エピソード2: ホリゾンタル・ラインでの三年間
このエピソードでは、カイがホリゾンタル・ラインで過ごした三年間を描いています。
力を身につけること。
自分自身を理解すること。
そして、家族と過ごす何気ない日々。
一見すると、穏やかで平和な時間に見えるかもしれません。
けれど、カイの周りには、まだ彼自身も気づいていない謎が少しずつ積み重なっています。
オーラの色。
母さんの隠された反応。
父さんの長い不在。
そして、誰も説明してくれない小さな違和感。
カイはまだ八歳。
だからこそ、今はすべての答えを知る必要はありません。
ただ、彼が成長していく中で、これらの小さな出来事がどんな意味を持つのか――ぜひ見守っていただけたら嬉しいです。
それでは、カイの三年間の物語をお楽しみください。
今にして思えば、俺にはどの季節がどこで終わり、次の季節がどこから始まったのか、さっぱり区別がつかなかった。
山の上で一人きり、三年の歳月を過ごすというのはね、そういうことなんだよ。――タイムライン(時間軸)なんて概念は消え去り、ただ一定の生活リズム(周期)だけがそこに残る。
目を覚ます。訓練する。飯を食う。さらに訓練する。眠る。
東京の狭苦しいアパートで暮らしていた頃の自分なんて、まるでいつか誰かからまた聞きした、ただのおとぎ話のように思えるまで、それをひたすら繰り返すんだ。
ぶっちゃけ? 俺は今の生活をこれっぽっちも嫌っちゃいない。
周囲にね、「がっかりさせるべき相手」が誰もいないというのは、ある意味では最高に平和なことだからな。
訓練のあり方が劇的に変化したのは、確か二年目に入った頃だった。
それまではね、より高く、より速く、剣の一振りにどれだけ強い威力を込めるかという「加算」のことばかり考えていた。だが、そこからは「減算」の領域にシフトしたんだ。
母親はそれを『制御』と呼び、俺は『ただの地獄(苦行)』と呼んでいた。
「【反魔力】は筋肉とは違うのよ、カイ」
母さんは、俺が数え切れないほど何度もそのセリフを叩き込んできた。
「それは本能よ。力ずくで力を込めて鍛えるものじゃないの。ただ静かに、耳を澄ますことで育てるものよ」
「数千年も耳を澄ます練習をしてきた母さんだから、そんな簡単に言えるんだよ」
俺がそう愚痴ると、彼女は楽しげに笑い声を上げた。――その笑みはね、「一理あるわね。だけど、サボらずに続けなさい」という絶対のオーダー(無言の圧力)を意味していた。
だから、俺は座った。息を吸った。
自分のエネルギーの糸を極限まで細く引き絞り、すぐ隣にある枝には塵ほどの熱も干渉させずに、たった一枚の葉っぱだけをピンポイントで焼き尽くす。そんな精密な制御を学ぶために。
文字にするとね、至って地味で小さな成果に見えるだろ?
だがな。最初の十数回は、あまりの退屈さにマジで脳内プロセッサが機能停止(死にそうに)になりかけた。
だけど、何度も、何度も、何度も失敗を繰り返すその過程は、前世の俺が脳内で都合よく妄想していたどんな最強主人公のチート(パワーファンタジー)よりも、遥かに誠実に感じられたんだ。
俺はね、最初の一発目で完璧にクリアできるような、どこぞの選ばれし天才(チート持ち)なんかじゃなかった。
ただの子供だ。ゆっくりと、痛みを伴いながら、不器用な自分を少しずつマシにしていく、ただの泥臭いガキだった。
◇
その『異変』に俺が初めて気づいたのは、まさにそんな制御の特訓を行っていた、二年目の深層に入った頃だった。
俺はいつものように、母さんにスペックチェックをしてもらうために己の【オーラ】を体外へと解放した。――あいつね、俺が何か術式を試す前に、まずはオーラを視覚化(見える化)させるのがお気に入りだったんだ。その方が、自分が今どれだけの出力を持っているのか、嘘偽りなく誠実に向き合えるから、だそうだ。
母さんのオーラはね、相変わらずいつも通りの完璧なグラフィックだった。一切の淀みのない、純粋な【真紅】。まるで微塵も揺らぐことのない、絶対的な炎の如き安定感。
だが――俺のオーラは違った。
中心核の部分は、確かに母さんと同じ鮮やかな赤だった。
だがな。その外縁部、オーラが徐々に薄れていくグラデーションの境界線において、それは水に落としたインクがまだ完全に混ざりきっていないかのように、不気味で深い【紫色】へと変質していたんだ。
俺は最初、大して気に留めていなかった。
「……なぁ、母さん。これって普通なのか?」
その瞬間、ほんのコンマ数秒――マジで一瞬の間だけ、母さんの顔に、俺には決して見せてはならないはずの『緊迫』の表情が走った。
だが次の瞬間には、彼女は何事もなかったかのように平然とした笑顔を取り戻していた。もし俺が彼女の顔を真っ正面から凝視していなければ、十中八九、完璧に見落としていたであろう驚異的な速度のポーカーフェイスだった。
「……竜族のオーラっていうのはね、個体によって少しずつ定着方が違うものなのよ」
彼女は至って平然と言い放ち、そのまま何事もなかったかのように俺の呼吸法の修正へと会話をスライドさせた。
いやいや。それは解答になってねえだろ。
ただの、大層な言葉で着飾った見事な煙幕じゃないか。
だが、俺はそれ以上追及しなかった。当時の俺はまだ八歳だ。
(俺の母親は、俺に何か重大な機密を隠している――)
そんな高度な語彙力はまだ持ち合わせていなかった。ただ、その真実を知る直前にだけ訪れる、あの独特の胸の奥がチリチリとするような、胡散臭い違和感だけが肌にこびりついて離れなかった。
◇
親父が家を空ける期間が目に見えて長くなり始めたのも、ちょうど同じ時期だった。
元々ね、あの親父、家にいる時間よりも外に出ている時間の方が圧倒的に長い男ではあった。
だが二年目に入ったあたりから、その不在の gaps (間隔)が明らかに異常なほどに引き伸ばされ始めたんだ。三日だったものが五日になり、五日だったものが一週間半になり――。
俺が「一体どこに行ってるんだよ?」と尋ねると、返ってくる答えはね、毎回言葉の組み合わせは違えど、そのシステム(中身)は完全に全部同じだった。
「仕事さ。ちょっと処理しなきゃいけない用事があってな。お前が気にするようなことじゃないよ、坊主」
俺は、その完璧なマニュアル(パターン)を、全貌は理解できずとも確かに脳内にログとして記録していた。
あいつね、何かが起きた直後に家を飛び出すことは絶対にしないんだ。
決まって、ここ(水平線)が平和で静まり返る直前のタイムラインを狙って、スッと姿を消す。
まるで――「ここでは何も起きていませんよ」というカモフラージュ(アリバイ)を世界に示すために、わざわざ別の場所で自分のアクティブログ(姿)を記録しに行っているかのように。
……まぁ、あるいは俺がただの、八歳のガキの肉体に閉じ込められた精神年齢高め(前世持ち)の、過剰な被害妄想を拗らせているだけなのかもしれないが。親父の仕事のシフト表に、勝手に国家陰謀論をマッピングしているだけかもしれない。
ぶっちゃけ、今の俺の人生において、それくらいは一番可愛い部類のバグ(疑問)だったからな。
◇
そんな三年間のスパンの中でね、たった一度だけ、俺が実際に山を降りたイベント(里降り)が発生した。それは二年目の終わりの出来事だった。
両親が頑なにその地名を俺に教えてくれない、とある国境沿いの街への、ただの物資調達(買い出し)ルート。
そこは、この【水平線】の絶対的な隔離システムが、初めて外の世界と物理的に交錯する場所だった。
俺にとってはね、人生で初めて目撃する「母さんと親父以外」の有象無象(人間)だった。
人間の基準を天地がひっくり返るレベルで置き去りにした、耳の尖った【エルフ】の連中。前腕に獣のようなふさふさの体毛(毛皮)を蓄えた【亜人】の商人。そして、他の規格外な種族の隣に並ぶと、逆に驚くほど拍子抜けするほどに平凡に見える【人間】ども。
俺はね、つい、いつもの癖で彼らの姿を穴が空くほど凝視してしまっていた。
まぁ、大抵の奴らはガキの視線なんて気に留めもしなかったが――ある一人の、母親に乾燥薬草を計り売りしていた商人だけは違った。彼は俺が少し近すぎる距離(間合い)に立っていることに気づいたのだ。
男は何も言わなかった。いや、言う必要なんてなかった。
ただ一呼吸の間――マジでコンマ数秒、こちらの測定器を狂わせるような、正体不明の不気味なナニカを査定するような目で、俺の瞳を真っ直ぐに見据えてきたんだ。
そして次の瞬間には、意図的に、完璧に俺から視線をプツリと逸らし、二度とこちらを見ようとはしなかった。
母さんは、その商人の拒絶を一瞬で見逃さなかった。
彼女もまた、何も言わなかった。ただ、その大きな手がスッと俺の肩に添えられ、流れるような自然な所作で、俺がその場にそれ以上留まる前に、次の露店へと間合いを動かしたんだ。
よし、これ(未解決の謎)も、誰も俺に説明してくれない『機密ログ(ブラックリスト)』の山に、追加でインポートしておくとしよう。
◇
だがな。だからといって、この山の上での年月が、ただただ不気味な違和感だけで満たされていたわけじゃ決してないぞ。
その中にはね、確かに――「ただ純粋に、良い時間だった」と思える日常も、たくさん収められていたのだから。
三年目のどこかで行った、親父との模擬戦でのことだ。
俺はね、それまで何ヶ月もの間ずっとクリアできずに失敗し続けていた『あるムーブ』を、ついに成し遂げたんだ。――親父の鉄壁の防御を突破した、んだよ。
ほんの一瞬、たった一刹那の間だった。親父が肉体の軸を修正するよりも早く、俺の木刀が奴の脇腹をクリーンヒットしたんだ。
親父は大きくよろめき、ぱちくりと瞬きをした。
そして――俺があいつと出会って以来、おそらく初めて、心の底から愉快そうに大爆笑したんだ。バカでかく、驚きと、そして確かな誇らしさを同時に孕んだ本物の笑声だった。
「ガハハ、やりおったな!」親父は自分の脇腹を擦りながら言った。「お前なら、いつか今のを叩き込める(クリアできる)と分かっていたぞ」
ぶっちゃけ、その日一日の残りの時間、俺の口元からニヤニヤとした笑みが消えることはなかったさ。
不思議なものだな、記憶のデータ(ログ)にいつまでも残り続けるものってのは。
理不尽な魔術でもなければ、空を飛ぶ絶対法則でもない。ただ、親父が俺のことを見て、「誇りに思うべきことを成し遂げた」と言わんばかりの目を向けてくれた、ただそれだけのことなんだ。
◇
同じ年の、ある特訓終わりの夜のことだ。
俺はね、母さんに自分のオーラに混ざるあの紫色の外縁部について、直球で質問しようと画策していたんだ。
「なんで俺のオーラって、母さんのと色が違うんだ?」――その質問の術式を脳内で半分ほど形成し終えた、まさにその瞬間だった。
母さんは、まるで最初から俺がその問いをインポートしてくるのを待ち構えていたかのように、先手を打って口を開いたんだ。
「カイ」彼女は夜に備えて暖炉の火を静かに整えながら、こちらを見ようともせずに告げた。
「これから先、あなたがこの山の外であろうと、世界のどこであろうと、自分自身の『真実』について何を知ることになろうとも――あなたはね、私たち二人に劣るような存在では決してないわ。それだけは、絶対に忘れないで」
それは、俺がまだ口にすらしていない質問に対する解答だった。
いいや、違う。彼女がいつか俺から突きつけられるであろうと予期していた、未来の問いに対する、先回りの【絶対の宣誓】だったのだ。
「……あ、ああ、分かったよ」
俺はそう答えるのが精一杯だった。だって、そんな大層なことを言われてね、それ以外のまともなセリフなんて脳内プロセッサから手繰り寄せられるはずがなかったからだ。
よし、これ(未解決の重要機密)も、ブラックボックスの山に大切にファイリング(隠蔽)しておくとしよう。
◇
そして山の上での生活が三年を迎えた、とある至って平凡そのものの夜のこと。
俺たちは、いつも通りの日常のまま夕食を囲んでいた。
親父は、自分の取引をちょろまかそうとしてきたケチな商人についての、これでもかと盛り気味(半捏造)の武勇伝を語り。母さんは、完璧なタイミングでジト目を向けて呆れてみせ。俺は、あまりの美味さに飯を猛烈な勢い(マッハ)で食いすぎて、「もっとゆっくり食べなさい」と怒られる。
どこにでもある、ありふれた、小さな日常。
何故だろうか。そんな夜ほど、人は「その瞬間を心に留めておこう」なんてこれっぽっちも思いやしないんだ。
だって、その日常のシステムにはね、これが『人生最後の一時(お別れの合図)』であることを警告してくれるようなエラー(フラグ)なんて、どこにも表示されないのだからな。
あの夜、俺はベッドに入り、せいぜい「明日の特訓では、ついに飛行高度の上限を十フィート以上に更新できるか否か」なんていう、至ってのんきなことばかりを考えていた。
――俺は、まだ露ほども知らなかった。
その夜の平穏が、俺の人生において、もう二度と手に入らない最後の【無垢なる日常】になろうとは。
三年間という時間は、長いようでいて、振り返ればあっという間です。
カイにとって、この三年間は訓練の日々であり、家族と過ごす大切な時間でもありました。
空を飛べるようになったこと。
アンチマナを学んだこと。
父親との訓練で初めて一撃を届かせたこと。
そして、何気ない夕食を家族三人で囲んだこと。
どれも、その瞬間には特別なことには思えなかったかもしれません。
でも、人生で本当に心に残るのは、案外そういう何気ない瞬間なのかもしれません。
そしてカイは、まだ知りません。
あの夜が、自分にとって最後の「何も起こらない夜」になることを。
ここから、カイの人生は少しずつ変わり始めます。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
次のエピソードでも、カイの物語を見届けていただけたら嬉しいです。
それでは、また次のエピソードでお会いしましょう。




