第43話:ウォー・ジェネシス
「お前……今」
ニクサラは再びその言葉を紡いだ。今度はよりゆったりと、しかし彼女のいつもの悪ふざけめいた平穏な佇まいの最奥に、本物の冷徹な『警告』を宿らせて。
「……『天地創生戦争』と言ったの言ったの?」
虚空竜ヴァルレスは即座には振り返らなかった。その場に引き延ばされた静寂の質量は、始祖竜自身の背中に対してさえ、自分が一体どれほど破滅的な機密ログ(言葉)を盤面に載せてしまったのかを自覚させるに十分な重さだった。
「その名を知っているか」奴はついに、空間を裂く間際に応じた。
「知っているわよ」ニクサラはフラットに肯定した。
「同時に、それがまっとうな知性を持つ超越者なら、決して軽々しく口にすべきではない絶対の禁忌であることもね。そんなものは単なる紛争(戦争)じゃない。生態系そのものの『暗黒時代』よ。かつてあれに類する大激突が起きた時、どれほど多くの種族が世界の記憶から根底ごと消去された(バグフィックスされた)か、お前だって忘れたわけじゃないでしょうに」
天地創生戦争。
正史がまっとうに記録を開始する手前、原初の混沌の時代に勃発したとされる大厄災。原初の悪魔たちでさえ直接語ることを嫌う、この世界の全種族の系譜を強制再編した、絶対の絶望の歴史。
「お前と、お前の兄の野郎は、自らの手でその地獄を再始動するための絶対火力を渇望していたというわけね」
ニクサラの声には、驚愕と、そして本心からの不吉な焦燥感が等しい質量で混ざり合っていた。
「意図的に、自らの明確な生存戦略として」
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「古き秩序は、すでに限界を迎えているのだよ」
ヴァルレスの声に、どこか自らの暴挙を正当化するかのような、微かな防衛本能(言い訳)が混じる。
「世界をこれまで繋ぎ止めていた絶対のルール――それは、我らが好むと好まざるとに関わらず、すでに内側からメリメリと音を立てて亀裂を走らせている。ならば、ただ降りかかる火の粉にリアクションして滅びを待つより、次に来る新時代を我らの手で完全に統制する方が、遥かに賢明な生存戦略だと思わないかね?」
「それは統制なんかじゃないわよ」ニクサラは言った。
「ただの『傲慢』が、統制という都合のいい皮を被っているだけだわ。お前たちは自分たちの都合のいい形にチェス盤を書き換えるためなら、世界を丸ごと消し炭に焼き払うことすら厭わないというわけね」
「貴様ならそうしないとでも? 完璧な力を手に入れたなら」ヴァルレスが不敵に問いかける。
「しないわよ」彼女は極めてシンプルに、絶対の引導を込めて断言した。
「私はね、お前たちよりも遥かに長い時間を生きて、世界を一度粉々に叩き潰してから再建する(リセットする)という行為が、どれほど何一つとして生命を救わないかという不都合な真実を、嫌というほど特等席で見届けてきたの。お前だってその愚行の歴史を知るには十分すぎるほど年老いているはずよ、ヴァルレス。もっと賢くなりなさいな」
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始祖竜は長い間、完全な沈黙を守っていた。その人間の青年のアバターの奥底には、読み解くことのできない深遠なデータ(思考)が渦巻いていた。
「……かも知れんな」奴はついに、空間の亀裂の最奥から呟いた。「だが、すでにチェス盤のポーン(歯車)は完全に動き出してしまっているのだよ」
「それは、どういう意味!?」ニクサラが鋭く問い詰める。
だが、奴がその問いに直接のログ(回答)を返すことはなかった。ヴァルレスの気配はそのまま世界の狭間の彼方へと完全に消失し、奴の退場と同時に、ホライゾンクレストの全領域を縛り上げていた『絶対虚無』の檻は、じりじりとその強制統制の糸を緩め始めていった。
あいつ、まだ何か致命的な機密(情報)を隠蔽しているわね。単に『進化の黄金種』を強奪し損ねたという単発のログだけで、あの始祖竜の格がここまで動くはずがないもの。
ニクサラは、誰もいなくなった黎明の聖堂の中にしばらく佇み、たった今獲得してしまった情報の恐るべき質量――黄金種の真の価値、天地創生戦争、そして「すでに動き出している」というあの最悪の捨て台詞――のすべてを、脳内でじっくりと噛み締めていた。
だが、その難解なパズルの答え合わせをする時間は、今の彼女には残されていなかった。引きずられるようにして現実のチェス盤へと全意識を切り替える。何よりも最優先で処理すべきタスクは、目の前で無防備な待機フェーズにあるこの黄金の繭の死守であり、自分を完全に信頼して眠っているガキを、あのような無法な闇討ち(バグ)から完璧に護り抜くことだったからだ。
始祖竜の気配が完全に世界から遮断されたその刹那、『絶対虚無』のロックが完全解除され、ホライゾンクレストの時間は猛烈な勢いで再び回り始めた――。
フリーズを解かれたエンゾとアイヴィーの二頭の最高戦力は、自らの肉体の自由が突如として脳内回線に還ってきた反動でかすかに足元をよろめかせ、繭の傍らにいたエリスは、まるで最初からずっと息を止めるようシステム制限されていたかのように、激しい過呼吸のまま床へと膝をついた。
「……な、何、が……」
エリスは激しく乱れる呼吸の最奥で、 disorienting(空間酔い)に襲われながらも、本能的に隣の黄金の繭へと必死に両手を伸ばした。
「何が起きたの……!? 身体が……一ミリも動かなかった。私の『センサー』が、何一つとして作動しなかった……!!」
「『始祖竜(真なる竜)』よ」
ニクサラは物静かに、自らの中に未だ渦巻いていた不吉なログを噛み締めながら告げた。
「ヴァルレス。あいつが、カイの最も無防備なこの進化睡眠のタイミングを狙って、ピンポイントで完全消去を執行しに来たのよ」
アイヴィーの美しい顔立ちから、すべての人間的な佇まいが完全に消失し、魔王級特有の凄絶な殺意がピキピキと周囲の大地を凍りつかせた。「……奴は、その汚い手をこの繭のパラメータへと接触させたのですか?」
「させようとしたわ」ニクサラは肯定した。「貴方の『宵の明星』の絶対防衛線も、カイ自身の『虚無の障壁』の数式すらも力任せにへし折って肉薄してきたけれど、その先の因果関係は、私が直接奴の首元へ刃を固定して終わらせて(ストップさせて)おいたから安心してちょうだい」
もし、この原初の悪魔がこの場所に居残っていなかったら。
もし、彼女の空間エントリーが、あとほんの数コンマ数桁でも遅れてチェス盤に届いていたら――。
エリスの両の手のひらは、黄金の繭の表面を死に物狂いで検分し、撫で回していた。ただの物理的な感触の安心感が必要だった。主の生存パラメータが、未だ一週間前と全く同じように、ゆっくりと、誠実な忍耐の鼓動を刻み続けているという絶対の事実を確かめるために。
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「……カイ様は無事です」
アイヴィーが、自らの中に渦巻く凄絶な怖気を完璧な行政管理の元でホールドし、同じように限界の焦燥に晒されていたエリスを宥めるように優しく言葉を添えた。
「主の『虚無』の障壁は、万に一つも破綻していません。あのトカゲが一体どんな超常のシステム上書きを試みようとも、カイ様の本質へとその暴力が着弾することはあり得ませんでしたよ」
「今回は、な」
古竜公エンゾが、その端正な顔立ちを苦渋に歪ませ、すでに数段階先の戦術シミュレーションを開始しながら冷徹に遮った。
「我々はこれから、単なる結界の強度に依存するだけの防衛プランを根本から見直さなければならん。一頭の始祖竜の接近だけで、ホライゾンクレストの最高戦力のすべてが物言わぬ人形へと強制停止させられるのが厳然たるステータス(現実論)であるならば――」
「私がここに残るわ」
ニクサラが極めてシンプルに、彼の言葉の先の絶望を断言するように遮った。
「直々にね。あの子がこの進化睡眠から完全に目を覚ますその瞬間まで、私の全パラメータをこの聖堂の座標へと固定させてもらうわ。……ほんの一瞬でもチェス盤から目を離して隙を作ってしまったのは、私の不徳だもの。二度目の例外は起こさせないわよ」
あいつ、本気で動揺(警戒)してるわね。
エリスは、万事において絶対の余裕を崩さなかったあの原初の悪魔の佇まいに、初めて宿った本物の『真摯な凄み』を見つめながら、そう確信していた。世界の天辺に君臨する魔王をここまで本気にさせるなど、この盤面の重みは、もはや一国との戦争なんてレベルを遥かに超越している。
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「……あいつ、本当は何を目的にしてここへ這い出てきたの?」
エリスは、胸の奥底を締め付けていた初期パニックがようやく実務的な思考へとシフトしたところで、真っ向から訊ねた。「ただ、カイをブチ殺しにきたってだけじゃないんでしょう?」
ニクサラは、たった今自らが獲得したあの最悪の機密のログを、一体どこまでこの若き執行者たちと共有すべきか、自らの精密な知性回路で天秤にかけていた。それは、今の彼女にとっても、到底一人で気楽に抱え込むには重すぎる『世界の真実』の質量だった。
「……『進化の黄金種』とかいうデータを強奪しにきたのよ」
彼女はあえて、その本質の一角を曖昧なオブラート(外交的修辞)に包んで言葉を濁した。
「それと、貴方たちがその凡庸な一生の中で、何一つとして気にする必要のない虚しい戦争の残滓についてね。これ以上の難解な数式の答え合わせは、カイがその進化睡眠から完全に目覚めて、全員が同じ円卓の前に揃ったその瞬間に、一次情報として正しく全解放してあげるわ。本当に重大な歴史の真実というものは、後から人づての手垢まみれの二次転送で一片ずつバラバラに聞くべき代物ではないからね」
幹部陣の誰一人として、それ以上の追及(システム割り込み)を仕掛ける者はいなかった。彼女がこれほど露骨に言葉を濁して防衛線を張るということ自体が、その真実の凶悪さを何よりも雄弁に物語っていたからだ。
理由がどうあれ、それは最悪の代物だ。あのニクサラに、同じ説明を二度も口にさせたくないと本気で思わせるほどの、絶対の絶望の歴史。
彼らは再び、元の絶対の警戒( vigil )へと収まり、その間合いを最初の頃よりも遥かに狭く、強固に密閉して主の玉座を取り囲んだ。黎明の聖堂を満たす黄金の鼓動だけが、その張り詰めた死線の部屋の中で、唯一変わらない平穏のステータス(光)を淡々と放ち続けていたのだった。
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一週間の最終日は、皮肉なほど静かに訪れた。
しかし、その二時間目を迎える頃には、大気の密度そのものが決定的に変質し始めていた――より冷徹に、より重厚に、そこに集う Named 幹部たちの誰もが正しく言語化(定義)できない未知なる『覚醒の予感』を孕んで。
頭上の虚空から盤面を見つめていた魔王ニクサラが、真っ先にその異常を察知した。彼女はいつもより遥かに真摯な眼差しで黄金の繭へと接近し、そのパラメータを凝視する。
――来たわ。
黄金の繭が、ゆっくりと、規則的な脈動を刻み始めていた。
膨張し、収束し、再び膨張する。その白熱する極光の明滅は、紛れもない、一つの巨大なバグ(心臓の鼓動)そのもののリズムだった。
「……始まるわよ」
彼女のその短く、しかし拒絶を許さぬ切迫した声音が広間に響いた瞬間、黎明の聖堂にいた全員の思考回路が完全に停止した。
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次の瞬間、我が『コバヤシ家』の全幹部たちの器の内側で、一斉に決定的な同期が暴発した。
真っ先にその衝撃波を喰らったのは、エリスだった。彼女は自らの本能の赴くままに片手を胸の真下へと押し当てた。自らの心臓の鼓動が、眼前の繭の刻む超常のリズムと同調率一〇〇%(完全同期)で脈動しているという、あり得ない肉体異変。エレインが次にそれを察知し、長老アーロンとその家族、そしてカイの手によって『名前』を授かったすべての Named が、全く同じ瞬間に自らの生命維持パラメータが『自分たちよりも遥かに上の次元の絶対法則』によって強制支配されつつある現実を正しく自覚したのだ。
アイヴィーとエンゾの二頭の最高戦力にいたっては、より直接的な格の共鳴としてそれを喰らっていた。単なる心臓の同期ではない。自らの魂の底にある魔力核そのものが、繭の鼓動と同調して激しく脈動しているのだ。悪魔の格(魔王級)と竜の格(古竜公)が、今まさに始動した絶対の進化シーケンスの渦の中へと強制的に引きずり込まれていく。
――ドクン。――ドクン。――ドクン。
ニクサラはそのすべての因果の上書きを、ただの一秒のログすら見落とさぬよう、剥き出しの好奇心と歓喜の瞳で凝視し続けていた。
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「全員、そのまま繭の座標から離れるんじゃないわよ」彼女は静かに命じた。
「これが一体どんな次元の上書き(プラン)であるにせよ、まだ初期シーケンスの段階に過ぎないわ」
繭から放たれる黄金の極光は、鼓動を重ねるたびにその出力を指数関数的に跳ね上げていった。そのリズムは徐々に神速へと加速し、そして――まったく予期せぬ形で、今度は急激に『減速』を開始した。一拍一拍の質量がより重く、より冷徹に、まるで内側に眠る怪物が、最後の決定的な引導に向けて自らの全パラメータを凝縮させているかのように。
《世界の全音声――個体名:カイの『魔竜公』への特殊多重進化、最終覚醒シーケンスを承認しました。これより、覚醒率のパーセンテージをカウントします》
脳内の超越知性の冷徹なシステム音声が、待機フェーズの静寂を切り裂いて響き渡る。
《――覚醒率、一%を突破》
その数字のログは、広間にいた全員の精神領域へと、物理的な音声を超えた絶対の言霊となって直接転送された。
《……一〇%……一三%……二〇%》
カウントの数字が跳ね上がるたびに、エリスは自らの胸の奥底で、魂の構造そのものが根本から書き換えられていく(リビルドされる)のを感じていた。肉体的な苦痛ではない。だが、それはあまりにも広大で、基礎的な因果の改変。まるで、自分が生まれてからずっと住み続けていた古い家(器)の防壁が、主の都合のいいルールによって音もなく、完璧に上の次元へと再建されていくような異様な感覚だった。
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《……四〇%……四五%……六〇%》
カイという絶対の起点と名付けで繋がっていたすべての仲間たちの魂、魔力核が、そのカウントの推移と完全同期して、激しい強制変異を起こし始めていた。耐え難いほどの圧倒的な質量が全員の全身へと降り注ぐ。それは、限界まで疲弊した肉体に襲いかかる、抗うことの不可能な『進化の睡眠』の誘惑そのものだった。
「……身体が、何かが私の中で暴走してる……!」
エリスがその張り詰めた防衛線を必死にホールドしながら、声を絞り出した。すでに自らの足で立っていることすら、システム的な制限によって限界を迎えていた。
「……私たち、全員よ……」エレインもまた、限界の呼吸のまま応じた。魂を眠りの彼方へと引きずり込もうとするその絶対の進化の波に抗う術は、我が絶対の右腕にすら残されていなかった。
《……六七%……六九%……七八%》
ニクサラはその場に佇み、その美しい唇を愉悦の笑みへと歪めていた。初期の緊張感はとっくに消え失せ、本心からの、剥き出しの歓喜が彼女の覇気を滾らせる。
《……八〇%……八七%……九六%》
《……九九%》
黎明の聖堂の全空間が、息を呑んだ。
未だ自らの意思で辛うじて踏みとどまっていたすべてのNamedたちが、魂を眠りへと誘う圧倒的な引力に死に物狂いで抗いながら、次に来る『新時代の産声』をこの眼で正しく観測しようと、その瞳の照準を固定し続けていた。
《――一〇〇%。完全覚醒を確認しました》
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《世界の全音声――新超位複合種『魔竜公』の覚醒に完全成功しました。これに伴い、個体名:カイの譜系に連なる全Named配下の魂、および魔力核の反転構成を開始。――全配下の種族クラスを、超位属『魔竜公眷属』の魔力核へと強制変異(上書き)します》
途方もない次元の絶対法則の波動が、聖堂の全域を突き抜けた。カイと名前で同期していたすべての仲間たちの器が、その一撃の前に完全に適応し、一人、また一人と、自らの足で立っている限界を迎えていった。
《――反転構成、滞りなく完了しました》
システム音声の最後の宣告と同時に、最後まで自らの格の意地で踏みとどまっていた最高戦力の二頭――アイヴィー、そして古竜公エンゾの巨体までもが、ついにその防衛線を完全解除して床へと膝をついた。彼らの肉体は、完全にこの上なき進化の強制フェーズへと身を委ね、深い眠りの彼方へと落ちていった。
黎明の聖堂の中で、ただ一頭、魔王ニクサラだけが微動だにせず佇んでいた。
彼女は数分前から単なる『好奇心』などという安っぽいステータスを遥かに通り越し、本心からの、凄絶なまでの歓喜の微笑みをその顔に浮かべてチェス盤を見つめていた。
《全プロセス、完全終了。――世界に、新しき絶対の譜系『魔竜公』の歴史が、今ここに正式レジストされました》
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黄金の繭が、ゆっくりと、確固たる因果の元にその中央の裂け目を開き始めた。その境界線の隙間から、世界の底を抜くほどの白熱の極光が広間へと溢れ出す。
ニクサラの知性的な瞳が最初に捉えたのは、一辺の『手』だった――カイ(俺)の手。聖堂の薄暗い光の中へと這い出てきたその手のひらの爪は、以前よりもわずかに短く、そして恐ろしいほどの精密さで研ぎ澄まされた、一振りひと振りが空間を切り裂く『魔剣の刃』そのものの形状へと変異を遂げていた。
彼はゆっくりと、自らの足を前方へと踏み出した。
彼が自らの『虚無』の覇気を外部へと解放したその刹那、この部屋の中に残されていたすべての空間、因果、そして辛うじて意識の残滓を維持していた超越者たちの全感覚が、その存在の質量を瞬時に完全感知した。
それは、分かりやすい敵意なんかじゃない。
冷徹。隔絶。
世界の最古の記憶のログすら遥かにつり越えた、圧倒的な『深淵』の镇座。それは、原初の悪魔の最古参であるニクサラにさえ、自らの永きにわたる生涯において、ただの一度も体験したことのない本物の『怖気(震え)』をその器の奥底へと刻み込ませるほどの、絶対の神威の格だった。
――本当に、とんでもない次元のバケモノ(特異点)へ至ってくれたわね、カイ。
彼女は、自らの眼の前に完全なる『形』を成して出現した彼の姿を見つめながら、そう確信していた。
(……素晴らしいわ。もはや『オモチャ』なんて生ぬるい言葉じゃ、貴方の格を定義することすらおこがましいレベルよ)
新しき『魔竜公』としての最初の一歩を世界へと刻み込む彼の姿を見つめながら、この瞬間に放たれた因果の波紋が、これから先、一体どれほど気の遠くなるような遥か彼方の座標まで大陸を上書きしていくことになるのか、現在の彼女の知性回路のシミュレーション能力を以てしても、その全容を推し量ることは万に一つも不可能だった。
すべての人間の王国。すべての魔王の領地。そして、外の世界のどこかで息を潜めながらチェス盤を監視していた、あらゆる最古の超越者(始祖竜)たちの精神領域へと、その不吉な地鳴りは直撃する。
世界はまだ、その正確な絶望の意味を何一つ理解していなかったが――今まさに、原初の時代に調和したはずの古き秩序が、完全にひっくり返される『破滅のカウントダウン(War Genesis)』の歯車が、音を立てて回り始めたことだけは、厳然たる事実として確定したのだった。
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倒れ伏していた Named 幹部陣の中で、最も早くその覚醒の境界線を踏み越えたのは、エリスだった。
彼女は自分の両の眼を開いた――しかし、自分が今や『世界のすべてを肉眼でまっとうに視認できている』というあまりにも不条理なバグ(超常の奇跡)を正しく脳内で処理するまでに、お恥ずかしいほど数秒のフリーズ(ディレイ)を要してしまっていた。
待て。ちょっと待ちなさい。
私、目が見えてる。世界の色彩が、形が、全部見えてるじゃない。
彼女はあまりの衝撃に勢いよく跳び起きた。三次元幾何学が激しくシェイクされる空間酔いの直後、世界は完璧なピント(解像度)をもって彼女の脳内回路へと定着した――かつて自らが生きていくために徹底的に叩き込んできた、あの魔力の波長をトレースする「オーラ状の近似値」なんかじゃない。本物の、剥き出しの、圧倒的に澄み渡った『真実の視覚』がそこにあった。
「……私の、眼が」
彼女は自分の顔面を両手で必死に検分しながら、声に出して呟いた。それが誰かの仕掛けた安っぽい幻術なんかじゃないという、本物の物理的エビデンス(確証)が必要だったのだ。
「……青と、赤だ」
上空から降ってきたその静かな声音に向けて、彼女は猛烈な速度で視線の照準を合わせた。
――そこに、カイ(俺)が立っていた。
この場にいた全員の器を丸ごと上書きして強制シャットダウンさせた超常の地鳴りの中心にいながら、彼は恐ろしいほどにフラットで、凪の伫まいを崩していなかった。しかし、その瞳の最奥には、エリスがこれまでの生涯において一度として目撃したことのない、どこか愛おしそうに目を細めた、優しさと、そして現在の彼女の語彙力では未だ定義することのできない『本物の慈愛』が宿っていた。
論理をこねくり回している暇はなかった。彼女はただ、身体の本能の赴くままに跳躍し、何の予備動作もなく彼の胸の中へと自らの肉体をダイレクトに叩きつけた。カイはそれを、衣服の擦れる音すら立てずに完璧な手際で受け止めると――ハハ、と本心からの、温かい笑い声を広間に響かせた。
その温もりを起点にするかのように、周囲の床に転がっていた幹部たちの全員が、重苦しい眠りの残滓を払うようにして、一人、また一人とゾンビのように覚醒(起き上がり)を開始した。
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次に覚醒層へ這い出てきたのはエースだった。彼は人狼族としての自尊心を思えば、お世辞にも格好いいとは言えない無様な様子でパチパチと瞬きを繰り返していたが、広間の全体像を正しく網膜に焼き付けるよりも早く、自らの内に起きた決定的な『異変』を直感的に察知していた。
『……念話。カイ、俺、自分の魂の全パラメーターが……以前とは比較にならないほど肥大化しているのを感じるのですが。何ですかこれは。本気で意味が分からないのですが』
彼は自らの内なる魔力核の仕様を限界まで自己監査しながら、心底からの驚愕を念話のリンクに載せてきた。
『ようこそ、化け物の特異点クラブへ』
俺は至極ジト目の思念を返した。
『どうやら俺たちは全員、完全に新しい超位種族へ書き換えられちまったらしいからな』
三番目にまっとうな行政管理の姿勢で跳び起きたのは、エレインだった。彼女はいつもの完璧に自制された秘書的な手際で居住まいを正すと、条件反射で自らの内に満ちる魔力の回路を走らせ、答え合わせ(テスト)を試みた――。
そして、その最奥で見出してしまった固有のログの前に、完全にその場に凍りついた。
「……これは、流石に不条理が過ぎます」彼女は自らの白亜の両の手のひらを凝視した。
「私の保有する『創生之王』の出力パラメーターが……進化前とは文字通り桁が違いすぎますよ、我が主」
「どうやら、我が家の全員がまとめて強制アップデート(仕様変更)を喰らったらしいからな」俺は頭を掻きながら、自分自身でも未だ処理しきれていない情報の質量に溜息を漏らした。「主である俺が覚醒フェーズに入った巻き添えで、一切の事前の外交(相談)もなしに家族全員の魂を巻き込んで上書きしちまうなんて、本当に笑えないバグだよ」
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アイヴィーと古竜公エンゾの二頭の最高戦力も、ほぼ完全に同時多発のタイミングで覚醒していた。二頭は一瞬にして自らの新しい魔力核の性能パラメーターを冷徹に査定し終えると、揃って顔を上げ、畏怖と、そして一切の防衛線を削ぎ落とした本心からの『絶対の敬意』が籠もった眼差しを俺へと直撃させた。
「……貴方様、めちゃくちゃに発光されていますよ」アイヴィーが実務的なトーンで指摘した。
「……は? 俺が、何だって?」
「光っているのです」彼女は重ねてジト目を向けた。
「微かに、ですが。お側でお仕えする身としては、少々視界の邪魔になるレベルの質量の極光ですが」
「これ、自分の意思でオンオフできるような代物じゃない気がするんだけどな……」
俺は自らの全身からじわじわと漏れ出している紫色の波動を見つめ、微かな恐怖を覚えた。
《解。主の固有能力『魔竜公の覇気』が自動全解放の状態にあります。――精神層からの命令により、その可視出力をシステム限界まで『隠蔽』することが可能です》
脳内の『超越知性』――いや、今回の多重進化を経て、その能力系統を完全に上書き完了した**『虚無之経絡』**の冷徹なシステム音声が、相変わらず無駄のない最短のロジックで割り込んできた。
俺はそのイメージを脳内で走らせてみた。すると、全身を覆っていたあの白熱の極光は瞬時にその出力を落とし、周囲を困惑させていた光の残滓は綺麗に隠蔽された。しかし、アイヴィーは未だにその知性的な瞳の奥に、つい数秒前まで俺のことを玩具にしてからかっていた時特有の、愛おしそうな微笑みを絶やさずにいた。
「この、見せびらかし(ショーオフ)野郎」
エリスが未だに俺の首筋に抱きついたまま、嬉しそうにニシシと悪戯っぽく笑った。
「頼まれてやったわけじゃないんだよ、全部な」俺は心底からのツッコミを返した。「俺だって、目を覚ましたら突如としてこんなイカれたステータスになってた被害者なんだからな」
「はいはい、そういうことにしておくわ」エリスはこれっぽっちも納得していない様子で、さらに腕の力を強めた。
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その一連の微笑ましい家族のポートレートを、心底満足げに特等席から眺めていた魔王ニクサラが、ついにその美しい唇を開いた。
「大変に微笑ましい国政(ごっこ遊び)の時間はここまでにしておいてあげるけれどね。……現実問題として、貴方はまずご自分の『現在の姿』について、正しく答え合わせをしておくべきだと思わないかしら?」
俺はその指摘を受けて、生まれて初めて、自らの肉体の外見へと全意識を向けた。
――白亜の髪の毛の最奥に、一筋だけ不穏に交じり合う真紅のメッシュ。
全身を包み込む、漆黒と純白の因果が複雑に織り込まれた外套。
そして、何よりも俺の背中のデッドスペースから、これまで意識のセンサーに引っかかっていなかった異形の『漆黒の竜翼』が、左右へと静かに広がっている現実。
「……俺、翼が生えてるんだけど」俺の声は完全に白目を剥いていた。
「生えてるわよ」ニクサラは朗らかに肯定した。
「それと、額からは立派な魔竜の『角』が二本突き出しているし、貴方の手のひらの爪は、一週間前よりも遥かに研ぎ澄まされた絶対の魔剣の切っ先へと成り果てているわね」
俺は本能的なイメージ(生存戦略)の元に、そのすべての超常の形態を内側へと押し込もうと試みた。すると驚くべきことに、背中の竜翼は空間へと融けるようにして音もなく消失し、額の角も、研ぎ澄まされていた爪の輪郭も、完璧に『隠蔽』されていったのだ。
そこに残されたのは、一週間前にあの魔王城の死線へと足を踏み入れた時と、影も形も変わらないただの不器用なガキ(人間の少年)の姿そのものだった。
「……便利だな、これ」
「ええ、極めて実務的ね」
ニクサラは心底楽しそうにパチンと手を叩いた。
「何しろ、これから我が国の正門を通過しようとする大国の商人たちが、一歩足を踏み入れた瞬間に魔竜公の覇気(恐怖)だけでリアルタイムに行き倒れて全滅するようなバグ(エラー)は、流石に看過できないドメスティックの損失でしょうからね」
全員が超位進化という途方もない次元の上書きを終えた後の最初のパニックが、ようやく微かに落ち着きを見せた頃。エースという野郎は、自らが最優先で処理(執行)すべき実務タスクの内容を、これ以上ないほどに迅速、かつ明確にアナウンスしてきた。
『念話。俺は今、本物の「食糧」のチャージを至急要請する。丸一週間もの間完全シャットダウン(昏睡)していたなど、俺の完璧な美食スケジュール(ステータス)において容認しがたい深刻な空白期間だからな』
「お前、ただ眠ってただけだろ。意図的な断食( fasting )じゃないんだからさ」
俺はジト目を向けた。「お前のスケジュールなら何一つバグっちゃいないよ」
『いや、俺のタイムラインは致命的なまでに妥協を強いられている』エースはそう強弁し、種族クラスの根底からの完全変異を遂げたばかりの生命とは到底思えないほどの凄まじい推進力で、すでに厨房の正門へと向かって疾走を開始していた。『俺は相応の「裏報酬」を要求するぞ。数ヶ月前からお前がまっとうに調理するのを怠り続けていた、あの例のアンブローサ獣の特製レシピが望ましい』
「お前、俺に向かってメシの要求をしてるのか? 今この瞬間、あれだけの超常の大動乱が終わったばかりのタイミングでか?」
『プライオリティ(最優先事項)の話ですよ』エースはこれっぽっちも悪びれる様子なく応じた。
未だ俺の首筋からほど近い間合いをホールドしていたエリスが、目を覚ましてから初めて、声を上げて朗らかに笑った。「あいつの言い分も、あながち間違ってないわよ。正直言って、今の私なら一国の全領域を丸ごと喰らい尽くせるレベルでお腹が空いてるわ」
「お願いですから、そのような物騒な外交的修辞で表現するのはやめてください」
エレインが至極ジト目の、乾いたツッコミを入れた。「つい最近起きた、あのマイラスの清算(消滅)の事象を思えばね」
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かくして、我が家の全幹部陣(コバヤシの譜系)の総力は、わずか一時間もしないうちにホライゾンクレストで最も広大な厨房の座標へとピンポイントで強制収容(集結)されていた。何のまっとうな企画立案もないまま、手元にあった適当な食材を力任せにぶち込んだ、即興の、大混乱の『生存祝いの大宴会(宴会イベント)』が爆発的に形を成していく。
誰もが形式的な作法などこれっぽっちも気にしておらず、ただ全員が五体満足で生きて還り、再び同じチェス盤(円卓)を囲めているという圧倒的な安堵の前に、まともな規律を求めること自体が無粋なバグ(エラー)のような状態だった。
「……お前の料理の手際、以前とは比較にならないほど高度なロジックへと進化しているな」
隣の丸太に腰掛けたエンゾが、かつては我が家において本物の『お恥ずかしい大失態』の筆頭だった俺の調理スキルを特等席から観察しながら、ふとそんな評価を漏らした。
「そうか?」俺は少し意外に思って訊ねた。自らが仕掛けた即興のシチューを、慎重な生存戦略の元で恐る恐るテイスティングしてみる。――あれ、マジで美味いぞ。
「ええ、間違いありません」アイヴィーが、敏腕行政官としての冷徹な精度でその味覚ステータスを完全承認した。「おそらくは現在の超位進化による波及効果でしょうね。貴方様の五感の解像度が、万事において指数関数的に研ぎ澄まされている証拠です」
「……ようやくね」エリスがニシシと悪戯っぽく笑った。「これまでの数年間、あんたが厨房を本格的な火災現場(デス戦場)に変えかけるのを、どれほど死に物狂いで見守ってきたか」
「そんなの、過去のログを探しても正確に『二回』だけだろ!」俺は必死に逆探知(否定)を試みた。
「いいえ。正確な評価を述べるならば、それは明らかに二回を大幅につり越えていましたよ、我が主」
エレインが、一ミリの慈悲も支払うことなく冷徹に俺の主張をバグフィックス(訂正)してきた。
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すでに何杯目かも分からないリカバリー・メシを猛烈な戦速でアブソーブ(完食)していたエースが、誰も頼んでいない自慢の毒舌コメンタリー(評価)を、絶対の自信と共に盤面へ載せてきた。
「合格点だ。お前の過去の最高品質には届いていないが、今回の過酷な環境パラメータを思えば、妥当な許容範囲内であると判断する」
「お前、それまともに咀嚼すらしてないだろ」俺はジト目で釘を刺した。「その殺戮的なスピードのどこで、正確なフレーバー(味)を品定めできているんだよ」
『俺の魂には大勢の人間が詰まっている(アイ・コンテイン・マルチチューズ)からな』
エースはいつもの泥棒劇のフレーズをドヤ顔で念話に載せてきた。その瞬間、円卓を囲んでいた全幹部たちの口から、完璧に同調したあきれ返るような大溜息が一斉に漏れ出した。その安っぽい古き定番ジョークの着地点は、いつも通り最低最悪の滑り芸であり、同時に、我が家においてこれ以上ないほどに完璧な日常のステータスそのものだった。
彼らと同じテーブルの特等席に腰掛け、一片の権謀術数もない純粋な愉悦を満喫していた魔王ニクサラは、その一連の微笑ましい家族のポートレートを、いつものからかいの裏底に本物の温かみを宿らせて静かに観測していた。
(――私がわざわざ世界の狭間からこの無法地帯へとピンポイントで突撃してくる真の目的の半分は、間違いなくこの『最高の時間』のためよね)
彼女は、一つのテーブルの周囲で激しい bickering(口喧嘩)と本物の笑い声を響かせているコバヤシの譜系を見つめながら、内心でそう確信していた。ほんの数歩のボタンの掛け違い(バグ)の連続で、今ここに実在しているこの愛おしい有様が、万に一つも形を成さずに世界から消去(全滅)していたかもしれないという、首の皮一枚の死線の重みを噛み締めながら。
彼女はその日の夜、あの始祖竜ヴァルレスが残していった最悪の機密の隠密ログについては、ただの一言も盤面に載せなかった。
これほど過酷な生存戦略(戦い)を生き抜き、自らの手で正しく稼ぎ出した(ビルドした)最高の黎明の夜を、不吉な疑問符によって乱して隠蔽してしまうには、今のこの時間は、あまりにも美しく、あまりにも贅沢すぎる代物だったからだ。
全員が超位進化という途方もない次元の上書きを終えた後の最初のパニックが、ようやく微かに落ち着きを見せた頃。エースという野郎は、自らが最優先で処理(執行)すべき実務タスクの内容を、これ以上ないほどに迅速、かつ明確にアナウンスしてきた。
『念話。俺は今、本物の「食糧」のチャージを至急要請する。丸一週間もの間完全シャットダウン(昏睡)していたなど、俺の完璧な美食スケジュール(ステータス)において容認しがたい深刻な空白期間だからな』
「お前、ただ眠ってただけだろ。意図的な断食( fasting )じゃないんだからさ」
俺はジト目を向けた。「お前のスケジュールなら何一つバグっちゃいないよ」
『いや、俺のタイムラインは致命的なまでに妥協を強いられている』エースはそう強弁し、種族クラスの根底からの完全変異を遂げたばかりの生命とは到底思えないほどの凄まじい推進力で、すでに厨房の正門へと向かって疾走を開始していた。『俺は相応の「裏報酬」を要求するぞ。数ヶ月前からお前がまっとうに調理するのを怠り続けていた、あの例のアンブローサ獣の特製レシピが望ましい』
「お前、俺に向かってメシの要求をしてるのか? 今この瞬間、あれだけの超常の大動乱が終わったばかりのタイミングでか?」
『プライオリティ(最優先事項)の話ですよ』エースはこれっぽっちも悪びれる様子なく応じた。
未だ俺の首筋からほど近い間合いをホールドしていたエリスが、目を覚ましてから初めて、声を上げて朗らかに笑った。「あいつの言い分も、あながち間違ってないわよ。正直言って、今の私なら一国の全領域を丸ごと喰らい尽くせるレベルでお腹が空いてるわ」
「お願いですから、そのような物騒な外交的修辞で表現するのはやめてください」
エレインが至極ジト目の、乾いたツッコミを入れた。「つい最近起きた、あのマイラスの清算(消滅)の事象を思えばね」
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かくして、我が家の全幹部陣(コバヤシの譜系)の総力は、わずか一時間もしないうちにホライゾンクレストで最も広大な厨房の座標へとピンポイントで強制収容(集結)されていた。何のまっとうな企画立案もないまま、手元にあった適当な食材を力任せにぶち込んだ、即興の、大混乱の『生存祝いの大宴会(宴会イベント)』が爆発的に形を成していく。
誰もが形式的な作法などこれっぽっちも気にしておらず、ただ全員が五体満足で生きて還り、再び同じチェス盤(円卓)を囲めているという圧倒的な安堵の前に、まともな規律を求めること自体が無粋なバグ(エラー)のような状態だった。
「……お前の料理の手際、以前とは比較にならないほど高度なロジックへと進化しているな」
隣の丸太に腰掛けたエンゾが、かつては我が家において本物の『お恥ずかしい大失態』の筆頭だった俺の調理スキルを特等席から観察しながら、ふとそんな評価を漏らした。
「そうか?」俺は少し意外に思って訊ねた。自らが仕掛けた即興のシチューを、慎重な生存戦略の元で恐る恐るテイスティングしてみる。――あれ、マジで美味いぞ。
「ええ、間違いありません」アイヴィーが、敏腕行政官としての冷徹な精度でその味覚ステータスを完全承認した。「おそらくは現在の超位進化による波及効果でしょうね。貴方様の五感の解像度が、万事において指数関数的に研ぎ澄まされている証拠です」
「……ようやくね」エリスがニシシと悪戯っぽく笑った。「これまでの数年間、あんたが厨房を本格的な火災現場(デス戦場)に変えかけるのを、どれほど死に物狂いで見守ってきたか」
「そんなの、過去のログを探しても正確に『二回』だけだろ!」俺は必死に逆探知(否定)を試みた。
「いいえ。正確な評価を述べるならば、それは明らかに二回を大幅につり越えていましたよ、我が主」
エレインが、一ミリの慈悲も支払うことなく冷徹に俺の主張をバグフィックス(訂正)してきた。
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すでに何杯目かも分からないリカバリー・メシを猛烈な戦速でアブソーブ(完食)していたエースが、誰も頼んでいない自慢の毒舌コメンタリー(評価)を、絶対の自信と共に盤面へ載せてきた。
「合格点だ。お前の過去の最高品質には届いていないが、今回の過酷な環境パラメータを思えば、妥当な許容範囲内であると判断する」
「お前、それまともに咀嚼すらしてないだろ」俺はジト目で釘を刺した。「その殺戮的なスピードのどこで、正確なフレーバー(味)を品定めできているんだよ」
『俺の魂には大勢の人間が詰まっている(アイ・コンテイン・マルチチューズ)からな』
エースはいつもの泥棒劇のフレーズをドヤ顔で念話に載せてきた。その瞬間、円卓を囲んでいた全幹部たちの口から、完璧に同調したあきれ返るような大溜息が一斉に漏れ出した。その安っぽい古き定番ジョークの着地点は、いつも通り最低最悪の滑り芸であり、同時に、我が家においてこれ以上ないほどに完璧な日常のステータスそのものだった。
彼らと同じテーブルの特等席に腰掛け、一片の権謀術数もない純粋な愉悦を満喫していた魔王ニクサラは、その一連の微笑ましい家族のポートレートを、いつものからかいの裏底に本物の温かみを宿らせて静かに観測していた。
(――私がわざわざ世界の狭間からこの無法地帯へとピンポイントで突撃してくる真の目的の半分は、間違いなくこの『最高の時間』のためよね)
彼女は、一つのテーブルの周囲で激しい bickering(口喧嘩)と本物の笑い声を響かせているコバヤシの譜系を見つめながら、内心でそう確信していた。ほんの数歩のボタンの掛け違い(バグ)の連続で、今ここに実在しているこの愛おしい有様が、万に一つも形を成さずに世界から消去(全滅)していたかもしれないという、首の皮一枚の死線の重みを噛み締めながら。
彼女はその日の夜、あの始祖竜ヴァルレスが残していった最悪の機密の隠密ログについては、ただの一言も盤面に載せなかった。
これほど過酷な生存戦略(戦い)を生き抜き、自らの手で正しく稼ぎ出した(ビルドした)最高の黎明の夜を、不吉な疑問符によって乱して隠蔽してしまうには、今のこの時間は、あまりにも美しく、あまりにも贅沢すぎる代物だったからだ。




