第34話:アイビー
「もう一つの本命って、何だよ」
俺は未だに荒い呼吸を整えながら問いかけた。弾き飛ばされた剣はすでに回収していたが、まだ鞘には収めていない。次に来るかもしれない何かに警戒を怠るわけにはいかなかった。
「貴方の『名付け』の能力よ」
ニクサラは、到着した時から一言も発せずに彼女の傍らに控えていた侍女を指さした。イグニヴァールから叩き込まれた知識が頭をよぎる――『罪痕魔』。悪魔が『魔王』の領域に足を踏み入れる手前において到達し得る、最高峰の階級だ。
「それが具体的にどう機能するのか、この目で直接確かめておきたくてね。二次情報じゃなくて、一次情報として」
彼女は俺に名付けを求めている。よりによって、自分自身の直属の部下に対してだ。
「……何のために?」俺は慎重に尋ねる。
「ただの好奇心よ」
ニクサラはあっさりと微笑んだ。「元々は普通の人間だったという貴方の元・相棒の女の子に、その力が何をもたらしたかは耳にしているわ。人づてに聞くよりも、そのメカニズムを自分で正しく理解したいの」
その侍女自身は、一度も口を開かなかった。ただ、「目立つことは決して自分に利益をもたらさない」と長い時間をかけて学び尽くした者特有の、静かで張り詰めた佇まいを維持している。
俺は彼女の正面に立ち、直接問いかけた。
「……お前の名前は?」
彼女はまずニクサラへ視線を向けた。主からの許可は、小さく寛大な頷きという形で与えられた。
「名前など、持ち合わせておりません」
彼女は静かに言った。「罪痕魔に名前が与えられることは原則としてありません。私たちは『烙印を刻まれる(マークト)』のであって、『名を授かる(ネイムド)』わけではないのです。それは根本的に異なる格の区別です」
刻まれるだけで、名前は無い、か。
そう淡々と突きつけられると、なんだか無性に切ない気持ちになってくる。
「名前、欲しいか?」俺は訊ねた。
その瞬間、彼女の表情がかすかに動いた――驚きだ。そんな選択肢を自分自身に与えられるなど、誰かが勝手に決めるのではなく、自分の意志を求められるなど夢にも思っていなかったのだろう。
「……はい」
長い沈黙の後、彼女はついにそう答えた。
俺は彼女をじっと見つめ、しばらくの間考えを巡らせた。ニクサラの鋭く好奇に満ちた視線に晒されながらも、これまで誰かに名前を授けてきた時と同じように、慎重に、言葉の重みを天秤にかける。
「『アイヴィー』」俺はついに口を開いた。「今日から、それがお前の名前だ」
変質は一瞬だった。
それまで『罪痕魔』の悪魔が身につけるべき特有の所作として、内側に完璧に制御され、押し込められていた彼女の覇気が、突如として怒涛の波となって外部へと狂い咲いた。その圧倒的な余波だけで、俺たちの足元の地面がかすかに震動を始める。
脳内に、かつてないほど短く、かつ冷徹なシステム音声が響き渡った。
《告知。対象の『進化』を確認しました。階級遷移:『罪痕魔』から『魔王』へ。――ただし、現在は初期覚醒の段階であり、完全な掌握には至っていません》
……おいおい、今こいつ、階級を丸ごと一つ飛び越えやがったぞ。
誰かの所有物たる『烙印の悪魔』から、ニクサラ自身が属するような次元の存在へと、一足飛びに至っちまったってわけか。
アイヴィーはその場に立ち尽くし、明らかに呆然としていた。エリスやエレイン、そして俺のせいでその超常の境界線を越えていった他の面々と同じように、見開いた両の眼で、自身の内に満ちる新しい力を信じられないといった様子で確かめている。
「そんな……」
彼女が声を絞り出す。その声は先ほどよりも遥かに安定しており、明確な『確信』がその響きに定着しつつあった。
「こんなことは不可能です。階級をこれほど飛び越えるなど……まっとうな昇格の手順を踏めば、数十年、いや数百年の歳月が必要なはずです」
「あの子はそういうことを平気でやるのよ」
ニクサラは心底愉快そうに、その劇的な変貌を純粋な歓喜の目で見つめていた。「実に素晴らしいと思わない?」
彼女は次に、アイヴィーへと正面から向き直った。その表情には、どこか誇らしげな色さえ浮かんでいる。
「貴方の新しい主はカイよ。……従いなさい」
アイヴィーは一切逆らわなかった。その事実は明確に書き残しておくべきだろう。なぜなら、下手に抵抗されるよりも、その従順さの方が俺にとっては遥かに不気味だったからだ。完全で、即座で、一切の疑念を持たない受け入れ。それは、名前が定着した瞬間に、彼女の忠誠心がそっくりそのまま俺へと横滑りしてきたことを意味していた。
「了解いたしました」
アイヴィーは俺に向かって深々と一礼した。先ほどの躊躇いは木端微塵に消え去っていた。
「これよりは貴方様のご命令のままに、マスター・カイ」
……。気付けば俺の配下に、魔王級の片鱗を見せる化け物が加わっちまった。事態のエスカレート速度が俺のキャパシティを遥かに超えてるんだが。
「……その、マスターって呼ぶのはやめてくれないか」
俺は半ば反射的にそう口にしていた。
「分かっております」
アイヴィーが顔を上げる。その新しく安定した佇まいの裏に、微かなユーモアのような響きが混じっていた。
「ですが、私の意志でそう呼ばせていただきます」
ニクサラは、まるで自分がずっと確信していた仮説が見事に証明されたのを見届けたかのように、満足げに両手をパチンと打ち合わせた。
「さて」彼女はついに俺の方へと向き直る。「これで、私がここへ確かめに来たすべての答え合わせが終わったわ。貴方の『虚無』は、本当にあの報告通りの性質を持っているのね。人づてに聞くよりも、こうして近くで機能するのを見る方が何倍も魅惑的だわ」
「……もう帰るのか?」俺は思わず、期待を込めて訊ねてしまった。
「今のところはね」
彼女は俺のトーンに混じる明らかな安堵の色を、これっぽっちも気にする風ではなかった。
「また戻ってくるわ、いつか必ずね。貴方はただ忘れて放置しておくには、あまりにも面白すぎる『玩具』なんだもの」
最高だな。お陰様で、これからの人生に素晴らしい楽しみが増えちまったよ(白目)。
彼女は現れた時と全く同じように、去っていった。何の儀式的な予備動作もなく、一瞬前までそこに存在していた気配が、次の瞬間には完全に消失していたのだ。
後に残されたのは、俺の傍らに静かに佇むアイヴィー。この肥大化し続ける我が家に新しく加わったとんでもないメンバーと、彼女が残していった、答えよりも遥かに多い大量の疑問符だけだった。
……まあ、あいつもリストに追加しておくとしよう。
我が『コバヤシ家』の勢力図は、俺の全く予期せぬ方向へと、今この瞬間も拡大し続けている。
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ニクサラが去った後も、『地平線の頂』が本当の意味で落ち着きを取り戻すのには、しばらくの時間を要した。
物理的な被害があったわけではない。ただ、俺たちの誰よりも遥かに巨大な『何か』が我が家を平然と通り抜け、その最高戦力をおもちゃのようにあしらい、来た時と同じくらいあっさりと去っていったという、拭い去れない事実が全員の心に刻まれたからだ。
「……何回も脳内で再生しちゃうんだよね」
その日の夜、あの遭遇が起きた訓練場の片隅に二人で座りながら、エリスがぽつりと本音を漏らした。
「あんたが本気で、イグニヴァールから教わったことのすべてをぶつけた最初の一撃さ。それを、あいつは指二本で受け止めた」
「『プライドが砕けた』なんて言葉じゃ生ぬるいよ」俺は正直に返した。「あそこまで実力差を見せつけられたのは初めてだ。俺の想像の中でヴァルレスやスコーンと戦った時でさえ、ここまで絶望的な天井の高さは描いたことがなかった」
しかも、おそらくあいつは本気すら出していなかったんだ。それが、何よりも俺の夜の眠りを妨げる一番の原因だった。
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一方、アイヴィーは、かつてエレインが我が家に加わったばかりの頃をどこか彷彿とさせるような、静かで隙のない手際でホライゾンクレストの生活に馴染んでいった。自分が所属するとは夢にも思っていなかった組織の中で、自らの居場所を慎重に見極めようとしている――そんな有能で注意深い佇まいだった。
「そんなに肩肘張って証明しようとしなくてもいいんだぞ」
ある日の夕方、頼んでもいないのに町の貿易記録を完璧に整理整頓している彼女を見つけ、俺は声をかけた。
「存じております」アイヴィーは手元を動かしたまま答えた。「ですが、私の意志でやっているのです。貴方様からやめてくれと言われても、マスターと呼ばせていただいているのと同じ理由です」
「それはあんまり答えになってない気がするけどな」
「これが、私の持ち合わせている唯一の答えなのです」
彼女はようやく顔を上げ、その瞳に真摯な光を宿らせた。
「私は、数えるのも嫌になるほどの長い時間を、名前ではなく『烙印の悪魔』として過ごしてきました。ニクサラ様がどれほど親切に扱ってくださろうとも、機能的にはただの『所有物』だったのです。それを貴方様は、見返りも求めず、無条件で名前を授けてくださった。それがどれほどの意味を持つか、最初からそれを奪われたことのない方に正しく説明するのは、少々難しいのです」
なるほどな。それはぐうの音も出ないほど真っ当な理由だ。
正直に言って、その手の種類の『感謝』の重みなら、俺は他の人間よりも遥かに正しく理解できているつもりだった。
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エレインはアイヴィーの到来を、極めて実務的かつ効率的な好奇心を持って受け入れていた。驚くべきことに、二人はわずか数日で息の合った完璧なビジネスパートナーとしての関係を築き上げてしまったのだ。
アイヴィーが冥界で何百年も培ってきた悪魔的行政管理の経験と、エレインがホライゾンクレストの拡大する交易ネットワークで磨いてきた慎重な管理手腕。その二つが、恐ろしいほどの噛み合いを見せていた。
「彼女の交渉術は、私がこれまで育ててきた誰よりも優れています」
エレインは心底からの敬意を込めて俺に報告してきた。「『揺さぶり(レバレッジ)』のかけ方を、本能的に理解しているのです。私がそれを身につけるまでに、どれほどの修練が必要だったかを思えば、嫉妬すら覚えるレベルですね」
「随分な大絶賛だな」
「正確な評価です」
エレインがそう訂正した。その独特のやり取りのテンポは、かつて脳内の『反無意識』がすべてを上書きされる前によく好んで使っていた口調に、本人が意識しないままそっくりそのまま重なっていた。
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そんな周囲の様子を、イグニヴァールがいつも以上の静けさで見つめていることに俺は気付いた。
いつものゆったりとした平穏な佇まいの裏で、何事かを深く考え込んでいるような気配。ニクサラが訪れて以来の数日間、彼のいつもの冷静さの奥で、何かが確実にぐるぐると回り続けているのが、訓練の朝の沈黙の重さから伝わってきた。
「……最近、随分と静かだな」
ある朝の訓練の最中、俺はその沈黙の裏にある重みをすくい取るように話しかけた。
「少々、思案していたことがあってな」
イグニヴァールはそう認めつつも、いつもの隙のない構えをとった。「お前が人々に名前を授け、それが彼らに何をもたらすのかを、ずっと特等席で見せてもらっていたからな。エリス、エース、エレイン、そして今回のアイヴィー。誰も彼もが、元々の限界を超えた上位の存在へと変貌を遂げている」
「それが何か?」
「それでな、純粋に興味が湧いてしまったのだよ」
彼は慎重に言葉を選びながら言った。
「最初から彼らの大半よりも遥かに高い位置に立っている者が、その『名付け』を受けた時――一体どんな景色が見えるのか、とな」
……おい、待て。
それって、つまりそういうことか?
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「……俺に、名前を付けてほしいって言ってるのか?」
俺は言葉を区切りながら、純粋な驚きを隠せずに訊ねた。
「いや、まだだ」
イグニヴァールは即座に否定したが、そのいつも完璧に整った端正な顔立ちに、どこか気恥ずかしそうな色がかすかに過った。
「ただの仮定の話だ。私はこれまでの数十年、自分自身の潜在能力はすでに完全に開花しきっていると信じて疑わなかった。だが、お前がその前提を周囲の者たちを使って何度も何度も、完膚なきまでに覆すのを見せつけられてはな……流さずにいる方が難しいというものだ」
「お前が本当にその気になった時でいいさ」
俺はあえて背中を押さないように、慎重に言葉を返した。「どっちにしろプレッシャーに感じる必要はない。誰かに対する義理や義務感じゃなく、お前自身の自由な意志でそれを望んだ時に、俺は鍵を開けたい」
彼は頷いた。
そして俺たちは朝の訓練を再開し、その疑問の答えは二人の間で保留されたままとなった。焦る必要はない。ホライゾンクレストにおいて、本当に正しく決定されるべき重大な物事は、いつだってこうしてゆったりとした時間の中で扱われるのが常だったからだ。
彼が何を決め、それがいつになるにせよ――その瞬間が訪れた時、この世界にとって途方もなく巨大な意味を持つことになる。それだけは、確信を持って言えた。
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その静かで、行く先の見えない不穏な数週間が過ぎようとしていた頃、ようやくソフィアが自らの明確な決意を携えて俺の元へとやってきた。
ホライゾンクレストで目を覚まして以来、一度も見せたことのないような、微塵の揺らぎもない覚悟がその表情にはっきりと宿っていた。
「準備ができたわ」彼女は簡潔に言った。「戻るわ。どんな代償を支払うことになろうとも、真実を伝えるために」
本気でやるつもりだ。彼女を待つ組織が、彼女の持ち帰る真実などこれっぽっちも歓迎しないかもしれないというのに、自らその渦中へと歩み戻ろうとしている。
「……無理に戻る必要はないんだぞ」
俺は最後にもう一度だけ念を押した。それが単なるお仕着せの社交辞令ではなく、本心からの選択肢であるということが正しく伝わるように。
「ここに残ったっていいんだ。この場所で、新しく何かを築き上げる生き方だってある」
「分かっているわ」彼女は応じた。「貴方が思う以上に、そのことについては深く考えた。だけど、私の同胞たちには真実を知る権利があるわ。キャスモアの本当の有様について、あの戦争について、そしてそれ以降に起きたすべてのことについて。どこかの誰かが勝手にねじ曲げたデタラメが定着する前に、私が自分の口で正しく伝えたいの」
かつてエレインが口にしていたのと同じ理屈だ。「不都合なものであったとしても、誠実であることには価値がある」というあの考え方。どうやらこの場所は、本人が意識しないうちに、そういう価値観を根底に据えたコミュニティへと静かに成長を遂げていたらしい。
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「具体的に、向こうで何を話すつもりだ?」俺は訊ねた。
「すべてよ」彼女は迷いなく言った。「キャスモアの本当の性質。この場所で私が目撃したこと――この町、住人たち、そして私が排除するために派遣された『人類の脅威』などという代物が、ここには影も形も存在しなかったという事実。そして、私自身の敗北も、これまで報告してきたあらゆる記録と同じように正確にね」
「一部の連中にとっては、受け入れがたい過酷な物語になりそうだな」
「本物の真実というものは、大抵がそういうものでしょう」彼女は微かに微笑んだ。「だからといって、語るのをやめていい理由にはならないわ」
俺はしばらくの間、彼女の横顔をじっと見つめていた。かつて純粋な信念(正義)の元に俺を本気で殺そうとしてきた相手に対して、これほどまでに深い敬意を抱くことになるとは、最初の戦いの時には夢にも思っていなかった。
「もし、向こうで最悪な状況になったら……」俺は言葉を選びながら告げた。「ホライゾンクレストは、いつでもお前の居場所を開けて待ってる。向こうに戻って待っているのが、一体どんな『最悪』であるにせよ、だ」
「感謝するわ」
ソフィアのいつもの凛とした顔立ちに、一瞬だけ確かな温かみが過った。「ここに目覚めて以来、きちんと言葉にできていなかった気がするけれど……本当にありがとう、カイ」
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二日後、俺たちは彼女を送り出した。ホライゾンクレストの幹部陣が、今や変質して不安定になった結界の境界へと集まり、その旅立ちを厳かに見守った――エリス、エレイン、アーロン、アイヴィー、そして最新の研究の手を止めてわざわざ足を運んだヴァンスまでもが、それぞれのやり方で別れを告げる。
「皆さん、ありがとうございました」
ソフィアは一人ひとりに言葉をかけた。それは彼女が最初にここに連行されてきた時の、あの形式的な騎士の礼儀とは根本的に異なる、心底からの親愛が籠もったものだった。
「私の属する組織が、決して教えてくれなかった世界の側面を教えてくれたことに感謝します。戻った先で私を何が待ち受けているかは分かりません。けれど、少なくとも私は、以前よりも遥かに澄んだ瞳で元の場所へ還ることができます」
「何があっても、報せを送ってくれ」俺は言った。「良くも悪くも、だ。ただ勝手に心配してヤキモキするよりは、現実を知っておきたいからな」
「ええ、必ず」
彼女は約束した。あの最初の戦場からずっと彼女が貫いてきた、あの揺るぎない誠実さをその眼差しに宿らせて。
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彼女の背中が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くして見送っていた。胸の奥に、自分でも予期していなかったような、少し切ないビタースイートな感情が広がっていく。
最初は敵として始まった関係だ。戻った先で彼女が何を見出すかによって、ここから先は単なる敵味方を超えた、もっと複雑な関係へと至ることになるのかもしれない。
《……彼女の証言は、本人の身の上に重大な危機をもたらす可能性が極めて高いと判断します》
脳内の『超越知性』が呟いた。以前に比べて短く、無駄を削ぎ落としたその新しいシステム音声の響きには、未だに完全には馴染みきれていなかった。
《強大な組織というものは、往々にして『不都合な誠実さ』に対して相応の報酬を与えることを嫌うものです》
あぁ。分かってるよ。
だけど俺は、彼女がこれから直面するであろうどんな逆風よりも、彼女自身の芯の方が強いと信じている。本当に、そう思えるだけの強さがあいつにはあるはずだ。
俺は向き直り、ホライゾンクレストの町へと足を進めた。
未だに新しい環境に馴染もうと励んでいるアイヴィー。俺に問いかけるべき質問の重さを、静かに天秤にかけ続けているイグニヴァール。そして、あらゆる常識的な予測を裏切って「守るに値する本物の故郷」へと成り果てたこの場所に対して、外の世界の連中が勝手に品定めを続けている、そんな大陸の情勢。
この複雑にもつれ合った糸口の一つが、今、自らの組織の審判を受けるために我が家へと歩みを進めている。
この先に何が待ち受けているにせよ、最初から戦争を引き起こしていた都合のいい嘘の代わりに、ようやく『本物の真実』が盤面に投じられたのだ。それだけは間違いなかった。
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それからの数週間、イグニヴァールの訓練は緩むどころか、むしろ激しさを増していった。毎回のセッションで、彼は俺を前回以上の限界へと追い込んできたが、その一方で、いつもの完璧な集中力の中にどこか『心ここにあらず』といった雑念が混じっていることに、俺は何度も気付いていた。彼は未だに、自分自身でも未だ完全には答えを出し切れていない問いと格闘し続けている。それが肌で伝わってきた。
「……何か、抱え込んでるだろ」
ある日の夕方、彼の心境の乱れを反映してか、いつも以上に体中をアザだらけにされた訓練の終わりに、俺は声をかけた。
「ああ、その通りだ」イグニヴァールは素直に認め、いつもの丸太に腰を下ろして、珍しく言葉を慎重に選び始めた。
「私は、この世界の殆どの知的生命体がまっとうに生きて、そして死んでいくよりも遥かに長い時間を『竜族』として過ごしてきた。私のアイデンティティは、常にその絶対的な事実に立脚している。自分が何者であるか、何を捨て去り、その後に何が残ったのか、というな」
「名付けを受ければ、それが変わっちまうかもしれない、と」
「決定的に、な」彼は言った。「自分が一体何に変貌してしまうのかが分からない。かつて古い血統を捨て去って以来、自らの人生に絶対的な『確信』を抱いて生きてきた私にとって、その不確実性と向き合うのは……想像以上に、座りの悪いものだ」
なるほどな。それは確かに、身を切るような重大なリスクだ。すでに過去に一度、自らの出自や地位といった全アイデンティティを丸ごと捨て去る覚悟を証明してみせた彼のような男であっても、躊躇うのは当然だった。
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「今日明日で決める必要なんてないさ」俺は言った。「今月中だっていい。お前が本当に心の底から覚悟を決めた時でいいんだ。もし、最後までその時が来なかったとしても、それはそれで構わない」
「分かっている。その根気強い忍耐には、言葉に尽くせぬほど感謝しているよ」
イグニヴァールはもうしばらく沈黙を守っていたが、やがていつもの冷静さの奥から、何かが静かに定着していくような気配がした。
「……一つ、率直に訊ねてもいいか?」
「いつでもどうぞ」
「……悔しくはないのか?」彼は言った。
「お前が自らの器を削り、無条件で授けたギフト(名前)によって、周囲の者たちが次々と劇的な変貌を遂げ、瞬く間に強くなっていく。それを特等席で見つめながら、お前自身は地道で泥臭い、途方もなく時間のかかる訓練を積み重ね続けている。その理不尽な格差に対して、お前の内にある何かが、不満を漏らすことはないのか?」
はえ? 正直、そんな質問が飛んでくるとは夢にも思っていなかった。
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「いや、全く」
俺は反射的に答えるのをやめ、自分の胸の内に正しく問いかけてから言葉を返した。
「あいつらの成長は、俺の力を掠め取っていくようなものじゃないからな。むしろ、名付けをすればするほど、俺自身も強くなっている気がするんだ――まあ、システムの仕様がどうやらそうなっているらしい、ってだけなんだけどさ。俺が誰かの背中を押して、そいつが元々持っていたはずの本質を引き出すたびに、奇妙な話だけど、俺自身も『俺という存在』の根源に近づけている感覚があるんだよ」
「……随分と、寛大な解釈だな」
「いや、ただの事実さ」俺は訂正した。
「俺は自分の価値を、他人の成長スピードと天秤にかけて測ったりはしない。俺にとって重要なのは、自分が大切に思っている仲間たちが本当に安全で、本当に、心底楽しそうに繁栄できているかどうかだ。それ以外のすべては、ただの些細なディテール(おまけ)に過ぎないんだよ」
イグニヴァールは長い間、その言葉の意味を噛み締めていた。その表情の裏で、俺には正確に読み取れない何かが、確実に、しかし劇的にシフトしていく。
「……そうか」やがて彼は、ゆったりと、しかし確固たる意志を込めて口を開いた。「ならば、今こそお前に正しく『要請』する時が来たようだ」
――来たか。ついに、この時が。
「言ってみろよ」俺は静かに応じ、彼がその言葉を口にするための空間を差し出した。
「私に、名前を授けてほしい」
イグニヴァールは告げた。それは、数ヶ月前、俺という存在があえて命を賭けて近づく価値のある男かどうかを品定めしていた、あの最初の邂逅の時以来、一度も耳にしていなかった極めて厳かな響きだった。
「お前の自由な意志による、無条件の授名だ。もしお前がそれを許してくれるのなら。……私が私であることに疑いを持ったからではない。この場所の誰も彼もが、お前のギフトによって『本当の自分』へと昇華していく様を見届けて、ついに私自身も、その先にある『私自身の極致』が一体どんな姿をしているのか、知りたくなってしまったのだ」
これはとんでもない大物だ。これまで俺が仕掛けてきたどんな名付けよりも、その次元の重みが違いすぎる。何しろ、それを求めている本人の格が格だ。
「本当に、いいんだな?」
不確実性に対する彼の先ほどの葛藤を思い出し、俺は念を押した。
「ああ」彼は言った。その声は完全に安定しており、先ほどまでの躊躇いは、紛れもない、確固たる覚悟へと昇華していた。「どんな代償を支払うことになろうとも、何が変わってしまおうとも――今の私は、お前を完全に信頼している。それを無条件で受け入れよう」
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俺は彼の姿をじっと見つめ、これまで誰かに名前を授けてきた時と同じように、言葉の重みを慎重に天秤にかけた。この名付けにかかる『質量』は、これまでの誰のものとも根本的に異なっている。
彼は数ヶ月にわたり、自分の人生を、技術を、忍耐を、そして「自制と成長」に関する一朝一夕では得られない貴重な知恵のすべてを、俺に惜しみなく注ぎ込んでくれた。俺が彼に返すものは、その献身に対して、本物の『敬意』を示す代物でなければならない。
「分かった」俺はついに頷いた。「それじゃあ、まっとうにやろう。焦る必要はない。明日の朝、一番の朝日の光が差し込む瞬間にだ。それ相応の、最高の意味を持たせたいからな」
イグニヴァールは頷いた。その表情には、心底からの、本物の安堵の色彩が広がっていた――数週間に及ぶ静かな葛藤の末に、ついに賽は投げられたのだ。
「では、明日な」彼は言った。
明日、か。
我が家にまた一つ、すべてをひっくり返してしまうような新しい名前が刻まれようとしている。まあ、この場所じゃいつものこと、って言っちまえばそれまでなんだけどな。
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約束通り、俺たちは黎明の刻に集まった。
俺とイグニヴァール、そして単なる儀式的な参列者ではなく、俺たち双方にとってすでに『なくてはならない存在』となったごく親しい仲間たち。エリス、エレイン、アイヴィー。そして近くで丸まり、重大な局面のたびに見せるあの静かな集中力でこちらを見つめているエース。
「……準備はいいか?」俺は訊ねた。
「ああ、いつでもいける」イグニヴァールが応じる。
だが、彼と出会って以来初めて、そのいつもの冷静沈着な響きの裏に、本物の『揺らぎ(緊張)』が混じっているのが聞こえた。
彼にとっても、これは大ごとだ。おそらく、俺に対してすら未だ完全には認めきれていなかったほどに、彼の人生のすべてがかかっている。
俺は名前を長い間、それこそこれまでの誰よりも長く、頭の中で反芻していた。この特別な名付けだけは、彼が俺に注ぎ込んでくれたすべての献身――あの地獄のような訓練、無限の忍耐、そしてホライゾンクレストの国境でのあの完膚なきまでの敗北以来、俺たちの間に静かに育まれてきた本物の『友情』に対して、絶対の敬意を示す代物でなければならなかったからだ。
「『エンゾ』」俺はついに、その名を紡いだ。「今日から、それがお前の名前だ」
直後に訪れた変質は、俺がこれまでに目撃してきたあらゆる名付けの光景とは根本的に異なっていた。
エリスやエース、エレイン、あるいはアイヴィーの時に見られたような、爆発的で突発的な覇気の奔流ではない。それはよりゆったりと、より深く、まるで数百年という気の遠くなるような歳月が、ようやく自らのあるべき『真の器』を見出して収まるべき場所へと沈み込んでいくような、圧倒的な質量の沈殿だった。
脳内に、かつてないほど厳かで、どこか畏怖すら孕んだシステム音声が響き渡る。
《告知。対象の『進化』を確認しました。個体名:エンゾ。階級遷移:『上位聖竜』から『古竜公』へ。――完全なる限界突破を観測しました》
古竜公。
それは単なるステータスの底上げなんてレベルじゃない。世界の生態系の頂点、あの『始祖竜(真なる竜)』の絶対領域にすら肉薄しかねない、完全に新しい次元の格の獲得だった。
――エンゾ。
数ヶ月もの間、彼を『イグニヴァール』としてしか呼んでこなかった俺の思考にとっても、その響きは未だ奇妙に新しく、馴染ませるのには少し時間が必要だった。
エンゾはゆっくりと眼を開いた。その瞳の奥には、深遠で、そして自分自身に起きた超常の事象に静かに圧倒されているような光が宿っていた。
「……信じられん」彼は声を絞り出すように言った。自分がたった今体験したことを正しく言語化するための語彙を、懸命に手探りしているようだった。「完全に、『私自身』だ。ここ数十年で最も、己の本質と同化している感覚がある。かつてとっくの昔に諦め、捨て去ったはずの誇りが……まるで、一瞬にしてすべて手元へ還ってきたかのような」
「いい方の変化か?」俺は素直に訊ねた。
「ああ、最高にいい変化だ」
エンゾはそう肯定した。その安堵に満ちた表情には、いつもの取り澄ました自制の殻を脱ぎ捨てた、どこか少年のような瑞々しささえ浮かんでいた。「これ以上ないほどに、な」
真っ先に動いたのはエリスだった。彼女は我が『コバヤシ家』の新しい家族を迎える時のいつもの気安さで、彼を温かく抱きしめた。その抱擁を受けて、エンゾの肩の力がさらに一段と抜けるのを俺は見逃さなかった――ただ遠巻きに敬意を払われるだけの孤高の存在から、ようやく『身内』として正しく受け入れられたのだ。
「古竜公、ですか」
エレインがその階級の響きを、明らかな実務的・専門的な興味を持って咀嚼していた。「それって、通常の竜族の限界値はおろか、上位の『真なる竜』の格にすら匹敵する階級なのでは?」
「ああ、遥かに超越している」
エンゾは未だに己の内に満ちる新しい世界のスケールを確かめながら言った。
「通常の竜族がどれほどの歳月を生きようとも、決して到達し得ない絶対の天井だ。かつて自らの古い血統と決別した私にとって、よもやこのような可能性が残されていようとは、夢想だにしていなかったよ」
彼はかつて、自らの血族の承認を捨て去り、自分自身の足で立つために孤独な exile(放浪)を選んだ。そして今、彼はその血族が束になって逆立ちしても絶対に届かないような、世界の天辺へと至っちまったわけだ。皮肉というよりは、実に小気味いいほど詩的な結末じゃないか。
これまで静かに儀式を見守っていたアイヴィーが、その知性的な瞳に深い思索を湛えて口を開いた。
「……それで、戦闘能力的な変化は如何ほどですか?」
「測り知れんな」
エンゾは自らの内に脈打つ波動を軽く解放し、その威力に満足げな笑みを浮かべた。
「今なら、先日の魔王ニクサラの急襲に対しても、一週間前とは比較にならないほどの確信を持って応戦できるだろう」
「あんまり調子に乗るなよ」俺はジト目で釘を刺した。「あの手合の化け物は、確信があるからってどうにかなる相手じゃないだろ」
「それもそうだな」
エンゾはあっさりと負けを認めた。その新しく定着した顔立ちに、本心からの愉快そうな温かい笑みが広がる。
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俺たちはその朝の残りの時間を、ただ全員で同じ空間を共有し、穏やかに過ごした。
自分たちの仲間の一人が、本当の意味で『自己の完成』へと至るのを見届けた家族だけが味わえる、特有の静かな満足感。差し迫った危機も、今すぐ対応しなければならない厄介事もない。ただ純粋に、素晴らしい一日の始まりを全員で享受するという、この上なく贅沢で貴重な時間だった。
エンゾ。古竜公。
一年前の俺たちなら想像すらしていなかったほどの高みへと、また一人、この家族のピースが手を伸ばし、そして届いてみせた。
俺は周囲に集まった仲間たちの姿を一人ずつ見渡した。
盲目にして不可避の一撃を放つ、最強の剣士エリス。
冷徹にして確実な管理手腕で財政を支える、敏腕メイドのエレイン。
軽妙にして絶対の献身を誓う、相棒のエース。
新しく名を授かり、底知れぬ忠誠を胸に秘めた、魔王級のアイヴィー。
そして、数十年の孤独な放浪を経て、ようやく本当の五体満足(完璧)を手に入れた古竜のエンゾ。
彼らの姿を見ていると、我が家の国境線の外側で今なお渦巻いているらしい様々な脅威――魔王たちの動向、聖教会の思惑、そしていずれ激突することになるであろうヴァルレスやスコーンといった存在への懸念とは全く無関係な、確固たる『何か』が胸の奥底にどっしりと鎮座していくのを感じた。
これから先、一体何が来ようとも。
悪魔どもだろうが、聖教会だろうが、あの二頭のトカゲだろうが、この世界が俺たちを潰すためにどんな理不尽を投げつけてこようとも――今の俺たちなら、今度こそ、本気で全員揃って迎え撃つ準備ができている。
来るなら来い。
我が『コバヤシ家』の全員で、極上の絶望をもって歓迎してやるってわけだ。




