エピソード3: 空から降ってきたもの
俺は、自分がなぜ目を覚ましたのかを脳内プロセッサが理解するよりも前に、すでにガバッと跳ね起きていた。
音は無い。地面の揺れも無い。
ただ、大気の中に絶対的な『違和感』が充満していた。それは平穏とは程遠い、あまりにも異質な静寂。周囲一マイル以内のすべての鳥たちが、すでに全霊で「ここから逃げ出す」と決断した後のような、そんな不気味な静寂だった。
(――何かが、来やがった)
思考を完結させるよりも早く、俺はベッドを飛び出して窓にへばりついていた。
そして、目撃したんだ。――外の尾根を越え、満天の星空を完全に塗り潰しながら接近する【二つの巨大な影】を。
空の半分を一瞬にして覆い尽くさんばかりの、理不尽なまでの巨大な翼。それらはね、まるで最初からここが俺たちの家だと完璧に知悉しているかのように、一直線に降下してきていた。
【竜族】。
正真正銘の、完全なる成竜の姿がそこにあった。
俺は今まで、人間の姿に化けている母さん以外の竜なんて見たことがなかった。
肉体のすべての神経が、コンマ数秒で凍りつくような冷気に支配される中、俺は直感的に理解させられた。あの二匹はね、決してのんきな里帰りにやってきたわけじゃない。
いや、マジで殺気の密度が尋常じゃなかったんだ。
「カイ――今すぐ起きろ!」
親父の声だった。その響きには、これまでの人生の中で一度として聞いたことのない、張り詰めた『何か』が混ざり合っていた。
それは怒りではない。焦りですらなかった。確信、だ。
いつか必ず鳴ると分かっていた地獄のチャイム(ノック)を、何年も何年も待ち続けていた男だけが放つ、絶対の覚悟。
母さんはすでに、俺の部屋のドアの前に立っていた。
その顔を見ればね、言葉による説明なんて最初から必要ないことくらい一発で分かったさ。
最初の一匹は、着陸する手間すら惜しんだようだった。
家を上空からダイレクトに踏み潰し、木造の屋根はまるでただの紙切れのように一瞬で粉々に砕け散った。
◇
そこからの出来事はね、あまりの衝撃に時系列が激しく狂っていて、プロセッサが正しく順番を整理しきれていない。
覚えているのは、かつて我が家だった瓦礫の真ん中に親父が毅然と立ち、すでに剣を引き抜いて、二匹のうちのより巨大な方と真っ向から対峙していた姿だ。
その【真竜】はあまりにも理不尽な質量を誇り、ただそこに佇んでいるだけで、周囲の空間がその重圧でぐにゃりと歪んでいるかのように見えた。
親父が奴に向かって、低く、静かに何かを言い放ち――それに対する竜の返答はね、言葉なんかじゃなかった。
ただの一度の【咆哮】の放射。それだけで、周囲二十フィート以内のすべての草木が、一瞬にしてペチャンコにへし折られた。
俺が親父の方へ向かって一歩踏み出そうとした瞬間、母さんが力ずくで俺の身体を引っ掴んだ。
「カイ。私を見なさい。ここを離れるわよ。今すぐに」
「でも母さん! 親父が――」
「あの人は、自分が何をすべきか分かっているわ」
彼女の声は、微塵も震えていなかった。
俺はあれからずっと、そのことばかりを考えている。――彼女はね、最後の最後の瞬間まで、ただの一度だってその声を震わせたりしなかったんだ。
「私と一緒に走りなさい」
俺たちは走った。いや、正確には彼女が疾走し、俺は半ば空を飛ばされ、半ば引きずられるようにして宙を駆けた。
周囲を満たす大気は、まるで俺たちの逃走を全力で拒絶するかのように、猛烈な負荷となって押し寄せてきていた。
一マイルも進まないうちに、二匹目の竜が俺たちのタイムライン(逃走経路)へと追いついてきた。
距離なんて概念がね、奴らの前には塵ほどのメリット(意味)も成さないのだと、俺は身を以て知らされた。何しろ奴らは、人間のあらゆる都市の歴史を丸ごと足し合わせたよりも、遥かに長い年月を生き永らえてきた化物なのだからな。
奴はただ、当たり前のように空中に出現した。俺たちの進行方向を完璧に塞ぐように。
その巨大な翼はほとんど動いていない。まるで、最初から一秒たりとも焦ってなどいなかった(ハイドしていた)かのように。
「随分と我が家から遠くまで逃げ出したものだな、小さな火種よ」
その声が脳内に直接響いた瞬間、俺のプロセッサは衝撃でエラーを起こしかけた。
それは獣の咆哮などではない。厳格に、知性を持った存在が放つ、どこまでも冷酷で退屈そうな【言語】だった。
「その子供を引き渡しなさい。そうすれば、手短に終わらせてあげるわ」
「この子は私の息子よ」母さんが言い放った。「どうしてもと言うなら、まずはこの私をへし折ってから(クリアしてから)にすることね」
「――元より、その計画よ」
◇
母さんは俺の身体を地面へと叩きつけるように下ろすと、竜が言葉を紡ぎ終えるよりも早く、俺の背中を生い茂る木々の隙間へと力ずくで突き飛ばした。
「走りなさい、カイ! 絶対に立ち止まっちゃダメ! 振り返るのも禁止よ! ――この先、後ろからどんな音が聞こえてこようとも、ただひたすらに走り続けなさい!」
俺は従った。
この事実だけはね、公式の記録に生涯残しておかなければならない。何故なら、これこそが、俺が自分の人生において今度とも絶対に許すことのできない、最大の【自己嫌悪】だからだ。
――俺は、大人しく従っちまったんだ。
木々の景色がマッハで後ろへと流れ、肺が焼き切れるほどの重負荷を上げ、後ろから響き渡るすべての音――凄まじい質量激突の轟音、雷鳴の如き魔力爆発、そして……とても母親のものとは思えない悲痛な絶叫――それらが一つの理不尽な濁流となって脳内をジャックし、もはや個別の音として識別できなくなるまで、俺はただ無様に走り続けた。
竜の眼は極めて優秀だ。
今の俺も、それなりに高性能な知覚レーダーを保有してはいるが、あの夜の俺の目は、まだただの脆弱な八歳のガキのものだった。
だがな。その貧弱なガキの目であっても、三百ヤードほどの距離から迫り来る地獄の光景を目撃するには、悲しいかな十分すぎるスペックだったんだ。
――母さんの肉体が、たった一瞬、流れるような無慈悲な一撃によって、真っ二つに叩き割られた。まるで、ただの薪割りのように、あまりにも簡単にあっさりと、彼女の終わり(ロスト)が確定したんだ。
俺は走るのをやめた。
そうしようと脳内で決断した記憶はない。
◇
そこから先に起きたイベント(バグ)についてはね、ぶっちゃけ今の俺の語彙力を以てしても、正しくシステム化(言語化)して説明することは不可能だ。
それほどまでに、理不尽な【怒り(ヘイト)】が心臓のコアを直撃したんだ。
それは悲しみなんかじゃない、最初はな。ただの、行き場を完全に失った狂暴なまでの破壊衝動。
そしてその莫大なエネルギーは、前世からの短い人生の中で初めて、明確な【出力先】を見つけ出したんだ。
――過去三年間、俺のオーラの外縁部で静かに、強張ったまま潜んでいたあの『紫色』のバグ(特性)に向かって、一気に電流が走った。
紫と赤の境界線が、互いに侵食し合うのをやめて大爆発を起こした。
それはね、世界中の誰も名前をつけたことのない、いかなる属性カテゴリにも合致しない未知の【真名】。何故なら、普通の人間どものオーラには、天地がひっくり返ってもそんなシステム、必要ないからだ。
それは、決して『強さ』なんかじゃなかった。
脳内プロセッサが完全に怒りでオーバーヒートしかけている中でも、それだけは全霊で理解できた。
当時の俺はね、まだただの八歳のガキだ。自分の肉体からどれほど理不尽な魔力の奔流が解き放たれようとも、そんなちっぽけな出力では、たった十分足らずで両親の命を丸ごとシステムから消去してみせたあの二匹の化物との間合いを詰め、塵ほどの有効打を与えることすら叶わない。その絶望的な現実くらい、痛いほど分かっていたさ。
だがな。
俺の魂の深淵にあるシステム(本能)は、その瞬間のログを完璧に記録した。
恒久的に、変更不可能な絶対の【誓約】として、脳内の最重要機密データベースにインポートしたんだ。
いつの日かだ。今すぐじゃない。おそらく、気の遠くなるような先の話になるだろうが。
だがな、いつか必ず、お前ら二匹に思い知らせてやる。この胸の狂暴なまでの渇きが、一体何のために存在していたのかを。
二匹目の竜の頭が、ゆっくりと俺の方を向いた――その動きはね、どこか奇妙な好奇心を孕んでいるようだった。あの間合いから突如として大爆発を起こした俺のオーラを察知し、一体どんなザコから放たれたものか、直接その目で鑑定してやろうと思ったのだろう。
だが、奴は向かってこなかった。少なくとも、あの夜はな。
その本当の理由なんて、今でも俺にはさっぱり分からない。――オーラを暴走させている半野生のガキなんてわざわざ仕留める価値もない(メリットがない)と判断されたのか、あるいは別の緊急アラート(イベント)が入って呼び戻されたのか、はたまた、単に俺のことを「わざわざ息の根を止める価値すらない弱者」と切り捨てただけなのか。
理由が何であれ、一時間もしないうちに、俺は完全なる闇の中に一人きりで取り残されていた。
もはや『我が家』という名の建造物が跡形もなく消滅した山の上で、たった一人の孤児になったんだ。
俺の手元に残されたものなんてね、元々は自分のものですらなかったこの【カイ】という真名と、世界の誰も保有していないこの歪な【紫色のオーラ】。
そして――他の誰でもない、自分自身に対して叩きつけた絶対の【誓約】だけだった。
強くなる。どれほどの歳月を費やそうとも。そのためなら、どれほど遠い奈落の果てまで足を進めることになろうとも、な。
――いつの日か、お前ら二匹を、必ずこの手で終わらせてやる(クリアする)。




