第27話:動けば死ぬ
「カイ」
脳内で響いた**『脳内脳』**の音声の、かつてない異常な鋭さに、俺はイグニヴァルとの特訓セッションの最中であったにもかかわらず思わず顔を上げた。
いつものフラットな機械音声じゃない。何かが致命的に狂っている(バグがある)。
「……何があった」
俺はすでに愛刀の切っ先を下げながら問いかけた。
『告。『絶対結界』の突破を確認。領地の東方境界線において、局所的な術式破綻が一時的に発生。その隙間を突き、内部への侵入者が発生しました』
突破された。あの完璧なはずの絶対防御を、本気で破ってきた奴がいるわけか。
「数は? 正体は誰だ」
『識別中。――ラオディキア神聖教会に属する最高戦力、個体群『聖騎士』と推測されます』
その瞬間、俺の中で何かが完全にピタリと静止した。
「……今、聖騎士って言ったか?」
俺の声は静かで、平坦で、普段身に纏っているあらゆる平穏の残滓が、たった一瞬で世界のシステムから掻き消えていくような異質な冷徹さを孕んでいた。自分自身の声であるはずなのに、まるでどこか遠くの全く別の人格が喋っているかのようにすら感じられた。
「座標はどこだ」
脳内脳は一切の躊躇なく、完璧に正確な座標データを脳内に転送してきた。これ以上の無駄な質問や会話を受け付けるような空気が、今の俺には微塵も残されていないことを、奴のロジックが正しくスキャンしたのだろう。
――まあ、それはともかく。
次の瞬間には、エリスが俺の元へと駆けつけていた。その表情には、俺が瞬時に察知したのと全く同じ、極めて張り詰めた戦闘警戒が宿っていた。
「私にも感じられたわ」
彼女は言った。
「結界の内部に何かがいる。カイ――」
エリスは俺の腕を強く掴んだ。今まさに俺の顔に張り付きつつあった『最悪の表情』を、彼女の異次元の感知能力は恐るべき精度で読み解いていたのだ。
「……お願いだから、馬鹿な真似(無謀な突撃)だけはしないでよ」
「善処するよ」
言い残した瞬間には、俺はすでに身体を反転させていた。
「イグニヴァル!」
エリスが鋭く声を張り上げた。俺に向けてではなく、俺の後方に佇むあの化け物に向けてだ。彼女は俺がこれから一体どんな『殲滅行動』に出るつもりなのかを完全に先読みしていたのだ。
「あいつに同行して! 万が一のために!」
「御意」
イグニヴァルは相変わらず急ぐ様子もない完璧な落ち着き(スペック)を崩さぬまま、すでに俺の歩調へとその足運びを同調させていた。
だが、彼ら二人が俺の本当の座標を見定めようと視線を向けた時には――俺の姿はすでにそこにはなかった。エースを傍らに従え、彼らの追随を許さない圧倒的な移動スペック(ステルス速度)で、俺はすでに戦場へと転移していたからだ。
――まあ、それはともかく。
四人の聖騎士どもは、俺の姿をその眼で視認するよりも先に、その肌で直接『それ』を感知させられる羽目になった。――突如として空間を埋め尽くした、彼らのこれまでのどんな過酷な訓練をもってしても絶対に防ぎようのない、圧倒的かつ破滅的な質量の顕現。
奴らは即座に防御陣形へとシフトし、武器を半ば引き抜きながら周囲の森を走査したが、木々の風景は奴らの索敵に対して何一つとして有意義なデータを出力しなかった。
当然だ。奴らにそんな索敵の時間(猶予)を与えるつもりなんて毛頭ない。
次の瞬間、俺は『最初からそこに存在していた』かのように、奴らの防御陣形のど真ん中(完全な死角)に出現していた。四人の誰一人として、その移動のモーション(挙動)すら視認できていない段階で。
「動くな」
俺の刀はすでに鞘を払われており、その刃の境界線からは淡く冷徹な反魔素の波動がジリジリと漏れ出していた。
「――動いた瞬間、お前たちの命はここで消滅する」
四人の聖騎士の身体が、完全に石化した。武器を構えようとしたその挙動のままピタリと硬直する。自分たちがこれまでどれほど強者としての訓練を積んでこようが、今目の前で対峙しているこの『次元の違う化物』の前では、そんなスペックは何の意味もなさないという事実を、本能的かつ完璧に理解させられた者特有の、あの絶対的な恐怖の麻痺がそこにあった。
『告。侵入者の初期観測データと現在の実数に乖離があります。――一名、この場に存在しません』
緊迫した沈黙を切り裂き、脳内脳のフラットな音声が響く。
そうだ。事前のスキャンでは五つのシグネチャーがあった。だが、目の前にいるのは四人。
「エース」
俺は正面の四人から一瞬たりとも視線を外さずに命じた。
「……残りの一匹を狩ってこい」
俺がその一文を紡ぎ終えるよりも早く、エースの気配は戦場から完全に消失していた。
――まあ、それはともかく。
「何の用があってここへ来た」
俺の声からは、普段の日常にあるような温もりの欠片も完全に削ぎ落とされていた。
すると、俺の最も近くにいた騎士――四人の中で最も若く、明らかにキャリアが浅い(下級スペックの)男であり、かつこの絶望的な包囲網の最中にあってもなお、教会のエリートとしての安いプライドに縋れると勘違いしているらしい愚か者が、わずかに背筋を伸ばして口を開いた。
「何故、我々がお前のようなアノマリーに対して回答を支払う必要が――」
その瞬間、俺の刃はすでに不可避の軌道を描いていた。
(……あいつを切り殺そうと、自分の頭のロジックが裁定を下した記憶はない。ただ覚えているのは、奴のあの傲慢極まりない喉元の高さに向けて、完璧に洗練された『絶対的な死のモーション』が流れるように発動した、その事象だけだ)
だが――その一撃が奴の首を撥ねることはなかった。
突如として割り込んできたイグニヴァルの大きな手が、俺の刀の『腹』をガシリと掴み取り、その恐るべき刀速を完璧に静止させたのだ。刃の切っ先は、その風圧による衝撃だけで聖騎士の皮膚の表面に薄皮一枚の切り傷を刻み、そこから微かな血が滴り落ちるほどの超至近距離だった。
「エリスがお前に『馬鹿な真似はするな』と警告していたはずだがね」
イグニヴァルは、自らの手のひらに本物の鋭利な反魔素の刃が食い込んでいるという凄惨な状況であるにもかかわらず、相変わらず何事もないかのような極めて平然とした(スペックの違う)トーンで言った。
その場にフリーズしていた四人の聖騎士どもは、突如として出現したその黒髪の男の『顔』を直視した瞬間、全身の血の気が完全に引き、顔面が何段階もの絶望の色( gray)へと染まっていく有様だった。――突発的な確定識別(スキャン成功)。自分たちが今、一体どこのどいつの本名を目の前にしてしまっているのかという、あの本当の化け物(絶望の象徴)とエンカウントしてしまった者たちだけの、完全なる狂乱がそこに巻き起こっていた。
これは絶対結界の突破フラグ(エラー)が発生したあの朝、俺たちの楽園のフロンティアで起きた、まさに世界の均衡を大きく揺るがす奇妙な合流劇の全貌である。
――まあ、それはともかく。
「あんた……」
四人の中で最年長であるあの女の騎士――後に**セラフィエル**という名前であることを知るのだが――は、ひどく張り詰め、強張った声でかろうじてそれだけを絞り出した。
「まさか、あんたは――」
「そうだ」
イグニヴァルは、それ以上の無駄な解説を付け加える手間すら惜しむように、ただシンプルに肯定した。そして、つい先ほど俺の絶対的な殲滅のモーションを静止してみせたばかりだというのに、相変わらず急ぐ様子もない完璧な落ち着き(スペック)を保ったまま、俺の方へと視線を向けた。
「残りの一匹を捜してこい。ここの尋問は、この俺が引き受ける」
奴の言う通りだ。
今の俺の実力の段階では、真っ向から奴の制止を撥ね除けて異論を唱えることなど到底不可能だ。程遠いレベルのギャップがそこには厳然と横たわっている。
俺は静かに刀を鞘へと収めた。胸の奥底にくすぶっていた、あの冷徹で剥き出しの殺意の残滓(危険な空虚)は未だに重く居座っていたが、半分は奴の戦術的裁定を信頼し、もう半分は――本音を言うなら、もし二度目の刃を振るったとして、奴が再びそれを完璧に制動(バグ修正)してくるか否かをわざわざテストする気が起きなかったからこそ、俺はその場を後にしたのだった。
――まあ、それはともかく。
残りの一個体であるオフィーリア・ヴァンスは、まさに俺の想定していた通りの座標に佇んでいた。――絶対結界の最深部、あの古代の空間封印(次元牢)のフロンティアの真ん前だ。彼女は自分の計測機器を極めて緻密な手つき(ケア)で展開し、目の前で妖しく明滅する次元のゆらぎを、剥き出しの純粋な知的好奇心を滾らせて凝視していたのだ。
今度は、愛刀を引き抜くことすらしなかった。
彼女の全身から放たれている魔素の質感は、先ほどの四人の聖騎士どものものとは完全に一線を画していた。――教会の規律に染まった兵器としての波形など微塵もなく、その魂の底には、俺たちの居場所を脅かそうとする『敵意』のバグデータすら存在しなかったからだ。そこにあるのはただ、鋭く、あまりにも純粋な知的好奇心だけだった。
(……なるほどな。あの女、最初から教会の正規メンバー(手先)なんかじゃないわけだ。奴がこの領域の奥底に求めている本当のフラグは、教会の利益(アノマリー狩り)とは全く無関係のところにある)
「お前が、例の特異点か」
ヴァンスは振り返った。俺の突発的な出現に対しても、何一つ驚く様子すら見せなかった。
「オフィーリア・ヴァンスよ。不法侵入( intrusion)について謝罪してもいいけれど、あなたのようなタイプは、安い社交辞令よりも本物の真実を聞く方をお好みでしょう?」
「まずは、何故自分のチームから単独行動を切り離したのか、その理由から聞かせてもらおうか」
俺は言った。感情の暴走が綺麗に収まり、先ほどまでの冷徹な殺意がようやく平時のスペックへと融解し始めていた。
「何故って? これが、私の専門領域(空間理論)において過去四十年間で出会った中で、間違いなく『最高峰の未解明パズル(最大規模の挑戦)』だからよ!」
彼女は目の前の封印結界に向けて、本物の敬意を隠そうともせずに熱弁を振るった。
「あなたの構築した絶対結界の術式の真下に、さらに幾重にも積層された古い空間魔法の檻。私がこれまでの生涯でスキャンしてきたどのサンプルよりも古く、そして圧倒的に高密度な上位術式だわ。空間魔導の探求者として、これを見過ごして素通りするなんて、絶対に不可能よ!」
そこから俺たちは、しばらくの間言葉を交わした。――彼女が展開する空間理論の仮説、過去四十年間ほとんど実戦投入される機会のなかった彼女自身の専門知識、そして、彼女がこの封印結界の本質について一体どこまで把握しているのかという、俺の側からの慎重にガードを固めた逆探知(尋問)。
驚くべきことに、彼女はそのすべての問いに対して、何一つ裏の意図( angle)を隠すような欺瞞の挙動も見せず、極めて誠実に本物の真実を出力し続けたのだ。
信用できる。
単なる利害の一致として容認するのではない。俺の直感が、この女は本物の『対話が可能なアクター』であると確定判定をくだしたのだ。
「そろそろ戻ろうか」
俺は言った。
「あんまりここで油断していると、今度はイグニヴァルが痺れを切らして、俺のタイムマネジメント不足について手厳しいレッスンを再開しに来ちまうからな」
――まあ、それはともかく。
ヴァンスは何の異論(反発)も見せず、大人しく俺の歩調に合わせて歩き出した。そして、俺たちが元の広場へと帰還し――未だに完全に恐怖で硬直している四人の聖騎士どもの前に、圧倒的な絶対強者( immovable)として静かに仁王立ちしているイグニヴァルと合流したその瞬間、文字通り『完全なる想定外のフラグ(サプライズ)』が炸裂したのだ。
ヴァンスはその場にピタリと足を止め、信じられないものを見たかのように両目を見開いてイグニヴァルを凝視した。
「……あんた!」
彼女は叫んだ。
「嘘でしょう!? 本当に……本当にあんたなの!?」
イグニヴァルのあの冷徹極まりない無表情の底に、どこか懐かしむような本物の温もり( fond)が微かに浮かび上がる。
「オフィーリアか。……随分と久しぶりだな」
(……は? 何だって?)
「お前ら二人……知り合い(既知のフラグ)なのか?」
俺は二人の顔を交互にスキャンしながら、完全に頭の処理エラー(パニック)を起こして問いかけた。
「私の『師匠』よ!」
ヴァンスは破顔した。
「何十年も昔、私が空間魔導のアカデミックな研究に完全シフトする前に、本物の戦闘訓練を叩き込んでくれた張本人よ。――世間から姿を消した後、一体どこでどんなスペックの隠居生活を送っているのかと、何度も想い馳せていたのだけれどね!」
(……そりゃそうだ。当然そうなるよな。何で今日のイベントが、そんな簡単に一本の直線で終わってくれるなんて期待しちまったんだ、俺のバカ)
――まあ、それはともかく。
イグニヴァルは、四人の聖騎士どもからすでに引き出し終えていた尋問データ(確定情報)を、俺に向けて淡々と共有してくれた。――ラオディキア神聖教会による本格的な調査の動向、失踪した過去の二個小隊の因縁、そして本国アシュフォードにおいて、この未踏領域の絶対的支配者の正体を完璧に解剖せよという、上層部からの極めて激しい組織的圧力の全貌だ。
「それで――お前はどうするんだ?」
そのすべてのインテリジェンスが確定したのを見届けた後、俺はヴァンスに向けて尋ねた。
「あいつらと一緒に、あの腐った教会( Ashford)へ帰還するつもりか?」
「いいえ」
彼女は一切の迷い(ディレイ)もなく即答した。
「あの教会の役人どもがこの土地に求めている低レベルなアノマリーのデータなんかより、このホライズンクレストの内部には、はるかに学ぶ価値のある極上の未知の術式が眠っているもの。――もしあなたがそのアクセス権(許可)をくれるというなら、私は喜んでここに残るわ」
『解。個体名:オフィーリア・ヴァンスのコミュニティへの組み込みを推奨します』
脳内で、**『脳内脳』**が静かに補足を加えてきた。
『彼女の持つ空間理論の最高峰スペックは、マスターが未だ到達していない当領地の残り九十八パーセントの未踏区域(古代封印エリア)を精密に解剖・パースするにあたり、極めて合理的なアシスト(アドバンテージ)になると判断します』
耳が痛いほどの正論だ。何よりイグニヴァルが彼女の身元(本質)を保証しているという事実が、これ以上ない最強の確定ソースだった。
「分かった。ここに残るといい」
――まあ、それはともかく。
俺たちはその直後、絶対結界のフロンティアにて四人の聖騎士のアクセスロックを解除し、彼らを外の世界へと放流した。――奴らは、自分たちが想像していた最悪の全滅エンド( elimination)を奇跡的に回避できたという、極めて深い警戒混じりの安堵(サバイバル成功のフラグ)を胸に抱きながら、足早に撤退していった。
エースは、その四人の魔素紋の残滓が自らの嗅覚スペックから完全にロストするその瞬間まで、静かに、そして鋭くその背中をスキャンし続けていた。
奴らはついに、この絶対結界を『突破する術(共鳴崩壊)』の実証データ(ソース)を手に入れてしまったわけだ。ヴァンスの敢行したあの術式が成功したという事実は、もはや隠蔽不可能な教会の共有データ(フラグ)と化してしまったのだから。
『警告。対象は確実に再来すると推測されます』
脳内脳のフラットな音声が確定判定をくだす。
『絶対結界への侵入が可能であると実証された以上、ラオディキア神聖教会が次のより大規模な迎撃スペックを整え、再現性を求めて侵攻してこない理由は存在しません』
(……ああ。言われなくたって、そのくらいの計算は俺にだって分かってるさ)
俺は絶対結界の境界線に立ち、長い間、外の世界へと続く虚無を見つめていた。――先ほどまでの冷徹で危険な殺意の空虚は、今や綺麗に研ぎ澄まされ、俺の魂の根幹にある確固たる『静かな覚悟』へと完全に収束(定着)していた。
奴らは必ず戻ってくる。今度はより完璧な対策を練り上げ、こちらの想像を超える本物の軍勢を整えてな。――なら、答えは一つだ。こちら側も、奴らの想定をはるかに凌駕する圧倒的最強のスペックへと進化を遂げておかなければならない。
俺はホライズンクレストの中心地へと身体を反転させた。隣にはヴァンスとイグニヴァルが並び、すでに二人で、誰もこんな形で再会するとは思っていなかったであろう古代の古い思い出話(過去ログ)について、他愛のない他者の介入を許さない独特のコンビネーションで静かに語り合いながら歩調を合わせていた。
今日の出来事は、世界のシステムが俺たちに向けて放った明確な『警告』だ。
なら、俺はその警告を正しく受託し、これからのサバイバルのための完璧な『仕込み(ビルドアップ)』として、そのすべてを肉体と魂に叩き込んでやるまでだ。
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その日の夜、俺はろくに眠れなかった。日中の出来事の断片が何度も脳裏をよぎり、そのどれもがまともに精査したくない性質のシロモノだったからだ。
(……俺はあいつを、本当に切り殺すところだった。エリスが指導している新兵どもと大差ない年齢の、ただのガキだぞ。そんな相手を、ほんの一瞬の安いプライド(挑発)に呑まれて、本気で首を撥ねようとしたんだ。もし、イグニヴァルが止めてくれなかったら――)
もし奴がそこにいて刃を掴んでくれなかったら、一体どんな最悪な結末を迎えていたか、俺には想像もつかない。その『未知の領域(無制御な自分)』こそが、今の俺が本音で最も恐怖しているバグデータだった。
ホライズンクレストの住人たちがとっくに静まり返った後も、俺は一人で外に座り込んでいた。傍らにはエースが丸くなって寄り添っており、どうやら二人とも、今の俺をその暗い思考の檻(悲哀)の中にたった一人で放置しておく気はないらしい。エリスがそっと近づき、隣に腰を下ろすと、いつもの決まりきった正確なモーションで俺の手を握りしめた。
「帰ってきてから、ずっと静か(パッシブ)ね」
彼女は言った。
「……今日、自分自身に恐怖したんだ」
俺は白旗を上げて本音を吐露した。
「アナリティクスが『聖騎士』って単語を出力した瞬間、俺の中の何かが完全に――別の領域(暗黒)へシフトしちまった。冷酷で、空虚で……あいつを切り殺そうと自分の頭のロジックが裁定を下した記憶すら曖昧なんだ。ただ覚えているのは、刃がすでに不可避の軌道で動いていた、その事象だけだ」
――まあ、それはともかく。
「それって……ドランとフェンリックが死んだあの夜に起きたことと、全く同じことでしょう」
エリスは静かに、注意深く言葉を紡いだ。
「そうね? 全く同じ形状の出来事だわ」
ああ、その通りだ。自分からは敢えて声に出したくはなかったが、完璧な正論だ。
「何年も特訓を重ねて、イグニヴァルの下でレッスンを積んで、すべてをコントロールできているつもり(スペック向上)だったんだ」
俺は自嘲気味に呟いた。
「なのに、たった一言――『聖騎士』という単語一つで、俺はまたしても自分を完全に喪失する破滅の境界線(エラーの淵)まで一瞬で引き戻されちまった」
「それは、もしかしたら訓練(特訓)ごときで修正できるような単純なバグじゃないのかもしれないわね」
エリスは言った。
「そうではなくて、それがシステムに顕現するたびに、その都度、自分の意志で何度も何度も『抑え込むこと』を選択し続けなければならない、そういう類の永続的なタスク(規律)なんじゃないかしら。それが現れ続ける限り、永遠にね」
決して心地よい慰めのフレーズ(気休め)ではない。だが、極めて本物の真実に近い指摘だった。
――まあ、それはともかく。
「でもね、結果を見る限り、あなたは実際にはあいつを殺さなかったわ」
エリスが言葉を付け加える。
「イグニヴァルが止めたのは事実だけど、あなたも奴の制動を受け入れた(流された)のよ。奴の手のひらを力ずくで両断してまで、その殺戮のモーションを完遂(エンカウント終了)しようとはしなかったじゃない」
「それが本当に『マシなデータ』と言えるのかどうか、俺には分からないさ」
俺は首を振った。
「ただ単に、俺より圧倒的に強いスペックの化け物が、たまたまその軌道を掴み取れる至近距離に立っていたという、確率論的な幸運(運が良かっただけ)かもしれないだろ」
「両方のロジックが同時に成立していてもいいじゃない」
エリスは断言した。
「奴がそこにいてくれた幸運に感謝しつつ、同時に、もし奴がいなかったとしても、あなたの中の何かが最終的には踏みとどまってシステムエラー(一線を超えるの)を防いでいただろうって、自分を信頼してあげるのよ」
そう信じたい。だが、今の俺のスペックでは、まだその確信を完全に胸に定着させるには至っていなかった。
その時、これまでずっと静かに俺たちの会話のログを傍受していたエースが、脳内のリンクを通じて静かに、しかし力強い念話を響かせてきた。
『一つ、確定情報を提示しておこう。俺の解析によれば、現在のお前は、かつてあの屋敷の地下でおぞましい殲滅劇を演じたあの時の化け物とは完全に異なるスペックだ。――あの時の個体には、一切の躊躇も、自覚も、俺たちが知るお前の本質など微塵も残されていなかった。だが今日の戦闘ログにおいて、お前はイグニヴァルの制動が物理的に間に合うだけの僅かな「間(遅延時間)」を生み出していた。それは夜の闇の中でどれほど微小な差に見えようとも、システム上、極めて決定的な「構造的相違(意味のある違い)」だ』
(……そりゃどうも、エース。今の俺には、その微小な数値の差異をちゃんと言葉にして証明してもらう必要があったみたいだな。助かるよ)
「この一件で動揺する(システムが揺らぐ)のは、当然の権利よ」
エリスが優しいトーンで言った。
「だからって、あなたが凶悪な怪物になりかけている証明にはならないわ。ただ単に、その危険な残虐性というバグが、未だにあなたのシステムの一部として厳然と居座り続けているという、それだけのこと。これからのタスクは、それを完全に消去( elimination)することじゃない。それを受け入れ、制御下に置き(ホールドし)続けることよ」
――まあ、それはともかく。
俺は彼女の言葉の重みを静かに噛み締め、長い時間をかけてその場に佇んでいた。胸の奥底を支配していたあの冷徹で危険な空虚が、今度こそ完全に全身から綺麗にドレイン(排出)されていくのを感じた。代わりに満ちてきたのは、もっと見慣れた――疲弊し、人間臭く、心底 unsettled(動揺)してはいるが、先ほどの虚無の操り人形のようではない、本物の『俺自身』のスペックの帰還だった。
ヴァルレスとスコルンという二頭の真なる竜は、未だに世界のどこかで健在だ。
『教会(聖教会)』は、結界が突破可能であるという実証データ(ソース)を得た以上、必ずより大規模なスペックで再侵攻してくる。
そして何より――俺自身が、たった一つのキーワード(フラグ)で、自分自身が最もなりたくない最悪の化け物へと逆戻りしかねないというバグを内抱している現実。
(……本気で強くなるしかないな。単なる肉体的な戦闘スペックの話じゃない。俺の中に眠るあの『もう一つの最悪の領域』――ただ暴発しないことを祈って放置するんじゃなく、その術式を完璧に理解し、この手で完全に支配してやらなきゃならないんだ)
「……明日、イグニヴァルにお願いするよ」
俺はついに、確固たる意志を込めて言った。
「特訓のレベルをさらに引き上げてもらう(本気のフルスペックにしてもらう)。単なる剣術のラリーじゃない。――もし最悪のタイミングで、最悪の二文字を目の前に突きつけられたとしても、俺が俺自身のシステム(精神)を完璧に維持・統治し続けるための、そのための本物の地獄の特訓だ」
「私ができることなら、何でも手伝うわ」
エリスは微笑んだ。
「エースも、それにここにいる同胞の全員が、あなたがそのアクセス権(許可)を与えさえすれば、喜んであなたの後ろ盾になってくれるはずよ」
ああ。
他人に助けを求めること、そのスペックを借りることは、決して弱さ(バグ)なんかじゃない。それこそが、俺たちが必死に築き上げてきたこの『小林ファミリー』という形の、日常における本当の機能(ありのままの姿)なのだと、俺は長い時間をかけてようやく本質的に理解しつつあった。
俺たちはそれからしばらくの間、静かに、そして今度こそ完璧に安定した沈寂の中に身を浸し――やがて、その日の夜にそれぞれが獲得できる最大限の休息( sleep)を取りに、帰るべき本当の我が家へと足を向けるのだった。
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俺がようやくその決意を声に出して伝える気になった時、真っ先に話した相手はイグニヴァルだった。何しろ、俺が口を開いたその瞬間、奴は訓練場でまさに俺の正面に立っていたからだ。
「俺の領地の奥底に、空間属性の封印結界が埋まっているんだ」
俺は言った。
「俺自身の絶対結界よりもはるかに古い。アナリティクスすら警告なしには近づこうとしない『何か』がそこに幽閉されている。――俺はこれから、その正体を確かめに行くつもりだ」
イグニヴァルの無表情はピタリとも動かなかった。それがかえって、この瞬間にある種の致命的な重量を付け加えているように感じられた。
「それは、極めて勇敢か、あるいは極めて愚かかのどちらかだな」
奴は淡々と言い放つ。
「……おそらくは、その両方だろうがね」
「多分、両方さ」
俺は同意した。
「ならば、その試みに挑む前に、今のお前ははるかに強くなって(スペックアップして)おく必要があるな」
奴はすでに、いつもの完璧な臨戦態勢へと身体をシフトさせていた。
「特訓の強度を引き上げるぞ。今、この瞬間からだ」
(……チッ、そりゃそうだよな。最初から分かっていたことさ)
――まあ、それはともかく。
それからの数週間、俺は文字通り絶え間ない事前準備の日々に没頭した。――全身の筋肉と関節が、今や心地よさすら覚えるほど見慣れた青あざの激痛を悲鳴としてあげるまでイグニヴァルとしのぎを削り、同時に、アエロンに向けて「エルフの共有記憶」の中にこの特定の年代の空間封印に関する古いログが残されていないかを執拗に相談し続けたのだ。
「オフィーリアの試算が正しければ、約八十年前の術式ですね」
アエロンはそのタイムラインを脳内で慎重に精査しながら言った。
「それならば、ある程度は対象を絞り込めます。寿命の短い種族にとってはとうに忘却された古い歴史ですが、我々エルフの古文書を正しく走査すれば、まだどこかにデータが残されている可能性があります」
八十年前。
この世界のシステムが測る途方もない時間スケール(数千年の真なる竜の寿命)からすれば、他愛のない直近のデータ(フラグ)に過ぎないわけだ。
彼は同胞たちが元の森から持ち出してきた古い記録のアーカイブを数日間にわたってスキャンし続け――そしてついに、情報が全く存在しない(ゼロデータ)よりもはるかに俺の精神を揺るがす不気味な記述を引っ提げて戻ってきたのだった。
「一箇所だけ、該当するレファレンス(記述)を発見しました」
アエロンは慎重に言葉を選んだ。
「……極めて断片的( damaged)なデータですがね。およそその年代に起いた、一頭の竜と――古文書のこの部分は醜く破損していますが――『現在の世界の秩序が構築される以前の、何か古代の存在』との間で巻き起こった、壮絶な衝突に関する記録です。それ以上の詳細なスペックは、一切残されていません」
現在の秩序より前の、古代の存在。
……気休めのフレーズ(慰め)としては、1ミリも機能しない最悪のプロファイルだな。
――まあ、それはともかく。
俺がいよいよその未踏区域への侵入を決意した前夜、エリスがホライズンクレストの境界線で一人佇んでいた俺の元へとやってきた。俺はこの最後の夜に、大局のチェス盤をもう一度だけ脳内で反芻していたのだ。
「……緊張しているわね」
彼女は隣に腰を下ろし、一切の迷いなく(ノーエラーで)正確に俺の手を握りしめた。
「本音を言えば、心底ビビり散らかしてるさ」
俺は苦笑交じりに認めた。
「あそこにある『何か』は、丸八十年間も完全ロックされてきたんだぞ。本当に、マジで最悪な危険物でもない限り、わざわざ空間属性の檻を使ってまで隔離しておく理由がないからな」
「一人で行く必要はないわ」
エリスが真っ直ぐに俺を見つめる。
「いや、こればかりは一人で行かなきゃならないんだ」
俺は優しく言葉を返した。
「あそこに眠る因縁が何であれ――それは俺の領地にダイレクトに紐づいている術式だ。他の誰かをその危険地帯に巻き込む前に、まずはこの俺自身のスペックで、その正体を正面から解剖しなきゃならないと感じてるんだよ」
彼女はそれ以上異論(反発)を唱えなかったが、俺の手を握るその手つきの強さ(タイトネス)だけで、彼女がどれほどその選択に難色を示しているかが痛いほど伝わってきた。
「……生きて帰ってきてね」
彼女はシンプルに言った。
「当然さ」
俺は不敵に笑ってみせた。
「あの奥底に何が潜んでいようが関係ない。俺はこれまで、これよりはるかに最悪な地獄(教会の騎士団)を生き延びてきたんだからな。……まあ、おそらくは」
(……自分で言っておきながら『おそらく』はねえだろ。随分と頼りない自信の演出(スペック提示)だな、おい)
――まあ、それはともかく。
その最後の夜、俺は自分の過剰にアクティブな想像力(脳内シミュレーション)が弾き出す最悪のシナリオ(バグパターン)の数々に脳内を占拠され、ろくに眠れなかった。
(もし……あの中に潜んでいるのが、とんでもない古代の超弩級モンスターだったらどうする? 下手をすればヴァルレスとスコルンが二頭束になっても勝てないレベルの化け物で、俺は今まさに、自分の二度の人生の中で『最も最悪な致命的ミステイク』の境界線へ自ら飛び込もうとしているんじゃないか?)
(……いや、あるいは何一つ入っていない空っぽの檻かもしれないだろ? 俺が勝手に脳内で超大作のボスバトル(エンカウント)を妄想していただけで、蓋を開けてみたら、ただのめちゃくちゃ凶暴なだけの庭の置物の亜種だったらどうする?)
……その最後のマヌケな仮説が、脳内で約4秒間ほど妙に現実的なロジックとして成立しかけたが、直後にアナリティクスがかつて見せたあの本気の警告の深刻さを思い出し、即座に de-auth(却下)した。庭の置物なわけがない。間違いなく、相応の恐怖(アラートレベルMAX)をもって身構えるべき本物の禁忌だ。
『告。マスターの精神状態に深刻な思考の空回り(ループバグ)を感知。――直ちに睡眠プロセスへと移行することを推奨します』
脳内で、脳内脳のフラットなシステム音声が響く。奴なりの最大限の辛抱強さ(ペイシェンス)を交えた忠告のようだった。
(お前は気楽でいいよな。システム音声のお前には、そもそも睡眠ゲージ(耐久値)なんて概念がないんだからさ)
『肯定します。しかしながら、有機生命体であるマスターの個体スペック維持において、現在は睡眠が最優先タスク( critical)であると判断します』
(……分かったよ。分かったから、努力してみるさ)
結局、まともな睡眠(深い眠り)は取れなかった。自分の家の庭に丸八年間も隠蔽されていた『未知の最悪』とついに正面衝突するその前夜に、完璧にリラックスして熟睡できる奴なんて、この世界のシステムの中に一人もいるわけがないのだから。
――そして、翌朝。
俺は夜明けと共に、かつて二度訪れ、その都度本能的な恐怖から全速力で撤退を余儀なくされたあの絶対未踏区域の空き地に向けて、たった一人で足を踏み出した。俺の傍らにあるのは、転生したあの日以来、一瞬たりとも俺の魂から離れることのなかった『唯一の相棒の音声』だけだ。
三度目の正直ってやつになってくれるといいんだがね。あるいは――三度目の侵入にして、自分が一体どれほど致命的で絶望的な泥沼(大トラブル)に足を突っ込んでいたのかを、ついに骨の髄まで思い知らされる羽目になるかだ。
(……まあ、どちらにせよだ。とっとと行って、その面の皮を剥ぎ取って(解剖して)やろうじゃないか!)
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実際にアクションを起こす前の丸々五分間、俺がただ結界の境界線で突っ立っていたという事実を、ここに歴史の確定データとして正しく記録しておきたい。何故なら「勇敢さ」という概念の本当の正体とは、脳内で絶叫をかましながら、外目的にはただひたすら直立不動を維持している状態のことに他ならないからだ。
(よし……落ち着け。お前は教会の聖騎士どもと渡り合ってきた。自分より圧倒的に格上の竜族の化け物の地獄の特訓を生き延びてきたんだ。できるさ。お前なら絶対にやってのける)
(……って言いながら、まだ1ミリも動いてねえじゃねえか。とっとと術式を起動しろ、俺!)
俺は意図的に思考の暴走を遮断し、数ヶ月前に一度試みたのと同じアプローチで、慎重に手を伸ばして古代結界の構造を辿っていった。――そして今回は、即座に全速力で撤退するのではなく、自らの反魔素をその境界線へと真っ向から押し当て、その絶対的な『拒絶の重量』を人生で初めて真正面からスキャンしたのだ。
――まあ、それはともかく。
それは極めて高密度で、微塵の妥協もない圧倒的な拒絶として俺の侵入を阻んだ。だが、その強固な術式の底流をスキャンした瞬間、俺の全身に走った悪寒が、俺の挙動を完全にフリーズさせた。
単に古い術式というだけじゃない。俺が張った絶対結界なんかよりも、はるかに緻密に、はるかに計算され尽くした『明確な意志』がそこには宿っていたのだ。これを構築した過去のマスターは、自分がこの檻の奥底に一体何を幽閉しているのかを完璧に解剖しており、そのスペックに完全に適合する形でこの次元牢をビルドしていた。
『告。現在の走査データに基づく解析を出力します』
脳内で、**『脳内脳』**の慎重で測定されたシステム音声が響く。
『現段階での力ずくによる侵入は、マスターの生存において極めて深刻なリスクを伴うと推測されます。当結界の構造強度から逆算するに、内部に隔離されている存在のスペックは想定外に巨大です。――十分な準備を欠いた不完全な術式解体(エラー破綻)を引き起こした場合、制御された正規のエンカウントよりもはるかに破滅的な事態(即死バグ)を招く確率が極めて高いと判断します』
つまり、今の俺のスペックじゃ、まだお話にならない(アクセス権が足りない)ってわけか。イグニヴァルにあれほど泥まみれにされて鍛え直したというのに、それでもなお。
「……どれほど強くなれば(スペックアップすれば)」
俺は声を押し殺して、脳内で問いかけた。
「これを安全に、正しく解剖できるようになる?」
『解。現在のレベルをはるかに凌駕する圧倒的な進化が必要です』
脳内脳は淡々と告げる。
『正確な数値(確定データ)の算出は不可能です。私(当システム)が唯一断言できるのは、現在のマスターを動かしているのが「本物の準備(仕込み)」ではなく、単なる焦り( impatience)であるならば、ここで侵入を敢行することは――かつてお前が十分な強さを得る前に、ヴァルレスとスコルンの待つ地獄へ無謀に突っ込もうとしたあの時と、全く同じ致命的ミステイク(バグ)を繰り返すことになる、ということです』
――まあ、それはともかく。
俺はその場に長い間立ち尽くし、冷たくうなる古代の結界の表面に右手を預けたまま、その選択を脳内で静かに、かつ冷徹に反芻していた。一時の勢い(モーメンタム)に流されて、二度と引き返せない破滅のデッドライン(不可逆なエラー)を跨いでしまう前に。
俺はかつて、これと全く同じ形の失敗をやらかしたことがある。十分な実力もないまま、ただ感情の暴走に任せて守るべきもののために突っ込んだ結果――あの夜、ドランとフェンリックというかけがえのない最初の家族が、俺のその『焦り』の代償を命という最悪のコストで支払う羽目になったのだ。
ようやく恐怖に打ち勝つ覚悟を掴み取れたからといって、その過去の失敗の焼き増し(別バージョンの過ち)を、自らの独断で再びこの世界に顕現させるわけにはいかない。
「……あの中にいる奴はさ」
俺は誰に聞かせるでもなく、声に出して静かに独りごちた。
「丸八十年間もここで大人しく待っていたんだ。だったら、もうしばらくそこで待っていても大差ないだろ。――俺がただの『無謀なガキ(愚か者)』じゃなく、本物の『絶対強者』としてここに帰ってくるその日までな」
『解。マスターの合理的裁定を確認。――極めて賢明な結論であると肯定します』
脳内で響いた脳内脳のフラットな音声の底に、どこか誇らしげな承認のニュアンスが混ざり合っていた。
――まあ、それはともかく。
俺が静かに右手を引き抜くと、古代結界の術式は再びいつもの見慣れた、辛抱強い静寂のルーティンへとカチリと収束していった。そこに眠る本当の禁忌は、今の俺には到底生存不可能な最悪のボスバトルへと変貌することなく、ただの『未解決の謎』のまま、元の暗黒へと綺麗にハイドされたのだ。
いつかだ。今日じゃない。下手をすれば、今年一年を丸々特訓に費やしてもまだ足りないかもしれない。だがいつか必ず、現在のちっぽけな俺という存在と、あの結界が全力を挙げて幽閉している『最悪の化け物』との間にあるあの絶望的な実力差を、完璧に殺し尽くして(埋めて)みせる。
ホライズンクレストの中心地へと引き返す俺の足取りは、今朝ここへ向かった時よりもはるかにゆっくりとした、落ち着いたものだった。早朝の張り詰めていた狂乱は、今や綺麗に研ぎ澄まされ、もっと静かで、もっと本質的な『大人の忍耐』へと昇華していた。――それは、目の前の強敵をぶちのめして勝利した時のような安易な快感ではない。むしろ、圧倒的な禁忌を前にして、己の意志で「待つこと(自制)」を選択できた者だけが勝ち取れる、極めて重みのある本物の前進だった。
この選択なら、きっとあの厳格なイグニヴァルも、満足そうに鼻で笑って合格点をくれるに違いない。
「支配による蹂躙よりも、自制こそがはるかに多くの真実を教えてくれる」――奴がいつも俺の身体に叩き込んでくるあの教訓の全貌が、今なら本質的に理解できるからな。
『肯定します。個体名:イグニヴァルが現在のマスターの精神波形をスキャンした場合、その適合率は極めて高数値を叩き出すと推測されます』
脳内脳が脳内で確定判定をくだす。街の見慣れた温かいランタンの灯り(ホーム)が見えてくる頃、俺には脳内脳自身もまた、この結界を引き返した俺の裁定を心底喜んでくれているような、そんな心地よい錯覚( companionable)すら感じられていた。
上等だよ。――ひとつの巨大なアノマリー(謎)が、もうしばらくの間ただの謎のままそこに居座るだけだ。
そんな To-Do リストの保留フラグくらい、最強のスペックへと進化を遂げるための極上のスパイスとして、いくらでも面白がって付き合ってやろうじゃないか!




