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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
戦争の余波

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第120話:休むのに良い日

本当に、本当に久しぶりのことだったが、何も起きていなかった。


戦争も無い。侵略も無い。古代の怪物の目覚めも無い。滅ぼされる王国も無ければ、カイの介入を必要とする不気味な陰謀も無い。


一般的な基準から見れば、それはまさに『奇跡』だった。

つまり――カイがどうにかして、その平穏を台無しにするだろうということでもある。


--


【第2層 ―― エレベーター】


エミリアは『エリュシオン教団』のエレベーターの中に立ち、興味深そうに周囲を見回していた。


普通のエレベーターとは違い、ボタンは無い。ワイヤーも、機械も、金属が擦れる嫌な音すらも無かった。

代わりに、足元の床には輝く魔法陣が描かれている。

『創世のエネルギー(ジェネシス・エネルギー)』が、まるで黄金の光の川のように魔法陣へと流れ込んでいた。


エミリアは首を傾げた。


「これが、エレベーター?」


近くにいた冒険者がうなずく。


「そうだよ」


「どうやって動くの?」


「創世のエネルギーさ」


「それって何?」


冒険者は一瞬、言葉を詰まらせた。


「ぶっちゃけ、俺も知らない」


エミリアはじっと彼を見つめた。


「知らないの?」


「知らない」


「じゃあ、なんで答えたの?」


「頭が良さそうに見えるかなって」


エミリアはゆっくりとうなずいた。


「なるほどね」


冒険者は心外そうな顔をした。


「ちょっと待って」


その時、足元の魔法陣が突如として輝きを増した。

エレベーターが動き出す。

揺れは無い。音も無い。部屋そのものが空間を転移しているのだ。

創世のエネルギーによってタワー内部の空間構造が操作され、ほぼ一瞬で他の階層への移動を可能にしていた。


エレベーターが停止する。

澄んだチャイムの音が響いた。


――ピンポーン。


扉が開く。


エミリアは外へと一歩踏み出し、周囲を見渡した。

ここは第3層にある一般向けの会議室ではない。

第2層には、小規模な会議や食事、来客のためのプライベートラウンジや客室がいくつか用意されていた。


カイがここにいると聞いていたエミリアは、すぐに辺りを探し始めた。


「カイ様ー?」


返事は無い。

一つの部屋を覗く。誰もいない。もう一つの部屋。やはりいない。

そして、大きな食堂へと足を踏み入れた。


そこには、すでに何人かの面々が待っていた。

エリック司教。ソフィア。エーモン王。

最近になって記憶を取り戻したばかりのあの司祭。

セナ。そして、ユイ。


エミリアは室内を見回した。


「カイはどこ?」


ユイが微笑む。


「今、こちらに向かっているわ」


エミリアは眉をひそめた。


「どこにいたの?」


「おそらく、まだ寝ていたのよ」


「寝てた?」


ユイがうなずく。


「ついさっき起きたばかりだから」


エミリアは目を見開いた。


「じゃあ、なんで教えてくれなかったの?」


「今、教えたじゃない」


エミリアがジト目を向けると、ユイは楽しそうに微笑んだ。


エミリアが言い返す前に、再びチャイムが鳴った。


――ピンポーン。


エレベーターの扉が開き、全員の視線がそちらへと向く。

姿を現したのはクロエ。そして、その隣にはカイがいた。


カイの長い白髪は完全にボサボサだった。

何日もぶっ続けで眠り、その後に枕と死闘を繰り広げたかのような惨状だ。


カイはあくびを噛み殺した。


「……ふわぁ、おはよ」


エミリアの目が一瞬で輝いた。


「カイ!」


彼女は猛然と彼に向かって走り出した。

カイが反応する間もなく、エミリアはその胸へと飛び込む。

カイは咄嗟に彼女を受け止めた。


「おっと」


エミリアは両腕を彼の首に巻きつけた。


「寂しかったんだから!」


カイは腕の中の少女を見下ろした。


「俺は1日寝ていただけだぞ」


「長すぎるもん!」


カイはため息をついた。


「らしいな……」


彼は抱き直すと、彼女を慣れた手つきで快適そうに抱きかかえた。


ソフィアがその様子をじっと見つめ、やがて微笑んだ。


「あなたが、その子を産んだのかしら?」


カイの動きがピタリと止まる。

彼が答えるよりも早く、エミリアが誇らしげに叫んだ。


「そうだよ!」


部屋全体が、水を打ったように静まり返った。


カイがゆっくりとエミリアを振り返る。


「……は?」


エミリアはさらにきつく彼に抱きついた。


「カイは、わたしのお父さんだもん!」


ソフィアが納得したようにうなずく。


「どうりで、妙に懐いているわけね」


カイはソフィアを見つめ、次にエミリアを見つめ、そしてユイへと視線を向けた。

ユイは手で口元を覆っている。明らかに笑いを堪えていた。


カイはため息を漏らした。


「俺はこいつの父親じゃない」


ソフィアが片方の眉を上げた。


「じゃあ、母親は誰なの?」


静寂。完全なる沈黙。

エミリアですら、動きを止めた。


カイがゆっくりとユイの方へ首を巡らせる。

ユイは微笑んでいた。普通の笑みではない。怪しいほどに無垢な、確信犯の笑みだ。

カイは彼女を睨み、ユイは見つめ返す。どちらも何も言わない。


ついに、クロエがその沈黙を破った。


「……カイ様の朝食を準備してまいりますね」


カイは即座にうなずいた。


「頼む」


彼はソフィアへと視線を戻した。


「それに関しては、俺にも答えられない質問だ。というか、そもそも俺は父親じゃない。どちらかと言えば、保護者のようなものだ」


エリック司教が深くうなずいた。


「おや、なるほど。そういうことでしたか」


カイはホッと胸を撫で下ろした。


「助かります」


だが、ソフィアは腕を組んだままだ。


「母親が誰なのかの説明になっていないけれど?」


カイは顔を背けた。


「その質問は無視する」


ユイがクスリと笑う。


「賢明な判断ね」


カイは彼女を睨みつけた。


「お前、楽しんでるだろ」


「さあ、どうかしら?」


--


【朝食】


数分後、部屋の様子が一変した。

壁が動き、床が拡張されていく。

簡素な客室だった空間が、瞬く間に豪華な食堂へと変貌を遂げた。


中央には長いテーブルが出現し、その周囲には座り心地の良さそうな椅子が並ぶ。

クリスタルグラス、銀の皿、上質なカトラリー。

キャンドルが灯り、エレガントな装飾が施され、照明の光さえも温かみのあるものへと変化した。


ソフィアは目を丸くして周囲を見回した。


「この部屋、最初からこんな風だったかしら?」


カイが席に着く。


「いや」


彼女は瞬きをした。


「部屋を思い通りに変えられるの?」


「ユイならな」


ユイが穏やかに微笑む。


「皆様に、快適にお食事を楽しんでいただきたかったものですから」


そこへ、何枚もの皿を運んでクロエが入ってきた。

その芳醇な香りが漂った瞬間、カイは思わず背筋を伸ばした。


ソフィアがニヤリとする。


「なるほど、あなたをシャキッとさせるのはそれね」


カイは彼女を無視した。


クロエが料理をテーブルへと並べていく。

香ばしく焼かれた肉。焼き立てのパン。新鮮な野菜。ライス。数種類のスープ。そして、彩り豊かなデザートの数々。

最後に、彼女は一本のワインボトルをテーブルに置いた。


カイはそれを見つめた。


「最高級のワインだな」


クロエがうなずく。


「本日の食事のために用意いたしました」


カイがグラスを手に取ると、すかさずエミリアがボトルへと手を伸ばした。


「わたしも飲みたい!」


カイがその手をパシッと掴んだ。


「ダメだ」


「なんで?」


「お酒だからだ」


「それがどうしたの?」


「お前はまだ、これを飲むには若すぎる」


エミリアは不満そうに眉をひそめた。


「でも、味見してみたいんだもん」


「ダメだ」


「一口だけ!」


「ダメ」


「半口は?」


「ダメだ」


「一滴だけなら?」


カイはじっと彼女を見つめた。


「お前、俺を相手にアルコールの交渉をしてるつもりか?」


エミリアはニカッと笑った。


「うん!」


カイは深いため息をついた。


「……ダメだ」


エミリアがむうっと頬を膨らませる。

カイはボトルをさらに遠くへと遠ざけた。


「お前がもっと大人になってからだ」


エミリアは腕を組んだ。


「ちぇー、わかったよ」


ソフィアはそのやり取りを静かに眺めていたが、やがて楽しそうに笑った。


「微笑ましい光景ね」


カイが釘を刺す。


「こいつを煽るなよ」


「何も言ってないわ」


「心の中で思っていただろ」


ソフィアはクスクスと笑い声を上げた。


カイは料理を一口口に運んだ。

その瞬間、彼の表情が一気に緩む。


「……美味いな」


クロエが嬉しそうに微笑む。


「お気に召して光栄です」


エミリアがカイを見つめ、フォークで肉をひときわ大きく突き刺した。


「カイ」


「ん?」


「お口開けて」


カイは眉をひそめた。


「なんで?」


「いいから、あーんして」


彼はため息をついた。


「……はぁ、わかったよ」


エミリアが肉を彼の口へと運ぶ。

カイがもぐもぐと咀嚼するのを、全員がじっと見つめていた。

カイは周囲を見回す。


「なんだよ?」


誰も答えない。


エミリアは次の肉を突き刺した。


「もういっかい!」


カイは言われるがままに口を開け、再び彼女から食事を受け取った。


その様子を見ていたユイが、静かに自分の椅子をカイの方へと近づけた。

そして自身のフォークを取り、何食わぬ顔で食事を始める。


カイが彼女をチラリと見た。


「今、動いただろ」


「私がですか?」


「ああ」


ユイは食事を続けながら言った。


「きっと、椅子が動いたのですね」


カイはジト目を向けた。


「椅子が動いた?」


「ええ」


「勝手に?」


「創世のエネルギー(ジェネシス・エネルギー)の仕業かしら」


カイは目を細めた。


「……そうかよ」


ユイは満足そうに微笑んだ。


エミリアは楽しそうにカイへの『あーん』を続けている。

ソフィアはその二人を眺め、次にユイを見つめ、またカイとエミリアへと視線を戻した。


彼女は何かを察したようだったが、賢明にもそれを口に出さないことを選んだ。

人間の生存本能というものは、時に正しく機能するらしい。


エーモン王が飲み物を一口啜り、その目を見開いた。


「これは……実に見事な美酒ですな」


カイが彼の方を見た。


「それを用意したのはセナだ」


エーモンがセナへと視線を巡らせると、セナは静かにうなずいた。


「私が直々に選定いたしました」


エーモンはもう一口啜る。


「素晴らしい」


セナが微笑む。


「お気に召して何よりです」


近くに座っていたあの司祭が、おずおずと自分のグラスを持ち上げた。

その手は、今もまだ微かに震えている。

彼はカイへと視線を向けた。


「カイ様――」


カイが彼を見た。


「ん?」


司祭は深く頭を下げた。


「この度のこと、本当に、本当に申し訳ありませんでした……」


カイはヒラヒラと手を振った。


「気にするな」


司祭は驚いたように顔を上げた。


「私を……憎んではおられないのですか?」


「別に」


カイは次の料理を口に運ぶ。


「お前は操られていただけだろ」


司祭は視線を落とした。


「しかし、私は多大なる被害をもたらしてしまいました」


「お前が望んでやったことじゃない」


カイの表情が、一瞬だけ真剣なものへと変わる。


「……もう、その話は終わりだ」


司祭はさらに深く頭を下げた。


「感謝いたします……」


カイはすぐに自分の食事へと意識を戻した。


「ほら、食え」


司祭は瞬きをし。


「……はい!」


--


【ここへ集まった理由】


それから数分間、全員がただ純粋に食事を楽しんだ。

戦争の話も、陰謀の話も、魔王の話も出ない。

穏やかで、どこか不気味なほどに平和な時間。


やがて、ソフィアが口を開いた。


「それで、どうして私たちをここに呼んだのかしら?」


カイは口の中のものを飲み込んだ。


「相変わらず、単刀直入だな」


ソフィアは肩をすくめる。


「誰かが聞かなきゃいけないでしょ」


カイはうなずいた。


「そうだな」


彼はフォークを置いた。


「お前たちを呼んだのは、これからどうやってアシュフォードを安定させるかを話し合うためだ」


エーモン王が居住まいを正す。


「だが、その前に――」


カイの表情が、一気に険しさを増した。


「舞台裏で糸を引いていた首謀者は、魔王の一人と繋がっている」


エリック司教の目の色が変わった。


「つまり、我々は最初から踊らされていた、と……」


「そういうことだ」


カイは椅子の背もたれに体を預けた。


「心配するな。状況は俺の支配下にある」


ソフィアが彼を凝視した。


「どの魔王なのか、分かっているの?」


「いや」


ソフィアが瞬きをする。


「じゃあ、どうして支配下にあるって言えるのよ?」


カイは不敵に微笑んだ。


「俺が、これから突き止めるからだ」


ユイが静かにうなずく。


「調査はすでに開始しております」


エーモン王がガクリと視線を落とした。


「アシュフォードは――」


その表情に、ひどく重い影が差す。


「我々は、ほぼすべてを失いました」


カイは彼を見つめた。


「分かっている」


国王は拳を固く握りしめた。


「軍勢の大半が消滅してしまった……」


ソフィアもまた、視線を落とす。


「聖騎士団も――」


その声が、細く掠れていく。


「生き残った者は、ほんの僅かしかいません」


カイはそっと目を閉じた。


「それに関しては、すまなかったと思っている」


誰も答えなかった。

カイが目を開ける。


「俺が動いていれば、防げた部分もあったはずだ」


だが、エーモン王は即座に首を振った。


「滅相もございません、カイ様」


カイが彼を見る。


「アシュフォードに起きたことの責任は、すべてこの私にあります」


エーモンは深く息を吐き出した。


「戦うことを選んだのは、私自身なのだから」


カイは、静かに沈黙を守った。


ソフィアが彼に視線を向けた。


「それで、あなたは何を提案するつもり?」


カイは彼ら三人を見つめた。


「まず、エリック司教。あんたが『ラオディキア聖教会』の新たなトップになれ」


エリックがパチクリと瞬きをした。


「……私が、ですか?」


「ああ」


カイは言葉を続ける。


「あんたは生き残った。話が通じる。それに、5秒ごとに俺を刺そうとしてこない」


ソフィアが呆れたように彼を見た。


「ずいぶんと低い基準ね」


「長い一週間だったんだよ」


エリックは微かに微笑んだ。


「……お受けいたしましょう」


カイはうなずいた。


「よし」


彼はエーモン王の方へと向き直る。


「アシュフォードに関しては、不侵略条約を提案する」


エーモンは真剣な面持ちで耳を傾けた。


「それと、エリュシオン教団との国交樹立だ。もしアシュフォードが支援を必要とするなら、いつでも俺たちに連絡してくれて構わない」


エーモンの表情が一変した。


「い、いつでも……ですか?」


「いつでもだ」


国王は深く思考を巡らせた。

近隣の諸国は、今回の件で何が起きたかを知ることになる。アシュフォードが弱体化したことも筒抜けになるだろう。

後ろ盾が無ければ、国は格好の餌食だ。


しかし、エリュシオン教団との同盟があれば話は完全に変わる。

攻撃を仕掛けようとする国があれば、間違いなく二の足を踏むことになるからだ。


エーモンはゆっくりとうなずいた。


「……お受けいたします」


カイは不敵に笑った。


「決まりだ」


最後にソフィアへと視線を向ける。


「そしてソフィア、あんたは引き続き聖騎士団の団長だ」


ソフィアが驚いたように目を見開いた。


「こんなことになった後でも?」


「こんなことになった後だからこそだ」


カイは椅子の背もたれに体を預けた。


「忠実な聖騎士を集めて、騎士団を再建してもらう必要がある」


ソフィアは力強くうなずいた。


「それなら、私に任せて」


カイはテーブルを見つめながら、内心でげんなりとしていた。


(……うわぁ、デジャヴだ)


これまでの人生で、彼は何度も国を再建し、軍を再編成し、同盟を築き、政治的災害を処理してきた。

どういうわけか、どこへ行っても最終的に人間たちは彼に書類仕事を押し付けてくるのだ。


カイはため息をついた。


「この取り決めで、全員問題は無いな?」


エリックがうなずく。


「異議はありません」


ソフィアもうなずいた。


「私もよ」


エーモン王は胸に手を当てた。


「同意いたします」


「なら、アシュフォードにはまだチャンスがある」


カイはエーモンを見据えた。


「教会の協力とエリュシオン教団の支援があれば、王国の威信は必ず取り戻せるさ」


エーモン王は微かに微笑んだ。


「……そう信じております」


--


【平和条約】


ユイが片手を上げると、カイとエーモンの間に淡く輝くスクリーンが出現した。


エーモンはそれを凝視する。


「……これは、どうすれば良いのですかな?」


カイがスクリーンを指差した。


「そこに手を置いてくれ」


エーモンは一瞬躊躇した。


「それだけで良いのですか?」


「それだけだ」


エーモンが輝く表面に手を触れる。カイも同じように手を置いた。

スクリーンがパッと光を放つ。


――契約が登録されました。


次の瞬間、物理的な書類がテーブルの上にパッと出現した。それも2部。

エーモンはそのうちの1部を手に取った。カイももう1部を手にする。


エーモンはそれを注意深く見つめた。


「これは……」


「平和条約だ」


エーモンは微笑んだ。


「実に見事な手際ですな」


カイがうなずく。


「ユイが無駄な書類仕事を嫌うからな」


ユイが彼をジロリと見た。


「ええ、嫌いです」


ソフィアがその書類を凝視した。


「魔法で外交条約をその場で作り出すなんてね……」


カイは肩をすくめた。


「事務手続きってのは面倒だからな」


ソフィアはしみじみとうなずいた。


「それに関しては、大賛成だわ」


--


【クロエの真名】


扉が開き、クロエが新たなトレイを運んできた。

ケーキ、スイーツ。そして、もう一本のワイン。


エミリアの目が即座にケーキへとロックオンされた。

カイはそれに気づき、釘を刺す。


「ダメだぞ」


エミリアは不満げに彼を見た。


「わたし、まだ何もしてないもん」


「しようとしていただろ」


「見てるだけだもん!」


「その目がすでに危険だ」


エミリアはニカッと笑った。


クロエがケーキをテーブルに並べ、いくつかのグラスにワインを注いでいく。

カイのグラスには氷が添えられた。

カイは飲み物を受け取る。


「ありがと」


クロエが微笑む。


ソフィアは数秒間、そんなクロエの様子をじっと見つめていた。

やがて、意を決したように口を開く。


「ずっと気になっていたのだけれど――」


カイが彼女を見た。


「なんだ?」


ソフィアはさりげなくクロエを指差した。


「彼女の正体は、一体誰なの?」


カイは瞬きをした。


「クロエだけど?」


「そうじゃなくて」


ソフィアは首を振った。


「彼女の『真名』の候補よ」


部屋が一瞬にして静まり返った。

カイはクロエへと視線を向ける。クロエはただ静かにそこに佇んでいた。


そして、カイが答えた。


「――コリー・ヴァネッサ」


静寂。

エーモン王の動きが止まる。エリック司教の手はグラスを持ったまま凍りつき、あの司祭にいたってはグラスを落としそうになっていた。


ソフィアの目が、これ以上ないほどに見開かれる。


「それって……」


彼女はゴクリと唾を飲み込んだ。


「あの、封印されていたという……コリー・ヴァネッサ!?」


カイは平然とうなずいた。


「ああ、そうだ」


エーモン王がゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。


「まさか、あの吸血鬼が……」


ソフィアはクロエを凝視した。


「ティアムーンから、封印が解かれたという噂は聞いていたけれど……」


クロエは上品に微笑んだ。


「ええ、その通りでございます」


エーモン王はため息を漏らし、己の額を押さえた。


「私は一体、どれほどの存在を相手にしていたのか、気づきもしなかったとはな……」


カイは彼を見た。


「気づかなくて当然だろ。こいつは何もしていないんだから」


クロエが微笑む。


「おっしゃる通りでございます、カイ様」


ソフィアは未だに凝視し続けていたが、クロエは何食わぬ顔でカイの隣へと歩み寄り、彼のグラスに再び飲み物を注いだ。

カイはそれを、当然のように受け取った。


ソフィアはその様子をじっと見つめていた。


「あなた、驚くほど冷静ね」


カイは彼女を見た。


「こいつは俺の部下だからな」


クロエの表情が、心なしか柔らかくなった。


エーモン王は二人を交互に見つめた。


「なるほど……」


彼はワインをもう一口啜る。


「この場所がどれほど常軌を逸しているか、ようやく理解し始めてきた気がしますな」


--


【四人の将】


だが、ソフィアの追及はまだ終わっていなかった。

彼女はカイへと向き直る。


「あなたのあの『四人の将』についてはどうなの?」


カイの手が止まる。


「……彼らの真名は知らぬ方が身のためだぞ」


ソフィアは眉をひそめた。


「教えなさい」


カイを見据え、彼女は言葉を続ける。


「知りたいのよ。彼らが悪魔であることは分かっているけれど、一体どの悪魔族の出身なのかを知っておきたいの」


カイは何も言わなかった。


ソフィアの表情が、より真剣なものへと変わる。


「下位の罪印悪魔(シン=マークド・デーモン)なのか、それとも上位の罪印悪魔なのか。……上位の罪印悪魔は、いわゆる高位のアークデーモンとも呼ばれているけれど、彼らはどのカテゴリーに属しているの?」


カイはゆっくりとグラスを唇へと運び、一口含んだ。

それからソフィアを見て、淡々と告げた。


「奴らは全員――『魔王(デビルキング)』だ」


ソフィアの手の中で、グラスの動きがピタリと止まった。

背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けていく。


エリック司教がカイを凝視した。


「……冗談はやめていただきたい」


カイは彼を見た。


「冗談に見えるか?」


彼はセナを指差した。


「なんなら、セナに直接聞いてみるといい」


全員の視線が一斉にセナへと向く。

当のセナは、至って冷静に気にせず飲み物を口にしていた。


ソフィアが彼女に問いかける。


「……本当なの?」


セナは妖艶に微笑んだ。


「本当ですよ」


彼女はグラスをコト、と置いた。


「私は、偉大なるカイ様から『セナ』の名を賜る前は――『始まりの悪魔(プリモーディアル・デーモン)第一位』と呼ばれていました」


静寂。

あの司祭の目が極限まで見開かれた。その顔から一気に血の気が引いていく。


そして――。


――ドサッ!


司祭はそのまま床へと崩れ落ち、気絶した。


エーモン王は彼を見つめ、それから自分の額の汗をゆっくりと拭った。


「……どうやら、彼の脳の許容量を超えてしまったようですな」


--


カイはテーブルに視線を落とし、それからケーキがあった場所に目を向けた。


「……ケーキが無くなってるな」


全員の視線がそこへ向かう。

カイの膝の上には、満足そうなエミリアがちょこんと座っていた。皿の上には、ひとかけらのケーキすら残されていない。


彼女は誇らしげにニカッと笑った。


「わたしがぜんぶ食べたの!」


カイは彼女を凝視した。


「……お前、ホールケーキを丸ごと一個食べたのか?」


エミリアは元気にうなずく。


「うん!」


ソフィアは空っぽの皿を見つめ、次にエミリアを見つめ、最後にカイへと視線を戻した。


「……どうやら私たちは、このタワーの中で最も恐ろしい怪物を見つけてしまったようね」


セナは静かにエミリアを見つめ、クロエはクスリと微笑み、ユイは手で口元を覆っていた。


カイは深いため息をついた。


「こうなることは分かっていたはずなんだがな……」


エミリアが甘えるように微笑む。


「ねえ、もう一個おかわりしてもいい?」


カイがクロエを見ると、彼女は小さくうなずいた。


「すぐにご用意いたします」


カイはもう一度ため息をついた。


「……はぁ、わかったよ」


エミリアが「わーい!」と歓声を上げる。


そうして、ある日の午後。

そこには戦争も、陰謀も、古代の敵も、神と悪魔の戦いも存在しなかった。

ただ美味しい食事とワイン、外交条約、恐るべき事実の暴露、そして、どういうわけかホールケーキを丸ごと平らげてしまった一人の11歳の少女がいるだけだった。


カイにとって、それは久しぶりに訪れた、心穏やかな休息の一日だった。

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