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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
壊れた世界(偽りの現実)

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第46話:追跡

ハルトが車ではねられ、それが故意の凶行であったという事実をひまりが伝えた瞬間、ユキの脳裏でパズルのピースが音を立てて噛み合った。あの日、ケンジが乗ってきた車のフロントバンパーが激しく損傷していたことを思い出したのだ。


「私、犯人が誰か分かったかもしれない」

ユキは言った。

「あの夜、ハルトくんに頼まれたって部屋に来たあの人……車のフロントがひどくへこんでたの」


「名前は」

ひまりの声が低く響く。


「ケンジくん」

ユキは答えた。

「あの日、ハルトくんが出かける前に口にしていた名前と同じよ。その時は何も気に留めなかった。私が、自分の手であいつをアパートに入れてしまったの……」


二人は連れ立って警察署へ向かい、トオル刑事が防犯カメラの映像を再生した。ひまりは直視することすらできなかった。映像にはハナの姿があり、衝突の寸前にハルトが彼女を突き飛ばして救う様子、そして直後にケンジが車から降りてくる姿が、平然とした手つきとともに映し出されていた。


「この人よ」

ユキが断言した。

「間違いない。車も同じ」


「本当に間違いないのね」

ひまりが確認する。


「ええ、間違いないわ」

ユキはそう言い、一時停止された画面のハナの顔をじっと見つめた。

「……待って。この女の子、見覚えがある。ここ、拡大できる?」


画像が鮮明になると、ユキは即座にその正体を見抜いた。ハナ――同じ大学に通う同級生だった。トオル刑事は一時間もしないうちに彼女の身元を特定し、本格的な事情聴取を開始した。ハナはすべてを白状した。自分は最初から加担するつもりなどなかったこと、ケンジが無理やり拒絶を押し切って連れて行ったこと、精度あいつがどこに潜伏しているのかを。


ひまりは躊躇なく支給された拳銃を手に取ると、すぐさま署を飛び出した。ユキがその後に続き、トオル刑事が怒号を上げながら、応援を要請しつつ二人を追った。


ケンジの潜伏先に踏み込んだ瞬間、物音を察知したケンジは窓から飛び降り、自分の車へと猛ダッシュをかけた。だが、ひまりは逃がさなかった。彼女が放った一発の銃弾がタイヤを正確に撃ち抜き、車は一ブロックも進まぬうちに完全に立ち往生した。


ケンジは車を捨てて走り出した。追手を撒こうと路地裏をあちこちへと駆け抜けるが、トオル刑事が先回りして退路を塞ぎにかかっていることには気づいていない。あいつは間一髪でその包囲をすり抜け、駐車された車の陰に身を隠しながら、開けた通りへと飛び出そうとした――。


その瞬間、ユキが運転する車が、通りを渡りきろうとしたケンジの身体を正面から撥ね飛ばした。


ケンジは意識を失ったまま地面に叩きつけられた。誰よりも早くたどり着いたひまりは、すでに銃口をあいつの頭へと向け、その場で文字通りのトドメを刺すつもりだった。


「だめよ!」

ユキが必死にひまりの腕を掴み、叫んだ。


数秒遅れて到着したトオル刑事も、それに同意した。

「こんなやり方は駄目だ。あいつは法の裁きを受けさせる。それが正当な手続きだ」


結局、ケンジは一般の留置場ではなく、警察病院の厳重な病棟へと搬送され、意識を取り戻すのを待つことになった。しかし、車との衝突による衝撃は想像以上に深刻だった。やがてトオルは飲み物を買いにその場を離れ、ユキもひまりのために水を取りに向かった。


病室には、ひまりとケンジの二人だけが遺された。


彼女はあいつの身体に、苦しむことなく永久の眠りにつかせるための注射を打った。薬物は狙い通り、完璧にその役目を果たした。


彼女は静かに病室を後にすると、ユキに一言だけメッセージを送った。――『私の家で待ってる』。

しばらくして戻ってきたトオル刑事は、ベッドの上で冷たくなっているケンジを発見し、ただ深くため息をついた。

「……冗談だろ。おいおい。まあ、死んじまったもんは仕方ねえ。書類仕事だけはきっちり処理するしかないか」


ユキは約束通り、ひまりの自宅で彼女と合流した。二人は互いの痛みを労り合い、共に風呂に入り、失われた日常の温もりを少しでも取り戻そうと身を寄せ合った。


そして、ようやく食事に手を付けようとした、その時だった。

二人の足元の床が、到底理解することのできない不可解な魔法陣の光によって、眩く照らし出された。


次の瞬間、何の予兆もなく、二人の姿はその場所から完全に消え去っていた。


――だが、彼女たちの誰も知らない真実がもう一つあった。

ケンジは、すでに同じ異世界へと『転生(てんせい)』を果たしていたのだ。

テオレマ王国において、あの伝説の勇者ヴァルト・ホラックスの息子、『ジロー』として、彼は新たな生を授かっていた。

今の彼には、前世の記憶も、自分が犯した罪の自覚も、どのように死んだのかという記憶すら存在しない。ただ、自分が全く新しく生まれ変わったという、輪郭のない、漠然とした感覚だけをその魂に宿して。


その一方で、ユキとひまりの二人は、とある王国による大がかりな『精霊召喚(スピリット・サモニング)』の儀式に巻き込まれ、この世界へと強制的に『召喚(しょうかん)』されていた。だが、その術式のプロセスのどこかで致命的なエラーが発生していた。本来呼び出されるはずだった存在は姿を現さず、代わりに、全く予期せぬ異世界からの二人の女性が、誰一人として意図しなかった場所へと着根することになったのだ。


彼女たちが墜ちたのは、自由商業都市ロシャン。

そして到着してから数時間もしないうちに、二人は奴隷商人の組織に捕らえられてしまった。――それはのちに、エリスの命を危うく奪いかけ、そして彼女が最終的に『家族』と呼ぶことになる少年の手によって、跡形もなく壊滅させられることになる、あの忌むべき闇組織そのものだった。


カイがエリスを救い出したあの夜。彼は邸宅に囚われていたすべての奴隷たちを解放し、未亡人――かつての奴隷商人の妻であり、今は合法的な商売の残骸を引き継いで運営している女性――に対し、ここに残る意思のある者たち、特に物資の管理や計算業務に長けた者たちには、相応のまともな仕事を与えるようにと言い含めた。




ユキとひまりの二人は、その解放された群衆の中に立っていた。困惑し、状況が掴めないまま、誰も見覚えのない一人の少年が、静かな、しかし絶対的な威厳を持って周囲に指示を出している姿をじっと見つめていた。その少年の佇まいは、彼女たちのうちの一人にとって、妙に、そしてあり得ないほどに懐かしく感じられるものだった。


カイはその瞬間、彼女たち個人の存在には気づいていなかった。解放された何十人もの顔の中の、ただの二人に過ぎなかったからだ。彼は未亡人に、交易の計算に長けた者がいれば適切な役職を与えるのを忘れるなと念を押し、そのままその場を立ち去った。


(……だけど、あの時、俺は確かに何かを感じていたんだ。ずっと後になって、その時の記憶を何度も頭の中で反芻しながら、カイはそう思うことになる。あの群衆の中に、何か――懐かしい気配があった。誰かに似ていた。当時の俺は、まだ召喚魔法の存在すら知らなかった。前世の知り合いが、俺と同じようにこの世界に流れ着くなんて可能性、微塵も考えていなかったんだ。だから俺は、自分に『ただの気のせいだ。偶然だ。悲しみが俺に見せた幻覚だ』と言い聞かせて、片付けてしまった)


(……もっと、ちゃんと探しておけばよかったな)




群衆の中に佇むひまりもまた、同じことを感じていた。あの少年の姿の何かが、胸を締め付けるほどに、そしてあり得ないほどに、ハルトの面影を呼び起こしたのだ。彼が未亡人に向かって交易の計算について早口で、かつ的確に説明するその口調は、かつて彼女が「私にも教えてよ」と頼んだ時に、実の弟が自分の口座について説明してくれた時のあの様子と、寸分違わず同じだった。


(そんなわけがない。あの子なわけがない)

ひまりは自分にそう言い聞かせた。だが、彼女の心の中の最も静かな場所が、その思考を完全に手放すことを拒んでいた。

(そんなの、あり得ない。ハルトはもういない。私は、あの子が逝くのをこの目で看取ったんだから)


それでも、その思いは小さく、頑固に、彼女の胸の奥底で消えることなく燻り続けた。そうして彼女とユキの二人は、徐々に、この全く新しい異世界への順応という長い旅路へと足を踏み出していく。新しい習慣、新しい脅威、誰も望まなかった、けれど二人で絶対に正当に生き抜いてみせると誓った、新しい人生が始まったのだ。


その頃、テオレマ王国では、ジローが新たな父親の厳格な指導の下で、血の滲むような特訓に励んでいた。

自分がかつてどんな男であったのかも、そして今この瞬間、自分を奪い去った世界がほんの少しでも弟の破片を返してくれないかと、未だに静かに、そして切に願い続けている実の姉の存在すら、彼は知る由もなかった。




------------



繭の中に引きこもっていたあの狂おしい一週間。

その最中に、カイの精神の内側で、静かではあるが決定的な変化が起きていた。――自分自身、前世の彼方に永遠に置き去りにしてきたと思い込んでいた古い記憶の断片が、まるで今回の『進化(エボリューション)』というプロセスが彼の魂の深層まで手を伸ばし、本来そこにあったはずのものを完全な形で回収してきたかのように、鮮明に蘇っていたのだ。


(貿易モデル、サプライチェーン、生産理論……。ハルトとして死んで以来、一度だって思い出しもしなかった知識だ)


彼はまる一日の間、誰にもそのことを告げずにただ一人で座り込み、その可能性について思考を巡らせていた。それはかつて、今や大抵の日々において「完全に他人のもの」のように思えるあの前世で、市場のパターンをじっと分析していた時の、あの静かな集中力そのものだった。


(これまでの俺は、生き残ること、誰かを守ること、そして失った悲しみに向き合うことばかりに必死だった。だけど、自分が実際に持っている前世の知識をすべてこの世界に落とし込んだら、ホライズンクレストという国が経済的にどれほどの怪物になり得るか……そんなこと、一度だってまともに考えたこともなかったな)




彼はまずエレーンとアイヴィーを自室に招集し、目覚めた瞬間から脳内で静かに組み上がっていた壮大な構想の全貌を切り出した。


「うちの生産に対するアプローチを、根本からひっくり返したい」

カイは二人に告げた。

「単に自分たちの需要を満たすだけじゃない。世界の他の国々が、逆立ちしたって他所では手に入れられないようなモノを創り出すんだ」


エレーンが、注意深い好奇心を宿した目で彼を見つめる。

「……続けて」


「まずは建築資材からだ」

カイは指を一本立てた。

「本物の『真竜(トゥルー・ドラゴン)』のエネルギーを注ぎ込んで鍛造し、従来のいかなる金属をも遥かに凌駕する耐久性を誇る『竜鋼(ドラゴン・スチール)』。防壁に組み込むことで魔法エネルギーを強制吸収する『虚無石(ヴォイド・ストーン)』。大規模な魔力を永続的に貯蔵できる『アストラル結晶』。大抵の王国が存在すら認知していないであろう、超希少な『反魔鉱石(アンチ・マナ・オア)』。数千年が経過しても自己再生を続ける『世界樹の木材(ワールド・ウッド)』。さらに『天界の硝子(セレスティアル・ガラス)』に、損壊した建造物の自動修復を劇的に加速させる『創世の原石(ジェネシス・ストーン)』だ」


「……これらすべてを、市場に売り出すおつもりですか?」

アイヴィーが、すでにその行動がもたらす国際的な影響を脳内で弾き出しながら尋ねた。


「限定的に、慎重にな」

カイは頷く。

「最初から絶対に厳守するルールを一つ決めておく。――単体で一国を脅かすレベルの戦略兵器になり得るものは、絶対に一般市場には流さない。俺は都市を更地にするような大量破壊兵器で世界を埋め尽くしたいわけじゃない。要するに、うちと敵対するよりも、平和を維持して取引を続けるほうが『圧倒的に儲かる』と周囲に思わせるだけの、絶対的な価値を持ちたいんだ」




カイがその全貌を語り終える頃には、エレーンの表情は純粋な興奮へと塗り替えられていた。

世界を滅ぼすような過剰な武装を避けつつ、適正な出力に格付けされた武器や軍需物資。他所には絶対に存在しない、呪い解除の特効薬や『魂魄回復の霊薬(ソウル・エリクサー)』を含む画期的な医薬品。不毛の荒野を一瞬にして大豊作の畑へと変貌させる農業資材。貴族たちが喉から手が出るほど欲しがる魔法の高級贅沢品。そして、単なる口約束の条約ではなく、強固なインフラによって同盟国同士を物理的に結びつける、魔導輸送と魔導通信の技術。


「それから、モノだけじゃない。サービスもだ」

カイは付け加えた。

「都市の戦後復興。呪詛の解呪代行。ダンジョン間引き。さらには大規模災害時の緊急支援。どれほど国が豊かであっても、自国だけでは決して用意できない『他力』を、うちが提供するんだ」


「……つまり、代替不可能な存在になる、ということですね」

アイヴィーが、ゆっくりと、しかし確実にその本質を理解して呟いた。


「俺たちを恐れるからじゃない。俺たちと手を取り合うほうが、敵対するよりも単純に都合がいいからこそ、平和が『唯一の正しい選択肢』になるようにしたいんだよ」




彼は、以下の七つの製品をホライズンクレストの『完全独占品』として指定した。

――【創生結晶(ジェネシス・クリスタル)】

――【虚無石(ヴォイド・ストーン)】

――【竜鋼(ドラゴン・スチール)】

――【創生の種子(ジェネシス・シーズ)】

――【魂魄霊薬(ソウル・エリクサー)】

――【空間移動の指輪(スペース・リング)】

――【世界樹の聖液(ワールド・ツリー・サップ)】。

どれも世界中の最高権力者たちが血眼になって欲しがるほどの価値を持ちながら、仮に悪党の手に渡ったとしても、それ単体では世界破滅の引き金にはなり得ない絶妙なラインの産物だった。


「これならいけるわ」

エレーンはすでに、隠しきれない熱意を浮かべながら具体的な実行計画の図面を引き始めていた。

「正直に言うわね、カイ。私の想像を遥かに超えて、これは完璧なビジョンよ」


(そりゃそうだ。前世の俺は、画面の上の数字相手とはいえ、何年も何年もこういうことばかりを考え続けて生きてきたんだからな。それが今は、地中から掘り出す魔法の鉱石に変わっただけだ)


生産ラインの構築は、ほとんど間を置かずに開始された。

ボルガ率いるドワーフの鍛冶師たちは、その至高の技術を惜しみなく注ぎ込んで『竜鋼』の鍛造に没頭し、エレーンが持つ【創生の権能(ジェネシス)】は、ポーションの超高純度精錬において予想外の凄まじい適性を示した。ヴァンスもまた、その学者特有の緻密な魔力制御で、最も繊細な魔導具の製造工程に多大な貢献を果たした。


ほんの数週間のうちに、その噂は大陸全土へと伝播していった。――まずは一介の商人たち、次いで各地の貴族たち、そして最終的には王国そのものが、突如としてホライズンクレストが吐き出し始めた未知の富に対して、猛烈な、かつ緊急の関心を示し始めたのだ。




しかし、誰もがその躍進を歓迎したわけではなかった。価値ある存在になったからといって、自動的に周囲から信頼されるわけではないということを、カイはすぐに思い知らされることになる。


人間至上主義を掲げる過激な王国は、ホライズンクレストとの貿易協定への署名を一蹴した。その国王は公に「文明の仮面を被ったところで、魔王はどこまでいっても魔王に過ぎん」と吐き捨てた。

教義の建前上、魔物や悪魔に関連する一切の存在を忌避する神聖国家は、水面下で静かにプロパガンダを流布し始めた。「あらゆる甘い蜜には必ず代償がある」と民に警告を発しながらも、その実、彼らの内情はホライズンクレストの爆発的な成長を、明らかな焦燥の混じった目で見つめていた。


さらに、既存の巨大経済勢力もまた、カイの『魔王』という本質とは全く関係のない理由から、ホライズンクレストに対して明確な敵意を剥き出しにし始めた。――自分たちの市場が、ホライズンクレストの圧倒的な物資によって一瞬にして駆逐されるのではないかという、純粋で、泥臭い、商人としての恐怖からだった。


そしてテオレマ王国――あの伝説の勇者ヴァルト・ホラックスが、その生涯のすべてを魔王狩りに捧げてきた古き大国。彼らは「魔王と平和が共存するなど、到底あり得ない絵空事だ」と頑なに信じ込んでいた。彼らにとって、カイという異端の魔王の存在そのものが、何世代にもわたって戦い続けてきた宿敵の、新たなる脅威の顕現でしかなかったのだ。

彼らの諜報報告書には、カイの「無害である」という主張が上がるたびに、決まって同じ文言が刻まれていたという。

『――我々は過去に、その甘言を弄した魔王どもを何度も血祭りにあげてきた』と。




カイは、そんな凝り固まった猜疑心に対して、わざわざ熱くなって反論しようとはしなかった。ただ一度、特に敵対的な態度を崩さなかった使節の男を前に、静かに、そして全く動じることなく事実だけを告げた。


「俺は最初から、あんたたちに信頼してくれなんて一言も頼んじゃいないよ」

カイは淡々と言った。

「俺を判断するなら、あんたたちが勝手に決めた『魔王』っていう種族のレッテルじゃなく、俺が実際に何をしたかで判断してくれ」


その言葉が投げかけられるたび、会議室はいつも不気味なほどの静寂に包まれた。その場にいる者を一瞬で味方に引き込めるような、そんな魔法の言葉ではない。だが、それは彼らの胸の奥底に、確かに一つの『種火』を植え付けた。彼らが絶対の確信を持って携えてきた偏見の中に、ほんのわずかな疑念の種を落とすのだ。そして時間は、その小さな疑念を、いずれ「再考」という形へと育て上げていく。


(世界に、俺が人間だと信じてもらう必要なんてない。かといって、自分が誤解された悲劇のモンスターだなんて悲劇のヒーローぶるつもりもない。俺はただのカイだ。魔王であり、人間でも魔物でもない存在。――俺の民を脅かさない限り、俺たちが敵同士になる理由なんて、どこにもないんだからな)


そのメッセージは、歪で、遅々とした歩みではあったが、確実に外の世界へと浸透し始めていた。

商人たちはホライズンクレストの極めて公正な取引ぶりを口々に称賛し、旅人たちはその領内を通過する際の圧倒的な安全性を報告した。近隣の諸王国も、カイが他国への侵略を一度も行っていないこと、信仰の強要をしないこと、部下が部外者に危害を加えた際は身内であっても厳罰に処していること、そして、同盟を結んでいない国が飢饉に喘いでいる時でさえ、無償で食料を援助したという事実を、否応なしに認め始めていた。

諸国の報告書には、やがてこのような一文が混ざり始める。

『――彼は確かに魔王かもしれない。しかし、これまでにただの一度も、我々を敵として扱ったことはない』




そんな折、カイの元に、心底意外な一通の招待状が届けられた。

ティアムーン王国の女王、ミラベル・オーレリス。

彼女からの直々の書状には、両国間における正式な、かつ互いに利益をもたらす『友好関係』の構築を求める旨が記されていた。どうやら、ホライズンクレストが輸出し始めた特定の製品が、彼女の個人的な関心を強烈に惹きつけたらしい。


(へえ……。慎重な使節を挟む前に、女王自らが直接コンタクトを取ってくるなんて、面白いな)


カイはその申し出を快諾した。


同じ頃、自由商業都市ロシャンでは、未亡人がホライズンクレストの新製品に対する爆発的な需要の波に揉まれ、圧倒的な人手不足に頭を悩ませていた。その報告を受けたカイは、彼女の元へ「エレーンの元に膨れ上がる計算業務を補佐させるため、何人か優秀なスタッフをこちらへ回してほしい」と要請を出した。


未亡人によって、二人の優秀な人材が選抜された。

そのうちの一人が――まだ、当事者の誰もその残酷な運命の悪戯に気づいていない段階ではあったが――他ならぬ、カイの実の姉であった。




-----------




あるうららかな午後。珍しく昼寝でもしようと横になったカイは、繭から目覚めて以来、ずっと棚上げにしていた一つの思考を巡らせていた。


(そういえば、俺が意識を失っていたあの一週間の間、みんなに何が起きていたのか、実はまだまともに聞いていないな……)


「お前、あの時の記録とか持ってたりするか?」

カイは半ば冗談めかして、脳内に語りかけた。

「……丸々一週間分のさ」


《肯定。完全な記録を保持しています》

虚無無意識(ヌル・サブコンシャスネス)が、淡々と肯定した。


「え、マジで? 見せてくれるのか?」


《可能です。当時の状況を正確に再現します。――目を閉じてください》


言われた通りに目を閉じると、彼が眠っていた一週間の出来事が、初めて完全な映像として脳裏に展開された。――目覚めた直後、一時的に目が見えなくなってパニックを起こすエリスと、彼女が視力を取り戻すまでの恐怖。起きて早々に飯を要求するエース。屋敷の全員が再会を果たした時の、あの混沌とした、それでいて温かい歓喜の瞬間。エレーンによる街の復興指揮。そして、あの魔王達の宴(ワルプルギス)に向けた慌ただしい準備の数々。

ところどころ、純粋に笑える場面もあった。胸が温かくなるような光景もあった。


だが、突如として、その記録は唐突にブラックアウトした。




「……これで全部か?」

カイは怪訝そうに尋ねた。何か、腑に落ちない感覚が残る。


《報告。これで全てです》

虚無無意識が告げる。


「嘘つけ。なんでこんな急に終わるんだよ。明らかにこの先に、妙な空白(ギャップ)があるだろ」


《警告。これ以上の記録の閲覧は、推奨されません》


(なるほど。「ない」とは言わないわけだ。ひどく慎重に言葉を選んで、はぐらかしにきてるな)


「いいから見せろ」

カイは静かに、しかし断固とした口調で命じた。

「俺の命令だ」


虚無無意識は、いつもよりほんの少し長い沈黙を挟んだ。――この感情を持たないシステムにとって、それは最大級の「拒絶の躊躇(ためらい)」を意味していた。だがやがて、意を決したように、ゆっくりと記録の続きが再開された。




そこに映し出された光景は、それまでに見たどんな映像よりも、遥かに対価の重い現実となってカイの胸を抉った。


一頭の『真竜(トゥルー・ドラゴン)』が、ホライズンクレストの上空へと舞い降りる。自分が繭の中で完全に無防備に晒されていた、まさにその瞬間の出来事だった。エンゾとアイヴィーが即座に間合いを詰め、一切の躊躇なく攻撃を仕掛ける。だが、直後に発動した【絶対虚無(アブソリュート・ヴォイド)】が街全体を完全に凍りつかせた。彼が愛するすべての者たちが、ただ一頭の絶対的な意志によって捻じ曲げられた空間の中で、指一本動かせず無力に囚われている。


カイは、ヴォラスが自分の繭へと手を伸ばすのを見つめていた。アイヴィーの結界が打ち破られ、次いで虚無結界が激しく抵抗するも、ヴォラスの退屈そうな、かつ執拗な一撃によって最終的に粉砕される。そして最後の最後、まさに絶体絶命の瞬間に、ニュクサーラがあいつの背後に音もなく出現し、その首筋に刃を突き立てる。彼女の表情には、底知れぬ絶対的な怒りが宿っていた。


そこから、二人の会話が始まった。

カイがその生涯を通じて二頭の真竜に命を狙われ続けてきた本当の理由――彼らの実の姉であり、カイの『母親』でもある存在、カオス・ドラゴン。彼女が、その圧倒的な力を恐れた実の弟たちの、醜く、身勝手な嫉妬によって惨殺されたという狂気に満ちた真実。

そして、あの『金の種子』。彼女の核(コア)の半分は【ナンバーエイト】と共に封印され、そして残りの半分は、他ならぬカイ自身の身体の奥底に隠されていた。それこそが、あいつらが最初からカイを血眼になって殺そうとしていた本当の理由だったのだ。


(俺の母親は、あいつらの姉だった……。お袋はあの二頭よりも遥かに強かった。だからあいつらは嫉妬でお袋を殺し、今度はお袋が遺した『本当に欲しかったモノ』の残骸を奪うために、その子供である俺の命を狙ってきたってわけか)




さらに映像を見進めるうちに、カイは、父親がなぜあれほどまでに滅多に家に帰ってこなかったのか、その本当の理由を完全に理解した。――距離の問題でも、育児放棄でもなかった。父親はあの魔界の最前線で、カイが一度だって全容を理解していなかった絶望的な脅威から、命がけで家族を守るために孤軍奮闘し続けていたのだ。


(親父は、俺たちに興味がなかったからいなかったんじゃない。あの場所で戦い続けることだけが、俺たちを守るための、親父なりの唯一のやり方だったんだ……)


記録は続き、さらに直視し難い惨劇へと進んでいく。ヴォラスは、まるで羽虫でも払うかのように、エンゾとアイヴィーの二人を文字通り一蹴してみせた。大した力も使っていない、圧倒的なまでの実力差の顕現。それは、カイ自身が今の段階からどれほどの高みへ登らなければ、あの二頭の真竜との戦いを生き延びることすら叶わないのかを、残酷なまでに突きつける現実の証明だった。


そして、最後に残された最後のピース。

ニュクサーラの鋭い問いかけに対し、ヴォラスが去り際に、まるでどうでもいい世間話でも残すかのように言い放った言葉。


――『神話戦争(ウォー・ジェネシス)』。あいつらは、その金の種子を使って、神話戦争とかいう何かを再び始動させようとしている。


そこで記録は途切れ、完全な闇へと戻った。




カイはゆっくりと目を開けた。今知ったすべての事実の重みが、初めて、ストレートに彼の肉体へと沈み込んでいく。


「……なぁ、お前、よくあの状況を記録できたな」

カイは静かに尋ねた。

「あいつ、周囲の時間を完全に停止させる【絶対虚無】を使ってたんだろ? 普通なら、お前のシステムだって一緒に凍りついてたはずじゃないのか?」


《解説。その事象に関する証明には、極めて高度かつ複雑な多次元的システム論の説明を必要とします》


「あー、もういい」

虚無無意識が本当に長々とした大講義を始める前に、カイはそれを手で制した。

「今はどうでもいいや、そんなこと」


彼の瞳が、内側から微かに、妖しく輝き始めていた。その表情には、さっきまで存在しなかった、不気味なほどの静寂と――そして、絶対的な、逃れようのない確信が宿っている。


彼は、静かに微笑んだ。


「ちょうどいい機会だ」

カイは低く、決定的な声で呟いた。

「……あのクソトカゲども、いよいよ全員ぶっ殺すか」




その日の夜、カイは幹部会のメンバーを全員召喚した。彼が纏うその独特の静けさは、下手に怒り狂っている姿を見るよりも、その場に集まった全員を遥かに戦慄させるに十分な気配だった。


「みんな、知ったよ」

カイは静かに切り出した。

「全部だ。俺が繭の中にいた時、ここで何が起きたのか。ヴォラスとスコルンの野郎が、俺のお袋に一体何をしたのか、その理由も含めてな」


席に就いていたニュクサーラの身体が、一瞬で強張った。

「……あの記録を見たのね」


「虚無無意識に、全部見せろって頼んだんだ」

カイは言った。

「途中でシステムが止めようとしてきたけど、俺が無理やり押し切った」


「あんたなら、そうするわよね」

ニュクサーラは呆れたように息を吐いたが、その瞳の奥には、隠しきれない心配の色が滲んでいた。




彼は全員に向かって、包み隠さず真実を共有した。金の種子のこと。その半分は、お袋が命を落としたあの戦いの最中にナンバーエイトと共に封印され、残りの半分は、自分でも気づかないままずっと自身の内に眠っていたということ。そして、二頭の古代の竜が抱く共通の野心の裏で、何やら『神話戦争(ウォー・ジェネシス)』と呼ばれる不穏な計画が機会を窺っているということ。


話を聞くにつれ、エンゾの表情が凶悪なまでに歪んでいく。

「嫉妬、か……」

地を這うような声だった。

「自分たちよりも遥かに強大だった実の姉を、ただの醜い嫉妬の末に虐殺し、それをさも高尚な大義名分であるかのように飾り立てていたわけだ」


「それが、ヴォラスがあいつの口から直接ニュクサーラに白状した事実だ」

カイがそれを肯定する。


「そしてそのヴォラスは、主(マスター)が最も無防備だった瞬間にこの地へ這い寄り」

アイヴィーの、いつもなら理性的で冷静な声に、絶対的な零度の殺気が混ざる。

「……エンゾと私を、大した手応えも感じぬまま一蹴していった、と」


「ああ、それもこの目で見た」

カイは全員を見つめる。

「だからこそ、今の俺があいつらの足元にも及ばないっていう現実も、痛いほど理解できているつもりだ」




「……それで、これからどうするの?」

エリスが、次にカイの口から飛び出すであろう過激な決断を本能的に恐れるように、静かに尋ねた。


「今すぐあいつらの首を獲りに特攻する、なんて馬鹿な真似はしないさ」

カイのその言葉に、部屋の空気がわずかに緩んだ。

「俺だって、そこまで無鉄砲じゃない。だけど、このまま何も知らなかった顔をして、この傷口を永遠に放置しておくつもりも毛頭ない。俺には明確な標的ができた。それも、同時に二頭だ。俺は、今の自分の実力と、あいつらの首を確実に叩き落とせるだけの絶対的な力との間にある『決定的な格差』を、今ここから、本格的に埋めにいく」


「必要なことなら、何でも協力するわ」

エレーンが即座に、一瞬の躊躇もなく言い放った。


「分かっているよ」

カイは微笑む。

「……というか、みんながそう言ってくれるからこそ、俺は今、この絶望的な復讐のビジョンをまともに描けているんだ。俺は、一人で戦いに行くわけじゃないからな」




ニュクサーラは長い間、いつもの余裕を崩した真剣な眼差しでカイを見つめていた。

「……あんたがいつか、知らなきゃいけないことはまだ他にもあるわ。特に、その『神話戦争(ウォー・ジェネシス)』についてね。私自身、まだ完全には把握しきれていないの。ヴォラスがあれ以上喋る前に、私が止めちゃったから。――だけど、私が必ず突き止めてみせるわ」


「みんなで、な」

カイが言った。


「ええ、みんなでね」

彼女も、不敵に笑って同意した。


その後、会議室には、昼間とは違う静謐な空気が満ちていった。それは何かが解決したわけでも、完全に平和が訪れたわけでもない。だが、これまでに直面したどんな理不尽な絶望よりも、遥かに過酷な未来を共に生き抜いてきた『家族』だけが共有できる、絶対的な覚悟の静寂だった。


(その神話戦争とやらが、一体どんなデタラメだろうが。ヴォラスとスコルンを正面から叩き潰すために、どれほどの絶対的な力が必要だろうが……。今の俺には、この暗闇の中に一人で歩かせるような真似は絶対にしないって言ってくれる、最高の仲間たちがいる)


(それだけで、十分すぎるほどの理由になるだろ。いや、それこそが、俺にとってのすべての原動力だ)




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それから三日後。ひまりは未亡人のスタッフのもう一人と共に、ホライズンクレストへと到着した。全員の当初の予想を遥かに超える速度で膨れ上がり、手が回らなくなっていた膨大な交易の計算業務を補佐するため、直々の指示を受けて派遣されてきたのだ。


(何て巨大な場所なの……)

豪奢な屋敷、新設されたばかりの評議会場、そして耳にしていた噂では一年前には影も形もなかったという、あまりにも規格外なインフラの数々を目の当たりにして、ひまりは息を呑んだ。

(この国を実際に動かしている人間は、自分が何をすべきか、そのすべてを完璧に把握しているわね)


エレーンが自ら彼女たちを出迎え、極めて温かく、それでいて無駄のない手際で声をかけた。

「ロシャンの街から来てくれたのね? 助かるわ――本当に人手が足りなかったの。早速だけど、現在の帳簿の全体像を説明するわね」


「よろしくお願いいたします」

ひまりは応じつつ、長年の警察官としての習性から、無意識のうちに部屋全体をスキャンしていた。脱出経路を数え、そこにいる者たちの顔ぶれを記憶していく。


(……まだ、あの人の姿はないわね。『カイ』とかいう、この国の主の姿は)




実務自体は、ひまりにとって決して難しいものではなかった。異世界における交易の計算とはいえ、前世で自分のささやかな家計を管理していた時のやり方と、本質的には大差なかったからだ。日を追うごとに「完全に別の存在の記憶」のように思えていく前世の影を感じつつも、彼女は静かに、かつ有能に日々のルーティンへと溶け込んでいった。そして、ホライズンクレストの独特な、どこか温かみのある混沌が目の前で繰り広げられるのを、じっと見つめていた。


やがて、実際の生産プロセスについて、ひまりに丁寧なレクチャーをしてくれたのはアイヴィーだった。それはカイが、学ぶ意思のある者なら誰にでも教えるべきだと、数週間をかけて周囲に徹底的に叩き込んできた知識そのものだった。


「カイ様は、すべての工程を正確にドキュメント化して残すよう、強くこだわっておいでなのです」

アイヴィーはそう説明しながら、ひまりの前に一冊の分厚いマニュアルを置いた。

「単にモノを創るだけではありません。それを『教える』のです。ご自身が創り上げた知識を一部の専門家の中だけに閉じ込めるのではなく、ホライズンクレストの共有財産として、広く普及させたいと考えておられるのです」


(それは……自分が創り出したものを簡単に独占できる立場にある人間としては、随分と変わった哲学ね)




ひまりは、次第に強い興味に突き動かされながら、そのマニュアルを読み進めていった。そこに記されていたのは、カイ自身の言葉をそのまま書き起こし、編纂した詳細な解説書の数々だった。

例えば『竜鋼(ドラゴン・スチール)』がどのように鍛造されるのか、その一歩一歩の工程が緻密に描かれている。――『真竜(トゥルー・ドラゴン)』のエネルギーを、特定の共鳴パターンを通じて未精製の鉱石へと流し込み、ドワーフの鍛冶師たちは、その金属が借り物の力と完全に結合する『正確な温度』と『タイミング』を感覚で捉えるよう訓練されるべし、と。


続いて『創生の種子(ジェネシス・シーズ)』の頁。エレーンの持つ【創生の権能(ジェネシス)】と、緻密な農業科学の融合。濃縮された回復魔力を宿したその種子は、植えられると、単に劣悪な環境に耐えて育つだけでなく、自ら周囲の傷ついた土壌そのものを積極的に修復していく特性を持つ。


(この人、これほどのアドバンテージを何一つ出し惜しみしていない……)

丁寧で、あまりにも体系的な指導書をめくりながら、ひまりは驚愕していた。

(すべてのステップがここまで正確に言語化されている。これなら、魔法の知識が全くない人間であっても、手順通りに進めば完全に再現できてしまうじゃない)




「……これ、本当は誰が書いたのですか?」

ひまりは、抑えきれない好奇心からアイヴィーに尋ねた。


「カイ様ですよ」

アイヴィーが当然のように答える。

「ご自身の手で、すべてを。カイ様は、一人の人間の中に閉じ込められた知識は、いずれその者の死と共に絶滅すると信じておいでなのです。ならば、たとえ競合他国に模倣されるリスクがあったとしても、正しい手順を広く伝えておくほうが遥かに合理的である、と」


(奇妙なほどの絶対的な自信か、あるいは、奇妙なほどの圧倒的な慈悲か……。おそらく、その両方ね)


ひまりは自分でも気づかないうちに、そのすべてのビジョンの中心にいる一人の男に対して、強烈な興味を抱き始めていた。これまでに耳にしたすべての噂や証言が描き出すその人物像は、「魔王(デーモンロード)」という禍々しい単語から受ける先入観を、ことごとく、かつ木っ端微塵に打ち砕くほどに、深く、思慮深いものだったからだ。


(一度、ちゃんと会ってみたいわね。その『カイ』という人に)




まさにその同じ一週間、カイは視察に訪れた商人や職人たちの使節団を前に、自ら生産プロセスを案内して回る日々に追われていた。それは彼が意図的に確立したルーティンであり、ひまりが読んでいるマニュアルに刻んだ哲学と同じく、知識の抱え込みは長期的には誰の利益にもならないという絶対的な確信に基づいていた。


「『虚無石(ヴォイド・ストーン)』の要諦は」

カイは、真剣な眼差しで聞き入るドワーフの鍛冶師たちに向かって解説していた。

「……通常の岩石に対し、完全に制御された『反魔(アンチ・マナ)』の格子構造を結びつけることにあります。出力は常に厳密に測定されなければならない。最大出力で解放すれば、吸収対象の魔法だけでなく、石自体が持つ特性まで相殺されてしまいますからね。鍵となるのは『均衡(バランス)』です。少なすぎれば何の意味もなさず、多すぎれば、味方の防御結界すら強制解除してしまうほど、周囲のあらゆる魔力に対して牙を剥く有害な物質へと変貌してしまう」


「その均衡を、我々はどのようにして正確に測定すればよいのでしょうか?」

一人の鍛冶師が手を挙げた。


「共鳴テスト(レゾナンス・テースティング)を行います」

カイは笑う。

「今から、目の前で実際にやってみせましょう」


(このあたりの感覚は、前世の経験がそのまま綺麗に応用できるな。『教育』だ。システムの本質を噛み砕いて明確に説明し、他人が自分と同じ精度でそれを完全に複製できるように仕込む。これに尽きる)




彼はその後も数日をかけて、それぞれの製品の解説を順次進めていった。

『アストラル結晶』における精密な魔力圧縮技術。これは彼が前世の記憶の彼方から半分だけ引っ張り出してきた、蓄電池(バッテリー)の原理を緩やかに応用し、この世界の魔法体系が維持できる形へとコンバートしたものだった。

ドワーフのガラス工芸にエレーンの創造魔法を精緻に融合させ、一度の成形ではなく、忍耐強く幾重ものレイヤーを重ね合わせることを要求する『天界の硝子(セレスティアル・ガラス)』。

そして、最も繊細な工程を要する『魂魄霊薬(ソウル・エリクサー)』。これにはヴァンス自身が多大な貢献を果たし、精神や魂の解剖学的な構造に対する純粋な理解と思いやりのアプローチを、再現可能な『学問』として正式にフォーマット化したものだった。


「貴方は、自国の絶対的な優位性を自らドブに捨てている」

一人の視察の商人が、心底理解できないといった風に、ひどく困惑しながらカイに指摘した。

「我々がこれらを自力で製造できるようになってしまえば、その後も貴方から商品を買い続ける理由など、どこにも残らないのではないですか?」


「いくつかの技術に関しては、確かに模倣できるでしょうね」

カイは、その懸念をあっさりと、極めて誠実に認めた。

「ですが、モノによっては、ホライズンクレストという土地と環境でしか手に入らない固有の素材や条件を必要とします。――例えば、本物の『真竜』のエネルギーであったり、俺の領地が湛えている特殊な魔力の質そのものであったりね。再現に挑戦するのは大歓迎ですよ。ただ、俺としては、あんたたちに『わけのわからない謎の魔法のアイテム』を買わせるよりも、自分たちが一体何を買い付けているのかを、正確に納得した上で選んでほしいだけなんです」




(それにさ)

カイは、あからさまな驚きを隠せない商人の様子を眺めながら、内心で静かに思考を巡らせていた。

(神秘のベールによって縛り付けた信頼よりも、徹底的な透明性の上に築き上げた信頼のほうが、遥かに長持ちするものさ。俺は前世で、大切な人間を失うっていう最悪の対価を支払って、ようやくそのレッスンを完璧に学んだんだからな)


彼の目論見通り、知識は確実に外の世界へと波及していった。――遅々として、歪な形ではあったが、一部の王国は不完全ながらも再現に成功し、大半の国々はホライズンクレスト固有の絶対的なリソースの前に一歩及ばず、結果として、模倣には至らなかった。しかし、そのプロセスの成否に関わらず、すべての国々が共通して、抱え込みではなく『教育』を選択したこの異端の魔王に対し、心からの絶対的な敬意を抱くようになっていった。


『――彼は、すべてを包み隠さず説明してくれる』

貿易物資の流通と共に、各国の諜報報告書にもその事実が次々と刻まれていった。

『我々を、理解力のない子供のように扱うことはしない。商品を渡す見返りに、盲目的な忠誠を要求することも一切ない。彼はただ――理路整然とシステムを説明し、その価格に見合う価値があるかどうかを、我々自身の意志で判断させてくれるのだ』


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