第36話:おもに、食べ物のために
それからの数週間というもの、魔王ニクサラの来訪は、我が家において完全に『日常の定期イベント』と化していった――まっとうな事前連絡などは一度たりともなく、なぜかいつもホライゾンクレストの厨房がその日の最高の食事を完成させる絶妙のタイミングを見計らって、奴は姿を現すのだ。
「キャスモアの厨房が叩き出していた代物より、遥かにいい匂いがするわね」
ある日の午後、なんの予備動作もなしに俺のテーブルの特等席へと当然のように居座ると、ニクサラはそう宣うた。そして、アーロンの部下たちが午前中を丸々費やして煮込み上げていた特製シチューへと、すでに躊躇なく手を伸ばしている。
……。本当にただ、飯を食うためだけにフラッと現れやがる。これが今の俺の日常だ。笑えない。
「……せめてノックくらいしたらどうだ?」
俺は半ば諦め混じりの条件反射で言った。どうせその提案が右の耳から左の耳へとマッハで通り抜けていくことくらい、とっくに理解していたが。
「ノックならできるわよ」彼女はこれっぽっちも悪びれる様子なく、すでに美味そうに咀嚼しながら同意した。「でも、こっちの方が断然効率的でしょう?」
――テーブルの向かい側に座るエリスは、ニクサラが突撃してくるたびに初期に見せていたあの過剰なまでの警戒心を、とっくの昔にどこかへ置き忘れていた。今や彼女の佇まいには、俺たち全員が徐々に身につけつつあった『あきらめ混じりの微笑ましい許容』の空気がすっかり馴染んでいる。
「それ、本当に料理目当てなの?」
エリスがいつもの直球極まる物言いで訊ねた。「それとも、不意打ちで現れるたびにカイがどんな面白い顔をするのか、観賞して楽しんでるだけ?」
「両方よ」ニクサラは一文字の恥じる気配もなく即答した。「とはいえ、この料理が本当に極上なのは事実だけどね。私の年齢になると、大半の同族がもっとこう……『精神衛生上よろしくない不快な代物』を摂取して生きながらえているから、まともな家庭料理には滅多にありつけないのよ」
……。今、サラッと聞き捨てならないドス黒いディテールが混ざった気がするが、精神の平穏のためにこれ以上深く追求するのはやめておこう。
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近くに席を置いていたアイヴィーは、ニクサラの気まぐれな来訪を、彼女が万事において発揮するあの敏腕秘書的な手際で完璧に管理する特殊スキルを急速に開花させていた――主の突撃のタイミングを恐ろしい精度で予測し、常に必要量よりも『わずかに多め』の食事を用意させるという徹底ぶりだ。
「貴方、私の行動パターンを読むのが随分と上手になったわね」
ニクサラはその手際に気付き、心底嬉しそうに目を細めた。「合格よ」
「……お役に立てているなら光栄です」アイヴィーは淡々と応じる。
「役に立つどころの話じゃないわ」ニクサラの声に、本物の慈愛のような響きが混じる。「貴方がこうして見違えるような存在へと至る様を特等席で眺められて、私は本当に誇らしく思うわよ」
世界の天辺に君臨する魔王が、そんな本心からの温かみを込めて元部下へ言葉をかけている。その光景は奇妙という他なく、この状況の全体像の歪さは、もはや俺の理解の範疇を超えつつあった。
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実際、日常の中で発生する『気まずい空気(シュールな瞬間)』の頻度があまりにも高いため、俺は脳内で密かにそのカウント(デスノート)を取り始めていた。
ある日の午後には、ニクサラがエンゾに向かって「古竜公に進化して、何か面白い新必殺技でも覚えた?」と事も無げに問いかけ、それを言われたエンゾがいつもの取り澄ました冷静さを完全に崩し、目に見えて耳まで真っ赤にしながら必死に回答を絞り出そうと大 fumbled(大失態)を晒していた。
またある日の夕方には、エリスに向かって大真面目な顔で「眼が見えないことって、料理の隠し味のセンスを向上させる効果でもあるのかしら?」などと質問し、言われたエリスが『視覚の欠落』と『料理の味付け』の間に一体どんな因果関係が存在し得るのかを本気で模索して脳内フリーズを起こしていた。
「あの人、本当に思いついたことをそのまま口にするよね……」
後になって、エリスが未だにその時の謎掛けに困惑を引きずりながら俺に愚痴ってきた。
「言う必要のないことばかり言う。どうしてあんなに年老いた化け物が、まるで好奇心旺盛な子供みたいな質問ばかりできるのか、私には理解できないよ」
「いや、年齢と好奇心ってのは、別に相反するものじゃないだろ」俺はなだめるように言った。
「むしろ、その好奇心を絶やさずにいたからこそ、そこまでの気の遠くなるような歳月を生き長らえることができたのかも知れないぞ? 何でもかんでも知った気になって引きこもるよりさ」
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そんな中、エースの野郎にいたっては、ニクサラとの間に俺の胃に穴をあけるレベルの不気味な『シンクロ率』を構築しつつあった――二人が並んで、この町の住人たちの様々な奇行について、完全に息の合った乾いたデッドパン(無表情)の毒舌ユーモアを連発しているのだ。その息の合い方は、裏で俺たちを陥れるための秘密結社でも結成しているんじゃないかと本気で疑いたくなるレベルだった。
『お前、原初の悪魔相手にいくら何でも気安く接しすぎじゃないか?』俺は念話のリンクを通じて、密かに釘を刺した。
『彼女はコメディのセンス(間合い)が極めて優れていますからね』エースは完全に他人事のようなトーンで返してきた。『質の高い笑いというものは、それがどこで観測されようとも正当に評価されるべきです』
……。これっぽっちも安心できる回答じゃなかった。
『別に安心させるために言ったわけではありません。単なる事実の提示です』
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かくして、俺はまたしても訪れたこの奇妙で、しかしどこか本物の温かみに満ちた午後を、ただ満座の中で過ごしていた。
二杯目のシチューを平らげたニクサラを見つめ、アイヴィーが指示される前に三杯目の給仕の手際を完璧に整えていく。その光景を眺めながら、俺の胸の奥底には、本来なら俺の存在そのものを消し炭にできるはずの化け物に対して抱くべきではない、奇妙な感情がすとんと落ち着きつつあった。
あいつは恐ろしい。紛れもなく、弁明の余地なく圧倒的なバケモノだ。
だけど同時に、どういうわけか、この歪な我が『コバヤシ家』の家族の輪の中に、本人の意思や周囲の合意を置き去りにしたまま、ちゃっかりと収まりつつあるのだ。
「それじゃあ、明日も同じ時間でいいかしら?」
ニクサラが席を立ち、現れた時と全く同じように音もなく消失する予備動作に入った。
「……ちなみに、俺に拒否権(選択肢)は残されてるのか?」俺はジト目で訊ねた。
「無いわよ」彼女は朗らかに笑った。「でも、あえてそれを訊ねてくる貴方の心意気は嫌いじゃないわ」
俺がまっとうな切り返し(ツッコミ)を思いつく前に、彼女の気配は完全に消失していた。
後に残されたのは、彼女が通り過ぎた後のいつもの、少しばかり呆然としつつも、どこか愛おしさを孕んだ静寂だけだった。




