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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
壊れた世界(偽りの現実)

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第48話:クロエ

扉が開いた瞬間、カイは顔を上げ、アイヴィーが連れてきた存在から放たれている悍ましい気配を即座に察知した。そのプレッシャーは、尋常ならざる拒絶反応(エラー)を孕んでいる。


「何だ、そいつは……」

カイは、アイヴィーの捕獲結界の中で身動きを封じられ、静かに狂気を孕ませている少女のオーラを凝視した。

「……普通じゃないぞ、この気配は」


《報告。対象は吸血鬼(ヴァンパイア)。――現在、四つの独立した『呪い(カース)』によって精神と肉体を完全に束縛されています》

脳内のヌル(虚無無意識)が淡々と解説を付け加えた。


「四つだと?」カイは眉をひそめる。「よっぽど誰かに恨まれてたんだな」


《否定。彼女は生まれながらにその呪いを宿しています。――あなたと同様に、この世界へと『転生(てんせい)』してきた存在です》


カイの身体が、ピタリと硬直した。

「待て。アイヴィー……もしかしてこいつが、噂のヴァネッサなのか?」


「ええ、その通りですよ。カイ様」アイヴィーが頷く。


「主(マスター)、こいつをどうするつもりだ?」ネロが尋ねた。


「安定させる」カイはすでに足を進めていた。「よし、アイヴィー。結界を解いてくれ」




檻の防壁が消滅した刹那、ヴァネッサは理性を完全に失った獣のごとき突進で、真正面からカイめがけて躍りかかってきた。一切の容赦のない、純粋な生の暴力。


だがその瞬間、ヌルが自動的にカイ独自の戦闘空間を起動。あいつの身体ごと空間の深層へと引きずり込み、世界を二人だけの領域へと隔離した。あらゆる従来の防御構造を完全に『超越(バイパス)』するはずだったあいつの固有能力は、最初から『無(ヌル)』そのもので構築されたカイの世界の前には、牙を立てるべき概念すら見出せず、虚しく霧散していった。


地中から漆黒の鎖が猛烈に這い出て、暴れるあいつの四肢を空中で完璧に縫い留める。カイは静かに近づくと、その頭へとそっと手のひらを添えた。


「……お前の気持ちは、痛いほどよく分かるよ」

それは、偽りのない本音だった。


カイの魔力制御が浸透していくにつれ、彼女の魂を崩壊の危機に陥れていた濁った魔力が徐々に凪いでいき、暴走の嵐がゆっくりと収束していく。


「この呪いそのものを完全に消し去ってやることは、今の俺にはできない」

カイは、声音を極めて和らげて語りかけた。

「これは、お前がこの世界に転生してきた瞬間にシステムに刻み込まれたものだからな。……だけど、呪いにお前自身が支配されるんじゃなく、お前がその呪いを『支配(コントロール)』できるようにしてやることは可能だ」




彼女の瞳が、かすかに、本当にわずかだけ開いた。狂気の奥底から、本物の理性の光がパチパチと瞬きを始める。


「全部、綺麗に整えてやるからな」カイは言った。「――新しい『名前』は、欲しいか?」


ヴァネッサはその問いの意味を、完全には理解できていなかった。だが、彼女は引き寄せられるように、小さく、こっくりと頷いた。


「――『クロエ(Chloe)』だ」


《告知。命名が完了しました。進化の条件が満たされました。【コッリ・ヴァネッサ】は、その種族的な限界値を完全に超越しました。――進化のルートを選択してください。

オプション一:【原初吸血鬼(プリモーディアル・ヴァンパイア)】

オプション二:【吸血鬼の魔王(ヴァンパイア・ロード)】》


「また選択肢(オプション)があるのかよ」カイは苦笑する。「じゃあ、両方だ。全部乗せで頼む」


《告知。進化の融合(ハイブリッド)が完了しました。種族名:【真・真祖魔皇(トゥルー・ヴァンパイア・ロード)】へと移行します》


だが直後、脳内に異質なエラー音が響き渡った。

《――警告。システム内に想定外のエラーを検知しました。進化の軌道(ルート)が強制破棄されました。未知の新固有種への変異を確認。――このまま、新固有種への進化を継続しますか? YES / NO 》


「エラーだって?」カイは驚きを隠せない。「一体どこからエラーなんて湧いて出たんだ? ……まあいい、YESだ。継続してくれ」




空間に血塗られた不気味な時計の文字盤が再び浮かび上がり、秒針が不規則に何度か逆回転した。――そして次の瞬間、その時計の動きが完全に停止し、灰となって消滅した。


《告知。進化が正常に確定しました。進化完了。――新たな固有種を確認。種族名:【血鮮の主宰者(ブラッド・ソヴァリン)】へと進化しました》


禍々しい術式の光が完全にフェードアウトし、極限の進化の反動に耐えかねたクロエの身体が、糸の切れた人形のようにカイの腕の中へと崩れ落ちた。


「なぁ、ヌル。なんで今、エラーなんて起きたんだ?」カイは脳内に問いかける。


《解説。あなたの宿す無(ヌル)の魔力が、命名を通じて彼女の魂へと直接融合した際、彼女の魂の許容量(キャパシティ)が、当初予定されていた進化のルートを完全にオーバーフローしました。その結果、システムは【真・真祖魔皇】の段階を完全に飛び越し、あなたが授けた圧倒的な力を正しく格納するための絶対的な器として、世界に前例のない【血鮮の主宰者】を急造したと推測されます》


それから数瞬の後。クロエはゆっくりと、本当にゆっくりと目覚めた。

カイを見上げるその瞳は、この十五年間の生涯において、おそらく初めてと言っていいほど、濁りのない、澄み切った理性の光を湛えていた。


「……貴方は、だぁれ?」

鈴を転がすような、透き通った声だった。


「俺はカイだ」カイは微笑む。「色々と説明してやりたいところだけど、まずは――」


その言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

クロエは一切の躊躇なく、突如としてカイの首筋へと噛み付き、その喉元から溢れ出る鮮血を、ダイレクトに貪り喰らい始めたのだ。




(……おいおい。なんでこいつ、俺の絶対結界をこんなにあっさり擦り抜けて噛み付いてこれたんだ!?)

カイは、痛みよりも純粋な困惑のほうが勝っていた。


《解説。命名が完了したことにより、個体名『クロエ』は自身の宿す能力の完全な主導権を掌握しました。これに伴い、彼女を十五年間狂わせていた飢餓の指向性が完全に上書きされ、そのすべてが――あなた単体へと向けられることになりました》


「指向性の上書き……? それって、具体的にどういう意味だよ」


《報告。つまり、今後の彼女は、あなた以外のいかなる生命体に対しても、牙を剥くことも、その血を求めることも一切なくなる、ということです》


(嘘だろ……。とんでもないバックアップ思想がこんなところで発動してんじゃねえよ)


クロエはひとしきり血を吸い終えると、ゆっくりと顔を離し、カイの顔をじっと見つめた。その瞳には、さっきまで彼女を支配していた獣のような飢餓の気配など、微塵も残されてはいなかった。

代わりに、ひどく柔らかく、潤んだ光がそこに宿っていた。――もっとも、今起きたデタラメな状況を処理するのに手一杯なカイは、その『柔らかさ』が一体何を意味しているのか、まだ一ミリも気づいてはいなかったのだが。


(あーあ……。完全に惚れちゃったな、これ。一瞬で、完璧に、取り返しのつかないレベルでね)

アイヴィーは、目の前で繰り広げられるあまりにも出来すぎた主従の誕生(イベント)を眺めながら、内心で最高に楽しそうにクスクスと笑うのだった。




------------



ひとたびクロエの容態が安定すると、カイは彼女に向かって、すべてを包み隠さず理路整然と説明して聞かせた。――自分が何者であるのか、この世界の本質とは何なのか、そして彼女が宿す『転転生(てんせい)』の真実について。

彼女はその言葉を、何の疑いもなく素直に信じ入った。カイが口にした『小林(コバヤシ)』という前世の苗字そのものが、彼女の魂の深層に、言葉では到底説明のつかない絶対的な重み(シンパシー)をもたらしたからだ。なぜかは分からないが、彼女の深い本能が、その名の中に絶対的な「同胞の絆」を感じ取っていた。


それからの数日間をかけて、カイは彼女を屋敷の残りのメンバー――エリス、エレーン、エンゾ、ネロ、そしてセリへと順次引き合わせていった。ホライズンクレストにまたしてもデタラメな規格外の新人が増えたという報告に対し、幹部たちはもはや、彼らなりの呆れ混じりの親愛をもってその事実を当たり前のように受け入れていた。


「また増えたわね」エレーンがごく軽い調子で言った。


「俺はもう、驚くのを完全にやめたぞ」エンゾがそこに言葉を添える。


一方、アイヴィーはといえば、まさに自分が密かに望んでいた通りの最高の対価を手に入れていた。カイは約束通り、彼女に対して上位の『進化(エボリューション)』を無条件で執行。魔王への覚醒途上にあった一介の悪魔から、正真正銘の、絶対的な【覚醒魔王(アウェイクン・デーモンロード)】へと彼女を完全な形で昇華させたのだ。


「感謝いたします、カイ様」

アイヴィーは、隠しきれない破格の満足感を湛えながらも、完璧な所作で恭しく一礼した。


「あんたが自分で掴み取った結果だよ」カイは微笑む。「あの狂暴なヴァネッサ(クロエ)を単独で捩じ伏せて、ここまで無傷で連れ帰ってきたんだ。これくらいの報酬は、このファミリーの一員として当然の権利さ」




エリスはそれからの数日間、クロエが当然のような顔でカイのすぐ傍らをキープし続けている姿――単なる命の恩人に対する感謝の枠を、遥かに逸脱したレベルの絶対的な距離感――をじっと見つめながら、己の胸の奥底に、何やら小さく、居心地の悪い感情がチクリと疼くのを感じていた。だが、彼女はまだその正体を深く分析しようとはしなかった。


(……もの凄くべったりと粘着( cling )してるわね。論理的な理由は分かってるのよ。名付けによる指向性の上書き、あの redirected された飢餓感、二人の間に構築された絶対的な主従のパス。……それでも、目の前で見せつけられて、面白いかって言われたら、それはまた別の話だけど)


しかし、彼女はその不満を一切口には出さなかった。ただ、数年前にカイが森の片隅で半死半生だった自分を救い出してくれて以来、ずっとそうしてきたように、静かに、辛抱強くその光景を観察することを選んだ。


(……このファミリーの破片が、また誰も予想しなかったデタラメな方向へと進化していく。まあ、この国じゃそれが『いつもの日常』なんだけどね)




そしてカイは、自らのシステムの中に、ある絶対的な黄金律(パターン)が完璧に機能していることに改めて気づいていた。――自分が誰かに『名』を授けるたび、対象は常軌を逸したレベルで強大化し、そしてその進化した配下の絶対的な成長のエネルギーが、今度はそっくりそのまま、主である自分自身のステータスへと猛烈にフィードバック(還元)されてくるのだ。これまでにどれほど多くの人間に命名を施してこようとも、その相互強化の無限ループは、衰えるどころかさらにその加速を増していた。


(俺が与えれば与えるほど、俺自身がさらに強くなる。こんなシステム、最初から意図して創ったわけじゃない。これが、俺の宿す【無(ヌル)】の本質的な機能ってことか)


《肯定。極めて正確な洞察です》脳内のヌルが、誰に頼まれるでもなく静かに告げた。《この相互フィードバック機構は、授けられた絶対量に比例して、主従の双方に対して完全に均等なシステム上の恩恵をもたらします》


この十五年間、死んでは生き返る絶望のループの中で摩耗しきっていた理性をようやく取り戻したクロエは、屋敷の住人たちの様子を、驚きと感動に満ちた大きな瞳でじっと見つめ続けていた。彼らは、それぞれが抱える喪失や理不尽な過去の中から、これほどまでに温かく、揺るぎない『家族の居場所』を自らの手で創り上げていたのだ。時間をかければ、自分もまた、その中にまともな席を見出せるかもしれない――彼女は、そう確信し始めていた。


(十五年の間、死ぬたびに自分の中の何か大切なものが擦り切れて、何も残らない空っぽの生を繰り返してきた……)

クロエは、ネロとセリの間で起きたささやかな諍いを、丁寧かつごく自然な威厳で仲裁しているカイの横顔を見つめながら、内心で深く息を吐いた。

(だけど、今ここに、ようやく命を懸けて生きるに値する本物の『日常』がある。……そう思える場所が、できたんだね)


その日の夜、彼女は宴の終わりまで片時も彼の傍らを離れようとはしなかった。それは彼女にとって、記憶にある限り、人生で初めて訪れた『正真正銘の平和な一時間』だった。


その後、カイは地下特設インフラ施設に丸四ヶ月の間引きこもり、誰にも邪魔されることのない極限の集中状態で、前例のない規模での【創生エネルギー】の超高純度精錬と安定化のプロセスに没頭することとなった。


(実験(バッチ)が一度失敗するたびに、新しいデータが手に入る。安定化が崩壊するたびに、どの変数の数値を間違えたのかが完璧に言語化される。……これくらい、前世の取引口座で画面の上の数字のパターンを四六時中分析していた日々に比べれば、ただの計算と忍耐の作業だ。俺にできないわけがない)


クロエはその四ヶ月間、ずっと彼の傍らに寄り添い、静かに食事の手配や身の回りの世話をこなしていた。それは、あの十五年間に及ぶ狂気に満ちた生の暴力に比べれば、彼女の肌に驚くほどしっくりと馴染む、最高の家庭的(ドメスティック)なリズムだった。エースもまたその場に残り、施設の周囲を満たす環境魔力の流れについて極めて有能な助言を的確に提示する一方で、地上の厨房に比べて地下の料理のクオリティが著しく劣っていることに対する不満のフィードバックを、一日たりとも絶やすことはなかった。


「お前さ、文句を言うエネルギーがあるなら、もう少し手を動かして手伝ったらどうだ?」

カイは、これまでに何度も繰り返してきたセリフを吐いた。


「俺は今、最大級の手助けをしているつもりだが?」エースは、至極平然とした顔で言い放つ。「組織の士気(モチベーション)を維持するためには、常に誠実なフィードバックが不可欠だ。俺は今、その誠実なフィードバックを義務として提供しているに過ぎん」




エレーンはプロジェクトの初期段階において、この地下施設の一角に、最低限の生活空間(リビング)を完璧に構築してくれていた。豪華絢爛ではないが、長時間の精錬作業の合間に、現場を完全に無人にすることなく睡眠と入浴をこなせるだけの、極めて機能的な空間だ。クロエはその空間の台所で、物静かな、しかし一途なまでの献身を込めて料理を創り続け、カイが実務に熱中するあまり食事の時間を完全に忘れてスキップしてしまうことがないよう、徹底的に目を光らせていた。


その頃、地上の世界では、残された幹部たちがホライズンクレストの爆発的に拡大する国際的な実務と義務のネットワークを、完璧な手際で回し続けていた。


エリスとエンゾの二人はミラス王国に留まり、若きジーク王子の権威を小馬鹿にして試そうと水面下で蠢いていた野心溢れる貴族どもを、その圧倒的な武力(プレッシャー)の威嚇をもって完璧に捩じ伏せていた。アシュフォード王国とホライズンクレストとの間の交易は、今や完全に盤石な、揺るぎない流通ルートとして定着。さらにティアムーン王国からは、定期的に小規模な学者たちの使使団が訪れ、ホライズンクレストが輸出し始めた驚異の農業資材と、正しい知識の共有によって大陸全土の農業の常識を根底からひっくり返しつつあるその生産理論を、血眼になって学び取ろうと熱い視線を注いでいた。


帰還したアイヴィーからティアムーン王国との同盟の全容について直接報告を受けた際、カイはそれを、日々の大半を埋め尽くしている研究プロジェクトに直接関係のない事柄に向ける、いつもの心ここにあらずといった半ばうわの空の態度で聞き流していた。


ネロ、アイヴィー、エレーンの三人は、ヴァンスと共にホライズンクレストの日常的な統治を共同で執り行っていた。このローテーションは、その陣営の構成がいかに奇妙極まるものであるかを考えれば、驚くほど安定した形としてすでに定着しつつあった。




一方、遥か彼方に位置するテオレマ王国では、これとは全く異なる異質な会議が幕を開けていた。


「魔王(デーモンロード)どもに、この世界を支配する権利など断じてない」

ヴァルト・ホラックスは、その評議会がこれまでに幾度となく耳にしてきたであろう絶対的な持論を、再び厳かに宣言した。

「新たに台頭したその脅威の息の根は、この私が自らの手で直接叩き落としてくれる」


彼の絶対的な自信は、自らの持つ最大奥義【神罰(ジャッジメント)】の前に消滅せぬ存在などこの世にいないという、揺るぎない確信に基づいていた――そして事実として、その消滅の力がこれまでの生涯において彼を裏切ったことはただの一度もなかった。


「奴がアシュフォードに何をしたか、お前たちも聞いているだろう」

ヴァルトは言葉を重ねる。

「ミラス王国に至っては、完全に国ごと蹂躙されたのだぞ。我々が今すぐ動かねば、奴の次の標的になるのはこのテオレマだ」


そう叫ぶ彼の精神は、すでに正常な状態(正気)ではなかった。彼の絶対的な確信の裏側で、何かが静かに、そして誰の目にも留まらない形で致命的に捻じ曲げられていたのだ。


その傍らには、彼の息子――かつて『ケンジ』として生き、前世の記憶も自分が犯した罪の自覚も何一つ持たないままこの世界に転生してきたジローが座っていた。彼は妹の髪を編み込むのを手伝いながら、内心で終始、不敵な笑みを深くしていた。


(――『支配(ドミネーション)』、そして『強欲(グリード)』。どちらの能力も、狙い通り完璧に機能してやがる。あいつは俺が手を下す前から、最初から魔王を激しく憎悪してた。俺はただ、その凝り固まった憎しみに『都合の良い逃げ道』を与えてやっただけに過ぎない)




父親という絶対的な媒介を通じ、何ら抵抗を受けることなく侵食を広げたジローの固有能力(ユニークスキル)は、テオレマ王国の国王、さらには各地の有力貴族に至るまで、宮廷の意思決定を司るほぼすべての者たちの精神へと水面下で静かに伝播していた。


(――影の中からすべての糸を引く絶対的な統治者(ルーラー)、か。ケンジなんてくだらない人間として生きていた頃に比べれば、この響きのほうが遥かに俺の肌に馴染むな)


テオレマ王国はホライズンクレストの国境と目と鼻の先に位置しており、この地でこれから巻き起こるであろう激動が、遠く離れた他所の問題のまま平穏に収まるはずがなかった。




同じ頃、さらに遥か彼方にそびえ立つエーテリス神聖教会では、東の帝国と北の帝国の双方の聖職者たちが一堂に会し、同じく肥大化する新たなる脅威について緊急の合同評議会を開いていた。


「我が方の諜報ネットワークによると」

一人の朗読官が、長大な報告書を紐解きながら厳かに読み上げる。

「……この新たなる魔王は、自らを『小林家(コバヤシ・ファミリー)』と称する謎の陣営を率いている模様。奴はかつて【混沌竜(カオス・ドラゴン)】があの原初の悪魔【ナンバーエイト】を封印したまさにその跡地に国家を建国し、噂によれば、その封印を自らの手で直接破壊したとのこと。配下には一体の『古代竜(エルダー・ドラゴン)』、さらには絶滅したと信じられていた『災厄の狼(カラミティ・ウルフ)』。そして、新しく覚醒したという一頭の魔王。正体不明の人間と真祖(ハイ・エルフ)までもが、その直属として控えているとのことです」


「……待て。奴が本物の魔王を自らの配下( subordinate )に下しているというのは、本当に間違いないのだな?」

高位の司祭の一人が、心底信じられないといった風に身を乗り出して問い詰める。


「間違いございません」

朗読官がそれを肯定した。

「元は原罪を刻まれた悪魔であり、奴から『アイヴィー』という名を授かったとのこと。その名付けのシステムを通じ、単独で魔王のステータスへと強制進化(エボリューション)を遂げた模様です」


その瞬間、聖堂内は一狂乱の渦へと叩き落とされた――その脅威がこれ以上肥大化する前に今すぐ包囲網を敷き、根こそぎ抹殺すべきだという過激な怒号が四方から飛び交う。




その怒号の最中、血相を変えた新たな伝書使が乱入し、手にした最新の書状を掲げた。

「緊急報告です! あの原初の悪魔【ナンバーエイト】に対し、新たな名が授けられました。その名は――」


彼がその名前を最後まで紡ぎ切るよりも前に、その首が綺麗に胴体から滑り落ちた。


絶対的な死の静寂が、一瞬にして聖堂内を丸ごと貪り喰う。


呆気にとられた二人目の神官が、地面に転がったスクロールへと必死に手を伸ばし、そこに刻まれた名前を声に出して読み上げようとした――が、次の刹那、あいつの首もまた全く同じように宙を舞った。


「……我らが、神が……」

通信網を司る連絡官が、全身をガタガタと激しく震わせ、狂乱に陥りながら辛うじてそれだけを絞り出した。

「……神が今、直々に御神託を下されました。――『その名は、同等の絶対的な力を持たぬ者が軽々しく口にすることすら許されぬ不可侵の領域である』……と!」


議場は、一瞬にして底知れぬ混乱と恐怖のルツボへと変貌した。神官も聖騎士(ホーリーナイツ)たちも、その姿を捉えることすら不可能な目に見えぬ絶対的な脅威に対し、ただ狼狽しながら防衛陣形を敷くことしかできなかった。




一方、遥か彼方、凡俗なる人間の認識を遥かに超越した次元の玉座の間において、ナオ・シミズはそれまで向けていた思索の視線をゆっくりと上げ、その美貌に妖しい笑みを浮かべた。


「――カイ・コバヤシ(小林カイ)」

彼女は静かに、どこか愛おしそうにその名前を呟いた。


その左右には、真竜であるヴォラスとスコルンの二頭が、絶対的なプレッシャーを湛えて直立している。


「奴がニュクサーラやネロと同盟を結び」

スコルンが低く、地を這うような声で言った。

「……さらには古代竜と吸血鬼までもをその手中に収めた今、我らはここからどのようにチェス盤を動かす?」


「今はまだ」

ナオ・シミズは不敵に微笑んだ。

「……ただ静かに腰を据えて、目の前で繰り広げられる極上の余興(ショー)を特等席で楽しむとしましょう」


「……貴女がそう言うなら、異論はないがね」

ヴォラスは退屈そうに肩をすくめ、それ以上の余計な言葉を重ねることはしなかった。




------------



ホライズンクレストの地下特設施設。

そこに、ティアムーン王国のミラベル女王からの正式な国家承認書が届けられた。アシュフォードとミラスの両国がすでに証人として署名を済ませており、ホライズンクレストを国際法上の『正当な国家』として認めるという、歴史的な大書状だ。

しかしカイは、目の前の極めて繊細な精錬作業から視線をほとんど上げることもなく、ただの事務作業としてサラサラと署名を走らせると、即座に自らの魔導プロジェクトへと意識を戻した。今の彼にとって、その紙切れよりも、創生エネルギーの安定化のほうが遥かに優先すべき実務だったからだ。


一方、テオレマ王国では、ジローの野心が単なる「影の支配」を越えて、極めて凶悪な領域へと肥大化を遂げていた。

彼の持つユニークスキル【支配(ドミネーション)】の本質は、精神を操るだけに留まらない。――支配下に置いた対象が『死亡』した際、その者が宿していたすべてのスキルや戦闘能力を、そっくりそのまま自分自身の魂へと直接強制転送(インポート)し、自分のモノにするというデタラメな略奪特性だった。そしてその強欲な捕食本能を、もう一つの能力【強欲(グリード)】が水面下で際限なく加速させていた。


(まずは親父だ。それから、テオレマに残された最強の戦力ども。……四百の軍勢をホライズンクレストへ進軍させ、敵の魔王の手で一人残らず血祭りにあげさせる。奴らが全滅した瞬間、あいつらが持っていた絶大なる能力は、すべてこの俺のモノになるってわけだ)


その日の午後、彼は父親の庭園に座り、何も知らぬ妹の髪を優しく編み込みながら、内心で最高に不敵な笑みを深くしていた。


(――すべては、完璧に俺の計算通りに動いている)


哀れなことに、彼はまだ微塵も気づいていない。自分が前世において、まさに今から喧嘩を売ろうとしている『カイ』という存在そのものを惨殺した、あのケンジという男の成れの果てであるということに。




そんなある日の午後、アイヴィーが地下施設へと飛び込んできた。カイがちょうど、いくつかの極めて繊細な安定化スペルの融合に脳細胞を尖らせている最中だった。


「カイ様」

彼女の声には、カイの集中を強制的に遮断させるに十分な、明確な緊迫感が宿っていた。

「テオレマ王国の軍勢が、我が国めがけて進軍を開始しました。精霊召喚師が二百、重装歩兵が二百。すでに国境へ迫っています」


カイは構築しかけていた術式を机に置き、ここ数週間で初めて、本気でイラついたように深くため息をついた。

「……なぁ、誰でもいいから、テオレマが俺を敵に回した本当の理由を教えてくれ。なんでこの世界の国々は、どいつもこいつも宣戦布告の警告一つなしに、いきなり戦争をふっかけてくるんだ?」


「あの勇者は、純粋に魔王という存在を激しく憎悪しているのです」

アイヴィーが答える。

「……どうやら、そこには一切の交渉も、条件も通用しない不条理なレッテルがあるようで」


「だったら、なんで他の魔王じゃなく、わざわざ新人の俺をピンポイントで狙ってくるんだよ?」


これまで静かに傍らに控えていたクロエが、そこで自らの見解をポツリと口にした。

「……おそらく、貴方が『新しい魔王』だからじゃないかしら? あいつら、貴方がまだ自分の手に入れた絶対的な力を正しく使いこなせていないと、そう思い込んで侮っているのよ。きっと」


「その通りですね」アイヴィーが頷く。


「あら――私、当たってた?」クロエは、カイの役に立てたのが純粋に嬉しいといった風に、少し得意げに胸を張った。




「……チッ、こんなくだらない実務に構っている時間はないんだがな」

カイはすでに思考を次の防衛手順へと切り替えていた。

「報告感謝する、アイヴィー。――よし、俺が直接処理する」


彼は脳内でネロを召喚した。次の瞬間には、漆黒の外套を纏った深淵魔皇が当然のような顔で目の前に直立している。


「お呼びでしょうか、カイ様。状況はすでに把握しております。――あそこの有象無象ども、どのように手揉み(処理)いたしましょう?」


「俺は今の作業を絶対に止めたくない」カイは淡々と言った。

「あいつらの進軍を、ホライズンクレストの領土に一歩も入れさせる前に、外の領域で完全にストップさせてこい。……あ、それから、くれぐれもエンゾみたいなデタラメな更地(大惨事)は起こすなよ?」


ネロはケラケラと不敵に笑った。

「それは、あいつらが最初に見せる『ファーストインプレッション』の態度次第ですねぇ」


(……やべぇな。あいつのあの笑い方、絶対に不穏な予感しかしないぞ)

カイは、あいつの背中を見送りながら内心で頭を抱えた。


「カイ様、私も同行したほうがよろしいですか?」アイヴィーが尋ねる。


「ああ、名案だ」カイは即座に頷いた。「あいつのストッパーとして、一緒に付いていってくれ」


二人は即座にゲートを超えて出撃。カイは「これで一安心だ」と言わんばかりに自らの魔導インフラの実務へと戻り、いつものように、本物の脅威がホライズンクレストの国境に接触する前に水面下で完璧に処理する段取りへと戻るのだった。




テオレマ王国の四百の軍勢が、浅い湖の境界線を渡ろうとしていたその時、彼らの上空にネロとアイヴィーの二人が音もなく姿を現した。


「忘れないでね、ネロ」アイヴィーが釘を刺すように言った。「カイ様は『殺すな』と仰っていたわよ」


「分かってますって」

ネロはそう言うと、ごく軽い手つきで、パチンと指を一つ鳴らした。


次の瞬間。

湖を渡っていた四百の兵士、精霊召喚師、随行していた貴族、そしてテオレマの国王に至るまで――全員が、糸の切れた人形のようにその場にバタバタと崩れ落ち、完全な意識不明の昏睡状態へと陥った。


「……ちょっと、ふざけてるの!?」アイヴィーが怒髪天を衝く勢いでネロに詰め寄る。「私は今『殺すな』って言ったばかりじゃない!」


「殺してませんよ、眠らせただけです」ネロは拍子抜けするほど平然と言い放った。「安心してください」


「……一体、どれくらい眠らせたのよ?」


「まぁ、大体『千年間』くらいですかねぇ」ネロは顎に手を当てて、真面目に計算してみせた。「というか、ぶっちゃけ二度と起きない(永眠)かもしれません。システム的には『永久昏睡』のデバフを強制上書きしただけですから、まぁ、技術的には死んでないセーフってことで」


アイヴィーは、この悪魔のあまりにもデタラメな屁理屈の前に、本気で頭痛を覚えるのだった。




――まさにその刹那、空間を激しく引き裂く黄金の絶対生命光線が、二人の頭めがけて一点収束で解き放たれた。

アイヴィーは直感的にその軌道から音もなくブレを避けたが、ネロはその場から一歩も動かず、その直撃を真正面から生身で受け止めた。


【神罰(ジャッジメント)】。勇者ヴァルト・ホラックスが誇る、触れたすべての存在を世界から永久抹消する絶対無二の究極能力(アルティメットスキル)。


「我が国に牙を剥いた報いだ、魔物どもめ」

ヴァルト・ホラックスは、冷徹な目で言い放った。

「――次は、貴様だ」彼は即座に銃口をアイヴィーへと向ける。


だが、黄金の爆炎が晴れた。

そこには――衣服の端一つすら焦がすことなく、退屈そうに首をパチパチと鳴らしているネロの姿があった。

「……ん? 今の、何ですか? ちょっと温かい風が吹いたくらいですけど。……もしかして、それが自慢の攻撃だったりします?」


「……なぜだ! なぜ存在が消滅しない!?」

勇者の顔から、これまでの生涯で築き上げてきた絶対的な確信が、一瞬にして木っ端微塵に崩れ去る。

「我が神罰は、触れたものすべてを根こそぎ世界の常識(システム)から消し去るはずだぞ!」


「あー、そういうデタラメな消滅系の攻撃なら、昔馴染みのある奴から何度も食らったことがあってさ。俺、その手のシステムに対する絶対的な【概念抵抗(ネゲート)】を持ってるんだよね。正直、ただ鬱陶しいだけなんだわ」

ネロはそう言うと、昏睡した群衆の中で、ただ一人だけまだ気絶せずに直立している『一人の少年(ジロー)』へと視線を向けた。

「お、アイヴィー見てみろよ。一人だけまだ元気に立ってる奴がいるぞ。ってことは、俺の永久昏睡の範囲設定、全員即死(全滅)じゃなかったってことで、やっぱりセーフだな!」


「……もういいから、カイ様に今の惨状を報告しに戻るわよ」

アイヴィーは心底疲れ果てたように吐き捨てた。




二人が撤退のための『霧のゲート』へと向き直った、まさにその瞬間。

激昂した勇者が、狂ったように背後から再び神罰の光線を乱射した。その一撃が展開しかけていたゲートを木っ端微塵に粉砕し、激しい余波の閃光が、アイヴィーの左腕へとクリーンヒットした。


「片方が無効化しようとも、そっちの小娘には我が神罰が通用するようだな!」

ヴァルトが勝ち誇ったように叫ぶ。


だが次の瞬間、アイヴィーの切断されたはずの左腕は、超高速の幾何学スペルと共に一瞬にして完全再生を果たし、傷一つない元の状態へと戻っていた。


「……貴様ら、どいつもこいつもバケモノか……!?」勇者の目が狂気に染まる。


「いや、彼女のはただ、主の【無(ヌル)】の魔力による自動巻き戻し(バックアップ)の恩恵を受けてるだけさ」ネロが冷淡に言い放つ。「俺みたいに、最初から『構造そのものが別次元(ディファレント)』な化け物とは、ちょっとワケが違うんだよね」


次の瞬間、ネロは瞬きをする間もなく勇者の至近距離へと出現していた。

そして、ごく軽い手つきで、パチンと人差し指をあいつの胸元へと弾いた。――ただの、デコピンである。


ドゴォォォン!!!


伝説の勇者ヴァルト・ホラックスの肉体は、音速を超えて背後の巨大な岩盤へと叩きつけられ、その凄まじい衝撃の質量に耐えかねて、骨の一本に至るまで粉々に砕け散り、その場で即死(死亡)した。


「よし、任務完了(ミッション・コンプリート)だな」ネロは満足そうに胸を張る。


アイヴィーはそっと自分の額を押さえ、深いため息をついた。

「……あんた、これのどこがカイ様の命令通りの『任務完了』だって言うのよ」


こうして、テオレマ王国の誇る絶対的な防衛戦力は、ホライズンクレストの国境に接触することすら叶わず、一瞬にしてこの世から事実上の全滅(消滅)を迎えるのだった。




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アイヴィーから事の顛末をすべて聞き終えたカイは、呆れと諦めが入り混じったような、複雑極まる表情を浮かべていた。


「これじゃあ、外の国々はまた俺が直々に手を下したと思い込むだろうな」

カイは深くため息をつく。

「……まともに会話を成立させることもできない、うちのデタラメな身内のせいでさ」


その翌日、アイヴィーはテオレマ王国に対し、今回起きた事象に関する正式な通告を届けるべく現地へと赴いた――しかしそこで彼女が目にしたのは、そもそも戦争など最初から計画すらされていなかったかのような、不気味なほど平穏な光景だった。玉座には、すでに全く新しい若き統治者が腰据えていた。


彼女は新王との直接の引見に臨んだ。かつて老王が座していたその場所に、ジローが極めて平然と、何一つ物怖じすることなく傲然と君臨し、その王冠を自らのモノとして主張していた。アイヴィーが周囲を観察した限り、驚くべきことに、民や貴族たちはすでにこの若き新王を心から支持し、歓迎している様子だった。


彼女はそれ以上の余計な詮索をせず、そのままホライズンクレストへと帰還し、見たままの事実を淡々と報告した。


「新しい王、ね」

カイは特に気にする様子もなく言った。

「名は『ジロー』か。……まぁ、前任者のような愚かな過ちを繰り返さないだけの賢さがあるなら、俺にとってはどこの誰が王になろうが知ったこっちゃないさ」




――だが、カイはまだ知らなかった。ホライズンクレストの誰も、その真実にまでは到底たどり着いていなかった。

あの瞬間、ジローは実の父親が宿していたすべての力を完全に強奪していたのだ。かつてヴァルト・ホラックスを絶対的な脅威たらしめていたすべての固有スキル、すべての最大奥義、すべての戦闘能力。それらは父親が死亡したまさにその刹那、固有能力【支配(ドミネーション)】の冷徹なシステムによって、そっくりそのまま彼の魂へと直接強制インポート(吸収)されていた。そして、彼の内に暴れるもう一つの大罪特性【強欲(グリード)】が、新たな力を貪り喰うたびに、その捕食本能の飢餓感をさらに底知れぬ領域へと深化させていた。


さらに奇妙なことに――そして、カイがのちにその違和感に気づいた時、この上なく不気味な寒気を覚えることになるのだが。

前王の死、あるいはあの伝説の勇者の崩御に関する公式な一報は、外の世界はおろか、近隣の諸国へも『ただの一言も』漏れ聞こえてはいなかった。正式な葬儀の儀式も、国葬の触れ書きすらも、ホライズンクレストの構築した極秘の諜報ネットワークに引っかかることはただの一度もなかった。


(……おかしい。これは、いくらなんでも異常すぎるだろ。誰かが意図的に、完璧なまでの情報統制を敷いて物語(ナラティブ)の形をコントロールしている。――俺は、自分が全容を把握できていない『見えない敵』の影が潜んでいるという状況が、一番嫌いなんだよ)


その沈黙の裏に蠢く何かが、カイの胸の奥底に小さな、しかし消えない不穏な澱みとなって沈着していった。彼はその違和感を、脳内データの一角へと慎重に格納した。それは彼がこれまでの日々において、時間の経過と共に最初の印象とは比較にならないほどの破滅的な意味を持ち始める『小さな綻び』を処理する際、決まって実践してきた絶対的なルーティンだった。


テオレマ王国が仕掛けてきたあの大戦の不発から、すでに一ヶ月以上の時間が経過していた。

その静寂の間、ジローの魂の中では、前世のすべての記憶のサルベージが完了していた。――『ケンジ』としての人生の全容。それは、略奪した強大すぎる能力が彼の魂に馴染んでいくプロセスと同調するように、完璧な形で彼の脳内へと強制リブート(復元)されていたのだ。


彼はこの数週間、王国の奥底に封印されていた、大抵の国家がとっくの昔に歴史から抹殺したはずの『禁忌の魔導書』を貪り読む実務に没頭していた。――【魔王種(デーモンロード・シード)】を自らの内に発芽させ、覚醒魔王へと進化を遂げるための、絶対的なシステム要件に関するすべての記述を。


(……小林カイ。俺が今本当に欲しくてたまらないのは、あいつの持っているあの玉座だ。単なる一国の王としての絶対的な力じゃない。あいつの宿すあの固有の称号、あの特異な立ち位置。――この世界に新しく現れた新人のくせに、さも当然のようにあいつのモノになっているあのすべてを、この俺の手で根こそぎ奪い取ってやる)


彼の策略は、かつて父親が仕掛けたような傲慢で無鉄砲な正面突破とは異なり、極めて冷徹で、かつ忍耐強い計画へとシフトしていった。


(――俺自身が、あんな怪物と正面から殺し合う必要なんてどこにもないのさ。まずはまだ、その時じゃない。……いつだって、死ぬための実務は他の有象無象(代わりの駒)にやらせておけばいいんだよ。今までだって、ずっとそうしてきたんだからな)




その頃、ホライズンクレストの地上では、ささやかな人員の配置転換がごく自然な手際で行われていた。

これまで地下でカイの補佐を務めていたひまりに代わり、ユキが地上の交易窓口の計算実務を引き継ぐことになり、そしてひまり自身は、地下特設施設に引きこもるカイの『直接の右腕』として、その最深部へと派遣されることとなった。


当のカイはといえば、そんな外の世界の不穏なチェス盤の動きなど微塵も耳に入らぬほど、目の前のインフラ精錬の実務に完全に脳細胞を占拠されていた。数ヶ月に及ぶ緻密な計算とトライ&エラーを繰り返しているにも関わらず、【創生コア】の本格的な製造ラインは、未だに失敗の爆発を繰り返していた。


「もし、あんたの身体からお袋さんのコアを完全に引き抜けば」

ネロは、またしても均衡が崩れて消滅した魔力の残骸を眺めながら、退屈そうに指摘した。

「……あんたの宿す無(ヌル)の魔力は、一瞬にして絶対的な制御(コントロール)を失って暴走し、この世界を丸ごと更地にするぜ?」


「分かっているさ」

カイは特に動じることもなく、淡々と答えた。

「だからこそ、ちゃんとした段取り(計画)を用意しているんだよ。コアを引き抜く前に、俺自身の無の魔力を、そのお袋のコアのシステムに『直接ドッキング(同期)』させて完全に融合させる。そうすれば、仮にコアが俺の身体から離れた後であっても、俺の魔力は自立したまま完璧に安定を維持できるはずだ」




ひまりがその地下施設へと足を踏み入れたのは、まさにその日の午後のことだった。彼女を最初に迎えたのは、クロエだった。


「……何か、御用かしら?」

クロエは、カイの邪魔をさせないよう、どこか冷徹な警戒の光をその瞳に湛えて尋ねた。


「アイヴィー様からの指示で参りました」ひまりは応じる。「カイ様の実務を補佐するように、と」


クロエは彼女の身元を確認すると、奥にある中央精錬室のほうへと顎をしゃくった。ひまりがその重厚な防壁を跨いだ瞬間、彼女の目の前に広がったのは、空間のあちこちに幾何学的な光を放ちながら浮遊する、おびただしい数の多重魔法陣の山だった。何十もの複雑な術式構造が空中にサスペンドされており、魔法の専門的な訓練など一切受けたことのない一介の人間にとっては、それが一体何の暗号であるのか、一ミリとして理解できるシロモノではなかった。


(……ちょっと、これほどのデタラメな魔導インフラの山を前にして、私みたいな素人が一体どうやって手伝えばいいって言うのよ)

ひまりは、本気で途方に暮れながら内心で頭を抱えた。


カイは、空中に展開した極めてデリケートな術式の配列を組み替える実務に完全に集中しており、背後の足音に対して振り返ることもせず、ただ口だけを動かした。

「あぁ――来てくれたんだね。待ってたよ」


「どのような実務をお手伝いすればよろしいでしょうか、カイ様?」ひまりが尋ねる。


カイの手が、ピタリと止まった。

「……え?」


彼は、そのまま空中に指を浮かせた状態で、低く呟いた。

「……なんだこれ。なんで今、この声に、こんな強烈な聞き覚えがあるんだ……?」




「……いや、気のせいか。最近、ちょっと根を詰めすぎて幻聴でも聞こえてるのかな」

カイは、未だに振り返ろうとはせず、自分に言い聞かせるようにブツブツと呟きながら、手元の資料へと視線を戻した。

「えっと、じゃあ早速だけど手伝ってほしい。――そこの棚にある『魔力結晶(マナ・クリスタル)』を、ここのラインと、あそこのスロットに配置していってくれるかい?」


「……いくつ必要ですか?」ひまりが再び訊ねる。


その瞬間。

カイの全身の血の巡りが、完全に停止した。

「待て……。嘘だろ。なんで俺は、この声を、あの世界の――」


彼は、弾かれたように、勢いよく後ろを振り返った。


次の瞬間。

カイは、その場に完全に氷結したように凝固した。声の一片すら失い、ただ目を見開いて、目の前に直立している一人の女性を凝視し続けた。まるで、自分が立っている地面そのものが、音を立てて真っ二つにひっくり返ってしまったかのような、底知れぬ激震が彼の世界を襲っていた。


「……あの、カイ様?」

ひまりは、そのあまりにも異常すぎる魔王の硬直ぶりを前に、心底困惑しながら首を傾げた。

「……何か、私の立ち振る舞いに、至らない点でもございましたでしょうか?」


カイは作業場からゆっくりと降りてくると、困惑と驚愕をその表情のすべてに張り付かせながら、ひまりへと近づいていった。

「……俺は夢でも見ているのか? 待て、ついに脳みそがイカれちまったのか。幻覚でも見えてるのか?」

彼は一度、何もない空間へと顔を向けた。

「おい……誰だ、いま俺にこんな悪趣味な幻覚(いたずら)を仕掛けてる奴は!」


《報告。周囲に一切の幻惑魔法は検知されません》

脳内のヌルが即座に淡々と告げた。

《あなたの目の前にいる個体は、間違いなく正真正銘、物理的にそこに実在しています》




次の瞬間、カイは一瞬にして間合いを詰め、二人の間にあった距離をゼロにした。


「……あの、何か問題でもありましたでしょうか?」ひまりが再び、さらに困惑を深めて尋ねる。


カイは手を伸ばした。それが本物であるかを確かめるように、そっと彼女の頬に触れ、次いでその手を握り、そこから先の段取りを深く考えもせぬまま、その胸元へと掌を当てた。


「あ、本物だ」カイは言った。「間違いなく、お姉ちゃんだ」


直後、ひまりの手が凄まじい速度で跳ね上がり、カイの頬めがけてビンタが炸裂した。

「……このエロ魔王! 突然なにするのよ!」


カイはごく自然にその一撃をスウェーで回避し、二発目の追撃を避けるように地面から一フィートほどふわふわと浮遊して距離を取った。


「ちょっと――逃げんじゃないわよ――!」


「……お姉ちゃん」

宙に浮いたまま、カイが呟いた。その声音のすべてから、これまでの『魔王』としての仮面が完全に剥ぎ取られ、剥き出しの弟の顔が顔を出していた。

「……本当に、一ミリも変わってないな」




ひまりは振り下ろしかけた手の動きを、ピタリと止めた。


(お姉ちゃん……?)


彼女は、目の前に浮かんでいる少年を、今度は先入観をすべて捨て去って真っ直ぐに見つめた。そこにあるのは全く見知らぬ異世界の少年の顔――だが、その瞳の奥にある魂の輝きは、かつて自分が東京の路上で看取り、この手で葬った、あの最愛の弟のモノと、あり得ないほどに、完璧に一致していた。


「そんなわけ……ないわ」

ひまりは、震える声で呟いた。

「ハルトは、死んだはずよ……」


「ああ、そうだよ」

カイは静かに言い、ゆっくりと地上へと足を着けた。

「俺はあの夜、確かに死んだ。ケンジの野郎に撥ねられてさ。……で、気づいたらこの世界に転生(てんせい)してたんだ。ぶっちゃけ、お姉ちゃんまでなんでこんな場所にいるのか、俺のほうこそ脳内データの処理が追いついてないんだけどさ」


その瞬間、ひまりの理性が完全に決壊した。堰を切ったように、大粒の涙がその瞳から溢れ出す。

「ハルト……。本当に、本当にハルトなの……!?」


「うん」カイは、小さく、心からの笑顔を浮かべた。「俺だよ、お姉ちゃん」




「嘘よ、こんなの現実じゃないわ……」

彼女は声を震わせ、必死に現実を否定しようとする。

「私は今、頭がおかしくなって幻覚を見てるのよ。これはただのアニミの幻覚よ……」


「幻覚じゃないって」カイは声音を和らげる。


「……ごめんね」

彼は、さらに声を低くして、そっと付け加えた。

「あの時のLINE(メール)……『今度そっちに遊びに行っていい?』ってやつ、結局最後まで返事できなくて、本当にごめん」


ひまりは残されたわずかな距離を飛び越え、ハルトの身体を壊れんばかりに強く、強く抱きしめた。彼女の涙がカイの肩を瞬く間に濡らしていく。あの無機質な歩道の上で弟を失って以来、彼女がその胸の奥底に一人で抱え込み続けてきたすべての絶望と悲痛の澱みが、今、正真正銘の濁流となって完全に解き放たれていた。


それから数瞬の後。クロエが部屋の奥から何気なく姿を現し、目の前で繰り広げられているただならぬ光景を前に、心底呆気にとられた顔をした。

「……あら。ちょっと、これ一体どういう状況(イベント)なの?」


「さあな」エースもまた、同様にわけがわからないといった風に首を傾げた。「俺に訊くな」




それから丸一時間以上の時間をかけて、二人の前世における物語の全貌が、ゆっくりと紐解かれていった。ひまりはケンジのその後の死の段取り、自分がそのトドメに直接手を下したこと、そしてユキが最初から最後まで自分の相棒としてそのすべてを共にしてくれたことを、包み隠さずカイに説明した。


「……警察官って、本来は罪のない人間を殺しちゃダメなインフラ(組織)だったはずだけどな」

カイは慎重に言葉を選んで言った。だが、その言葉には、姉を責めるようなニュアンスは微塵も含まれてはいなかった。


「あいつは『罪のない人間』なんかじゃないわ」

ひまりは表情を一切変えず、絶対的な確信を込めて言い切った。

「あんな凄まじい大罪を犯しておきながら、何事もなかったかのようにのうのうと生き延びるなんて、地獄が許してもこの私が絶対に許さなかったわよ」


今度はカイが、自らの歩んできた軌跡を姉に共有した。あの未開の山での目覚め、ドランとフェンリックとの出会い、アシュフォードとの大戦、そして今日に至るまでのすべての実務。言葉すらまともに喋れぬ赤ん坊の段階から、どれほど絶望的なサバイバルを生き抜いて魔王の座に登り詰めたのか。ひまりはそのすべてに血眼になって耳を傾け、自らの知らない場所で弟が過ごしてきたあまりにもデタラメな年月の数々に、胸を締め付けられるような悲しみと、そして言葉に尽くせぬほどの圧倒的な誇らしさを同時に感じ入っていた。


話が一段落すると、カイはクロエに指示を出して地上からユキを呼び寄せた。彼女に対してもすべての事実が共有され、ここに『前世の同胞たち』が完全な形で一堂に会することとなった。そして改めて、二人は屋敷のすべての幹部たちへと正式に紹介された。


「なるほど、道理であんたから、主(マスター)と全く同じ『異界の気配』がプンプン漂ってきていたわけだね」

すべての紹介が終わった後、ネロは顎に手を当てて、深く納得したように呟いた。




その後、ひまりとユキの二人は、ホライズンクレストの日常へと完璧に組み込まれていった。

ユキには、新しく同盟関係を樹立したティアムーン王国における『新規交易ブランチ(出張所)』の立ち上げと、その流通計算の全権が委ねられた。彼女の身辺警護(バックアップ)のため、エースが直々に同行することになり、さらにホライズンクレストが誇る最新鋭の『聖騎士団』の精鋭八名が、その絶対的な護衛として随行することとなった。


一方で、ひまりはといえば、実の弟との再会を果たした今、一分一秒たりともハルトの傍らから離れることを激しく拒んでいた。――片時も離れようとしないその絶対的な距離感( cling )に対し、当然のことながら、クロエの心境はお世辞にも面白いと言える状態ではなかった。


特に、クロエがいつものお決まりのルーティンとして、カイの首筋に牙を立ててその鮮血を貪り喰らい始めるたび、ひまりの表情には隠しきれない不快感と、強烈な居心地の悪さが張り付いた。

「……あ、お姉ちゃん。こいつ、本当に俺の血しか吸わないシステム(性質)だからさ」

カイは、二人の間に張り詰める一触即発のテンションを必死に和らげようと、これまでに何度も同じセリフを繰り返して弁明していた。

「……だから、その、そういう変な意味のアレじゃないからな? 本当に」


その必死の言い訳を耳にしても、クロエの胸中にある絶対的な独占欲の不満が完全に凪ぐことはなかった。しかし、彼女はそれ以上の余計な言葉を口にすることはせず、ただ、カイのすぐ隣の特等席を片時も譲ろうとしないひまりの姿を、その潤んだ瞳の奥で、極めて注意深く、じっと監視し続けるのだった。


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