第121話:翌朝
『エリュシオン教団』に、静かな朝が訪れた。
珍しいことに、誰も叫んでいない。警報も鳴っていない。タワーに向かって行進してくる軍勢もいなければ、海の底で古代の怪物が目覚めたという報せも無い。
あまりにも、不気味なほどの平穏だった。
第1層では、すでに何人かの住民が日常のルーティンを始めていた。
商人が露店を開く。冒険者たちがギルド本部の近くに集まる。親たちが後ろから声をかける中、子どもたちが通りを駆け抜けていく。
しかし、タワーの居住区の片隅では、ひっそりと出発の準備を進める一団があった。
ソフィアは旅用バッグのストラップを調節していた。その隣にはエーモン王が立っている。エリック司教は渡された書類に目を通していた。
戦争を生き延びたあの司祭も近くに立っていたが、セナが部屋に入ってくるたびに、未だに少しビクビクと緊張した様子を見せている。
カイは近くの壁に背を預けていた。隣にはユイが立っている。クロエは紅茶のカップを手に持っていた。
エミリアは椅子に座り、朝食を貪っている。どうやら彼女は「大人が出発するのを見送る」という行為を、食事を続けるための絶好の言い訳に決めたらしい。
エーモン王がカイの方を振り返った。
「……そろそろ、行くとするか」
カイがうなずく。
「ああ」
だが、ソフィアがそこで足を止めた。
「出発する前に、一つ聞いておきたいことがあるのだけれど」
カイが彼女を見た。
「なんだ?」
「……みんなに、なんて説明すればいいの?」
カイはパチクリと瞬きをした。
「みんな?」
「アシュフォードの民よ」
ソフィアは言葉を続ける。
「兵士たちの家族。貴族。市民。それに、近隣の諸国もね。……みんな、何が起きたのか説明を求めてくるわ」
エリック司教もうなずいた。
「間違いなく、釈明を求められるでしょうな」
カイはポリポリと頭の横を掻いた。
「あー……」
静寂。
エーモン王が待つ。ソフィアが待つ。エリック司教が待つ。気絶から目覚めたあの司祭までもが、彼の方を見つめていた。
カイはチラリとユイを見た。ユイは澄ました顔で紅茶を啜っている。
カイは彼らへと視線を戻した。
「……無い」
ソフィアが固まった。
「……無いって、何が?」
「説明文(言い訳)なんて、無い」
エーモン王の眉が跳ね上がった。
「カイ様、我が国は今、国を挙げた戦争を繰り広げたばかりなのですぞ?」
「分かっている」
「数千もの人間が死んだのです」
「分かっている」
「それなのに、何の説明も無いと?」
カイは肩をすくめた。
「まだ、調査中だからな」
ソフィアは頭を抱え、眉間のあたりをつまんだ。
「じゃあ、私たちは一体なんて彼らに言えばいいのよ?」
カイは不敵に笑った。
「心配するな」
ソフィアの目がピクリと引きつる。
「それは答えになっていないわ」
「お前たちなら、何か上手いこと思いつくだろ」
エーモン王がじっと彼を見つめた。
「……何か上手いこと、ですか?」
「それっぽい、信憑性のある話さ」
エリック司教が、ゆっくりと書類を胸元へと下げた。
「つまり貴方は、我が軍の壊滅という形で幕を閉じた戦争について、公式な説明を一切与えずに、我々自身で説明しろと仰っているのですね?」
カイは平然とうなずいた。
「そう言うと、なんだか複雑に聞こえるな」
「複雑なのです」
「うーん……」
カイは少しの間、思考を巡らせた。
「なら、真実を言えばいい」
ソフィアが片方の眉を上げた。
「どの真実よ?」
「『騙されていた』という真実だ」
部屋が静まり返った。カイの表情から、わずかにふざけた色が消える。
「何者かが裏で状況を操作していた。お前たちは、偽りの情報に基づいて行動してしまった。そして、その調査は今も継続中である――とね」
エリック司教がゆっくりとうなずいた。
「……それならば、確かに事実ですな」
「すべての詳細を全員にぶちまける必要は無いさ」
カイはエーモン王へと視線を向けた。
「戦いは終わった。アシュフォードは独立を保っている。そして、俺たちは二度と互いに牙をむかないと誓い合った。そう伝えればいい」
エーモン王はその言葉を吟味した。
「……エリュシオン教団については?」
「復興の手助けをする、とでも言っておけ」
ソフィアが彼を凝視した。
「本気でそんなことをするつもり?」
カイはうなずいた。
「逆に、しない理由があるか?」
エーモン王の表情が、目に見えて柔らかくなった。
国王は、エリュシオン教団の支配者に対して様々な最悪のケースを想定していたのだ。だが、これはそのどれにも当てはまらなかった。
カイは言葉を続ける。
「お前たちは、状況を完全に把握できないまま、仕組まれた罠によって人を失った。そのツケを、何も知らない一般市民に払わせるつもりは無いさ」
ソフィアは視線を落とした。
数秒間、彼女は何と言っていいか分からず沈黙していたが、やがて深く息を吐き出した。
「……どうやら、私たちで本当に『それっぽい話』をでっち上げるしかなさそうね」
カイがニヤリとする。
「ほらな?」
ソフィアは心底疲れたような目を彼に向けた。
「そんな嬉そうな顔をしないで」
「してないぞ」
「してたわ」
「……たぶん、気のせいだ」
エーモン王が低く笑い声を上げ、エリック司教は呆れたように首を振った。
司祭は沈黙を守ったままだ。彼は未だに、セナの近くにいることがどうしても怖くてたまらないらしい。
それも無理は無い。何しろ、彼女に直接自分の記憶を弄くられたのだから。
人間の生存本能というものは、時に腹立たしいほど理にかなっている。
エーモン王が扉の方へと向き直った。
「道が混み合う前に、出発するとしよう」
カイがうなずく。
「道中、気をつけてな」
ソフィアは部屋の入り口で一度足を止め、彼を振り返った。
「カイ様」
「ん?」
「……ありがとう」
カイは穏やかに微笑んだ。
「どういたしまして」
ソフィアはもう一瞬だけ躊躇うような素振りを見せたが、やがて部屋を後にした。エーモン王がそれに続く。
エリック司教は軽く一礼を模した。
「こちらの件は、我々が上手く処理しておきましょう」
「頼んだぞ」
司祭は慌てて彼の後ろを追いかけていった。
バタン、と扉が閉まる。
カイはその扉をじっと見つめていた。
ユイが彼の隣へと歩み寄る。
「……生き残りましたね」
「それがいつだって、最低限のゴールだからな」
「今日の貴方は、妙にリラックスしているように見えますけれど?」
カイは肩をすくめた。
「全員生きてるんだ。それで十分だろ」
ユイがクスリと微笑む。
「それはそうね」
カイはテーブルへと視線を巡らせた。
「それよりも――」
一拍置き、真剣な顔で告げる。
「――俺の朝食が、まだ残ってるんだ」
ユイは深いため息をついた。
「……どうやら、いつもの優先順位に戻ったようね」
--
【残された者たち】
その日の午前遅く、タワーの内部はより静かな空気に包まれている。
戦争の直後の大騒ぎは、これでようやく幕を閉じたのだ。
ここからは、ドラマチックとは程遠い地味な仕事が始まる。
事務手続き。報告書の作成。復興計画の策定。そして、外交書簡のやり取り。
それは決して大陸を滅ぼすような危機では無いが――一人の人間の午後を簡単にぶち壊すには、十分すぎるほどに厄介な代物だった。
カイは管理室の席に着き、セナと向き合っていた。
テーブルの上には、何枚もの書類が乱雑に広げられている。
セナは微動だにせず、完璧な直立不動の姿勢のまま告げた。
「やはり、最優先で警戒すべきは『東方帝国』です」
カイが顔を上げる。
「ナオ(清水ナオ)か?」
「はい」
セナはいくつかの報告書をテーブルに置いた。
「オークの軍勢に、高度な近代兵器を供給していた者がいる。数々の証拠がそれを指し示しています」
カイはそれらの書類に目を通していく。
「……だが、これらの兵器は正体不明の『個人』によって供給されたものだ。清水ナオが直接動いたわけじゃないな?」
「そのように見て間違いありません」
「証明はできるか?」
「いえ、現段階では不可能です」
カイは深くうなずいた。
「なら、今は清水ナオを告発すべきじゃないな」
セナは小さく一礼した。
「御意のままに」
カイはトントンと指先で机を叩いた。
「調査を続けろ」
「はっ」
「誰が兵器を供給したのか、それらがどこから来たのか、戦資金を出したのは誰なのかを突き止めるんだ」
セナの瞳が、スッと鋭さを増す。
「もし、その犯人を見つけ出した場合は?」
カイは彼女を真っ直ぐに見つめた。
「まずは俺に証拠を持ってこい」
セナの口元に、妖しげな笑みが浮かんだ。
「……承知いたしました」
カイは椅子の背もたれに体を預けた。
「それで、ヴァドスはどうだ?」
「彼は依然として『アステリア』に留まっております」
「アルドレン王のところか?」
「はい」
カイはうなずいた。
「よし」
ヴァドスをあそこに配置した効果は絶大だった。
アステリアには、外交の場を大虐殺に変えることなく、火事場泥棒を企む敵を震え上がらせるほどの『圧倒的な力』を持つ存在が必要だったのだ。
カイは別の報告書に目をやった。
「ギルドの方は?」
「ギルド本部は、正式に『エリュシオン教団』の庇護下で稼働を始めました」
セナは淡々と報告を続ける。
「再建された三つの都市は、引き続きギルドの管轄下にあります。都市間の交易も、すでに再開されたとのことです」
カイの表情が和らぐ。
「それは良かった」
セナはその様子をじっと見つめていた。
「嬉しそうですね」
「ああ」
彼は書類を机に置いた。
「みんなが、自分の生活を取り戻しつつあるからな」
セナが静かにうなずく。
「カイ様がそれを、お許しになったからです」
カイは彼女を見た。その声は至って穏やかだった。
「違うさ。……あいつらが、それを選んだからだよ」
セナは何も言わなかった。
カイはチラリと窓の外へ視線を向けた。
今のタワーは、数多くの人々で満ち溢れている。
商人。家族連れ。冒険者。研究者。そして、かつての難民たち。
全員に、行くべき場所がある。成すべきことがある。言葉を交わす相手がいる。
それは、どんな大層な肩書きよりも価値のあることだった。
カイは立ち上がった。
「ネロはどこだ?」
「先ほど戻られました」
カイは驚いたように目を見開いた。
「もうか?」
「調査を完了したとのことです」
「なら、奴が何を見つけたのか、確かめに行くとしよう」
--
【エルヴァの発明】
数分後、ネロが部屋に入ってきた。その手には、小さなクリスタル製のケースが握られている。
その後ろからは、エルヴァが続いて入ってきた。
カイは彼女が抱えている奇妙な装置に目を留めた。
「それは何だ?」
エルヴァが不敵に微笑む。
「私が開発した、新作ですよ」
カイの目が一瞬で輝きを増した。
「新しい兵器か?」
「違います」
「防衛システム?」
「違います」
「爆発物?」
エルヴァは一瞬呆れたように間を置き、
「……違います」
カイは露骨に落胆した顔をした。
「なんだ、つまらん」
エルヴァは彼を無視して、その装置をテーブルの上に置いた。
それは、従来の魔導具とは一線を画する形状をしていた。
円形のフレームの中央に、透明なクリスタル・コアが浮いている。
その周囲を数本の細いリングが囲んでいたが、どれも物理的には接触していない。リングは空気中でゆっくりと回転していた。
カイは顔を近づけた。
「で、何ができるんだ?」
エルヴァは、ネロが持ってきた記憶結晶へと視線を向けた。
「記憶結晶の内部に保管されている情報を、読み解くことができます」
カイの目が細められる。
「読み解く?」
「単に読み取るだけではありません」
エルヴァが中央のクリスタルに触れた。
「この装置は、その記憶を『再構築』するのです」
その言葉に、今度はユイが強い興味を示した。
「説明しなさい」
エルヴァが微笑む。
「記憶結晶には、記憶が記録された瞬間の『対象者の認識』に応じた魔力情報が保存されています」
彼女は回転するリングを指差した。
「私の装置は、その情報を一時的な『三次元の立体空間』へと変換するのです」
カイはパチクリと瞬きをした。
「つまり……」
装置を見つめながら、言葉を繋ぐ。
「その記憶を、映像として見られるってことか?」
「それ以上です」
エルヴァは誇らしげに胸を張った。
「その記憶の内部へと――『入る』ことができるのですよ」
カイの目が極限まで見開かれた。
「……何だって?」
「再構築された環境が、周囲の空間を覆い尽くします。貴方自身がその中を歩き回り、エリアを調査し、異なる視点から記憶を観察することができるのです」
カイは感心したように装置を凝視した。
「それは……凄まじく便利だな」
エルヴァの笑みが、少しだけ深くなった。
「喜びをもたらす予感がしていました」
カイは彼女を見つめた。
「エルヴァ」
「はい、カイ様?」
「見事な仕事だ」
エルヴァの表情が、ふっと柔らかくなった。
「……ありがとうございます」
ユイが一歩、足を進める。
「制約は何かしら?」
エルヴァの表情が、再び真面目なものへと戻った。
「元の記憶に存在しなかった情報を、新しく創り出すことはできません」
カイがうなずく。
「つまり、本人が見ていなかったものは、俺たちにも見えないってことだな」
「その通りです」
「本物のタイムトラベルではない、と」
「ええ」
「装置はあくまで、記憶に含まれているものを再構築するだけか」
「まさに」
エルヴァはクリスタルを指差した。
「元の記憶が改変されることもありません。再構築された空間は元のデータに固定されているため、内部の人間が過去の事実を捻じ曲げることは不可能です」
カイが不敵に笑う。
「完璧だな」
カイが不敵に笑う。
「完璧だな」
ネロがテーブルの上にクリスタルを置いた。
「これが、セナが回収した司祭の記憶です」
カイの目の色が変わった。
「よし、何が起きたのか見せてもらおうか」
エルヴァがうなずき、結晶を装置の内部へとセットした。
浮遊していたリングが、一斉に駆動を始める。
一本のリングが時計回りに回転し、もう一本がその逆方向へと回り出す。床一面に、淡い魔法文字が浮かび上がった。
ユイがそれを凝視する。
「起動シーケンス、開始」
部屋の明かりが、スッと落ちた。
エルヴァが手をかざす。
次の瞬間、クリスタルから強烈な光のパルスが放たれた。
――フオォォン!
壁が消失した。
物理的に消えたわけではない。部屋は確かにそこにある。だが、その上から『別の世界』が重ね合わされたのだ。
カイの足元の床が、一瞬にして切り替わる。
いつもの管理室は掻き消え――彼は、全く別の場所に立っていた。
そこは薄暗い部屋だった。すぐ目の前にはあの司祭が立っている。
だが、司祭はこちらに気づいていない。彼は今、自身の記憶を追体験しているのだ。
カイは周囲を見回した。
「これは凄いな……」
エルヴァが微笑む。
「自由に動いて構いませんよ」
カイが一歩、足を進める。
再構築された司祭は、何事かを喋り続けていた。
カイはその周囲を歩き回り、壁や床、家具、そして魔法陣の並びを精査していく。
すべてが記憶から完全に再現されていた。ユイがそのすぐ後ろに続き、ネロは再構築された空間の端に控えている。
カイが突如として足を止めた。
「そこだ」
記憶の中に、一人の影が立っていた。
司祭に命令を下している張本人。その顔は不鮮明で霞んでいる。
だが、姿勢や衣服、立ち位置、そして不気味な紋章――『壊れた三日月』は、はっきりと視認できた。
カイはゆっくりとその影に近づき、周囲をぐるりと回ってみた。
しかし、何も出ない。隠された顔が見えるわけでも、未知のディテールが突然暴かれるわけでもなかった。元の記憶に、そこまでの情報は含まれていないのだ。
カイはしゃがみ込み、地面を観察した。
そこには刻印があった。五つの配置ポイント。角度。測定の跡。すでに持ち去られた魔導具。
彼の表情が険しさを増す。
「やはり、最初から計画されていたわけか」
ネロがうなずいた。
「私も、そのように結論づけました」
カイはさらに再構築された環境の調査を続ける。
影の後ろへ回り込み、その真横に立ち、不気味な『壊れた三日月』の紋章を凝視した。
「……この紋章、どこかで見たことがあるな」
ユイが視線を向ける。
「どこで?」
カイは首を振った。
「思い出せない……」
記憶の再生は進む。
影が司祭に指示を与え終えると、やがて再構築された空間が徐々に薄れ始めた。
壁が透明になり、床が溶けるように消えていく。影が掻き消え、いつもの管理室が戻ってきた。
カイは数秒間、沈黙したまま立ち尽くしていた。
それからエルヴァの方を振り向く。
「……いや、本当に驚いた。大したものだ」
エルヴァが嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます」
カイは装置を指差した。
「こいつの名前は何て言うんだ?」
エルヴァの動きがピタリと止まった。
明らかに、名前のことまでは考えていなかったらしい。
彼女の視線が、泳ぐように上へと向く。
「ええと――」
彼女はトントンと顎を叩いた。
「ええっと、ええっと……」
カイは言葉を待った。
その時、エルヴァがポンと手を叩いた。
「あ、閃きました!」
彼女は誇らしげに装置を指差した。
「『メモリー・トランスミッター』です!」
カイはジト目を向けた。
「メモリー・トランスミッター?」
「はい!」
「ふーん……」
カイはうなずいた。
「シンプルだな」
彼は不敵に笑う。
「まあいい、これから重宝しそうだ」
エルヴァは満足げな表情を浮かべた。
「そう言っていただけると思っていました」
カイは記憶結晶へと視線を落とした。
「一つ、分かったことがある」
ユイがうなずく。
「ええ。首謀者は、司祭がわざと発見されるように状況を仕組んでいたわね」
ネロの表情が、一段と冷徹なものへと変わる。
「つまり、あの自白すらも計画の一部だった、と……」
カイは腕を組んだ。
「俺たちは未だに、奴らの掌の上で踊らされているわけだ」
ユイが『壊れた三日月』のデータを睨む。
「これを仕組んだ者は、私たちに何かを見つけ出させようとしているのよ」
カイの唇の端が、すっと持ち上がった。
「なら、見つけ出してやろうじゃねえか」
--
【リンへの伝言】
カイが管理室を出ると、通路でクロエが待っていた。
彼は彼女に声をかける。
「クロエ」
「はい、カイ様」
「リンとソラに伝言を頼みたい」
クロエがうなずく。
「何とお伝えいたしましょう?」
「俺の力を借りたい、と伝えてくれ」
「場所は?」
「アシュフォードだ」
クロエの目がわずかに細められた。
「聖教会、ですか?」
カイがうなずく。
「あそこを監視しておいてほしいんだ」
「ソフィア様については?」
「手助けしてやってくれ」
クロエはすべてを察した。
「かしこまりました。伝言を届けてまいります」
カイが微笑む。
「頼んだぞ」
クロエがエレベーターの方へと向き直る。
カイがその後ろ姿を見送っていると、背後から聞き覚えのある声が響いた。
「カイ!」
振り返ると、そこにエミリアが立っていた。
どういうわけか、彼女の手には新たなケーキの皿が握られている。
カイはそれを凝視した。
「お前……それ、どこで手に入れた?」
エミリアは無垢な笑みを浮かべた。
「クロエお姉ちゃんがくれたの!」
カイはエレベーターの方へと視線を戻した。
「……だろうな」
--
【遮られた会話】
数階上の部屋。
リンとソラは、ちょうどお風呂から上がったところだった。
すでに服を着替え、部屋の椅子に腰掛けて一日の準備を整えている。
リンは髪にブラシを当てていた。
その近くに座っているソラは、どういうわけか妙にソワソワと緊張した様子を見せている。
リンはその違和感に気づいた。
「……静かね」
ソラは自分の指先をもじもじと弄んだ。
「そう、かな?」
「ええ」
「うーん……」
リンはブラシを下ろした。
「どうしたの?」
ソラが彼女を見つめる。
「あの、ね……リン……」
「いいわよ、聞いてるわ」
ソラはゴクリと唾を飲み込んだ。
「ずっと、言おうと思ってたことがあって……」
リンは次の言葉を待った。
ソラの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「わたし……わたし、ね……!」
リンは首を傾げた。
「あなたが?」
「わたし、好きなの――」
その瞬間、バタンと扉が開いた。
部屋に入ってきたのは、クロエだった。
二人の少女の動きが完全に凍りつく。
クロエもまた、その場で足を止めた。
重苦しいほどの長い沈黙が流れる。
ソラの顔は、さらにこれ以上ないほどに真っ赤に沸騰していた。
リンはクロエを凝視し、クロエはリンを見つめ、それからソラを見つめ、またリンへと視線を戻した。
「……失礼いたしました」
リンがパチクリと瞬きをした。
「何に対しての失礼よ?」
「何か、お熱いお話を遮ってしまったようですので」
ソラは即座にパッと顔を背けた。
「ち、違うからっ!」
クロエが片方の眉を上げた。
「違いますか?」
「違うの!」
リンがコホンと一つ咳払いをした。
「それより、カイ様は何て?」
クロエがうなずく。
「貴女とソラに、アシュフォードへ向かってほしいとのことです」
リンの表情が一瞬でガクリと落ちた。
「アシュフォード?」
「ええ」
「なんでよ?」
「カイ様は、貴女方にラオディキア聖教会を監視し、ソフィア様を手助けしてほしいと考えておられます」
リンは不満そうに眉をひそめた。
「ソフィアを?」
「はい」
リンは深いため息をついた。
「あいつの顔なんて見たくないんだけど……」
すると、ソラが彼女を見つめた。
「わあ、カイ様がわざわざ私達の力を借りたいなんて。……それって凄いことじゃない、リン?」
リンはじっとソラを見つめ、それからもう一度ため息をついた。
「まあね……」
一拍置いて、言葉を繋ぐ。
「あんたの言う通りかもね」
ソラが嬉しそうに微笑む。
「でしょ?」
クロエが扉の方へと向き直った。
「伝言は以上です。……準備を整えておきなさい」
そう言い残して、彼女は部屋を去った。バタン、と扉が閉まる。
リンとソラの間に沈黙が流れる。
ソラがゆっくりとリンを見つめると、リンも見つめ返した。
「それで――」
「言わないで」
「あんた、何か言おうとしてたわよね」
「言ってない!」
「言おうとしてたわよ」
「……ううん」
ソラがにんまりと笑う。
「嘘ついてるの、お見通しだから」
リンがソラを指差した。
「あんたこそ、クロエが入ってくる前に絶対に何か言いかけてたじゃない」
ソラの顔が、再びみるみるうちに真っ赤に沸騰していく。
「わ、わたしは……」
彼女はフイッと視線を逸らした。
「……忘れちゃった」
リンがニヤリとする。
「はいはい、そういうことにしておいてあげるわ」
ソラは両手で顔を覆った。
「もうっ、早く準備しよ?」
「わかったわよ」
--
【カイ様の髪】
エレベーターの扉が開き、クロエが外へと足を踏み出した。
すぐ近くにはカイが立っている。彼女は彼へと歩み寄った。
「伝言、届けてまいりました」
カイがうなずく。
「よし、ありがと」
彼は周囲に視線を巡らせ――そして、動きを凍らせた。
「……お前、何してんだ?」
彼の背後には、エミリアがちょこんと座っていた。
その手には小さな櫛が握られている。カイの長い白髪が彼女の膝の上に広げられており、彼女はそれを実に入念に、三つ編みに編み込んでいる最中だった。
エミリアが顔を上げた。
「カイの髪の毛、かっこよくしてあげてるの!」
カイはパチクリと瞬きをした。
「あー……そうか」
彼は編み込まれた髪の一つに触れた。
「ありがとな」
エミリアは誇らしげにニカッと笑った。
そこへ、通路の角からユイが姿を現した。
彼女は足を止め、その目がエミリアへ、それからカイの髪へ、そして再びエミリアへと動く。
カイはその表情に気づいた。
「なんだよ?」
ユイがクスリと笑う。
「いいえ、別に?」
カイの目が細められた。
「別に、の顔じゃないだろ」
ユイが一歩近寄ってくる。
「エミリアは、とても素晴らしいセンスを持っているわね」
エミリアが嬉しそうに胸を張る。
「でしょー!」
カイはため息をもらした。
「……そろそろ、俺の髪を返してくれないか?」
「だーめ!」
カイは心外そうな顔をした。
「なんでだよ?」
「まだ終わってないもん!」
カイは助けを求めるようにクロエを見たが、クロエはただ静かに微笑むだけだった。
「……どうやらカイ様、完全に多勢に無勢のようですね」
カイは二人を交互に見つめた。
「これは暴政だ……」
ユイが深くうなずく。
「おそらくね」
--
【ソラの新魔法】
リンとソラは出発の準備を終えていた。
バッグはまとめられ、武器も確実に装備されている。
部屋の中央に立つソラを見つめながら、リンが口を開いた。
「あんた、何か新しい魔法を覚えたって言ってたわよね」
ソラがうなずく。
「うん、何ヶ月もかけてずっと特訓してたの!」
彼女が手を上げると、一つの魔法陣が出現した。
リンは、自分たちの周囲に凄まじい密度のマナが集積していくのを肌で感じた。
「……相当な量ね」
ソラが真剣な顔でうなずく。
「この魔法、すっごく燃費が悪いからね」
「で、何ができるの?」
ソラが不敵に微笑む。
「――『転移』だよ」
リンが目を丸くした。
「あんた、転移魔法を作ったの!?」
「うん!」
「距離はどのくらい?」
「どこまででも」
リンは絶句した。
「……どこまででも?」
「どこまででも!」
ソラは自分を指差した。
「わたしが一度行ったことがある場所か、位置を正確に把握できている場所なら、どこへでも飛べるの」
リンはゆっくりとうなずいた。
「……で、代償は?」
「めちゃくちゃ高い」
「どのくらい高いのよ?」
ソラは少し疲れたような苦笑いを浮かべた。
「連続で使うのは絶対に無理、ってくらい。一回か二回ジャンプするのが限界かな」
リンは納得した。
「じゃあ、ここぞという時の切り札ね」
「うん」
ソラは言葉を続ける。
「それから、私に触れている人やモノなら、一緒に転移させることができるよ」
「どうやって?」
「こうやって触るの」
リンは彼女の手を見つめた。
「それは……かなり使えそうね」
「でしょ?」
ソラがリンへと手を伸ばした。
「準備はいい?」
リンがうなずく。
「ええ、いいわよ」
ソラが彼女の手を握った。
足元の魔法陣が一気に拡大していく。空間がぐにゃりと歪み、部屋の景色が激しくブレた。
次の瞬間――。
――フラッシュ!!
光の炸裂と共に、二人の姿はその場から完全に消失した。
--
【少々気まずい到着】
アシュフォードにある、自身の執務室兼私室。
ソフィアはつい先ほど、この部屋に戻ってきたばかりだった。
エリュシオン教団からの長旅は、文字通り疲労困憊の一言に尽きる。
荷物の整理をようやく終え、彼女がちょうど衣服を着替えようとした、その時だった。
部屋の真ん中に、突如として魔法陣が出現した。
ソフィアの動きが凍りつく。
「な、何……!?」
――フラッシュ!!
強烈な光と共に、ソフィアのすぐ目の前にリンとソラが姿を現した。
三人は互いを見つめ合ったまま、ピキリと固まった。誰も動かない。
ソラの目が限界まで見開かれ、リンの口がポカンと開く。
ソフィアは慌てて近くにあったローブを引っ掴み、己の身体を覆い隠した。
「――あんたたち、一体全体何考えてんのよぉぉぉっ!?」
ソラの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「わ、わわ、わざとじゃないんですぅぅぅ!」
リンが即座に回れ右をした。
「ごめんっ!」
ソラも慌てて反転する。
「本当に、狙ってここに来たわけじゃないんです!」
ソフィアは顔を引きつらせた。
「あんたたち、私の部屋に転移してきたのよ!?」
「分かってます!」
「私が着替えている真っ最中に!」
「分かってます!」
「なんでよ!?」
「目的地の座標を、まだ完璧にコントロールできないからだよぉ!」
リンが両手で顔を覆った。
「それ、何の言い訳にもなってないから!」
ソフィアは別の衣服を引っ掴んだ。
「出てって!」
「今すぐ出るわよ!」
ソラがリンの腕を掴み、再び足元に転移の魔法陣を展開した。
ソフィアが二人を指差す。
「次はちゃんとドアを使いなさい!」
リンが掻き消えながら叫んだ。
「本当に悪かったわねっ!」
――フラッシュ!!
二人の姿が再び消失した。
静寂が戻る。
ソフィアは衣服を抱えたまま、しばらく微動だにせず立ち尽くしていた。その顔は未だに赤い。
彼女はゆっくりとローブを下ろし、誰もいなくなった部屋を呆然と見つめた。
「……本気で、ここのセキュリティを強化しなきゃダメね」
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【これからの道のり】
数分後、リンとソラはアシュフォードの城壁の外へと再出現した。
着地は無事だった。……大体は。
リンは勢い余って前方によろめき、ソラはその場にガクリと片膝をついた。二人とも激しく肩を上下させている。
リンがソラを睨みつけた。
「さっきの……」
大きく息を吸い、言葉を絞り出す。
「……最悪だったわよ」
ソラがコクコクとうなずく。
「転移魔法、もっと練習しなきゃ……」
「もう少しで壁の中に埋まるところだったじゃない」
「埋まってないよ」
「壁まであと3メートルしかなかったわよ!」
「セーフセーフ!」
リンはジト目を向けた。
「アウトよ」
ソラはへへっと笑い、それから表情を真面目なものへと戻した。
「アシュフォードは、あっちだね」
リンは遠くに見える王国へと視線を向け、深いため息をついた。
「……行きましょ」
ソラがうなずき、二人は歩き出した。
アシュフォードで自分たちを何が待ち受けているのか、正確には誰も知らない。
教会は再建の途上にあり、ソフィアは聖騎士団を建て直そうと必死だ。王国全体が、傷跡から立ち直るために もがいている。
そして――すべての舞台裏では、未だに何者かが盤上の駒を動かし続けていた。
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その頃、『エリュシオン教団』の内部。
カイはタワーのバルコニーに立ち、外の景色を眺めていた。
隣にはユイが立ち、クロエもすでに戻ってきている。エミリアは相変わらず小さな櫛を大事そうに抱えていた。
カイは地平線を見つめた。
「じゃあ、あいつらは行ったんだな」
ユイがうなずく。
「ええ」
カイの唇の端が、すっと持ち上がった。
「よし」
彼は遠い世界を見つめながら言葉を続ける。
「俺たちは当分、ここに残るぞ」
ユイが首を傾げた。
「追いかけなくていいの?」
カイは首を振った。
「ああ」
彼は手すりに両腕を預けた。
「あいつらも、俺のいないところで物事を処理するってことを学ばなきゃ進歩しないだろ」
ユイがクスリと微笑む。
「あら、なんだか少しだけ責任感のあるリーダーみたいね」
カイが彼女をチラリと見た。
「少しだけ、か?」
「少しだけね」
カイはハハハと笑声を上げた。
風が吹き抜け、彼の長い白髪を揺らす。エミリアが丹念に編み込んだ三つ編みが、その背中でひらひらと揺れていた。
カイは全く気づいていない。
ユイはそれに気づき、楽しそうに微笑んでいた。
――しかし、二人はまだ気づいていなかった。
タワーから遥か彼方の空間に、かすかな空間の揺らめきが生じたことを。
遠くから放たれた、微弱な魔力のシグナル。
それは、一つの『メッセージ』だった。
何者かが、ずっとエリュシオン教団を監視していたのだ。
そして今、その見えざる敵は、ついに次の手を打つことを決意したようだった。




