第124話:アッシュフォードの盗賊たち
翌朝は静かに訪れた。
リンとソラはすでに目を覚ましている。前夜のうちに装備をまとめ、ソラのバッグにはソフィアから渡された地図が綺麗に折りたたまれて入っていた。
二人は出発の準備を整え、ラオディキア聖教会の外に立っていた。
ソフィアが小さな書類の束を抱えて、二人のほうへと歩いてくる。
「最新の情報を追加しておきました」
リンがそれを受け取った。
「何が分かったの?」
「大したことではありません」
ソフィアが地図の一点を指さす。
「アジトはこの森のどこかにあります。大体のエリアは絞り込めましたが、正確な位置までは掴めていません」
ソラが地図をのぞき込んだ。
「山賊の数は?」
「三十から五十の間、といったところです」
リンが頷く。
「それくらいなら、なんとかなるね」
ソフィアがジロリと彼女を見た。
「油断は禁物ですよ」
「分かってるって」
「奴らの武器は尋常ではありません」
ソフィアの表情が、より深刻なものへと変わる。
「一部の者は付与魔術を施された装備を持っています。さらに、対魔術武器を使用しているという報告もいくつか上がっているのです」
ソラが真剣に頷いた。
「分かりました」
ソフィアが言葉を続ける。
「アッシュフォードの軍が損害を受けて以来、奴らはその状況に付け込んできました。商人の馬車を襲い、旅人を襲撃し、物資を奪い、いくつかの村を脅迫しているのです」
リンの表情が険しくなった。
「つまり、抵抗できない人たちを襲ってるってことね」
「ええ」
ソフィアはソラに別の書類を手渡した。
「奴らのリーダーは『赤牙』と呼ばれています」
「本名は?」
「不明です」
リンは腕を組んだ。
「じゃあ、本人に直接聞くしかないね」
ソフィアが呆れたように首を振る。
「……本人に聞く? まったく、理屈になっていません。ともかく、もう一つ」
リンが彼女を見つめる。
「可能であれば、生かしたまま捕らえてください」
「了解」
「奴らがなぜこれほど自由に動き回ることができたのか、その経緯を突き止めたいのです」
リンが不敵に微笑んだ。
「それなら、ちゃんと連れ帰ってあげるよ」
ソフィアは二人を交互に見つめた。
「それから、森を丸ごと一つ吹き飛ばすような真似はしないでくださいね」
リンの動きがピタリと止まる。
ソラが即座に彼女のほうを振り向いた。
「リン、変なこと考えちゃダメだからね」
「考えてないってば!」
ソフィアがため息をついた。
「結構です」
リンはバッグの位置を直した。
「夕食の前には戻ってくるよ」
ソフィアが片方の眉を上げる。
「楽観的ですね」
「お腹が空いてるからね」
「なるほど、それならすべて合点がいきます」
ソラがクスッと笑った。
二人の少女は街の門へと歩き出す。ソフィアはその後ろ姿を見送っていた。一瞬、彼女の胸に妙な安堵感が広がる。
しかし、その直後に明日待ち受けている礼拝堂の存在を思い出し、再びその表情を引き締めた。
だが、それは明日の問題だ。今日という日は、リンとソラのものだった。
--
森の奥へ
アッシュフォードの郊外はのどかだった。
しかし、街から遠ざかるにつれて、周囲はどんどん静まり返っていく。
リンは両手を頭の後ろで組みながら、街道をのんびりと歩いていた。ソラはその隣で地図を広げている。
「ねえ、リン」
ソラが声をかけた。
「普通の冒険者って、もっとちゃんと任務の準備をするものだよ?」
「準備はしたよ」
「食べ物を持ってきただけでしょ」
「立派な準備じゃん」
「種類が違うお菓子を三つも持ってきたよね」
「それも大事な準備」
「ロープ、忘れてたよ」
リンがピタリと足を止めた。
「……嘘、忘れた?」
ソラが深く頷く。
「忘れてた」
リンはバツが悪そうに頬を掻いた。
「あはは……じゃあ、その場しのぎでいくしかないね」
ソラがはぁ、とため息をもらした。
「やっぱりそうなると思った」
--
やがて二人は本街道を外れた。
周囲を木々に囲まれ、森は次第に鬱蒼とした茂みへと変わっていく。
すると、リンの表情が徐々に変化し始めた。先ほどまでのふざけた態度が消え去り、周囲の様子へと意識を集中させていく。
ソラがその変化に気づいた。
「何か感じる?」
「まだ何も」
リンは街道の脇にかがみ込んだ。そこには痕跡が残っている。複数の馬車の車輪の跡。そして、たくさんのブーツの足跡。
「これ、新しいよ」
ソラも彼女の隣にかがみ込む。
「どれくらい新しいの?」
「おそらく、丸一日も経ってない」
リンは足跡の行く先をじっと見つめた。
「森の奥へと向かってる」
ソラが立ち上がった。
「じゃあ、近そうだね」
二人はさらに前進を続けた。
数分後、二人は乗り捨てられた一台の馬車を発見した。車輪の一つが完全に叩き割られており、荷台の中身は空っぽだった。
リンが馬車に近づく。
「誰かに襲撃されたんだね、これ」
ソラが地面を調べた。
「遺体はないみたい」
「商人の人たちを連れ去ったのかも」
リンは馬車の側面に手を触れた。そして、ふと手を止める。
「……魔術の残滓がある」
ソラがにじり寄る。
「どんな種類?」
「よく分からないな」
リンは木目に目を凝らした。そこにはあるシンボルが刻み込まれていた。――赤色の、鋭い牙のマーク。
ソラの表情が変わる。
「これが、奴らのマークに違いないね」
リンが頷いた。
「見つけた」
だが、二人の少女は木々の間でかすかな動きがあったことに気づいていなかった。
いくつもの鋭い視線が、暗闇から彼女たちを監視している。
潜んでいた山賊の一人が、低く呟いた。
「……来たぞ」
別の山賊が応じる。
「女が二人だけか?」
「スカウトが言っていた通りだ」
「なら、一気に仕留めるぞ」
--
伏兵
リンとソラは歩みを止めなかった。
その瞬間、――ドォォォン! と二人の足元の地面が激しく爆発した。
魔術の罠が発動したのだ。
リンは即座に後方へと跳躍する。ソラの反応も一瞬だった。彼女の足元にまばゆい魔方陣が展開される。
ドカァァン!
木々の中から無数の矢が放たれると同時に、二人の周囲に強固な障壁が形成された。放たれた矢は障壁に激しく衝突し、何一つ突き通すことなくバラバラと地面に落ちていった。
リンは周囲を見回した。
「……見ーつけた」
木々の奥から山賊たちが次々と姿を現す。
五人、十人、二十人。さらにその数は増えていく。ソラが素早く数をカウントした。
「二十七人」
リンが不敵に微笑む。
「五十人には届かないね」
一人の男が前に進み出た。
「武器を捨てな!」
リンはソラに視線を向け、ソラも彼女を見返す。リンが肩をすくめた。
「捨てる?」
ソラがはぁ、とため息をつく。
「一応、ね」
二人が武器を下ろすと、山賊たちは目に見えて油断した。そのうちの一人が下品に笑う。
「物分かりのいい小娘どもだ」
リンがその男を見つめ、そしてにやりと微笑んだ。
「……かかった」
瞬間、彼女の魔力が外側に向けて爆発した。――ドガァァァン!
周囲にいた山賊たちが凄まじい衝撃波で宙へと吹き飛ばされる。数人が派手に木々へと叩きつけられ、残りの者たちも地面を無様に転がっていった。
ソラが呆れたように口元を押さえる。
「最初からこれが狙いだったわけね」
「当然でしょ」
「一言くらい合図してくれてもいいじゃん」
「分かってたでしょ?」
「リンが何かバカなこと仕掛けるだろうな、とはね」
「それなら合格」
生き残った山賊たちが雄叫びを上げて突撃してくる。リンは武器を構え、ソラは手を天へと掲げた。
本格的な戦闘の火蓋が切って落とされる。
--
二人の冒険者
山賊たちは集団で襲いかかってきた。彼らは様々な方向からリンを取り囲む。
左からの一撃、背後からの急襲。さらに三人目が付与魔術の施されたクロスボウを引き絞り、矢を放つ。リンは咄嗟に身をかがめた。風を切る矢が彼女の頭上をかすめていく。
「《風哮》――!」
ソラが瞬時に詠唱を紡ぐ。まばゆい魔方陣が展開され、山賊たちが反応するよりも早く呪文が発動した。
ドォォン!
激しい突風の渦が三人の男をまとめて宙へと巻き上げる。リンはその隙を見逃さず、一気に突撃した。一撃、二撃、三撃。瞬く間に別の集団を地面へと叩き伏せていく。
「左!」
ソラが鋭く叫んだ。
リンが振り向くと、一本の鉄鎖が猛烈な勢いで彼女を目がけて飛んできていた。
彼女が上空へと跳躍すると同時に、ソラがその鉄鎖を空中で完全に氷結させる。リンは凍りついた鎖の頂点へと着地し、そのまま凍った武器の上を滑るように駆け抜けた。鎖を握っていた山賊が驚愕して見上げる。
「なっ、何だと――!?」
リンはその顔面に強烈な蹴りを見舞った。男がそのまま白目を剥いて崩れ落ちる。
ソラが楽しそうに笑った。
「今の、なかなか格好よかったよ」
リンがニカッと笑う。
「ありがと!」
さらに別の集団が彼女たちに襲いかかる。しかし次の瞬間、ソラのブーツが激しい雷光を放った。彼女の姿がその場からかき消える。
コンマ数秒後、彼女は襲撃者たちの背後に音もなく出現していた。
バリバリバリ、ドガァァン!
激しい雷撃が地面を這うように炸裂し、山賊たちがバタバタと倒れていく。
リンが目を丸くした。
「ソラ、また速くなった?」
ソラがふふんと微笑む。
「練習したからね」
「格好つけちゃって」
「嫉妬した?」
「……ちょっとね」
--
戦闘は続いた。
山賊たちには数の暴力があり、装備もあった。さらには対魔術武器まで持ち出してきた。
だが、リンとソラには、彼らに決定的に欠けているものがあった。――それは圧倒的な戦闘経験。
そして何よりも、二人は『共に戦う術』を完全に熟知していた。
ソラが一言も呪文の説明をしなくとも、リンはどこに攻撃が着弾するかを肌で理解している。リンが突如として軌道を変えれば、ソラも一瞬でそれに合わせて立ち回りを修正する。二人の動きは、脳で考えるよりも早く、まるで最初から定められていたかのように完璧に同調していた。
わずか数分のうちに、戦場は意識を失った山賊たちで埋め尽くされた。立っている者はもうほとんどいない。
その時、木々の奥からゆっくりとした拍手の音が響いてきた。
パチ、パチ、パチ。
リンが動きを止める。ソラもその音のする方へと視線を向けた。
木陰から、一人の巨漢がのっそりと姿を現す。傷だらけの重厚な鎧を身に纏い、肩からは血のような赤マントを羽織っている。片手には巨大な戦斧が握られており、その鎧にはいくつかの魔導具が装着されていた。生き残っていた数少数の山賊たちが、恐縮したように道を譲る。
男が下卑た笑みを浮かべた。
「へえ、お前らが噂の厄介者か」
リンは男を上から下まで値踏みするように見つめた。
「あんたが『赤牙』?」
男がニヤリと口角を上げる。
「皆はそう呼ぶな」
ソラが声を潜めて呟いた。
「……リン、あいつ他の奴らより強そう」
リンが低く頷く。
「うん、そうだね」
赤牙がガハハと豪快に笑った。
「お前ら二人で、本当にこいつらを全員片付けちまったのか?」
リンは転がっている山賊たちを親指で指さした。
「見ての通りでしょ」
男の笑みがさらに凶悪に広がっていく。
「面白い」
彼は巨大な戦斧を軽々と持ち上げた。
「なら、お前らがどれだけやれるか、この俺が試してやろうじゃねえか!」
--
赤牙
赤牙が猛然と突撃してきた。その巨体の一歩ごとに地面が激しく揺れ動く。
凄まじい風切り音と共に戦斧が振り下ろされた。リンはそれを武器で受け止める。
ズガァァァン!
凄まじい衝撃波が炸裂し、リンの身体は強引に数メートル後方へと弾き飛ばされた。彼女はブーツの底を泥に深くめり込ませて、どうにか踏みとどまる。
「《風刃》――!」
ソラが即座に追撃の魔術を放った。しかし、赤牙がにやりと笑って腕を掲げる。
その瞬間、彼の前に半透明の防壁が展開され、ソラの魔術は木っ端微塵に砕け散った。ソラが鋭く目を細める。
「対魔術障壁……!」
赤牙が勝ち誇ったように笑う。
「その通り!」
彼は再び突撃してきた。リンは紙一重で戦斧を回避する。
ドカァァン!
振り下ろされた斧が地面を叩き割り、大地に巨大な亀裂が走った。リンは即座にカウンターへと転じ、その拳を彼の鎧へと叩き込む。しかし、赤牙の巨躯は微動だにしない。
激しい横薙ぎの一撃。リンはそれを跳躍してかわし、ソラが再び別の魔術を放つ。だが、それも防壁に阻まれる。
何度仕掛けても、結果は同じだった。
赤牙が嘲笑するように声を張り上げる。
「ハハハ! これだけかよぉ!」
リンの瞳が冷たく細められた。
連撃が繰り出される。彼女は避ける。さらなる一撃。それを防ぐ。また一撃。彼女は地面を転がってそれを回避した。赤牙の笑い声がさらに大きくなっていく。
「すばしっこいだけのネズミめ!」
リンは何も言い返さない。
男の攻撃は激しさを増し、一撃一撃が先ほどよりも確実に重くなっていた。そしてついに、鋭い一振りがリンの肩を捉えた。
ドバァァン!
衝撃に耐えきれず、リンの身体が激しく後方へと吹き飛ぶ。
「リン!」
ソラが慌てて駆け寄ろうとした。
リンは片手を挙げてそれを制する。
「……大丈夫」
彼女はゆっくりと立ち上がった。服は土埃で完全に汚れている。
赤牙がせせら笑った。
「大人しく諦めな」
リンは頬の泥を手の甲で拭った。
「……お断り」
男が再び突撃してくる。今度はリンも正面からそれを迎え撃った。
互いの一撃が真っ向から衝突する。――ズガァァァン!
周囲の木々が一斉に激しく激震した。赤牙がさらに力を込めて押し込んでくる。リンの足元がじりじりと後方へと滑っていった。
男が下品に笑う。
「捕まえたぞ!」
リンは歯を食いしばった。
一見すると、完全に赤牙が戦闘を支配しているように見えた。彼の肉体的な怪力はリンを凌駕しており、その付与鎧はあらゆる魔術を無効化する。そしてその武器は、岩石をも容易く粉砕する破壊力を秘めていた。リンは完全に劣勢に立たされ、じりじりと後退を余儀なくされていた。
--
赤牙は戦斧を高く掲げた。
「お前を片付けたら――」
彼はチラリと後方のソラに視線を向けた。
「次はそっちの、そこの連れを可愛がってやるよ」
ソラはパチパチと瞬きをして、何でもないことのようにあっさりと返した。
「私を捕まえるくらいなら、そのリンを捕まえた方がいいと思うよ?」
リンの首が、凄まじい勢いでソラの方へと回った。
「ソォォォラァァァ!!」
ソラは無実を主張するように、テヘッと可愛らしく微笑む。
「なーんてね、冗談だよ」
赤牙は二人のやり取りを呆然と見つめ、それから鼻で笑った。
「いや、いい」
彼は真っ直ぐにリンを指さした。
「あんなのは俺の好みじゃねえな」
彼はリンを頭からつま先までジロジロと眺める。
「その隣にいる、まな板みたいな絶壁の小娘の方がまだマシだ」
ピキッ、と。
世界から、音が消えた。
リンの動きが完全に停止する。ソラの顔から笑みが一瞬で消え去った。
赤牙だけが、自分が今どれほど致命的な一線を踏み越えたかも知らずに、ヘラヘラと笑い続けている。
リンの表情から、一切の感情が綺麗に消失した。
その額に、ドクドクと青筋が浮かび上がる。
ソラは引き攣った顔のまま、音もなく一歩、また一歩と後退し始めた。
「……リ、リン?」
リンの身体から、漆黒のドス黒いオーラが文字通り立ち上り始める。ソラはゴクリと唾を飲み込んだ。
「……それ以上は、やめ、あ、いや……」
――次の瞬間、リンの姿がその場から完全に消え失せた。
赤牙の顔から笑みが消え失せた。
「なっ――!?」
ドゴォォォン!
次の瞬間、リンは彼の目の前に出現していた。
容赦のない拳が男の腹部へとめり込む。赤牙の巨体がくの字に折れ曲がった。彼が体勢を立て直すよりも早く、ズガァァン! と二撃目がその顎を完璧に捉えた。
巨躯が上空へと跳ね上げられる。リンの姿が再び消え、彼のさらに上空へと先回りした。
ドカァァァン!!
叩きつけられた赤牙は、もの凄い勢いで木々をなぎ倒しながら地面へと激突していった。
リンは逃がさない。
男がどうにか立ち上がろうとした時には、すでに彼女はそこにいた。
パンチ、キック、さらにパンチ。
付与魔術が施されていた頑丈な鎧に、バキバキと無数の亀裂が入っていく。赤牙は必死に戦斧を振り回そうとしたが、そこにリンの姿はもうない。
彼女は男の背後へと回り込んでいた。
ドォォン!
前方へと弾き飛ばされれば、次の瞬間には正面から、ズガァァン!
後方へ、上方へ、下方へ、左へ、右へ。
赤牙の目には、もう彼女の動きが一切捉えられていなかった。
わずか一秒足らずの間に、彼は戦闘を支配する強者から、ただ生き延びるために無様に悶え苦しむだけの存在へと叩き落とされたのだ。
「ま、待てっ!」
リンの容赦ない一撃が炸裂する。
「待ってくれ!」
さらなる一撃。
「そんなつもりじゃ――」
そして、最後の一撃。
バキィィィン! と、赤牙の鎧が完全に粉砕された。魔導具はバラバラに壊れ、巨大な戦斧がその手から滑り落ちる。
リンは男の胸ぐらを掴み、そのまま全力で地面へと叩きつけた。
ドゴォォォォォン!!
大地が激しく陥没し、凄まじいクレーターが出来上がる。
赤牙は白目を剥き、完全に意識を失った。
--
リンはその場に立ち尽くしていた。
その呼吸は少し荒く、握りしめられた両拳が小刻みに震えている。
ソラが恐る恐る、ゆっくりと近づいてきた。
「……リン?」
リンは答えなかった。ぷいと顔を背け、両頬をこれでもかと膨らませてへそを曲げている。
そして、その大きな瞳にじわじわと涙が溜まり始めた。
ソラはパチパチと瞬きをした。
「よしよし」
彼女はそっと歩み寄り、優しく声をかける。
「大丈夫だよ、気にしないで」
リンはズビッと鼻をすすった。
ソラが優しく微笑む。
「リンには、まだまだこれから成長する時間がいっぱいあるんだから」
その瞬間、リンの表情から一切の感情が綺麗に消え失せた。完全に無表情になった。
彼女はゆっくりと首を巡らせ、ソラをじっと見つめる。ソラの笑みが引き攣った。
「……あ、今の、逆効果だった?」
リンはジト目で睨みつけた。
「うん、最悪」
ソラは引きつった笑いを浮かべた。
「ご、ごめん」
リンはゴシゴシと涙を拭った。
「ソラのいじわる」
「分かってる」
「そこは慰めてくれるところでしょ」
「慰めようとしたんだよ?」
「余計に傷ついた!」
「みたいだね……」
リンは再びぷいと横を向いた。
「ふんっ」
ソラが苦笑する。
「ほら、帰ろう?」
リンは腕を組んだ。
「ソラも、あいつ(赤牙)も、二人とも大っ嫌い」
ソラは転がっている赤牙を見下ろした。
「あいつ、もう気絶してるから聞こえてないよ」
「知ってる!」
--
アジト
赤牙が気絶し、残りの山賊たちも完全に無力化したため、リンとソラはアジトの内部へと足を踏み入れた。
内部は予想以上に広大だった。山賊たちは地下の巨大な洞窟を完全に改造し、自分たちの拠点としていたのだ。
そこには寝泊まりするための居住区、保管庫、武器のラック、いくつかの大きな机があり、略奪された物資が詰め込まれた木箱が山積みにされていた。
リンは周囲を見回した。
「かなり計画的にやってたみたいだね、これ」
ソラが木箱の一つを開けた。
「……食料だね」
別の箱を開ける。
「こっちはお金」
さらに別の箱を開ける。
「魔導具まであるよ」
リンは壁に近寄った。そこには何枚もの地図が貼り付けられている。
「これ、ただの行き当たりばったりのルートじゃないよ」
ソラも近づいて視線を走らせた。地図にはアッシュフォードの全域、近隣の村々、商人の交易路、そして軍の駐屯地や検問所の位置が克明に記されていた。ソラの表情が真剣なものへと変わる。
「この国を、徹底的に調べてたんだ……」
リンが深く頷いた。
「防衛線がどこで一番手薄になるか、完全に把握した上で動いてたんだね」
ソラが一枚の書類を拾い上げた。
「それだけじゃないよ」
そこには商人の名前、馬車の運行スケジュール、物資の輸送ルートが細かく記録されていた。
リンは不快そうに眉をひそめる。
「こいつら、ただの物取りじゃない」
「……何かの準備をしてたんだね」
「何のために?」
その答えを知る者は、ここにはいなかった。
--
その時、ソラがさらに奥にある何かに気づいた。
アジトの最奥に、厳重にロックされた謎の小部屋が佇んでいた。リンが歩み寄る。
「この中、何があるんだろ?」
ソラが扉の構造を調べた。
「強い魔術の気配がする」
リンが扉の近くに手をかざした。その瞬間、扉の奥からドクンと奇妙な波動が伝わってくる。彼女は咄嗟に手を引っ込めた。
「……ソラ、今の手応え、感じた?」
ソラは首を横に振った。
「ううん、私には何も」
リンは眉をひそめる。
「確実に、中に何かがいる」
彼女が鍵穴へと手を伸ばそうとした。
ソラがその手首をガシッと掴む。
「待って、リン」
リンが彼女を振り返る。
「これが何なのか、私たちにはまだ分からない。危ないよ」
リンは少し考えてから、大人しく頷いた。
「……そうだね、一理ある」
二人はその部屋を無理に開けず、そのままにしておくことに決めた。代わりに、回収できる略奪品や書類、武器をすべてまとめる。
あの不気味な密室は、発見された時のまま、静かに取り残されることとなった。
--
アッシュフォードへの帰路
帰り道は、行きよりもずっと静かだった。
捕らえられた山賊たちは一列に縄で縛られ、街道を引きずられていく。頭領である赤牙は、未だに気絶したままだ。
リンはソラの隣を歩いていた。彼女の機嫌は、すでにかなり回復していた。――まあ、大体は、だが。
ソラがチラリと彼女を見た。
「リン、まだ気にしてるの?」
「してない」
「してるよね」
「してないってば」
「もう二十分くらいずっと口を尖らせてるよ」
「尖らせてない!」
ソラがくすくすと笑う。
「尖らせてるってば」
リンはぷいと顔を背けた。
「ふんっ」
ソラは笑いながら、リンの肩に自分の肩をポンと優しくぶつけた。
「大丈夫だって」
リンが上目遣いで彼女を見る。
「……本当に、わたし、これから成長すると思う?」
ソラは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん!」
リンは目を細めて睨んだ。
「全然慰めになってないからね、それ」
ソラがハハハと笑う。
「ごめんごめん」
リンははぁ、とため息をついた。
「もう、いいけどさ……」
二人は並んで歩き続けた。数分後、リンの口元に自然と笑みがこぼれる。
恥ずかしさはまだ残っていたが、今日という日は大成功だった。二人にとって初めての、本格的な冒険者としての任務。
そして何よりも、それを『二人で一緒に』やり遂げたのだから。
--
ソフィアの執務室
アッシュフォードの街に戻ってきた頃には、太陽はすでに西の空へと傾き始めていた。
ソフィアは相変わらず、執務室で書類の山と格闘している。扉が開いた音に、彼女が顔を上げた。最初にリンが入ってくる。
「ただいまー。戻ったよ」
ソフィアが彼女の背後に視線を向けた。縄で縛られた山賊たち、そして完全に伸びている赤牙の姿を見て、片方の眉をぴくりと上げる。
「……随分と早かったですね」
リンが自慢げに胸を張る。
「言ったでしょ?」
ソラが回収した書類の束をデスクの上に置いた。
「ソフィアさん、奴ら、思った以上に組織化されていました」
ソフィアが最初の書類を開く。その表情が、みるみるうちに深刻なものへと変わっていった。
「これは……アッシュフォードの交易ルートですね」
「うん」
「それに、軍の検問所の配置まで」
「そう」
「村々の正確な位置も……」
「不自然でしょ?」
ソフィアが二人を厳しく見つめた。
「奴ら、ただの山賊の規模を超えて、国家の情報を収集していますね」
リンが深く頷く。
「それと、もう一つ見つけたものがあるんだ」
彼女はアジトの奥にあった、あのロックされた不気味な小部屋について説明した。
ソフィアは一言も聞き漏らさないよう、真剣に耳を傾けていた。
「……それを開けずに戻ってきたのですね?」
「うん」
「賢明な判断です」
ソフィアは報告書をパタンと閉じた。
「明日、すぐに調査班を派遣してアジトを完全に封鎖させます」
ソラが静かに頷いた。
ソフィアはリンを見た。
「それで、あなたは?」
「何が?」
「妙に静かですが」
リンは即座にぷいと目を逸らした。
「……何でもない」
ソラが口元を手で覆う。ソフィアはその様子を見逃さなかった。
「何があったのですか?」
「何でもないってば!」
ソラがニヤニヤと微笑む。
「本当に、なーんにもありませんよ?」
リンが鋭い視線をソラへ向けた。
「ソラ、それ以上言ったら怒るからね」
ソフィアは二人を交互に見つめ、それから床に転がっている赤牙に目を落とし、再びリンへと視線を戻した。
彼女はどうやら、道中で何か良からぬハプニングがあったことを察したようだ。けれど、あえてそれ以上は追及しないことに決めたらしい。
代わりに、彼女はかすかに唇を綻ばせた。
「……何はともあれ、二人ともよくやってくれました」
リンの表情がふっと和らぐ。
「うん、ありがと」
ソラも嬉しそうに微笑んだ。
ソフィアは散らばった書類を一つにまとめた。
「今日はもう休みなさい」
リンが頷く。
「明日は、あの古い礼拝堂の調査だね」
「ええ」
ソフィアの表情が、再び任務の厳格なものへと戻る。
「朝早くに出発できるよう、準備をしておきなさい」
リンとソラは揃って頷き、執務室を後にした。
--
地図
その夜遅く、ソフィアは一人で執務室に残っていた。
静まり返った聖教会の中で、彼女は昼間回収されたあの地図をデスクの上に広げる。
じっと目を凝らしていると、ある一つの奇妙な点に彼女の意識が引きつけられた。
――地図の一区画に、不自然な丸印が付けられている。
それはアッシュフォードの郊外にある、古い歴史を持つ地域だった。
まさに明日、リンたちが調査に赴く予定の、あの礼拝堂のすぐ近くの場所。
ソフィアは鋭く目を細めた。
「……奴らはなぜ、この場所に興味を持っていたのですか?」
彼女は周囲に書き込まれた殴り書きのノートを精査した。山賊たちはいくつかの街道や、いくつかの村に印を付けている。しかし、この場所だけは明らかに毛色が違っていた。
ただ一つの丸印。
説明もなければ、指示もない。ただ、そこが目的地であるかのようにポツンとマークされているだけだった。
ソフィアは椅子の背もたれに体を預けた。
消息を絶った教会の出先機関。古びた礼拝堂。そして、山賊たちがその一帯に示していた奇妙な関心。
あまりにも多くの偶然が、一本の線となって繋がり始めていた。
彼女は地図を静かに折りたたむ。
「……すべては明日、明らかになりますね」
聖教会の外では、静寂な夜がそのまま続いていた。
リンとソラは、すでにそれぞれのベッドで深い眠りについている。翌朝に何が待ち受けているのか、今の二人はまだ知る由もない。
山賊討伐の任務はこれで完全に幕を閉じた。彼女たちの新しい冒険者ライフにおける、最初の本格的な仕事が終わったのだ。
しかし、アッシュフォードの郊外に佇む古い礼拝堂の地下深くでは、何かが今も静かに息を潜めて待ち受けている。
そして明日、リンはその場所へと真っ直ぐに足を踏み入れることになる。




