ボーナスエピソード:時が震えたとき
世界は、何が起きているのかを全く理解できていなかった。
それが、まず最初の問題だった。
これまでにも、数多くの戦争があった。
魔王の襲来。竜の出現。太古の怪物。そして、大規模な魔力災害。
あの『太陽の涙』でさえ、何千もの人々がその目撃者となった。
それらの災厄には、明確な『名前』があった。
人々はそれを指差し、こう言うことができたのだ。
――あれが敵だ。あれが災厄だ。我々が生き残るために立ち向かうべき相手だ、と。
だが、今回は指差すべき対象が何一つ存在しない。
軍勢もいない。目に見える怪物もいない。侵略してくる王国もなければ、地平線を覆い尽くす大爆発もない。
あるのは、ただ『時間』だけ。
そしてその時間が、今、この世界で奇妙な振る舞いを始めていた。
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アシュフォード王国
イーモン国王が会議の真っ最中だった時、壁掛け時計がピタリと止まった。
会議室から、すべての音が消える。
イーモンが壁の方へと視線を向けた。秒針が、完全に凍りついている。
大臣の一人が、異変に気づかず報告を続けていた。
「陛下、南部の交易路の件でございますが、先ほど届いた報告によりますと――」
そこで、彼の言葉が途切れた。
イーモンが片手を上げて制する。
「待て」
大臣が困惑した表情を浮かべる。
「いかがなさいましたか?」
イーモンは席を立ち、時計の方へと歩み寄った。
秒針は、依然として微動だにしない。
彼は数秒間、じっと様子を窺った。何の変化もない。
その直後――
――カチッ。
針が、一つ動いた。
――カチッ。
さらに、もう一秒が経過する。
イーモンは眉をひそめ、振り返った。
「……続けろ」
大臣は戸惑いながらも頷いた。
「はっ。申し上げました通り、南部の交易路におきましては――」
――カチッ。
時計の針が、突然『後ろ』へと跳ね戻った。
大臣が絶句して口を閉じる。部屋にいた全員が、その時計を凝視した。
秒針が三目盛り分、逆回転する。そして前へ進み、また後ろへと跳ね戻る。
窓際に立っていた騎士の一人が、外を見て息を呑んだ。
「陛下……っ!」
「何だ?」
騎士が中庭の空を指差した。
一羽の鳥が、空を飛んでいた。
それが、空中で突然『停止』したのだ。
着地したわけでもない。速度を緩めたわけでもない。完全に、停止した。
広げられた翼が、空中で凍りついたまま固定されている。
そして次の瞬間――バサッ、と音を立てて、鳥は数メートル先の空間へと突然ワープするように跳躍した。
会議室は、死んだような静寂に包まれた。
イーモンは呆然とそれを見つめる。
「一体全体、何が起きている……?」
騎士がゴクリと生唾を飲み込んだ。
「分かりません……」
そこへ、別の大臣が血相を変えて部屋へと駆け込んできた。
「陛下!」
イーモンが振り返る。
「今度は何だ?」
「三つの都市から、緊急の報告書が届きました!」
「何の報告だ?」
「人々が、『失われた数秒』を経験しているとのことです!」
イーモンが鋭く眉をひそめた。
「詳しく説明しろ」
「ある農夫は、畑で作業をしていたと証言しています。しかし、たった一度瞬きをしただけで、突然太陽の位置が数分分も移動していたというのです」
別の大臣も、青ざめた顔で一歩前に出た。
「巡回中の警備隊の一個小隊全員が、街道を二十分間歩き続けたと主張しております。ところが、時計を確認したところ、実際にはわずか三分しか経過していなかったとのことです!」
イーモンの表情が、硬鋼のように引き締まった。
「……では、その逆の現象も起きているのか?」
大臣が重々しく頷く。
「はい。一部の人々は、ほんの数秒しか経っていないはずなのに、体感では数分間もの時間が流れていたと証言しております」
イーモンは再び、凍りついた壁掛け時計へと視線を戻した。
彼の脳裏を、ここ数年の間に起きた異常事態の記憶が次々と駆け巡る。
リン。ソラ。『太陽の涙』。カイ。そして、あの『塔』。
世界が不気味なほど静まり返るたびに姿を現す、得体の知れない超越者たち。
イーモンはゆっくりと、深く息を吐き出した。
「……これは、通常の魔法の類ではないな」
「左様でございます、陛下」
「ならば、何が起きているのか即座に突き止めろ」
大臣たちは不安げに顔を見合わせた。
イーモンは窓の方へと向き直る。王都の遥か彼方に広がる空は、一見すると何の変哲もない日常の空に見えた。
だが、彼には本能的に分かっていた。この世界の根幹で、決定的な何かが狂い始めているのだと。
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アステリア王国
アルドレン国王がその報告書を受け取ったのは、それから一時間も経たないうちのことだった。
彼は報告書に二度目を通し、やがて静かに書類をデスクへと置いた。
「ヴァドスは、まだ戻っていないのか」
傍らに控えるアーヴンが答える。
「はい」
「そして今度は、世界規模の『時間異常』というわけか」
「そのようでございます」
アルドレンは片手で自分の額を強く押さえた。
「私の一番の悩みの種が、あの『塔』だけだった頃の方がまだマシだったな」
アーヴンが、微かに苦笑いを浮かべた。
「陛下、恐らく現在でも、陛下の一番の悩みの種はあの『塔』のままだと思われますが」
アルドレンがジロリと彼を睨む。
「……全く慰めになっていないぞ」
「お慰めしようと思って申し上げたわけではございませんので」
「……まあ、正論だな」
そこへ、王立研究所の主任研究員が慌ただしく入室してきた。
「陛下!」
「今度は何だ?」
研究員は言いづらそうに言葉に詰まった。
「研究所のすべての計測機器が、誤作動を起こしております」
「どういうことだ?」
「互いに全く矛盾した数値を弾き出し続けているのです」
アルドレンが眉をひそめる。
「矛盾した数値だと?」
「はい。ある装置は、現在の時刻が完全に正確だと示しております。しかし、別の装置は、我々が約七分ほど『未来』に進んでいると表示しているのです」
「では、三つ目の装置は?」
研究員は気まずそうに視線を落とした。
「……我々は現在、十一分ほど『過去』に遅れていると示しております」
アルドレンは研究員を凝視した。
「修理はできるのか?」
「どの装置が狂っているのかすら、判別がつかない状態なのです」
アルドレンは静かに目を閉じた。
「……素晴らしいな」
アーヴンが窓の外の空を見つめながら呟く。
「この異常事態も、やはりカイ様に関係しているとお考えですか?」
アルドレンはすぐには答えなかった。
彼の脳裏に、カイの顔が浮かぶ。まるで近所のレストランにでも立ち寄るかのような気軽さで、自らの玉座の間へと歩み入ってきた若き魔王の姿。
次いで、ユイの姿を思い出す。たった一言で、世界を滅ぼしかねないカイの激昂を完全に鎮めてみせた謎の女性。
そして、クロエ。『太陽の涙』の地下に封印されていた、太古の吸血鬼。
アルドレンは静かに首を振った。
「……分からん」
その時、壁に掛けられた大時計の鐘が鳴り響いた。
――ゴーン。ゴーン。ゴーン。
アルドレンが眉をひそめる。まだ正午でも、鐘が鳴る時刻でもない。
だが、時計は狂ったように鐘を鳴らし続ける。
四回。五回。六回。
そして突然、ピタリと音が止んだ。時計の針は、何事もなかったかのように通常の動きへと戻っている。
アーヴンが呆然と時計を凝視した。
「……今の音は、一体何だったのでしょうか?」
アルドレンはゆっくりと玉座へと腰を下ろした。
「分からん」
彼は研究員たちへと鋭い視線を向ける。
「だが、アステリア国内のすべての天文台に命じろ。今すぐ、空のあらゆる異変を監視させるのだ」
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ティアムーン王国
ミラベル女王は、王宮のバルコニーに立っていた。
眼下に広がる王都では、いつもと変わらない穏やかな午後の日常が営まれている。
商人たちが通りを行き交い、子供たちが無邪気に笑いながら駆け回り、衛兵たちが規則正しく交代を行っている。
すべてが、平和そのものに見えた。
その時――『海』が、奇妙な動きを見せた。
ミラベルは即座にその異変に気づいた。
海岸に向かって押し寄せていた大きな波が、突然、空中で『停止』したのだ。
膨大な海水が、波頭を砕く寸前の形のまま宙に浮き、固定されている。
数秒の間、水は一滴たりとも動かなかった。
ミラベルの目が、鋭く細められる。
次の瞬間、その波は突然『後ろ』へと動き出した。
自然に潮が引いたのではない。文字通り、時間が『逆再生』されたのだ。
海水が海岸から離れ、沖合へと逆流していく。
そして再び前へと押し寄せ、先ほどと全く同じ軌道、全く同じ水飛沫を上げて海岸へと砕け散った。
ミラベルの表情が、一気に険しく変わる。
「……また、なの?」
傍らに控えていた王宮魔導師が、恐怖に顔を引きつらせながら震える声で呟いた。
「陛下……っ」
「……私にも、見えました」
魔導師がゴクリと生唾を飲み込んだ。
「これは……あの『太陽の涙』の際に記録された現象と酷似しております」
ミラベルが鋭く振り返った。
「不吉なことを言わないで」
「陛下……?」
「私たちはすでに、あの海の底から這い上がった一度目の災厄を辛うじて生き延びたばかりなのよ」
彼女は荒れ狂う海へと視線を戻した。
「二度目など、御免だわ」
その時、王宮の鐘が激しく鳴り響いた。
中庭を横切り、一人の伝令が血相を変えて駆け込んでくる。
「陛下!」
「何事?」
「王立学院より緊急の報告です! 複数の生徒が『時間異常』を経験したとのこと!」
ミラベルの目が、鋭く細められる。
「怪我人は?」
「おりません」
「よろしい」
彼女は遠い地平線を見据えた。
「全軍に待機命令を出しなさい。いつでも出撃できるようにね」
魔導師が躊躇いがちに尋ねる。
「海岸線の住民を避難させるべきでしょうか?」
ミラベルは数秒間、思案した。
「まだ早いわ」
彼女は再び、不気味に静まり返った海を見つめる。
「もしこれが『太陽の涙』のような新たな災厄の予兆なら、王国全体をパニックに陥れる前に、まずは正確な情報が必要よ」
一呼吸置いて、彼女は言葉を続けた。
「それに、もしそうでないとしても――」
その表情が、冷徹な女王のものへと引き締まる。
「――本物の災厄へと発展する前に、私たちが一体『何』を相手にしているのかを突き止めておく必要があるわ」
--
テオレマ
ヴァルト・ホラックスは、城壁の上にたった一人で佇んでいた。
愛剣を肩に担ぎ、夜風に髪をなびかせている。
その時、彼の神経に鋭い違和感が走った。
閉じていた目が、カッと見開かれる。
周囲の世界が、奇妙な歪みを帯び始めた。
ほんの一瞬。彼の視界に、この堅牢な要塞が木っ端微塵に破壊された光景が映り込んだのだ。
だが次の瞬きには、何事もなかったかのように元の静かな要塞へと戻っていた。
ヴァルトは微動だにしなかった。
今見たのは『あり得る未来』の一つ。あるいは、未来のふりをした何かの幻影か。
剣を握る手に、ぎゅっと力が込められる。
「……今のは、何だ?」
彼は自らの異能を起動させた。
眼前に、無数の未来の分岐が展開されていく。
一つの可能性。もう一つ。さらに、もう一つ。
数百。数千。数百万。
――そして次の瞬間、そのすべてが一斉に崩壊した。
ヴァルトの目が見開かれる。
ある一点から先の未来が、完全に視えなくなっていたのだ。
未来が隠されているからではない。未来そのものが不安定すぎて、形を成していないのだ。
ヴァルトはゆっくりと剣を下ろした。
「……これは、通常の時間魔法の類ではないな」
彼は夜空を見上げた。
何者かが、『因果律』そのものに直接干渉している。
そして、自分の知覚が到底及ばない遥か彼方で、誰かが戦っているのだ。未来さえも「次に何が起きるべきか」を決定できなくなるほど、圧倒的な力を持つ何かが。
ヴァルトの表情が、硬鋼のように引き締まった。
「……お前は、一体何者だ?」
虚空から、返答が返ってくることはなかった。
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マイラス王国
ジーク・ミストラスが軍事報告書に目を通していたその時、マイラス国内のすべての魔法防衛システムが突如として一斉に起動した。
王都全体に、耳をつんざくような巨大な警報音が鳴り響く。
『警告。時間軸の不安定化を検知』
ジークが即座に席を立ち上がった。
「何だと!?」
王国を取り囲む巨大な魔導塔群が、一斉に不気味な光を放ち始める。
防衛用の魔法障壁が展開されたかと思えば、次の瞬間には消失し、またすぐに出現するという異常な明滅を繰り返す。
巨大な魔導砲が自動的に起動し、その砲身を真っ直ぐに天へと向けた。
ジークが片手を掲げて叫ぶ。
「システムを停止しろ!」
だが、防衛機構は彼の命令を完全に無視した。
さらに、新たな警報が空間に響き渡る。
『因果律の変動を確認』
ジークの表情が一変した。
「すべての電源を落とせ!」
技術者たちが制御室へと雪崩れ込む。そのうちの一人が悲鳴のような声を上げた。
「無理です、陛下! 停止できません!」
「なぜだ!?」
「システムが、互いに矛盾する命令を同時に受信し続けているのです!」
ジークは、空中に浮かび上がった巨大な魔法ディスプレイを凝視した。
この王国そのものが、自らの理解を遥かに超えた『何か』に怯え、過剰反応を起こしているのだ。
やがて、狂ったような警報が突然ピタリと止まった。
空間を照らしていたすべての光が消え、制御室が暗闇に沈む。
ジークは数秒間、沈黙を守っていた。
そしてようやく、重々しく口を開く。
「……今の現象の、すべてを記録しろ」
技術者の一人が困惑したように振り返る。
「陛下……?」
「次に同じことが起きた時、一ミリの狂いもない詳細なデータが必要になる」
ジークは天井の向こうの空を見据えるように顔を上げた。
「……我々は今、この王国が歴史上一度も遭遇したことのない『未知の脅威』を目撃しているのかもしれん」
--
エルフ帝国
ライラ・シルヴァレンヌは、エルフ帝国の美しい庭園に佇んでいた。
午後の柔らかな陽光が、木々の葉を黄金色に照らし出している。
彼女は手元の報告書に目を通していたが、その時突然、紙面に書かれた文字が勝手に書き換わった。
ほんの一秒間だけ、書類には全く別の文章が浮かび上がっていた。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように元の文章へと戻っている。
ライラは思わず瞬きをした。
彼女はページを凝視する。何の変哲もない。もう一度読み返してみても、すべてが正常そのものだった。
それなのに、胸の奥に形容しがたい不安が広がっていく。
奇妙な感覚が、彼女の脳裏を掠めた。
一つの顔。一つの声。一つの、名前。
どうしても、思い出すことができない。
ライラはそっと目を閉じた。
ほんの一瞬だけ、見知らぬ奇妙な空の下に立つ、一人の青年の姿が脳裏に浮かんだ。
そして、その幻影はすぐに霧散する。
彼女は自分の胸元に、そっと手を当てた。
「……誰……?」
誰も答えない。
傍らに控えていた侍女が、心配そうに歩み寄ってきた。
「陛下?」
ライラが目を開ける。
「……何かしら?」
「お加減でも優れないのですか?」
彼女は遠い空を見上げた。
「分からないわ……」
侍女がさらに不安そうな表情を浮かべる。ライラは小さく首を振って微笑んだ。
「いいえ、何でもないのよ」
だが、彼女自身には分かっていた。これは決して「何でもない」ことなどではないと。
彼女は確かに、何かを感じ取っていた。この世界に存在するはずのない『記憶』に繋がる、大切な何かを。
そして彼女の心の奥底で、ある一つの名前が、今まさに蘇ろうと足掻いていた。
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清水帝国
清水ナオは、東方帝国の最上階にある広間に立っていた。
近くにはヴォラスが控え、部屋の反対側にはスコーンが立っている。
三人は皆、同時にその異変を感知していた。
ナオが窓の外へと視線を向ける。
「へぇ――」
彼女は微かに、楽しそうな笑みを浮かべた。
「なにやら、面白いことが起きているみたいね」
ヴォラスの表情は、どこまでも険しかった。
「……これは、通常のエネルギーの波動ではないな」
スコーンも重々しく頷く。
「単なる時間操作の魔術ですらない」
ナオが二人へと振り返る。
「一体、何なの?」
ヴォラスの目が、鋭く細められる。
「何者かが、私ですら一度も見たことがないほどの規模で『因果律』そのものに干渉している」
ナオの笑みが、さらに深まった。
「面白いじゃない」
スコーンが空の彼方を見据える。
「この異常波動の発生源は、この大陸から遥か遠く離れた場所だ」
ナオは腕を組んだ。
「正体は特定できる?」
ヴォラスが静かに首を振った。
「いや」
一呼吸置いて、彼は続ける。
「だが、一つだけはっきりと分かっていることがある」
「何かしら?」
「これは――カイではない」
ナオの表情が変わった。
「……確信があるの?」
「あいつのエネルギーの質は熟知している」
ヴォラスの声が、一段と低くなる。
「これは、あいつではない」
スコーンもそれに付け加えた。
「この異変を引き起こしているのは、全く別の『何か』だ」
ナオは再び、遠い地平線の彼方へと視線を向けた。その瞳が、細く研ぎ澄まされる。
「……じゃあ、一体誰なのかしらね?」
二匹の竜は、どちらも答えなかった。
ナオは不敵に微笑んだ。
「まあ、そのうち嫌でも分かるでしょうけど」
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陰陽教団
陰陽教団は、ずっと静寂を守り続けていた。
――あの『封印』に亀裂が走る、その瞬間までは。
塔の遥か地下深部。
『絶対氷結牢獄』が、不気味な音を立てて震動した。
小野一彦の肉体を閉じ込めていた分厚い氷塊が、内側から砕け始める。
一条の亀裂。そして、もう一条。
太古から続く鉄壁の牢獄が、激しく揺れ動く。
氷の内部で、一彦がゆっくりと目を開けた。
四百年間もの間、彼はこの場所に閉じ込められていた。
指一本動かすこともできず、脱出することも叶わず、ただ時間の経過すらまともに感じられない永遠の闇の中で。
だが今、世界の均衡が崩れた。
世界規模で発生した時間軸の歪みが、この絶対牢獄の術式バランスを弱体化させたのだ。
一彦の口元が、邪悪な笑みへと釣り上がった。
「……なるほどな。それがお前たちの『過ち』か」
彼がゆっくりと片手を掲げる。
周囲を覆っていた絶対零度の氷結が、悲鳴を上げるようにひび割れた。
――パキィィィン!!
そして、粉々に砕け散る。
一彦が、氷の残骸を踏み越えて一歩前に踏み出した。
全身から氷の破片がパラパラと剥がれ落ちる。
彼は、四百年ぶりとなる自由な空気を、肺の奥まで深く吸い込んだ。
そして、薄暗い地下牢を見渡し、静かに呟いた。
「……ようやく、出られたか」
まさにその瞬間、陰陽教団の『解放シークエンス』が作動を開始した。
まず最初に、塔の内部に留まっていた一彦の分身が光の粒子となって消滅する。
続いて、フレデリカの分身が掻き消えた。さらに、フィンの分身も後に続く。
それぞれの分身は純粋なエネルギーの奔流へと姿を変え、空間の隔たりを超えて『本体』の元へと帰還していく。
膨大なエネルギーが、闇を切り裂いて疾走する。
本物のフレデリカが、ゆっくりとその目を開けた。
フィンもまた、同じように瞳を開く。
二人は即座に、その圧倒的な気配を感知した。
――『あの男』が、帰ってきた。
二人が一斉に振り返ると、そこには小野一彦が凛と佇んでいた。
ほんの一瞬、どちらも言葉を発しなかった。
そして次の瞬間、フレデリカがその場に片膝を突いて深く頭を垂れる。フィンもまた、即座にそれに倣った。
「お帰りなさいませ、一彦様」
一彦は、忠実な二人の部下を静かに見下ろした。
その表情は、どこまでも穏やかで冷静だ。
彼はゆっくりと、天を仰ぐように顔を上げた。
外の世界は、かつてとはすっかり様変わりしていた。最後に広大な青空の下に立ってから、実に四百年もの歳月が流れていたのだ。
一彦はそっと目を閉じた。
そして、噛み締めるように静かに囁く。
「これほど長い時を経て――」
彼の目が、鋭く見開かれる。
「――ようやく、自由の身か」
--
日本
最初に救急車が現場へと到着した。
次いで、もう一台。さらに、もう一台とサイレンの音が重なっていく。
道路は完全に封鎖され、無数のパトカーが赤色灯を回転させながら事故現場を取り囲んでいた。
凄惨な事故の残骸が、アスファルトの上に散乱している。砕け散ったガラス片。飴細工のように捻じ曲がった鉄くず。路肩のガードレールに無惨に押し付けられた大破車両。
救急隊員たちが緊迫した様子で駆け回る。
「運転手の確認を急げ!」
「すでに完了しています!」
「対向車の運転手は!?」
「無事です、軽傷で済んでいます!」
一人の警察官が、大破した黒い乗用車の傍らに立ち尽くしていた。
彼はゆっくりと視線を落とす。
そこには、白い医療用シートを被せられた一人の遺体が横たわっていた。
――健二。
彼はあの激突の瞬間、即死していたのだ。
警察官は静かに帽子を取り、重苦しく頭を垂れた。
「……クソッ」
--
病院
救急救命室(ER)の扉が勢いよく押し開かれた。
医師と看護師たちが、ストレッチャーに乗せられたひまりを処置室へと運び込む。
「重度の神経外傷の可能性があります!」
「バイタルは!?」
「今のところは安定しています!」
「そのままモニタリングを継続しろ!」
ひまりは未だに、深い意識の闇の中に沈んでいた。
周囲を無数の医療機器が取り囲み、心電図モニターが規則正しい鼓動のリズムを刻み続けている。
――ピッ。ピッ。ピッ。
看護師の一人が、彼女の顔を覗き込みながら報告する。
「まだ、意識は戻りません」
医師が険しい表情で頷いた。
「引き続き、厳重な経過観察を続けろ」
その時――ひまりの指先が、ほんのわずかにぴくりと動いた。
誰も、その小さな変化には気づかなかった。
ほんの一秒にも満たない刹那、彼女の閉ざされた瞼が微かに震える。
彼女こそが、この世界に存在する『本物のひまり』。消去されたはずの家族の歴史が、今まさに戻り始めていた少女だった。
かつて、カイの激しい怒りが異世界を揺るがした時、彼女はその波動に呼応した。そして彼女の魂の奥底にある『何か』は、それ以来、一度たりとも耳を澄ますのを止めてはいなかったのだ。
やがて、瞼の小さな震えは静かに収まった。
彼女は依然として、深い眠りについたままだった。
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公国ギルド
アエオス・エルデラは、ギルド本部の執務室で山積みにされた報告書に囲まれて立ち尽くしていた。
彼女はすでに、一時間近くもそれらの書類に目を通し続けていた。
『空白の数分間』。
『何度も繰り返される全く同じ会話』。
『出発した記憶がないのに、すでに目的地に到着していた人々』。
『異常に長く引き伸ばされたように感じられる街道』。
ある商人は、一度も木箱を開けていないはずなのに、全く同じ商品を二度売却したと主張している。
ある冒険者は、確かに魔物を討伐したはずなのに、振り返るとその魔物が無傷のままピンピンしていたと誓って証言した。
アエオスは片手で自分の額を強く押さえた。
「……『時間異常』ね」
傍らで窓の外を見つめていたギルドマスターが尋ねる。
「原因に心当たりはあるのか?」
「いいえ」
「古代の遺物の暴走か?」
「可能性はゼロではないわね」
ギルドマスターは深くため息をついた。
「つまり、お前にもさっぱり分からんということか」
アエオスは彼を真っ直ぐに見つめた。
「一つだけ、はっきりと分かっていることがあるわ」
「何だ?」
「これは、既存のあらゆる『災害ランク』の枠組みを遥かに超えているということよ」
執務室から、すべての音が消え去った。
アエオスは新しい緊急通達用の書類へと手を伸ばす。
「今すぐ、緊急警戒レベルを引き上げなさい」
「どのレベルまでだ?」
アエオスはほんの一瞬だけ思考を巡らせ、そして冷徹に告げた。
「――『測定不能』よ」
ギルドマスターが呆然と彼女を凝視した。
「我がギルドの分類に、『測定不能』などというカテゴリーは存在しないぞ」
「なら、今この瞬間から新しく作りなさい」
--
普通の人々
それでも、世界は日常の営みを続けていた。
大半の人々は、今この世界で何が起きているのかを全く理解していなかった。ただ、日常の中に紛れ込んだ『小さな違和感』に気づいただけだった。
あるパン屋が、オーブンから焼き上がったばかりのパンを取り出した。
彼が一度瞬きをすると、パンは突然、元のオーブンの中へと戻っていた。
彼はオーブンを呆然と凝視した。
「……は?」
ある母親が、我が子に向かって声をかけた。
「手を洗ってきなさい」
子供はパチパチと瞬きをし、それからオウム返しのように全く同じ言葉を繰り返した。
「手を洗ってきなさい」
母親が怪訝そうに眉をひそめる。
「それ、今お母さんが言ったばかりでしょう」
子供は困惑した顔で首を傾げた。
「……分かってるよ」
ある商人が、街の城門へと到着した。
門番が彼を見て、不思議そうな顔をする。
「あんた、また来たのか?」
商人が眉をひそめた。
「何のことだ?」
「いや、二十分前にもここを通ったばかりだろうが」
商人が目を丸くする。
「馬鹿を言うな、俺はたった今、隣の町を出てきたばかりだぞ」
門番の顔から、一気に血の気が引いた。
「……隣の町までは、馬車で二時間はかかるはずだぞ」
二人はそれきり、お互いに言葉を失って立ち尽くした。
別の村では、農夫が自分よりも先に自分の『影』が動き出すのを目撃した。
海辺の都市では、漁師が数秒間だけ潮の流れが完全に逆流するのを目の当たりにした。
山間の村では、誰も鐘楼に登っていないにもかかわらず、村中のすべての鐘が全く同じ瞬間に一斉に鳴り響いた。
王立大学の講堂では、学者たちが「太陽が後ろへと逆戻りしたかどうか」を巡って狂ったように議論を戦わせていた。
そして、ある小さな家の窓辺で、幼い少女が母親に無邪気に尋ねた。
「ねえママ、どうしてさっきと同じ鳥さんが、二回も続けて飛んでいったの?」
母親には、答えられなかった。
この世界の誰一人として、その理由を知る者はいなかった。
--
世界が空を見上げる
夜が訪れる頃には、その奇妙な現象は大陸全土へと広がりきっていた。
国王たちは緊急報告書を受け取り、学者たちは必死にデータをかき集めた。
冒険者たちは慌ててギルドへと帰還し、魔導師たちは現象の解析を試みた。
神官たちは神に祈りを捧げ、科学者たちは議論を交わし、商人たちは商売にならないと不満を漏らした。
そして子供たちはただ、今夜の星空がなんだかいつもと違って奇妙に見えるな、と無邪気に思っていた。
世界中の人々が、全く同じ異変に気づき始めていた。
夜空に輝く星々が、奇妙に『ズレて』見えるのだ。
移動しているのではない。座標そのものが『ズレて』いるのだ。
まるで現実世界そのものが、星々を本来のどの位置に配置すべきかを決定できずに迷っているかのように。
アシュフォード王国では、イーモン国王がバルコニーに立ち尽くしていた。
アステリア王国では、アルドレン国王が険しい表情で夜空を仰いでいた。
ティアムーン王国では、ミラベル女王が王宮の窓辺に佇んでいた。
テオレマでは、ヴァルト・ホラックスが愛剣の柄を固く握り締めていた。
マイラス王国では、ジーク国王が明滅を繰り返す魔法障壁を凝視していた。
エルフ帝国では、ライラが幼い頃から見慣れていたはずの星座を不安げに見つめていた。
清水帝国では、清水ナオが不敵な笑みを浮かべていた。
陰陽教団では、小野一彦が四百年の幽閉を経て、見知らぬ夜空の下に凛と立っていた。
そして日本では、小林ひまりが病院の無機質な照明の下で、今もなお深い眠りについていた。
――そして、これらすべての人々の知覚が到底及ばない遥か彼方では、本物の戦いが今もなお続いていた。
彼らの誰一人として、その光景を見ることはできない。
戦っている超越者たちの名前を知る者もいない。
彼らは『ヒリン』を知らない。
『カイ』を知らない。
『アイオン』を知らない。
『アシュリー』も、『ダニエル』も、『ニクセラ』も、『ヴァドス』も、『ネロ』も知らない。
彼らが知っているのは、たった一つの事実だけ。
『何か』が、起きた。
『何か』が、存在の根源的な流れをかき乱した。
『何か』が、時間という概念そのものを恐怖で震え上がらせたのだ。
そして世界は、ようやく理解し始めていた。
これは、これまで経験してきたようなありふれた災厄などではない。
遥かに巨大で、底知れない何か。
――歴史がまだ起きるその前に、歴史そのものを書き換えてしまいかねない、絶対的な異変なのだと。
王国がどれほど軍勢を整えようとも。
ギルドがどれほど災害の等級を分類しようとも。
学者たちがどれほど現象を研究しようとも。
国王たちがどれほど威厳ある勅命を下そうとも。
世界そのものが『現在とは何か』すら決定できなくなってしまったのなら、そのすべてに何の意味もなかった。
大陸の遥か上空で、一つの星が突如として消失した。
そして次の瞬間、何事もなかったかのように再び姿を現す。
なぜそんなことが起きたのか、誰も知らない。
それが何を意味するのか、理解できる者もいない。
ただ、通常の存在の境界線を遥かに超えた『どこか』では、二人の超越者が今もなお死闘を繰り広げていた。
そして別の『どこか』では、四百年の長きにわたり幽閉されていた一人の男が、ついに再びこの世界へと足を踏み入れていた。
――時代は、すでに変わっていた。
世界がまだ、その事実に気づいていないだけの話だ。
そして『時間』はもう、誰一人として待ってはくれなかった。




