第126話 - 時空戦争・第1部 :激怒
カイは、破壊し尽くされた森の中に立ち続けていた。
吹き抜ける風が、妙なほど冷たく変わっていく。
彼が見つけたその岩肌に、ソラの遺体が横たわっていた。
カイはあらゆる手を尽くした。治癒魔術、超再生、蘇生術、さらには魂の回収術まで。しかし、彼女の魂はとうの昔にこの肉体を離れてしまっていた。
何一つとして機能しない。なぜなら、ソラはもう『負傷している』のではないからだ。彼女は――死んだのだ。
カイはゆっくりと身をかがめ、彼女を両腕で抱き上げた。
その身体は、彼の記憶にあるよりもずっと軽かった。あまりにも、軽すぎた。
彼は彼女を壊れ物を扱うようにそっと胸へと抱きよせる。まるで、その優しさだけが、彼女がこれ以上遠くへ行ってしまうのを繋ぎ止められる唯一の手段であるかのように。
数秒の間、彼は何も言わなかった。その瞳は彼女の顔に釘付けになったままだ。
彼女の頬の下には、まだ微かに血が滲んでいた。カイは手を伸ばし、親指でそれをそっと拭い去る。その肌は、すでに完全に冷え切っていた。
「……ソラ」
彼は低く呟いた。
彼女を見つけて以来、自分がその名前を何度口にしたか、もう数えることもできなかった。
返ってくる言葉は、やはりない。彼の指が彼女の背中で強く握りしめられる。
二人を守ると約束したのに。自分は、遅すぎた。
その思考が、いかなる致命傷よりも重い質量を持って、彼の胸の奥底へと沈殿していった。
--
その時、背後から足音が近づいてきた。
速い。必死な足取りだ。何者かが、破壊された森の中を全力で駆けてくる。
「カイ……ッ!」
カイは微動だにしない。
木々の隙間から、ソフィアが姿を現した。その呼吸は激しく乱れている。彼女は何かが決定的に狂ってしまったことを察知し、ここまで一命を賭して駆けつけてきたのだ。
そして、彼女は見た。――ソラを抱きしめる、カイの姿を。
ソフィアの足がピタリと止まる。
彼女の視線は、まず地面を真っ黒に染めている大量の血痕へと落ちた。次いで、ソラの微動だにしない身体。そして、カイの表情。
ソフィアの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「……嘘、でしょ」
彼女はよろめきながら一歩前へと進み出る。
「ソラ……?」
応えはない。ソフィアの両手が激しく震え始めた。彼女は両手で口を覆う。
「嫌……嘘、嘘、嘘……っ!」
その大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
先に進んでいろと言ったのは、自分だ。
後から追いかけると言ったのも、自分だ。
調査くらい二人ならこなせると、そう信じて任せてしまった。
そして今、ソラは死んでいる。眠っているのでも、気を失っているのでもない。誰かの救いを待っているわけでもない。――死んだのだ。
ソフィアの膝から完全に力が抜けた。彼女はその場に崩れ落ちる。
「私が、先に行けなんて言わなければ――」
彼女の声が激しくひび割れた。
「後から行くなんて言わなければ――っ!」
涙がボロボロと彼女の頬を伝い落ちる。
「私が、一緒に来ていれば……!」
彼女は、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。
カイは沈黙を保ったままだ。
ソフィアは彼を見つめた。何が起きたのかを聞きたかった。誰がこんな大罪を犯したのかを知りたかった。リンはどこへ行ったのかを問い詰めたかった。
しかし、彼女は何も聞けなかった。
なぜなら、今自分の目の前に立っている存在が、自分の知っている『カイ』だとは到底思えなかったからだ。
彼の纏う気配が、完全に変質していた。
恐怖を抱かせるほどの、圧倒的な何か。ソラを抱きしめていながらも、カイの表情はどこまでも完全に『空っぽ』だった。
ソフィアはゴクリと唾を飲み込んだ。
彼女は今までにカイの戦闘を見たことがあった。彼の規格外の力を知っていた。彼が本気になった時、世界がどうなるかも見てきた。
しかし、今回はそれらとは根本的に違っていた。これは怒りではない。まだ、そんな生ぬるい段階ではない。
それはもっと深い、もっと底知れぬ何か。まだ、明確な破壊の方向性すら見定めていない、純粋な混沌。
ソフィアは深く頭を垂れた。
「カイ……」
彼は、やはり何も答えなかった。
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そこへ、さらなる気配が合流した。
数メートル離れた位置に、セナが音もなく出現する。彼女はここ数分間、周囲の一帯を網羅するように索敵を続けていたのだ。
彼女は足を止め、その普段の冷静沈着な表情を完全に引き攣らせていた。彼女は一瞬、言葉を失う。
やがて、カイが静かに口を開いた。
「……話せ」
セナは即座に深く頭を垂れた。
「カイ様――」
彼女は一度言葉を濁す。その声が、目に見えて小さくなった。
「……リン様の身元を拘束、および感知することができませんでした」
カイはぴくりとも動かない。
セナは報告を続ける。
「周囲の一帯を徹底的に索敵いたしましたが、彼女の魔力エネルギーの痕跡は完全に掻き消されています」
ソフィアが静かに目を閉じた。さらなる涙がその頬を伝う。
カイは完全に静止したままだ。
――その時、世界の法則が変質した。
彼の身体から、底知れぬ絶大なる圧力がじわりと染み出し始める。
パキパキパキ、と彼の足元の地面に無数の亀裂が走り出した。
セナがハッと顔を上げる。ソフィアも驚愕して視線を上げた。
カイの全魔力が、外側に向けて文字通り溢れ出し始めていた。
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世界が、震撼する
最初は、ほとんど気づかないほどの微細な変化だった。
ただの微振動。大地の遥か底深くから響く、不気味な地鳴り。
しかし、その圧力は全方位に向けて急激に膨れ上がっていった。
周囲の巨木たちが、まるでカイの存在を恐れるように外側へと大きく捻じ曲がっていく。上空の雲は、自然界ではあり得ない狂気的な軌道を描いて渦を巻き始めた。
大気そのものが、彼の周囲でぐにゃりと歪曲していく。
カイは動いていない。手も挙げていなければ、いかなるスキルも発動していない。ただ、そこに静かに立ち尽くしているだけだ。
それなのに、彼を中心とした世界の構造そのものが、急激に崩壊を始めていた。
大地が激しく裂け、空間が明滅し、地平線が歪んでいく。
セナの目が、驚愕に限界まで見開かれた。
「カイ様……っ!?」
カイは答えない。彼の魔力はさらに膨張を続け、凄まじい衝撃波となって外側へと拡散していく。
そこにはいかなる明確な命令もなければ、特定の標的すら存在しなかった。
それは境界線を持たない、ただ純粋な『悲哀』。
彼の内から決壊して溢れ出した絶望が、この世界そのものにその質量を強制的に背負わせているのだ。
――そして次の瞬間、ドゴォォォォォォォン!!! と、大陸全土を巻き込む凄まじい大激震が走った。
遥か彼方、アッシュフォードの街が激しく揺れ動く。
あらゆる建造物が悲鳴を上げてガタガタと震え、民家の窓ガラスが一斉に木っ端微塵に砕け散った。人々は恐慌状態に陥り、狂ったように通りへと飛び出してくる。
「何だ、今の仕事は!?」「地震か!?」「いや、違う!」
一人の神官が、青ざめた顔で水平線を見つめた。
「これは地震などではない……!」
さらなる第ニ震が襲いかかる。ラオディキア聖教会の巨大な大聖堂が、激しく軋みを上げて崩壊の危機に瀕していた。
ソフィアは、この破壊された森の中にいながらも、それを肌で完全に理解していた。カイの魔力が、この大地を、この国を丸ごと侵食し尽くそうとしている。
そしてそれは、一向に止まる気配を見せなかった。
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ティアムーン王国
ティアムーンの大地が、激しく足元から鳴動を始めた。
人々は悲鳴を上げて屋外へと逃げ惑う。巨大な建造物が左右に大きく揺れ、市場の露店がことごとく崩壊していく。
王宮の強固な壁すらもが激しく激震した。
女王ミラベルは、即座にその玉座から立ち上がる。
「……何事が起きたのですか!?」
一人の宮廷魔術師が、血相を変えて謁見の間へと飛び込んできた。
「ミラベル様! 全域から、信じられないほどの超巨大な魔力エネルギーの乱れが検知されました!」
「場所はどこですか!?」
魔術師は、震える手で西の地平線を指さした。
「分かりません……方角は西ですが、観測限界を遥かに突破しています!」
さらなる激しい大激震が襲う。ミラベルは机の端を強く掴んだ。その美しい顔が、かつてないほど深刻なものへと強張る。
「……これは、自然現象などではありませんね」
テオレマ共和国
全く同じ怪現象が、テオレマの大地をも直撃していた。
堅牢な要塞の防壁が激しく軋み、歴戦の兵士たちが立っていられず地面へと次々に転がっていく。幾重にも張られていた最高位の魔術障壁が、まるで消えかけの電球のように激しく明滅した。
バルト・ホラックスは上空を見上げた。彼は一瞬で、これがただ事ではない事態であることを理解した。
「地震ではないな」
彼の右手が、腰の剣の柄へと強く握りしめられる。
「これは……誰かの『魔力』だ」
問題は――これほどのバカげた質量を持つ者が、一体誰なのかということだ。
ミラス帝国
ミラスの街が激しく震撼する。
都市を囲む魔術タワーが自動的に全稼働を始め、防衛システムが次々とオンラインへと移行していく。国家全土に、けたたましい警告音が響き渡った。
『警告。異常魔力エネルギーを検知。警告――』
この国はかつて、一度滅亡の危機から立ち直った歴史がある。しかし、その後に完全再建された最新鋭の国家防衛システムを以てしても、この世界の鳴動を引き起こしている『根源』の座標を特定することは不可能だった。
エルフ帝国
遥か彼方に位置する、エルフの帝国。
常緑の王朝。
その最高支配者は、公には女皇ライラ・シルヴァレンヌとして知られていた。
しかし、この記憶の監獄における彼女の真の名は――エレイン。かつてカイによって授けられた、彼女の魂の真実の名。
最初の激震が彼女の元へと到達した時、彼女は王宮の奥深くに静かに佇んでいた。
窓ガラスが激しくガタガタと鳴り響き、天井から吊り下げられた巨大なクリスタルの装飾品が一斉に不気味な高音を立てて振動し始める。
エレインは、ゆっくりと、その美しい頭を上げて遥か彼方を見つめた。
「……この、気配は……まさか、カイ……?」
――そして、圧倒的な『圧力』が彼女を襲った。
エレインの表情が劇的に変わる。彼女は片手を自分の胸へと強く当てた。
「この、魔力は……」
その奔流のどこかに、痛々しいほど見覚えのある感覚があった。なぜだかは分からない。どこで知ったのかも思い出せない。
しかし、彼女の魂の野生は、忘却の彼方に沈んだ記憶が拒絶する『何か』を確かに認識していた。
一つの存在。一人の人間。決して存在してはならない、魂の繋がり。
その瞬間、割れるような激痛が彼女の脳内を直撃した。エレインがその場によろめく。
「一体……何が、起きているの……?」
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陰陽教団
陰陽教団の総本部では、小野和彦の分身が静かに目を開けていた。
彼が自室で瞑想に耽っていたところへ、あの異次元の圧力が到達したのだ。彼はゆっくりと上体を起こす。
「ふむ……」
部屋の強固な障壁がガタガタと悲鳴を上げている。彼の表情に、深い興味の色が浮かんだ。
「どうやら、とんでもない厄介者が叩き起こされたらしいな」
彼の背後には、二つの影が控えていた。フリーデリカとフィン。二人とも、すでにこの異常事態を肌で察知している。
フリーデリカが冷酷に目を細めた。
「そのようですね」
フィンが天井を見上げた。
「このプレッシャーは尋常じゃない。桁が違いすぎる」
和彦はかすかに唇を綻ばせて立ち上がった。
「それが何であれ――」
彼は不敵に笑う。
「ついに、世界が動き出したということだ」
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清水帝国
その狂気的な圧力は、東と北の果て、清水帝国にまで到達していた。
清水奈央は、ゆっくりと頭を上げた。自室の窓ガラスが激しくガタガタと鳴り響いている。
彼女が窓辺へと歩み寄ると、その美しい顔に妖艶な笑みが浮かんだ。
「へえ――」
彼女は遥か彼方の地平線を見つめる。
「ようやく、面白くなってきそうじゃない」
彼女の背後で、ヴォラスが静かに目を覚ました。虚空竜たる彼の表情が、かつてないほど深刻なものへと強張る。
「……誰かの魔力エネルギーの中にこれほどの『純粋な怒り』を感じたのは、随分と久しぶりだ」
その隣では、スコルンが腕を組んで立っていた。氷雪竜は、圧力が押し寄せてくる方角をじっと見つめる。
「ああ。だが、このオーラには妙な違和感がある」
ナオの笑みが、さらに深く広がった。
「違和感?」
スコルンが頷く。
「通常の、単なる『殺意』とは根本的に何かが違っている。これは……」
ヴォラスが鋭く目を細めた。
「まるで、絶対に失ってはならない何かを失い、完全に制御を失ってしまったかのような気配だ」
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元老院ギルド
元老院ギルドの内部では、アイオス・エルデラが突如として書類を読む手を止めていた。
大地の微振動によって、彼女の目の前の机に並んだ書類がバラバラと位置をずらしていく。彼女はゆっくりと片手を額に当てた。
「なんてこと……」
さらなる激しい衝撃波が、ギルドの頑強な建造物を透過していく。
「一体誰のオーラだって言うのよ、これは?」
彼女は苛立ちを隠せない様子で天井を睨みつけた。
「いい加減にしてほしいわね――」
彼女の表情に、明らかな不快感が露わになる。
「自分たちが理解すらできない超常の力を弄んで、世界をかき乱すのはやめてもらえないかしら?」
周囲に控えるギルドの構成員たちは、完全に沈黙したままであった。その圧倒的な理不尽の前に、応えられる者など一人もいなかった。
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フィオラーノ領
フィオラーノ領では、クロナラ・アルフィエーリが静かに屋外へと足を踏み出していた。
風は完全に死に絶え、世界は不気味なほど静まり返っている。彼女は地平線の彼方を見つめた。
何か途方もなく巨大な『質量』が、この世界の構造そのものを外側から強引に押し潰そうとしている。
クロナラは鋭く目を細めた。
「……普通じゃないね」
彼女には分かっていた。この大地そのものを恐怖で震え上がらせている、絶対的な超越者の存在を。
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エリュシオン教団
その狂気的な圧力は、教団の象徴たる巨大な塔の全域をも直撃した。
あらゆるフロアが、その一撃に過剰に反応を始める。
創世の核が暴走気味に魔力を噴出し、人工の空が消えかけの灯火のように激しく点滅した。森林が激しく揺れ、湖には狂ったような波紋が広がり、建造物が軋みを上げる。
エリュシオン教団の住人たちは、何が起きたのか分からず恐慌状態で周囲を見回していた。
エルヴァは廊下の真ん中で足を止め、遥か彼方のアステリアにいたヴァドスも、それを肌で完全に察知した。
ネロが猛然と頭を上げ、セナはすでに森の中でカイの隣に直立している。
――そして、クロエの身体が、完全に凍りついた。
彼女は、その気配を完全に知っていた。
今までに、ただの一度だけ、その圧倒的な破滅の力を肌で体感したことがあった。
――四年前。太陽の涙での、あの戦い。
あの時、カイは初めて、自身に課していた絶対的な『枷』を完全に解き放ったのだ。
彼がその真の存在を世界に露わにした瞬間、クロエは自分と彼との間にある、埋めようのない絶望的な実力差を骨の髄まで理解させられた。
そして今、あの時と全く同じ、いや、それすらも遥かに凌駕する真の存在が、再び全土へと拡大しようとしている。
しかし、今回は決定的に違っていた。
今回の魔力は、あまりにも、あまりにも不安定で、混沌に満ち満ちていた。
クロエの表情が、一瞬で引き潰される。
「……これは、最悪の事態だよ」
彼女の姿が、その場からかき消えた。
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結衣
クロエは、ユイの私室の真ん中へと空間転移で出現した。
「ユイ様……っ!」
ユイが静かに振り返る。
「どうしたの?」
クロエの呼吸は、通常の彼女からはあり得ないほど激しく乱れていた。
「カイ様が……カイ様が、暴走しています!」
ユイの表情が、一瞬で強張った。
「……彼が、どうしたの?」
「ご自身の真の存在を、完全に、無制限に解放しています!」
ユイは静かに目を閉じた。彼女には、すでに分かっていたのだ。
クロエが一歩、彼女へと詰め寄る。
「あんなオーラを流し続けたら、この世界そのものが、物理的に内部から崩壊して消えてなくなっちゃいます!」
ユイは長いため息をついた。
「……ええ、分かっているわ」
クロエは彼女を凝視した。
「だったら、どうして止めに行かないんですか!?」
ユイは、静かに遠くの壁を見つめた。
「いつか、こんな日が来ることは分かっていたのよ……」
クロエは不満そうに眉をひそめる。
「だったら、今すぐ私たちで――」
その言葉が、突如として途切れた。
何かが、彼女の脳内の深奥へと直接触れてきた。
奇妙な感覚。完全な、麻痺。
彼女の瞳が、驚愕に限界まで大きく見開かれる。
「……なっ、何、これ……?」
ユイの表情が変わる。
「クロエ?」
クロエは両手で自分の頭を激しく掻きむしった。
「わたしの、頭が――」
次の瞬間、狂気的な大容量の情報奔流が、彼女の意識へと直接叩き込まれた。
一つの記憶ではない。数千、数万、いや、数億もの記憶の断片。
鮮明な映像。無数の声。凄絶な戦場。見知らぬ人々。見たこともない景色。誰かの死。誰かの笑い声。絶望的な痛み。名前。顔。
自分が今までの一生の中で、ただの一度も経験したはずのない『膨大な人生の歴史』。
クロエは、白目を剥きそうになりながら、激しく後方へとよろめいた。
「あ……ああぁぁぁっ……!?」
ユイが慌てて彼女の元へと駆け寄ろうとした。
しかしその瞬間、全く同じ『超常の怪現象』が、この世界全土にいるすべての超越者たちへと一斉に伝播していった。
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記憶の決壊
カイの放った全魔力は、単なる物理的な破壊の力だけを孕んでいたわけではなかった。
そこには、彼という絶対的な存在に縛られた、すべての魂の『記憶の刻印』が混ざり合っていたのだ。
かつて記憶の監獄は、無数の命の歴史を強引に引き剥がし、それぞれの個別の精神の奥底へと厳重に封印していた。
しかし今、カイの放った絶対的な悲哀がすべての枷を物理的に叩き割ったことで、その世界の隔離システムそのものが完全に機能停止に陥った。
彼の全魔力は、この世界にあるすべての精神を繋ぐ『絶対的な伝導体』と化し、この監獄に触れたことのあるすべての意識を強引に一本の線で結合してしまったのだ。
その記憶は、単なる一本の波として人から人へと伝わっていったわけではなかった。
それらは、魂の深奥に最初から刻み込まれていた古い契約の絆、魂の刻印、共に駆け抜けた戦場の記憶、そして微かな相互認識の断片を辿り、超空間を飛び越えてダイレクトに脳内へと炸裂した。
かつて記憶の監獄の中でカイと邂逅したことのある者たちが、現世における『絶対的な座標』となった。
彼らの精神を経由して、現世に封じられていた過去の膨大な歴史の断片が、彼らと少しでも因縁を持つすべての者の脳内へと強引に逆流していく。
だからこそ、その記憶は世界中のあらゆる場所で、完全に同時に出現した。
誰一人として同じ断片を受け取った者はおらず、そしてこの『精神の共鳴』は、いかなる物理的な距離も、最高位の防御障壁も、あるいは隔離された封印ミニ異空間すらも完全に無視して、全土へと決壊していった。
エルヴァは、息をすることすら忘れてその場に立ち尽くしていた。彼女の目が驚愕に丸くなる。
脳裏に、一つの鮮明な記憶が浮かび上がっていた。
凄絶な戦場。自分の前に立っている、一人の若い男の背中。
自分の名前を、狂ったように叫ぶ声。
さらに、別の記憶。別の世界。別の死闘。――全く違う人生を歩んでいる、もう一人の自分自身の姿。
彼女は強烈な目眩に耐えかね、近くの壁を強く掴んだ。
「……何、これ……? この記憶は、一体何なの……!?」
それはセナにも到達していた。ヴァドス、ネロ、クロエ。教団の最高幹部たちのすべてが。
彼らの精神は、自分たちの人生の歴史には決して存在するはずのない『もう一つの真実の記憶』によって、完全に侵食され尽くそうとしていた。
そして――全く同じ破滅の逆流が、この大地の至る所にいる者たちをも等しく直撃する。
エリス、ソフィア、エレイン、清水奈央、ヴォラス、スコルン、ニクセラ、ディーヴォ、ミレッラ、そして小野和彦。
かつて記憶の監獄の中で、カイと出会い、カイと共に戦い、カイを信じ、カイを愛し、あるいはカイを狂おしいほどに憎み抜いた、すべての者たちの脳内で――。
封印されていた世界の『真実』が、今、完全に覚醒の産声を上げた。
記憶の奔流は、全員に同じ内容を繰り返したわけではなかった。
ある者には見覚えのある顔、ある者には誰かの声、またある者には他人の視点から見た凄絶な戦場の光景。
それぞれが異なる記憶の糸を辿り、しかし確実に、この世界では絶対に経験したはずのない一つの『壮大な歴史』を形作っていく。
世界。もう一つの世界。王国。戦場。
笑っているカイ。戦っているカイ。自分たちに名前を授けてくれるカイ。隣に立ってくれているカイ。死にゆくカイ。生き延びるカイ。
自分たちの理解を遥かに超越した『何か』へと変貌していく、彼の姿。
それらは決して完全な形ではなく、秩序もない、ただの無数の断片に過ぎなかった。しかし、その圧倒的な情報量は、超越者たちの精神の処理限界を容易く突破していった。
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エリス
自身の豪華な屋敷の中で、エリスは突如としてその場に崩れ落ちた。
彼女の手が、激しく自らの頭へと伸びる。
「あ……あああぁぁぁっ……!」
凄まじい精神への負荷により、彼女の鼻から、耳から、そして目頭から真っ赤な血が溢れ出し始めた。
どうにか立ち上がろうとするが、さらなる第二波の衝撃が脳内を直撃する。視界が、見たこともない無数の映像で埋め尽くされていく。
一人の少年。凄絶な戦場。聞き覚えのある、愛おしい声。
どうしても思い出すことのできない、けれど魂が知っているその名前。
「……カイ……」
なぜその名前を口にしたのか、自分でも分からないまま、彼女は微かにその名を呟いた。
次の瞬間、彼女の身体から完全に力が抜け、人形のように床へと無様に崩れ落ちて意識を失った。
ソフィア
カイのすぐ近くで、ソフィアは鼓膜を裂くような悲鳴を上げた。
彼女はその場に両膝をつき、激しい頭痛に頭を抱え込む。脳内に、狂気的な勢いで記憶が逆流していく。
彼女は見た。自分の知っている現在のカイではない、もう一人のカイの姿を。
かつて共に死線を駆け抜け、かつて命を託し合い、かつて自分が経験したはずのない数々の戦場で、常に自分の隣に立ってくれていた、あの漆黒の超越者の姿を。
涙がボロボロと彼女の顔を伝い落ちる。
「カイ……カイ、カイ……っ!」
彼女の鼻からも、真っ赤な血が静かに流れ落ちた。
やがて視界が完全に真っ暗になり、彼女はそのまま意識を失って地面へと倒れ込んだ。
エレイン(ライラ)
エルフの帝国では、女皇ライラ――エレインが、激しく後方へとよろめいていた。
彼女の手が、玉座の肘掛けを壊れんばかりの力で掴む。
彼女の鼻から、片方の耳から、そして口の端から、たらりと鮮血が流れ落ちた。その美しい瞳が、驚愕に限界まで大きく見開かれる。
脳裏を駆け抜けるのは、広大な森林、凄絶な大戦争、そしてカイの姿。
一つの巨大な王国。――ホライゾンクレスト。
そこには、彼の隣に直立している、もう一人の自分自身の姿があった。
さらに、別の記憶。彼の方にそっと手を置く、自分の手の感触。
また別の記憶。楽しそうに笑う、彼の笑顔。
また別の記憶。世界を滅ぼさんばかりの力で戦う、彼の背中。
エレインの呼吸が、狂ったように激しく乱れ始める。
「……あなた、は……一体、誰なの……?」
自分が今、脳内の記憶に問いかけているのか、それとも自分自身に問いかけているのかすら、彼女にはもう分からなかった。
さらなる記憶の衝撃が彼女の精神を襲う。
しかし、彼女は意識を保ち続けた。――辛うじて、皮一枚のところで。
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絶対凍土の監獄
諸王国の遥か彼方、永久の静寂に包まれた地に、小野和彦の本尊は未だ絶対凍土の監獄の中に封印されていた。
分身ではなく、彼自身の本体。
何世紀もの間、その監獄は傷一つつくことなく現世に君臨し続けていた。いかなる超越者のアプローチも、それを破壊することは不可能だった。
しかしその瞬間、――ピキッ、と。
和彦の目が、カッと見開かれた。
彼を取り囲んでいた絶対の氷が、不気味に震動を始める。
彼の分身へと到達したあの記憶の逆流が、魂の絶対的な繋がりを媒介にして、この不可侵のはずの監獄の内部へと強引に侵入してきたのだ。
彼は見た。もう一つの世界を。奈央の姿を。数々の死闘を。そして、カイの姿を。
次の瞬間、――バリバリバリ、メキメキメキッ!!!
絶対凍土の監獄の表面に、巨大な亀裂が走り抜けた。強固極まる封印が、物理的に激しく激震する。
さらなる亀裂が、容赦なくその身を刻んでいく。
――パリィィィィィン!!!
監獄のほぼ半分が、凄まじい音を立てて木っ端微塵に粉砕された。
周囲を覆っていた絶対の氷壁が、音を立てて崩れ落ちていく。
和彦は、破壊された封印の隙間から、外の世界をじっと見つめた。
「……何だ、これは……?」
彼には、何が起きているのか全く理解できなかった。
しかし、この世のいかなる概念を以てしても侵入不可能とされていた絶対の聖域にすら、その『記憶』は確実に到達していた。
ヴォラスとスコルン
二頭の巨大な竜は、突如としてその場に完全に凍りついた。
わずか一秒にも満たない刹那の間、彼らは『自分たちが無惨に殺害される瞬間の記憶』を脳裏に幻視したのだ。
一本の、漆黒の刃。
世界の終焉を思わせる、破滅的な戦場の光景。
カイの姿。――ハルマゲドン。
自分たちの巨大な肉体が地上へと崩れ落ち、その存在が完全に終焉を迎える瞬間の、圧倒的な絶望。
次の瞬間、その不気味な記憶は掻き消えた。
ヴォラスの目が、驚愕に大きく見開かれる。
「……今のは、一体何だ……!?」
スコルンは沈黙を保ったままだ。彼もまた、全く同じ光景を脳裏に焼き付けられていた。
二人には、何一つとして理解できなかった。自分たちが今までに一度も経験したはずのない『もう一つの現実の歴史』。
――カイの手によって、自分たちがすでに一度、完全に殺害されているという、確定した過去の事実。
スコルンはゆっくりと、その強固な拳を握りしめた。
「……今のは、単なる予知夢などではない」
ヴォラスが彼の方へと視線を向けた。
「ああ」
彼の声が、目に見えて低く、恐怖に震える。
「……あれは、確実な『記憶』だ」
ニクセラ
自身の玉座の間の中で、ニクセラは微動だにせず立ち尽くしていた。
彼女の脳内にも、記憶の逆流が容赦なく流れ込み続けている。
カイ。戦場。交わされる言葉。悪戯っぽい笑み。激しい死闘。
胸の奥から湧き上がる、狂おしいほどの懐かしさ。
そして、ほんの一瞬、ほんの刹那の間だけ、ニクセラの脳裏に彼の姿が、これ以上ないほど鮮明に浮かび上がった。
遠くの映像ではない、断片でもない。
自分のすぐ目の前に、確かに直立している、あのカイの真実の姿。
次の瞬間、その記憶は掻き消えた。
ニクセラの目が、驚愕に大きく見開かれる。
「……あなた、は……」
彼女は片手を自分の胸へと強く当てた。
「……一体、誰だったの?」
さらなる膨大な記憶の断片が彼女を襲う。
彼女には、それらの意味を正確に理解することはできなかった。
しかし、彼女の魂は確かに感じ取っていた。――自分がかつて失ってしまった、何か大切なもの。
自分がそれを失ってしまっていたことすら、今の今まで気づきもしなかった、あまりにも巨大な『喪失の穴』の存在を。
--
最後の記憶
記憶の氾濫は、全土へと拡大し続けた。
世界の至る所へ。あらゆる次元へ。すべての超越者たちの精神へ。
そして――すべての逆流が、突如としてピタリと停止した。
最後の一つの映像が、全員の脳裏に完全に同時に浮かび上がる。
一人の、男の姿。
どこまでも果てしなく続く、永遠の暗黒の彼方に、その存在は静かに直立していた。
彼の周囲には、数え切れないほどの無数のマルチバース、無数のタイムライン、そして無数の世界が、まるで泡のように浮遊している。
その男が、ゆっくりとこちらの方へと視線を向けた。
瞳が開かれる。
見慣れた、その顔。
しかし、それは自分たちの知っている現在のカイではなかった。破壊された森の中に立っている、あのカイではない。
より古く、より深遠で、自分たちの理解を遥かに超越した、絶対的な『根源の存在』。
そして、その記憶は、全土の意識に一つの絶対的な名前を刻み込んだ。
――『カイ・ゼロ(KAI ZERO)』。
わずか一秒にも満たない刹那の間、記憶の監獄に繋がれたすべての者が、彼のその姿を目撃した。
次の瞬間、その映像は完全に掻き消え、世界は一瞬にして完全な空白へと戻った。
--
終焉
破壊し尽くされた森の中では、カイが未だに立ち尽くしていた。
その両腕には、ソラの遺体がしっかりと抱きしめられている。
彼を中心とした周囲の大地は、完全に構造の安定を失い、上空の空はぐにゃぐにゃに歪曲しきっていた。
彼の放った絶対的な圧力が世界全土を侵食し、足元の地球が激しく悲鳴を上げて鳴動を続けている。
カイの魔力は、今この瞬間も外側に向けて決壊し続けていた。
彼は動いていない。誰にも攻撃を仕掛けていない。
それなのに、この世界そのものが、彼という存在の質量に耐えかねて、ただ物理的に内部から崩壊を始めようとしていた。
そこへ、ユイが彼の背後に音もなく出現した。
彼女の表情は、かつてないほどに深刻そのものだった。
彼女はまずカイを見つめ、次いでソラの遺体、そして今まさに完全に決壊しようとしている地平線の彼方へと視線を向けた。
「……いつか、こうなることは分かっていたけれど」
カイの魔力が、さらに一段階、跳ね上がった。大地が爆発するように粉砕されていく。
ユイが一歩、前へと踏み出した。
「カイ」
返事はない。彼の瞳は、ただ純粋な狂気的な怒りと悲しみによって、禍々しい深紅の炎を揺らめかせている。
さらなる絶大なエネルギーの衝撃波が、全土に向けて放たれようとした。
ユイは、静かにその右手を掲げた。
これ以上、一秒でも放置すればどうなるか、彼女には完全に分かっていた。
カイは、自分にその意図が全くないまま、この世界のすべてを物理的に木っ端微塵に破壊し尽くしてしまうだろう。
人々も、諸王国も、大陸も。あるいは、この地球そのものを。
彼自身は、ただの一歩も動く必要すらなく、ただその存在の悲哀だけで。
ユイは、優しく、哀しげに呟いた。
「ごめんなさい、カイ……。でも、あなたを止めなくちゃいけないの」
彼女の指先が、カイの背中へとそっと触れた。
次の瞬間、――世界から、すべての音が完全に消失した。
カイの瞳から、あの禍々しい深紅の輝きがスーッと掻き消えていく。
彼の身体から完全に力が抜け、そのまま崩れ落ちそうになった。ユイは彼が倒れるよりも早く、その身体と、そしてソラの遺体を両腕でしっかりと受け止めた。
世界を滅ぼさんばかりに荒れ狂っていたあの圧倒的な圧力は、一瞬にして嘘のように完全に掻き消えた。
大地の亀裂はピタリと動きを止め、不気味な鳴動は完全に静まり返る。歪曲しきっていた上空の空は、何事もなかったかのように元の色彩へと再安定していった。
ユイは、意識を失ったカイの身体を自らの胸へと優しく抱きしめた。
彼女は破壊し尽くされた凄惨な戦場を見回し、次いでソラの顔、そして遥か彼方の世界へと視線を向ける。
その美しい顔は、静かな、深い深い悲哀に満ち満ちていた。
「……行き過ぎてしまったわね、カイ」
ユイは彼をそっと、地面へと横たえた。
「あなたは、世界を壊したかったわけじゃないのに……」
彼女は彼を見つめる。
「ただ、それほどまでに……哀しかっただけなのにね」
世界に、再び静かな風が戻ってきた。
へし折られた木々が、微風に揺れてサラサラと物悲しい音を立てる。
遥か彼方の諸王国では、人々が恐る恐る、民家の中から外の様子を伺うようにして這い出してきていた。
誰一人として、今自分たちの身に何が起きたのかを理解できている者はいなかった。
なぜ、自分の人生には存在しないはずの『見知らぬ膨大な記憶』を脳裏に幻視したのか、その理由を知る者などどこにもいなかった。
そして、あの記憶の最後に現れた、あの絶対的な男の名前の意味を理解できる者も、一人として存在しなかった。
しかし、ただ一つだけ、全土の超越者たちの間で、決定的な事実が白日の下に晒された。
カイという存在の圧倒的な気配が、この世界のすべての隅々にまで、文字通り完全に到達したということ。
そして、かつて記憶の監獄の中で彼と因縁を持っていたすべての者たちが、今、どうしても認めざるを得ない『あり得ない真実』の前に、強引に引き摺り出されたということだ。
自分たちは、もう一つの人生を歩んでいた。
自分たちが完全に忘却していた、もう一つの歴史。
この世界には、決して存在するはずのなかった、もう一つの『真実の人生』が、確かにそこにあったのだということを。
――そして世界のどこかで、リンは未だに消息を絶ったまま。
カイは深い昏睡の中にあり、ソラは完全に息絶え、マイバクの隠された異空間の座標は未だ暗闇の中にある。
行方不明となったリンを巡る、本当の『追跡』は、今、ようやく始まったばかりだった。
つづく




