解説する。「俺がその数値を完璧に上書きして安定化(手なずけ)してやったのさ」
「へえ。やるじゃない」
案内人は、ラヴェシアのあまりにもだらしない寝間着姿に本気で居心地悪そうな顔をしながら、わざとらしく咳払いをしてみせた。
「ラヴェシア様――このまま実務の対話を続ける前に、まずはきちんとしたお洋服にお着替えになられてはいかがでしょうか」
「俺は別に構わないけどな」カイは不敵に笑う。「ぶっちゃけ、目の保養になってるし」
「……このエロ魔王」クロエが極小の声で毒づいた。
「ほら、見てよ。カイだって気にしてないじゃない」ラヴェシアが胸を張る。
「そういう問題ではございません」案内人が冷徹に言い放った。
「はいはい、分かったよ」
ラヴェシアが小さく魔力を解放した瞬間、幾何学的な術式と共に、一瞬にして完璧な正装がその肉体へと上書きされた。
「よし。それじゃあ、私がわざわざあんたに手伝ってほしいって言った本当の『案件(理由)』について話そうか。――ここからは二人だけで密談にしたいんだけど」
「問題ないよ」カイは頷く。
「クロエ、少し外で待っててくれるかい?」
「ええ、構わないわ」クロエはそう応じ、案内人に促されるようにして本城の視察ツアーへと連れ立っていった。
カイとラヴェシアは専用の密談室へと移動し、上位オーガの給仕が極めて静か、かつ手際よく二人のグラスに酒を注いでいく。
「オーガの住人もいるんだな」カイが口を開く。
「魔王の領地に、ごく当たり前のように人種が混ざってるなんて、想像もしなかったよ」
「そう?」ラヴェシアが首を傾げる。
「私は別に彼らに対して何の偏見も持ってないよ。元々この領域は、自分たちの力だけじゃ外の脅威から身を守れなかった上位ゴブリンやオーガ、それにほんの一握りの人間たちが身を寄せ合っていた土地なんだ。彼らが『自分たちを絶対的に保護してくれるなら、この領土を丸ごとあんたに譲る』って言ってきてさ。――私が魔王になるなんて段取りを考えるよりも、遥か昔の話だけどね」
「そんな前からなのか」カイは素直に感心した。
「それで、今回手伝ってほしい実務( favor )っていうのはね」ラヴェシアは声音を落とした。「……物資の流通に関する問題なんだ。うちのお抱えの人間商人がテオレマ王国と取引をしてたんだけど、その段取りが今、完全に崩壊しかけててね」
「原因は、あの新しい王か?」
「その通り。今度のジローって新王は、前任者の愚物どもに比べると随分と頭が切れる(シャープな)奴らしくてさ。テオレマが、あの勇者ヴァルトの目を盗んで水面下でずっと私に物資を横流ししていたルートを、完璧に突き止めやがったんだよ」
「ネロが叩き潰した、あの勇者の国か」カイが確認する。
「そう、あそこ。……あ、それとネロと言えばさ」ラヴェシアがジト目を向けた。「あいつ、この前うちの領域にわざわざ来て、自分の新しい進化についてめちゃくちゃドヤ顔で自慢していったんだけど。【深淵魔皇】って、本当にあんたが命名して上書きしたわけ?」
「ああ。もっとも、俺自身それがシステム的にどれほどデタラメな意味を持ってるのか、未だに全容を把握できてないんだけどな。言われた通りの数値を流しただけだ」
「簡単に言うならね」ラヴェシアがため息をついた。
「……あいつは今や、この世界で【魔神王】と呼ばれる絶対的な格付けに達しちゃったってこと。手に入れた固有能力の組み合わせ次第じゃ、本物の魔王と同等、あるいはそれ以上の災害レベルだよ」
「また俺の知らない最上位 tier (階級)が増えてんじゃねえよ……」カイは本気で遠い目をした。
「それで、私が今すぐ緊急で確保したい流通物資なんだけど」ラヴェシアは本題を告げた。「……あんたがロシャン経由で吐き出し始めた、あの『最高級のワイン』だよ」
「俺がワインを……? ぶっちゃけ、おもちゃ(魔導具)の試作に熱中しすぎて、ワインなんて精錬した記憶が一ミリもないんだけどな」
「うちの手下がボトルを一本買い付けてきてね。正真正銘、規格外のクオリティだったよ。ルートを逆探知したら、ロシャンのエリザベス商会を経由して、うちの『カリン(Carin)』って商人が仕入れたものだと判明した。今後はテオレマの流通だけに依存するリスクを排除するためにも、そのカリンのチームを直接ホライズンクレストの市場へ派遣して、あんたのところと直接取引をさせたいんだ」
「それくらいの実務なら、うちとしても大歓迎だよ」カイは即座に快諾した。
「――それともう一つ」
ラヴェシアの言葉が途切れた、まさにその刹那。
何の予兆(予兆)もなく、彼女の肉体がカイの至近距離へと瞬間移動していた。カイの視界のすべてに、あいつの極めて冷徹に研ぎ澄まされた瞳のシステムが、ドアップで映し出される。
「……あんたが今、あの【破壊神】を世界に復活させようとしてるって噂、本当なの?」
「何のことだか、さっぱり分からないな」カイは、極めて慎重に聲音のトーンを一定に保った。
「とぼけちゃダメだよ、カイ」ラヴェシアの全身から、不気味な絶対プレッシャー(オーラ)が水面下から這い出てくる。
「……【混沌竜】のこと。あんたなら、その名前の意味を完璧に理解しているはずだ」
カイは逃げることも、動じることもしない。ただ自らの内にある【無】のオーラを静かに解放し、あいつの重圧を正面から完全に相殺してみせた。
「――もし、俺が本当にその復活の段取りを進めているんだとしたら、あんたはどうする?」
ラヴェシアは長い間、目の前の少年の宿す圧倒的な格付けをじっと値踏みするように見つめ続けた。やがて、その張り詰めたプレッシャーが霧散する。
「……彼女はあんたのお袋さんだ。一介の他魔(私)が、その悲願に口を挟む権利なんてどこにもないよ。だけど、本当にそんなデタラメな精錬(融合)が成功する確信はあるの? ――それに、復活させたその先の話だよ。あんた、本当にあの残りの二頭の『真竜』の元へ殴り込みに行って、正面からケリをつける( facing )つもりなの?」
「融合が本当に成功するかどうかは、まだ五分五分だ」カイは本音を漏らした。「だけど、絶対に挑戦する。……それから、ヴォラスとスコルンのクソトカゲどもに関しては、俺の中の決断はとっくの昔に確定してるよ」
「あんたは本気で、その『復讐』の先に、正しい日常(答え)があると信じているの?」ラヴェシアが、直球の問いを投げかけた。
会議室に、長い、長い沈黙の時間が流れていく。
「……いいえ」
やがて、カイは低く、しかしこれ以上ないほどに絶対的な確信を込めて、静かに首を振った。
「――これっぽっちも、そんなの正しい日常だなんて思ってないよ」
----------
ラヴェシアの瞳が微かに細まり、次の言葉を待った。
「復讐は正義じゃない」
カイは視線を落とした。
「それは何も癒やさない。死んだ人間を呼び戻すわけでもない。痛みを消し去るわけでもない」
彼の両手がゆっくりと拳へと握り締められていく。
「ただ、それ以上の何かを生み出すだけだ。さらなる憎しみ。さらなる屍。そして、あいつらが実際に何をしたのかを知れば知るほど、その憎しみは増していく」
彼は一度言葉を切った。
「そして、その道を長く歩めば歩むほど、そもそもなぜ歩き始めたのかを思い出すことすら難しくなっていく」
彼は地平線のほうを見つめた。
「おそらく、復讐が本当に奪い去るものはそれなんだろう。命じゃない」
彼の瞳が妖しく濁る。
「……自分自身だ」
ラヴェシアは何も言わず、ただ待っていた。
「いつか、すべての元凶をこの手で殺し尽くしたその時」
カイは言葉を続けた。
「俺は自分の成れの果てを見つめて、あいつらと何ら変わりない自分自身に気づくのかもしれない。自分が自分であるための大切な何かを、すべて失ってしまっているのかもしれない」
二人の間に長い沈黙が引き延ばされた後、カイは再び頭を上げた。
「だけど、それが分かっていても」
彼の全身から、地を這うような濃密な殺気が空間へと滲み出し始める。
「……俺は、絶対にやるよ」
ラヴェシアの表情が、にわかに強張った。
「復讐が正しい道じゃないことくらい分かっている」
カイが一歩前へ踏み出す。
「それが理不尽な苦しみをもたらすことも」
さらにもう一歩。
「自分自身を食い尽くすかもしれないことも分かっている」
彼の声が、ほとんど聞き取れないほどの極小のトーンへと落ちる。
「そして、すべてが終わる頃には、今日の俺の破片なんて一ミリも残っていないかもしれないこともね」
彼は足を止めた。
「だけど、ヴォラスとスコルンのクソトカゲどもは、俺がまだただの子供だった頃に、大切なモノを根こそぎ奪い去っていったんだ」
彼の周囲の空間の圧迫感が、一気に跳ね上がる。
「だから、俺は絶対に許さない」
彼の瞳が冷徹に細まる。
「絶対に忘れない」
大気そのものが、恐怖に慄くように激しく震え始めた。
「そして、絶対に止まらない」
「復讐が大義名分だからじゃない」
カイの声が、絶対的な確信の数値を弾き出した。彼の顔に、微かに自嘲めいた苦笑が浮かぶ。
「それが、俺が自分で決めた『段取り(選択)』だからだ」
彼は完全に彼女のほうを向き直った。
「あいつらの元へたどり着くために地獄を歩かなきゃいけないなら、俺は喜んで地獄を歩く」
彼の放つ殺気が、爆発的な質量となって空間を蹂躙した。
「あいつらを殺すためにバケモノにならなきゃいけないなら――」
彼の瞳から、一切の生温い感情が完全にデリートされた。
「――なら、この世界が未だかつて目撃したこともないような、最悪のバケモノになってやるさ」
最後の、長い間。
「だけど、すべてが終わった時」
彼の声音が、一転して不気味なほど和らいだ。
「そこにどんな無様な残骸が遺されていようとも、俺は自分の成れの果てを、すべて無条件で受け入れるつもりだよ」
ラヴェシアはただ沈黙したまま、目の前の少年を凝視し続けた。彼女の中の理解が、決定的な書き換えを要していた。
あいつは、自分に「復讐は正しい」と言い聞かせようとしているのではない。それが間違っていることなど、とっくの昔に痛いほど理解しているのだ。――ただ、そんな常識は、もうあいつの心にとってどうでもいい出来事に過ぎないのだ。
彼女の美貌に、ようやく微かな、不敵な笑みが戻ってきた。
「……そう。なるほどね」
彼女はカイの深紅の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「なら、私からこれ以上口を挟む実務(言葉)は何もないよ」
彼女の表情は和らいだが、その奥底には、一国を治める魔王としての絶対的な覚悟が宿っていた。
「だけど、これだけは覚えておきなよ、カイ」
彼女が一歩、あいつの至近距離へと近づく。
「その日が本当に訪れた時――憎しみがんたの内側をすべて食い尽くし、復讐がかつてのあんたの最後の破片を奪い去り、自分が元々どんな人間だったのかを完全に思い出せなくなった、その瞬間――」
一瞬の間。
「安心しなよ」
彼女の目が、鋭く研ぎ澄まされる。
「私がそこにいてあげる。あんたを正面から力技で引きずり戻して、完璧に『ストップ』させてあげるのは、この私だよ」
彼女は背を向け、去り際に一言だけ、絶対的な警告を空間に残していった。
「たとえそのせいで、あんたが私を激しく憎もうとも。私を自分の敵だとレッテルを貼ろうともね」
彼女の笑みが、今度こそ完全に消滅した。
「……そして、あんたを止めるための唯一の解答(手段)が、この手であんたの息の根を直接止めること(殺害)であったとしてもだ。――私はあんたを、二度と引き返せない暗闇の向こう側へ一人で行かせたりはしないよ。絶対にね」
彼女はもう一度だけ振り返り、あいつの視線を正面から受け止めると、そのまま部屋を後にした。
それから間もなく、カイとクロエの二人はホライズンクレストへと帰還した。あの対話の重みが、その日の残りの時間、カイの胸の内に静かな沈寂となって沈み込んでいた。
屋敷に到着した時には、アイヴィーが今回の公式会談のためにあらかじめ用意してくれていた正装の段取りが、すでに完璧に整えられていた。――無駄な虚飾を徹底的に省き、一国の魔王としての絶対的な気配だけを正当に格付けした、シンプルかつ威厳に満ちた装束だ。
一方、その頃ミラス王国では、エリスとエンゾの二人が、遥かに泥臭く凡俗な実務の処理に追われていた。――国の急速な復興プロセスの弊害として、配給インフラの境界線が曖昧になっていた穀物の流通権を巡り、数人の往年の貴族どもが、またしても若きジーク王子の権威を小馬鹿にして試そうと水面下で蠢いていたのだ。
「あいつらは、貴方が若いというそのレッテルだけで侮ってきているのよ」
エリスは、またしても紛糾する評議会の書類を整理しているジークに対し、辛抱強く、かつ有能なアドバイスを提示していた。
「だからといって、貴方が自分の防衛ライン(主張)を一歩でも引く理由にはならないわ。毅然としていなさい」
「ぶっちゃけ、エンゾ様がそこに直立して睨みを利かせてくれているだけで、大抵の実務は一瞬で片付くのですがね」
ジークは苦笑しながら、議場の隅のほうを見やった。そこには、古代竜としての絶対的なプレッシャーを湛えた男が、腕を組んだまま、ただの一言も発することなく不動の姿勢で直立していた。
「 threats (脅し文句)を口にするよりも、ただ沈黙しているほうが、大抵の日常においては効率的に機能するものさ」
エンゾは視線を向けることすらなく、低く呟いた。
「自分の本当の出力がどれほどの怪物であるのか、それを直接言語化してやる必要はない。あいつらに勝手に『底知れぬ恐怖』を妄想させておけばいいんだよ」
案の定、その日の評議会の貴族どもは、あいつが部屋にいるというその一事実だけで、普段の数倍のスピードで極めて公正な妥協案への署名(合意)を完了させるのだった。
そしてついに――【陰陽術師団】との confidential (極秘)会談の当日が訪れた。
ホライズンクレストの屋敷に、カイを直々にエスコートするための使者の女性が姿を現した。――だが、彼女が部屋に足を踏み入れたその最初の数秒で、カイの感覚は、彼女の身に纏うオーラ制御の精密さが、常軌を逸したレベルで『意図的に隠蔽されている』という不気味な綻びを完璧にマークしていた。
普通の人間の魔力知覚では、到底気づくことすら不可能な極限の変装。
しかし、少し離れた場所からその様子をじっと監視していたアイヴィーの目は、すでにその使者の正真正銘の正体を、完璧に見抜いてその脳内データへとロックオンしていた。
ひまりは正装に身を包み、準備を整えていた。クロエも同様だ。
「お初にお目にかかります、カイ様」少女は言った。「私の名はフレデリカ。陰陽術師団の使者です。皆様を師団の評議会へとご案内するために参りました。詳細につきましては、到着されてからということで。――それでは、参りましょうか」彼女の微笑みは礼儀正しく、洗練されていた。
カイ、クロエ、ひまりの三人は共に転移魔法陣へと足を踏み入れ、そしてその場から姿を消した。
その直後、ニュクサーラが姿を現し、彼らを見送ったばかりのアイヴィーを捕まえた。「あの娘、何て名を名乗っていった?」
「フレデリカ、と」アイヴィーが答える。
ニュクサーラはそれを咀嚼した。「フレデリカ、か。なるほどね。ついに【ナンバースリー】が名前を授かったわけ。……おもしろいじゃない」
転移した瞬間、陰陽大砦の圧倒的な存在感がカイを襲った――広大で、重苦しく、紛れもなく重要な場所。フレデリカに案内され、他の出席者たちが徐々に集まる中、カイは指定された高座へと着いた。
その時、彼は『それ』を感知した――瞬時に理解できるその気配。振り返ったカイの視線の先にいたのは、ナオ・シミズ。アス、その左右を固めるヴォラス、スコルン、さらにジローの姿だった。
思考が追いつくよりも早く、彼の肉体が動いていた。激しい怒りが、これまで慎重に組み立ててきた忍耐の計画をすべて叩き潰す。
だが次の瞬間、彼の周囲の時間が完全に停止し、そして巻き戻った――ひまりの仕業だ。彼女はカイから事前にすべてを聞かされていた。ヴォラスとスコルンが何者であり、過去に何をしでかしたのかを完璧に把握していたのだ。
「ハルト」彼女はカイを見下ろし、毅然とした声で言い放った。「座りなさい」
――ハルト。その名に、ジローの頭が弾かれたように勢いよく振り返った。彼の視線がカイ、ひまり、クロエの三人へと同時にロックオンされる。ジローはひまりの顔をじっと見つめた。髪の色が変わり、瞳の色が変わっていようとも、脳内データがその面影を完璧に照合し、驚愕の火花を散らす。
(何が起きてる……? まさか、あれは――ひまりか? 今、あいつをハルトって呼んだのか!?)
「ジロー?」ナオ・シミズが振り返り、ジローを促した。「いつまでそこに突っ立っているの」
ヴォラスとスコルンの二頭は、ただの一言も発しない。ジローは明らかに動揺を隠せぬまま、あいつらの隣のポジションへと戻った。
続いて、カズヒコ・オノが姿を現した。その左右にはフレデリカともう一人の従者が控えている。その二人を目にした瞬間、クロエの表情が一気に冷徹に研ぎ澄まされた。
「あの二人、ネロと同じ匂いがするわ」彼女は極小の声で囁いた。「ニュクサーラやラヴェシアもそう。オーラに特有の空白があるけれど、この原初の香りは間違いないわ」
「そう言われてみれば」ひまりが言葉を重ねる。「フレデリカが最初に迎えに来た時、まるでニュクサーラの目の前に直立しているような絶対的なプレッシャーを感じたわ」
(ヌル。――あいつら二人の正体を正確に鑑定できるか?)カイは脳内に問いかける。
《報告。対象の鑑定が完了しました。――当該個体は、原初の悪魔【ナンバースリー】および【ナンバーセブン】と識別されます》脳内の虚無無意識が冷徹に告げた。
(嘘だろ……)
《肯定。事実です》
(じゃあ、あいつらもすでに名前を上書き(命名)されてるのか)
《肯定。完了しています》
(ネロと同じように?)
《ネロの現在のシステム格付けに極めて近い状態です》
(あいつ、一体どうやって二頭も同時に命名なんてデタラメな実務をこなしたんだよ? 俺なんて一頭だけで二十パーセントも持っていかれたってのにさ)
すると、カイの記憶にある限り、脳内の虚無無意識が初めて「はぁ……」と明確にため息を漏らした。
(おいおい、システムがため息を吐くなんて、そんなの初めて聞いたぞ……)
フレデリカが一歩前へと進み出た。「評議会の開始に先立ち、本日この場にお集まりいただいた栄誉ある皆様をご紹介いたします」
彼女は順に出席者たちを読み上げていった――魔導公国ギルド総帥、アエオス・エルデラ。フィオラーノ領主、クロナラ・アルフィエリ。エルフ帝国最高統治者、常緑王朝女帝エラリア・シルヴァレンヌ。そして、最高位魔王、ディーヴォ・アジェラ――カイは微動だにせず、その表情には読めない沈黙が宿っていた。
「【破壊の魔王】。ニュクサーラ様」
その瞬間、カイの目が大きく見開かれた。(……は? ちょっと待て)
彼は即座にニュクサーラの高座のほうへと顔を向けた。(なんであんたがここにいるんだよ!? 居残り(お留守番)を志願したはずだろ!)
カイは内心で深いため息をついた。(本当に、いい加減にしてくれよな……)
フレデリカは何事もなかったかのように解説を続ける。「...そして、もちろん――魔王カイ。またの名を【竜魔王】」
(……なんでそんなに無駄にドラマチックな格付け(二つ名)になってるんだよ)カイはパチクリと目を叩いた。
彼女は一歩下がり、最後に円卓の最上席を指し示した。「当師団の創設者であり、陰陽術師団総帥、カズヒコ・オノ様」
「――以上が、現時点で到着されている栄誉ある皆様です」彼女はそう言うと、大広間の巨大なエントランスのほうへと視線を向けた。
沈黙。一分が経過した。そして、もう一分。
カイは片方の眉を上げた。(これ……もしかして誰か待ち(遅刻)か?)
フレデリカが手元の時計を確認する。「……そのようでございますね」
巨大な扉がゆっくりと開いた。一人の小さな人影が、世界の最高権力者や魔王たちを一堂に待たせているという事実に微塵も動じる様子なく、のっそりと中へと歩を進めてきた。
その人影は、ふわぁと大きなあくびを噛み殺した。「……わりぃ、遅れた」
(おいおい。あんた、文字通り時間を司る【時空竜】だろ? 時間の支配者のくせに遅刻してんじゃねえよ!)
フレデリカは一瞬だけ目を閉じ、このお約束なエラーの展開に完全に慣れきった様子で息を吐いた。「……左様でございますか」
その少年は、ただ不敵にニカッと笑ってみせた。
「ご紹介いたします。魔王イオン・スティルミア。――【時空竜】にして、通称『未知』」
時空竜、か。カイの瞳が鋭く細まる。その子供のような無害な外見の裏側に潜む、あまりにも底知れない、悠久なる大質量の魔力。――デタラメに、古すぎる。
「以上をもちまして、すべての公式紹介を終了いたします」フレデリカが恭しく一歩下がった。
イオンはだらしなく片手を上げた。「……なんか、重要な実務見逃しちゃった?」
カイは深いため息を吐き出した。
(クソ。この評議会、会議が始まる前からすでに頭痛の種にしかなってねえよ……)




