第131話: 時空戦争・第6部:永遠の女王
――キィン! キィィィン!! キィィィィィン!!!
――バチチッ! ドゴォォォォォン!!
戦場が、文字通り爆発した。
カイの剣と、ヒリンの握る『ベイス・ディヘリア』が再び激しく激突する。
その衝撃は凄まじい烈風となって荒廃した大地を薙ぎ払い、遥か彼方の山々が一瞬で粉々に砕け散った。
大地が裂け、崩壊したドミグラの次元の残骸が、割れたガラスの破片のように空から降り注ぎ続ける。
カイの姿が掻き消えた。ヒリンもまた、同じ瞬間に消失する。
――ガキンッ!!
二人の刃が再び交錯する。
そして、もう一度。さらに、もう何度も。
人間の動体視力では到底追いつけない、神速を超えた領域。
ある瞬間には戦場の上空にいたかと思えば、次の瞬間には数キロメートル彼方へ。そして瞬きする間に互いの至近距離へと戻り、次の刹那には雲の遥か彼方へと跳躍している。
刃と刃が触れ合うたびに、天変地異のような爆発が夜空を焦がした。
カイの背後から、六枚の漆黒の翼が勢いよく広がる。
常軌を逸した超加速。だが――ヒリンは常に、その一歩先を行っていた。
彼女の動きは、単に「速い」だけではない。
予測そのものが、不可能なのだ。
彼女は時間の中を移動しているのではない。無数に枝分かれする『可能性』の中を、自在に渡り歩いているのだ。
カイが彼女の次の出現位置を予測するたびに、ヒリンはすでに『別の可能性』を選択し終えている。
――ザンッ!!
カイが辛うじて剣で受け止める。
その衝撃だけで彼の身体は弾き飛ばされ、背後の山脈を真っ直ぐに貫通した。
地面に激突する寸前で、カイは六枚の翼を力強く羽ばたかせて空中で姿勢を制御する。
だが、顔を上げた時には、ヒリンはすでにそこにいた。
――ガキィィン!!
カイはギリギリのところで次の斬撃を弾き返す。
圧倒的な質量と力の奔流に押され、彼の身体が後方へと大きく滑空した。
カイの目が、鋭く細められる。
(……どんどん速くなってやがる)
さらなる一閃。カイは紙一重で身を翻して回避する。
次の一撃。剣で受け流す。
さらに畳み掛ける連撃。カイが上半身を極限まで捻ると、冷たい刃が彼の胸元わずか数センチの距離を掠めて通り過ぎた。
直後――
――ドォォォォン!!
時間差で炸裂した衝撃波が、カイの身体を直撃した。
カイは弾丸のように後方へと吹き飛ばされ、空中で鮮やかに回転して体勢を整えると、砕け散った岩塊の上へと着地した。
彼の表情から一切の余裕が消え去り、冷徹なシリアスさへと切り替わる。
その時、ユイの声が彼の脳裏へと直接響き渡った。
『カイ』
カイは剣を構え直しながら応じる。
『ああ、分かってる』
『【終末の剣】を使いなさい』
カイの目が、さらに細められる。
『もう、か?』
『ええ』
一呼吸置いて。
『もしもヒリンの攻撃をあと二発でも直接受ければ……今のあなたの防御力では、耐え切れる保証ができないわ』
カイは数百メートル先に佇むヒリンへと視線を向けた。
彼女はピクリとも動かず、ただ静かにそこに立っている。
その手にある剣は自然体に下げられ、冷徹な瞳だけが真っ直ぐに彼を見据えていた。
カイは小さく、深く息を吐き出した。
「……本気で、思っていた以上に厄介な相手だな」
その瞬間――ヒリンのオーラが、かつてない規模で爆発的に膨張した。
――ドゴォォォォォォォォン!!
凄まじい時間軸のエネルギーが、津波のように世界全体へと溢れ出す。
空が歪み、大地がうねりを上げて湾曲する。
時間という概念そのものの流れが、完全に不安定化していた。
遥か遠く離れた人間の王国でも、その異変ははっきりと感知されていた。
街を行き交う人々が足を止め、動物たちが恐怖に怯えて一斉に逃げ惑う。
各地の都市で、緊急用の魔法障壁が自動的に起動していく。
世界中の名だたる強者たちが、一斉に空へと顔を上げた。
だが、この異質なエネルギーは、かつてカイの激しい怒りが爆発した時に世界が感じたものとは決定的に異なっていた。
あの時の波動に込められていたのは、深い『悲しみ』だった。
しかし、今この世界を押し潰そうとしている波動には、明確な『目的』がある。
――『破壊』。
目の前に立ち塞がる者が誰であろうと、一切の容赦はない。
王国も、竜も、魔族も、人間も、そして神さえも。
彼女にとっては、そのすべてがただ排除すべき『障害物』に過ぎなかった。
--
世界がヒリンを感知する
アシュフォード王国。
王都の鐘が、不吉な予兆を告げるように激しく鳴り響き始めた。
ソフィアが空を見上げ、息を呑む。
「……何なのよ、あれは……?」
イーモン国王が王宮の外へと駆け出し、即座にその異質な波動の正体を察知した。
「これは……カイではない」
ソフィアが静かに首を振る。
「ええ、違うわ」
彼女の目が、警戒に鋭く細められる。
「これは……全く別の『何か』よ」
同じ頃、大陸全土に同じ戦慄が駆け巡っていた。
ティアムーン王国では、ミラベル女王がその圧倒的な威圧感に息を詰まらせる。
テオレマでは、ヴァルト・ホラックスが遠い地平線の彼方を険しい表情で見つめていた。
マイラスでは、古代の防衛システムが自動的に作動を開始する。
清水帝国では、ナオが閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
ヴォラスが空を仰ぎ、スコーンの顔から一切の余裕が消え去る。
そして、魔界の領域の奥深くでさえ、名だたる強者たちがその異変に気づいていた。
『何か』が、この世界に顕現した。
魔王の気配ではない。竜の気配でもない。
既存のあらゆる力の序列の外側に存在する、得体の知れない絶対的な異物。
そして、その破滅の渦の中心に――ヒリンは凛と佇んでいた。
--
アルマゲドン
カイは、自分が握っていた剣へと視線を落とした。
そして静かにその手を離すと、剣は光の粒子となって虚空へと消え去る。
ほんの一瞬の静寂の後。
彼の右手に、全く別の『一振りの剣』が顕現した。
漆黒。そして深紅。
一切の音を吸い込むような、絶対の沈黙を纏った刀身。
その剣が現れた瞬間、周囲の空間の空気そのものが一変した。
――『アルマゲドン』。
『終末の破壊を司る剣』。
カイがこれまで、滅多なことでは決して抜こうとしなかった切り札。
だが、ヒリンを相手にする以上、もはや選択肢など残されていなかった。
ここで力を惜しめば、確実に殺される。
カイの背後で、六枚の漆黒の翼が限界まで大きく広げられた。
それだけで、周囲の空間が悲鳴を上げて激しく震動する。
ヒリンの冷徹な瞳が、初めてその異様な武器へと向けられた。
感情を失っていたはずの彼女の瞳に――ほんのわずか、明確な『興味』の光が宿った。
カイは彼女を見つめた。
「おい、ユイ」
『なぁに、ダーリン(スウィーティー)?』
「その呼び方はやめろ」
『どうして?』
「いいから、お前が直接ここに来てあいつを止めることはできないのか?」
ほんのわずかな沈黙の後、ユイが答えた。
『理由はもう知っているはずよ。前に説明したわ。それとも、話を聞いていなかったのかしら?』
カイは深くため息をついた。
「ああ、そうだったな」
彼は『アルマゲドン』を構え直す。
「自分自身に課した、いかなる事象にも『干渉』しないという絶対のルールがあるんだったな」
『その通りよ』
「だがお前、さっき俺の状況には思いっきり干渉してきたじゃないか」
『あれは『支援』と呼ぶのよ』
「同じことだろうが!」
『全然違うわ』
カイは不審げに眉をひそめた。
「一体どこがどう違うって言うんだ?」
『『干渉』とは、私の意志によって結果そのものをねじ曲げること。対して『支援』とは、あなた自身が自らの手で結果を決定するための『手段』を与えることよ』
カイはヒリンを睨みつけたまま、呆れたように呟く。
「……無駄にややこしい理屈だな」
『どういたしまして』
カイは再びため息をついた。それから、改めてヒリンへと視線を据える。
「で、どうすれば俺はあいつを超えられる?」
ユイの声が、一段と真剣な響きを帯びた。
『数秒だけ時間をちょうだい。あなたの助けになりそうな『何か』を今すぐ構築するわ』
『それまでの間、あいつを引き付けておいて』
カイは目を丸くした。
「言うのは簡単だがな」
『大丈夫よ。たとえあなたが死んでも、私が何度でも連れ戻してあげるから』
カイが片方の眉を上げた。
「ほう」
口元に、不敵で小さな笑みが浮かぶ。
「なるほど、それがお前の『言い訳』か」
ユイが脳裏で楽しそうにクスクスと笑った。
『そういうこと』
カイは呆れたように首を振った。
「まったく、とんでもない女だ」
『そんな私に名前をつけたのは、あなたでしょう?』
「人生最悪の決断だったよ」
『嘘つき』
カイは微笑んだ。そして『アルマゲドン』を真っ直ぐに掲げ、ヒリンを見据える。
「さて――さっきの続きと行こうか?」
言葉が終わるよりも早かった。
ヒリンの姿が、掻き消える。
――キィィィィィィン!!
カイの野生の直感が警鐘を鳴らした。咄嗟に『アルマゲドン』を引き上げる。
――ガキィィィィン!!
腕が根元から引き千切れそうなほどの、凄まじい衝撃。
その暴風のような衝撃波によって、カイの巨体が後方へと弾き飛ばされる。
カイは空中で鮮やかに一回転し、六枚の翼を大きく羽ばたかせて即座に体勢を立て直した。
だが、その時にはすでにヒリンの追撃が迫っている。
――ザンッ!
カイが剣で受け止める。
――ザンッ!
再び、受け止める。
――ザンッ!!
三撃目の重撃が、彼の防御をわずかに押し潰しかけた。
カイは奥歯を強く噛み締める。
二人の速度が、さらに跳ね上がった。
その動きはもはや視認すら不可能な、ただの『閃光』の連続へと変貌する。
漆黒の翼。深紅の軌跡。歪み続ける時間軸。激突する剣戟。連続する大爆発。
戦場の空間そのものが、二人の戦闘速度に全く追いつけていなかった。
--
絶対解析
カイの瞳が、鋭い光を帯びて輝き始めた。
「【絶対解析】」
スキルが起動する。
膨大な情報の奔流が、カイの意識へと一気に流れ込んでくる。
能力。魂の構造。時間軸への干渉権限(権能)。次元法則。因果律。概念。そして、無数の可能性。
そのすべてが可視化されていく。
カイの脳が、ヒリンという存在の本質を理解しようとフル回転を始めた。
だが――解析が深まれば深まるほど、状況の絶望感が浮き彫りになっていく。
ヒリンは、単に時間操作の能力を使っているわけではなかった。
彼女は、時間という概念の『外側』から、そのすべてを自在に操っているのだ。
過去。現在。未来。可能性。分岐。崩壊した時間軸。そして、まだ確定していない潜在的な結末まで。
カイの目が、驚愕に見開かれた。
(……あいつ、そのすべてを同時に支配してやがるのか)
彼は即座に、さらなる別のスキルを発動させた。
「【無限並列思考】」
カイの脳内に、数え切れないほどの可能性の枝葉が一斉に展開される。
一人のヒリン。十人。千人。何百万。何十億。そして、無限の分岐。
カイはそのすべてを同時に演算し、あらゆる動きを予測した。
すべての攻撃パターン。すべての回避ルート。すべてのカウンターのタイミング。
だが――その『無限の可能性』のどの枝葉を辿っても、そこにはすでにヒリンが待ち構えていた。
カイがどの未来を選択しようとも、ヒリンはすでにその結末を完全に掌握しているのだ。
カイの表情が、かつてないほど険しく歪んだ。
「……ふざけるなよ、これ」
その時、ヒリンがピタリと動きを止めた。
リンの肉体の主導権を握って以来、初めて、彼女が口を開いた。
その声は、どこまでも静かで、一切の感情を排した冷徹な響きだった。
「【逆説】」
カイの瞳が収縮する。
「何……だと……?」
反応する時間すら、与えられなかった。
――ザンッ!!
全身を焼き切るような激痛が炸裂する。
カイの左手が、跡形もなく消え失せた。
斬られたのではない。切断されたのでもない。
最初からそこに存在しなかったかのように、ただ『消失』したのだ。
カイが呆然とそれを見つめる間もなく、その直後、今度は右手が同じように掻き消えた。
――ザンッ!!
主を失った『アルマゲドン』が、虚空へと落下していく。
そして次の瞬間――その『剣が落ちた』という事象そのものさえも、別の何かへと書き換えられた。
カイの目が大きく見開かれる。
傍らで見守っていたネロが凍りつき、ヴァドスは信じられないといった面持ちで息を呑んだ。
二人が『最高幹部』の座に就いて以来、初めて、何をすべきか全く分からず立ち尽くした。
「カイ様……っ!!」
カイの叫びが、ついに静寂を破った。
「ユイ!!」
彼女の返答は、文字通り即座だった。
『持ちこたえて!』
--
永遠の理
『輪生の向こう側』の内部で、ユイの瞳が静かに見開かれた。
領域全体が、彼女の意志に呼応して震動する。
ひとつの絶対的な『権能』が、今、起動した。
アルティメットスキルではない。ユニークスキルでもない。既存のあらゆる能力の枠組みを超越した、遥か古代の力。
『輪生の向こう側』そのものと直結した、根源の理。
――絶対スキル:【永遠の理】。
『これは、私自身の力ではないわ』
ユイが静かに呟く。
『『輪生の向こう側』が存在するからこそ成立し、そして私がこの場所に立っているからこそ行使できる、世界の根源の法則よ』
領域が大きく脈動した。
空間の隔たりを超え、カイの『存在』と『輪生の向こう側』の間に、絶対的な繋がり(パス)が構築されていく。
その瞬間、カイの失われた両手が元通りに戻った。
骨。肉体。魔力。魂。そして『概念』までもが。
すべてが、全く同時に再構築されたのだ。
カイは信じられないといった面持ちで、自分の両手を凝視した。
指が動く。拳を握り締めることができる。
「……ふぅ」
カイは深く息を吐き出した。
「危ないところだったな」
ヴァドスが即座にカイの隣へと駆けつける。
「カイ様!」
ネロもその隣へと着地した。
「お怪我はございませんか!?」
カイは二人の顔を見渡した。
「ああ、問題ない」
彼は再び自分の両手に視線を落とす。
「……ギリギリだったがな」
それから、カイはヒリンへと真っ直ぐ向き直った。
「今の攻撃は、流石に一本取られたぜ」
ユイの声が、再び脳裏に響く。
『言ったでしょう。ヒリンは、あなたが最初に理解していたよりも遥かに危険な存在なのよ』
カイは眉をひそめた。
「あいつ、一体何をしやがったんだ?」
『今の攻撃は――一つの『時間軸』そのものを消去したのよ』
カイの身体が硬直した。
「……今、何と言った?」
『時間軸を、消去したのよ』
カイはヒリンを凝視した。
「それはもう『攻撃』なんて呼べる代物じゃねえだろ」
『立派な攻撃よ』
「ただのチート(反則)じゃねえか」
『不愉快な能力だという点には同意するわ』
ユイは一呼吸置いて言葉を続けた。
『けれど、今何が起きたのか、その仕組みを正確に理解しておくべきよ』
カイが頷く。
「説明してくれ」
--
逆説
ユイの声が、どこまでも冷静なトーンになる。
『【逆説】は、『ベイス・ディヘリア』そのものが持つ固有能力よ。単体では、矛盾する二つの真実を強制的に共存させる力に過ぎないわ』
カイの脳内に、鮮明な映像が浮かび上がった。
二つの時間軸。
【時間軸A】:ヒリンの刃が直撃し、カイが死亡する世界。
【時間軸B】:刃が外れ、カイが生き延びる世界。
ユイは説明を続ける。
『通常の時間操作は、出来事が「いつ」起こるかを決定するものよ』
二つの時間軸が、同時に並行して動き始める。
『けれど、【逆説】がヒリンの持つ『永遠』への干渉権限(権能)と組み合わさることで、遥かに危険な現象を引き起こすの』
二つの時間軸が、互いに引き剥がされるように分離していく。
『それは、無数の出来事のうち、「どのバージョンの歴史を本物(正史)とするか」を彼女自身の意志で決定できるようにしてしまうのよ』
カイの表情が、一気に険しくなる。
『ヒリンは単に矛盾を生み出しているわけではないわ。彼女はまず、両方の可能性を同時に創り出す。そして、その『永遠』の権能によって、どちらの可能性を正史とするかを宣言するのよ』
映像の中の『時間軸B』が、霧が晴れるように薄れ始めた。
『現実世界そのものが、彼女の裁定を無条件で受け入れる。結果として、選ばれなかった時間軸は消失するわ。崩壊したわけでも、破壊されたわけでもない。最初から「一度も存在しなかったこと」になるのよ』
カイの目が、鋭く細められる。
『彼女があなたに対して【逆説】を使った時、二つの時間軸が創り出されたの。一つは、刃があなたの両手を切り裂いた世界。もう一つは、刃が外れた世界』
カイは、再構築されたばかりの自分の両手を見つめた。
『通常なら、この二つの結果はあり得ない矛盾を生み出すわ。けれどヒリンは、二つ目の時間軸を消去した。生き残った時間軸だけを残してね。彼女はそれを壊したのではない。過去に遡って「抹消」したのよ』
カイの表情が、かつてないほどシリアスに歪む。ユイの声が、一段と静かになった。
『つまり、最初から「刃が外れた」という事実は存在しなかったことになる。残された唯一の歴史は、あなたが「最初から両手を失っていた」という現実だけよ』
カイはゴクリと生唾を飲み込んだ。
「つまり俺は、傷つけられたんじゃない……」
『その通りよ』
「俺は……」
『『修正』されたのよ』
カイは絶句した。ユイはなおも言葉を続ける。
『現実世界が、ただ自分自身を最新の状態にアップデートしただけ。あなたが生き延びたバージョンの歴史は削除され、残されたバージョンが、この世に最初から存在していた唯一の歴史へと書き換えられたのよ』
カイは傍らのヴァドスとネロへと視線を向けた。ユイの声は容赦なく続く。
『もしヒリンがあのまま攻撃を続けていれば、あなたの仲間たちさえも「あなたは数秒前にすでに倒れていた」と記憶を書き換えられていたはずよ。血は最初からそこに流れ、あなたの死はすでに確定した過去となり、戦いはとっくに終わっていたことになるわ』
カイの顔が、硬鋼のように引き締まった。
「……なら、そこには『治療』すべき傷すら存在しないわけか」
『ええ、その通り』
「蘇生も、不可能」
『正解よ』
「なぜなら、俺は厳密には『死んだ』ことにならないからな」
『歴史の編集によって『削除』されるだけだからね』
カイはヒリンを睨みつけた。ユイの声が、氷のように冷たく響く。
『彼女の攻撃は、あなたの肉体を標的にしているのではないわ。あなたの『歴史』そのものを標的にしているの。彼女はあなたの存在そのものを精査し、どのバージョンのあなたならこの世に残ることを許されるかを決定しているのよ』
カイは片手で自分の額を押さえた。
「……ふざけるなよ、マジで」
『その権能に直接対抗できる既知の方法は、この世にたった一つしか存在しないわ』
カイが顔を上げた。
「何だ、それは?」
『彼女と同等の『永遠』への権能を持つ者よ』
一呼吸置いて。
『カイ・ゼロ』
さらに、もう一呼吸。
『そして、私ね』
カイは呆然と虚空を見つめた。
「おいおい……」
ヴァドスが怪訝そうにカイを見る。カイはヒリンを指差しながら叫んだ。
「そんなの、不公平にも程があるだろ!」
ネロが静かに深く頷いた。
「全くもって、同意いたします」
ヴァドスも深くため息をついた。
「まったくもってその通りだ」
--
女王の顕現
その時、カイは周囲の異変に気づき、辺りを見回した。
何かがおかしい。
世界の動きが、極端に遅くなっているのだ。
この戦場だけではない。世界の、すべてが。
風はほとんど動かず、宙に舞い上がった岩の破片も、まるで無重力空間にいるかのように空中に静止している。
遠くで放たれた魔法の光さえも、時間が凍りついたかのようにピタリと止まっていた。
カイが眉をひそめる。
「……なんで、すべての動きがこんなに遅くなっているんだ?」
ユイの返答は、即座だった。
『ヒリンが、そこに『存在』しているからよ』
カイが瞬きをする。
「何だって?」
『彼女の存在そのものが、世界の時間の流れに干渉しているのよ。彼女がそこに立っているだけで、現実世界の時間軸そのものが歪められているの』
空の雲さえも、完全に凍りついたように動かない。
『彼女の周囲では時間が減速し続けているわ。そして、彼女がこの場に長く留まれば留まるほど、その現象はさらに悪化していくことになるわよ』
カイはヒリンを見つめた。
彼女はただ、静かにそこに佇んでいるだけだ。
それなのに、ただ『存在』しているだけで、この世界の根源的な時間の流れすらも狂わせているというのか。
カイの表情が、極限まで研ぎ澄まされた。
「……で、俺たちは一体どうすればいい?」
『彼女を、落ち着かせるのよ』
「どうやって?」
『封印するの』
カイは一瞬、言葉を止めた。
「封印だと?」
『ええ』
カイはヒリンの方へと視線を向けた。
「リンとひまりはどうなる?」
『二人とも、まだ彼女の内側にいるわ』
「つまり、ヒリンを封印するということは、三人全員をまとめて封印することになるわけか」
『その通りよ』
カイは眉をひそめた。
「彼女を完全に抑え込めるほどの強力な封印を構築するのに、どれくらいの時間がかかる?」
ユイはほんの少しだけ間を置いた。
『およそ、一時間ね』
カイの目が、驚愕に見開かれた。
「一時間だと!?」
彼は再びヒリンを見つめる。
「十分も経たないうちに、俺はまた殺されてるぞ!」
『心配しなくていいわ』
カイは困惑した表情を浮かべる。
「……何がだ?」
『もう一人、助けが来るからよ』
カイの表情が変わった。
「誰だ?」
ユイはすぐには答えなかった。
直後、虚空に歪みが生じ、一つの転移門が開いた。
異質で圧倒的なプレッシャーが、戦場へと流れ込んでくる。
カイは即座に、その気配の主を特定した。
門の中から、一人の男が悠然と姿を現す。
――アイオン・スティルメア。『時の竜』。
彼の背後には、あの女の部下が控えていた。
彼女は戦場の中心に立つヒリンを見つめ、冷めた声で呟く。
「……あれが、ひまりですか」
アイオンが静かに首を振った。
「いや」
その表情が、一気にシリアスなものへと引き締まる。
「彼女はもう、かつてのひまりではない」
アイオンはヒリンを凝視した。
「遥かに恐ろしい『何か』へと変貌を遂げてしまったようだ」
部下の女が、深くため息をついた。
「そうですか。……では、私はこれで失礼します」
アイオンが驚いて振り返る。
「おい、俺をここに置いて帰るつもりか?」
彼女は迷いなく転移門へと足を踏み入れた。
「はい」
門が、音もなく閉じる。
アイオンは何もなくなった虚空を呆然と見つめた。
「……本気かよ?」
カイは思わず吹き出しそうになった。
世界が滅びかねないこの絶体絶命の危機の最中に、アイオンは自らの部下に見捨てられたらしい。
--
アイオンが宙を滑るようにして、カイの元へと近づいてきた。
「よぉ」
カイは彼を見据えた。
「やっぱりな。お前が絡んでると思ってたぜ」
アイオンが片方の眉を上げる。
「いつから気づいていた?」
「他の魔王たちとの会合の時からだ」
カイは腕を組んだ。
「お前の態度には、最初から何か引っかかるものがあったからな」
アイオンの表情が、微かに動く。
カイは言葉を続けた。
「だから、ユイに聞いてみたのさ」
アイオンが小さくため息をつく。
「それで?」
「お前が『記憶の監獄』のことを知っていたと教えてくれたよ」
アイオンは悪びれもせず肩をすくめた。
「俺を恨むなよ」
カイが片眉を上げる。
「最初から恨むつもりなんてないさ」
「俺はただ、命令に従っていただけだ」
「……そうかい」
アイオンが眉をひそめる。
「今はそんな話をしている場合じゃないだろう」
カイは彼をじっと見つめた。
「……確かに、その通りだ」
アイオンがヒリンへと視線を向ける。
「それで、あれがひまりなのか?」
カイは静かに首を振った。
「正確には違う」
彼はヒリンを指差した。
「あいつの中には、第三の意識が誕生している」
アイオンの目が、驚愕に見開かれた。
「第三の意識だと……?」
「名前は『ヒリン』だ」
アイオンは絶句したまま彼女を凝視し、やがて口元に不敵な笑みを浮かべた。
「リンの内側にひまりが潜んでいることは知っていたが……まさか二人が融合して、全く新しい意識を産み落とすとはな」
その瞳に、戦闘狂のような興奮の光が宿る。
「……実に、面白い」
カイは深くため息をついた。
「お前が面白がるだろうとは、最初から思っていたよ」
アイオンはそんなカイの言葉など気にも留めずに尋ねる。
「それで……お前はどうするつもりだ?」
カイはヒリンを見つめた。
「あいつを、封印する」
アイオンが喉の奥で低く笑った。
「なるほどな。そのためには、あいつの足止めをする人間が必要というわけか」
カイはアイオンを見据えた。
「俺が準備を終えるまで、あいつを引き付けておいてくれ」
アイオンの眼光が、鋭く尖った。
「俺に指図するな。俺がここに来たのは、ただあいつとの決着をつけるためだけだ」
カイがニヤリと不敵に笑う。
「記憶の監獄で、あいつにボコボコにされた借りを返すためか?」
アイオンの表情が、一瞬で真っ赤に変わった。
「あれは、たった一度きりの事故だ!」
「はいはい」
「何百万回もの時間軸と試行回数の中の、たった一度だけだぞ!」
「それでも、負けた事実は変わらないだろ」
アイオンがカイに指を突きつける。
「俺はあの敗北を、潔く認めたんだ!」
カイは適当に頷いた。
「分かった、分かったよ」
彼は再びヒリンへと視線を戻す。
「俺が封印を準備する間、あいつを飽きさせないように相手をしておいてくれ」
アイオンの全身から、凄まじいオーラが立ち昇る。
「言われるまでもない」
「結構なことだ」
「だから、俺に命令するなと言っている」
カイが微笑む。
「さっさと行ってこい」
アイオンが睨みつけ、カイもそれを見つめ返す。数秒の沈黙が流れた。
アイオンは深くため息をついた。
「……本当に、腹の立つ男だ」
「ナマステ……」
アイオンがヒリンへと向き直る。
「いいだろう、やってやるよ」
--
封印
カイは高度を下げ、戦場の遥か下方へと降り立った。
ネロとヴァドスもその後に続き、周囲を警戒するように着地する。
カイが両手を掲げた。
虚空に魔法陣が出現する。一つ。十。百。そして――数千もの魔法陣が、幾何学的な輝きを放ちながら展開されていく。
時間結界。次元の楔。魂の拘束構造。因果律の安定装置。そして、永遠を閉じ込めるための絶対封印式。
それらすべてが、精密な歯車のように噛み合い、連結を始めた。
ユイが念話を通じてサポートを送る。
『封印は、複数の時間状態に対して同時に機能させる必要があるわ。それに、彼女の存在そのものがこの空間の時間を歪めていることも忘れないで。すべての層に、その歪みへの対策を組み込まないとダメよ』
カイは頷いた。
「なら、何層にも重ねた『多層構造』で構築する」
『いい判断よ』
「第一層は、肉体を拘束する」
新たな魔法陣が重なる。
「第二層は、魂を繋ぎ止める」
さらに陣が展開される。
「第三層は、時間軸への権能を封じる」
空間が重厚な光に包まれる。
「そして第四層は――【逆説】によって封印そのものが真っ二つに切り裂かれるのを防ぐ防壁だ」
無数の術式が複雑に絡み合い、巨大な結界の核を形成していく。
ネロは息を呑んでその光景を見守り、ヴァドスは腕を組んで周囲に神経を尖らせていた。
カイは構築を続ける。今、彼は戦っているのではない。世界そのものを書き換えるような、究極の術式を編み上げているのだ。
この瞬間、戦場は『力の強弱』ではなく、『極限の精密さ』を競う場へと変わっていた。
だが――その時、ネロの瞳の色が変わった。
「カイ様」
カイは手元の術式から目を離さずに答える。
「何だ?」
「何者かが、こちらへ向かって接近しております」
ヴァドスもまた、空の彼方へと鋭い視線を向けた。
「……ええ、間違いありません」
新たな気配が出現した。そして、すぐ隣にもう一つ。
全部で、二つ。
強大だ。それも、尋常ではないほどに強大な気配。
カイの両手が、ピタリと止まった。
彼自身も、その気配をはっきりと感知したのだ。彼の表情が、一気に青ざめる。
ユイの声が、即座に脳裏へと響き渡った。
『カイ』
「……ああ、分かってる」
『あなたにとって、よく知っている人物がこちらへ向かっているわ』
カイの顔が、苦渋に歪む。
「……それで?」
『彼女、相当ご機嫌斜めよ』
カイは深くため息をついた。
「だろうな」
『ええ、ものすごく怒っているわ』
「……どうして、こっちに来るんだ?」
ユイはほんの少しだけ間を置いて答えた。
『リンの気配が突然消えた瞬間、あなたのご両親がそれに気づいたのよ』
カイの全身が、完全に凍りついた。
「気づいたのか……!?」
『ええ、即座にね』
「リンに、何か危険なことが起きたと思ったのか……」
『その通りよ』
カイは固く目を閉じた。
「……クソッ」
一秒後、もう一度。
「……クソッ!」
彼は片手で自分の額を強く押さえた。
「次から次へと、本当に休む暇もねえな……!」
ユイは何も言わず、静かに彼を見守っていた。
カイは、上空でアイオンとヒリンが激突しようとしている戦場を見上げた。
「もし、俺の両親がここへ辿り着いて……俺たちが自分たちの愛娘と殺し合いをしている現場を見たら――」
カイの顔が、かつてないほど引きつる。
「……一体、何をしでかすか想像もつかねえぞ」
彼は深く、重苦しい息を吐き出した。
「別に、二人に会えること自体が嬉しくないわけじゃないんだ」
その表情には、極限の疲労の色が滲んでいた。
「ただ……今は、場所もタイミングも、あまりにも最悪すぎるってだけだ」
ユイが答えた。
『念のために教えておくと……』
彼女が何を言おうとしているのか、カイにはすでに嫌な予感がしていた。
『あなたのお父様、つい最近『真なる魔王帝』へと進化を遂げたばかりよ』
カイの目が、驚愕に見開かれた。
「……いつからそんなことになってやがるんだ!?」
『本当に、つい最近のことよ』
カイは遠い空の彼方を睨みつけた。
「今はそんなこと気にしてる場合じゃねえ」
彼は隣に控えるヴァドスとネロを指差した。
「お前たち二人で、俺の親父の足止めをしてくれ」
ネロが即座に深く一礼した。
「御意のままに、カイ様」
ヴァドスも不敵に微笑む。
「お任せを」
二人の姿が、その場から掻き消えた。
--
真なる魔王帝
主戦場から少し離れた荒野で、大地が赤黒く不気味に発光し始めた。
地面の底から、圧倒的な魔族のオーラが噴き上がってくる。
直後――
――ドゴォォォォォン!!
大地を突き破り、巨大な魔界の門が姿を現した。
重厚な扉がゆっくりと押し開かれ、中から一人の男が悠然と歩み出てくる。
彼の背後には、二人の部下が恭しく控えていた。
――ダニエル。カイの父親。
かつて最高位の罪痕魔と呼ばれた男は、もはや単なる大悪魔ではない。
新たなる『真なる魔王帝』へと覚醒を遂げた、絶対的な支配者だった。
二人の部下が即座に深く頭を下げる。
ダニエルは彼らを一瞥し、静かに告げた。
「お前たちは、もう戻ってよい」
「はっ、ダニエル様」
二人は恭しく後ずさり、再び門の奥へと消えていく。
役目を終えた転移門が、音もなく大地の中へと沈み込んでいった。
周囲に、再び静寂が戻る。
ダニエルは、遥か彼方の空へと鋭い視線を向けた。
感じ取れる。リンの気配だ。私の、愛しい娘の気配。
だが――決定的に何かがおかしかった。
彼女の気配に、全く別の異質なエネルギーが混ざり合っているのだ。
時間軸の歪み。気の遠くなるほど古代の気配。そして、底知れぬ危険の香り。
ダニエルの目が、冷徹に細められた。
「……リン」
--
真なる混沌竜
戦場の遥か下方。
カイは今もなお、封印の構築を続けていた。
一層、また一層と、緻密な術式が積み上げられていく。
だが、もう一つ、対処しなければならない巨大な問題が残されていた。
母親だ。アシュリー。
『真なる混沌竜』にして、絶対的な『破壊神』。
彼女が今、凄まじい速度でこちらへと迫ってきている。
カイは地平線の彼方を見つめた。
「……どうやって、お袋をこの場から引き離す?」
彼は頭をフル回転させた。そして直後、ある一つの名前が脳裏に浮かぶ。
カイの口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「ユイ」
『なぁに?』
「ニクセラと念話を繋げるか?」
『ええ、できるわよ』
カイは目を閉じ、自らの意識を遥か彼方へと伸ばした。
(ニクセラ?)
――応答はない。
(おい、ニクセラ)
――やはり、何もない。
(いるのか?)
――完全な沈黙。
(ニクセラ?)
――反応ゼロ。
カイは不満げに眉をひそめた。
「……面倒くせえ、やめた」
彼は片手を高く掲げた。
「直接、召喚する」
虚空に巨大な魔法陣が展開される。
カイが召喚術式を起動した瞬間、空間が激しく捻じ曲がった。
そして――ポンッ、と軽い音と共に、ニクセラが姿を現した。
彼女の長い髪はボサボサに乱れており、その瞳はどこか寝ぼけたようにトロンとしている。
身に纏っているのは、薄手の寝間着とゆるく羽織っただけのローブ。誰の目に見ても、お風呂に入る直前のリラックスタイムを強制的に中断させられた格好だった。
彼女は数回、パチパチと瞬きをした。
「……ふぇ?」
周囲をキョロキョロと見回し、やがて目の前に立つカイに気づく。
「あ、やっほー、カイ」
カイも軽く片手を上げて応じた。
「よぉ」
ニクセラが不思議そうに眉をひそめる。
「私、ここで何してるの……?」
そして次の瞬間、彼女の目が驚愕に見開かれた。状況のすべてを、ようやく理解したのだ。
「――カイッ!!」
彼女はカイにビシッと指を突きつけた。
「私、一体ここで何やらされてんのよぉぉぉっ!?」
カイは即座に両手を上げて降参のポーズをとった。
「落ち着けって!」
「なんで勝手に召喚したのよ!!」
「今から説明するから!」
ニクセラの全身から、怒りのオーラが爆発的に噴き上がった。
「カイーーッ!!」
その時、ユイの声がカイの脳裏へと割り込んできた。
『ねえ、カイ』
「何だ?」
『彼女を召喚した時、彼女が何をしている最中だったか、ちゃんと想像した?』
カイは眉をひそめた。
「そんなもん、俺に分かるわけねえだろ」
『あなた、彼女のお風呂の時間を邪魔したのよ』
「知らなかったんだよ!」
ニクセラが再び絶叫した。
「カイッ!!」
「頼むから落ち着いてくれ!」
「納得のいく説明をしてもらおうじゃないの!!」
「約束する! 後で全部、一から十まで説明するから!」
ニクセラはプンプンと怒りながら腕を組んだ。
「じゃあ、今すぐ説明しなさいよ!」
カイは上空の戦場を指差した。
「その前に……俺の代わりに、ある人物の足止めをしてくれないか?」
ニクセラが呆然と彼を凝視する。
「……あんた、そのためだけに私をここまで引っ張り出したの?」
「頼む、一生のお願いだ」
彼女はジロリと目を細めた。
「……いいわよ。貸し一つだからね」
一呼吸置いて、彼女は尋ねた。
「で、相手は誰なの?」
カイは一瞬だけ言葉に詰まり、気まずそうに答えた。
「……『真なる混沌竜』だ」
ニクセラの顔から、すべての表情が抜け落ちた。
「……あんた、一体何をやらかしたのよ?」
「俺は何もやってねえよ!」
「何もやってない人間が、どうしてあの『破壊神』の注目を集めるのよ」
「だから、後で全部説明するって!」
ニクセラは深く、盛大にため息をついた。
「……絶対に後悔させてやるんだから」
直後、彼女のオーラが爆発的に膨張した。
暗黒の魔力エネルギーが渦を巻き、彼女の寝間着を瞬時に豪奢な漆黒のドレスへと変貌させる。乱れていた髪も美しく整い、その瞳からは先ほどまでの眠気が完全に消え去り、冷徹で鋭い魔王の眼光へと切り替わった。
そして――彼女の姿が掻き消えた。
超加速の余波だけで、彼女が立っていた地面がクレーターのように大爆発を起こす。
カイはその跡地を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……ありゃ、完全にブチギレてるな」
ユイが脳裏で冷静に相槌を打った。
『ええ、極限までね』
--
混沌竜と魔王
ニクセラは、猛スピードで飛来していたアシュリーの真正面へと瞬時に出現した。
「よっ」
アシュリーがピタリと空中で停止する。その目が、鋭く細められた。
「……ニクセラ」
ニクセラは不敵に微笑んだ。
「久しぶりじゃない、アシュリー」
アシュリーが腕を組む。
「こんなところで、何をしているの?」
ニクセラは少し困ったように頭の横をポリポリと掻いた。
「正直なところ――」
彼女は戦場の方角へとチラリと視線を向ける。
「私にもさっぱり分からないのよね」
アシュリーが片方の眉を上げた。
ニクセラは苦笑いを浮かべて続ける。
「ただ、あなたの足止めをしてくれって頼まれただけなのよ」
アシュリーは彼女をじっと見つめた。
「……それが賢明な判断だと、本気で思っているの?」
ニクセラの笑みが、さらに獰猛に広がった。
「あら、それって私を脅しているつもり?」
アシュリーの全身から、凄まじいオーラが立ち昇り始めた。
周囲の空気が一変する。空を覆うように分厚い暗雲が渦を巻き始め、遥か下方の大地が恐怖に震える。
アシュリーは、ニクセラの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「私の邪魔をしないで」
ニクセラの瞳に、好戦的な歓喜の光が宿った。
「ほう?」
彼女の魔王のオーラが、それに応えるように爆発する。
「なら、力ずくで通ってみなさいよ」
彼女は不敵に微笑み、片手を掲げた。
「そういえば――」
「三十年前、私たちが交わしたあの勝負……結局、決着がつかないままだったわよね?」
アシュリーの眼光が、鋭利な刃のように研ぎ澄まされた。
「……奇遇ね。私も今、まったく同じことを考えていたところよ」
二人の絶対強者が、空中で対峙する。
どちらも、一歩も引かない。
やがて、ニクセラが楽しそうに笑った。
「懐かしいわね、あの戦い」
アシュリーも静かに頷く。
「丸々、六十年間も続いたわ」
ニクセラが声を上げて笑う。
「お互いに意地っ張りで、どちらも敗北を認めようとしなかったから」
アシュリーが微かに口元を緩めた。
「だから、仕方なく休戦協定を結んだのよね」
ニクセラの目が、冷徹に細められた。
「それで……今は?」
アシュリーが片手を掲げた瞬間、『真なる混沌竜』の圧倒的な破壊のオーラが爆発的に噴出した。
「今なら、あの時始めかけた決着を――ようやく最後までつけられるわね」
ニクセラの魔王のオーラが、それに真っ向から呼応する。
空が真っ二つに裂け、地平線の彼方まで雷鳴が轟き渡った。
戦場の下方で封印の構築を続けていたカイは、遠く離れた空域で二つの途方もない存在が激突する衝撃を肌で感じ取った。
彼はゆっくりと目を閉じ、深々と息を吐き出す。
「……俺の人生、本当にもう滅茶苦茶だな」
ユイが脳裏で楽しそうにクスクスと笑った。
『今さら驚いたような口ぶりね』
カイはため息をついた。
「驚いちゃいねえよ」
彼は再び、上空のヒリンへと視線を戻した。
『永遠の女王』は今もなお、遠い空に静かに佇んでいる。
アイオンはすでに彼女を迎え撃つために動き出していた。
父親のダニエルも到着し、ヴァドスとネロが主戦場から彼を引き離すために足止めに向かっている。
そしてニクセラは、母親のアシュリーと激突した。
そんな大混乱の中で、カイは今もなお、時間軸そのものを消去できる怪物を閉じ込めるための封印を構築し続けていた。
彼は自分の周囲を取り囲む無数の魔法陣を見渡す。
「よし」
カイは軽く肩を回し、気合を入れ直した。
「仕事に戻るか」
彼らの頭上で、現実世界の空間そのものが悲鳴を上げて震えている。
そして、時間の流れが凍りついた戦場のどこか一点で――ヒリンがゆっくりと、神具『ベイス・ディヘリア』を掲げた。
『永遠の女王』は、カイの存在を忘れてなどいなかった。
たったの一秒さえも。




