第123話:戦いのない一日
珍しく、誰も命を狙ってこない。
リンはそれを、幸先の良いスタートだと捉えていた。
ラオディキア聖教会の客室に、朝の木漏れ日が差し込んでいる。
リンはゆっくりと目を開けた。数秒間、天井をじっと見つめた後、彼女は首を横に巡らせる。
ソラはまだ眠っていた。
どういうわけか、毛布がベッドの半分くらいまでずり落ちている。髪はひどい寝癖で、片方の腕がベッドの端からだらしなく垂れ下がっていた。
リンはその姿をじっと見つめる。
「……よくそんな格好で眠れるよね」
ソラが何かモゴモゴと聞き取れない声を漏らした。
リンはベッドの上に体を起こした。
手を伸ばし、はだけた毛布をそっと掛け直してあげる。すると、ソラはすぐにそれをぎゅっと抱き抱えた。
「……わたしの」
リンは瞬きをした。
「え?」
ソラはさらに力を込めて毛布を握りしめる。
「……あったかい」
リンはため息をついた。
「呆れた」
彼女がベッドから這い出ると、その数秒後、ソラがうっすらと片目を開けた。
「……起きたの?」
リンが振り返る。
「見ての通り」
ソラは目をこすった。
「いま、何時?」
「朝だよ」
「答えになってない」
「十分な朝、ってこと」
ソラはジト目でリンを見た。
「時間の数え方、間違ってる」
リンは不敵に微笑む。
「でも、現に起きたでしょ?」
「不本意ながらね」
リンは小さく吹き出した。
ようやくソラが体を起こしたが、その髪の毛はさっきよりさらに悲惨なことになっていた。
リンは笑いを堪えようとしたが、ソラに気づかれる。
「笑わないで」
「何も言ってないじゃん」
「ニヤニヤしてる」
「そうかな?」
「してる」
リンはぷいと顔を背けた。
「何のことだかさっぱり分かりませーん」
ソラが枕を掴んだ。
「リン」
リンは即座に両手を挙げる。
「わかった、わかったから!」
枕が下ろされ、ソラは長いため息をついた。
「ほんと、ウザい」
「それでも、ついてきたくせに」
「不本意ながらね」
リンはいたずらっぽく笑った。
--
朝食の時間は、それよりもずっと穏やかなものだった。
テーブルの反対側では、ソフィアが何枚もの書類を広げて座っている。
リンはその書類に目を向けた。
「ねえ、いつ休んでるの?」
ソフィアは視線を上げない。
「休んでいません」
ソラも書類に目を落とする。
「それ、聞いてるだけで鬱になりそう」
「ええ、実際そうです」
ソフィアはそこでようやく紅茶に口をつけた。
「軍事組織を再建するという仕事は、魔物と戦うよりも遥かに地味なものだと痛感させられますね」
リンは深く頷いた。
「まあね。誰も何も爆発させられないし」
ソフィアが片方の眉をぴくりと上げた。
「お願いですから、誰かに変な知恵を授けないでくださいね」
リンは無実を主張するように微笑む。
「まさか。そんなことしないよ」
ソラがボソッと呟いた。
「絶対にやるね、この人」
「聞こえてるよ」
「知ってる」
ソフィアの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
奇妙なほど、ありふれた、平凡な空気。
アッシュフォードであれだけのことが起きた後だからこそ、その『普通』がとても愛おしく感じられた。
リンは朝食を食べ終えると、椅子の背もたれに体を預けた。
「それで」
ソラが彼女を見る。
「それで?」
「今日は何する?」
ソフィアは書類をめくりながら言った。
「あなたたちに手伝わせる仕事はありません」
リンは瞬きをした。
「本当に?」
「ええ」
「どうして?」
「ここに着いたばかりでしょう」
ソフィアがページをめくる。
「一日くらい、責任から解放されて過ごしても罰は当たりません」
リンはソラに視線を向けた。ソラも彼女を見返す。
リンの顔に、じわじわと笑みが広がっていった。
「決まり。街に出よう」
ソラも微笑む。
「賛成」
ソフィアがため息をもらした。
「くれぐれも、何も破壊しないでくださいね」
「善処する」
「リン」
「わかった、わかった。気をつけるよ」
--
昼間のアッシュフォードは、また違った表情を見せていた。
街はまだ、戦争の爪痕から立ち直ろうとしている最中だ。完全に修復された建物もあれば、まだ足場に覆われたままの場所もある。
職人たちが通りへ石材を運び、魔術師たちが壊れた壁を修復していく。商人たちは店を再開し、子どもたちは建物の間を元気よく駆け抜けていた。
街の傷はまだ癒えていない。だが、確かに『生きて』いた。
リンとソラは、市場を並んで歩いた。
リンの視線は、あちこちへと目まぐるしく動く。
「ねえ、あれ見て」
ソラがその視線を追った。
「どれ?」
「あれだよ」
「果物屋さんの屋台?」
「あの果物、ものすごく大きくない?」
「普通じゃない? あれくらい」
「そんなことないって」
リンが屋台へ近づくと、商人が愛想よく微笑みかけてきた。
「いらっしゃい! もぎたてのゴールデンアップルだよ」
リンはそのうちの一つを手に取った。
「これ、本当に金色になるの?」
商人はハハハと笑った。
「いや、ただの名前だよ」
リンはあからさまにがっかりした顔をした。
「誇大広告だ……」
ソラが思わず吹き出す。
「本気で金色になると思ってたの?」
「だってもっと変なもの、いっぱい見てきたし」
「何の言い訳にもなってないから」
それでもリンはそれを一つ購入した。
さっそく一口かじってみる。
その瞬間、彼女の目が丸くなった。
「……あ、すごい」
ソラが眉を上げる。
「美味しい?」
リンは激しく頷いた。
「うん、めちゃくちゃ美味しい」
ソラが小さく笑う。
「わたしにも一口ちょうだい」
リンがリンゴを差し出す。
ソラがそれをかじろうとした時、二人の指先がほんの少しだけ触れ合った。
一瞬、お互いの動きが止まる。
先に目を逸らしたのはリンだった。それに続くように、ソラも視線を外す。
二人とも何も言わなかった。その場の空気はすぐに流れていったが、どちらもその感触を完全には忘れることができなかった。
二人はそれから、いくつかのお店をぶらぶらと巡った。
魔道具の店、服飾店、本屋に、小さなパン屋。
リンはどういうわけか、行く先々のあらゆる場所で食べ物を見つけ出していた。
やがて、ソラが宝飾店の前で足を止めた。
「あ、待って」
リンが振り返る。
「どうしたの?」
ソラはショーウィンドウの中を覗き込んでいた。
そこには、シンプルなデザインのブレスレットがいくつか並んでいる。
その中のひとつが、彼女の目を引いた。
決して、高価なものではない。
細い銀の輝きの中に、小さな青い宝石がひとつだけ、静かにあしらわれているものだった。
リンはその視線に気づいた。
「それ、気に入ったの?」
ソラが頷く。
「うん、綺麗だなって」
リンはブレスレットに目を落とし、それからソラを見た。
「店に入ってみようよ」
ソラがパチパチと瞬きをする。
「え、どうして?」
「だって、気に入ったんでしょ」
二人は店内に足を踏み入れた。
ソラがブレスレットを試着してみると、まるであつらえたかのように彼女の手首にぴったりと収まった。
嬉しそうに微笑むソラを、リンは見つめる。
「買いなよ、それ」
ソラは少し躊躇した。
「うーん、どうしようかな……」
リンはカウンターに代金を置いた。
ソラが勢いよく振り返る。
「ちょっと、リン!?」
「何?」
「買わなくていいのに!」
「わたしが買いたかったの」
「でも……」
「いいから」
ソラは手首のブレスレットをじっと見つめ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう」
リンは肩をすくめる。
「どういたしまして」
ソラが店内の棚を見回していると、もう一つのブレスレットが目に留まった。
先ほどのものと、ほとんど同じデザイン。ただ、あしらわれている宝石の色合いだけが違っていた。
彼女はそれを手に取る。
「じゃあ、リンもこれ着けて」
リンは瞬きをした。
「わたしが?」
「うん」
「そんなの必要ないよ」
「知ってる」
ソラは悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、わたしがリンに持っててほしいの」
リンはソラを見つめた。
胸の奥に、じんわりとした温かいものが広がっていく。
「……わかったよ」
ソラが二つ目のブレスレットを購入した。
店を出た後、リンは自分の手首を見つめ、ソラも同じように自分の手首に目を落とす。
お揃いのブレスレット。
二人はその意味を言葉にしなかった。言葉にする必要など、どこにもなかったからだ。
--
あっという間に昼食の時間がやってきた。
二人は川沿いにある静かなレストランを見つけた。リンは三人前はあろうかという量の料理を注文する。
ソラが机の上の料理を凝視した。
「……誰か待ってる人でもいるの?」
「ううん」
「じゃあ、なんでこんなに頼んだの?」
「お腹が空いてたから」
「リンはいっつもお腹空かせてるよね」
「犯罪じゃないもん」
「そろそろ犯罪の域に達しそうだけど」
リンは声を上げて笑った。
川を行き交う小舟を眺めながら、二人は食事を楽しんだ。しばらくの間、ただ一緒にいるだけの時間を贅沢に味わう。
やがて、ソラが問いかけた。
「ねえ、この旅が終わったら、リンはどうするつもり?」
リンのフォークを動かす手が緩んだ。
「さあ、どうだろう。わからないな」
「いっつも『わからない』って言うよね」
「わかることだってあるよ」
「たとえば?」
リンは少し考えた。
「世界を見て回りたいな、って」
ソラが微笑む。
「それから?」
リンはソラを見つめた。
「本からは学べないようなことを、たくさん経験したい。それと……」
彼女は一度言葉を区切った。
「……隣に、誰かがいてほしいな」
ソラの表情が柔らかくなる。
「誰か、って?」
リンは頷いた。
「わたしの、旅の相棒」
ソラは嬉しそうに目を細めた。
「そっか」
リンはソラの顔をのぞき込んだ。
「ソラは、本当にこれからも一緒に旅をしてくれるの?」
「当然でしょ」
ソラは手でお盆を支えながら、頬杖をついた。
「どこに行くかなんて、どこでもいいよ」
彼女は優しく微笑む。
「リンと一緒にいられるならね」
リンの心臓が、ドクンと跳ね上がった。
彼女は慌てて川の方へと視線を逸らす。
「……うん」
ソラはその反応に気づいたが、からかうようなことはしなかった。ただ、愛おしそうに微笑んでいる。
--
昼食を終えた二人は、再び歩き出した。
中央広場の近くを通りかかった時、若い冒険者のグループと出くわした。そのうちの一人が、ソラの姿に気づく。
「あれ? 待って」
ソラが振り返る。
「ん?」
「君、ソラだよね?」
彼女は頷いた。
「はい、そうですけど」
若い男がパッと表情を輝かせる。
「ティアムーンの学園での戦いの噂、聞いてるよ!」
ソラは少し決まり悪そうにした。
「そんなの、何年も前の話だよ」
「それでも凄いよ」
男は今度はリンの方に視線を向けた。
「ってことは、君がリンだね?」
リンは頷く。
「そうだけど」
「二人が高等吸血鬼を倒したって聞いたんだ」
ソラが微笑んだ。
「二人で協力して戦ったんだよ」
冒険者は再びソラに熱い視線を送る。
「ソラの雷魔術、本当に凄かったんだってな!」
「ありがとう」
リンは突然、口を閉ざした。
自分でも理由が分からなかった。冒険者はその後もソラに話しかけ続け、彼女のスピードや、魔術のキレ、戦闘能力の高さを褒めちぎっている。
それを黙って聞いているうちに、リンの胸の奥で、何やらドロりとした不快な感情が渦巻き始めた。
彼女は眉をひそめる。
(……なんでわたし、イライラしてるんだろ?)
ソラを見ると、彼女は愛おしそうに愛想笑いを浮かべている。
その光景に、胸のモヤモヤはさらに加速した。リンは一歩、ソラに近づく。
そして、ソラの手をぐっと掴んだ。
ソラがパチパチと瞬きをし、冒険者の言葉がピタリと止まる。
リンは満面の笑みを浮かべた。
「ごめんね、わたしたち、もう行かなくちゃいけないところがあるの」
ソラが不思議そうに彼女を見る。
「え、そうだっけ?」
「そうなの」
「どこに?」
リンは咄嗟に頭をフル回転させた。
「……とにかく、どこか!」
冒険者は困惑した様子で頭を掻いた。
「あ、うん……」
リンはソラの手を優しく引っ張って歩き出した。
「それじゃあ、良い一日を!」
ソラはぎこちなく手を振る。
「バイバイ……!_」
--
数メートルほど歩いたところで、ソラが視線を落とした。
二人の手は、まだしっかりと繋がれたままだ。彼女がリンの顔を見つめると、リンもようやくそのことに気づいた。
リンは慌てて手を離す。
「ご、ごめん!」
ソラがクスッと笑う。
「何で謝るの?」
「何でって、自分でもよく分かんないけど……」
ソラの笑みが、さらに深くなった。
「わたしは分かるよ」
リンは眉をひそめる。
「何が?」
「リン、嫉妬してたでしょ」
リンはピタリと足を止めた。
「してない!」
「してた」
「してないってば」
ソラは楽しそうに吹き出した。
「だって、わたしの手を掴んで強引に引っ張っていったじゃん」
「あれはソラを守ったの!」
「ただの会話から?」
「あいつ、なんか怪しかったし」
「わたしのこと褒めてくれてただけだよ?」
「それが怪しいの!」
ソラがじっと見つめてくる。
リンは、自分が今どれほど突飛で理不尽なことを言っているかに気づかされた。
「……もう、今の忘れて」
ソラがハハハと笑う。
「リンって、嫉妬すると可愛いね」
リンの顔が真っ赤に染まった。
「……うるさい」
ソラは嬉しそうに微笑んだ。
「はーい」
二人は再び歩き出した。
数歩歩いたところで、ソラがそっと、静かにリンの手をもう一度握りしめた。
リンは繋がれた手元を見つめ、それからソラの顔を見る。ソラは何も言わなかった。リンも何も言わなかった。
けれど今度は、リンがその手を離すことはなかった。
--
やがて二人は、川沿いにある静かな公園にたどり着いた。
大きな一本の木が、心地よい木陰を作っている。
二人はその根元に腰を下ろした。
都会の喧騒が、遠くの背景へと静かに溶けて消えていった。
リンは自分のブレスレットを見つめた。
ソラがその視線に気づく。
「気に入った?」
リンはコクンと頷いた。
「うん」
「どうして?」
リンは少し考えた。
「ソラが選んでくれたから」
ソラが嬉しそうに微笑む。
「わたしも、リンが選んでくれたからだよ」
リンは彼女を見つめた。
「どうしてお揃いなの?」
ソラは少し躊躇するように、視線を川の方へと向けた。
「よく分かんないけど……ただ、リンのことを思い出せるものが欲しかったんだと思う」
リンの表情がふっと柔らかくなった。
「わたしが近くにいない時でも?」
ソラが頷く。
「特に、そういう時にね」
リンは答えなかった。
二人の肩が、そっと触れ合う。どちらも身を引き離そうとはしなかった。
川はさらさらと流れ続け、穏やかな微風が木の葉を揺らしていく。二人は数分間、ただそうして静かに座っていた。
--
その日の夕方、二人は教会へと戻ってきた。
買い物をして荷物は軽くなり、お腹はいっぱいだった。大通りを歩く間、二人はずっと、あの公園で起きたことを意識していないフリを続けていた。
ソフィアはまだ執務室にいた。彼女がふっと顔を上げる。
「おかえりなさい」
リンが頷いた。
「ただいまー」
ソフィアは二人の手首にあるブレスレットに目を留めた。
視線がリンの腕からソラの腕へ、そしてまたリンの腕へと往復する。
「なるほど」
リンは即座に警戒した。
「何?」
「いえ、何も」
ソフィアは淡々と書類仕事に戻る。
リンはジト目で彼女を睨んだ。
「またそれやってる」
「それ、とは?」
「何か知ってるくせに、何も言わないやつ」
ソフィアは静かに次のページをめくった。
「さあ、どうでしょうね」
ソラがクスクスと笑いを堪えるように口元を抑えた。リンが彼女を振り返る。
「ちょっと、ソラまで笑ってるじゃん」
「笑ってないよ」
「絶対笑ってる」
「気のせいじゃない?」
リンははぁ、とため息をついた。
「もう、今日はみんなしてウザいんだから」
ソフィアの口元に、かすかな笑みが浮かんでいた。
--
その日の夜、リンとソラは自分たちの部屋に並んで座っていた。
夕日が窓をオレンジ色に染め上げている。
ソラがリンを見た。
「今日、楽しかったね」
リンも頷く。
「うん、そうだね」
「街に出てよかったな」
「わたしも」
ソラは手首のブレスレットを愛おしそうに見つめた。
「……ねえ、リン」
「ん?」
「さっき、言おうとして言えなかったことがあるの」
リンの心臓がドクンと跳ねた。
記憶が蘇る。あの時、途中で遮られてしまった言葉。
ソラは深く息を吸い込んだ。
「わたし、本当にリンと一緒にいるのが大好きなんだ」
リンがソラを見つめると、ソラの頬がほんのりとピンク色に染まっていく。
「その……なんて言うか、本当に、本当に大好きなの」
リンの口元に笑みがこぼれた。
「わたしも、ソラと一緒にいるの、大好きだよ」
ソラがぱちくりと目を丸くする。
「本当?」
「うん」
リンは少し視線を落とした。
「それが、どういう意味なのかは……まだ、はっきりとは分からないけどね」
ソラも優しく頷いた。
「うん、わたしも」
二人の間に、小さな微笑みが通い合う。
「ベッドの上で、焦らなくていいよね」
リンは彼女を見つめ返した。
「わたしもそう思う」
二人の手が、自然と重なり合った。今度はどちらも手を引こうとはしない。
ソラがリンの手を優しく、きゅっと握りしめた。
「じゃあ、これから一緒に見つけていこう?」
リンは満面の笑みを浮かべた。
「うん、一緒に」
--
アッシュフォードの街に夜が訪れた。
喧騒は静まり返り、暗い夜空の下で街灯の光がぽつぽつと輝いている。
リンとソラは、今日最後のお散歩に出かけていた。ゆっくりとした足取りで歩く。二人とも、まだこの一日を終わらせたくなかったのだ。
ソラが夜空の星々を見上げた。
「わたしたち、最終的にどこにたどり着くのかな?」
リンは少し考えてから答えた。
「たぶん、すっごく危険な場所じゃない?」
ソラがハハハと笑う。
「それ、全然安心できないんだけど」
リンもニヤリと笑う。
「……あるいは、すっごく綺麗な場所かもね」
「うん、そっちの方がいいな」
リンはソラを見つめた。
「それがどこであっても――」
彼女は一瞬、言葉をためらった。
「……そこに、ソラがいてくれたら嬉しいな」
ソラの笑みが、さらに柔らかくなる。
「旅の相棒として?」
リンは途端に恥ずかしくなって顔を赤くした。
「うん……そう」
ソラは嬉しそうに頷いた。
「うん、約束する。絶対に隣にいるよ」
二人はまた歩き出した。
どちらからともなく、自然と手が繋がれる。
それについて、二人は何も言わなかった。言葉にする必要なんて、もうなかったから。
--
ようやく部屋に戻ると、ソラはベッドの横で足を止めた。
「おやすみ、リン」
「おやすみ」
ソラが微笑む。
「今日はありがとうね」
リンも微笑み返した。
「こちらこそ、一緒についてきてくれてありがとう」
ソラはベッドに横たわり、毛布を体に掛けた。放置された彼女は、ふと動きを止める。
「ねえ、リン」
「ん?」
「このブレスレット、やっぱりすごく好き」
リンも自分の手首に目を落とした。
「……わたしも」
ソラが満足そうに微笑み、部屋のランプの火が消えた。
暗闇の中、リンは数秒間その場に立ち尽くしていた。手首のブレスレットにそっと触れる。自然と小さな笑みが浮かんでいた。
自分の胸にあるこの感情が、正確には何なのか、まだ上手く言葉にはできない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
また、こんな一日を過ごしたいということ。
戦いも、魔物も、恐ろしい謎もない日々。ただ自分と、ソラだけがいる時間。
――きっと、それだけで十分なのだ。
遠く離れたアッシュフォードの地下深くでは、何かが静かに待ち受けている。
古い礼拝堂。忘れ去られた調査。ソフィアが「三日後から始める」と告げた任務。
けれど、今夜だけはそんなこと、どうでもよかった。
今夜はただ、最高に素晴らしい一日の終わりだった。




