第129話: 時空戦争・第4部:封印された者
ドミグラは兵器を目覚めさせるつもりだった。
だが、彼が創り出してしまったのは――全く新しい『一人の人間』だった。
輪生の向こう側から遥か遠く、通常の世界からは隔絶された異次元の空間。
リンの足元に展開されていた魔法陣が、音を立てて崩壊を始めていた。
その中心に、リンの肉体が佇んでいる。
だが、その肉体を支配しているのは、もうかつてのリンではなかった。
瞳は見開かれ、呼吸は穏やかだ。
しかし、彼女とひまりが最初に交わった時に生じたはずの、あの温もりは綺麗さっぱり消え失せていた。
優しげな表情も、微かな笑みも、かつてその瞳の奥にくすぶっていた純粋な好奇心も、すべてが消失している。
そこに残されていたのは――冷徹で、空虚な、絶対的な集中だった。
数メートル離れた場所から、ドミグラはその様子を凝視していた。
足元の魔法陣が、激しく明滅を繰り返す。
おぞましい暗黒のオーラと時間軸のエネルギーが複雑に絡み合い、急速に不安定化していく。
そして、その力の衝突の奥底から、さらなる異変が這い上がってきた。
――『第三の気配』。
ドミグラの目が、鋭く細められる。
「何だと……!?」
目の前の存在が、ゆっくりと顔を上げた。
彼女はもう、単なるリンではない。単なるひまりでもない。
一つの肉体に宿った、二つの魂。
カイの妹として生まれた、リン。
時のパラドックス(タイムパラドックス)の内部に潜んでいた、時間跳躍の概念たる、ひまり。
だが、その二つの衝突は、彼女たちの意図すら超えた『怪物』を産み落としていた。
第三の意識。新たなる存在。
それこそが――『ヒリン』という生命そのものだった。
彼女のオーラが、どこまでも膨張していく。
ドミグラは彼女を凝視しながら、ふとある思考に囚われた。
(あいつは……俺に嘘を吐いていたのか?)
その疑念に、すぐさま別の思考が重なる。
(いや、違う。あのアイオンが、これほどの存在を見誤るはずがない)
しかし、ドミグラがヒリンを見つめれば見つめるほど、彼の確信は揺らいでいった。
--
対話の記憶
数日前、あるいは数ヶ月前。
彼らのレベルの存在にとって、時間の概念ほどあてにならないものはなかった。
ドミグラは、洗練された贅沢な広間に座っていた。
大きなテーブルを挟んで彼の向かい側に腰掛けているのは、一人の男。
――アイオン・スティルメア。
『時の竜』。この世に存在する中で、最も強大な力を持つ怪物の一角。
アイオンの表情は、どこまでも冷静だった。
傍らに控える女の部下が、ドミグラのグラスに静かにお酒を注いでいく。
ドミグラは手元のグラスに目を落とし、それからアイオンを見つめた。
「それで――」
彼はグラスを持ち上げる。
「一体何の用だ、アイオン?」
アイオンは少しの間沈黙を守り、それから椅子の背もたれに深く身体を預けた。
「折り入って、頼みがある」
ドミグラが片方の眉を上げた。
「そいつは驚きだな」
彼は一口、酒を口に含んだ。
「お前ほどの強者が、この俺に一体何の助力を求めるというんだ?」
アイオンの部下が、静かに元の位置へと下がっていく。
アイオンは、ドミグラの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「まず、お前に話しておかねばならないことがある」
ドミグラは黙って先を促した。
「カイには、妹がいる」
ドミグラの表情が、微かに動いた。
「カイだと……?」
アイオンが頷く。
「名前は、リンだ」
ドミグラはグラスをテーブルに置いた。
「あの魔王に妹がいたとは、初耳だな」
「あいつらの歴史には、お前には到底理解できない複雑な事情が絡んでいるのさ」
アイオンの瞳が、一層冷徹に冴え渡る。
「仮に俺がそのすべてを説明したところで、お前は恐らく信じないだろうがね」
ドミグラは不敵に笑った。
「なら、試してみたらどうだ?」
アイオンは首を振った。
「まだその時ではない」
一呼吸置いて。
「あの娘は……この世界に決して持ち込まれてはならない『あるもの』を宿している」
ドミグラが身を乗り出した。
「具体的には、何だ?」
「それは重要ではない」
ドミグラが不満げに眉をひそめる。
「ならば、俺にどうしろと言うんだ?」
アイオンは、即座に答えた。
「お前には、カイの『足止め』をしてもらいたい」
--
ドミグラは彼を凝視し、それから低く声を上げて笑った。
「足止めだと?」
「そうだ」
「なぜだ?」
ドミグラは再び背もたれに寄りかかる。
「その娘がそれほど重要ならば、お前が自分で直接連れてくればいいだけの話だろう」
アイオンは沈黙した。
ドミグラは言葉を重ねる。
「お前は『時の竜』だぞ。時間そのものを自在に操るお前なら、何の問題もなくあの娘の元へ辿り着けるはずだ」
アイオンの目が、鋭く細められた。
「できることなら、そうしたいさ」
ドミグラの笑みが消える。
「……だが?」
「できないのさ」
ドミグラは小首を傾げた。
「なぜだ?」
アイオンの表情が、一気にシリアスなものへと変わる。
「なぜなら、カイが常にあの娘を監視しているからだ」
「一分一秒、片時も離さずにな」
「もしも何かが彼女に近づこうとすれば――」
アイオンの指先が、椅子の肘掛けをぎり、と強く締め付けた。
「カイは躊躇なく、その脅威をこの世から『消滅』させる」
ドミグラは彼をじっと見つめ、それから再び傲慢な笑みを浮かべた。
「お前ともあろう者が、新参の魔王一匹に怯えているのか?」
アイオンは、その挑発に一切動じなかった。
「信じるがいい」
彼の声が、一段と低くなる。
「お前は、あのカイという男の『本当の正体』を何も分かっていない」
ドミグラの好奇心が、さらに掻き立てられた。
「ふむ……」
彼は再び身を乗り出す。
「なら、教えてもらおうか」
アイオンはドミグラを見つめ返した。
「なぜ俺が、カイと直接関わりたくないのか、か?」
彼は一瞬だけ沈黙し、それから重々しく口を開いた。
「もし俺が……カイはすでに『二匹の真竜』を葬り去ったと言ったら――」
ドミグラの表情が、完全に凍りついた。
「――お前は、それを信じるか?」
長い、重苦しい沈黙が広間に降りる。
アイオンは言葉を続けた。
「あれらはオリジナルの真竜の模造品に過ぎなかった。だが、それでもお前ごときでは一秒と持たずに消し飛ばされるほどの、圧倒的な化け物だったのさ」
ドミグラはただ、信じられないといった目で彼を凝視した。
「……それを、カイが二匹とも殺したと?」
「そうだ」
ドミグラは数秒の間、その言葉の意味を頭の中で咀嚼しようと沈黙していた。
だが次の瞬間、彼は狂ったように大爆笑し始めた。
「ハハハハ! 冗談はよせ、アイオン!」
彼の高笑いが、広間に虚しく響き渡る。
「カイがこの俺を相手に、一分でも持ちこたえられるわけがないだろう。それはお前だってよく知っているはずだ!」
アイオンは何も言わなかった。
ドミグラはなおも身を乗り出す。
「それなのに、あいつが真竜を二匹も殺した、だと?」
彼は小馬鹿にしたように首を振る。
「一体それが、いつのどこで起きた話だ?」
アイオンはどこまでも冷静だった。
「信じるか信じないかは、お前の自由だ」
ドミグラの笑い声が、徐々に萎んでいく。
「……そんなデタラメを、俺が信じると思うか?」
「信じないのなら、それもまたお前の選択だ」
ドミグラはアイオンを睨みつけ、それから鬱陶しそうに手を振った。
「くだらんプロパガンダはそこまでだ」
--
彼は再び、鋭い視線をアイオンへと向けた。
「それで……そのリンという娘の、一体どこがそんなに特別なんだ?」
ドミグラの表情から、一切の余裕が消え去る。
「お前が俺の手を借りてまでカイを引き離したがるほどの、その理由は?」
アイオンは、ついにその核心を口にした。
「リンは、『器』なのだ」
ドミグラの目が、怪しく細められる。
「何の器だ?」
「遥かに強大な……ある『存在』の器だ」
「どれほど強い?」
アイオンの眼光が、冷徹な殺意を帯びて極限まで鋭くなった。
「――この俺と、対等なレベルの強さだ」
ドミグラの顔が、驚愕に歪む。アイオンは淡々と続けた。
「だからこそ、俺はあの器が完全に目覚め、その真なる力を手にする前に、この手で完全に『破壊』しておきたいのさ」
ドミグラの口元が、ゆっくりと、邪悪な笑みへと釣り上がっていった。
「ほう……」
彼は再び背もたれへと身体を預ける。
「なるほど、ようやく理解できたぞ」
彼は手元の酒を再び煽った。
「お前がなぜそれほどあの娘に固執するのか、その理由がな」
彼はもう一口、酒を飲み干した。
「だが……一つだけ、疑問が残る」
アイオンは、静かに彼の言葉を待った。
「俺に、何の得がある?」
ドミグラが、口元を厭らしく歪めて微笑んだ。
「俺がカイを引き付け、お前のためにその娘を奪ってきてやるとして――俺は一体、何を受け取れるんだ?」
アイオンは、一切の躊躇なく答えた。
「『真なる魔王の進化の種』をくれてやる」
ドミグラの目が、微かに見開かれた。
「……更なる高みへ至るための種か?」
「そうだ。本物の『真の魔王』へと覚醒するためのな」
ドミグラの顔全体に、邪悪な歓喜の笑みが広がっていった。
「ハハッ、それはこの上なく理にかなった取引だ」
彼は立ち上がり、自らの衣装の乱れを軽く整える。
「いいだろう。その話、乗ってやるよ」
アイオンが頷いた。
「賢明な判断だ」
ドミグラが出口へと向かって歩き出す。だが、扉に手をかける直前で、ふと足を止めた。
「……一つだけ、腑に落ちないことがある」
アイオンが彼を視線で追う。
「リンの内側にあるものがお前と対等だと言うのなら――」
ドミグラが不敵に笑った。
「なぜ、お前自身の手で直接それを叩き潰さないんだ?」
アイオンの瞳の奥が、読み取れないほど冷たく沈んだ。
「この世にはな、単純な力の強弱だけでは割り切れない『複雑な事情』というものがあるのさ」
ドミグラは興味なさげに肩をすくめた。
「まあ、お前がそう言うならそうなんだろうよ」
彼が歩み去ると、巨大な扉がその背後で重々しく閉まった。
広間に、再び静寂が戻る。
アイオンの部下である女が、ゆっくりと彼に近づいた。
「……あんな男を、わざわざ利用する必要はなかったのでは?」
アイオンは座ったまま、ピクリとも動かない。
「分かっている」
「ドミグラが、どのような性根の男であるかも理解しているはずです」
「ああ」
「あいつは最終的に、あなたが命じていない余計なことを仕出かしますよ」
アイオンは、微かに冷酷な笑みを浮かべた。
「気にするな」
彼の視線が、窓の外の虚空へと向けられる。
「どうせ、あいつは遅かれ早かれ『死ぬ』運命にあるのだからな」
部下の女が、怪訝そうに眉をひそめた。
アイオンは言葉を続けた。
その眼光が、遥か遠い過去を見つめるように研ぎ澄まされていく。
「そして、あいつが消えたその後で――俺は『彼女』と再び、決着をつけるだけだ」
女は深くため息をついた。
「……まだ、そのことに執着しているのですね」
アイオンが嗤う。
「随分と、長いこと待たされたからな」
彼は遥か彼方の空を見つめた。
「ひまり……」
その声が、一段と低く、冷たく響く。
「次に相見まみえる時こそ――俺は絶対に、お前に敗北などしない」
--
時の監獄
アイオンには、確固たる記憶があった。
彼はかつて、ひまりを完全に打ち負かしたことがある。一度や二度ではない。何百万回、何千万回とだ。
『時の監獄』の内部において、アイオンは彼女を何度も、何度も殺し続けた。
時間そのものを絶対的な凶器へと変えて。
ひまりが抵抗の術を見つければ、彼は即座にその世界の前提条件を書き換えた。彼女がその環境に適応すれば、すぐさまその首を撥ねた。
そこには脱出の道も、勝利の可能性も、終わりの瞬間すらも存在しなかった。
――ひまりが『変貌』を遂げる、その瞬間までは。
彼女は、単一の存在(自分)としてアイオンを打倒することを諦めた。
代わりに、彼女は時間軸のすべてを渡り歩き、自らの「過去」「現在」「未来」のすべてを一つへと統合したのだ。
三つの時間的実在が、完全に一つへと重なる。
その結果産み落とされたのは、アイオンの予測を遥かに超えた『怪物的な進化』だった。
時間という概念そのものの枠組みを超越し、その頂点へと君臨する存在。
――【時ノ支配者】:永遠の女王。
その時初めて、アイオンは敗北した。ひまりが彼を完全に叩きのめしたのだ。
だが、『記憶の監獄』が完全に崩壊を迎える直前、ひまりはもう一つの決断を下した。
彼女は、自らの権能の一つである【時空矛盾】の内部へと、自分自身の存在を完全に封印した。
そこに身を潜め、来るべき時をじっと観察し、自らの魂を受け入れるべき『器』を探し求め続けた。
そして最終的に、彼女が見つけ出したのが――リンだった。
--
だが、ひまりはリンの肉体を単純に乗っ取ることなどできなかった。
リンにはすでに、彼女自身の確固たる魂があり、意識があり、人生が存在していたからだ。
やがて、カイが妹の内部に宿る『第二の魂』の気配を察知した時、彼はその危険性を即座に看破した。
そのような異常な条件下では、二つの魂が同じ一つの器の中に永久に共存することなど不可能。
いずれ、どちらか片方の魂が、もう片方を完全に噛み砕いて消滅させてしまう。
カイの力なら、ひまりを殺すことは容易だった。彼女の魂をこの世から抹消し、リンだけを救う選択もできたはずだ。
たとえ、ひまりがカイ・ゼロによって創り出された偽物だと知っていても。かつて、自分を記憶の監獄に閉じ込めるための『道具』として使われていた存在だと分かっていても。
それでも――カイには、自分の『姉』を殺すことなどできなかった。
だからこそ、彼はあの封印を創り出したのだ。
ひまりを破壊するためでも、消し去るためでもない。ただ、その強大すぎる存在を穏やかに抑え込むための封印。
ひまりがリンの魂を喰らい尽くすのを防ぎ、同時に『二人とも』を生かし続けるための絶対の檻。
長い間、その封印は完璧に機能していた。
アイオンは、そのすべてを知っていた。
すべてを把握した上で、彼はドミグラをリンの元へと送り込んだのだ。
ドミグラには、ひまりの真なる正体を何一つ教えていなかった。
あの封印が、単に強大な力を閉じ込めているだけでなく、『生きた二つの意識』を隔離しているのだという事実も説明しなかった。
そして何より――あの封印が不適切に解除された時、一体どれほど悍ましい事態が引き起こされるかという警告すら、一切口にしなかった。
アイオンは、ひまりの力など欲していなかった。リンの肉体にも興味はない。
彼が求めているのは、ただ一つ。『再戦』だけだ。
だが――ドミグラという男の強欲さは、アイオンの想定を遥かに超えていた。
--
過ち
そして現在。ドミグラの次元の内部。
『ヒリン』は、未だにそこに立ち尽くしていた。
彼女から放たれるオーラが、一層その凶悪な密度を増していく。
ドミグラは、ようやく自らの計画が根底から破綻したのだと気付き始めていた。
封印は確かに解除された。だが、そこから這い出てきたのは、彼の想定していたような都合のいい兵器などではなかった。
単なるひまりではない。単なるリンでもない。
二つの魂は、彼女たち自身の制御すらも受け付けない『未知の領域』へと衝突してしまったのだ。
カイ・ゼロに対する、ひまりの憎悪は途方もなく巨大だった。
何百万もの死、何百万もの時間軸、何百万もの凄惨な戦い。その果てしない経験の中で蓄積された絶対的な怨嗟。
その悍ましい憎悪が、リンの魂へと一気に流れ込んだ。
そして、リン自身の激しい感情が、その怨嗟と爆発的に共鳴した。
一方がもう一方を喰らうのではない。二つの強大な力が完全に溶け合い、第三の、全く新しい意識を誕生させてしまった。
それこそが――『ヒリン』。
直後、彼女のオーラが爆発的に跳ね上がった。
――ドゴォォォォォン!!
次元の空間全体が、悲鳴を上げるように激しく震動する。
ヒリンの足元に展開されていたあの魔法陣が、粉々に砕け散った。ドミグラの表情が驚愕に歪む。
床には無数の亀裂が走り、次元を隔てる障壁そのものが自重に耐えかねて歪み始めていた。
ヒリンが、ゆっくりと、その顔を上げた。
その瞳には、もはやリンとしての温もりも、純粋な好奇心も、怯えの色すらも存在しなかった。
そこにあるのは――冷徹で、古代の神のごとく超然とした、一切の慈悲を削ぎ落とした絶対の虚無だった。
ドミグラは、さらにもう一歩後退した。
今のヒリンの精神には、ただ一つの思考しか存在しない。
(ドミグラを、殺す)
それ以外のことは、何一つとしてどうでもよかった。あいつの問いかけも、あいつの言い訳も、あいつが封印を解いた理由さえも。
あるのはただ、あいつの『死』という結末だけ。
ドミグラが何かを喋ろうと口を開いたが、ヒリンは一切の拒絶を返した。
あいつの存在を認めない。あいつの言葉など、聞くに値する一切の価値がない。
彼女の冷徹な眼光は、ただ真っ直ぐにあいつを捉え続けていた。
彼女の身体から放射される、狂気的なまでの殺意が、一秒ごとにその密度を増していく。
ドミグラの表情が険しく強張った。この怪物が、最初から交渉の余地など一ミリも残していないことに、ようやく気付いたのだ。
--
ヒリンのオーラが、再び爆発的に跳ね上がった。
その圧倒的な存在感の前に、次元そのものが悲鳴を上げて震える。
彼女が、一歩、前に踏み出した。
静まり返った空間に、その足音が鋭く響き渡る。
――コツ。
ドミグラは本能的な恐怖に突き動かされ、咄嗟に両手を構えた。
ヒリンは歩みを止めない。その瞳は、寸時もあいつから逸れることはなかった。
彼女の周囲を流れる時間のうねりが、さらに歪みを深めていく。
空気は鉛のように重く沈み込み、次元の障壁は彼女の存在が放つ絶対的な圧力に耐えかねて、目に見えて湾曲し始めていた。
ドミグラがさらに距離を取ろうと身を引く。
ヒリンが再び、足を動かした。
もう一つの足音。もう一つの残響。
――コツ。
あいつの恐怖は、瞬く間に激しい怒りへと変貌を遂げた。
都合のいい兵器を手に入れるはずだった。自分の意のままに操れる、強大な力を我が物にするはずだったのだ。
それなのに、自分が目覚めさせてしまったのは――自らの死だけを狂おしいほどに渇望する、絶対的な天敵だった。
ヒリンが、そっと手を掲げた。
その指先に、悍ましい暗黒のオーラと複雑に絡み合いながら、莫大な時間軸のエネルギーが収束していく。
ドミグラの目が大きく見開かれた。
あいつは必死に防御障壁を展開しようとした。
だが、その瞬間、ヒリンの殺意が極限まで跳ね上がる。
彼女がまだ触れてさえいないというのに、展開されかけた障壁にピキピキと無数の亀裂が走った。
ドミグラの顔が、絶望に染まる。
あいつは、ついに理解した。ヒリンが言葉に耳を貸さないのは、この後に起きる結末を、すでにその精神の中で完璧に『決定』しているからなのだと。
そこには対話など存在しない。
警告も、前触れもない。
一切の慈悲を排した、ただ純粋な『死』のみがそこにある。
ヒリンの指先が、ゆっくりと、完全に閉じられた。
――ドゴォォォォォン!!
次元の空間が、かつてないほど激しく烈震する。
周囲の空間そのものが自重で圧壊し始め、ドミグラの全身の筋肉が恐怖でガチガチに硬直した。
ヒリンは、ただ冷徹に、空虚な瞳であいつを見つめ続けていた。
その脳裏に刻まれた、絶対の命令。
(殺せ)
次の瞬間、彼女の姿がその場から完全に掻き消えた。
――こうして、破滅の戦いが幕を開けた。
つづく




