第47話:ロシャンが学んだこと、そしてカイが築いたもの
自由商業都市ロシャンにある未亡人の商会は、かつてないほどの圧倒的な大盛況を迎えていた。ホライズンクレストの新生産ラインから流れ込んでくる莫大な物資は、既存のスタッフだけでは到底さばききれないほどの人手を要求しており、ここ数週間の間、ひまりとユキの二人は静かに、かつ着実な有能さでその山のような実務をこなしていた。
「どうやらカイ様が、さらに計算の得意な人手を求めておいでみたいね」
未亡人は、届いたばかりの新たな発注書を眺めながら、実に見事な満足感を浮かべて呟いた。
「その『カイ様』って、一体どなたなのですか?」
ひまりが、純粋な好奇心から尋ねた。
ユキが驚いたように彼女を振り返る。
「ちょっとひまり、今までその名前を一度も耳にしてなかったの? 最近じゃ街中がその話ばかりよ」
それを小耳に挟んだ別の女性スタッフも、同様に心底わけがわからないといった風に二人を見た。
「え、あなたたち、カイ様が誰だか知らないの?」
「ええ」ひまりは素直に認めた。
「知らないわ」
「私たちを救ってくださったお方よ」
そのスタッフが言った。
「あの夜、私たちがみんなあの暗い檻に閉じ込められていた時、助け出してくれたじゃない。覚えてないの?」
「あぁ……」
ユキの脳裏で、何かがカチリと音を立てて噛み合った。
「あの時の、あの少年のことね」
「少年なんて呼び方は、あまり感心しないね」
未亡人が、穏やかながらも釘を刺すように言った。
ちょうど配達の荷物を抱えて通りかかった未亡人の娘が、そこに言葉を添える。
「あの方は、『小林家』の当主様よ」
その瞬間、ひまりの身体が完全に硬直した。
(コバヤシ……。それって――私の苗字じゃない。私の家族の名前。まさか、元の世界から来た人が、他にもこの世界にいるの……?)
「待って」
ユキが自分の記憶を必死に手繰り寄せながら言った。
「あの子って、確かどこかの王国を丸ごと一つ滅ぼしたっていう……」
スタッフの一人が笑った。
「違うわよ、それはカイ様じゃないわ。同じファミリーの別のメンバー――エンゾ様っていう『古代竜』のお方よ」
「……ちょっと待って、この世界には本当に本物の竜がいるの!?」
ユキが、今度こそ本気で驚愕して声を上げる。
「当然でしょう」未亡人の娘が言った。
「それも、とてつもなく強大な。私たちは、そのお方が小林家の一員であってくださったことを、心から幸運に思うべきね」
「……なぜ、幸運なのですか?」
ひまりが尋ねる。
「小林家の庇護下にある者は、誰であろうと『絶対に』守られるからよ」
その少女は誇らしげに言った。
「あのファミリーは、身内を絶対に裏切らないし、徹底的に身内を守り抜くの」
「ということは、このロシャンの街全体が、そのファミリーの保護下にあるってこと?」
ユキが訊ねる。
「厳密に言えば、街のすべてというわけじゃないわ」
未亡人がそこを正確に訂正した。
「ホライズンクレストとの交易事業に関わっている者だけさ。まあ、今やそれが街のほとんどの人間になりつつあるんだけどね」
未亡人は、ひまりのほうを真っ直ぐに向き直った。
「ひまり、あんたにはホライズンクレストへ行ってもらうよ。カイ様の手下の人たちを手伝ってあげておくれ。あんたほどの計算能力を持つ人材を、向こうが緊急で必要としているんだ」
「……承知いたしました」
ひまりは、高鳴る鼓動を悟られないよう、極めて慎重に声音を一定に保った。だが、その胸の奥底では、静かで、確かな希望の光が激しく揺らめき始めていた。
(……もしかしたら、これがチャンスかもしれない。あのファミリーについて、そして何より、その『カイ』という人について、本当のことを知るための)
「ああ、それともう一つ」
未亡人は、まるで今思い出したかのように、ごく軽い調子で付け加えた。
「カイ様は、少し前に『魔王』になられたからね。くれぐれも失礼のないように立ち回るんだよ」
ひまりは、信じられないものを見るようにパチクリと目を叩いた。
「……はい? 何ですって?」
その頃、ホライズンクレストにおいて、カイはすでに次の巨大プロジェクトへと完全に没頭していた。それは彼がこれまでに試みてきたどんな生産ラインよりも、遥かに野心的で規格外の試みだった。
「『創生エネルギー(ジェネシス・エナジー)』は、通常の魔力とは根本的に異なる」
エレーンと、そして脳内の虚無無意識を交えた小さなブリーフィングの席で、カイは解説していた。
「それは文字通り、世界の創造、修復、成長、そして再構築を司る根源的なエネルギーだ。エレーンが持つ【創生の権能】は、その絶対的な基本原則を無条件で操作できる。だが、ここには明確に区別して理解すべき重要なポイントがある。――エレーンは創生エネルギーを『生み出す』。そして俺が今から創り上げるのは、そのエネルギーを大規模に『実用化するためのテクノロジー』だ」
彼は、これまでのどの製品ラインとも変わらない、あの丁寧で体系的なドキュメントの文体そのままに、五つのステージからなるプロセスを厳密に定義していった。
「ステージ一――魔力集積。
広範囲に配置した巨大な『アストラル魔力集積器』によって大気中の環境魔力を強制的にかき集め、大容量の『アストラル結晶』の内部へと貯蔵する」
「ステージ二――超高純度精錬。
集積された魔力を、幾重にもレイヤー化された『アストラル結晶』『世界樹の木材』『天界の硝子』のろ過構造へと通過させ、あらゆる属性の不純物を極限まで削ぎ落とす。これによって、純粋な『純無魔力』へとコンバートする」
「ステージ三――ここが最も決定的な核心部だ。創生変換。
ここでエレーンが【創生の権能】を発動し、『このエネルギーを創造の力へと変えよ』という絶対的なコマンドを上書きする。これにより、純無魔力の根本的な性質が完全に書き換わり、本物の『創生エネルギー』へと進化を遂げる」
「ステージ四――安定化処理。
創生エネルギーは、そのままでは極めて不安定で危険な状態にある。そのため、『創世の原石』『アストラル結晶』、そして『世界樹の芯材』を組み合わせた特殊な循環チャンバーを通過させる。結晶がそれを保持し、世界樹が強固な構造を与え、創世の原石がその創造的特性を永続的に保存する。三つの素材が、それぞれ異なる側面を完全に安定化させるんだ」
「ステージ五――エネルギー貯蔵。
完成したエネルギーは、俺が『創生核』と名付けた特殊なコンテナへと格納される。これが、俺たちがこれから創り出すあらゆる魔導インフラの、絶対的な動力源になる」
「ただし、一つだけ重要な制約がある」
カイは言葉を続けた。
「第一世代の創生コアの製造には、エレーン自身の【創生の権能】が直接介入する必要がある。つまり、最高品質の出力を得るためには、彼女の存在は絶対に代替不可能だ。だが、それと同時に、俺は『創生変換エンジン』の開発も進めている。これは、すでに安定化された創生エネルギーをごく微量だけ『触媒』として使用することで、変換プロセスを機械的に自動再現するシステムだ。これがあれば、仮にエレーンが不在の時であっても、規模こそ縮小するが生産ライン自体を完全に停止させることなく維持できる。オリジン品質の創生エネルギーは、どこまでも彼女だけの特権だ」
「……冗談みたいな冗長化の思想ね」
エレーンが、その解説の裏にあるカイの配慮に気づき、どこか温かい微笑みを浮かべて言った。
「私がここにいなくても、システム全体が絶対に崩壊しないように設計されているわけだ」
「この国にとって、君の存在はあまりにも大きすぎるからね」
カイは当然のように言った。
「君が毎日、年中無休でその場に縛り付けられていなきゃ回らないような、そんな欠陥のあるシステムを俺が創るわけないだろ」
理論が確定し、生産ラインが本格的に稼働し始めるのを見届けると、カイは次の現実的な問題へと着手した。――空間、である。ホライズンクレストの爆発的な成長は、すでに領土の物理的な限界を大幅に超過しつつあり、残された選択肢は、もうあの場所しかなかった。
(……そろそろ、あの『次元結界』を正式にこじ開けるとするか)
その日の午後、彼はヴァンス、エンゾ、エースを伴い、その結界の境界へと向かった。屋敷の残りのメンバーは、それぞれの持ち場の実務で手一杯だったからだ。
結界の前に立ち、脳内の虚無無意識がカイの持つ『無』の魔力をわずか二パーセントだけ解放する。それによって結界の内部機構へとアクセスすると、彼の目の前に、古代の緻密な術式が巨大な南京錠のシーケンスのように浮かび上がった。
「……これ、お前なら解析して外せるか?」カイは脳内に問いかける。
《肯定。可能ですが、術式の精密解体を行うには、あなたの肉体の完全な制御権を一時的にこちらに委ねていただく必要があります》
「分かった」カイは頷く。
「やってくれ」
《了解。――スキル発動。個体名『カイ』の意識を一時的に遮断。自律制御モードへと移行します》
その瞬間、彼の瞳が妖しい深紅へと染まり、虚無無意識が肉体の主導権を完全に掌握した。システムは浮かび上がった術式を完璧な手際で一パーツずつ解体し、その複雑極まる多重構造を精密に並べ替えていく。その神業のような魔力制御を目の当たりにして、学者であるヴァンスの目が、純粋な歓喜と驚愕で大きく見開かれた。
結界の絶対解除に要した時間は、およそ十分。
作業の完了と同時に、カイの意識は即座に肉体へと戻ってきた。――目の前の次元結界は、確かにそこに存在している。しかし、それはもう、外からの侵入を拒む『封印』としての機能を完全に失っていた。今や、どちらの方向からでも、あらゆる存在がこの境界を完全に自由に行き来できる状態へと変貌していたのだ。
その瞬間。
周囲のすべての空間が、突如として、不気味なほどの致命的な静寂に包まれた。
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次元結界の機能が切り替わったまさにその刹那、致死的な速度の衝撃がカイの脳頭めがけて解き放たれた。――直後に、虚無無意識の自動防御結界が間一髪で発動し、その一撃を完全に遮断する。
エンゾが瞬時に間合いを詰め、その襲撃者と正面から激突した。二つの凄まじい大質量がぶつかり合う様は、まるで本物の嵐が天空を引き裂いているかのようだった。
「……何だ、あいつは!?」
カイは、目の前で繰り広げられる常軌を逸した空中戦を見上げながら、信じられないといった風に声を上げた。
傍らに立ち尽くすヴァンスは、目に見えて全身をガタガタと震わせ、恐怖に顔を硬直させている。
《報告。対象の鑑定が完了しました。――未知の個体は『原初の悪魔』。コードネーム:【ナンバーエイト】と識別されます》
この世に存在する原初の悪魔の中でも『第二位』に位置する怪物を相手に、エンゾは一歩も引かずに互角の攻防を繰り広げていた。エンゾが固有能力を最大解放し、天空を揺るがす広範囲攻撃【天嵐大破砕】を叩き込む。だが、ナンバーエイトはただ不敵に笑うと、その破滅的な一撃をまるで蝿でも払うかのように片手で撥ね退けた。逸れた衝撃の余波だけで、遥か彼方にそびえ立っていた山脈が一瞬にして消滅し、更地へと変貌する。
次の瞬間、あいつは瞬きをする間もなくカイの目の前に出現していた。
「――随分と見事に育ったものだな、可愛い我が子よ」
カイの脳内で、即座に刃が物質化される。あいつの身体を両断すべく鋭く薙ぎ払った――しかし、刃が空を切るよりも早く、ナンバーエイトはすでに彼の背後に回り込んでいた。
虚無無意識が、カイの持つ『無』の魔力を即座に二パーセント解放する。二つの絶対的な存在が、ここで初めて正面から対峙した。エンゾはそれを察知し、カイ自身の戦いを見守るように一歩後ろへと下がった。
(……クソ。あいつ、これでもまだ完全に遊んでやがるな)
カイは、戦慄するヴァンスとエンゾの横へと一瞬で飛び退きながら、内心で舌を巻いた。
「……おいおい。冗談抜きで、あいつはヤバすぎるだろ」
ナンバーエイトは虚空に浮遊したまま、値踏みするような視線を下に向けていたが、やがてゆっくりと地上へと舞い降りた――。
だが、その降下は、突如として空間を割って現れたニュクサーラの存在によって遮られた。あいつに向けられた彼女の視線には、隠そうともしない、絶対的な怒りの業火が灯っている。
「やあ、大好きな俺の姉さん」
ナンバーエイトは、彼女の殺気を前にしても全く動じることなく、軽薄な調子で手を振った。
「……何百年、何千年ぶりかで双子の弟に再会したっていうのに、随分と冷たい挨拶じゃないか」
「双子……の弟!?」カイは驚愕して叫んだ。
「おい、ニュクサーラ! お前に双子の弟なんていたなんて、俺は一度だって聞いてないぞ!」
「……色々と複雑な事情があるのよ」
彼女は表情を一切変えず、冷淡に言い捨てた。
さらにその上空へ、今度は『魔王』ラヴェシアが姿を現した。彼女はその瞳に読めない光を宿しながら、静かにナンバーエイトの姿を観察している。
たった一日の午後の間に、人間の姿を模した『原初の悪魔』を同時に三体も目撃することになったヴァンスは、ついに脳の処理容量を超え、その場に白目を向いて卒倒した。
その直後、あまりにもデタラメな魔力の激突を察知したアイヴィー、エリス、エレーン、そしてエースが、息を切らせてこの境界へと駆けつけてきた。
「おや、これはこれは。随分と盛大な歓迎パーティーじゃないか」
ナンバーエイトは、包囲網を見渡して嬉しそうに目を細めた。
「いいぜ、まとめてかかってきなよ。――全員同時に、俺が相手をしてやる」
それは、決してハッタリではなかった。この場に集まった面々の中で、あいつにとって本当の意味で脅威となり得るのは、ラヴェシア、ニュクサーラ、そしてエンゾの三人のみ。それ以外の者たちを同時に相手取ったとしても、あいつなら容易く蹂躙してみせるだろう。
「……させるかよ」
カイが一歩前へ出た。
「お前の相手をするのは、この俺だ」
「本気ですか、カイ?」ラヴェシアが上空から問いかける。
「あいつの純粋な出力は、私の姉のレベルに匹敵しますよ」
「冗談だろ……」カイは冷や汗を流す。
「冗談ではありません」ラヴェシアが厳粛に告げた。
「私の姉が辛うじてあいつの上に立てているのは、純粋に『魔王』としてのシステム上のアドバンテージがあるからに過ぎない。あいつの戦闘能力は、あのディーヴォや、時空を司る真竜――【時空竜】イオン、通称『未知』と同等と目されているのです」
(ナンバーエイトの強さが、そこまでの怪物か。……上等だ。そんなことは関係ない。俺は、俺の領地を守る。それだけだ)
「いいね」ナンバーエイトが不敵に口元を吊り上げた。
「――始めようか」
「いつでも来い」カイが構える。
「ちょうど、新しく試してみたいデタラメ(わざ)があったところだ」
《警告。自律戦闘モード(オートパイロット)を起動します。――個体名『カイ』の肉体制御を掌握。これより、無の魔力を【十パーセント】まで解放します》
虚無無意識の声と共に、カイの全身から放たれたプレッシャーが、その場にいた全員を押し潰さんばかりに膨れ上がった。その絶対的な圧迫感に耐えて立っていられたのは、エンゾ、アイヴィー、ラヴェシア、ナンバーエイト、そしてニュクサーラの五人のみ。
だが、ナンバーエイトはその絶望的な光景を前に、かえってその笑みを深くした。
「……おもしろい。これなら楽しめそうだ」
肉体の主導権を握った『無』は、即座に独自の絶対結界を展開し、固有の戦闘空間――【朱緋】を構築した。空間全体が、触れるものすべてを消滅させる無の魔力によって完全に飽和していく。
しかし、ナンバーエイトはその絶望的な環境にありながら、驚くほど平然としていた。元よりあらゆる事象を『無効化』する特性を持つあいつにとって、最初から『無』そのもので構築された世界は、無効化する対象すら存在しない、最も相性の良い領域だったからだ。
戦いは、一瞬にして熾烈を極めた。
システムによって限界まで最適化されたカイの刃が、あいつの素手と幾重にも交錯し、肉眼では捉えきれない超高速の攻防が何度も繰り返される。そして、極限の収束を見せた『無』のシステムが、ついにその絶対的な最大奥義を発動した。
――【日蝕】。
空間全体の天空が不自然なほどに漆黒へと染まり、戦場の中央に、黄金の光輪を纏った『黒い太陽』が厳かに昇り始めた。朱緋の空間からすべての音が消え去り、絶対的な死の静寂が世界を支配する。
直後、発動した【常闇の支配】が、五感を含むあらゆる認識を完全に遮断した。続けて放たれた【太陽の裁定】が、空間内に存在するすべての物質的構造を分子レベルで強制解体していく。【日蝕の引力】があらゆる存在を黒い太陽の中心へと猛烈に引き寄せ、地中からは漆黒の【黄昏の鎖】が無数に這い出て、ナンバーエイトの肉体を縛り上げると同時に、その魔力を根こそぎ吸い上げ始める。さらに、闇の中に浮かび上がった無数の【月映の蜃気楼】が、どれが本物のカイであるかの判別を完全に不可能にさせた。その極限の混乱の中、漆黒の太陽から放たれた絶大なる【超紅炎奔流】が、軌道上のすべてを消滅させながらあいつへと襲いかかった。
そして、これが正真正銘の最終形態――。
――【永劫日蝕】。
黒い太陽が、世界に残されたわずかな光の粒子をもすべて貪り喰い、周囲の時間そのものが完全に停止したかのような錯覚をもたらす。すべてのエネルギーが一極へと収縮し――次の瞬間、黒と金が入り混じった、次元を崩壊させるほどの超弩級のエネルギー破濤となって、正面から爆発的に解き放たれた。
その一撃は、逃げ場の存在しない空間の中で、ナンバーエイトの肉体へと完璧にクリーンヒットした。
爆煙が晴れ、空間が元に戻っていく。
そこには――頬にほんのわずかな擦り傷を作っただけで、何事もなかったかのように佇む男の姿があった。
「……見事だ」
ナンバーエイトは、満足そうに笑みを浮かべた。
「いいぜ、俺の負けだ。今の攻撃は、ちょっとしたテスト(小テスト)のつもりだったのさ」
虚無無意識が肉体の制御権を解除し、己の感覚を取り戻したカイは、目の前の化け物を凝視しながら本気で呆れ返った。
「……テストだと!? ふざけんな、お前、どんなテストをしたらあんなデタラメな威力の攻撃に耐えて平然としてやがるんだよ!」
「まあ、そう熱くなるなよ、ボウヤ」ナンバーエイトは肩をすくめる。
「熱くなるな? お前、本気で俺を殺す気満々だっただろ!」
「悪かったよ、謝るって」あいつはそう言いながらも、楽しそうにケラケラと笑っていた。
「だが、これにはちゃんとした理由があるんだ。――真実を言えば、俺はあんたの『母親』から、あんたの身守りを頼まれていたんだよ」
カイの身体が、ピタリと動きを止めた。
「……待て。お前が、お袋と戦ったっていう、あの悪魔なのか?」
「ああ、そうだ」
「そして……お前はお袋に負けた」
「厳密に言えば、負けたわけじゃないがね」ナンバーエイトは語る。
「あの時の俺は暴走状態にあってさ。実の姉貴に止められて、最終的にあんたの母親の手によって、あの結界の奥底に完全に封印されたんだ」
「だったら、なんでお袋は、自分が命がけで戦って封印した相手に、俺の身守りなんて頼むんだよ?」
「彼女は自分が死に瀕したまさにその瞬間、思念伝達を使って俺の意識に直接語りかけてきたのさ。『この子を、どうか守ってほしい』とね。――なぜなら、彼女の持つ核心の半分は、すでに生まれて間もないあんたの身体に埋め込まれていたからだ。それは、彼女の持つカオスの属性が、あんたの精神を完全に飲み込んで狂わせるのを防ぐための防壁だった。何しろ、彼女はあの【混沌竜】だからな。……俺はその頼みを引き受けた。だから俺は、あの結界の向こう側から、ずっとあんたの成長を見守り続けていたんだよ」
カイは、その言葉の意味を必死に理解しようとした。
「……なぁ、竜って、死んだら別の場所で全く新しく生まれ変わるシステムのはずだろ?」
「ああ、その通りだ」
「じゃあ、お袋が未だにこの世界に生まれ変わって戻ってこないのは……その核心の半分が、俺の中にあるからなのか?」
「察しがいいな。その通りだ」ナンバーエイトが頷く。
「だが、勘違いするなよ? 仮にあんたが今、そのコアを自分の身体から引き抜けば、彼女は確かに世界のどこかで新しく復活するだろう。……だが、それは致命的な間違い(エラー)だ。そのお袋のコアこそが、あんたの宿す【無】の魔力がこの世界全体を瞬時に崩壊させるのを防いでいる、唯一の絶対的なストッパーなんだからな。――俺がずっと監視を続けていた本当の理由は、そこにある」
カイは、自分の胸の上にそっと手を置いた。衣服の奥にある、母親が遺してくれた温もりを感じ取るように。
「……なるほどな。お袋が俺の中で安全に生きていてくれるなら、俺にとってはそれだけで十分だ」
彼は一度言葉を切り、少しの間を置いてから、静かに尋ねた。
「――親父は、どうなんだ? 何か知ってるか?」
「さあな」ナンバーエイトはあっさりと首を振った。
「生きてるかもしれないし、死んでるかもしれない。そればかりは、俺にも分からないよ」
「とにかく」カイは言った。「移動しよう。待たせてるプロジェクトがあるんだ」
「その前に、ちょっとした質問をしていいかい?」ネロ(ナンバーエイト)が訊ねる。
「何だよ」
「あんたの宿す無の魔力ってさ、進化の法則そのものを完全に超越してるだろ?」
「本当によく見てやがるな」カイは苦笑した。「で、何が望みだ?」
「『名』さ」ネロが言う。「ナンバーエイトって呼ばれるのにも飽きてきたし、この肉体もそろそろ古びてきてね」
「虚無無意識」カイは脳内に語りかけた。「俺、本当にあいつに名前を付けられるのか?」
《報告。あなたは今、私を『ヌル』と呼びましたね》システムが指摘する。
「いいから質問に答えろ」
《了解。原初の悪魔への命名には、あなたの保有する無の魔力の【二十パーセント】の出力を必要とします》
「冗談だろ? 俺、自力じゃ二パーセントを維持するのが精一杯なんだぞ」
《提案。ユニークスキル【絶対無制限駆動】の使用を推奨します。八十九時間に一度だけ、その出力を完全解放することが可能です》
「……それで行こう」カイは決断した。
無の魔力が一気に二十パーセントまで跳ね上がり、カイから放たれた絶対的なオーラが爆発的に膨れ上がった――。その絶景を前に、ネロさえも「おいおい」と感心したように口笛を鳴らす。
「あの女、一体全体どんな怪物を産み落としたんだか」
「準備はいいか?」カイが尋ねる。
「二度訊きは野暮だぜ」
カイはほんの少しの間、その名前について考えを巡らせた。
「――『ネロ(Nero)』だ」
《告知。命名が完了しました。進化の条件が満たされました。原初の悪魔【ナンバーエイト】は、その種族的な限界値を完全に超越しました》
その瞬間、緻密で複雑な光の幾何学術式が、あいつの身体を瞬く間に包み込んでいく。
「悪魔が……進化するのか?」カイが尋ねた。
《肯定。進化のルートを選択してください。
オプション一:【忘却の原初魔(プリモーディアル・デーモン・オブ・オブリビオン)】
オプション二:【無の魔王】》
「待て、選択肢があるのか? ……これ、両方選ぶことはできるか?」
《肯定。可能です》
「じゃあ、両方だ。全部乗せで頼む」
《告知。進化の融合が完了しました。新たな固有種を確認。――個体名【ネロ】。種族名:【深淵魔皇】へと進化しました》
「……マジかよ」カイは息を呑んだ。「めちゃくちゃ格好いいじゃないか」
ネロがゆっくりと目を開けた。その瞳の奥には、さっきまでとは明らかに次元の違う、絶対的な何かが宿っていた。
「――お仕えできて光栄ですよ、カイ様」
「お前までそれかよ」カイは頭痛をこらえるように額を押さえた。
独自の戦闘空間が解除され、現実の世界へと戻る。ニュクサーラとラヴェシアの二人は、あいつの気配が一瞬にして完全に変貌したことを本能的に察知していた。
「……ナンバーエイトに、一体何をしたの?」ニュクサーラが眉をひそめる。
「これからはネロだ」カイは、これ以上ないほどドヤ顔で言い放った。「慣れてくれよな」
エリスが頭を抱えて呻き、エレーンは深いため息をついた。エンゾは「まあ、そうなると思ったぞ」と呆れ顔だ。そして辛うじて意識を取り戻しかけていたヴァンスは、目の前の状況を一目見るなり、再び白目を剥いて二度目の卒等(気絶)を果たした。
「……どうやって原初の悪魔に名前なんて付けられたのですか?」ラヴェシアが心底信じられないといった風に尋ねる。
「俺だって、あんたと同じくらい混乱してるよ」カイは素直に白状した。
「ネロ、あんたどのルートに進んだの?」ニュクサーラが尋ねる。
「【深淵魔皇】さ」ネロは最高に嬉しそうに胸を張った。「ってことはだ、姉さん。俺は今やあんたと同等、いや、もしかしたらそれ以上の領域に達しちまったってわけだよ」
「寝言は寝て言いなさい」ニュクサーラが冷淡に一蹴する。
だが、その会話を傍らでじっと聞き届けていたアイヴィーは、その【深淵魔皇】という単語を、密かな、かつ強烈な興味と共に自身の脳内データへと静かに格納していた。
ひとたび混沌が収まると、カイは固有能力【虚無吸収】を発動し、あの巨大な次元結界の残骸を、その内部に未だ封印されていた母親の核心の『残りの半分』ごと、すべて自身の内へと完璧に吸収した。
そして彼は、現在進めていた他のすべての製品製造ラインを一時的に全面停止させ、その全リソースを【創生コア】プロジェクトへと一点集中させる決断を下した。――もし、自分の中に元からあった半分と、今回回収した半分、その二つのコアを完全な形で融合させることができれば、お袋をこの世界に完全に復活させられるかもしれない。そしてそれこそが、自らの内に暴れる無の魔力を、単なる力技の抑え込みではなく『永久に安定化』させる唯一の解答だと確信したからだ。
かつての結界の向こう側からは、広大な未開の土地が姿を現していた。魔物の気配が全くない安全な領域もあれば、これまで誰も目撃したことのない未知の生物が跋扈する危険地帯もある。エレーンは即座に、その安全が確認されたセクションを対象に、新たな都市拡大の建設を開始した。
さらに彼女は、創生コアの超極秘精錬を行うための『地下特設インフラ施設』を建造。カイはその施設に引きこもり、誰にも邪魔されることのない長い時間を、ただひたすらに開発の実務へと注ぎ込むこととなった。
一方、外の世界では、近隣の諸王国がその躍進に対してにわかに不穏な動きを見せ始めていた。ホライズンクレストの防衛網を探るスパイの影がちらつき、いくつかの交易ルートが水面下で静かに妨害を受け始める。
カイはその状況に対処すべく、エンゾとエリスの二人をミラス王国へと派遣した。あそこでは、野心溢れる若き貴族たちが、まだ地位の安定しない若き王子の権威を試そうと不穏な動きを見せていたからだ。ホライズンクレストの留守は、エレーン、ヴァンス、そしてエースの三人が完全に掌握して守りを固める。そしてアイヴィーは、女王ミラベルの直々の要請に応じる形で、自身のアバター(代理)としてティアムーン王国へと旅立っていった。カイ本人がこのプロジェクトのために、どうしても動くわけにはいかなかったからだ。
地下施設に残ったのは、カイと、彼の補佐に就いたネロ。そして、その周囲を静かに護衛するセリと、エリスの手によって徹底的に鍛え上げられたばかりの最新鋭の『聖騎士団』の精鋭たちだった。
その頃、ニュクサーラは、あのベリアルが遺した旧魔王領へと自ら乗り込み、そこに散らばっていた残党の悪魔どもを力で完璧に捩じ伏せ、自身の『家族』の支配下へと収めていた。ラヴェシアもまた、己の領地へと帰還していく。
こうして、たった一日の午間に起きたあまりにもデタラメな激動の数々は、やがて、この世界における『いつもの日常』の気配へと、静かに、そして確かに溶け込んでいくのだった。
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クイーン・ミラベル・オーレリスがアイヴィーを引見した玉座の間は、アイヴィーがその長く、奇妙な生涯の中で遭遇してきた大抵の公式謁見室よりも、遥かに温かみに満ちた場所だった――陽光が心地よく差し込み、気取った様子はなく、富を誇示するためではなく思慮深く使っていることをうかがわせる、控えめな気品に彩られている。
女王自身は若かった――アイヴィーの情報が正確なら十九歳。それでありながら、年齢という要素を完全に無意味にするほどの、揺るぎない落ち着きを身に纏っている。彼女の周囲に整列する貴族たちも、アイヴィーが宮廷政治と聞いていつも連想するような、油断のない、計算高い表情は浮かべていなかった。彼らは自らの女王を、純粋な敬意に近い眼差しで見つめている。
(……なるほど、面白いな。ここの民は、心から彼女を慕っているらしい。俺の経験上、これほど稀有な例は、正確に記憶に留めておく価値がある)
「私は、カイ殿本人が来られるものと思っていましたが」
ミラベルはアイヴィーを観察しながら言った。その声には、礼儀正しいながらも、隠そうともしない落胆の響きが混ざっている。
「申し訳ございません、女王陛下」
アイヴィーは完璧な所作で頭を下げた。
「カイ様は現在、極めて重大なプロジェクトに没頭しておいでなのです。そのため、私が直接の代理として遣わされました」
「そうですか」
ミラベルはその言葉の重みを値踏みするように、少し間を置いた。
「……ならば、他の議題に入る前に、まずは一つ尋ねさせてください。――あの【ナンバーエイト】として知られる原初の悪魔の封印が破られたというのは、事実なのですか?」
「はい、事実です」
アイヴィーはあっさりと肯定した。
「あの【混沌竜】自らが施した封印を破るほどの絶対的な力を、一体どこの誰が持っているというのです?」
ミラベルの問いには、純粋な驚愕の色が混ざっていた。
「カイ様が、破られたのです」
アイヴィーが言った。
その瞬間、集まった貴族たちの間に、一斉に衝撃の波が走った――まずは狼狽、次いで、遥かに冷徹な計算の気配。数人の貴族たちが、互いに素早く、居心地悪そうな視線を交わし合う。
「本当に、間違いないのですか?」
ミラベルは、今度はより慎重に言葉を選んで尋ねた。
「間違いございません」
アイヴィーは答える。
「私も、その場に立ち会っておりましたから」
貴族の一人が女王のほうへ身をかがめ、声を潜めた。だが、その声はアイヴィーの耳をすり抜けるほど静かではなかった。
「……陛下、もしあの男が本当にそこまでの怪物質であるならば、敵に回すのはあまりにも悪手かと存じます」
「同感です」別の者が続く。
「ミラス王国の軍勢が、あやつの手によっていかなる惨状に追い込まれたか、あの国自体がどうなったか、噂はすでにお聞き及びでしょう」
「報告書には、目を通していました」
ミラベルはゆっくりと言った。
「白状すれば、最初は到底信じられぬ絵空事だと思っていました。……ですが、その懐疑心を改めねばならんようですね」
「我が主は、どこの誰とも戦火を交えることは望んでおいでではありません」
アイヴィーは、彼らの脳内で物語が歪んだ形で定着してしまう前に、素早く、かつ的確にその軌道を修正した。
「ミラスの王は、自らの意志で戦争を選択し、その対価として自らの命と王国を支払ったに過ぎないのです。それに、あの大戦にトドメを刺したのは、カイ様ご自身ですらありません」
ミラベルの眉が、ピクリと跳ね上がった。
「彼本人が、手を下したわけではないと?」
「陛下は『イグニヴァール』という名を持つ竜をご存知ですか? かつての【天竜】です」
「ええ、もちろん知っています」
「彼がやりました」
アイヴィーは言った。
「もっとも、今のあいつは『エンゾ』と名乗っていますがね。――カイ様が、新しく授けられた名前です」
ミラベルは、呆気にとられたような、しかし同時に深い敬意を抱き始めたような複雑な表情を浮かべ、そっと自分の額に手を当てた。
「……なんてこと。あの天竜を配下に従え、ごく当たり前のように名前を書き換えて(上書きして)しまうなんて。いいでしょう。貴方たちのような規格外の陣営なら、私が今から口にする『問題』に対しても、確実に答えを出してくれると確信しました」
「……その問題とは、一体何なのですか?」
アイヴィーが尋ねる。
「貴方は、あの【呪われし吸血鬼】の噂を知っていますか?」
「ええ、知っています」
アイヴィーは答えた。
「名は――『コッリ・ヴァネッサ』、ですね」
「なるほど、ならば話が早くて助かります」
ミラベルの冷静な佇まいが微かに乱れ、初めてその表情に明確な焦燥の影が差した。
「我が国の西方、国境にほど近い都市と、その近隣にある二つの村が――完全に全滅させられました。このままでは、我がティアムーン王国が次の標的になるのではないかと危惧しているのです」
「彼女と、直接戦ったことはおありなのですか?」
アイヴィーが問う。
「あやつはすでに、数え切れないほど何度も殺されているのです」
ミラベルの言葉の底には、深い疲弊が滲んでいた。
「ただ……どうしても死んでくれない。テオレマの勇者があやつの息の根を何度も、それこそ数え切れぬほど止めているというのに、それでも必ず蘇ってくる。貴方たちの主が現在、大変な案件に忙殺されているのは重々承知していますが――どうか、一つ頼みを聞き入れてはもらえませんか?」
「その頼みとは?」
「お願いです。あやつの凶行から、我が国を守っていただきたい」
「申し訳ございません」
アイヴィーは淡々と言い放った。
「……それは、できかねます」
「なぜです?」
「私はカイ様の名代として、とある特定の『物品』に関する交渉を行うためにここへ派遣されたに過ぎません」
アイヴィーは至極当然の理屈を並べる。
「それに何より――小林家と同盟を結んでいない者にまで、我がファミリーの絶対的な保護を広げる義理はありませんから」
ミラベルはその言葉の重みをじっと噛み締めるように長い沈黙を挟んだ。やがて、先ほどの焦燥の裏から、一国を治める者特有の鋭い政治的計算が顔を出す。
「ならば、まさに今ここで、その同盟とやらを締結しましょう。ティアムーン王国と小林家、そしてホライズンクレストとの間で、正式な『不可侵条約』を。私は、貴方たちの主と、単なるビジネスを越えた純粋な友好関係を築きたいのです……もし、彼さえよければ」
(あの怪物質を擁する陣営と敵対することだけは、何が何でも避けなければならない。我が国の軍事力は、お世辞にも他国を圧倒できるほど突出してはいないのだから)
ミラベルは内心でそう冷や汗を流しながら、アイヴィーの表情にわずかな動揺でもないかを探る。
彼女は机の上に正式な書状を用意すると、自らの署名を迷いなく走らせ、それをアイヴィーのほうへと滑らせた。
アイヴィーは手を止め、脳内で静かにいくつかの可能性を天秤にかけた。
(……もし、あのヴァネッサという『呪い』を俺自身の手で捩じ伏せ、そのままカイ様の元へ直接生け捕りにして連れ帰ることができたら? ――主は間違いなく、俺に対して最大級の感謝を寄せてくれるはずだ。上手くいけば、さらなる上位の『進化』の機会さえ与えられるかもしれない。それに、この同盟を完璧な形で成立させれば、ホライズンクレストにとっても計り知れない国益になる)
「――分かりました。お受けしましょう」
アイヴィーはそう告げると、淀みない手つきで署名を添えた。
その日の夜。アイヴィーは、ティアムーン王国の国境守備隊の誰一人として気づくよりも遥か前に、ヴァネッサが国境線へと急接近してくる不気味な気配を感知していた。
そのプレッシャーは、空間全体を禍々しく歪ませるほどの異様な拒絶反応に満ちている。それは一人の生命体というよりは、もはや「治癒することを完全に忘れてしまった剥き出しの傷口」そのものが突進してきているかのような、デタラメな混沌の塊だった。
(……あいつ、もうまともな思考なんて残っちゃいないな。いや、本当に。ただの飢えた獣として狩りを続けているだけだ)
彼女はミラベルに一言「外の様子を見てくる」と言い残すと、それ以上の余計な儀式を省いて、夜の帳へと静かに身を投じた。
ヴァネッサが王国の外壁に到達するよりも前に、アイヴィーがあらかじめ張り巡らせていた絶対結界へと、その肉体が正面から激突した。――あいつが寸前までその存在にすら気づくことのできなかった、極めて高純度で透明な『無』の防壁。
アイヴィーは背後から、何の急ぎもせず、悠然とした足取りであいつへと近づいていった。
「おいおい……。その呪い、想像以上に凄まじいことになってるな。一体これまで、何回死んで、何回復活を繰り返してきたんだよ」
ヴァネッサは振り返るなり、何の戦略も、何の駆け引きもなしに、アイヴィーめがけて猛然と襲いかかってきた。純粋な生存本能(飢餓)だけに突き動かされた、圧倒的な生の暴力。
だが、アイヴィーはその超高速の突進を正面から両手で完璧に受け止めると、そのまま背後の森の奥深くへと豪快に投げ飛ばした。大質量が激突し、木々が文字通り粉々に爆散していく。
しかし、ヴァネッサは吹き飛ばされる最中に無理やり体勢を立て直し、地面に着地。次の瞬間には、自らの鮮血を超高密度で凝縮させ、一振りの禍々しい黒塗りの刃を錬成していた。――死者の怨嗟のビジョンを強制的に投影する、黒曜石の魔剣【タズカ(Tazca)】。
あいつがその魔剣を全力で振り下ろした。
対するアイヴィーは、武器を抜くことすらしない。ただの素手を鋭く一閃させ、あいつの肉体を魔剣ごと一瞬で一刀両断(両断)した。
ヴァネッサの肉体が、その場で一度完全に死亡する。
――だが次の瞬間。あいつは傷一つない状態で、全く同じ場所に何事もなかったかのように佇んでいた。
どこからともなく、血に染まった不気味な時計の秒針が逆回転する音が響き、再び生のループが幕を開ける。固有能力【絶対転生】。破壊されたコアも、消滅した魂も、すべてを強制的に巻き戻し、機械的に、永続的に蘇生させるデタラメなシステム。
(……なるほど、これは本気で悪趣味な能力だな)
アイヴィーは、その異常な復活劇がすでに三度目を数えるのを眺めながら、内心で舌を巻いた。
「あんたがそこまで暴走して安定しない本当の理由はさ」
激しい猛攻を涼しい顔で受け流しながら、アイヴィーの声音には、どこか哀れむような優しさが混ざり始める。
「……自分の宿すあまりにもデタラメな強大すぎる力を、ただの一度も自分で『制御』できたことがないからだ。――実はさ、俺の知り合いに、そういうデタラメな力を正しく手懐けるのが得意な、お節介な男が一人いるんだよ。もしあんたに、その手を取るだけのわずかな理性が残っているなら、だけどね」
しかし、その時点でのヴァネッサの精神はとっくの昔に摩耗し尽くしており、その瞳の奥には、狂気的な飢餓感と獣の闘争本能以外、何も遺されてはいなかった。
あいつは再び獣のように飛びかかってくる。何度死のシステムによってステータスをリセットされようとも、アイヴィーの絶対的な防御陣を突破することなど、爪の先ほども叶わない。やがてアイヴィーは、これ以上の無駄な殺生は無意味だと判断し、独自の捕獲結界を起動。暴れるあいつの身体を、その空間の檻の中に完璧に閉じ込めた。
数秒後、アイヴィーはミラベルの部屋の窓の外、何もない空中へとごく自然に浮遊して姿を現した。その表情には、一切の疲労も、乱れもない。
「――こいつは、俺が連れていく」
目の前で、これまで大陸中が恐れ、伝説の勇者すら消滅させられなかった『歩く天災』が、まるで買い物のついでに拾った荷物のように処理される光景を見せつけられ、女王ミラベルはただ呆然と、深く頷くことしかできなかった。
アイヴィーは即座に『霧のゲート(ミスト・ゲート)』を空間に抉じ開けると、そのまま檻を引き連れて境界を跨いだ。
次の瞬間、彼女が姿を現したのは、ホライズンクレストにあるあの超極秘の『地下特設インフラ施設』の前だった。
その場で見張りに就いていたネロが、真っ先に彼女の姿を捉えた。
「おや、お帰り。……って、おい。そいつ、もしかして吸血鬼か?」
「吸血鬼なんて生易しい言葉じゃ、こいつのデタラメさは説明しきれないよ」
アイヴィーは肩をすくめる。
「――カイ様はどこだ?」
「中さ」
ネロは、背後にある頑丈な鉄鋼の防壁を親指で指し示した。
「あの部屋に引きこもって、ずっと実務の真っ最中だよ」




