第118話 - 余波(パート5) - カイとソフィア
エリュシオン教団の医療区画は、静寂に包まれていた。アシュフォード王国との決戦が幕を閉じた後、塔の内部は不気味なほどに静まり返っていた。警報が鳴り響くこともなければ、兵士たちが回廊を血相を変えて走り回ることもない。戦いの喧騒は消え去り、ただ、部屋を行き来する治癒術師たちの微かな足音だけが時折響くのみだった。
その回復室の一つで、ソフィアはゆっくりと目を開けた。数秒の間、自分がどこにいるのか思い出せなかった。見上げる天井は見覚えのないもので、室内には薬草と魔力の混ざり合った微かな匂いが漂っている。身体を動かそうとした瞬間、全身に凄まじい激痛が走った。ソフィアは顔をしかめた。
「……何が、起きたの?」
すぐ近くから、冷静な声が返ってきた。
「お前の負けだ」
ソフィアの身体が凍りついた。彼女は首を巡らせた。窓際に、カイが腰掛けていた。彼はソフィアを見ておらず、その視線はただ外の世界へと向けられている。
ソフィアは彼を凝視した。「あなた――」
カイが不意に視線を戻した。「おはよう」
ソフィアの表情が一瞬にして険しいものへと変わる。彼女は無理にでも上半身を起こそうとしたが、カイが片手を静かに挙げた。「やめとけ」
ソフィアの動きが止まる。
「どれくらい……意識を失っていたの?」
「数時間だ」
彼女は部屋を見回し、それからあの戦場の光景を鮮明に思い出した。聖教会、リン、ソラ、雷撃を纏った超高速のステップ、そして展開と同時に炸裂する即時魔法。あの最後の激突。ソフィアの目が鋭く細められた。
「私の……負けね」
カイが小さくうなずいた。「ああ」
ソフィアは彼を真っ直ぐに見据えた。「あなたが、私を倒したのね」
「厳密に言えば、な」
「厳密に言えば?」
カイは肩をすくめてみせた。「お前が戦っていた相手は、リンとソラだろ」
ソフィアは眉をひそめた。「私をあの場所に叩き落としたのは、他ならぬあなたでしょう」
「それもそうだな」
ソフィアは彼を凝視し、カイもまた彼女を見つめ返した。数秒の間、二人の間に沈黙が流れる。
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やがて、ソフィアはゆっくりと視線を落とした。
「なぜ、私を生かしたの?」
カイは小首を傾げた。「理由があったからだ」
「どんな理由?」
「お前には、まだ理解できない理由さ」
ソフィアの表情が強張る。「そんな言葉で、私が納得するとでも思っているの?」
「まあ、そうだな」
「カイ」
「ん?」
「それは説明になっていないわ」
「分かっている」
「なら、説明しなさい」
「嫌だね」
「どうして?」
「お前がまだ、理解できる段階に達していないからだ」
「支離滅裂よ」
「そうかもな」
ソフィアは彼を睨み据えた。カイはどこまでも平然としており、彼がわざと意地悪をしているのか、それとも単にこの対話を拒絶しているだけなのか、まったく判別がつかなかった。彼女は諦めたように、ゆっくりと背中を枕へと戻した。
「……おかしな男ね」
カイは微かに微笑んだ。「よく言われるよ」
彼女は再びカイを観察した。彼の佇まいの何処かに、奇妙なまでの既視感を覚えずにはいられなかった。その話し方、自分を見つめる視線、その声の絶対的な確信。今回の聖教会とエリュシオン教団の紛争が起きるまで、彼女はカイという男と一度も会ったことがないはずだった。少なくとも、彼女の記憶にある限りは。
それなのに、彼の瞳の奥を見つめていると、まるでかつて自分が彼の隣に並んで立っていたことがあるかのような、そんな錯覚に囚われるのだ。
あり得ない。ソフィアは小さく首を振った。ただの気の迷いだわ、と。彼女は再び彼に視線を戻した。
「……なら、一体誰なら理解できるというの?」
カイは一拍置いて、短く答えた。
「俺だ」
ソフィアが顔をしかめる。「ずいぶんと都合のいいロジックね」
カイはまた肩をすくめた。「実際、そうだからな」
彼女は、思わず吹き出しそうになった。ほんの、微かな差で。
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やがて、彼女の顔から再び笑みが消え、戦士の表情へと戻る。
「あなたは……あの戦闘の最中、私があなたを殺せないと最初から見抜いていたのね」
カイが彼女を見た。「何のことだ?」
「私が最終的に敗北することも、すべて分かっていたはずよ。あなたなら、あの戦いをもっと早い段階で強制終了させることもできた。なのに、そうしなかった」
「そうかもな」
「どうして?」
「そうする理由が、どこにもなかったからだ」
ソフィアは彼を凝視した。「また、答えのない曖昧な返答ね」
カイは笑った。「お前は、本当に質問が多いな」
「あなたが、最低な回答しかよこさないからでしょう」
「一理ある」
ソフィアは深くため息をついた。これ以上問い詰めたところで、何のデータも得られそうになかった。その時、彼女の視線が部屋の壁際に立て掛けられた一振りの剣へと向けられた。カイが先ほどの戦いで使用していた武器だ。
彼女はその剣の恐るべき軌道を思い出していた。あの圧倒的な速度、精密極まる打撃、位置取り。
それほどの絶対的な力を有していながら――あの男の瞳には、自分を『殺す』という明確な意思だけは、最初からただの一微塵も存在していなかったのだ。
ソフィアは彼を見つめ返した。「あなたは、本力を出していなかったわね」
カイは否定しなかった。「ああ」
「どれくらい残していたの?」
「十分なだけさ」
ソフィアは目を閉じた。「……癪に障るわね」
「事実だからな」
彼女は目を開けた。その顔に、初めて微かな笑みが浮かぶ。「あなた、本当に人を苛立たせるのが得意なのね」
カイはにやりと笑った。「よく言われるよ」
しかし、その笑みはすぐに消え去った。ソフィアは再び彼を凝視する。「だけど……もう一つ、あるわ」
カイは言葉を待った。
「あなたと戦っていた時――」
彼女は一瞬躊躇し、それから口を開いた。
「……まるで、あなたのことを前から知っていたような感覚があったの」
カイの表情が、ほんの一瞬、刹那の間にだけ変化した。ソフィアはその硬直を見逃さなかった。
「あなたも、同じことを感じていたのね」
カイは視線を外した。「そんなことは言っていない」
「言葉にする必要はないわ」
カイは沈黙を守った。
ソフィアは彼を注意深く観察した。
「なぜだか分からない。あなたの何処かが、どうしようもなく懐かしく感じられるのよ」
カイの目が、柔らかく細められた。彼の脳裏にソフィアの姿が、あの仲間たちのすべてが蘇る。幾多の死闘、弾むような笑い声、くだらない言い争い、そして共に肩を並べて立ち塞がったあの瞬間。そのすべてが、別の現実、別の人生、この世界とは異なるもう一つのタイムラインに属する記憶だった。
カイは彼女に視線を戻した。
「……理由があって、懐かしく感じられることもあるんじゃないか?」
ソフィアは眉をひそめた。「どういう意味?」
カイは静かに立ち上がった。「何でもないさ」
「カイ」
彼は扉の方へと歩き出す。ソフィアはその背中を追った。
「また、そうやって逃げるのね」
カイが足を止める。「何をだ?」
「曖昧な返答で誤魔化すことよ」
彼は肩越しに振り返った。
「いつか、お前も理解するさ」
ソフィアの目が鋭くなった。「いつかって、いつ?」
「さあな」
「さあなって……」
「そういうことだ」
ソフィアが彼を凝視する中、カイは微笑んだ。
「少し休めよ」
彼は扉へと手をかけた。
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ソフィアが突如として、その背中に声を投げかけた。
「カイ」
彼が動きを止める。
彼女は、僅かな躊躇の後に問いかけた。
「あなたは……今回の紛争が起きる前に、私のことを知っていたの?」
静寂。カイは背を向けたまま、数秒の間、微動だにしなかった。ソフィアは息を呑んで答えを待った。
やがて、カイが静かに言葉を紡いだ。
「お前が思っているような形では、ないさ」
ソフィアの目が僅かに見開かれる。「それって、どういう……」
カイが彼女を振り返った。その表情はどこまでも穏やかだったが、その奥には決して明かされない何かがハイドされていた。
「お前を生かしたのには、確かな理由がある」
彼は一拍置いて、告げた。
「だけど、今のお前がそれを理解することはないと思う」
ソフィアが呆然と見つめる中、カイはそれ以上何も語らず、そのまま部屋を出ていった。静かに扉が閉まる。
ソフィアは一人、部屋に取り残された。彼女は天井を見つめる。
「……一体、何のつもりよ、あの回答は」
彼女は深くため息をつき、静かに目を閉じた。しかし、どうしても彼のことが頭から離れなかった。あの声、あの表情、あの奇妙なまでの既視感。そして、記憶のさらに遠い彼方、この世界の歴史アーカイブには存在しないはずのどこかで、自分はカイという男のことを今より遥かに深く知っていたのではないかという、消せない予感が彼女のインフラを激しく揺さぶり続けていた。
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カイは静まり返った回廊を歩いていた。その表情は先ほどよりも物静かなものに変わっている。その隣に、外で待機していたユイが音もなく並んだ。
「……言わなかったのね」
カイは小さく首を振った。「ああ」
「どうして?」
「あいつは何も覚えていないからな」
「その記憶を、無理やり上書きして縛り付けたくはなかった、と?」
「そういうことだ」
カイは歩みを止めない。
「いつかあいつが自力で何かを思い出す日が来るなら、それは自然な形で起きてほしいんだよ」
ユイが微かに笑みを浮かべた。「ずいぶんと慎重じゃない」
カイは軽くだらしなく肩をすくめた。「あいつはもう、十分に過酷なタイムラインを潜り抜けてきてるからな」
彼は前方を見据え、その表情を統制した。
「……だけど、嬉しかったよ」
ユイが小首を傾げる。「何がかしら?」
カイは笑った。「あいつのほうも、俺のことを懐かしいと思ってくれたみたいだからな」
ユイはその内政ロジックを完全に理解した。「あいつが、自分の前で何も感じない抜け殻になってしまっているんじゃないかって、不安だったのね」
「まあな」
彼は医療室のある後方の座標へと視線を戻した。
「だけど、あいつは確かに感じ取っていた」
ユイが微笑む。「その理由が何処にあるかも分からないまま、ね」
カイはうなずいた。「今はそれだけで十分さ」
二人はさらに歩みを進めた。数歩の後、ユイが再び口を開く。
「それで――」
カイが彼女を見た。「次は何をする?」
カイは一瞬思考を巡らせ、それから表情を真剣なものへと切り替えた。
「セナが神官を拘束している」
「ええ」
「ネロが元々の汚染座標を精査中だ」
「ええ」
「ヴァドスはアステリアに潜入しているな」
「その通りよ」
「そしてエルヴァがソフィアのタスクを完了した」
ユイがうなずく。
カイは深くため息をついた。
「どうやら、やるべき仕事が山積みみたいだな」
ユイが茶化すように笑った。「あなた、いつでもブレイク(休憩)をとっていいのよ?」
「一国との戦争が終わった直後にか?」
「ええ」
「教会の全インフラを裏で操る黒幕が潜んでいるというのに?」
「そうよ」
「記憶を改ざんする不気味な術式まで現れたっていうのに?」
「ええ」
カイがジト目で彼女を見ると、ユイは楽しげに微笑んだ。
「この塔の最上階にはね、最高のキッチンがあるわ」
カイの表情が、一瞬にして完全書き換え(アップデート)された。
「……飯」
「そういうこと(チェックメイト)」
カイは即座に回頭した。「よし、行くぞ」
ユイはぱちくりと瞬きをした。「どこへ?」
「キッチンに決まってるだろ」
彼女は呆れたように彼を見つめた。「カイ」
「ん?」
「あなた、今さっき仕事が山積みだって言ったばかりじゃない」
「言ったな」
「なのにどうして真っ先にキッチンへ向かうのよ?」
カイは足早に歩きながら答えた。
「思考のマルチタスクは腹が減るんだよ」
ユイは深くため息をついた。「……やっぱりね」
カイは悪びれず笑う。「それに、俺はまだ何も食べてないからな」
ユイは彼の後を追った。「人類はね、これまで数々の大戦や竜の侵略、悪魔のバグ、神々の紛争を潜り抜けてきたのよ?」
カイが振り返る。「それがどうした?」
ユイは首を振った。「いいえ、何でもないわ」
二人の影は回廊の彼方へと消えていった。
背後に残された回復室の中では、ソフィアが未だに目を覚ましたまま、閉ざされた扉をじっと見つめ続けていた。一つの疑問が、どうしても彼女の脳内から消去されなかった。
(――あなたは一体、何者なの、カイ?)
彼女には分からなかった。まだ、現時点では。
しかし、彼女の魂の最深部――この世界の記憶の底に埋もれていた何かが、確かに駆動を始めていた。名前も与えられない、形もない何か。一度も会ったことがないはずの、あの白髪の男のすべてを覚えている、不条理な何かが。
そして今の彼女にとっては、ただそれだけで十分だった。




