第127話: 時空戦争・第2部:本来、目覚めるはずのなかった者
世界は、ようやく静寂を取り戻した。
平和になったわけではない。ただ、静かになっただけだ。
それは、途方もない何かが起きた後に訪れる、あの重苦しい沈黙だった。
大陸中の一人々が、突如として脳内に流れ込んできた奇妙な記憶を必死に理解しようとしていた。
会ったこともない誰かの顔を思い出す者。
戦ったこともない戦場の記憶に苛まれる者。
そして、理由も分からず、ただ一つの名前を思い出す者。
――カイ。
その記憶は、決して偶然の産物ではなかった。
それは、消去され、封印され、あるいは書き換えられた人生の『残響』。
記憶を受け取った者は皆、この世界を揺るがした異変の、その遥か先へと繋がる巨大な謎の「糸」となった。
空間の遥か彼方。
その異変は、決して届いてはならない「ある人物」の元へと到達しようとしていた。
--
日本の、とある警察署。
その日の署内は、異様な慌ただしさに包まれていた。
鳴りやまない電話。廊下を行き交う警察官たち。山積みにされた報告書。
窓から差し込むうららかな午後の陽光だけが、その喧騒から完全に切り離されている。
オフィスの一角。
小林ひまりはデスクに座り、書類に目を走らせていた。
淡々と文字を追っていた彼女の手が、ふと止まる。
奇妙な感覚が、全身を駆け抜けた。
指先から突然、力が抜ける。
持っていた書類が手元から滑り落ち、デスクの上へと散らばった。
「え……?」
ゆっくりと顔を上げる。
何かがおかしい。
目に見えない、強烈な圧迫感。それは肉体的なものではなく、彼女の魂の奥底にまで直接突き刺さるような衝動だった。
ひまりは震える手で、自分の胸元を強く押さえた。
「な、に……これ……」
その瞬間、最初の記憶が脳裏にフラッシュバックした。
草原を笑いながら走り回る、一人の小さな男の子。
その子を呼ぶ、女性の声。
その後ろを追いかける、幼い少女。
ひまりは硬直した。
さらに、別の記憶が強引に割り込んでくる。
すぐ隣に座っている、その男の子。
自分で作ったおもちゃを自慢げに見せて、声を上げて笑っている。
今度は、泣いている。
そして、愛おしそうに彼女に抱きついてくる。
ひまりの目が見開かれた。
「嘘――」
勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が派手な音を立てて後ろに倒れた。
記憶の奔流は止まらない。
小さな男の子。私の、弟。
その小さな手を握る、自分の手。
彼を呼ぶ自分の声と、それに答える彼の声。
その手の温もりも、弾けるような笑い声も、はっきりと鮮明に思い出せる。
それは本来、彼女の日常に存在するはずだった、数え切れないほどのありふれた、温かい記憶。
だが、この世界では、そんな出来事は一度だって起きていない。
それは、別の世界の記憶。
ひまり自身からその存在すら完全に消し去られていたはずの、消滅したはずの人生。
それが、今この瞬間に蘇った。
ひまりの膝から、がくんと力が抜ける。
「……私に、弟がいたの?」
声が、激しく震えていた。
そして、最後の記憶が現れる。
一つの顔。一つの名前。見知らぬ奇妙な空の下に立つ、一人の少年。
――ハルト。
ひまりの瞳が、驚愕に染まる。
「ハルト――」
その名前を口にした瞬間、脳を叩き割るような激痛が炸裂した。
「あああああああああ!」
ひまりは悲鳴を上げ、そのまま硬い床へと崩れ落ちた。
オフィスに響き渡ったその絶叫に、外にいた数人の同僚たちが足を止める。
「今の声、何だ?!」
「おい、中からだぞ!」
扉が乱暴に開け放たれた。
「ひまり?!」
駆け込んできた二人の警察官が、その光景に息を呑んだ。
床の上で、ひまりが意識を失って倒れている。
その顔からは、鼻、耳、目頭、そして口元から、どくどくと血が流れ落ちていた。
「救急車だ! すぐに呼べ!」
「了解!」
一人が狂ったように無線を掴む。
「緊急事態! 警察官が倒れた! 至急、救急車を要請する!」
もう一人がひまりの傍らに跪き、その肩を揺さぶった。
「ひまり! 頼む、目を開けてくれ!」
応答はない。彼女の身体は、ぴくりとも動かなかった。
やがて到着した救急隊によって、ひまりは外へと運び出されていった。
何が起きたのか、彼女が何を見たのか、なぜ数秒前まで健康だった人間がこれほど無惨に倒れたのか、知る者は誰もいない。
だが、深く沈んだ意識の底で、ひまりは今もまだ「彼」を見つめていた。
私の弟。ハルト。
空間のさらに奥底で、もう一つの存在が蠢き始める。
この世界に生まれることのなかった、もう一人の「ひまり」が、目を覚まそうとしていた。
--
数百キロメートル離れた高速道路。
一台の黒い乗用車が、滑るように走行していた。
ハンドルを握っているのは、健二。
片手をハンドルに軽く添え、もう片方の手で退屈そうにラジオのチャンネルを回している。周囲の車流はいたって正常。何一つ、不穏な空気はなかった。
その時、健二の身体に異変が起きた。
突如として、全身に恐ろしいほどの痺れが広がっていく。
ハンドルを握る指先が、ガチガチに硬直した。
「な、んだ……これ……」
視界が急激に歪み、フロントガラスの向こうの世界がスローモーションのように遅くなる。
正式に見えた。
一人の青年の顔。全く見覚えのない、見知らぬはずの男。
だが、その顔を見た瞬間、健二の心の奥底にある「何か」が、音を立てて激しく弾け飛んだ。
目を見開く。
「誰だ……?」
顔の幻影が消え去る。
窒息しそうなほどの締め付けが胸を襲い、闇の底から一つの名前が浮かび上がった。
――ハルト。
両手の感覚が、完全に消失する。
「何が起きてるんだ……?」
車が車線を逸脱し、急激に斜めへと走り出す。
激しいクラクションの音が周囲に響き渡った。健二は必死にハンドルを戻そうとしたが、身体が一切言うことを聞かない。
もう、間に合わなかった。
対向車線から、巨大なトラックが猛スピードで迫ってくる。トラックの運転手が悲鳴のようなブレーキ音を響かせた。
健二の瞳孔が開く。
「しまっ……!」
――ドガアアアアアアアン!!
凄まじい衝撃と共に、乗用車のフロント部分が一瞬で大破した。
鉄くずのようにネジ曲がる車体。高速道路に飛び散る無数のガラス片。その衝撃の凄まじさに、大型トラックが横転しかける。
後続の車たちが白煙を上げながら急ブレーキをかけ、何人もの人々が助け出そうと車から飛び出してきた。
立ち上る煙の中、健二はぐったりとシートに倒れ込んでいた。
顔全体が血に染まり、呼吸は浅く、今にも途絶えそうだ。
意識が完全に暗転する直前、彼の脳裏に最後の思考がよぎった。
(あの顔……一体、誰なんだ……?)
そして、世界は完全な闇に包まれた。
--
人間の王国から遥か彼方、魔界の領域。
ダニエルは、たった一人で佇んでいた。
世界を包み込んだ奇妙な圧迫感が発生して以来、この最高位の罪痕魔は一言も発さず、ただ静寂を守っていた。
その時、彼の身体に電撃のような衝撃が走った。
ダニエルの威厳ある両目が、驚愕のあまり大きく見開かれる。
「このエネルギーは――」
遠い地平線へと、彼は視線を引き戻した。
奇妙な感覚が、その脳裏へと滑り込んでくる。
一人の子供。小さな男の子。そして、記憶。
ダニエルは、まだ幼いカイをその腕に抱く自分自身の姿を見ていた。
男の子が笑い、走り回り、無邪気に遊んでいる。
その隣には、リンの姿があった。
さらに傍らには、微笑むアシュリーの姿。
家族だ。
彼の、家族。
ダニエルの表情が変わった。
さらに別の記憶が浮かび上がり、彼はゆっくりと目を閉じた。
自分の隣に腰掛けているカイ。
他愛のない質問を投げかけてくるカイ。
くだらないことに声を上げて笑うカイ。
ダニエルの耳に、息子の声が届いていた。
この世界では、一度だって聞いたことのないはずの声が。
彼の拳が、ぎり、と握り締められる。
「カイ……」
何年ぶりだろうか。ダニエルは、説明のつかない感情に胸を支配されていた。
なぜその名がこれほど痛むのか、なぜその記憶がこれほどリアルなのか、彼には分からなかった。
だが、それは間違いなく現実だった。
さらなる記憶の波が、彼の身体を突き抜ける。
ダニエルは目を開けた。
「……私の、息子だ」
彼はもう一度、その言葉を呟いた。
「私の、息子だ」
記憶は、単に忘れ去られた血縁の事実を告げているのではなかった。
かつてこの世界には別の歴史が存在し、そこではカイが間違いなく全員の「中心」にいたのだということを、証明していた。
--
地平線に佇む家
アシュリーが受け取った記憶の衝撃は、他の者たちとは異なっていた。
断片などではない。
彼女の元には、その『すべて』が押し寄せていた。
異変が彼女に到達した瞬間、アシュリーは完全に硬直した。
その瞳から焦点が消え去り、周囲の世界が急速に遠のいていく。
見えたのは、カイの姿だった。
強大な力を手に入れた現在の姿ではない。戦士でも、魔王でも、竜魔の姿でもない。
ただの、自分の子供。
草原を駆け回る、一人の小さな男の子。
その弾けるような笑い声が、空間を満たしていく。
男の子は、リンの後を追いかけていた。
「待ってよ!」とリンが叫ぶ。
カイは笑った。「お姉ちゃん、遅いよ!」
「遅くないもん!」
その様子をすぐ近くで見守りながら、アシュリーは微笑んでいた。
そして、次の記憶が引き出される。
眠っているカイに、アシュリーが優しく毛布をかけている。
料理をする彼女の隣に、ちょこんと座っているカイ。
自分の名前を必死に発音しようとしているカイ。
その隣で、楽しそうに笑うリン。
記憶の奔流は止まらない。
ありふれた日常、すべての笑顔、すべての口喧嘩、すべての抱擁。
彼女が忘れてしまっていた、愛おしい些細な出来事のすべて。
やがて、かつてカイとリンが眠っていた部屋の光景が現れた。
アシュリーは、幼いカイの隣に立っていた。
彼女は、壁に何かを書き込もうとするカイの手を手伝っている。
小さな男の子は、慎重に文字をなぞっていた。
『K』。それから『A』。そして『I』。
最後の文字が完成するのを、アシュリーは見守っていた。
――『KAI』。
記憶が、淡く消えていく。
アシュリーが目を開けると、彼女はまさにその同じ部屋の中に立っていた。
冒険へと旅立つ前に、リンが暮らしていた部屋だ。
数秒の間、彼女は微動だにしなかった。
それから、ゆっくりと壁に向かって歩き出した。
その両手が、激しく震えている。
そこにあった。
経年で色褪せてはいるものの、はっきりと目視できる文字。
――『KAI』。
アシュリーはその文字に触れ、愛おしそうにゆっくりとなぞった。
その表情が、一瞬で崩れ去る。
瞳に、大粒の涙が溢れ出た。
「嘘……」
声が、掠れた。
彼女はその場に崩れ落ち、膝を突いた。
「私に……息子がいた……」
指先は、壁の文字に触れたままだ。
「あの子の名前は、カイ……」
涙が、どうしても止まらない。
「私に、息子がいたのよ……」
アシュリーは壁に額を押し当てた。
「カイ……」
この世界に降り立って初めて、アシュリーは我が子の存在を思い出した。
曖昧な違和感でも、ちぎれた断片でも、可能性の仮説でもない。
明確な『事実』として。
私の息子は、確かに存在した。
そして、どういうわけか、今もどこかで生きている。
--
ドミグラの空間
別の場所では、リンが未だに囚われの身となっていた。
彼女の肉体は複雑な魔法陣の内部に吊るされ、エネルギーの鎖によって何重にも束縛されている。
マイバックの姿はどこにもない。
残されたドミグラだけが、彼女の魂に刻み込まれた奇妙な封印をじっと観察していた。
「なるほど、これか」
彼が片手をかざすと、いくつもの魔方陣が展開される。
その封印は、ドミグラがこれまでに遭遇したどんなものとも異なっていた。
単なる制圧技術ではない。これは、極めて危険な「何か」を内側に閉じ込めるために設計されたものだ。
ドミグラの目が細められる。
「通常の手段では、この封印を破ることは不可能だな。封印そのものの強度を遥かに凌駕する存在が必要となる」
彼は分析を続けた。
やがて、その口元が邪悪に釣り上がる。
「そして、これを弱めることができる存在は、世界にたった一人しかいない」
答えは最初から分かっていた。
カイ。この封印の本来の主。
その皮肉さに、ドミグラは可笑しそうに笑った。
リンの内側にある危険から彼女を守っている封印は、それを作った本人にしか弱めることができないのだ。
ドミグラが手を下ろす。
「だが……もしも封印の『意識』が、別の何かに逸れたとしたら?」
彼がリンへと視線を向けた。
その瞬間、彼女の身体が激しく びくり と震えた。
「あああああ!」
脳内を掻きむしるような激痛が走り、リンが悲鳴を上げた。
脳裏に記憶が洪水のように流れ込んでくる。
数々の顔。数々の戦場。数々の死。
カイ、ユイ、ソフィア、ソラ、アシュリー、ダニエル。
知っている者。そして、見覚えのない者たち。
リンが再び、絶叫した。
「あああああああああ!」
ドミグラはその様子を凝視した。
封印が、即座に反応を見せる。
そのエネルギーが急速に跳ね上がり、記憶の奔流がリンの精神を崩壊させようとした瞬間、封印がそれを力ずくで抑え込んだ。
彼女の正気を、守ろうとしているのだ。
ドミグラの目が細められた。
「そういう目的か。面白い」
彼は一歩、足を進める。
「封印は、単にもう一つの魂を幽閉しているだけではない。二つの意識の衝突によって、宿主の精神が崩壊するのを防いでいるのだな」
リンの身体が激しく痙攣する。
ドミグラが手を掲げ、その笑みをさらに深めた。
「興味深い。もしもこの封印が、彼女の精神を守るためにそのリソースを割いているのだとすれば……私に抵抗するための全力は出せないというわけだ」
彼の指先が怪しく動く。
「ならば、その『保護』を取り去った時、一体何が起きるか試してみよう」
拘束の鎖の中で、リンが必死に抗った。
「触ら、ないで……!」
ドミグラは耳を貸さなかった。
直後、封印に亀裂が走り始める。
――パリ、ン。
リンが悲鳴を上げる。
「やめて!」
――バリ、バリ。
さらなる破壊の亀裂が広がる。ドミグラの笑みが狂気的に広がった。
そして――封印が、完全に消失した。
一秒の間、完全な静寂が訪れる。
リンの身体から一切の動きが消え失せた。
ドミグラがその様子を凝視する。
「……成功か」
その瞬間、リンの目がカッと見開かれた。
だが、その瞳は、先ほどまでの彼女のそれではなかった。
--
もう一つの魂
リンの身体から、凄まじい力の波動が爆発的に噴出した。
――ドゴォォォォォン!!
次元の空間全体が、激しく揺れ動く。
ドミグラの巨体が、衝撃波によって後方へと吹き飛ばされた。
「何だと!?」
リンの肉体は、宙に浮いたまま停止している。
彼女の髪が重力を無視して逆立ち、周囲には不気味な真紅と紫紺のエネルギーが渦巻いていた。
そして、現れた。
リンの内部でずっと眠り続けていた、もう一つの意識。
無数の時間軸を渡り歩いてきた魂。
数百万回もの死を経験してきた魂。
かつて、自分のすべてを懸けてカイを愛した魂。
そして、最終的に『世界の真実』へと辿り着いた魂。
彼女が、その目を静かに開けた。
――ひまり。
だが、これは日本のひまりではなかった。
日本にいるひまりは、この世界の修復された記憶を持つ『本物』。
消去された家族の歴史が戻り始めたばかりの、ただの少女。
この場に現れたひまりは、決定的に違っていた。
彼女は、カイ・ゼロによって創り出された存在。
本物のひまりのアイデンティティを基に構築され、記憶の監獄の内部で生を与えられた、精巧な模造品。
肉体も、記憶も、感情も。すべてはある役割のために捏造されたものだった。
だが――その役割の中で育まれた彼女の意識だけは、間違いなく本物になっていた。
彼女は、記憶の監獄の中で生きてきたひまり。
役割を与えられた存在。
カイの死を阻止することだけを目的として作られた、哀れな人形。
役割は偽物だった。
だが、感情は偽物ではなかった。
カイを愛する気持ちは本物だった。
彼女の記憶は本物だった。
彼女の味わった絶望は、本物だった。
しかし、真実を知った時、彼女の心は激しい怒りに焼き尽くされた。
カイ・ゼロは、同じ物語を何度も何度も繰り返させるために彼女を創ったのだ。
死、死、死。時間軸のループ。終わりのない戦い。
何百万もの『彼女』が死んでいった。
何百万もの『彼女』が、カイの死を目の当たりにしてきた。
何百万もの『彼女』が、それを阻止しようと足掻いてきた。
すべては、カイ・ゼロが彼女の存在に刻み込んだ、ただ一つの目的のため。
――カイを守れ。
だが、真実を知った瞬間、その目的は激しい憎悪へと変貌した。
カイへの憎しみではない。決して、カイではない。
彼女の憎悪のすべては、己の全存在を弄び続けた元凶――カイ・ゼロへと向けられていた。
そして今、彼女は目覚めた。
--
融合
ひまりは混乱しながら、周囲を見回した。
そしてすぐに、自分が今宿っている肉体の感覚に気づく。
リン。
彼女は自分の両手を見つめた。
「この、身体……」
声が震える。
「リン……?」
リンの意識は、まだそこに存在していた。
すべてを聞き、すべてを感じていた。だが、二つの精神を隔てていた封印はもう存在しない。
一瞬、どちらも言葉を発しなかった。
リンは、自分の鼓動の下にもう一つの心臓があるかのように、ひまりの存在をはっきりと感じていた。
それは、精神を無理やり乗っ取ろうとする侵入者の気配ではなかった。
自分と同じ暗闇の中に立ち、自分と同じように戸惑っている、怯えた意識の塊。
(私の身体から出ていって)
リンは思考で拒絶した。だが、その言葉の裏にある恐怖は、怒りよりも遥かに強かった。
ひまりにはそれが聞こえていた。
(分からない。どうしてこんなことになっているのか、私にも……)
リンの息が詰まる。
(あなたが……私の中にいたのね)
(そうよ)
(だったら……カイに何が起きたのか、知っているの?)
ひまりが答えるより早く、彼女の記憶が勝手に答えを提示した。
無数の時間軸で死んでいくカイの姿。
彼に向かって必死に手を伸ばす、自分自身の姿。
果てしないループの中に彼女の人生を閉じ込めた、カイ・ゼロの悍ましい両手。
その記憶はあまりにも鮮烈で、リンはまるで自分自身の事であるかのように、その深い悲しみを同時に味わわされた。
リンは思わず身をよじる。
(やめて……! 見たくない……!)
(私だってそうだった。だけど、一度だって止まってはくれなかったの)
それに応じるように、今度はリン自身の記憶が激しく噴出した。
アシュリーの声。ダニエルの佇まい。
思い出し始めたばかりの、幼少期の記憶。
自分の隣で笑い、名前を呼び、必ず戻ってくると約束してくれたカイの姿。
ひまりはその記憶の温もりを感じ、同時にその奥底にある恐怖を察知した。
(あの子は、あなたの弟なのね……)
ひまりが囁いた。
(ええ)
(そして……私はあの子を愛していた)
リンの恐怖が、より鋭利に突き刺さる。
(愛して、いた……?)
(今でも愛しているわ)
その言葉には、何の要求も含まれていなかった。
カイを我が物にしようとする意図など微塵もない。ただ、悲しみに擦り切れた純粋な告白だった。
リンはそれを拒絶したかった。
カイは私の家族だと言い張りたかった。ひまりの記憶など偽物で、カイ・ゼロによって創られたものに、自分が失った人生を汚す権利などないと思いたかった。
だが――リンは感じてしまった。
ひまりの抱える、圧倒的な孤独を。
それは模造品の孤独ではない。プログラムされた反応でもない。
本物の、孤独だ。
すべての死を記憶したまま、何度も何度も死に続けてきた者だけが持つ、果てしない闇。
リンの怒りが、急速に萎んでいく。
(あなたは……あの子を守るために作られたのね)
(私は、あの子の苦しみを繰り返すために作られたの)
ひまりが答えた。
(あの子を守ると決めたのは、私自身よ。その長い道のりのどこかで……あの子の存在が、私にとっての本物になったから)
リンは目を閉じた。
この世界で目覚めた後、初めてカイの気配を感じた時のことを思い出す。
説明のつかない懐かしさ。抗えない引力。大切な何かを奪われたという、あの強烈な恐怖。
ひまりがその原因なのだと思っていた。
だが、今なら分かる。ひまりもまた、反対側の世界から全く同じ傷を抱えて生きてきたのだ。
(あなたが、私の場所を奪おうとしているのだと思ってた)
リンは本音を漏らした。
(私は、あなたが私を憎むだろうと思ってた。あの子を愛している、私を)
互いの生々しい本音が、二つの魂を沈黙させた。
--
その時、さらなる記憶の奔流が押し寄せた。
カイ。彼女の、兄。
リンの目が大きく見開かれる。
「待って――」
脳内に映像が溢れかえる。
小さな男の子。家族。アシュリー。ダニエル。ひまり。リン。そして、カイ。
彼女の兄。本当の、兄。
リンの呼吸が乱れた。
「カイ……」
その名前を、ひまりもまた聞き届けた。
表情が変わる。
「カイ……?」
リンの意識が答えた。
(あの子は、私の兄よ)
ひまりが硬直した。
そして次の瞬間、二つの魂は同時に一つの真実に到達した。
彼女たちは、敵ではなかった。
二人は、同じ一人の少年によって強く結ばれていたのだ。
ひまりはカイ・ゼロによって創り出された、本物のひまりの模造品。カイを中心とした無数の偽りの時間軸を生きることを強制された存在。
リンはこの世界に、カイの妹として生を受けた存在。
辿ってきた歴史は違う。だが、二人とも自分たちの想像を超える形でカイと繋がっていた。
そして今、ドミグラが封印を破壊したことによって、その二つの歴史が一つの肉体へと強制的に押し込められたのだ。
二つの意識が、激しく衝突する。
リンが悲鳴を上げた。ひまりも叫んだ。
次元の空間が、狂ったように揺れ動く。
ドミグラの表情が、ついに驚愕へと変わった。
「何が起きている……!?」
リンを包み込むエネルギーが、急速に不安定化していく。
リンはひまりの記憶の濁流に必死に抗っていた。それを受け入れてしまえば、自分自身が消えてしまうのではないかと恐怖したのだ。
ひまりはリンのパニックを感じ取り、必死に引き込もうとしたが、もう退くべき場所などどこにも残されていなかった。
封印は消え、二人の間を隔てる空間は完全に崩壊している。
(消えたくない……! 私は消えたくない……!)
リンが叫んだ。
(消えさせはしないわ)
ひまりが答える。
(どうして……そんなことが言えるの……!?)
(だって……私だって、消えたくないもの)
リンは、ひまりの恐怖を感じ取った。
激しい怒りの裏で、無数の死の裏で、ひまりもまた同じことを恐れていたのだ。
誰かに創られた『目的』や『記憶』、ただの『道具』へと成り下がることを。
リンには、その恐怖が痛いほど理解できた。
自分自身、これまでの人生を誰かの計画の『器』として、囚人として、弱点として扱われ続けてきたのだから。
どちらも、上書きされたくなどなかった。
どちらも、新たな犠牲にされたくなどなかった。
(もし私たちが混ざり合ったら……どちらが生き残るの?)
リンが問いかける。
(分からない……)
(だったら、どうしてこれ以上、私に抗おうとしないの……!?)
ひまりの答えは、静かに、優しく響いた。
(あなたが……どれほど疲れ切っているか、私に伝わってくるからよ)
リンの抵抗が、ふっと弱まった。
(そして……私がどれほど怯えているか、あなたにも伝わっているはずだから)
リンはそれを否定できなかった。
初めて、彼女はひまりを拒絶しようとするのを止めた。
ひまりもまた、同じように拒絶を止めた。
二人の記憶が、互いを傷つけることなく、静かに触れ合い始める。
リンは、ひまりが記憶の監獄の中で初めて見せた、心からの純粋な笑顔を見た。
ひまりは、リンがカイの帰りを健気に待ち続けていた姿を見た。
リンは、ひまりが失ってきたすべての人生の重みを感じた。
ひまりは、リンが思い出したばかりの、あの温かい家族の絆を感じた。
記憶は混ざり合っても、それぞれの形を保っていた。
痛みもまた、別々のままそこにあった。
だが――もう、それを一人で背負う必要はなかった。
(あなたを、消し去ったりはしないわ)
リンは、心の中でそう約束した。
(そして、私もあなたからあなた自身を奪いはしないわ)
ひまりが応じた。
リンの恐怖が、ゆっくりと、確実に解きほぐされていく。
(だったら……ここにいて)
ひまりの返答は、即座だった。
(あなたが許してくれるなら。喜んで)
リンは、隣にいる存在へと自らのすべてを解放した。
(許すわ。だから――)
二つの魂が、融合を始めた。
どちらかがもう一方を消滅させたわけではない。どちらかが主導権を握ったわけでもない。
ただ、二人が『自分一人の生存権』のために争うことを、自らの意志で止めたのだ。
互いの記憶が編み込まれていく。
互いの感情が溶け合っていく。
互いの力が混ざり合っていく。
リンが持つ竜魔の血統と、ひまりが持つ時間軸への干渉権限(権能)が一つに重なる。
記憶の監獄で培われた無数の経験と、リンが現実世界で育んできた強靭な精神が、見事に融合していく。
この融合は、肉体の乗っ取りではない。単純な意識の支配でもない。
一つの統合された存在の内部で、二つの完全な意識が共に在り続ける――そんな、第三のアイデンティティの誕生だった。
ドミグラが、思わず一歩後退した。
「……そんな馬鹿な」
融合が、さらに加速する。
新たなオーラが爆発的に噴出した。
同じ一瞬の中で、時間が停止し、逆流し、そして超加速する。
次元の空間そのものが、同時に複数の時間状態を経験し始めていた。
過去。現在。未来。
そのすべてが、同じ場所に同時に存在している。
ドミグラは信じられないといった面持ちで、その光景を凝視した。
「こんなことは……起きるはずがなかった……!」
彼の前に宙吊りにされていた人影が、ゆっくりとその目を開けた。
その瞳は、もはや純粋なリンのものでも、純粋なひまりのものでもなかった。
それは、全く新しい『何か』の瞳。
強大なオーラが彼女の身体を包み込み、髪が重力を無視して激しくなびく。
次の瞬間、彼女を縛り付けていた拘束具が、音を立てて弾け飛んだ。
――パキィィィン!!
残されていた魔法の鎖のすべてが、一瞬で霧散する。
新たな存在へと昇華した彼女は、ゆっくりと下降し、その足が静かに地面へと着地した。
彼女は、顔を上げた。
ドミグラが彼女を凝視する。
「貴様は……一体、何者だ……!?」
少女は、数秒の間、沈黙を守った。
彼女の脳内には、今もまだ二つの声が存在している。
地面を踏みしめる感覚を味わう、リンの意識。
周囲を流れる時間のうねりを感じ取る、ひまりの意識。
どちらも消えてはいない。どちらも敗北していない。
二人は互いを受け入れ、その受容の果てに、一人では決して到達し得なかった『形』を成したのだ。
やがて、一つの声が返ってきた。
それはリンの声であり、同時にひまりの声でもある――二つの音色が重なった、不思議な声。
「私たちは――」
彼女は、言葉を一度区切った。
その瞳が、怪しく輝く。
「――ヒリン(Hirin)」
その名が、次元の空間に鋭く響き渡った。
ドミグラの表情が、見る見るうちに青ざめていく。
彼は、ようやく理解したのだ。
自分は封印を破壊したのではない。
互換性のある二つの意識を隔てていた最後の障壁を取り除き、結果としてそれらを『融合』させてしまったのだと。
ヒリンは、ひまりに精神を乗っ取られたリンではない。リンの肉体を纏ったひまりでもない。
二つのアイデンティティ、二つの歴史、そして二つの記憶のすべてを宿した、全く新しい存在。
二つの魂。二つの視点。そして、一つの存在。
ヒリンが、そっと手を掲げた。
それだけで、次元の空間全体が完全に凍りつく。
ドミグラの身体が、ぴくりとも動かなくなった。
その顔から、余裕の笑みが完全に消え去る。
気が遠くなるほどの長い時間の中で初めて、彼は自分が『破滅的な過ち』を犯したのだと悟った。
ヒリンが彼を見つめた。
そして――にぃ、と微笑んだ。
それは、リンの無邪気な笑顔ではない。かつてのひまりの笑顔でもない。
全く新しい、そして遥かに危険な笑み。
「あの封印を解くべきではなかったわね、ドミグラ」
ドミグラの目が、驚愕に引き裂かれる。
ヒリンは、小首を傾げた。
「だって、今や――」
彼女の周囲の空間が、自重に耐えかねるように崩壊を始める。
「――すべてを『思い出して』しまったのだから」
すべての記憶が、彼女の元へと戻ってきた。
カイ。彼女の兄。彼女の家族。記憶の監獄。カイ・ゼロ。何百万もの時間軸。数々の死。数々の戦場。そして、目の前でカイが死んでいくのを何度も何度も見つめてきた、あの絶望の記憶。
その瞳が、鋭く細められる。
統合された意識の内部で、リンはついに真実を理解した。
自分がどうして、あの少年に説明のつかない引力を感じていたのか。
なぜ彼の気配が、いつもあれほど懐かしかったのか。
なぜ言葉にできない感情が胸を突き動かしていたのか。
彼は他人などではなかった。
私の、お兄ちゃん。カイ。
ヒリンは、遥か彼方の闇へと視線を向けた。
「カイ……」
その声が、静かに響く。
「今、行くわ」
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遥か彼方、エリュシオン教団の内部。
カイは未だに、意識を失ったまま横たわっていた。
その傍らには、ユイが静かに座っている。
二人はまだ、知る由もない。今、この世界にどんな怪物が目覚めてしまったのかを。
カイがずっと探し求めていた人物が、すでに想像もしない形で自分と繋がっているということを。
そして、ドミグラの隠された次元の奥底。
かつてリンだった少女と、無数の偽りの人生を生き抜いてきた模造品のひまりが、今や共に立っていた。
もはや二つの独立した意識ではない。どちらか片方だけの存在でもない。
彼女たちは、全く新しい存在。
――『ヒリン』。
封印を利用しようとしたドミグラの画策は、奇しくもその封印が最も防ごうとしていた『融合』を自らの手で引き起こす結果となった。
世界中で失われた記憶を呼び覚ましたあの異変はリンへと到達し、封印はその記憶に反応し、そしてドミグラの介入によって、その反応はもはや引き返せない破滅の連鎖へと変貌を遂げた。
世界の天秤が、今、決定的に傾いた。
つづく




