第114話 ― その後の余波(前編) ― 生き残った王
エモン国王が最初に意識を向けたのは、天井だった。白かった。滑らかで、完全に清められている。数秒の間、彼はただそれを見つめていた。
自分がどこにいるのか分からなかった。どうやってここに来たのかも思い出せない。最後の記憶にあるのは、あの戦場だ。アシュフォードの軍勢。聖騎士たち。カイ。そして、彼の背後に立っていた五人の存在。
それから――記憶は途切れている。
エモンはゆっくりと身体を動かそうとした。肉体は反応した。首がわずかに回り、肩が動く。それから、彼は手を持ち上げようとした。
動かない。
彼は眉をひそめた。もう一度試す。それでも動かない。呼吸が次第に激しくなっていく。彼は視線を下ろした。自らの腕は、手首の先で途切れていた。手がない。もう片方の腕も同じだった。
エモンは目を見開いた。声も出なかった。
次に脚を動かそうとした。動かない。その表情が完全に一変した。彼は無理やり身体を起こした。ベッドの上で上半身が揺れる。しかし、膝から下には何の感覚もなかった。両脚とも、失われていた。
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エモンは呆然とそれを見つめた。言葉を失っていた。
記憶が鮮明に蘇る。セナ。あの冷徹な表情。あの瞳。それから――途絶えたのだ。痛みは一切なかった。それこそが、彼を最も恐怖させた。彼女は彼を斬りつけたわけでも、攻撃したわけでもない。ただ、彼の両手が唐突に消失したのだ。続いて両脚も。まるで、現実そのものが「それらはもうお前のものではない」と決定したかのように。
エモンは力なくベッドへと身体を戻した。呼吸が乱れる。
「ここは……」
声は、ひどく掠れていた。
「私は、どこにいる……?」
「エリュシオン教団の内部よ」
すぐ近くから、冷静な声が返ってきた。
エモンが音のする方へ視線を向けると、ベッドの傍らに一人の女が立っていた。長い髪、白い肌、そして穏やかな表情。彼女は薬の入った小さな容器を手に持っていた。
エモンは彼女を凝視した。見覚えがあった。
「お前は……」
クロエが彼を見つめる。
「目が覚めたようね」
エモンは喉を鳴らした。
「なぜ……私は生きている?」
クロエは容器を机の上に置いた。
「カイ様が、あなたを生かしておくよう望まれたからよ」
エモンの表情に、複雑な色が走る。
「カイが……」
再びあの戦闘が脳裏をよぎる。軍勢、聖騎士たち、あの襲撃。彼らの前に立ちはだかったカイ。その警告。アシュフォードへ引き返せ、と。エモンはそれを拒絶した。戦い続ければ、どうにかしてカイを撤退に追い込めると信じていたのだ。
それが間違いだった。完全に、致命的な間違いだった。
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エモンは目を閉じた。
「どれくらい……経った?」
「数時間、意識を失っていたわ」
エモンは再び目を開けた。
「我が軍は……どうなった?」
クロエは即座には答えなかった。
その沈黙だけで、エモンにはすべてが理解できた。
「……教えてくれ」
クロエが彼を見た。
「軍は、もう存在しないわ」
エモンの表情が凝固する。
「兵士たちは……?」
「死んだわ」
「聖騎士たちは?」
「死んだわ」
エモンは一瞬、息を止めて視線を逸らした。
「全員、なのか……?」
「ええ」
部屋を重苦しい静寂が満たす。エモンは無意識に拳を握ろうとしたが、動かすべき指はもう存在しない。彼は手があるべきだった虚空を、ただ見つめるしかなかった。
そして、彼は別の疑問を思い出した。
「なぜだ……」
クロエが彼を振り返る。
「何がかしら?」
「なぜ、私だけを生き長らえさせた?」
クロエの返答は簡潔だった。
「カイ様があなたを生かせと命じたからよ。――さっきもそう言ったはずだけど」
エモンは彼女を凝視した。
「彼が……」
クロエは淡々と薬の準備を続けた。
「それから、あなたの傷を治療しろとも命じられたわ」
エモンは頭を垂れた。その答えは、むしろ彼をさらに打ちのめした。カイは彼の軍勢を滅ぼしながらも、彼自身の命は意図的に救ったのだ。
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エモンは戦場を思い出していた。カイが何度も、何度も、何度も彼らに機会を与えてくれていたことを。彼はそのすべての警告を無視したのだ。
エモンは静かに ぽつりと言った。
「彼は、チャンスをくれていたんだな」
クロエが彼を見る。
エモンは言葉を紡いだ。
「撤退しろと言ってくれた」
「ええ」
「それを、私が拒んだんだ」
「そうね」
エモンは目を閉じた。その声は、さらに小さくなっていく。
「そして今、誰もいなくなってしまった」
クロエは彼を慰めるような真似はしなかった。ただ、冷徹な事実を告げた。
「警告はされていたはずよ」
エモンはゆっくりとうなずいた。
「……分かっている」
しばしの間、双方が沈黙した。
やがてエモンは、戦場に立ち塞がっていた五人の姿を思い出し、その表情を強張らせた。
「あの場に、五人いたな」
クロエが彼を見つめる。
「誰のこと?」
「カイの背後に立っていた者たちだ」
彼の目が鋭く細められる。
「あの、五人の化け物どもだ」
クロエは沈黙を守った。
エモンは続けた。
「セナ、エルヴァ、ヴァドス、ネロ。そして、お前だ」
彼はクロエを真っ直ぐに見据えた。
「お前たちは……一体、何者なんだ?」
クロエは答えない。
エモンの目が細くなる。
「お前たちの戦い方は……」
彼は一瞬言葉に詰まり、適切な表現を探した。
「……これまでの人生で、一度も見ただにしないものだった」
クロエはただ、彼を見つめ返している。
エモンは唾を飲み込んだ。
「私はてっきり、強力な悪魔の類いだと思っていた。アークデーモン(上級悪魔)か何かだと」
「悪魔なのは間違いないわ」
「なら、アークデーモンなのか?」
クロエは一瞬だけ沈黙し、それから静かに告げた。
「いいえ」
エモンの表情が変わる。
「違う……?」
クロエは首を振った。
「アークデーモンなんかじゃないわ」
エモンは彼女を凝視した。
「なら、何なんだ?」
クロエは、どこまでも冷静に答えた。
「デビルキング(魔王級悪魔)よ」
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エモンは目を見開いた。その言葉が、彼の脳内で激しく木霊する。デビルキング。カイの配下たちがそのような領域に達しているなどという話は、いかなる伝承にも存在しなかった。彼はただの強力な悪魔、あるいは古い記録にある『始祖の悪魔』のような存在だろうと高を括っていたのだ。
だが、デビルキングだと? それが、四人もいるというのか?
エモンは力なく首を振った。
「まさか……そんなことが、あるはずがない」
クロエが彼を見た。
「どうして?」
「だって、それは……」
エモンは混乱する思考を必死にまとめようとした。
「そんな存在がいるなら、私が知らぬはずがないのだ」
クロエは小首を傾げた。
「本当にそうかしら?」
エモンは沈黙した。知るはずがなかった。真実は、痛いほど明白だった。彼はカイについて何も知らなかったのだ。カイがどれほど恐ろしい力を秘めているかも、その配下たちがどれほど規格外であるかも。自分が一体、何に戦いを挑もうとしていたのかすら、何も理解していなかったのだ。
エモンはガクリと頭を垂れた。
「だから、あんな……」
クロエは先を促すように待った。
「あの戦場だ」
彼は思い出した。あの五人が現れた瞬間、世界の空気が変わった。普通のアークデーモンや魔王の力とは決定的に違う、何か遥かに巨大なものを肌で感じたのだ。しかし、当時はそれが理解できなかった。ただ単に『とてつもなく強力な悪魔』なのだと思い込もうとしていた。
エモンは目を閉じた。
「私は、何も分かっていなかったんだ……」
クロエは何も言わなかった。
エモンは再び目を開けた。
「あの四人は……」
その声は、さらに小さく掠れていく。
「……本気で戦ってすらいなかったのだろう?」
クロエは彼を見つめ、短く答えた。
「ええ」
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エモンの表情が絶望に染まる。彼はあの戦場を思い返していた。セナ、エルヴァ、ヴァドス、ネロ、クロエ。あの圧倒的な破壊。静寂。何万もの軍勢を瞬く間に蹂躙した、あの手際の良さ。そして、ただそれを見つめていたカイの姿。
エモンは突如として、自らの軍勢を失ったこと以上に恐ろしい一つの事実に気がついた。カイは、彼らを『抑え込んでいた』のだ。これまでの間、ずっと。
エモンは震える声で呟いた。
「ならば、カイという男は――」
彼はその先を言葉にすることができなかった。
クロエは扉の方へと視線を向けた。
「カイ様は、いま別の場所にいらっしゃるわ」
エモンが彼女を見た。
「どこへ行った?」
「私は知らないわ」
エモンは再び天井を見つめた。自らの王国。自らの軍勢。自らの聖騎士たち。そのすべてが、たった一つの戦闘で瓦解した。そして最も残酷なのは、これが『回避できたはずの悲劇』だったということだ。カイは彼に立ち去る機会を与えてくれていた。それを、他ならぬ自分自身が拒んだのだ。
エモンは静かに目を閉じた。
「……すまなかった」
クロエが彼に視線を向ける。
「何に対して?」
エモンはすぐには答えず、ただ掠れた声で呟いた。
「……耳を貸さなかった、私自身の愚かさにだ」
クロエは沈黙を保った。彼女からかけるべき言葉は、もう何もなかった。なぜなら、もはや覆せる現実など、そこには残されていないのだから。
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エリュシオン教団の別の場所では、全く異なる空気が流れていた。
カイは塔の回廊を静かに歩いていた。その表情は、どこまでも穏やかだった。戦闘は終わった。アシュフォードは破滅し、聖教会は敗北した。それなのに、カイに勝利を祝う気など微塵もなかった。勝ったという実感すらなく、ただ、底知れぬ疲労だけが彼の身体を包み込んでいた。
彼は、下層階を見下ろす巨大な窓の傍らで足を止めた。眼下の通りでは、何百もの人々が行き交っている。難民、商人、冒険者、子供たち、そしてその家族。誰もこの戦争とは無関係の人々だった。
カイは彼らをじっと見つめ、それから深いため息をついた。
「こんなことになるはずじゃなかったんだ」
ユイが彼の隣に歩み寄る。
「ええ」
カイは彼女に視線を向けた。
「エモンは……理解したと思うか?」
ユイは率直に答えた。
「おそらくね」
カイは視線を外した。
「俺はあいつに、十分にチャンスを与えたはずだ」
「与えたわ」
「引き返すことだってできたはずだ」
「そうね」
カイは沈黙した。もはやエモンに対する怒りはなかった。あるのはただ、底知れぬ失望だけだった。この戦争は、全くもって不必要なものだった。そして今、何百、何千という命が失われてしまった。互いが、現実に何が起きているのかを全く理解していなかったせいで。
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カイの目が鋭く細められた。誰かがこの状況を作り出したのだ。誰かが教会を突き動かし、誰かが神官を踊らせ、疑念を戦争へと変貌させた。
そして、その黒幕が誰であれ、一つだけ確実に成功させたことがある。――カイを本気で怒らせたということだ。
カイは窓から背を向けた。
「ユイ」
「なあに、あなた?」
「知りたいことがあるんだ」
ユイが彼を見つめる。
カイの表情が、真剣なものへと変わった。
「なぜ奴らは、ここまで執拗に仕掛けてきたんだ?」
ユイはすぐには答えなかった。答えることができなかったのだ。まだ、現時点では。まだパズルのピースが足りていない。見つけ出さなければならない真実の欠片が、まだどこかにある。
カイは回廊の先を見据えた。
「なら、白黒つけにいこうか」
ユイがうなずいた。
「ええ、そうね」
カイが歩き出す。彼の背後では、塔が変わらぬ平穏を保ち続けていた。しかし、その静けさの裏では、すでに容赦のない追究が始まっていた。エリュシオン教団のどこかで、一人の神官が、自らの運命を決める尋問の時をじっと待っている。




