第23話 — 小林家
エルフたちの到来は、俺が心の準備を整えるよりもはるかに早かった。それから丸一ヶ月の間、建設作業はフル稼働で進められた。――三十軒だった家は五十軒になり、ライラの離散した同胞たちが次々と到着するにつれて、最終的には八十軒近くにまで膨れ上がった。この領地は、急速にただの『俺の縄張り』であることをやめ、誰の目から見ても明らかな、本物の『街』としての全貌を現し始めていた。
ライラはそのすべてを、かつて俺が**『秘術創造』**を使って手探りで拙く家を建てていた頃が恥ずかしくなるほどの、恐るべき効率性で統率していた。――エルフの創造魔法は精密性と共同作業を重視しており、かつて俺の孤独な悲哀しか存在しなかった大地から、数十人の手が次々と建物を生み出していく。
さらに、彼女の提案によって何人かのエルフたちが山の湧き水から本格的な水道(配管システム)を引き込み――そして、俺の少し恥ずかしがっての強い要望により、いくつかの大きめの共同施設には本物の『大浴場(露天風呂)』が併設されることになった。
「随分と変わった優先事項ですね」
最初のお風呂が形になっていくのを見つめながら、ライラが呆れたように言った。
「お前には分からないさ。焚き火で温めてもすぐに冷めちまう水での生活が、どれほど恋しかったか」
俺はしみじみと言った。
「異世界(別の世界)を跨いでも、変わらない価値観ってのがあるんだよ」
――まあ、それはともかく。
そんな日々の中で、エリスの成長ぶりは文字通り目を見張る(アノマリーな)ものがあった。――彼女は闘気制御だけでなく、純粋な戦闘スペックそのものを研ぎ澄ませていき、俺との実戦訓練はもはや一方的なレッスンではなくなった。それどころか、何度も本気の引き分け(ドロー)に持ち込まれるほどになっていたのだ。今の彼女は、あの屋敷の地下室で俺の刀が生まれたのと同じ方法で、**『脳内脳』**によって鍛造された自前の刃を手に戦っていた。
「……なぁ、それ一体どういう仕組み(システム)でやってるんだ?」
一度、俺は自分の意志とは無関係に精密に動く己の両手を見つめながら尋ねたことがあった。
『解。私はマスターの肉体の主導権を部分的に借用し、鍛造プロセスを完了させています。マスターには独立した専門的技術知識が欠如していますが、私(当システム)にはそれが存在するためです』
なるほど、相変わらず合理的な解説だ。
そうして完成したエリスの刀は、まさに彼女のスペックに完璧に適合していた。――俺の刀よりも軽量で、彼女が数ヶ月の猛訓練で培った、あの迅速かつ完璧に制御された戦闘スタイル(ビルド)のために打たれた逸品だった。
「綺麗……」
火の光に刃を翳し、裏表を返しながらエリスがうっとりと呟いた。
「お前が勝ち取ったんだよ」
俺は言った。
「その刃の背後にある技術は、何一つとして偽物じゃない」
――まあ、それはともかく。
そんな新生活が落ち着き始めたある日の夜、ライラが明らかに何かを決意した様子で、一人でいる俺のところにやってきた。
「カイ」
彼女はいつになく直球に切り出してきた。
「あなたに一つ、お願いがあります。私に『名前』を授けてほしいのです」
(……うわ。うわぁ、マジかよ!)
「お前にはすでに、ライラっていう綺麗な名前があるじゃないか」
俺は必死に時間を稼ごうと言葉を濁した。
「一体どうしたんだ、急に」
「私は、本当の意味でこの家族の一員になりたいのです。ただ傍らを旅する同伴者ではなく、正式に」
「分かった」
俺は腹を括った。
「お前がそこまで言うなら、俺に異論はないよ。何か希望の名前はあるか? それとも俺が選んでいいのか?」
彼女の白い頬が、微かに朱に染まる。
「……あなたに選んでいただきたいです」
俺は彼女を見つめた。――鋭く、精密で、仲間を激しく守ろうとする意志があり、そして数百年の歳月を生き抜いてきたような圧倒的な『忍耐』を宿した女性。
「エレイン」
俺は言った。
「今日から、お前の名前はエレインだ」
その言葉が俺の口から飛び出した瞬間、周囲の空気が一変した。――爆発的な波動が立ち昇る。最初は微かだったそれは、青から深みのある紫へと変色し、やがて全く新しい未知のエネルギーへと収束(定着)していった。
『告。個体名:ライラの魂の系譜に、名言「エレイン」の定着を確認』
脳内で、**『脳内脳』**の機械音声が響く。そのフラットな音声の底には、明らかに本物の驚愕が混ざり合っていた。
『個体名:エレインは、上位種である『高等エルフ(ハイ・エルフ)』へと進化しました』
(……は? マジで? また進化しちゃったの?)
『通常、エルフの種族限界(天井)は最高峰でも「紫レベル」の反魔素に留まります』
脳内脳は淡々と、しかし恐ろしい解説を付け加える。
『歴史上、その上の「赤レベル」に達したのは竜族のみ。さらにその中で完全なる熟練に至ったのはわずか三体。その三体のうち、純粋魔素へと昇華し『創造神』へと至ったのは僅か一体のみです。エレインは単にエルフの限界を超えただけでなく、その内部で全く新しい概念――マスターのオーラと同質、かつ小規模な「混合魔素」の特性を獲得したと推測されます』
新しく生まれ変わったエレインは、その場に厳かに、かつ恭しく跪いた。
「我が不滅の忠誠をあなたに、カイ様」
「おい! やめろ! 俺の名前に『ロード』をつけるんじゃない!」
「承知いたしました、カイ様」
(……嘘だろおい)
――そして、翌朝。
俺は家の外に一歩足を踏み出した瞬間、文字通り心臓麻痺を起こしかけた。
数百万平方メートルはあろうかという新設された街の通りに、数百人規模のエルフの全人口が整然と整列し、静まり返った沈黙の中で全員が俺の家の扉をじっと見つめていたのだ。そのあまりの圧迫感は、どんな怒号や魔物の咆哮よりも恐ろしかった。
(……よし。一旦、家の中に戻ろう)
「家の中に逃げ戻ったところで、何の解決にもなりませんよ」
脳内で、**『脳内脳』**が相変わらず乾いたトーンで告げてきた。
(……チッ、分かったよ)
俺は再び外へと足を踏み出した。すると、エルフの長老であるアエロンが厳かに一歩前へと進み出た。
「カイ様。昨夜、何が起きたのかを聞きました」
……アエロンが? いや待て、エレイン、お前まさか全員に言い触らしやがったな?
「皆、あなたから新しい『名前』を授かりたいと切望しているのです」
当の本心は全く悪びれる様子もなく、俺の隣にすっと現れて淡々と解説した。
「本当の意味で、この場所の『一部』になりたいのだと」
俺は整列した大群衆を見渡し、そのあまりにも理不尽で巨大な責任に目眩を覚えそうになった。
(……おいアナリティクス、これだけの人数に一気に名付けなんてして、俺の身体は大丈夫なのか?)
『解。対象の数量に関わらず、マスターの肉体および精神に有害な事象(逆流バグ)が発生する確率はゼロです』
俺が問い終わるよりも早く、脳内脳が太鼓判(確定判定)を押した。
よし。なら腹を括るしかないな。まともにやってやろうじゃないか。
俺はまず、長老のアエロンに最初の名を授けた。姓は**『小林』**だ。続いて彼の妻であるセリス。そして彼らの子供たち――長男であり、真面目で実直なカエル。好奇心旺盛で思慮深い次男のエリアン。エネルギーの塊で、ちょっとしたトラブルを起こしがちな三男のローワン。そして最後に、まだ幼く、ひたむきな長女のアリア――。その名前を口にした瞬間、俺自身の極めて個人的な理由から、一瞬だけ言葉が喉に引っかかった。
「これより、『小林』の姓を持つ者は俺の血肉(一部)だ」
俺は集まった群衆に向けて、声を張り上げた。
「これからは、俺に属するすべてのものがお前たちのものだ。お前たちの後ろ盾には、この俺がいる」
とはいえ、全員にその姓を授けたわけではない。――その区別に関してはあえて慎重に、この理想郷の事実上の『創設メンバー』に近い者たちだけに限定した。残りの移住してきたエルフたちは、姓こそ持たないものの、この地に住まうコミュニティの正当な一員として、俺たちの絶対的な庇護下に置かれることになる。
それから数日後、アエロンが俺に尋ねてきた。俺の孤独な悲哀が生み出した木と石の塊から、これほど立派な『街』へと進化を遂げたこの領域を、一体何と呼ぶべきか、と。
『提案。当領地の名称として「ホライズンクレスト(Horizoncrest)」を推奨します』
(……なるほど、悪くないな)
「**『ホライズンクレスト(孤高の水平線)』**だ」
俺がその名を告げると、アエロンは満足そうに深く頷いた。
――まあ、それはともかく。
そんな開拓の日々の中、ロシャンから一つの報せが届いた。――あの夜、夫の合法的な表のビジネスを丸ごと引き継がせた、あの未亡人からギルド経由で転送されてきたメッセージだ。
しばらくその動向について考えていなかったな。
『カイ様――お約束通り、可能な限りの情報を収集いたしました。ここロシャンに、コーラという保存食や希少なスパイスを専門に扱う信用できる女性商人がおります。私が彼女の身元を保証し、彼女は我が商会の輸送便を通じて、「ホライズンクレスト」へ直接物資を供給することに同意してくれました。物資の最終的な行き先については、一切詮索しないという条件です。
それから別件ですが、例の特異点を狩り集めている組織について。彼らは単に世間で「教会」と呼ばれているような単純な存在ではありません。その真の名は――**『ラオディキア神聖教会』**。アシュフォード王国を本拠地とする巨大組織です。
表向き、彼らは「民の正義、民による統治」という populist(大衆迎合的)なスローガンを掲げており、その旗の下で何が行われているかを知らない愚民どもからは絶大な支持を集めています。しかし裏では、極めて凄惨で暗黒に満ちた実験や捕獲を行っているようです。今後も引き続き、動向を探ります。――コーラと私より、親愛なる敬意を込めて』
ラオディキア神聖教会。
ついに前世の老獪な政治家どもが泣いて喜びそうな、欺瞞に満ちたプロパティ(本名)が割れたわけか。
俺はその日の夜、その手紙をエリスとエレインの前に広げた。
「民の正義、ですか」
エレインがその言葉を口にし、そのトーンに明らかな嫌悪を滲ませた。
「特異点狩り(アノマリーハント)の醜悪な本質を隠すには、これ以上ないほど都合の良い看板ですね」
「いつだってそうさ」
俺は言った。
「人間が行う最も最悪な所業ってやつは、滅多に正直な顔をして近づいては来ないものだからな」
これもまた、記憶のブラックボックスにファイリングしておくとしよう。『ラオディキア』。これでようやく敵の顔と、その哲学、そしてこちらで分析し解体すべきプロパガンダの正体が明確になった。
――まあ、それはともかく。
その日の深夜、ホライズンクレストの境界線を一人で見回っていた時のことだ。俺は同じように夜警をしていたアエロンを見つけ、さり気なく彼の隣へと歩調を合わせた。
「あんたは長い寿命を生きてきたんだろ」
俺は慎重に言葉を選びながら、ずっと胸に引っかかっていた問いをぶつけた。
「これまで俺が出会った誰よりも長く、この世界の歴史を見てきたはずだ。だから、教えてほしい。……俺の本当の両親を殺した、あの二体の**『竜種(真なるドラゴン)』**について、何か知っていることはないか?」
アエロンは長い間沈黙した。彼の中に眠る、古く、そして熟考された膨大な記憶のアーカイブを精査しているかのように。
「エルフという種族はね、世界の他の者たちがとっくに忘却した古い事象を記憶し続けるために長い時を生きるのですよ」
アエロンは静かに、しかし確固たる響きを伴って言った。
「私はいくつかの真実を知っています。全てではありませんが……おそらく、今この世界に生きる誰よりも多くを、あなたに提示できるでしょう」
ついに、来たか。
何年もの歳月を経て、あの二体の竜種へと繋がる本物の手がかり(ルート)が、ついに目の前に現れたのだ。
「話してくれ」
俺は言った。
「あんたが知っていることのすべてを。頼む」
アエロンは俺たち二人が共に築き上げた、静かに明かりの灯る街並みを優しく見つめ――そして、その重い口を開いた。
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その日の夜、アエロンは俺をホライズンクレストの街並みを見下ろす静かな高台へと連れ出した。眼下に広がる街の灯りは、まるで地上に留まることを決めた無数の星屑のように優しく瞬いていた。
「私が知っていることのすべては」
アエロンは古びた岩の上に腰を下ろし、滅多に口にされることのない禁忌を語るかのような、特有の辛抱強さ(ペイシェンス)を纏って口を開いた。
「私の生誕よりもさらに遥か昔の出来事です。――他の種族の歴史書などよりも、はるかに長く、そして精密に事象を記憶し続けるエルフの『共有記憶(系譜)』を通じて受け継がれてきたものなのです」
(……ついに来た。何年もの歳月を経て、ようやくか)
「あなたを襲撃した二体の『真なるドラゴン』」
アエロンは言葉を続ける。
「今なお残る古い記録において、彼らは**『ヴァルレス(Vahlreth)』**、そして**『スコルン(Skorne)』**の名で記されています。古文書の記述が正しければ彼らは『姉弟』ですが……十数年ではなく数千年単位で生を数える竜族にとって、その単語の意味合いは人間のそれとは大きく異なりますがね」
ヴァルレス。スコルン。
ただの『二体の竜』という抽象的な概念ではなく、ついに奴らの本名が割れたのだ。
「ヴァルレスが『姉(年長者)』です」
アエロンは言った。
「冷徹で、極めて組織的。数秒先ではなく数世紀先を見据えて盤面を動かすような、恐るべき知性の持ち主です。もしあなたの両親が、惨劇が始まる前に言葉を交わした相手がいたとするならば、それは高確率で彼女でしょう。――対するスコルンは『弟(年少者)』であり、極めて凶暴かつ情緒不安定。熟考するよりも先に暴力を選び、結果を顧みない性質を持っています。……あなたの母親をあの空き地で屠ったのは、間違いなく彼でしょうね。あなたが語ったその手口――迅速で、一切の躊躇のない致命的な一撃――は、古文書に記された彼の戦闘スペック(特徴)と完全に一致します」
スコルン。俺の母親の身体を真っ二つに引き裂いた、あの憎き張本人。
ついに、その顔に貼り付けるための名前を手に入れたわけだ。
俺の胸の奥底に、ひどく冷徹で絶対的な何かがカチリと収まった。かつての漠然とした悲哀が、今まさに本物の『刃』としての輪郭を帯びて研ぎ澄まされていく。
――まあ、それはともかく。
「なぜだ?」
俺は静かに、押し殺した声で尋ねた。
「なぜ奴らは、ただ存在しているだけの俺をそこまで執拗に狙ったんだ? 自分が一体何に対して脅威を与えていたのか、今でも完全には理解できない」
アエロンは慎重に解析を下すように言葉を選んだ。
「神の領域へと昇華することなく『真なるドラゴン』のステータスに留まり続けた竜どもは、数世紀の時を経るうちに、ある特有の『偏執( rigidity)』に囚われがちなのです。彼らにとって、自らの神格化への道を規定するシステム(生物学的ルール)は、単なる生態系の法則ではなく、侵すべからざる『神聖な法(絶対秩序)』そのものと化します。あなたのような『交雑種』は、ただ存在しているという事実そのものが、彼らにとって単なる血統の汚濁に留まらない。――彼らが数千年もの間、絶対に破壊不可能だと信じ込んできた『世界の根幹』に、致命的な亀裂を入れる存在だからですよ」
特異点の真実。
かつて**『脳内脳』**が提示した仮説と同じ構図だ。それが、当時の時代背景をその身で知る長老の口から、独立した確定情報として完全に裏付けられたわけだ。
「特に、姉であるヴァルレスに関しては」
アエロンはさらに声を潜めて付け加えた。
「――あくまで古い噂(伝承)であり、現在生きているエルフで直接これを確認した者はおりませんが――かつて純粋魔素へと昇華し『創造神』へと至ったあの個体に、三体の True Dragon の中で最も近しい存在であったと言われています。もしその噂が真実であるならば、彼女が旧秩序の維持に固執する理由は、単なる哲学的な大義名分に留まらない。……極めて『私的な怨恨』に基づくものである可能性があります」
私怨。
『古いルールを厳格に執行する古代の管理者』という枠組みよりも、はるかに泥臭く、そしてはるかに危険な質の動機だ。
――まあ、それはともかく。
「……奴らは、どこにいる?」
俺は尋ねた。
「もし俺が、いつか奴らと対峙しても確実に生き残れるほど( survivable)強くなったとしたら……一体どこを探せばいい?」
「あの次元の竜ともなれば、人間が作る通常の地図に載るような場所には滅多に留まりません」
アエロンは言った。
「ただ、古いおとぎ話――誇張や欠落が含まれている可能性は極めて高いですが――遥か北方にある**『灰降る峰々(アッシュフォール・ピークス)』**と呼ばれる未踏領域についての記述があります。真なるドラゴンたちが、世界への積極的な干渉を止め、長い眠り(休眠期)につくための聖域であると。それが実在するかは保証できません。しかし、エルフの『共有記憶』がこの件に関して提示できる唯一の座標であることは確かです」
灰降る峰々(アッシュフォール・ピークス)。
記憶のブラックボックスへファイリング完了。まだ向かうべき目的地じゃない。だが、いつか俺のスペックが完全に仕上がったその時、進むべき『方角』としては十分だ。
「ありがとう」
俺は心からの感謝を告げた。
「すべての情報に感謝するよ。俺は本当に長い間、この理不尽な『未知』を一人で背負い込んできたからな」
「もう、あなた一人で背負う必要はありませんよ」
アエロンはシンプルに、しかし確信を込めて言った。
「この『小林』という形が何であるにせよ……そこには、あなたの未解決の因縁を全員で背負うという規律も、当然含まれているのですから」
――まあ、それはともかく。
アエロンが去った後も、俺は長い間その場に残り続け、ホライズンクレストの光を見下ろしていた。
脳内で、手渡されたばかりの二つの名前を、まるで何年もその形だけを妄想し続けてようやく手に入れた本物の『石塊』のように、何度も、何度も弄びながら。
ヴァルレス。スコルン。
お前たちにも、ついに名前がついた。俺と同じようにな。俺が失ってきたすべての者たちに、二度と忘れることのないよう俺の魂に刻み込まれた名前があるのと同じようにな。
まだ足りない。今の俺のスペックじゃ、奴らには到底届かないことは百も承知だ。
だけど、奴らの名前を捕捉した。ここからが本当の始まりだ。これ以外のすべての事象と同じように、あの空き地の惨劇以来、俺が必死に積み上げてきたアプローチと同じ方法で構築してやる。――ゆっくりと、慎重に、一つずつ確実な真実を肉付けしながらな。
『告。マスターがこれほど沈黙を保ち続けるのは、極めて不自然であると判断します』
脳内で、脳内脳のフラットな音声が響く。
(……ただ考えていただけさ。名前についてな。ただの「不在(虚無)」を見つめ続けるよりも、こうして手に取れる確固たる「標的」がある方が、悲しみってやつはいくらか軽くなるものなんだな、と思ってさ)
『合理的な観察結果であると判断します』
脳内脳はそう言い残し、その夜の残りの時間を、珍しく単なる機械的手続き(プロセス)ではない、どこか親しみ(カンパニオナブル)すら感じさせる静寂の中に俺をそっと置いてくれた。
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これより記述する出来事は、俺自身がその目で目撃したものではない。
これは後日、あの『教会』の分厚い壁の奥底で奴らが一体どのように機能していたのか、その後に俺たちがかろうじて掴み取った僅かな情報からパズルのように繋ぎ合わせた断片だ。俺があえてこの一件をここに書き記すのは、まだ俺たちが何一つ知らずに平穏を貪っていたその裏で、すでにどれほど巨大な破滅の歯車が動き出していたのかを、読者に対して正しく提示しておくべきだと判断したからだ。
――まあ、それはともかく。
その執務室は、この組織が対外的にアピールしている「民への謙虚な奉仕」という清廉なパブリックイメージ通り、極めて質素な造りだった。――ただの石壁。金細工もなければ、虚飾の欠片もない。それこそが、このラオディキア神聖教会が、この部屋の計算し尽くされた慎重な『質素さ』の奥を見通すことのない愚民どもに向けて、長年培ってきた欺瞞のイメージ戦略そのものだった。
最高司祭セルウィンは長い机の最上席に腰を下ろし、その左右には六人の高位聖職者(幹部)が並んでいた。彼女の目の前には、一冊の古びた台帳が開かれており、そこには二度と教会の召集に応じることのない『物言わぬ者たち』の名前が連なっていた。
「丸二個小隊」
彼女の声は静かで、しかし針のように精密だった。
「同じ地域において、数年の期間を置いていずれも消息を絶っています。一個小隊目は、存在が確定していた特異点の回収任務。二個小隊目は、それとは全く無関係の事象――魔獣狩りの最中に起きた、純粋な巡回任務中の失踪です」
「……ただの偶然でしょうか?」
幹部の一人が問いかけたが、その声のトーンは彼自身がすでに別の最悪な可能性を疑っていることを示していた。
「私は、これほど綺麗な形をした偶然という概念を信用しません」
セルウィンは冷徹に言い放った。
「数年の時を隔て、同じ一般的な領域で二つの小隊が消滅した。生存者はゼロ、何によって全滅させられたのかの有意義な報告も皆無。これを偶然とは呼ばないわ。これは明確な『規則性』よ。そしてこの種の規則性は、これ以上の受動的な損失を出す前に、徹底的に精査されるべき対象だわ」
(……なるほどな。あの女、巷の噂で言われている以上に、随分と切れ者じゃないか。いつか直接対峙する(フラグが立つ)時のために、覚えておいて損はない情報だ)
――まあ、それはともかく。
「問題の地域ですが」
別の聖職者が、長い机の端に広げられた地図を指し示しながら補足を加えた。
「近年の記録において、魔物の活性化が著しく観測されている地域と境界を接しています。さらに――極めて厄介なことに――事前の測量データに存在しない『未知の山脈』が出現したという報告が、複数の偵察兵から上がっているのです。曰く、まともな測量が不可能であると。その山域に足を踏み入れようとした旅人は、計測機器はおろか、自身の『記憶』すらも曖昧になり破綻してしまうとのことです」
奴らは話しているのだ。この**『ホライズンクレスト』**について。それが完全なる聖域(絶対結界)であるというその本当の正体に、まだ何一つ気づいていない状態で。
その詳細を聞いた瞬間、セルウィンの眼光が鋭く跳ね上がった。
「測量不可能な地形。それに付随する二個小隊の消失。……まさしく、我が組織が全力を挙げて調査すべき『特異事例』そのものね」
「では、直ちに次の正規小隊を派遣いたしますか? 今度はより規模を拡大し、万全の戦力を整えて――」
「いいえ」
セルウィンは毅然とそれを却下した。
「規模の拡大は、仮にそこに潜む『何か』が本物の脅威であった場合、それに見合うだけの巨大な反撃を誘発するわ。私はこの一件を、圧倒的な数( brute numbers)ではなく、極めてピンポイントな『精密』をもって処理したいの。――『聖騎士』を四名。それ以上は必要ないわ」
聖騎士。
かつてエリスがロシャンの街で仕入れてきた情報によれば、教会が本当に深刻な非常事態に陥った時にしかその姿を現さないという、あの最高戦力の化け物どもか。
その日の夜、教会の台帳に書き込まれた四つの名前は、後に俺たちにとって極めて重要な意味を持つことになるのだが、この時の俺たちにはそれを知る術はどこにもなかった。
**セラフィエル**。四人の中で最年長であり、教会の内部中枢における彼女の評価は、派手な英雄譚ではなく、数十年にも及ぶ「静かで確実な任務達成(暗殺・隠滅)」の実績に基づいていた。
**アルドリック**。頑強な体躯を持つ直情径行の男。同僚たちの間では、時に上官への反逆スレスレの不遜な態度で知られていたが、残す『結果』があまりにも完璧であるため、特例でその不敬を許されている男。
**カシアン**。他の三人よりも若く、非常に鋭い眼光を持つ分析派。まさに今回の任務が必要とするような、緻密な調査を遂行させるために教会が最も重宝する類いの知性派。
**ヴァレリウス**。あらゆる記録において四人の中で最も寡黙であると評され、その本人の性格よりも、彼がこれまでに築き上げてきた圧倒的な「屠殺記録(戦闘スペック)」の数字の方がはるかに雄弁にその恐ろしさを物語っている男。
「当該地域を調査しなさい」
四人が招集され、ブリーフィングを終えた後、セルウィンは彼らに厳命を下した。
「二つの小隊に何が起きたのかを突き止めるのよ。ただし――もし現地に本物の危険が存在すると判明した場合、決して『直接交戦』してはならないわ。私が求めているのは、第一に『情報』、第二に『行動』よ。我々が真に向き合っている敵の正体を完璧に把握するまではね。……理解できたかしら?」
「「「「御意、最高司祭」」」」
四人の声が、寸分の狂いもなく唱和した。
「――最後にもう一件」
会議が解散へと向かう中、セルウィンが冷たく付け加えた。
「この一年間で報告されている特異点の発現事例についてよ。発生頻度の急増、そして観測されている異常な変動パターン。騎士たちが現地へ出発する前に、当該地域とこれらの報告書を完全にクロスリファレンス(照合)しなさい。我が同胞を屠った『何か』と、我々が追跡している特異点のアクティビティとの間に、もしわずかでも繋がり(フラグ)があるならば――騎士たちが現地に到着する『前』に、それを完全に特定しておくのよ」
(……チッ。あの女、早くも勘づいてやがる。あの二頭の竜の残滓から、すべての糸を引っ張り続ければ、最終的にはこの俺の座標へとダイレクトに繋がっているってことに、すでに気づきかけているわけか)
照合任務を課された聖職者は深く一礼して退室し、部屋には再びセルウィンが一人取り残された。彼女は消え去った者たちの名前が並ぶ台帳を、普段の冷徹な効率主義からは想像もつかないほど、本物の『重み』を宿した眼差しで見つめていた。
「それが何であろうと」
彼女は誰に聞かせるでもなく、静かに独りごちた。
「これ以上、我が組織に代償を支払わせる前に……その正体を完全に解剖して見せるわ」
その日の夜、台帳を静かに閉じたセルウィンは、まだ知る由もなかったのだ。
自分たちがこれから支払わされることになる本当の代償が、一体どれほど破滅的な領域へと到達することになるのかを――。




