第45話:王が実際に見たもの
屋敷に新設されたばかりの評議会場。
そこでようやく、カイが正式に挨拶を交わした相手――アラリック・ソーン王は、未だにいくつもの困惑を同時に処理しきれていない、といった様子だった。
「――つまり、君がカイ殿か」
アラリック王は、隠そうともしない、注意深い好奇心の入り混じった視線で、じっとカイを観察する。
「ええ、俺です」
カイは、外交官としての最低限の威厳を保とうと、精一杯の澄まし顔を作った。
「ホライズンクレストへようこそ、国王陛下」
「ここ数日、実によい経験をさせてもらったよ」
アラリック王は苦笑を交えながら、皮肉めいた調子で白状した。
「一国の支配者に会うつもりで来てみれば、まさか、お宅の『古代竜』と対面して心臓麻痺を起こしかけるとは夢にも思わなかった」
「エンゾの奴、初対面の人にはいつもあれですからね」
カイは言った。
「実はあいつ、俺がちゃんとした名前を付ける前は『イグニヴァール』って名乗ってたんですよ。まあ、長くなる話ですが」
「ヴァンスから少しは聞いている」
アラリック王が言った。
「君が彼に全く新しいアイデンティティを授け、一年前の学者なら誰もが神話の絵空事だと吐き捨てたであろう『進化』をもたらした、と。……告白しよう、カイ殿。私は十万を超える民を率いて十年以上国を治めてきたが、これほど予測不可能な国交訪問の準備など、これまでの経験のどこを探しても見当たらなかったよ」
(そりゃそうだ。俺だって、ホライズンクレストの常識に追いつくための心の準備なんて、未だにできていないんだから)
傍らに控えていた高位の女祭司が、ようやく一歩前へ出た。
彼女の高潔な地位に似合わぬ、明らかな緊張がその表情には張り付いている。
「カイ様」
形式に則った、慎重な声だった。
「我が教会の不手際により、事態を全うに調査せぬまま暴挙に及んだこと……教会を代表し、ここに深くお詫び申し上げます」
「謝罪は不要ですよ」
カイは声音を和らげる。
「裏で糸を引いていたのは『魔族』です。教会の落ち度というより、あいつらがそれだけ巧妙に隠蔽していたということですから。普通なら気づけませんよ」
「それでも」
彼女は言った。
「取り返しのつかない実害を出したのは事実です。ソフィアの報告書だけで済ませるのではなく、私自身の口から直接お伝えせねばぬと考えました」
やがて、午後の時間は、公式交渉という名の、ひどくエネルギーを消耗するお決まりの儀式へと流れていった。
カイの想定を遥かに超える人数の使節団が、それぞれに要求を携えて詰め寄ってくる。そのすべての案件は、最終的に、カイが最も信頼を置いている『実務の天才たち』の元へと、綺麗に集約されていくことになるのだが。
「アシュフォードとホライズンクレストの間で、正式な和平協定を」
アラリック王が切り出した。
「そして、もし可能であれば、交易を求めたい。物資、食料、互いに利益をもたらす形での流通経路を確立できればと思う」
「ああ、それならエレーンが担当しています」
カイは即座に、彼女を手招きした。
「アーロンの家系や、ロシャンの窓口とも連携を取っていますから。彼女に任せておけば、必要な物資は確実に揃いますよ」
続いて、ミラスの王子――未だに自分の新しい立場に馴染みきれていない様子のジークが、かなり具体的な要望を口にした。
「我が国の学生を数名、ホライズンクレストへ留学させ、ポーションの製造技術を学ばせることは可能でしょうか? 我々は今、無から国を興している最中です。故郷へ持ち帰れる『技術』は、一つでも多く必要なのです」
「それもエレーンですね」
カイは言う。
「というか、この国の実務の半分は、すでに彼女の頭脳で回っているようなものですから」
(……そろそろ、エレーンにちゃんとした役職とか肩書をあげないと、ブラック労働で訴えられかねないな)
高位の女祭司が、言葉を選びながら最後の議題を切り出した。
「ソフィアが、自ら厳選した精鋭で新たな『聖騎士団』の部隊を編成中なのですが……彼らを、カイ様の手で直接鍛え上げていただくことは叶いませんでしょうか?」
「いや、俺は人に教えるような柄じゃないですよ、本当に」
カイは本音を漏らした。
「俺の戦い方の基本はエンゾ仕込みですから。俺が教えたら、かえって彼らを混乱させるだけです」
「関係ないわ」
いつの間にか祭司の隣に並んでいたソフィアが、腕を組んで不敵に笑う。カイの逃げ道を完全に塞ぐつもりのようだ。
「要するに、鍛えてくれるの? くれないの?」
「……だったら、エリスに任せるのはどうです?」
カイは提案した。
「うちの精鋭三人衆を育てたのも彼女ですし、それ以降も百人以上の兵を鍛え上げています。俺なんかより、適任中の適任ですよ」
女祭司は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、深く納得したように、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました。では、二日後に志願兵たちをこちらへ派遣いたします」
しかし、ソフィアはそれだけで引き下がる殊勝な性格ではなかった。
「それはそれとして。私は個人的に、あなたと手合わせしたいのだけれど?」
「君は本当に、諦めるって言葉を知らないな……」
カイは深く、深いため息をつく。
ソフィアは、いたずらっぽく微笑んだ。
「ええ、知らないわ」
「……分かったよ」
カイは言った。
「分かった、一回だけだぞ」
その日の夜、屋敷は昼間の厳格な雰囲気から一転し、お祭り騒ぎの渦に巻き込まれていた。
元々は、カイの新たな『称号』を祝うためのささやかな身内の集まりだったはずなのだが、企画の段階で誰かのリミッターが外れたらしく、手に負えない規模のどんちゃん騒ぎへと進化してしまっていた。
ミラスの貴族たちがアシュフォードの使節団と杯を交わし、ホライズンクレストの住人たちがその間をごく自然に行き交う。
そして、その混沌のど真ん中に、招待された覚えのないニュクサーラが当然のような顔で君臨し、すでに山盛りの料理を自分の皿に確保していた。
「あんた、ついに『魔王』になったんだって? 最高じゃない!」
ニュクサーラは満面の笑みで、カイの肩を叩く。
「これはもう、限界を超えて盛大に祝うしかないわね!」
「いや、もう十分に限界を超えてると思うんだが……」
カイは、屋敷の一階の半分を完全に占拠している宴会の惨状を見つめながら呟いた。
「まだまだ足りないわよ!」
彼女はそう言い残すと、カイが反論する隙も与えずに、再び人混みの中へと消えていった。
案の定というか、エースは並べられた料理のクオリティを大真面目な顔で厳しく評価した後、隅の特等席で早々に爆睡していた。周囲の爆音のような騒ぎなど、彼の睡魔の敵ではないらしい。
「あの人、どこのパーティーに行ってもこうなのよ」
エリスが、幸せそうに寝息を立てるエースを愛おしそうに見つめながら笑う。
「あの状況で寝られるのは、ある種の才能だな」
カイは言った。
「自分の快適さに対する執着が凄じい」
一方、エンゾはといえば、ミラスの兵士数人を捕まえて、正しい剣のメンテナンス方法について熱弁を振るっていた。完全に自分の世界に入り込んでいる。どうやら彼の中で、ここ数週間の国際的な緊迫感は、すでに「過去のどうでもいい出来事」として処理されたらしい。
宴も終盤に差し掛かった頃、昼間よりもいくらか肩の力が抜けた様子のソフィアが、カイの隣に並んだ。
「本当に、奇妙な場所ね」
彼女は、楽しげな会場を見渡しながら呟く。
「……素晴らしい意味でも、おかしな意味でも、その両方よ」
「ああ」
カイは言った。
「俺も、この場所をまともに説明するのはもう諦めたんだ。言葉で説明するより、実際に体験してもらうのが一番早いからな」
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翌朝は、昨日までの騒動が嘘のように静かに訪れた。使使いたちはそれぞれの帰路に就くべく荷物をまとめ、屋敷は前夜の狂乱からようやく日常の気配を取り戻しつつあった。
「何か必要なものがあれば、いつでも連絡を」
出発の準備を進める使節団を前に、カイはアラリック王にそう告げた。
「そうさせてもらうよ」
アラリック王が頷く。
「それから、カイ殿――感謝する。最初の行き違いを考えれば、私には過ぎたるほどの寛大な対応だった。感謝してもしきれんよ」
その直後、ジーク王子も一ヶ月以内に第一陣の留学生を送り出すと約束して旅立っていった。そして最後に残ったソフィアは、近くに集まっている自身の新しい部下たちをじっと見つめていた。
「二日後よ」
彼女は念を押すように言った。
「エリスの特訓が始まるからね」
「分かっているさ」
カイは苦笑する。
「君がそうやって何度も確認するくらいだからな」
彼女は満足そうに微笑むと、残りの者たちを引き連れて去っていった。
(よし。これで、大体は元通り静かになったな。そろそろ、この世界がまだ俺を待たせている、他の山積みの案件に本格的に手をつけるとしますか)
――これから語られるのは、これらすべての出来事よりも遥か昔の物語。
カイがこの世界に転生を果たす前、ホライズンクレストという国が影も形もなかった頃の記憶である。
あえてここに記すのは、これがいつか、決定的な意味を持つようになると信じているからだ。
吸血鬼の頂点、真祖たちが支配する王国。
その日、日本の北海道に暮らす橘菜摘という少女が、下校途中に流れ弾に当たって命を落とした。
そして彼女が目を覚ました時、そこは全く見知らぬ異世界であり、自身もまた吸血鬼の眷属へと生まれ変わっていた。だがまさにその同じ日、王国は『西の竜』による強襲を受け、壊滅的な打撃を被っていた。
生き残った者たちは、隣国であるテオレマ王国へと逃げ延びた。その国には、竜に国境を越えさせないほどの圧倒的な力を持つ『勇者』がいたからだ。
菜摘の新しい両親――彼女を抱えて決死の撤退戦を生き延びた夫婦は、殿として命を落とし、彼女は歳の離れた姉、モリの手に委ねられることとなった。
授かった新たな名は、コッリ・ヴァネッサ。
生き残った吸血鬼たちは、生まれたばかりの赤子を激しく責め立てた。彼女の誕生こそが竜の注意を引きつけ、王国を滅ぼしたのだと確信していたからだ。
モリは彼らの刃から妹を必死に庇い続け、結果として二人はコミュニティを追われ、孤独なサバイバルを余儀なくされた。
モリはテオレマの国境近くに放棄された洞窟を見つけ、そこを二人の我が家とした。姉は狩りをし、獲物を持ち帰り、妹のためにできる限りの全てを尽くした。
しかし、ヴァネッサの肌は太陽の光に焼かれ、生きるためには絶えず鮮血を必要とした。それは高位の真祖の性質ではなく、彼らの血統からは何世代も前に絶滅したと信じられていた、下級吸血鬼の特徴そのものだった。
さらに、彼女が宿していたのは一つではなく、四つもの『呪い(カース)』だった。
自らの死の予定日を定められ、その理由を理解するまで永遠に死を繰り返す【死神の機関】。
自身をあらゆる不運から遠ざける代わりに、周囲の者から徹底的に運を奪い去る【幸福の寵児】。
周囲の人間が全て死に絶えることでしか自身の生存を許されない【生存者の業】。
そして、自分が未来永劫、完全に孤独であることを保証する【祝福された孤高】。
そんな過酷な環境のまま、五年が過ぎた。
モリは何があっても妹の世話を焼き続け、その重荷を一度たりとも恨むことはなかった。
ある日、モリはヴァネッサに新しい服を買ってくると言い残し、最寄りの街へと向かった。
ヴァネッサは待った。飢えに耐え、孤独に震え、陽が落ちるまでは洞窟から一歩も出られないまま。
ようやく夜の帳が下りた時、彼女は姉を探しに外へ飛び出した。そして見つけたのは――身体を真っ二つに引き裂かれ、吸血鬼特有の凄まじい超回復力だけで辛うじて息を繋ぎ止めている姉の姿だった。
「……森を、出なさい……」
モリがそう絞り出した直後、背後から突き立てられた刃が彼女の喉を貫いた。
吸血鬼ハンターの手による、冷徹なトドメだった。男はそのまま、衝撃のあまり跪いていたヴァネッサをも容赦なく斬り伏せた。
だが数分後、彼女の固有能力――【絶対転生】が発動する。
同時に、四つの呪いが一斉に暴走を始めた。
肉体は一瞬にして十四歳の少女の姿へと急成長を遂げ、過去の全ての人生の記憶が濁流となって脳内に流れ込む。それと同時に、五つ目の絶望が彼女を襲った。決して満たされることのない無限の飢餓感、【永久飢餓】。
彼女はまず、目の前のハンターを惨殺した。
次いで、洞窟の上にある村へと向かい、そこにいた全ての住人を、一人残らず喰らい尽くした。
貪り喰う饗宴が終わった瞬間、第一の呪いが彼女を捉えた。
血塗られた時計の針が逆回転を始め、再び死が、そして新たな生のループが幕を開ける。自分が望んだわけでもない罪に対する、理不尽な罰の始まりだった。
彼女は血に染まった空を見上げ、涙を流しながら、誰もいない空間に向かって静かに呟いた。
「――これが、私の人生なんだね」
それは、カイがこの世界で初めて目を覚ます、十五年も前の出来事だった。
それ以来、彼女が死んだ回数はもはや本人すら正確に記憶していない。そして、あの勇者ヴァルト・ホラックスに殺された回数も、双方ともに数え切れないほどに達していた。
人々は今、彼女をこう呼ぶ。
『呪われし吸血鬼』。
あるいは――世界の『特異点』、と。
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夕食の時間は、いつも通りの心地よい混沌に包まれていた。
エースは出された料理のクオリティを大真面目な顔で厳しく評価し、アイヴィーは静かに、かつ手際よく全員のグラスへ酒を注いでいく。エレーンはワインのグラスを傾けながら、カイの突飛な言動に驚くのをとっくの昔に諦めた者の、特有の慈愛に満ちた視線を彼に向けていた。
カイは、あのアースが珍しく手放しで絶賛した料理を数口ほど口に運んだ、その時だった。
まったく無意識のうちに、とある名前が口から滑り出た。
「……悟空」
カイは満足げに、誰に向けるでもなくそう呟いた。
エリスが不思議そうに首を傾げる。
「誰のことかしら?」
「え、誰が?」
「今、ゴクウって言ったじゃない」
(やべ。今、声に出てたか?)
「あー……」
カイの顔に、心底気まずそうな色が浮かぶ。
「そうか。この世界にはアニメなんて存在しないもんな」
「アニメ……って何?」
エリスが問いかけると、食卓の全員が動きを止めた。部屋の中にいる全員が、同時に同じ言葉に対して首を傾げた時にだけ訪れる、あの独特の静寂が広がっていく。
「いや、何でもないんだ」
カイは自嘲気味に笑った。
「みんながそれを知らないってことを、つい忘れてたよ」
「ああ、全く知らんぞ」
エンゾが、特に気にする様子もなくあっさりと肯定する。
ニュクサーラは、迷子の小犬でも観察するかのような、面白がりつつも微かに心配そうな眼差しをカイに向けていた。セリはその隣で、静かに彼女の分の料理を取り分けてやっている。エースは微動だにせず、ただ会話に耳を傾けていた。エレーンはただ好奇心に満ちた目で彼を見つめ続け、エルフの長老とその家族、ソフィア、さらにはセルウィンに至るまで――全員が、カイの次の言葉を待っていた。
「これ、一体どこから説明すればいいんだ……」
カイが、ほとんど独り言のように呟く。
すると、カイの意識の奥底から、冷徹な世界の意志が告げた。
《解説。あなたがこの世界に転生した起点から話し始めるのが、最も合理的であると推測されます》
(確かに。まあ、隠す必要もないか)
「実はさ」
カイは意を決して切り出した。
「俺、元々この世界の人間じゃないんだ。こっちに『転生』してきたんだよ」
その瞬間、部屋の中が完全に凍りついた。全員が食事の手をピタリと止める。
――エンゾの指からスプーンが滑り落ち、エレーンに至っては飲んでいたワインを盛大に吹きこぼして、慌てて顎を拭う始末だった。
「待って……、何ですって?」
エレーンが辛うじてそれだけを絞り出す。
「だから、異世界から転生してきたんだよ」
カイは自分でも少し気恥ずかしくなり、後頭部をボリボリと掻きながら繰り返した。
「ああ、そんなことだろうと思ったわ」
ニュクサーラが、拍子抜けするほど平然と言い放つ。
「俺も知っていたぞ」
エンゾが続く。
「まあ、確信は持てなかったがな。薄々そうじゃないかとは睨んでいた」
エルフの長老が、深く深く頷いた。
「……なるほど。それで、この世界の理が貴方に対して正常に機能しない理由に合点がいきました。今にして思えば、明白な事実でしたな」
「私も知っていましたよ」
アイヴィーが静かに微笑む。
「ただ、マスターの口から直接お話しいただけるのを、ずっと待っていたのです」
「……ちょっと待て」
あまりにも全員がカジュアルに事実を受け入れるので、カイのほうが完全に梯子を外された気分だった。
「おい、マジか?」
「まさか、自分がこの世界に連れてこられた唯一の存在だとでも思っていたのかしら?」
エリスが、諭すように優しい声をかける。
「貴方はただ――その方法が特殊だっただけよ。貴方は『転生』してきたけれど、中にはこの世界へ直接『召喚』された者たちもいるわ」
「召喚……?」
カイは完全に混乱の極みにいた。
「いや、ちょっと待ってくれ。頭が追いつかない。誰か分かりやすく説明してくれないか?」
「つまりですね、マスター」
アイヴィーが辛抱強く解説を引き受ける。
「この世界の法則に縛られない存在は、他にもいるということです。特に『召喚者』たちには、常軌を逸した強大な力が与えられます。――例えば、あの伝説の勇者、ナオ・シミズのように」
「ナオ・シミズ……。思いっきり日本の名前じゃないか」
カイの言葉が、自然と重くなる。
「確か、東の帝国と北の帝国の両方を支配している統治者よね」
ニュクサーラが冷淡に付け加えた。
「可能な限り、あの女との接触は避けるべきだぞ。絶対にな」
エンゾの目は、本気だった。
「でも、彼女は日本人だろ?」
カイが食い下がる。
「俺と同じだ。十中八九、同じ世界から来てる」
「あんた、先代の『魔王』のことを知ってる?」
ニュクサーラが尋ねる。
「ベリアルがその座に就く前の話よ」
「知るわけないだろ」
「ナオ・シミズがそいつを殺したのよ」
彼女は、まるで明日の天気を語るような軽さで言った。
「そのまま魔王の領地と東の帝国を自分のものにして、そこから今の北の帝国を創り上げたの」
「シミズ霜結晶帝国」
エレーンが補足する。
「そして、シミズ旭日帝国。二つ合わせて『シミズ威光帝国』と呼ばれています」
「冗談だろ……」
カイは天を仰いだ。
「どっちも、完全に日本の名前だ」
「自分の強さを自慢して回るのが大好きな二頭の『真竜』でさえ、あの女にだけは正面から立ち向かおうとしないわね」
ニュクサーラが肩をすくめる。
「ちなみにさ」
カイは純粋な好奇心から尋ねた。
「あんたとそのナオ・シミズが戦ったら、どっちが勝つんだ?」
ニュクサーラは、その問いに対して珍しく真剣に、しばらくの間考え込んだ。
「……正直、分からないわね。実際に殺し合ってみるまでは」
(『原初の悪魔』であり、同時に『魔王』でもある存在が、人間相手に勝率を断言できない。……それが、すべてを物語っているな)
「待てよ」
カイは、ある矛盾に気づいて言葉を挟んだ。
「人間って、この世界で最も弱い種族のはずだろ? なんでそんな怪物が魔王を殺せるんだ?」
「人間を侮っては駄目よ、カイ様」
エリスが、皮肉の混じった乾いた笑みを浮かべる。
(……となると、お袋から聞いていた情報はとっくに風化してたってことか)
すると、カイの脳内に、再び世界の意志の静かな声が響いた。
《否定。あなたの母親の知識は誤りではありません。彼女が語った内容は、かつては真実でした――現在の『創造神』がその座に就く前の時代までは、ですが》
(あの神様、マジで隠居してくんねぇかな……。絶対に采配を間違えてるだろ)
《肯定。同意します》
次に口を開いたのは、エルフの長老だった。
「実は、もう一人いるのです。同じく、異世界から現れたという少女が」
「吸血鬼の、あの娘ね」
エレーンが呟く。
「ああ、あいつか」
エンゾが思い出したように頷いた。
「記憶が確かなら、その種族の最後の生き残りのはずだ」
「噂では、彼女が自分の手で同胞を全滅させたと言われているけれど?」
エリスが眉をひそめる。
「それをやったのは『西の竜』よ」
ニュクサーラがその間違いを訂正した。
「彼女はただ、その襲撃から生き残った連中にトドメを刺して回っただけ」
「……海竜のことか?」
エンゾが怪訝そうな顔をする。
「いいえ、西の竜よ」
ニュクサーラが言う。
「あの子の名前、何て言ったかしら?」
「コッリ・ヴァネッサ、です」
アイヴィーが即座にその名を挙げた。
「自分の同胞を殺した……?」
カイは息を呑んだ。
「彼女も、召喚された口なのか?」
「いいえ、『転生者』です」
アイヴィーが答える。
「実は、マスターが転生者ではないかと私たちが疑ったのも、彼女の存在があったからです。マスターの力もまた、この世界の常識には到底収まらないものでしたから」
「確か、彼女は四つの『呪い(カース)』を宿しているのよね」
ニュクサーラが記憶を辿る。
「……それとも五つだったかしら? それと、【絶対転生】とかいう固有能力のせいで、テオレマの勇者も彼女を完全に消し去るのに相当手こずっているらしいわ」
「それ、どんな能力なんだ?」
カイが身を乗り出す。
「仮に彼女の核や魂が完全に破壊され、存在そのものが世界から抹消されたとしても――そのスキルが自動的に発動し、以前よりもさらに強力になって蘇るのよ。テオレマの勇者は、触れたものすべてを永久に消滅させる【神罰】という究極能力を持っているけれど、彼女には通用しない。異世界からの転生者であるという事実そのものが、その消滅の力を無効化しているらしいわ」
「凄まじいな……」
カイは、その能力の裏にあるであろう壮絶な悲劇を察しつつも、純粋にそのデタラメな性能に感嘆せざるを得なかった。
「それから、もう一人」
アイヴィーがさらに情報を付け加えた。
「『陰陽術師団』の長も、異世界からの存在です。名を――カズヒコ・オノ、と」
「へえ……」
カイは深く息を吐き出し、呟いた。
「面白いな」
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エースは、食事の途中でピタリと手を止め、目の前の皿を突如として本気で困惑したように凝視し始めた。
「……なぜこの料理は、スライムのような外見をしているのだ」
「待てよ」
カイは、ガタッと勢いよく姿勢を正した。
「今、スライムって言ったか? なんでその言葉にこんな聞き覚えが――」
そこで一度言葉を切り、次の瞬間、パッと顔を輝かせた。
「あ、思い出した! あそこのアニメだ。『転生したらスライムだった件』!」
「スライムなんて、この世に存在する中で最弱の魔物じゃない」
ニュクサーラが、至極当然の事実を告げるように淡々と言い放つ。
「最弱!?」
カイは、まるで見知らぬ誰かの名誉を傷つけられたかのように、本気で憤慨してみせた。
「いや、リムルは全然弱くないだろ!」
「リムルって、誰のことかしら?」
エリスが不思議そうに尋ねる。
「だから、そのアニメの主人公だよ」
カイは熱弁を振るう。
「元の世界にいた頃、めちゃくちゃ大好きな作品だったんだ」
「それで、そのアニミって何なのですか?」
エレーンが、今度こそ理解しようと辛抱強く尋ねる。
「あんた、今アメニって言ったわよ」
ニュクサーラがすかさず指摘した。
「アニメ、だ!」
カイは、すでにその訂正に対して妙に熱くなりすぎていた。
「それはそれとして――あんた、そのスライムは弱くなかったって言ったの?」
ニュクサーラが面白そうに訊ねる。
「ああ、弱くない」
カイは、すでに酒がかなり回ってきた者の、絶対的な確信を込めて言い切った。
「……ねえ、さっきからなんで『彼』なんて三人称で呼んでいるのかしら?」
エレーンが首を傾げる。
「敬意を払いなさい、敬意を」
カイは、わざとらしくへそを曲げてみせた。
「……一体、誰に対してだ?」
エンゾが呆れたように尋ねる。
「スライムに決まってるだろ。当然じゃないか」
アイヴィーが、じっと心配そうにカイを観察する。
「カイ様……もしかして、少しお酒が回りすぎているのではありませんか?」
「いや」
カイは即座に否定し、それから少し間を置いて、弱々しく付け加えた。
「待て……いや、そんなことない。というか――まあ、分かってくれよ」
「完全に泥酔してるわね、これ」
ニュクサーラが、嬉しそうにクスクスと笑う。
「同感ね」
エリスも、とろんとし始めたカイの目を愛おしそうに見つめながら同意した。
それ以上の前触れもなく、カイの身体がガクンと横に傾いた。そのままエリスの肩へと頭を預け、すでに半分眠りにつきながらも、泥酔した者の底知れぬ本気さでブツブツと呟き続ける。
「敬意を払いなさい……史上最強のスライム……リムル様……に……」
「リムル様って誰よ……?」
エレーンが、心底わけがわからないといった風に困惑する。
「いつからスライムが、様付けで呼ばれるほどの爵位を持つようになったのですか?」
アイヴィーが真面目な顔で尋ねた。
「知らん」
エンゾは深く、深いため息をついた。
「俺に訊くな」
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目を覚ましたのは、深夜を幾分か過ぎた頃だった。
たった一人、夕食の時よりもかなりすっきりとした頭で、カイは自分が無意識のうちにある行動をとっていることに気づいた。――自身の転送能力を発動させ、静寂と満天の星空が広がる下、両親の墓標の前へと姿を現していたのだ。
(……どうやら、俺の心のどこかが今夜、この場所を必要としていたらしいな)
彼は腰を下ろし、見慣れた墓碑銘を指先でなぞりながら、夜の静寂がしっくりと自分を包み込んでいくのを感じていた。
「……東京が恋しいよ」
誰に届くでもなく、静かに呟いた。
「時々、な。全部じゃない。ただ――断片的に、さ。あの喧騒とか。街の明かりとか。大抵は、どうでもいいような些細なことばかりだけど」
その思考は前触れもなく訪れた。あの世界での記憶がいつもそうであるように――一つの顔、一つの名前、そして、すべてが終わる六時間前に電話越しに聞いた声。
――ケンジ。
カイの顔から、完全に笑みが消え失せた。さっきまで残っていた夜の宴の温かな記憶が、一瞬にして、到底心の準備ができていなかった苦い感情へと変色していく。
「あぁ……」
声が漏れた。自分自身に驚いたような、静かな響きだった。
「ケンジ、か。しばらくの間、あいつのこと本当に忘れてたな」
(あいつ、今頃どうしてるんだろうな。自分が何をしたか、今でも覚えているんだろうか。それとも、俺にとっては片時も頭から離れなかったあの出来事が、あいつにとっては、とっくの昔にどうでもいいことになってるんだろうか)
彼はそのまま、長い間そこに座り込んでいた。手のひらの下にある石の感触は冷たい。
彼の人生における二つの真実――東京の路上で死んだあの少年としての記憶と、今この場所に立ち、あれから積み上げてきたすべての日常。それらが、こんな夜にはいつもそうであるように、静かに隣り合って並んでいた。
(今の俺には、かけがえのない家族がいる。俺を必要としてくれる、一つの世界さえある。昔は、それで過去の傷が完全に塞がるんだと思い込んでいた。……けど、実際はそんなに単純じゃない。ただ、その傷口を、前より少しだけ温かい場所に置いておけるようになっただけだ)
背後から、柔らかく聞き覚えのある足音が聞こえてきた。振り返るまでもなく、それがエリスであることは分かっていた。
「何も言わずに出て行っちゃうんだもの」
彼女はカイの隣に腰を下ろした。なぜここにいるのか、という無粋な問いは口にしない。
「少し風に当たりたくてさ」
カイは言った。
「それから、どうやらここに来る必要があったみたいだ」
「……また、ケンジのこと?」
「ああ」
彼女にその名前を教えたことは一度もなかった――だが、わざわざ説明しなくても、彼女には分かってしまうらしかった。
「前の人生のさ、古い幽霊みたいなもんだよ。心の準備ができていない時に、時々ひょっこり現れるんだ」
エリスはそれに対して何も言わず、ただ、いつものように力強く彼の手を握りしめた。
「気が済んだら、中へ戻りましょう」
彼女は言った。
「急がなくていいから」
彼女が屋敷へと戻った後も、カイはしばらくその場に座り続けていた。手のひらの下で墓石は辛抱強く佇み、頭上では星々がゆっくりと巡っていく。
やがて彼は立ち上がると、静かに、彼女の待つ我が家へと歩き出すのだった。
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――これから語られるのは、カイがこの世界に足を踏み入れるよりも遥か昔の出来事。彼が置き去りにしてきた前世、そして命を落としたあの都市での記憶である。
あえてここに記すのは、彼を殺した男がその後どうなったのか、そして最終的にどんな対価を支払うことになったのかを、読者は正確に知る権利があると信じているからだ。
車でハルトを撥ね飛ばした後、ケンジはハナを連れてその場を車で離れた。そしてハナに対しては、自分には今夜まだ片付けなければならない用事があるからと言い含め、別のルートで帰宅するように命じた。
その用事とは、彼が未だにアクセスできずにいる『取引口座』のことだった。
彼はその夜のうちに、ハルトの住むアパートへと舞い戻った。この段取りを最初から周到に計画していた男特有の、静かで、手慣れた手つきで鍵をこじ開けようとする。だが作業が終わる前に、物音を不審に思った隣人のドアが開いた。ユキという名の、近所の女性だった。
「ケンジくん?」
彼の顔に見覚えのあったユキが声をかける。
「こんな遅い時間に、どうしてハルトの部屋に入ろうとしてるの?」
ケンジは即座に言い訳を用意していた。今夜はハルトが自分の家に泊まっているのだ、と彼は説明した。いくつか荷物を取ってくるように頼まれたのだが、自分の鍵を中に置き忘れてしまった。ドアを無理やり壊すよりは安全な侵入経路があるならそっちを使いたい、壊したところは朝になったら自分がちゃんと修理する、と。
ユキは何の疑いもなく彼の言葉を信じ、自身の部屋のベランダへと彼を案内した。ハルトの部屋のベランダとは目と鼻の先で、飛び移るのは容易な距離だった。ケンジは彼女に感謝を告げると、そのままハルトの部屋へと侵入した。
部屋に入るなり、彼が真っ先に向かったのはハルトのパソコンだった。この手の作業に関しては、彼は本当に手慣れていたらしい。大した苦労もなく端末自体のロックは解除してみせた。だが、目的の取引口座は全くの別物だった。何度もパスワードを試したが、どれも弾かれる。やがて彼は、何か手がかりになるものはないかと部屋の中を物色し始めた。
そして、彼は一枚の写真を見つけた。数年前に癌で亡くなったという少女の写真。ハルトが心から愛し、その死の悲しみから未だに完全には立ち直れずにいた相手だった。
「君の彼氏を殺しちゃって、本当にごめんね」
ケンジはその写真に向かって、彼なりの歪んだ本気さで語りかけた。
「どうか許してほしい。でも心配いらないよ。これでようやく、二人でまた一緒にいられるんだからさ」
彼はその後も捜索を続け、やがて隠されていた約八十万円の現金を掘り当てた。しかし、強欲という名のブレーキは踏み時を知らない。まだ他にもあるはずだと確信し、彼はさらに部屋を荒らし続けた。
ハルトの実の姉であり、警察官である小林ひまり(こばやし ひまり)は、前日にハルトへ電話を入れ、今夜は彼の家に泊まると約束していた。弟が最近ずっと家に引きこもりがちであることを、姉として密かに心配していたからだ。彼女はその日の朝から何度も電話をかけていたが応答はなく、ただ避けられているだけだろうと思い込み、勤務シフトが終わるのを待ってから彼のアパートを訪ねることにした。
彼女はまず、いくつかの荷物を取るために自分の家に立ち寄った。そして外の歩道を歩いている時、危うく見過ごしかけるほど些細な異変に気づいた。
だが、彼女は警察官だった。見過ごすわけにはいかなかった。
最初は、血痕だった。そして近づくにつれ、一つの肉体が目に入った。すぐにはそれが誰なのか認識できなかった――自分のスマホのライトがその顔を正確に捉え、彼女の全世界が、完全に停止してしまうまでは。
スマホが地面に落ちた。抱えていた荷物が四方に散らばる。意識して動くよりも早く、彼女は弟の傍らへと膝をついていた。衣服が瞬く間に血に染まっていく中、彼女は無駄だと知りながらも、必死になって弟の目を覚まさせようとした。
震える手で救急車を呼ぶのが、精一杯だった。
その大惨事が足元で起きている間、ケンジはまだ上の部屋にいた。未だに物色を続け、欲望を満たそうとしていた。最終的に、彼は総額約百三十万円ほどの現金を手にアパートを後にした。本人は十分に満足しており、すぐ下の歩道で何が繰り広げられているのかなど、微塵も気づいていない様子だった。
ひまりは現実を受け入れたくなかった。両親はすでに他界しており、ハルトは彼女にとってこの世界に遺された唯一の家族だったのだ。彼女は病院の待合室に座り、最後の瞬間まで希望にしがみつき続けた。だが医師から、救急車が到着した時にはすでに手遅れだったと静かに告げられた。
彼女は完全に崩れ落ちた。しかし、悲しみと職務というものは、往々にして互いを気遣って順番を待ってはくれない。彼女は立ち上がると、自ら現場の捜査へと向かい、最も信頼できる同僚たちを招集した。彼らはひまりの根の優しさを誰よりも知っており、この事件が彼女の心をどれほど深く切り裂くかを瞬時に理解した。
同僚の一人であるトオルという刑事は、彼女の手を優しく握り、この捜査からは外れるようにと言い含めた。あとは自分たちに任せて、今は必要な時間を取るべきだ、と。
その一方で、数日後に行われた葬儀に、ケンジは最近まとまった金が入った男特有の身なりで現れ、ひまりに対して、静かで、中身の空っぽな、白々しいお悔やみの言葉さえ述べてみせた。
その翌日、ひまりはハルトの遺品を整理し、近住民へ挨拶をするためにアパートへと向かった。彼女がドアにたどり着く直前、トオルから電話が入った。――犯人を特定した、と。防犯カメラの映像が、犯行の一部始終を完璧に捉えていたのだ。
激しい怒りが、一瞬にして彼女を支配した。そのままアパートの部屋へと向かおうとしたその時、買い物から戻ってきた隣人のユキが、彼女の姿に気づいた。
「ひまりさん? あら――どうしたの? なんだか……その、すごく疲れてるみたいだけど」
「事前に来るって連絡しなくてごめんなさい」
ひまりは辛うじてそれだけを返した。
ユキは世間話のついでに、ハルトが最近まったく姿を見せないこと、そして先日の夜、ハルトの友人を名乗る男が部屋から締め出されたと言って荷物を取りに来たことを口にした。
「……友人?」
ひまりの目が、鋭く見開かれる。
「その人の名前は? どんな見た目をしていたの?」
ユキはそのただならぬ気迫に圧倒され、落ち着いてと彼女を宥めようとした。ひまりは一言謝罪すると、やがて、静かに真実を告げた。
「ハルトは……死んだの」




