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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
戦争の余波

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第125話:連れ去られた者

 朝は静かに始まった。

 リンとソラはラオディキア聖教会の外に立ち、調査の準備を整えていた。

そこへ、すでに待ち構えていたソフィアが歩み寄ってくる。彼女は片腕にいくつかの書類を抱え、アッシュフォードの街の外へと続く街道に視線を向けていた。

「準備はいいですか?」


 リンが頷く。

「うん、バッチリ」


 ソラがバッグの位置を調整した。

「目的地は把握しています」


 ソフィアが頷いた。

「結構です」


 二人が出発しようとしたその時、背後から別の声が響いた。

「ソフィア統括」


 振り返ると、エルリック司教がこちらへ近づいてくるところだった。その表情は、いつになく真剣そのものだ。

「ソフィア、少し手を貸してほしい案件があるのです」


 ソフィアが眉をひそめた。

「今ですか?」


「ええ」

エルリックは声を潜める。

「西区から上がってきた複数の報告に関する件です。あなたの権限を持つ者にしか処理できない内容なのです」


 ソフィアはチラリとリンとソラに視線を向けた。二人の少女はすでに出発を待っている。

彼女は一瞬躊躇したが、やがて小さくため息をついた。

「……分かりました」

彼女は二人のほうへと向き直る。

「私は後から追いかけます」


 リンがパチパチと瞬きをした。

「ソフィア、一緒に来ないの?」


「少し遅れます」

ソフィアはリンに地図を手渡した。

「最初の予備調査くらい、あなたたち二人なら問題なくこなせるでしょう」


ソラが頷く。

「気をつけます」


ソフィアは真っ直ぐにリンの目を見つめた。

「あの礼拝堂の地下にあるものを、決して侮らないように」


リンはニカッと微笑んだ。

「分かってるって」


ソフィアが深く頷く。

「周囲を調査しなさい。もし何か異常なものを発見しても、私が到着するまでは絶対に触れてはなりませんよ」


リンは親指を立ててみせた。

「了解!」


ソフィアは二人が出発するのを見送った。その瞳の奥に、かすかな懸念の色が混じっていることに、少女たちは誰も気づかなかった。


--


 古びた礼拝堂


 道中には数時間が費やされた。

リンとソラが目的の古い礼拝堂にたどり着いた頃には、太陽はすでに西の地平線へと傾き始めていた。

その建物は、ぽつんと寂しげに佇んでいた。

崩れ落ちた石壁、完全に崩壊した天井の一部、生い茂る鬱蒼とした雑草。周囲には人影どころか、鳥のさえずりも、虫の羽音すらない。木々を揺らす風の音さえも、そこには存在しなかった。


リンの歩みが緩む。

「……ここ、気味が悪いね」


ソラも同意するように頷いた。

「私も、全く同じことを考えてた」


リンが一歩前に踏み出す。その表情から完全に余裕が消え失せていた。

「……魔力《マナ》の流れがおかしい」


ソラは静かに目を閉じ、自身の五感を周囲へと巡らせた。すると、肌を粟立たせるような奇妙な感覚が全身を駆け抜ける。

「……本当だね」

ここの魔力は決して弱いわけではない。通常の意味で汚染されているわけでもなかった。ただ、ただ決定的に『狂って』いる。まるで、この世界に存在してはならない何者かによって、自然な魔術の循環が強引に捻じ曲げられているかのような感覚だ。


リンが廃墟と化した礼拝堂を見据えた。

「調べてみよう」


二人は内部へと足を踏み入れた。


--


 調査は一時間近くに及んだ。

二人は大聖堂の広間を調べた。――何もなし。

祭壇を調べた。――何もなし。

崩壊した保管庫を調べた。――何もなし。

地下通路を調べた。――何もなし。


ソラが不満そうに眉をひそめる。

「……ここには何もないね」


リンが周囲を見回した。

「教会の情報が間違ってたのかな?」


「かもしれない」


リンは床にしゃがみ込み、その石床にそっと触れてみた。だが、何も反応はない。彼女は再び立ち上がった。

「もう一回だけ、最初から確認してみよう」


二人は捜索を続けた。

その時、――コツン。

二人の少女の動きがピタリと止まる。

さらに、別の音が響いた。――コツン。

誰かが、自分たちの方へと向かって歩いてきている。


リンは即座に武器の柄へと手を伸ばした。ソラの手が天に掲げられ、その指先にまばゆい魔方陣が浮かび上がる。

足音は続いた。――コツン、コツン。

そして、ピタリと止まる。再び、周囲は静寂に包まれた。


リンが鋭く目を細める。

「……どこにいる?」


ソラは廃墟となった部屋の四方に視線を走らせた。

「分からない……」


数秒の沈黙が流れた。

その時、リンが突如として上空を見上げた。彼女の瞳孔が急激に収縮する。

自分たちの真上に、何者かが立っていた。

一人の人影。完全に微動だにせず、まるで天井にへばりつく影のようにそこに佇んでいる。


ソラは一瞬、息をすることさえ忘れた。

二人の少女は一言も発しなかった。脳で理解するよりも早く、彼女たちの野生の生存本能がすでに答えを弾き出していた。――『死』という名の圧倒的な危険。


その影が、上空から真っ直ぐに自由落下してきた。

リンが動く。ソラの雷魔術が、完全に同時に発動した。

――ドガァァァン!!

ほんのコンマ数秒前までリンが立っていたその場所が、凄まじい衝撃によって文字通り消し飛ばされた。

リンは数メートル離れた位置に着地する。ソラの放った雷撃がその影を捉えたかに見えたが、次の瞬間には、その姿はすでにどこにもなかった。


ソラの瞳が鋭く引き締まる。

「……速いっ!」


リンが低く頷いた。

「うん、めちゃくちゃにね」


ソラが両手を天へと突き出し、広大な空間に巨大な魔方陣を展開した。

「だったら、最初から全力でいくよ!」


--


「《第十階梯・烈火魔術・デスストーム》――!!」

呪文が瞬時に発動した。

凄まじい火柱が、古い礼拝堂のすべてを丸ごと飲み込んでいく。――ドゴォォォォォン!!

古代の建造物が一瞬にして消失した。石壁は蒸発し、天井は跡形もなく吹き飛ぶ。礼拝堂を取り囲んでいた周囲の巨木たちが、爆風によってことごとく後方へとなぎ倒されていった。

数秒の間、そこにはただ激しく燃え盛る瓦礫の山だけが残された。


しかし、ソラは追撃の手を緩めない。さらに別の魔方陣が上空へと展開される。

「《第十階梯・雷霆魔術・ライトニングスクリーム》――!!」

一瞬にして空が真っ黒に染まり、数千の雷撃が、まるで雷でできた豪雨のように同時に降り注いだ。

ドカァァン! ドカァァン! ドカァァン!

凄まじい大密度の爆撃によって、大地が粉々に粉砕されていく。


リンはその破壊の渦中を縦横無尽に駆け抜けた。

「どこっ!? どこにいるの――!?」


その瞬間、ソラの目が驚愕に大きく見開かれた。

「……後ろ!?」


いつの間にか、彼女の真後ろにその人影が出現していた。

男の手がすでに動いている。その一撃を喰らえば、確実に即死する。

だが、リンの姿がその場からかき消えた。彼女の圧倒的な神速が、その一撃がソラに届くよりも早く戦場を横断する。

リンは二人の間に強引に割り込んだ。

「《凍てつく噛みつき《フロストバイト》》――!!」


凄まじい極寒の波動が、外側に向けて一気に爆発した。

戦場のすべてが、瞬時に完全凍結していく。地面を氷の膜が覆い尽くし、周囲の木々は氷の彫刻へと変わり、大地からは巨大な氷の氷柱が次々と突き出していった。

人影は、そのうちの一本の巨大な氷柱の頂点に、何事もなかったかのように静かに立っていた。

男は、ただ静かに手を掲げ、――パチン、と指を鳴らした。


その瞬間、すべての光景が消失した。

目の前にあった戦場が消え去る。森も、崩壊した礼拝堂も、凍りついた大地も。すべての世界が、一瞬にして掻き消えた。


--


 マイバクの異空間


リンはハッと目を開けた。彼女は即座に一歩後退して身構える。

「……なっ、何これ!?」


ソラが彼女の隣に出現した。彼女は困惑した様子で周囲を見回す。

「……ここは、あの礼拝堂じゃない」


そこには森もなければ、崩壊した建物も、見慣れた景色も一切存在しなかった。

二人は今、底知れぬほど広大な、未知の異空間の中に立っていた。

空は不自然な不気味な色彩に染まり、遥か彼方には正体不明の構造物がいくつも浮遊している。

そして二人の足元には、どこまでも、どこまでも果てしなく続く平坦な大地が広がっていた。


 リンの表情が険しくなった。

「……ここはどこ?」


 一つの声が、虚空から応じた。

「私の異空間だ」


 その人影が、ようやく前へと歩み出てきた。

 その顔がはっきりと露わになる。男は完全に冷静沈着だった。どこか、楽しんですらいるようだ。


 ソラの瞳が鋭く細められる。

「空間を、自分で創造できるの……!?」


 男がにやりと微笑んだ。

「観察力がいいね」


 リンは武器を握る手にぐっと力を込めた。

「あんた、誰?」


 男は片手を自分の胸に当てた。

「私の名はマイバク」

彼はそこで一度言葉を区切る。

「魔王デミグラ様の部下の一人だ」


 ソラの表情が一変した。

「待って」

彼女が一歩前へと進み出る。

「ってことは、今まで起きたすべての事件の黒幕は、あんたなの?」


 マイバクは微笑んだ。

「そういうことになるな」

彼は軽薄に肩をすくめる。

「だが、私はただ我が利の主の命令に従っているに過ぎない」


リンの瞳に、激しい敵意が宿った。

「あんたを片付けたら、すべて界王神《カイ》様に報告してやるから」


マイバクは声を上げて笑った。大声ではない。しかし、二人の少女をひどく不快にさせるには十分な、冷徹な笑い声だった。


ソラが眉をひそめる。

「何が可笑しいの?」


マイバクはリンに視線を向けた。

「お前がそれを心配する必要はない」

彼の顔から、一瞬で笑みが消え失せる。

「なぜなら、お前たちはここで死ぬからだ」

それから、彼は小首を傾げた。

「だが、二人ともではない」

その冷酷な視線が、リンの姿で静止する。

「お前の名前は何といったかな?」


リンは一瞬躊躇したが、すぐに名乗った。

「……リンだよ」


「リン、か」

マイバクがにやりと笑う。

「我が主は、お前の中に封印されているものに、並々ならぬ興味をお持ちなのだよ」


リンの表情が変わる。

「……わたしの中に、封印されてるもの?」


マイバクは何も答えなかった。


ソラが即座にリンの隣へと割り込んだ。

「リン、あいつの言うことに耳を貸しちゃダメ」

彼女は周囲の不気味な異空間を見回す。

「ここから脱出する方法を探さないと」


リンが深く頷いた。

「うん。そのためには、まずあいつをぶっ倒すしかないよね」


マイバクが不敵に微笑む。

「やってみろ」


--


 消失


 その頃、エリュシオン教団の本部では、界王神《カイ》が突如として立ち上がっていた。

彼の椅子が床と激しく擦れ、鋭い音を立てる。結衣《ユイ》が即座に彼の方へと向き直った。

「カイ、どうしたの?」


カイの表情は、完全に強張っていた。

「……リンだ」


ユイの瞳がまばゆく輝き、彼女は周囲の空間を網羅するように索敵を開始した。

次の瞬間、彼女の表情が極めて深刻なものへと変化する。

「……リンの魔力エネルギーが、完全に消失したわ」


カイの目が鋭く細められる。

「ソラもか?」


「ええ」

ユイが頷く。

「二人の気配が、完全に同時に消え去った」


カイは塔の入り口の方へと視線を向けた。

「死んではいないはずだ」


「ええ、その通りよ」


「なら、何が起きた?」


ユイは周囲に残されたわずかな空間の残滓を分析した。

「何者かが、二人を強制的に別の空間へと転移させた形跡があるわ」


カイの表情が険しくなる。

「異空間か……!」


「ええ」


カイは一度沈黙し、言葉を続けた。

「空間を創造できるのは、魔王クラスの存在だけのはずでは?」


ユイは首を横に振った。

「記憶の監獄《メモリープリズン》のルールは、この現実世界には通用しないわ」

カイが彼女を見つめる。

「説明してくれ」


「十分に強力な魔王の部下であれば、限定的な個人異空間を作り出すことが可能なの」

ユイの目が冷たく細められる。

「本物の魔王の異空間に比べれば遥かに小規模だけれど、それでも対象を通常の現実空間から完全に隔絶させるには十分な性能を持っているわ」


カイは瞬時に事態を把握した。

「魔王の手下の誰かが、二人を連れ去ったということか」


「その可能性が極めて高いわね」


カイに躊躇の二文字はなかった。

「聖奈《セナ》」


呼びかけに対する反応は一瞬だった。彼の背後に、一人の影が音もなく出現する。

「はい、カイ様」


「俺について来い」


セナが深く頷いた。

「御意」


カイの背中から、漆黒の翼が力強く展開された。凄まじい威圧感《オーラ》がその全身を包み込む。彼の衣服は、青いラインが刻まれた漆黒の戦闘服へと瞬時に変貌した。

セナの軍服に変化はなかったが、彼女の背中からも同様に、漆黒の翼が静かに姿を現した。


カイは遥か彼方の地平線を見据えた。

「行くぞ」


二人は凄まじい衝撃波を残し、上空へと音速で飛び立った。


--


 三分間


その移動に費やされた時間は、わずか三分にも満たなかった。

通常の旅人であれば、何日もの日数を要するであろう狂気的な距離。しかし、カイとセナの神速の前では、眼下の景色はただの歪んだ光の線に過ぎなかった。

巨大な山々が一瞬で背後へと消え去り、広大な森林はただの影と化す。二人の身体の周囲で、大気が悲鳴を上げるように激しく震えていた。


そして、カイが突如として制動をかけた。目的地に到着したのだ。

まさに、リンとソラの気配が完全に消失した、あの正確な座標。


カイが地上へと降下し、その足が地面に着地した。

その瞬間、彼の五感が濃密な血の臭いを察知する。カイの表情が凍りついた。

「……ソラ」


セナが彼の背後に着地し、周囲を見回した。

森は完全に壊滅していた。木々はバラバラに粉砕され、地面には無数の深い亀裂が刻まれている。周囲にはまだ、激しい戦闘の跡を示す氷の破片が散乱していた。

しかし、どこを探してもリンの姿だけは見当たらない。


その時、カイの視線が『それ』を捉えた。

彼の身体が、完全に硬直する。


ソラが、一本の巨大な岩に寄りかかるようにして倒れていた。

彼女の足元の地面は、流れた血によって赤黒く染まりきっている。その身体には、一撃で命を奪うような破滅的な猛撃が叩き込まれていた。

凄まじい傷口。その一撃の破壊力は、彼女の肉体を今まさに完全に切断せんとするほどに凄絶なものだった。辛うじて、皮一枚繋がっているような無惨な状態。


カイの視線が、その傷口に釘付けになる。

脳が、今目の前にある現実を理解することを拒絶していた。

しかし、彼の野生の生存本能は、絶望的な事実を冷酷に証明していく。

胸の上下運動は、ない。

指先の微かな痙攣も、ない。

肌の奥で微かに脈打つはずの魔力《マナ》の残滓も、ない。

頬を撫でる風に対して、いかなる反応も、そこにはなかった。


カイは彼女の元へと全力で駆け寄った。

「ソラ……!」

彼はその場に崩れ落ちるように膝をつき、二本の指を彼女の首筋へと強く押し当てた。

――何も、ない。

彼はさらに力を込め、今度はより深く指を押し込んだ。まるで、その物理的な圧迫によって、完全に停止してしまった肉体から強引に答えを絞り出そうとするかのように。

やはり、何の手応えもなかった。彼の血に染まった手が彼女の胸へと移動する。動悸は、ない。

耳を限界まで近づけ、呼吸の音を聞こうとした。

呼吸など、していなかった。

完全な静寂が、彼の鼓膜を激しく圧迫する。その静寂は、いかなる戦場の咆哮よりも重く、大きく彼の脳内に響き渡った。


カイの表情が、完全に崩壊した。

「嘘だろ……」

彼は彼女の冷たくなりかけた身体を、壊れ物を扱うようにそっと両腕で抱き上げた。

「ソラ……」

彼の声が、激しく震える。

「おい、目を開けろ……」

反応はない。

「大丈夫だ……お前は大丈夫だから。頼むから、起きてくれ……」

やはり、何も応えはなかった。


--


カイの指先が、彼女の頬に触れた。その肌は、すでに急速に体温を失い始めていた。

彼は血に濡れた彼女の傷口に手のひらを強く押し当て、自身の内にある全魔力を強引に注ぎ込んだ。

まばゆい蒼い光が、血に染まった衣服を透過して周囲へと拡散していく。

超高位の治癒魔術。裂けた肉体は瞬く間に結合し、破壊された組織は完全に修復されて塞がっていった。

しかし、ソラは微動だにしなかった。


カイの目が見開かれる。彼は魔力の出力をさらに引き上げた。

もっと、もっと強く。

治癒の術式は肉体の傷を完璧に修復し、損傷した組織を完全に塞いだが、しかし――すでにそこから『失われてしまった命』までは、決して繋ぎ止めることはできなかった。

彼女の心臓は完全に沈黙したままであり、その魔力《マナ》は二度と目覚めることのない静寂の中にあった。


カイは術式を止めた。その呼吸が、激しく乱れ始める。

彼は彼女の顔をじっと見つめ、この光景のどこかに何かの間違いがないか、自分の五感が致命的な錯覚を起こしているのではないかと、必死に手がかりを探し求めた。

彼は今までに、数々の怪物や、巨大な軍勢、あるいは世界を崩壊させるほどの絶大な力と対峙してきた。

しかし、そのいかなる絶望も、今この瞬間の圧倒的な『無力感』には遠く及ばなかった。

彼のこの手は肉体を治癒することができた。彼のこの魔術は戦場を覆すことができた。

それなのに、彼が持つすべての絶対的な力は、目の前にある絶対的な『静寂』の前で、ただ虚しく文字通り完敗していた。


治癒魔術が彼女を救うことに失敗したのではない。

そこにはもう、救うべきものが『何一つとして残されていなかった』のだ。


カイは深く頭を垂れた。

数秒の間、彼は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていた。

やがて、その裂けた唇から、絞り出すような、掠れた呟きが漏れ出た。


「……なぁ、嘘だと言ってくれよ、ソラ……」


 セナは彼の背後に佇んでいた。

彼女は今までに、激怒するカイの姿を見たことがあった。敵を容赦なく蹂全力で粉砕する姿も、世界を恐怖させるほどの圧倒的な存在へと変貌する姿も見てきた。

しかし――こんな風に打ちひしがれた彼の姿だけは、ただの一度も見たことがなかった。


カイはソラの身体をさらに強く抱きしめた。己の額を、彼女の冷たい額へとそっと押し当てる。

「……気を付けるって、約束しただろ」

彼の声が、痛々しくひび割れた。

「気を付けるって、言ったじゃないか……」

返ってくる言葉は、やはりない。彼は静かに目を閉じた。一筋の涙がその頬を伝い落ちる。しかし、彼はそれを認めることを拒絶するように、即座に手の甲で手荒く拭い去った。


--


そして、彼はもう一度彼女の姿を見つめた。

傷口は完全に塞がっている。しかし、その瞳が再び開かれることはない。その身体は力なく弛緩したままだ。

指先の下に、脈動はない。

肌をかすめる呼吸の微風も、ない。

彼の呼びかけに応える魔術的な気配も、何一つとして存在しなかった。

本当は、まだ諦めたくはなかった。索敵を続け、術式を唱え続けたかった。もう一度だけ試せば、もっと強力な魔術を注ぎ込めば、あるいは狂気的な命令を下せば、この世界が彼女を返してくれるのではないかと、そう信じたかった。

しかし、彼の手の下にある絶対的な静寂は、いかなる希望の介入をも冷酷に拒絶していた。


ソラは、彼が到着するよりも前に息絶えていたのだ。

自分は、間に合わなかった。


カイはゆっくりと、彼女の身体を再び岩へと横たえた。その両手は未練を断ち切るように一瞬だけ宙に留まり、それから強引に引き離された。

そして、彼は静かに立ち上がる。

その表情には、もはや現実を疑うような色はなかった。そこにあるのは深い深い悲哀。

そして、その悲しみの底から、遥かに危険な『何か』が急速に形を成し始めていた。


「……リンは、どこだ?」


応えるものは何もない。カイは壊滅した森林の四方へと視線を走らせた。

「リンは、どこにいる……!」


ユイの声が、彼の脳内に直接響いた。

『カイ様……やはり、依然としてリンの魔力エネルギーは検知できません』


カイは一度目を閉じ、深く、静かに息を吸い込んだ。

そして再び、その目を見開く。彼の瞳の奥で輝いていた金色の光彩が、より一層激しく明滅し、やがて禍々しい深紅の色彩へと変貌していった。

「……探せ」


セナは即座に深く頭を垂れた。

「御意、カイ様」


カイは最後にもう一度だけ、ソラへと視線を向けた。その表情が、鉄のように冷酷に強張る。

何者かが、自分の妹を連れ去った。何者かが、ソラを殺害した。

そしてそれを成した者は、明らかに意図的にこの惨状を『証拠』として残していったのだ。

カイの声は、信じられないほど静かで、地を這うように冷たかった。


「……この世界は、どうしても俺の全力が見たいらしいな」


--


破壊し尽くされた森の中を、冷たい風が吹き抜けていく。

ソラは岩肌に寄りかかったまま、完全に微動だにしなかった。

彼女の命を奪った無惨な一撃は、あと皮一枚というところで、彼女の身体を二つに切り裂くのを止めていた。

それは、彼女が奇跡的に生き延びたからではない。襲撃者が慈悲を示したからでもない。

ただ、その一撃の破壊力が、すでに完了してしまった『死』のわずか一インチ手前で、意図的にその爪を止めたからに他ならなかった。


リンは連れ去られ、ソラは死んだ。

そして通常の現実空間を超越した世界のどこかで、マイバクはリンを、カイの届かない遥か彼方の異空間へと幽閉していた。

カイはまだ、その正確な座標を知らない。

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